恐れに根ざした信仰

※内容的に HTML 版では読みにくい可能性もあるので、PDF 版を用意しました。更新等
の作業は今後も WEB 版を中心に行ないますので、PDF 版は必ずしも最新の内容を反映し
てません。(2015.6.20)
怖れに根ざした信仰
はじめに
信仰とは、「怖れからの解放」としての福音を信じることだと言われる。《真理は汝ら
に自由を得さすべし》と聖書にもあるように、それは「解放」の音ずれである。また、ギ
リシア語で「罪」を意味するハマルティアという語の原義は「的を外す」という意味だと
いう。福音とはだから、人間が神との正しい関係から「的はずれ」となって罪の奴隷とな
った状態からの解放の喜ばしい「知らせ」(Good
News)なのだ。出エジプトに象徴的に
表われているように、それは、現代風に言えば「人間疎外」という名の奴隷状態からの人
間解放の福音でもあると言えよう。
しかしながら、キリスト教界は果たして本当に恐れからの解放の福音を人々に伝えてい
るのだろうか。その実態はかえって逆に「怖れに根ざした信仰」になってはいないだろう
か。わたしはキリスト教がその主張とは裏腹に、キリスト教が批判する諸宗教のそれより
も、その実態において、かえって怖れを過剰に強調する「怖れに根ざした信仰」になって
いるように思えてならない。時にキリスト教では、人間のさまざまな怖れを中和させ、人
を安心させるタイプの比較的原始的な宗教との違いを強調して、自らがそれら怖れに根ざ
した信仰とは違うのだと主張されることもよくある。しかしながら、そういった試みがか
えって意に反して強い怖れを内在化させる結果になってしまっているのではないかとわた
しには思えてならないのである。かつてふとしたやりとりから、わたしはそのような印象
を受けるようになった。
そんなわけで、本サイトの序論的な論考として「怖れに根ざした信仰」と題して一連の
議論をアップすることにした。当初の予定に反してかなり長大なものとなったし、まだ加
筆途中であるが、この辺でひとまとめとして独立ページとしてまとめることにした次第で
ある。
-1-
-2-
怖れに根ざした信仰:目次
はじめに
1
…(1)
聖書に名を借りた支配
…(5)
聖書とその偶像視―信仰による虐待と聖書信仰―
2
神への怖れと信頼
…(5)
…(19)
健全な怖れと不健全な怖れ
…(19)
畏怖と怖れ―人間を越えた存在に対する畏敬の念と怖れ―
3
「神を怖れよ」という福音
…(33)
神を怖れる信仰は正しい信仰か
…(33)
神への怖れと信頼―未熟な信仰と成熟した信仰―
4
文化の違いと神信仰をめぐって
…(51)
甘えの感覚すらない欧米人と神への怖れ
…(52)
近代化と個人主義がもたらす神への怖れ
…(63)
最後に―神学の先鋭化と怖れ―
…(75)
-3-
…(43)
…(27)
-4-
聖書に名を借りた支配
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来る
が、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼ら
を見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があ
ろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることは
できない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれ
る。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
(マタイ 7:15-20)
聖書とその偶像視―信仰による虐待と聖書信仰―
はじめに
キリスト教においては、信仰とは「怖れ
が神との正しい関係から「的はずれ」とな
からの解放」としての福音を信じることだ
って罪の奴隷となった状態からの解放の喜
と言われる。《真理は汝らに自由を得さす
ばしい「知らせ」(Good
べし》(ヨハネ 8:32) と聖書にもあるよ
出エジプトに象徴的に表われているよう
うに、それは「解放」の音ずれである。ま
に、それは、現代風に言えば「人間疎外」
た、ギリシア語で「罪」を意味するハマル
という名の奴隷状態からの人間解放の
News)なのだ。
よきしらせ
ティアという語の原義は「的を外す」とい
福 音でもあると言えよう。
う意味だとされる。福音とはだから、人間
1:「聖書信仰」がもたらすもの
―聖書カルトにおける「御言葉による支配」とその実態―
はじめに―キリスト教界にはびこる聖書カルト―
わたしは、キリスト教に限らず、正しい
あえてこのまま使う) は皆すべからく福音
宗教 (この表現にはいささか問題があると
であると信じている。しかしながら、人間
思うし、何をもって正しい宗教とするかに
を真の意味で解放せず、かえって奴隷化す
関してはそれぞれの見解もあろうが、今は
るだけの「宗教」があまりにも多いのもこ
-5-
の世の現実である。そのような「偽造宗教」*1
に向けて行なうこと自体は大変意義のある
の中でも、特に「破壊的なカルト
ことだが、しかしながら、こればかりは手
(destructive cult)」による「信仰による人
放しでは喜べない。そもそも伝統的で保守
間疎外」
*2
の問題はこれをなおざりにする
的な信仰を守る福音派の出版社であるいの
ことはできない。それらの団体の行なうマ
ちのことば社で、小冊子ながらこのような
インド・コントロールの中でも極めて悪質
書籍が何冊も発行されざるを得なかったと
なものが、信者に対する恐怖心(それは恐
いうことは、やはり由々しき事態だと言わ
怖症=フォビア phobia と言ってよいほど
ざるをえないだろう。
*3
のものである)の植えつけであるという 。
しかも、このような信者に対する恐怖心の
注 1-1:現在わたしが目を通したもの
植えつけは、今やカルト宗教や一部の新興
は、
『「信仰」という名の虐待』 と『教
宗教の専売特許ではない。「聖書カルト」
会がカルト化するとき―聖書によ
と呼ばれるキリスト教会では、そのような
る識別力を養う―』 の二冊である。
信者への「支配」が日常的に行なわれてい
それ以外でわたしの手許には、『“「信
るというのだ。しかも保守的なプロテスタ
仰 」 と い う 名 の 虐 待』”か ら の 回 復
ント教会を中心に、近年そのような聖書カ
―心のアフターケア―』 と『「健
ルトが多数生まれてきているという。その
全な信仰」と「カルト化した信仰」」』 、
証拠に、キリスト教の出版社であるいのち
『霊の戦い―虚構と真実』 の三冊
のことば社でも、ここ 10 数年くらいの間
がある。ちなみに、上記の本の中で
に聖書カルトに関する一連のブックレット
必ずしも明記されているわけではな
を出版して教会員に警告を発している 〔注
いが、どうやら福音派の教会が「聖
1-1〕。もちろんこのような啓発を一般信徒
書カルト」化する傾向が強いようだ 。
*4
*5
*6
*7
*8
*9
(1-1)カルトとは何か?
カルトという言葉を聞いて人はどんな集
団を思い浮かべるだろうか?
*1 谷口隆之助『聖書の人生論―いのちの存在感覚―』川島書店、1979 年 5 月、p.192.
*2 精神科医でクリスチャンでもある工藤信夫氏の著作名、『信仰による人間疎外』〔いのちのこ
とば社、1989 年 9 月〕より借用。本書は聖書カルトとは直接関係はないが、内容的には重なる
部分が多くある。
*3 浅見定雄『なぜカルト宗教は生まれるのか』日本基督教団出版局、1997 年 3 月、p.222 参照。
*4 パスカル・ズィヴィー、福沢満、志村真著、21 世紀ブックレット 17、2002 年 5 月.
*5 ウィリアム・ウッド著、同シリーズ 18、2002 年 12 月、以上いのちのことば社
*6 パスカル・ズィヴィー著、21 世紀ブックレット 37、2008 年 4 月
*7 ウィリアム・ウッド著、同シリーズ 26、2005 年 2 月
*8 ウィリアム・ウッド、パスカル・ズィヴィー著、同シリーズ 44、2011 年 3 月、以上いのち
のことば社
*9 後述「聖書カルトとは何か?」参照。
-6-
わたしがカルト問題に興味を持ってから
ずいぶん経つが、時をおかずしてこの言葉
が一人歩きを始めてしまった感がある。要
まずはカルト(cult)という言葉が本来
は自分の気にいらない団体をカルト呼ばわ
持っていた意味から説明を始めよう。
りする風潮がはびこっている印象が見られ
辞書的な説明ながら、本来カルトとは、
るのである。カルトに限らず、たとえばニ
ラテン語で(古代ローマ以来の)宗教の具
ヒリズムにせよテロリズムにせよ、あるい
体的な「営み」(神々の崇拝や礼拝などの
は全体主義やイデオロギーもそうだが、い
儀礼)を意味していた。また、本来「耕す」
わゆる「レッテル語」と呼ばれるものがあ
という意味も持つ culture(カルチャー)は
る。これらのレッテル語は辞書的な定義が
cult と語根を同じくする語でもある。その
非常に難しいとされるのだが、カルトもそ
ため、これは欧州の文献に多く見られるよ
のうちのひとつである。定義と言うか、こ
うだが、「祭祀」の意味で cult の語を用い
の言葉の使用に逸脱が見られるのもそれが
る研究者(翻訳者も)は最近でも多く見ら
要因となっているのだろう。ただカルトの
れる *2。したがって本来カルトとは、簡単
場合、その逸脱的な使用が起こったのは比
に言えば、伝統的な成立宗教から見て《比
較的最近であるため、本来の意味がまだ失
較的新しく、少し奇異な感じを与える、小
われておらず、「(破壊的な)カルト」と
さな、宗教集団》 のことであると言える。
言った場合も、幸い他のレッテル語に比べ
浅見はこれを「新・奇・小」と呼んでいる
てその定義がまだ比較的容易であるように
が、わたしはこれに「 熱狂的 」(場合によ
思う。
っては「 狂信的 」)という語を加えてもよ
*3
それでも、カルトという用語に逸脱と言
いのではないかと考えている。カルト・ム
うか誤解が多いので、多少個人的な見解も
ービーやカルト・ミュージックといった言
交えながら、カルトという言葉の正確な意
葉が今も現実に生きていることからもそれ
味について、ここでなるべく詳しく説明を
はわかる 。以上は宗教学および社会学上
*4
*1
しておくことにする 。
の従来のカルトの定義だが、このように従
*1 ただし、本項はカルトについて本格的な考察を行なう場ではなく、関連書を何冊も読み返
している余裕もないため、以下のカルトに関する説明は前掲の浅見氏の著書『なぜカルト宗教
はうまれるのか』の説明におおむね準拠したことをお断わりしておく。
*2 もっとも、すでにこの定義自体が価値中立的でなく、既成宗教、特にキリスト教から見て
古代の宗教や新興宗教は低次元の、ないし未発達な宗教=信仰形態であるとする価値判断が含
まれていると思われる。かつてよく見られた未開宗教と高等宗教を区別する視点も無自覚なが
ら従来のカルトの定義に反映していると見ることができよう。
*3 浅見定雄『なぜカルト宗教はうまれるのか』、p.20.
*4 手許の英和辞典でも、cult の項目で、儀式や宗派、にせ宗教、異教、新興宗教といった意味
に加えて、《礼賛、賞賛、崇拝。[けなして](一時的な)熱狂、(…)熱。[集合的に]礼賛
[賞賛、崇拝]者;賞賛[熱中]の対象》〔『ジーニアス英和辞典〔改訂版〕』大修館書店、2000
年 4 月〕という語釈が為されている。さらにこの語を形容詞的に用いて、
「流行した」何らか
の事柄(例:はやり言葉、a cult word など)を意味する場合もあるようだ〔同上〕。
-7-
来はカルトという言葉には特に悪質な意味
に他者を操る非倫理的な心理学的な技法の
はなかったものが、時代が下るにつれて、
総称―より専門的に言えば《個人の人格
次第にカルトと言えば「悪質なマインド・
(信念、行動、思考、感情)を破壊しそれ
コントロールを行なって、その構成員を支
を新しい人格と置き換えてしまうような影
配し隷従せしめる団体」の意味で用いられ
響力の 体系(システム)》
るようになった。たとえばカルトからの救
現在見るような極めて悪質な操作技法とし
出カウンセラーの先駆けであるスティーヴ
て使われるようになった *4。なお、本論に
ン・ハッサンが『マインド・コントロール
おいては単にカルトと書いてそのような団
の恐怖』
*1
を著わした頃はまだ「破壊的な
*3
― として、
体を意味させる場合もあるが、なるべく「破
cult)」という表
(destructive)」という形容詞を添えてカル
壊的なカルト(destructive
ト問題が論じられていたものが、いつの間
現を使うようにするつもりである。
にか(少なくともこの本が日本で出版され
た直後ぐらいから)単にカルトと言っただ
けで、上記のような「社会やその団体の構
それでは、以上のような破壊的なカルト
成員に対して破壊的な影響を与える特異な
にはどのような団体が存在するのだろう
*2
団体」の意味で使われるようになった 。
か?
破壊的なカルトは宗教団体に限らず、経
次に、マインド・コントロール(mind
済カルト(マルチ商法など)や心理療法カ
control)という語について簡単に説明しよ
ルト(自己啓発セミナーなど)その他あら
う。
ゆる形態があるが (他に日本ではあまり見
破壊的なカルトには必ずと言ってよいほ
られない形態として政治カルトがあるが、
ど悪質なマインド・コントロールが伴うも
これはいわゆる政治結社で、ある種のテロ
のだが、そのマインド・コントロールにし
リスト団体もこれに含めることができるだ
ても、従来はカルトと同じく特に悪質な意
ろう)、その中でも一段と悪質で特徴的な
味はなく、その「悪用」の問題として論じ
ものが「宗教カルト」である。ただし上で
られていた。それがカルトの意味が変化す
も説明したように、カルトとは元来、熱狂
るのとほぼ時期を同じくして、マインド・
的(あるいは狂信的)で特異な比較的小規
コントロールも、相手にそれと気づかせず
模な宗教集団に対して使われていた宗教学
*1 原著の出版は 1988 年、翻訳は 1993 年。
*2 ただし浅見氏によれば、ロス・ランゴーニの『カルト教団からわが子を守る法』〔ASAHI
NEWS
SHOP、朝日新聞社、1995 年 6 月〕や、上記ハッサンの『マインド・コントロールの恐
怖』に「推薦のことば」を寄せているマーガレット・シンガーの『カルト』〔飛鳥新社、1995
年 10 月〕などにおいては、原著でもすでにカルトだけで悪い意味として使われているという。
*3 スティーヴン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』、浅見定雄訳、恒友出版、1993
年 4 月、p.27.
*4 そのため、たとえばイメージを伴う願望実現メソッドとして有名なシルバ・マインド・コ
ントロールなども、世間の誤解を避けるためであろう、たしか 1990 年代中頃にはシルバ・メ
ソッドと名称変更していた。
-8-
および社会学上の用語だが、上記のような
カルトをわざわざ「カルト宗教」と呼ぶ必
様々な派生的なカルト集団が現われてきて
要も出てきているという*1。
いる実情から、現在においては本来の宗教
(1-2)聖書カルトとは何か?―カルト化する教会と聖書による支配の実態―
上記の説明でカルトという言葉の意味に
コントロールの実際は前出の『マインド・
ついては大体理解していただけたと思う。
コントロールの恐怖』その他に詳しく書か
ところが、多少同語反復的な「宗教カルト」
れてあるのでそちらをご覧いただきたい
という用語以外に、上でも触れたように、
が、恐怖心の植えつけに関して言えば、た
最近では「聖書カルト」(カルト化する教
とえばその教団から抜けようとすると、そ
会)なる用語を心あるキリスト教サイトそ
の途端に今までの友好的な態度を変えて、
の他でも見かけるようになった。10 数年
メンバーを責め裁き、「離れたら地獄に堕
ほど前になるが、この言葉に最初に接した
ちる」「不幸に襲われる」等々の“脅し”
時にはわたしも多少驚きを禁じ得なかっ
を信者に対して行なう教団が多い。聖書カ
た。
ルトと称される教会でも、牧師が同じよう
それでは、「聖書カルト」とは一体どの
ようなカルト団体なのか?
な脅しを信者に対して行なっているという
*3
ここで、上記
のだ 。また、聖書カルトは単立の教会に
注釈でも触れたいのちのことば社のブック
多いそうだが、それら聖書カルトの大半が
レットを参考に、「聖書カルト」とは一体
「律法主義的」(わたしは律法主義的であ
どのような教会なのか、わたしなりに説明
ること自体がすでに福音的ではないと考え
をしておきたいと思う。
ている)で、さまざまな恣意的な規範を作
っては、それをもって牧師が自分の思うま
コントロール
まに教会員を支
配している状況が多く見
聖書カルトとは、統一協会はもちろん、
られるという。聖書カルトにおいても、牧
エホバの証人やモルモン教のような、聖書
師による信者の支配のために破壊的なカル
に加えて独自の聖典や啓示を持つ異端的な
トと全く同様なマインド・コントロールの
「キリスト教系新宗教」
*2
ではなく、あく
までマルティン・ルター以来の「聖書のみ」
の原則を守り 、「聖書信仰」の立場で 、し
かもその 聖書の御言葉によって 教会員を
マインド・コントロール
支
配する教会を言う。マインド・
*1 浅見『なぜカルト宗教はうまれるのか』、p.147 参照。
*2 これを一般に「三大異端」と呼ぶ。なお、過去には三位一体の教義を否定したユニテリア
ン教会が異端としてつとに知られていたが、こちらは特に社会問題を起こさない、あくまでも
教義上での異端である。
*3 パスカル・ズィヴィー、福沢満、志村真『「信仰」という名の虐待』、いのちのことば社、21
世紀ブックレット 17、2002 年 5 月、p.23 ~ 24 参照。
-9-
手法が使われているのである*1。
接するなど以ての外、そんな行為は「不信
仰」として大概は否定される。そんな完全
な書物たる聖書に批判的な姿勢で接するこ
ところで、先にわたしは聖書カルトにつ
とは敬虔ならざる態度として斥けられなけ
いて書かれた参考文献の注記〔注 1-1 参照〕
ればならない。それは信者としては許され
の中で聖書カルトが福音派の教会を中心に
ざる行為なのだ。何となれば、それは神に
はびこりつつあるかのようなことを書いた
異論を差し挟むことにもつながるからであ
が、これは必ずしも根拠のない感想ではな
る。このように聖書カルトにおいて聖書の
い。そのことについて、ここで少し補足的
御言葉の解き明かしができるのはひとり牧
な説明をしておきたい。
師だけなのだが、もちろんその実態は、聖
書ないし神の権威を背景に 牧師が信者を
コントロール
多少繰り返しになるが、上記の参考文献
支
配しているにすぎない。聖書カルトに
によれば、カルト化した教会では聖書の御
おいては牧師が権威なのであって、どれほ
言葉を教会員支配の道具に使っており、ま
ど聖書根本主義の立場を表明しようとも、
た、それらの教会の多くが律法主義的で、
実際には聖書が権威でも神が権威でもない
さまざまな規範(実践行動)を信者に強い
のである。これは被造物神化すなわち牧師
て教会員を支配していること、それらの教
自身が神になることを意味するが(このと
会の多くは特定教派に属さない単立の教会
き聖書の権威を背景にその教会内で牧師が
が多いことが指摘されている。意外に思う
神ないし唯一の預言者となる!)、それも
人がいるかもしれないが、ここで大事なの
これも聖書の御言葉の絶対視がその権威と
は、その際にその支配の前提ないし根拠と
根拠を牧師に与えているがゆえのことなの
なるのが実は「聖書の御言葉」であるとい
である。繰り返すが、このような逸脱が起
うことだ。しかもその聖書の御言葉は、福
こるのも、皮肉なことにそれは「聖書の絶
*2
音派(≒聖書根本主義 )の教会の場合、
「聖
対的な権威」があったればこそである。聖
書は 100 パーセント間違いのない神の言葉
書根本主義の教会だからこそ、このように
である」と捉える立場からする当然の帰結
信者をコントロールするための道具として
として、聖書の御言葉およびその解釈は絶
聖書の御言葉を効果的に使うことも可能と
対的な権威をもって信者に迫ってくる。も
なるわけで、ここに「聖書信仰」が孕む問
ちろんその聖書の言葉の意味について信者
題点があるのだとわたしは捉えている。
自らが自分の頭で考えることは、カルト的
もっとも、これがたとえばリベラルな立
な教会の中では―その教会ないし牧師に
場の教会であれば、教会員自らが自分の頭
よる解釈を逸脱するような形では―当然
で、時には批判的に聖書を読み、牧師の説
ながら許されない。批判的な視点で聖書に
教を聞いてしまうため、牧師一人による信
*1 カルト化した教会の実際については上記いのちのことば社の書籍を見ていただきたいが、
それに加えてカルト問題一般を扱った他の関連書を見れば、カルト宗教でも聖書カルトでもそ
の実態は本質的に同じであることがよくわかると思う。
*2 福音派の最右翼が聖書根本主義なのだが、必ずしも福音派に属する教会がすべて聖書根本
主義の教会であるとは限らない。
- 10 -
者の支配はかなり難しいと言える。大体通
教という「後ろ盾」があるということだろ
常の教会であれば、牧師の行動があまりに
うか (もっとも一般のカルト宗教の場合も
もおかしいと思えば、場合によってはその
「仏典」その他を権威づけに使うのだが、
教会の役員か誰かが教派の上層部にその牧
キリスト教会における「聖書」ほどの絶対
師の行動を訴え出ることもあるだろう(実
的な権威を 現代においても それらの聖典類
際そういった話は知人などから時々聞くこ
が持っているかどうかとなると、それは疑
とがある)。それに対して聖書カルトにお
問と言わざるをえないだろう。それほどに、
いては、牧師は誰からも批判されてはなら
クリスチャンにとって「正典=聖典」とし
ない存在である。何となれば彼は神より権
ての聖書の持つ権威は絶大なのである)。そ
威を授けられた特別な存在だからである。
のため、単立のカルト教会でも一般のキリ
ここにおいて彼は聖書および神の御言葉の
スト教会を隠れ蓑として破壊的な活動が可
解き明かしをひとり独占するのである。さ
能となるわけである。しかも単立であれば
らに、ある教会が何らかの理由で問題化し
あるほどカルト性(破壊性・問題性)が外
た時に、教派の上層部からの批判などに対
からも見えづらくなるため、一般世間の批
して、問題の牧師がリバイバルと称して教
判ばかりでなく、クリスチャンによる批判
会を独立させるということもあるだろう。
・検証も受けにくくなるという次第であ
その単立教会が教線拡大で教派を形成すれ
る。以上が、特に福音派など聖書根本主義
ば、ここに新たなカルト教団が生まれるこ
に立脚する教会で聖書カルトがはびこりつ
とになるわけで、その辺は一般のカルト宗
つある要因であり、聖書カルトが単立の教
教と何ら変わらない。もしも違いがあると
会で多いとされる理由でもあると言えよ
すれば、他のカルト宗教と違って、聖書カ
う。
ルトには伝統的な聖書信仰ないしキリスト
2:文字は殺し、霊は生かす―人を殺すこともある聖書解釈―
(2-1)キリスト教ならばすべて正しいか?
以上長々と論じてきた聖書カルトの問題
同じ聖書を信仰し、必ずしも異端視されて
はたしかに大変重要な論点ではあるが、残
いるわけではない伝統的なキリスト教会の
念ながらこの問題についてこれ以上具体的
中にも、現実としてこのようなカルトまが
に論じることはできないし、その用意もな
いの「宗教偽造」の類が蔓延しつつあると
い。もちろんわたしは、本サイトで必ずし
いうことである。すなわち、聖書を信じ、
も聖書カルトを問題にしたいわけではない
同じキリストを信じながら、その同じ聖書
し、聖書信仰に関しても、ただそれだけで
やキリストの名によって人間を「奴隷化」
これを否定したいわけではない。ただ、そ
する間違った信仰が現実に行なわれている
の聖書信仰が時に「信仰による人間疎外」
のだということをここでわたしは強調した
や、場合によっては「信仰による虐待」を
いのだ。クリスチャンではないが、宗教を
すら生むことがあることを指摘しているだ
信じる者として、このような問題をないが
けである。わたしがここで言いたいことは、
しろにすることはわたしにはできない。
- 11 -
いるような意味では、キリスト教以外の宗
そんなわけでクリスチャンは、「キリス
教が必ずしも間違っているとは言えない、
ト教ならばすべて正しい」という先入観は
キリスト教でも他の宗教同様に道を踏み外
今や捨てなければならない。
「キリスト教」
しうる、ということである。一部のクリス
を「聖書信仰」と言いかえても事態は全く
チャンには認めがたい見解かもしれない
同じである。《わたしにむかって「主よ、
が、それは、キリスト教以外の宗教にも正
主よ」と言う者が、みな天国にはいるので
しい信仰があるし、キリスト教でも間違っ
はなく、ただ、天にいますわが父の御旨を
た信仰がある、ということである。社会心
行う者だけが、はいるのである。》(マタイ
理学者のエーリッヒ・フロムが《権威主義
7:21) と聖書にもあるように、ただ単
的宗教と人道主義的宗教との区別は、さま
にキリスト教会に所属し、イエスをキリス
ざまな諸宗教を区別するばかりではない。
トと信仰告白するだけでなく、また教派・
同一の宗教のうちにもその区別はなされう
教条の違いに関わりなく、クリスチャンと
るのである》
して正しい信仰を持つ、すなわち神に対し
るが、このフロムの言う「権威主義的宗教」
て正しく関わるということが肝腎なのであ
「人道主義的宗教」を「間違った信仰」
「正
*1
*2
とその著書の中で書いてい
る 。《たといまた、わたしに預言をする力
しい信仰」などと言いかえればこのことは
があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに
誰の目にも明らかだろう。
通じていても、また、山を移すほどの強い
信仰があっても、もし愛がなければ、わた
しは無に等しい》(一コリント 13:2)と
さて、前節の冒頭でも述べたように、聖
パウロが言うとおりである。要するにこれ
書カルトの問題は一般のクリスチャンにと
は、その教会の牧師や信者が「自分たちは
っても決してなおざりにすることのできな
聖書を誰よりも正しく信じている(あるい
い問題であろう。もっとも、中には「この
は理解し解釈している)」と いかに声高に
サイトでの聖書カルト批判は通常のキリス
主張しようとも、ただそれだけでは正しい
ト教会とは関係ない事柄で、自分たちには
信仰を生きているとは必ずしも言えないと
関係ない話題だ」と思う人がいるかもしれ
いうことである。
ない。しかしながら聖書カルトの問題は、
わたし以上に、クリスチャンにとっては同
なお、ここでいささか余談ながら言わせ
胞の問題、自分が「当事者」となった信仰
てもらえば、多くのクリスチャンが信じて
の仲 間の問題であろう。教派なり教会は
きようだい
*1 たしかにこれは神に対して「的外れ」でない状態になることを意味するが、何もそれは必
ずしも神に対して完全に(行ないにおいても)義なる状態となるということではないのではな
いかと思う。「神に対して正しく関わる」とは、信仰において神によって義とされる、そのよ
うな「関係」「状態」となる、ということであろう。そして神を正しく信じるとは、そのまま
神に対して正しく関わることなのだとわたしは理解している。これは議論を生む大変難しい問
題だろうが、ここではこれ以上追求しないでおく。
*2『精神分析と宗教』谷口隆之助、早坂泰次郎共訳、東京創元社、現代社会科学叢書、1953
年、1971 年改訂版、p.54.
- 12 -
違っても、カルト教会に集う信者も同じキ
えずは心を痛めるだけでも構わない
リストの教会に属する仲間(信仰の群れ)
と思うが、その“傷み”は必ずや真
であって、少なくとも部外者ではないはず
摯な祈りを生むであろうし、その時
だ〔補説 1-1〕。何にせよこの事態は、聖書
点ですでにそれは自分とは無関係な
カルトの出現においてクリスチャンとして
問題ではなくなっているはずだ。マ
の「責任(responsibility)」がいま問われて
タイ伝第 25 章のキリストによる裁
いるのだと理解することができよう。ある
きの箇所 (マタイ 25:31-46) を
いは聖書カルトの出現によって、クリスチ
見ればわかるように、苦しんでいる
ャンは「(自分たちが信じている)キリス
同胞(件の聖句によればその対象は
ト教ならばすべて正しい」という昔ながら
クリスチャンに限定されないと解釈
の単純な信仰を保持することが許されない
できる)を無視して顧みないことは
時代になったのだと理解することもでき
裁きの対象となる「罪」とされる。
る。それは、クリスチャンが今その信仰の
なお多少余談ながら、ここで付言す
真価、ひいては自分の信仰が真に正しい信
れば、たとえばイエスのパリサイ人
仰であるかどうかが神の前に(それは同時
批判にしても、あるいは滅びないし
に「社会の中において」でもある)問われ
裁きの預言にしても、聖書を読む時
ているということでもある。その意味で聖
はこれを自分たちとは関係のない事
こころみ
書カルトの出現は神による信仰の試練なの
柄だとは思わず、自分たちクリスチ
だと、このように捉えることもできるかも
ャンに対する直接的な批判であり警
しれない。
告であると自分たちに引き寄せて読
むべ きであ るとわた しは考え てい
補説 1-1:聖書を読む者が問われる
る。
問題意識
これは本来、相手が非キリスト教
ちなみに口語訳版の新約聖書略解
徒であっても関係ない、すなわち同
によれば、この箇所に関して《終末
胞の問題だと捉えるべきだとわたし
の日には隣人に対する愛のわざによ
は考えているが、ここではそこまで
ってさばかれる》 *1 とある。それに
は言わないでおく。ただ何事にせよ、
対して、新共同訳版の略解ではこの
同胞が苦しんでいる問題を「自分の
箇所の解釈がだいぶ変わっている。
教会には関係ない事柄だ」としてこ
それによると、《わたしの兄弟であ
れを無視することは(そういう人は
るこの最も小さい者》(マタイ 25
たくさんいると思うが)、クリスチ
:40、45) とは、 自分の目の前で 具
ャンとして当事者意識あるいは責任
体的に飢え渇き、病み、着るものす
感が欠けていると非難されても仕方
らない貧者、あるいは獄につながれ
がないだろう。この問題にどう対処
ている者ではなく、キリストの福音
するか―もちろんそれは、とりあ
を述べ伝える者によくしてくれた者
*1 口語訳版『増訂新版 新約聖書略解』日本基督教団出版局、1955 年 7 月初版、1989 年 8 月
増訂新版 34 版、p.95 下段.
- 13 -
の“象徴”とされている*1。《裁きの
に思わざるをえないのである。たと
規準は、彼らが伝道者の宣教をどう
え新共同訳略解の解釈が正しく、そ
受け取ったかであり、さらに宣教に
れが福音書記者マタイの真意だった
携わる者をどのように遇したかが問
のだとしても、そのような解釈を乗
*2
われる》 。すなわち、口語訳略解
り越える、あるいは訂正することが
では少なくとも奉仕の対象が「小さ
わたしたちには許されているのだと
くされた具体的な弱者」であったの
わたしは固く信じている。いずれに
に対して、新共同訳版の略解ではこ
せよ、イエスが目を注いだ、すなわ
れがキリストの福音を伝道する人間
ち共
にすり替わっている。最近の聖書学
”だったのか、それともクリスチャ
の研究によって福音書記者マタイが
ンの“象徴としての弱者”だったの
そのような意図でこの箇所を編集し
か。あるいはイエスの「真意」(何
たことがわかったのだとしても、そ
をもってイエスの真意とするかは人
れでもわたしはこのような解釈をと
によってさまざまだろうが)を採る
ることにかなり抵抗を覚える (これ
のか、それとも福音書記者の「解釈」
では、クリスチャン―よくてクリ
(その解釈でもって聖書を書いた福
スチャンに献身的に奉仕したノン・
音書記者その人はそれをイエスの真
クリスチャン―以外は地獄落ちだ
意だと信じたのだろう。しかしなが
と言っているようなものだ。それは
ら、それを福音書記者の解釈だとす
イエスの真意ではないと思うが、も
るその見解そのものがすでに聖書学
しもそれがイエスの真意だったとし
者によってさまざまに解釈された解
たら、わたしはそのようなイエスは
釈のひとつなのである)を採るのか。
否定する―いや、わたしにとって
クリスチャンに限らず、万人に共通
そのようなイエス否定は実はイエス
の宗教的古典として聖書をひもとく
肯定なのだ)。もちろんわたしは、
者は、そのどちらの解釈を採るか、
そのような解釈を必ずしも否定する
わたしたちはいつも問われているの
ものではない。そのような権威も学
だと思う。
コンパツシヨン
苦したのは“ 具体的な 弱者
識もない。また、そのような解釈を
する宗教信仰も「宗教学上の定義に
おける宗教の一形態」としては認め
たいと思っている。けれども、たと
ここでついでながら、「責任」という語
について若干説明を加えておきたい。
えそれが福音書記者マタイの真意だ
責任は英語で言えば responsibility であっ
ったとしても―あるいはそれがキ
て、これは response と ability に分解される。
リスト教による正統的な解釈だとし
責任はたしかに「法律的」「道徳的」など
て示されたのだとしても―それが
さまざまな意味を有する語だが、英語の語
本当にイエスの真意だったのか疑問
源に従えば、それは「応答可能性」、(相
*1『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2000 年 3 月、p.101 下段~p.102 上段.
*2 同、p.101 下段.
- 14 -
手に)応答する能力の有無を問う、といっ
味する。ヨナはニネベの住民に責任を感じ
た意味の語であるという。わたしもなるべ
なかった。彼はカインのように、「私は弟
くこの意味でこの言葉を使いたいと考えて
の保護者なのですか」と聞くことができた。
いる。ちなみにエーリッヒ・フロムは、
『愛
愛する人ならば答えるであろう。その兄弟
するということ』の中で、責任について、
の生活は、単に兄弟だけの問題なのではな
《今日では責任は、しばしば義務、すなわ
く、彼みずからの問題である、と。彼は自
ち外側から課せられたなにものかを意味し
分に責任を感ずると同じように、自分の仲
ている。しかし、その真の意味においては
間に対しても責任を感ずるのである。》 *1
責任はまったく自発的な行為なのである。
と述べている。「われわれにとっての責任
<責任に応える>とは<応答する>ことがで
とは何か」を考える上で、これは大変示唆
き、<応答する>用意ができていることを意
に富む説明だと思う。
(2-2)人を殺すこともある聖書解釈
いささか脱線したようだ。話を戻そう。
リスチャンが聖霊の働きによってその日か
ら突然に聖書が理解できるようになるわけ
多くのキリスト教入門書を読むと、「聖
でもあるまい。それは歴史やキリスト教会
書は神の霊感によって書かれた」と説明さ
の現実が証明しているとおりで、聖書の言
れている。そのことに関しては特に批判も
葉を完全に理解し実践することは不完全な
何もないし、わたしも事実そのとおりだと
人間にはやはり至難の業と言うべきなの
思っている (もっともわたし自身は仏典そ
だ。
の他の「宗教的古典」も神ないし仏による
大体において、もしもクリスチャンであ
霊感によって書かれたものだと信じてい
るだけで聖書解釈ができると言うのであれ
る)。また、一般にキリスト教会では「聖
ば、いくら巧妙なマインド・コントロール
書は聖霊の導きによって初めて理解するこ
の手法を使うからといって、洗礼を受けた
とができる」と信じられている。しかしな
クリスチャンがカルト教会の牧師にそうや
がら、クリスチャンならば聖書を読んで直
すやすと騙されるわけがない。そのように
ちに聖書の御言葉を完全に理解できるかと
考えれば、洗礼を受けたクリスチャンによ
なると、やはりそれは疑問と言わざるをえ
る聖書解釈がいつも正しいとは限らないこ
ない。たしかに聖書は神の霊感によって書
とは誰の目にも明らかだろう。
かれた書物かもしれない。そして、それを
読む時も神の霊感によらなければ聖書を完
それでも、このような見解に対してはさ
全には理解できないだろう。それを認める
まざまな反論があるだろうが、残念ながら
ことにわたしも決してやぶさかではない
今これを詳論する余裕はない。もちろんこ
が、しかし、すべてのクリスチャンにそれ
れに対しては、かつて共産主義国家が信奉
が可能だとはわたしには到底思えない。洗
者たちによって「あれは真実の共産主義国
礼を受けたならば、それだけですべてのク
家ではない」
「あれは共産主義の失敗例だ」
*1 懸田克躬訳、紀伊國屋社書店、1959 年 1 月、p.37. 引用文中の二重山括弧を山括弧に変更。
- 15 -
とさんざん“弁護”されたのと同じく、
「そ
しても、今度はどの教義解釈に聖霊の働き
れは真実のキリスト教会ではない」とか「そ
かけが認められるかを人間側が判定する必
の洗礼は有効ではない」、あるいは「それ
要が出てくるという意味ではそれは同じこ
は真実に聖霊の導きではない、したがって
となのだ。これは要するに、キリスト教の
正しい聖書の解き明かしではない」といっ
いかなる会派もその絶対性の保証はこの世
た反論が予想される。しかしそれを言うな
においては持ちえないということである)。
ら、どれが正しいキリスト教理解・解釈な
もっとも、それを言い出したら聖書の解
のか、その判断を誰が下すのか、といった
釈そのものが不可能になる。そこで、簡単
問題が生まれて来ざるをえない。もちろん
ながらここでこの問題に関してひと言コメ
当然ながら「自分たちの教会の判断が一番
ントしておけば、その聖書解釈が人間をよ
正しい」ということになるのだろうが、そ
り人間的にするものならば、それは聖霊の
れならば今度は、その判断は誰が下したの
導きによる正しい解釈である―それに対
かと問われなければならない。人間すなわ
して、それとは逆の「信仰による人間疎外」
ちその教会員の誰かがその判断を下したと
を(相対的により多く)もたらすような解
いうのであれば論外だ。何となればその場
釈は、たとえそれがいくら神の栄光を輝か
合、カルト教会の牧師と同様、その判断を
せるもののように見えたとしても(これも
下した人間は神と同様に間違いのない判断
いずれ詳しく論じたいテーマだが、実はわ
をすることを自らに許していることにもな
たしは「神の栄光を輝かせるため」にとい
るからである (たとえ何らかの宗教会議で
う多くのクリスチャンが表明する主張にも
全員の賛成によって その解釈ないし教義の
大きな疑問をいだいている)、それは聖霊に
正当性が決定されたものだとしても、それ
よる導きではないと判断したらよいのでは
はやはり同じことである。バベルの塔の逸
ないかとわたしは考えている。(なお、誤
話にも見るように、神の前に不完全な人間
解のないよう書いておくが、わたしは聖霊
がいくらたくさん集まって一致団結したと
の手助けによる聖書の解釈はノン・クリス
しても、彼らがそれで不完全でない存在に
チャンにも開かれていると信じている。た
なることはありえないし、それだけで神か
だしこれは、本サイトにおいて「わたしが
ら嘉されることもない。もちろん「宗教会
聖霊の導きにより聖書を正しく解釈してみ
議にも当然ながら聖霊の働きかけがあり、
せる」などと間違っても言いたいわけでは
神の完全性からすれば不完全ではあっても、
ない。そうではなく、聖霊の導きによって
正しい教義制定や解釈がこれまで為されて
正しく解釈されたはずの従来の聖書解釈が
きたし、これからも為されてゆくのだ」と
神の目から見て真に正しい聖書解釈であっ
する見解もあろう。わたしもそれは否定し
たかどうかを、非力を顧みず吟味したいと
ない。その意味で世にはこれまでたくさん
考えているのである。)
の宗教会議・教会会議が存在し、さまざま
な決定が為され、信仰規準が定められてき
たことは事実である。しかし、そのうちの
《神はわたしたちに力を与えて、新しい
すべてが正しい解釈だというのか。それと
契約に仕える者とされたのである。それは、
も、そのうちのどれかひとつ、ないしいく
文字に仕える者ではなく、霊に仕える者で
つかだけが正しい解釈なのか?
たとえ教
ある。文字は人を殺し、霊は人を生かす。》
義制定その他に聖霊の働きかけを認めるに
(二コリント 3:6) とパウロは書いてい
- 16 -
るが、神の霊感によって書かれた聖書とい
ち聖書の偶像化が、聖書を使うカルトを生
えども、それだけではただの「文字」でし
み出す原因のひとつでもあると言っても決
かない。「文字は殺し、霊は生かす」のな
して過言ではないであろう。わたしはその
らば、時と場合によっては、すなわち表面
ように思うのだ。
の「文字」にのみ囚われた場合、聖書です
ら人を殺すものとなりかねない。そういう
先にわたしは聖書カルトの例を挙げて、
コントロール
ことをこのパウロの言葉は意味していると
信者を支
配するための道具として聖書の
言えよう。それだから、霊である聖書の文
御言葉がいかに効果的であるかを指摘し
章も、単に霊を映したにすぎない文字であ
た。聖書の御言葉の絶対視による聖書の権
る限り、それが人を殺すものと化す可能性
威、ひいては「聖書の偶像化」は、実にこ
をわれわれは否定することができない。し
れほどの問題点を孕んでいるのである。そ
たがって、聖書の文言に囚われることもま
して、ここにこそ「聖書信仰」の孕む最大
たある意味で一種の「偶像崇拝」に他なら
の問題点があるのだとわたしは考えてい
ない。そして、このような信仰態度すなわ
る。
最後に
冒頭で述べたように、福音とは、そして
あるが、それならば聖書カルトを生み出す
キリスト教信仰とは、怖れからの解放とそ
ような「聖書信仰」は一体どのような「木」
の福音に対する信仰でなければならないは
によって生み出されたのだろうか?
ずである。それにも拘らず、(たとえ一部
の教会とは言え)聖書カルトに見るように、
以上述べてきたような問題があるからこ
それが上に書いたように完全に逆転してし
そ聖書に対する批判的かつ対話的なアプロ
まっているのは「聖書信仰」の一体どこに
ーチが必要とされるのであって、聖書を“
き
み
《樹は果により
聖”書たらしめるためにも、われわれは聖
て知らるる》(マタイ 12:33、他にマタ
書批判を避けて通ることはできないのであ
イ 7:15-20、ルカ 6:43-45) と聖書にも
る 。
問題があるのだろうか?
*1
*1 もちろんここで言う「聖書批判」はより厳密には「聖書“解釈”批判」「聖書“崇拝”批
判」でもあるのだが、煩雑を避けるために、今後もあえて「聖書批判」あるいは「聖書“信仰
”批判」の語を使う所存である。
- 17 -
- 18 -
神への怖れと信頼
恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝え
る。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主(すくいぬし)がお生れ
になった。このかたこそ主なるキリストである。
(ルカ 2:10-11)
健全な怖れと不健全な怖れ
はじめに―神に対する怖れ―
冒頭に掲げた聖句からも明らかなよう
はあるのだが、その場合の敵も旧約
に、聖書の中には「怖れるな」という表現
聖書と違い、
「共同体にとっての敵」
がたくさん見られる。旧約聖書においては、
ではなく、おのおの一人ひとりにと
特にこの言葉は「(戦争において)敵を怖
っての「個人的な敵」を意味するよ
れてはならない」という文脈で語られるこ
うに変化していると言える。
とが多い〔補説 2-1〕。また聖書全巻を通し
ては、逆に「神を怖れよ」という表現も多
ただし、「敵を愛せ」というイエ
く見られる。一例を挙げればこんな具合で
スの「愛敵」の教えが、いつの間に
ある。《体を殺しても、その後、それ以上何も
か、「その敵とはあくまで“自分の
できない者どもを恐れてはならない。だれを恐
敵”であって、神(ひいては教会)
れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地
の敵はその限りではない」とする解
獄に投げ込む権威を持っている方だ。そう
釈の逸脱が起こり(これを逸脱では
だ。言っておくが、この方を恐れなさい。》 (ル
ないとする解釈ももちろんありうる
カ 12:4-5)
だろうが、わたしはそのような解釈
はこれを認めることができない)、
補説 2-1:神の御心にかなった
さまざまな異端審問や殺戮が正当化
聖書解釈とは
されてきたことは悲しむべき事実だ
ヨシュア記 1:9 などはまさに
と言わざるをえない。いささか余談
その好例と言ってよいだろう。それ
ながら、十字軍や魔女狩りはもとよ
に対して新約聖書では、もちろん時
り、これはカルヴァンが活躍した当
代が違うということもあるが、その
時のジュネーブ市当局における異端
ような文脈での「怖れるな」という
者セルヴェトスの火刑などもその例
表現はあまり見られなくなる。実際
外ではない。カルヴァンもさすがに
- 19 -
火炙りには反対したものの、市当局
いや極論を承知であえて言えば、カ
より当初意見を求められた際は異端
ルヴァンやその他の改革者は聖霊の
者の処刑を積極的に主張した。これ
援助なく間違って聖書を解釈し運用
に関しては当時の風潮として仕方の
していたことになるはずである。ち
ない面があったとする“弁解”が多
なみにそれと関連するが、現在ジュ
いものの―わたしもそれを必ずし
ネーブ市にはこの行為を反省する碑
も全面的に否定するつもりはないが
が建てられているが、当然ながらこ
―それでも、このような風潮がキ
れは 現代の人間から見て当時の行為
リストの御心から完全に逸脱したも
が間違っていたと判断されたがゆえ
のであることは論を俟たない。少な
のことであろう。それに現代のクリ
くとも現代においては、わたしと同
スチャンの中で、当時の行ないがキ
様の解釈を取るクリスチャンの方が
リストの御心に沿っていたと考えて
主流だろう。何となれば、そのよう
いる人はほとんどいないはずだ。こ
な主張をし、実際にも行なったクリ
のことが意味することは、キリスト
スチャンは、どんなに信仰が篤くと
教の教義や聖書の解釈は絶対のもの
も、彼らを「キリストを着た者」あ
ではなく、時代によってそれらも変
るいは「キリストの霊に満たされた
遷することを意味している。さらに
者」とは言えないはずだからである。
このことは、神ないしキリストの御
もしもこのようなわたしの見解が正
心を どう捉 えるかの 問題に関 して
しいとすれば、―そして、一部の
も、時代とともにその解釈や判断が
クリスチャンが信じているように、
正しくもなれば誤ちもする、その意
聖書が 100 パーセント神の言葉であ
味で聖書解釈自体―もっとも信仰
り、その解釈(この際における聖書
自体がすでに広義の解釈なのだ―
の解釈はその運用面にも及ぶとここ
がそもそもダイナミックなものであ
では理解している)は聖霊の援助が
ること―いや、ダイナミックでな
な けれ ば不可能 なのだと したら 、
ければならないことを示唆している
―いささか極論かもしれないが、
のだと言えよう。
1:健全な怖れと不健全な怖れ
わたしは心理学 〔注 2-1〕 の専門家では
ては、地震学の大家である故・力武常治氏
ないのであまり厳密なことは言えないが、
が、かつてあるコラムで大変印象深いこと
依存や甘えにも健全なそれと不健全なそれ
を書いていた。それによると、世に「備え
*1
とがあるように 、怖れにも「健全な怖れ」
あれば憂いなし」と言われるが、それでは
と「不健全な怖れ」とがある。これに関し
駄目だ、憂い(心配)がなくなってしまっ
*1 渡辺登『よい依存、悪い依存』〔朝日選書、朝日新聞社、2002 年 1 月〕、土居健郎『「甘え」の
構造』〔弘文堂、1971 年〕等を参照。
- 20 -
てはいざという時に慌てて何もできなくな
に対する間違った態度、関係の仕方だと思
る。だから、この場合は「憂いあれども備
っている ―いや、それは神に対する冒瀆
えあり」と言わなければならない、という
ですらあるとわたしは思うのだ。たとえば
のである。言われてみればなるほどそのと
神を怖れるにしても、先に聖書カルトの問
おりで、たしかに「怖れる」という感情が
題を論じた時に触れた恐怖症的な感情(態
なければ、人は迫り来る危険から身を守る
度)で神を怖れることは、やはり誰の目に
ことができず、かえって危険にさらされる。
とっても神に対する正しい関係の取り方だ
しかしながら、一方で必要以上に過剰な怖
とは言えないであろう。《幼な子らをわたし
れに囚われることもまたその人をさまざま
の所に来るままにしておきなさい。止めてはな
フ ォ ビ ア
むしば
な面で 蝕 むことになる。これもよく知ら
らない。神の国はこのような者の国である。よく
れた事実である。したがって肝腎なのは、
聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神
何を・どのように怖れるか、ということで
の国を受けいれる者でなければ、そこにはい
あると言える。「神を怖れよ」ということ
ることは決してできない》(マルコ 10:14-15)と
もこれと同じで、相手が神だからといって、
聖書にもあるとおりである。
ただいたずらに怖れおののけばよいという
ものでもない。「神を正しく怖れる」と言
注 2-1:ここで特に断わりなく心理学
うと何か変な感じがするかもしれないが、
と言った場合は、実験心理学を中心
要は神をどのように怖れるか、あるいは怖
とした科学的心理学ではなく、あく
れないかが大事なのだ。そして、それこそ
まで応用的で臨床的な心理学一般を
が神を真実に知るということにもつながる
指している。もっともわたしは特定
のではないかと思うのである。
の心理学説を特に詳しく研究したわ
もちろん、たとえばスターリンやヒトラ
けではないが、ここでは精神分析学
ー、あるいは誰でも構わないが、これら独
を中心とした力動的なパーソナリテ
裁者を崇拝することは人間として正しい行
ィー理論を特に念頭においている。
為だとは誰も思わないだろう。けれども、
一部のクリスチャンの発言を見ていると、
ここで参考までに臨床心理学とそ
まるで「この手の独裁者ないし暴君に対す
の関連分野を整理しておくことにし
るかのように神を崇拝し、怖れ敬い、神に
よう。
隷属すべきだ」と言ってるかのような印象
世界大百科辞典(平凡社)による
を受けることがある。これは、わかりやす
と、深層心理学はフロイトやアドラ
く言えば、「 神だからこそ (独裁者ないし
ー、ユング等によって創始された心
暴君に対するごとく)隷従しなければなら
理学で、それは《神経症や精神病の
ない (あるいは、 しても構わない )」とす
治療という実際的な目的から生じて
る立場だと言えよう。有り体に言ってこれ
きたもので、人間はみずから意識し
は、「たとえ独裁者に対するように神に隷
うる心的過程のみではなく、無意識
従しても、その対象が神であればすべて正
的な心的過程をもつことを前提とし、
しい態度なのだ」とする立場でもある 〔注
後者について研究する心理学》〔河合
2-2〕。もちろんわたしは、相手が 神であろ
隼雄〕 の総称である。また、精神病
うがなかろうが、このような怖れ、あるい
理学は《ひろく異常心理現象ないし
は崇拝の念をいだくことは、それこそが神
病的精神状態を対象として記述・整理
- 21 -
・分析をすすめる分野で、精神医学の
解すればよいだろう。
中心部分を構成する。……精神病理
なお、わたしがここで念頭において
学を厳密な方法論で体系づけたのは
いる臨床心理学者は、今のところ特に
K. ヤスパースで、その『精神病理学
カレン・ホーナイとエリク・エリクソ
総論』(初版 1913)は、与えた影響の
ンの二人である。もっともエーリッヒ
大きさからしてこの分野の記念碑的
・フロムやカール・ユングに関しては、
業績とみなされる。彼が精神病理学
わたしも個人的にその著作にいくらか
に導入したのは、妄想や幻覚などの
親しんできたが、あえてリストには加
現象を単なる症状としてでなく一人
えていない。フロムは臨床家と言うよ
称的体験として記述するための〈現
りは社会心理学者としてその名を知ら
象学的方法〉、病的体験を理解する際
れているし、ユング心理学にしても治
の〈説明と了解(理解)〉、体験のなが
療理論と言うよりは個人的には宗教心
れを了解的にとらえたうえでの〈発
理学的なイメージが強いからである。
展と過程〉の概念などで、これらは 70
ただし参考文献にも挙げてあるように、
年後の今日なお重要なキー・ワード
フロムはその文明評論的な著作を含め
として通用する》〔宮本忠雄、なお引
本論においてしばしば言及するし、ユ
用文中における書籍を意味する二重山
ングに関しても、この次に取り上げる
括弧は二重カギ括弧に変更、以下同様〕
予定の「聖 絶」に関する論考において
もので、フロイトの力動的な精神分
はその所説に言及するつもりである。
析学がその学的形成に大きな影響力
またフランクルに関しても、少なくと
を与えたという。一方、臨床心理学
もホロコースト問題を扱う時には間接
はいわゆる応用心理学の一分野で、
的に取り上げる予定でいる。
ヘーレム
《精神発達や環境への適応の問題、
心理診断と心理療法およびこれに準
注 2-2:わたしがここでクリスチャン
ずる具体的な心理学的処置を扱う技
が神への怖れを強調しすぎているの
術の体系とみることもできる。……
ではないかと述べているその怖れは、
その後、精神医学、とりわけ精神分
これを裏返せば、それは神の怒りと
析理論の導入によって、心理診断の
その裁きの強調でもあると言うこと
みならず相談や治療にも重要な役割
ができる。神の怒りや裁きの側面が
をもつようになった》〔武正建一〕。こ
強調されればされるほど、神への怖
う見てくると、精神医学の中核を為
れがいや増すのは当然というもので
す精神病理学とその基礎学としての
あろう。神の怒りを強調することは、
精神分析学(力動的なパーソナリテ
だから、神に対する怖れの強調へと
ィー理論)を含む分析的心理学一般
必然的につながるのである。もっと
を「深層心理学」(一般に深層心理学
も、このような立場はいわゆる「理
と言うとユング心理学を連想する人が
念形」(最終形態、ないし純粋形態と
多いと思うが、ユングの立場は専門的
しての概念)として述べているので、
には分析心理学と呼ばれる)と し、さ
必ずしもこのような教えが、 いつ ・
らにそれらを含む応用的かつ治療的
いかなる時にも そのままの形で現実
な心理学一般を「臨床心理学」と理
に行なわれているのだと強弁したい
- 22 -
わけではない。ただし、先に見た聖
多くの篤信の信者たちが、それを神
書カルトにおける「権威」に対する
の前に正しい行為だとゆめ疑わず、
態度はまさにこのような神に対する
異端視された人や魔女とされた人た
態度(フォビア)だと言ってよいの
ちを狩り 、捕らえたら火炙りなどの
ではないだろうか。
残酷な処刑によって殺害してきた。
*1
しかしながら、このような発言に
そのことをわたしたちは決して忘れ
対して不快感をいだく方も多くいる
てはならない。それだけではない。
だろう。一部のカルト教団の事例を
現代ではイスラム原理主義過激派が
もって全体を論じないでほしいと言
その代表格となったかのような印象
う人もいるかもしれない。ただわた
があるが、しかし、これは必ずしも
しは、そのような逸脱を生み出す体
特定の宗教・宗派だけの問題ではな
質が、保守的なキリスト教信仰の根
い。近代化したはずの現代社会にお
底に根強く存在しているのではない
いても、ジェノサイドや民族浄化と
かと問題提起しているのである。つ
いった「事例」には事欠かない。意
まりわたしは、聖書カルトにおける
外なことかもしれないが、それは中
信仰態度を、そのような伝統的で保
世ヨーロッパ世界の比ではないとす
守的な信仰態度のより先鋭化した姿
ら言えよう。そのこともわれわれは
だと見ているわけである。もちろん、
忘れてはならない。このように、何
それでもまだ納得のゆかない人もい
らかの原因で集団ヒステリーなどの
るに違いない。それならば、たとえ
逸脱行為がいったん起これば、現代
それが殺人行為であっても、「神の命
でも魔女狩りに等しい行為が行なわ
令には絶対服従するのが正しい信仰
れないと断言することはできないの
者の態度だ」とする信仰を生きてい
である。宗教の違いに関係なく、あ
る人のことを考えてみればどうか。
るいは宗教であると否とを問わず、
そうすればわたしが言いたいことは
そのような実例が古来より跡を絶た
ある程度は理解してもらえるのでは
ないことは、このような信仰態度(よ
ないかと思う。信仰者がそのような
り 正 確 に は 熱 狂 的 =狂 信 的 な
権威主義的な信仰(フロム)を生き
信念体系)が現代においても決して
ている場合、神(実際は教会ないし
非現実的なものではないことをよく
長上)が誰かを敵と定め、その「敵
表わしている。このような信仰態度
を倒せ」と命じた場合、彼はその相
をわたしは、《「たとえ独裁者に対す
手を殺すことも厭わないだろう。中
るように神に隷従しても、その対象
世ヨーロッパ世界における異端審問
が神であればすべて正しい態度なの
などにも見るように、これは歴史上
だ」とする立場》だと述べた次第で
イデオロギー
現実となった“事実”である。当時
*1 魔女狩りに関しては、実際信じられていたよりははるかに被害者の数は少なく、教会もま
た魔女狩りに全面的に関与していたわけではないらしいことが近年の研究から判明しているの
だが、ここではその詳細に関しては立ち入らないでおく。
- 23 -
*1
音書の言葉に着目したいと考えている。要
ある 。
するにここで言われている「怖れるな」と
もっともこの辺の切り分け ― すなわ
は、怖れおののく羊飼いたちに対して神の
ち、神に対する怖れなり従順(神に対する
御使いが「(自分たちを)怖れるな」と言
「服従」という表現はわたしにはどうして
っているのだということは誰の目にも明ら
も馴染めないので、差し当たりこの表現を
かだろう。そして、これは「神を怖れるな」
用いる)に関して、どのような態度が健全
という意味だとも解釈できると思うのだ。
な怖れであり従順であるのか、あるいは不
まさにパウロも言うように、《あなたがた
健全な怖れであり従順であるのか、これを
は再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けた
見極めることは極めて難しい。わたしの文
のではなく、子たる身分を授ける霊を受け
章力のなさもあるが、説明もうまくできな
たのである。その霊によって、わたしたち
い。このことに関しては、わたしは冒頭に
は「アバ、父よ」と呼ぶのである。》(ロマ
引いた「怖れるな、見よ、今日ダビデの町
8:15)
に救い主がお生れになった」というルカ福
2:愛と信頼―怖れの反対語は?―
さて、わたしがここで「神を怖れるな」
という場合の「怖れ」は「怯え(scare、frighten
かりを説くクリスチャンがわたしには意外
と多いように思えてならないのだ〔注 2-3〕。
:前者は「臆病な」が原義)」のそれに近
*2
い 。 その怯えの極端なものを(先に聖書
注 2-3:この問題は本論および本サイ
カルトについて触れた時に言及した)フォ
ト全体で今後も追求してゆきたいと
ビアだと考えたらよいだろう。心理学的に
考えている。それがわたしが長年求
言って、人間の心の奥底がこのような「怯
め続けてきた問いを解く「鍵」にな
むしば
え」ないし「怖れ」に 蝕 まれている場合、
るようにも思うからだ。―多少繰
その人間がいくら神を畏れ敬おうとしたと
り返しになるが、ここでついでなが
ころで、その信仰が健全なものとはならな
ら書いておくが、カルト宗教におい
いだろうことは誰の目にも明らかである。
て特に目立つのが、先に書いたよう
ところが先にも述べたように、そのような
にカルトの構成員を恐怖(フォビア)
不健全な怖れによる神への服従(隷従)ば
で縛る手口である。しかも聖書カル
*1 このような「服従の心理」に関しては、アイヒマン実験の名で知られるスタンリー・ミル
グラムによる『服従の心理』
〔改訳新装版、山形浩生訳,河出書房新社,*2008 年 11 月;河出文庫,2012
年 1 月〕が大変参考になる。
*2 この文脈で「神への正しい怖れ」と言った場合、英語等でこれを正確に区別できるかどう
かはわからないが、これを「畏れ」ないし「畏怖」と表記した方がより適切かもしれない。そ
れに上記のパウロの言葉も、「怖れ」とされている部分を「怯え」(scare)に変えて読んだらよ
く理解できるのではないかと思う。
- 24 -
トにおいても同様な怖れによる信者
義的な態度」の対概念として「人道主義的
のコントロールが目立つとされる。
な態度」を措定している) になると、何と
フォビア
そして、教会員を縛るその「怖 れ」
なくわかるものの、その説明を読んでの納
の根拠は、従来の教会による聖書解
得度が前者に比べてかなり落ちるように感
釈が神に対する「怖れ」を強調しす
じる。特に自分の言葉で具体的にこれをま
ぎたことにあるのではないか。つま
とめようとすると、とても厄介な思いに捕
り、近年における聖書カルト多発の
われる。これは、完全に健全な状態の人間
ひとつの要因は、後述する《神に対
はこの世に存在しないのだから、心理学者
する厳しいおそれに結びついた信仰》
などがいくら完全な人間の姿を(理念形的
*1
に根ざしているのではないかと、こ
に)説明しても、頭ではわかっても完全に
のようにわたしは見ているのである。
腑に落ちるまではゆかないということと同
これが、プロテスタンティズムにひ
じだと思う。もっともこれは、わたしがそ
そむさまざまな問題点を論じる予定
のような状態になく、体験もほとんどない
の本論述の導入部の議論として「怖
ために当然の話かもしれないが。譬えて言
れに根ざした信仰」というタイトル
えば、一度もリンゴを食べたことのない人
を選んだ理由でもある。
にリンゴがどんな味がする果物かいくら説
明しても、それはほぼ無駄な努力に終わる。
それと同じで、不健全な信仰と違って健全
そんなわけで、わたしは先に引用したエ
な信仰に対する具体的な想像力がなかなか
ーリッヒ・フロムが言うような権威主義的
働かないのだと思う。感覚的には何となく
で不健全な信仰を「怖れに根ざした信仰」
わかるものの、それを具体的に説明しよう
と(理念形的に)規定したいと考えている。
とすると実感が湧かない感じだと言えばよ
それならば、その反対概念である人道主義
いだろうか。そんなわけで健全な信仰の実
的で健全な信仰とは一体どのような信仰で
際をここで簡潔に説明することはとりあえ
あるのだろうか。このことは、ここしばら
ず諦めているのだが、このことに関連して
くの間わたしの頭をいつも離れない問いで
普段から考えていることは、それならば怖
あった。
れの反対概念は何だろうか、ということで
ある。いつも考えているのだが、残念なが
不健全な、あるいは不毛な感情は誰しも
らこれといった単語がなかなか思い浮かば
少なからず持っているもので、しかも怖れ
ない。いろいろと考えた末に、差し当たり
は誰でもいだく感情である。それからの類
「怖れ」の反対は「信頼」としたらどうだ
推もあって、(われわれにとっては)「怖
ろうかと考えるようになった。
れに根ざした信仰」は比較的理解しやすい
ように思う。その意味でフロムの分析も、
「権威主義的信仰」に関してはその内実を
次に多少余談ながら、ここで「怖れ」と
よく描き出していると思う。しかし、これ
その類語について少し辞書的な検討をして
が「人道主義的信仰」(フロムは「権威主
みよう。
*1 カルヴァンの表現。「神を怖れる信仰は正しい信仰か?」の議論を参照。
- 25 -
また聖書を引くが、《このように、いつまでも
「怖れ」を「恐怖」の意味で捉えた場合
存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つ
(この場合は「恐れ」と表記した方がよい
である。このうちで最も大いなるものは、愛で
だろう)、上に挙げた恐怖症的なフォビア
ある》(一コリント 13:13)。そして、その《愛に
(phobia)もあるが、これとは別にテロリ
は恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐
ズ ム ( terrorism) の 語 源 と な っ た テ ロ ル
れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、
(terror)も恐怖の意味として浮上してく
愛が全うされていないからである》(一ヨハネ
る。怖れ(厳密には恐れ)をこの意味で捉
4:18)。後者に関するフランシスコ会訳の脚注
えた場合、怖れの反対概念は「平和」ない
には、《利他的な愛は報いとしてもどり、利己
し「平安」となる。今の時代に平和は緊急
的な恐れは罰としてとどまる。愛と恐れは相い
を要する極めて大切な問題だし、いわゆる
れないものである》とある
反対語辞典的に言っても「恐れ」の反対語
《完全な愛は恐れをとり除く》の箇所が《完全
は「安心」
*1
*2
。また、共同訳では
なのだから、あるいはこれで
な愛は恐れを閉め出します》となっているが、
もよいのかもしれない。それは、聖書にも
あるいはこの方が表現としては適切かもしれな
《肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和
い。そんなわけで「愛」という言葉の方が「怖
であ》るとあるとおりである(ロマ 8:6、
れ」の反対概念としては案外適切なのかもし
新共同訳。手許にある聖書で「平和」と訳
れないが、わたし自身が愛を実践できている
されているのはこれ以外に共同訳と岩波書
わけでもなく、「信頼」ならばともかく、この「愛」
店訳、平明訳の聖書で、口語訳と新改訳、
という言葉はこの文脈では使いづらいと判断
フランシスコ会訳ではこの箇所は「平安」
した次第である。
となっている)。
その一方で、実はこれを思いきって「愛」
と捉えたらどうかとも考えたのだが、かな
※最後に、本サイトにおいてわたし
り正鵠を得ているとは思うものの、愛とい
は「恐れ」ではなく「怖れ」の表記
う言葉はだいぶ手垢がついてしまっている
を用いているが、これは「恐怖」と
ので、できれば避けたいと考えている。欧
「不安」の中間くらいの感情、ひい
米人が言うところの愛(Love) というこ
ては「怯え」とも連なる恐れの感覚
とが日本人にはなかなか理解しにくいと言
を表わすためにあえて使用している
われるが、これがキリスト教的な意味合い
ものである。今後カレン・ホーナイ
での愛となるとなおさらである。しかし、
その他の深層心理学者の定義する「不
マザー・テレサによれば愛の反対は憎しみ
安」の概念についてもう少し詳しく
ではなく「無関心」だと言うし、かつてカ
検討した上で、本頁の内容について
トリックの宣教師が戦国時代の日本を訪れ
も考え直し、場合によっては加筆お
た際には愛を「御大切」と訳したともいう。
よび訂正をしたいと考えている。
*1 仲田武司、巻幡文男監修『反対語辞典』日東書院、1984 年 7 月。
*2 新約合本版。凡例でも簡単に触れたとおり、フランシスコ会訳による新約聖書の引用等は
最新の旧・新約合本版ではなく、1984 年改訂の新約合本版を今後も使用する。
- 26 -
畏怖と怖れ―人間を越えた存在に対する畏敬の念と怖れ―
はじめに
本論のテーマとは多少外れるが、神に対
する見解に対していろいろと疑問をいだい
する怖れの問題を論ずる前に、もう一つ考
てきたのだが、誤解をする人がいるといけ
えておきたいこととして、超越的存在者に
ないので、ここで改めてコメントしておき
対する畏怖の念と怖れの感情の問題があ
たいことがある。それは、わたしは人間を
る。
越えた存在者
*1
に対する畏敬ないし畏怖の
念まで否定しているわけではないとうこと
わたしはこれまで神に対する怖れを強調
である。
1:畏怖の念と怖れ
大自然や超越者に対する畏敬の念を失っ
主義がはびこることになった。しかも、特
た文明がどうなるか。この問題についてい
に現代になって、自ら生み出した核(原子
ろいろと考えている人も多いと思う。
力)の力に代表される科学技術がかえって
人類を亡ぼしてしまいかねない事態になっ
前世紀初頭以降、現代文明の危機が喧し
てきた。それに対して、ただ単純に「自然
く叫ばれるようになって久しいが、それも
に帰れ」と叫ぶのは、簡単ではあるが愚か
これも技術文明のゆきすぎた発達に原因が
な選択だ。けれども、人間を越えた存在や
*2
ある。特に 18 世紀の啓蒙思想以来 、宗教
自然への畏敬の念、人知を越えた存在に対
が多くの人の心を捉えることができなくな
する謙虚な姿勢を復活させることは決して
って(これを一般に「世俗化」と言う)、
人間の力を絶対視し、悪い意味の人間中心
*1 その対象は、何もユダヤ=キリスト教の神、いわゆる一神教的な神ばかりでなく、大自然も
含む。シュバイツアーの言う「生命への畏敬」などもこれに含むことができよう。したがって、
自然と区別した場合の人間を越えた存在として、キリスト教以外の信仰をも考慮して、「神」
はもちろん「絶対者」という表現も避けて「超越者」という表現を用いる方が適切かもしれな
い。
*2 厳密に言えば、近代の技術文明を準備した近代科学そのものは、17 世紀には既にその芽を
出し、続いて科学技術の発達によって近代化が始まったとされる。しかも、その近代科学およ
び近代化を準備したのは、実は遠く 14 世紀から 16 世紀のルネサンス期に起こった一連の「変
化」であった。いささか教科書的表現ながら、ルネサンスは「近代のあけぼの」と言われるが、
そのルネサンス期の末期に宗教改革が起こったということはとても重要な意味があると言える。
- 27 -
愚かな選択とは言えないだろう *1。もっと
外と難しい。古代や中世の信仰者であった
も、それが宗教に可能かとなると疑問視す
ら、自然に対して畏敬ないし畏怖の念を持
る人も多いとは思うが(わたし自身は宗教
つことなど誰でもごく普通にできたであろ
に期待したい想いが依然強いのだが)、い
う。しかし、当時は何の努力も思索も要ら
ずれにせよ人間が宇宙の森羅万象に対して
ず、誰でも自然に持てたこのような自然な
もっと畏敬の念を持つべきことが大切であ
感情も、科学ないし技
ることに変わりはない。ただ、先にも多少
界に生きるわれわれにとってはやはり極め
論じたように、何が健全な怖れ(畏怖)の
て難しい感覚であると言わざるをえないの
感情で、何が不健全な怖れ(畏怖)の感情
である。
テクノロジー
術の進んだ現代世
なのか、これを正確に切り分けることは意
2:驚きの感覚を忘れた現代人
いささか余談ながら、ここで畏怖や怖れ
ついて簡単に述べておきたい。
の念と深いつながりのある《驚き》の念に
(2-1)宗教心の喪失と現代の危機
見るもの聞くものすべてに対して目をき
失った人類は、次第に霊的な感性を失い、
らきらと輝かせている乳幼児を見かけるこ
その結果、必然的に世俗化した。自然に対
とがよくあると思うが、子どもはまさに好
する畏敬の念を忘れた人類は、次第に霊的
奇心の塊である。しかし、自分もそうだが、
な感性を忘れ、かくて過去の時代と比べて
人は成長して知識が増えるに伴い、そのよ
より動物的とも言える状態に陥ってゆくこ
うな目の輝きを次第に失ってゆく。人類と
とになる *2。そんな状況の中で、大自然に
てもそれは同様なのかもしれない。
対する畏怖の念を人間が失うに至るのは理
の当然であると言えよう。たとえばダーウ
個人と同様、世界に対する驚きの感覚を
ィンですらその著書の中でクジャクの羽の
*1 この手の議論はいわゆる文明評論がよく論じるテーマだが、最近読んだ本の中では、いさ
さか古いものの、東昇著『人間が人間になるために』〔第一書房、1974 年 6 月〕がこの問題に触
れていた。参考までにその箇所を一部引用しておこう。《「畏れ」とは、人間が自分と同等のも
のに対して感ずる恐怖心ではありません。権力者に対する屈従でもありません。「畏れ」とは、
人間が人間を越えたものに対する畏怖心のことです。人間が人間を過信しないことです。傲慢
な優越感にとらえられぬことです。換言すれば、人間のもろさに対する想像力をもつことで
す。》〔p.69 ~ 70〕
*2 以下の内容について詳しくは、ヴァン・デン・ベルク『現象学の発見―歴史的現象学か
らの展望』、特に「第三章 現代と宗教―その現象学」
〔立教大学早坂研究室訳、川島書店・1988
年 2 月〕を参照。
- 28 -
美しさに感嘆の念を隠さなかったが、現代
は当然ながら信仰を持たない。いや、持て
において科学の専門書で驚きの念が記され
なくなったと言った方が正確かもしれな。
*1
ることは絶えてなくなったという 。ここ
こうして霊的感性を失った現代人は、過去
において、今や科学的探求の中にもかつて
の人間に比べて単に知的なだけの性的な獣
は残っていた《驚き》という宗教的・霊的
にすぎなくなった。これが人間の非人間化、
な感性
*2
すら一切なくなってしまったかの
すなわち現代社会における人間の霊的=実
ようである。現代における科学的世界観は
存的な危機(ベルジャーエフ)であると言
宗教的=霊的世界観に敵対しているかの感
えよう*4。
*3
すらあるが 、そんな状況の中にいる人間
(2-2)驚きの念の喪失と宗教的・霊的な感性の危機―その形骸化と宗教偽造―
さて、いささか脱線するが、ここで少し
に畏怖の念をも発生させたであろう。同じ
論じておきたいことがある。先にも述べた
く《驚き》とは言っても、そこのところが
ように、わたしは宗教的=霊的な感性と《驚
哲学ないし科学の始原と宗教の始原にあっ
き》の感覚(センス・オブ・ワンダー)と
た《驚き》の感覚の違いのひとつであると
には相通じるものがあると見ているのだ
言えよう。
が、そのことについてここで少し説明を加
えておきたいと思う。
このようなことを書くと違和感を持たれ
る方がいるかもしれない。というのも一般
の哲学の入門書では、古代ギリシアにおけ
アリストテレスは、哲学は《驚き(タウ
る哲学の発生を「神話から哲学(自然学を
マイゼン)》から始まると述べた。古代ギ
含む)へ」という図式で説明しているもの
リシアにおいて一般に知の営み(愛-知)
が大半だからである。このような疑問を持
は神話からの決別に始まるとされるが、わ
つ人は、たぶん宗教に属する神話と宗教か
たしは宗教とても最初は《驚き》から始ま
ら決別した哲学とは別物だとする人たちで
ったことに変わりはないと考えている。そ
あろう。もちろんそれは哲学史的には正し
の意味で驚きの念もまた宗教的な感性であ
い理解だとは思うが、ただわたしは、神話
ると言える。ただ信仰の場合、哲学や科学
と宗教(信仰)に関しては、両者は深い関
とは違って、その驚きの体験はそれと同時
係はあるものの、厳密には別のものだと考
*1 同書p.57 ~ 59.
*2 次項を参照。
*3 同書p 59.
*4 いずれにせよ、このような世界をもたらした西洋近代文化およびキリスト教的価値観―
文化と宗教とは切っても切れない関係にあるという意味でキリスト教の影響も西洋文化の中に
当然ながら含まれる―の文脈のみでもってアプローチを続けても、近代の問題からの離脱は
難しい。いや、袋小路は免れないだろう。そこに、異質な価値観、特にキリスト教的価値観と
他宗教との間の宗教間対話、時には批判的対話の必要性が近年叫ばれる所以があるのだと思う。
- 29 -
えている。というのは、神話とは古代人の
うまくかわすための手段、すなわち方便と
宇宙観=世界観によるこの世の森羅万象の
しての「説明」が一人歩きをするようにな
「説明」であって、必ずしも実存的なレベ
るとどうなるか。ここに宗教なら宗教(教
ルでの「信仰」(了解)を伴わずとも、そ
義)の形骸化が生まれる。それは「宗教偽
の世界観をそのまま受け入れることは可能
造」(谷口隆之助)にもつながる 必然的な
だからである (たとえば現代人が天動説に
「運動」でもあると言えよう。神話的世界
代わって地動説を科学的事実としてそのま
観とてそれは同じで、それが当初の驚きの
ま素直に受け入れているのとそれは同じ 態
感覚を失ったからこそ古代ギリシアにおい
度 であると言える。「お日様が昇った」とい
て哲学的な思惟が生まれたのだと解釈する
う表現が今も自然に使われていることから
ことも可能なのである。ちなみにパスカル
もうかがえるように、誰も地球の自転を感
は信仰は賭(自己投企)だと述べたが、そ
覚的事実として認知している人はいない。
のような契機を欠いて、ただ惰性で信じて
現実的にはわれわれは今も天動説の世界観
いるだけの宗教の教義も当然ながら単なる
の中で息づいているのであって、その意味
形骸にすぎない。そこには驚きの念も畏怖
で天動説は古代人の素朴な感覚と同様に、
の念もないと言ってよいであろう〔注 2-4〕。
そのまま感覚的な事実としてわれわれは今
でもこれを無反省に受け入れている。たし
かに現代人は知的には地動説の世界に生き
補説 2-2:宗教的態度と呪術的態度
それらの端的な事態(危機的状況)
ているかもしれないが、感覚的には未だ天
に直面して人が取る態度として、
「宗
動説の世界の住人なのである)。かつてカン
教的態度」と「呪術的態度」とを原
トは「わたしは哲学を教えることはできな
理的に区別することができる。簡単
い、皆さんといっしょに哲学するだけだ」
に説明すれば、自己を無にして、そ
と言ったと伝えられるが、しかし、何らか
れらの危機に身を預けることで危機
の哲学説をそのまま信奉しているだけでは
自体を乗り越えることが実存的で宗
これを哲学的な態度と言うことはできない
教的な態度である。それに対して、
のである。
何らかの技術的な方法 (古代におい
もちろん神話にしても、あるいは何らか
てはその方法は“呪術”であったが、
の宗教の教えにしても、それは、人間の力
現代ではそれが科学的・技術的な方
では克服することのできないさまざまな限
法に取って代わられただけである。
界状況(ヤスパース)において、人がそれ
どちらも技術的なアプローチである
らに対して合理的に説明を与えようとした
という意味では両者に本質的な違い
ものであるとも言えよう〔補説 2-2〕。しか
はない) を用いて、自らにさまざま
し、その宗教なり神話が生まれた当初、す
な力を外部から加えることで危機自
なわち、人が限界状況を含むそれらの「端
体を無力化しようとすること、その
的な事実」に直面した際には、おそらくそ
ような人生態度を呪術的な態度と呼
の根底には驚きの念や畏怖の念があったは
ぶことができる。もちろん宗教と呪
ずである。時にはその感情は絶望感やある
術は現実の宗教的営為の中に混在し
いは虚無感であったかもわからない。然る
ているし、厳密にこれを分けること
にそれらの体験が次第に形骸化して、それ
は現実問題としては難しいのだが、
ら限界状況を乗り越える、ないしはそれを
この両者は一種の理念形として原理
- 30 -
的に峻別すべき事柄なのである *1。
する畏れ(厳密には怖れとは区別さ
れる限りでの)に生きてはいないか
注 2-4:ここで「信じている」と述べ
らである。しかも彼が実際に畏れて
た状態は、実は信じていると当人も
いるのは、実は真実の神(超越者)
思い込みながら、実際に心の奥底で
ではなく、自己のうちに巣くう過剰
は必ずしも信じていない状態をも含
な敵意や怖れ、あるいは治まらぬ不
めて表現したものである。「主体性こ
安といった不毛な感情を神に投影し
そが真理である」と述べたキルケゴ
ているにすぎない可能性もある。そ
ールに倣って、これをわたしは「非
うでなければ、信仰を持っている、
主体的な信仰」と名づけたい。そし
あるいは畏れてもいないものを畏れ
て、もしもその状態で「神への怖れ」
ていると彼は自他に対して無意識の
を含む正統的で伝統的なキリスト教
うちに噓をついているのだ。したが
の教義をそのまま信じている人がい
って、聖書カルトの問題とも関連す
るとしたら、そこにさまざまな不自
るが、そのような真に実存的ではな
然な事態が招来しても何ら不思議は
い非主体的な信仰、その教条主義的
ないのではないだろうか。何となれ
な教義解釈が結果的に人を殺すもの
ば、逆説的に聞えるかもしれないが、
(パウロ)と化したとしてもそれは
そのような人は、その信仰において
当然というものなのである。
決して真の意味で神(超越者)に対
(2-3)大自然への畏怖の念と宗教心
最後に、ここで論じた宗教的感性として
れらの原始的=自然的宗教における神(超
の大自然への畏敬の念は、キリスト教に限
越者)への怖れの感情は、人間に怖れをも
らず宗教一般の事柄として論じたことをお
たらす超越的な存在者である神々の怒りを
断わりしておく。
宥めるための呪術的儀式でしかない」とい
ノン・クリスチャンとしては上記の主張
う反論も当然ながら予想される。ちなみに、
はごく当たり前の感覚だと思うが、それに
たとえばジャン・カルヴァンも『信仰の手
対して諸宗教とキリスト教を同一線上に論
引き』(新教新書) その他でそのような発
じることに疑問をいだく方があるかもしれ
言をしているのだが、カルヴァンは逆に(倫
ない。たとえば「自然への畏怖の念などは
理的・道徳的な意味も含めて)神を「もっ
キリスト教以外の諸宗教にも認められる原
と厳しく怖れよ」と言うのである。
始的な宗教感情であって、キリスト教のよ
うな高度な宗教が本来持つべき感情ではな
生命への畏敬の念や大自然に対する畏怖
い」とする反論もあるだろう。あるいは「そ
の念と言った宗教的感情は、ひとえにすべ
*1 谷口隆之助『聖書の人生論』「附
宗教的古典としての聖書(2)宗教的態度と科学的態
度」〔川島書店、1979 年 5 月〕および『存在としての人間』〔I.P.R 研究会、1974 年 3 月〕、早坂泰
次郎『人間関係学序説』、特に第 13 章「宗教と科学」〔川島書店、1991 年 4 月〕参照。
- 31 -
ての宗教がその根底に有する宗教的=霊的
な感覚である。それはキリスト教以外の自
然的で原始的な宗教だけが有する感情では
科学技術の暴走は、いつか近い将来に人
ない。それはキリスト教を含むすべての宗
類の滅亡をもたらすかもわからない。現代
教が有する超越者に対する原始的ながら本
人は今、そんな漠然とした不安の中にある。
源的かつ本質的な感覚なのだ。しかしなが
そんな中で過剰に神への怖れを強調するこ
ら、その感情が原初的だからと言って必ず
とはかえって悪しき結果を生むだけのよう
しも低次元な感情だと決めつけることは間
にも思うのだ。したがって、上記で論じた
違っている。然るに、近世のキリスト教的
ように神に対する怖れを過剰に強調するだ
な価値観によってこれらの自然な感情が繰
けでは、心理的にも歪んだ信仰者をつくる
*1
り返し否定されてきたがゆえに 、かえっ
だけで、「信仰による人間疎外」の問題な
て宗教の形骸化(世俗化)が促進されたの
どにも見るように、かえって予期せぬ結果
ではないか。そんな側面もあるようにわた
を生むことにつながるのではないかとわた
しには思えるのである。
しは言いたいのである。
最後に
最初にも説明したとおり、わたしは神(超
ただその際、誤解を避けるためにも、「畏
越者)に対する畏怖ないし畏敬の念をすべ
怖」という言葉よりは「畏敬(の念)」と
て否定して、神をただ信頼すればよいと思
いう表現を用いた方がよいのではないかと
っているわけではない。わたしにしても、
思う。それというのも、最初は大自然に対
大自然や超越者に対する自然な畏敬の念は
する驚異や畏敬の念であったものが、次第
たしかに現代人がぜひとも持たねばならな
にそれが畏怖の念となり、怖れの感情とな
い、あるいは復活させるべき感性だと思う。
ったのではないかと考えるからである。そ
先に述べたとおり、人間を越えた存在に対
して、その怖れがさらに先鋭化した場合、
する自然な畏敬の念を取り戻すためにも、
それが一種の怯え(フォビア)のような歪
神(超越者)に対する信頼の感情をわれわ
んだ感情になってしまう可能性も否定でき
れは取り戻すべきなのではないだろうか。
ないのではないだろうか。
*1 その否定には、キリスト教ばかりでなく、18 世紀以来の啓蒙主義的な価値観も大きくあず
かっていると思うが、そればかりでなく、その根底において、古代ギリシア以来、西洋哲学に
おいて理性より感性を劣ったものと見なしてきた理性偏重の傾向も強くあずかっていると言え
よう。
- 32 -
「神を怖れよ」という福音
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身
分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父
よ」と呼ぶのである。
(ロマ 8:15)
神を怖れる信仰は正しい信仰か?
1:神を怖れるな―タラントの譬えを手懸かりに―
いささか余談めいた話が続いたが、本論
に戻ろう。
ンとこないという人も多くいるだろう。そ
こで本項においては、有名なタラントの譬
え (マタイ 25:14-30) を手懸かりに、
以上いろいろと書いてきたが、このよう
な神への怖れを否定するかのごとき見解が
この問題についてここで少し詳しく考察し
てみたいと思う。
納得できない、あるいはわたしの主張がピ
神を怖れた使用人―タラントの譬えより―
タラントの譬えによると、ある資産家が
は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から
自分の全財産を三人の使用人の能力に応じ
刈り取り、散らさない所からかき集められ
て、それぞれ五タラント、二タラント、一
る厳しい方だと知っていました」〔注 3-1〕
タラントずつ渡して旅に出るが、旅先から
と言って、預り金を地中に埋めて隠してお
戻って預けた資産の精算をしたところ、五
いた。二人の使用人はそれぞれ資産家であ
タラントと二タラントを預かった使用人
る主人に 認められて多くのものを管理する
は、それを元手にそれぞれ資金を倍にした
よう命じられたのに対して、預り金を地中
のに対して、一タラントを預かった使用人
に隠しておいた臆病な
*1
使用人は逆に職を
*1 テモテ後書 1:7 参照。わたしが言う「怖れ」は「怯え」のそれに近いことを先に断わっ
ておいたが、「怯える」を意味する英語の scare の原義が「臆病な」であることにわたしは何か
象徴的なものを感じる。いたずらに神を怖れる(神に怯える)ことは、やはり(新約)聖書的
に言っても間違いなのではないだろうか。
- 33 -
失って路頭に迷う、といった内容である。
れており、そこから見てもかなり現実
いささか余談ながら、タラントは古代ギ
的な譬えになっていると言える)、主人
リシアの貨幣単位で、この譬えから「才能」
の旅行が王位を受けるためのもので
を意味する英語のタレント(talent)の語
あるなど、譬え全体を見る限りは、
が派生するのだが、そのことからもわかる
こちらはルカによって(マタイ以上
ように、通常この譬えは、神から託された
に)オリジナルに対する手がだいぶ
「賜物」をいかに活かすかといった文脈で
加えられているように思う 。また、
解釈されることが多いようだ〔注 3-2〕。し
このタラントの譬えの箇所に対する
かしながら、ここではそのような一般的な
フランシスコ会訳の注釈によれば、
解釈はとりあえず脇において、結果的にお
《マタイの場合、このように多額の
払い箱になってしまったこの気の毒な使用
金を預けられたことは、責任ある地
人に着目したい。
位に立てられたことを意味する。し
*1
かし、この金額が報いに比べて「わ
注 3-1:新共同訳を使用。他の訳では
ずかなもの」(21-23 節)と呼ばれてい
「厳しい方」はそれぞれ「酷な人」
(口
ることは、報いがもっとはるかに大
語訳)、「ひどい方」(新改訳)などと
きいことを指す》とある。
訳されている。ルカの類似箇所 (ム
ナの譬え、ルカ 19:12-27) もほぼ
注 3-2:その証拠に、たとえば口語訳
同様で、岩波書店訳ではこの箇所の
版『増訂新版 新約聖書略解』によれ
み「過酷な人間」となっている。次
ば、《人生の意味は神より与えられた
に、タラントはもともとは重さを表
自己の分を、神のために働かせると
わすギリシアの貨幣単位で、一タラ
ころにある。天国はわれわれが期待
ントが六千デナリに相当する大金(当
するものであるが、同時に天国もわ
時の一日の労働者の平均的な日当が一
れわれに期待をかけている。……》
デナリで、一タラントは 16 年半近い日
とあるが、
『新共同訳 新約聖書略解』
数の労賃に匹敵する額) であるのに対
にも《我々は人それぞれに神から異
して、一ムナは一タラントの六十分
なる賜物を委託されており、それを
の一に相当する金額で、当時の平均
活用するよう求められている(一ペ
的な日当の百倍、すなわち百日分の
ト四・10、一コリ12・4 以下)。…
労賃に相当する。要するにムナの譬
…》 とある。また、『新改訳聖書 注
えの方がより現実的な金額になって
解・索引・チェーン式引照付』その
いるわけだが (こちらでは十人の使用
他わたしの見ることのできる注解に
人にそれぞれ一ムナずつの金が与えら
はすべて同様の解釈が為されている。
*2
*3
*1 岩波書店訳の注釈によれば、ヘロデ大王の子で、ローマより「民族指導者 〔エトナルケー
ス〕」に任じられてユダヤおよびサマリアを統治したアルケラオス〔B.C.4 ~ A.D.6〕とエルサ
レム市民との確執がこの編集の背景にあったらしいことが指摘されている。
*2 日本基督教団出版局、1955 年 7 月初版、1989 年 8 月増訂新版 34 版、p.95 上段.
*3『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2000 年 3 月、p.100 下段.
- 34 -
神を正しく怖れていると言える。その証拠
と言ってはなんだが、「知っていたのか」
二人の使用人は、失敗を怖れずに―怖
という聖書の言葉がまさに暗示しているよ
れたとしても、その怖れを乗り越えて―
うに思うのだが、「蒔かない所から刈り取
主人から預かった資産を大胆に運用したの
り、散らさない所からかき集める」という
に対して、彼の落ち度は、主人をただいた
主人(神)に対する彼の評価は、やはり(キ
ずらに怖れて、預かった資産を仕舞い込ん
リスト教神学的に言えば)神に対する伝統
で少しも活用しなかったところにある。結
的な評価であると言ってよいのではないだ
論を先に言えば、彼は怖れるばかりで、神
ろうか〔注 3-4〕。それなのに、この神を怖
である主人を少しも信頼していなかった。
れた使用人は主人である神からなぜあんな
それがこの男の過ちなので、彼が神によっ
にも厳しい仕打ちを受けなければならなか
て外の暗闇に追い出されなければならなか
ったのか、わたしはそのことに疑問を感じ
った理由もそこにあると理解したい。然る
るのだ。
に多くのキリスト教著述家はとにかく神を
怖れよとばかり主張しているようにわたし
注 3-3:ヒュー・カー編『カルヴィン
には思えるのだが、そこにわたしは矛盾を
キリスト教綱要抄』竹森満佐一訳、
感じるのだ。たとえば宗教改革者ジャン・
新教セミナーブックス 3、新教出版社
カルヴァンも、その主著『キリスト教綱要』
1958 年 12 月初版、1997 年 8 月復刊
の中で《純正にして神聖なる宗教の本質は、
第 2 刷、p.8.
自発的な畏敬を含み、律法の命令に適う正
め、今後とも本書からの引用におい
しい礼拝を生み出す、神に対する厳しいお
ては、抄訳ゆえの記号類は、省略を
それに結びついた信仰にある》〔注 3-3〕 と
意味する 2 点ないし 3 点リーダーを
書いている。しかし、クビになってしまっ
含めすべて省略する。したがって本
た使用人もまた、同じく「あなたは蒔かな
書の引用における省略等を意味する
い所から刈り取り、散らさない所からかき
記号類はすべて引用者によるもので
集められる厳しい方だ」として、神になぞ
ある。以下、他の箇所についても同
らえられた主人を厳しく怖れている。主人
様。―ちなみに渡辺信夫の旧訳 を
がそれに対して「怠け者の悪い僕だ。わた
確認したところ、《 厳しい おそれ》は
しが蒔かない所から刈り取り、散らさない
《 厳かな 恐れ》 、また、《不快な 奇
所からかき集めることを知っていたのか」
形》 は《恐ろしいまでに醜悪》 と
と言って彼を責めているのとは裏腹に、
なっている。これらの表現の違いは、
―いささか強弁にすぎると感じる人もい
るかもしれないが、―彼は多くのキリス
抄訳が英訳からの重訳であるのに対
ト教著述家の言うような意味合いでまさに
びフランス語訳からの翻訳であるこ
なお煩雑を避けるた
*1
*2
*3
して、渡辺氏の全訳がラテン語およ
*1 カルヴァン著作集刊行会、全7巻、1962.3-1965.9、現在同氏による新訳が刊行中。
*2 第1編第2章第2節、邦訳第1巻、p.54.
*3 後出:注 2-4 参照。
*4 第1編第 15 章第 4 節、邦訳第1巻、p.219.
- 35 -
*4
*2
との違いもあるかもしれない。わた
いや場合によっては、フロム も指摘
しには原文が理解できないこともあ
するように、そのような厳しい神へ
るが、基本的にはさほど大きな違い
の怖れを強調する彼らの主張の背景
はないように思う。そこで、特に前
として、自他に対する彼らの敵意が
者の「厳しい恐れ」という訳語に関
その神信仰に投影されている可能性
しては極めて 特徴的 に論点を明示し
さえあるように思える。もっとも、
ていると思うので、今後もあえてこ
ここの箇所を「そんな風にわたしを
の表現をこのまま用いる。
見ていたのか」と主人が臆病な使用
人を咎めた言葉だと解して、彼が自
注 3-4: 注解類を見てもわかるよう
分の主人である神に対して誤った印
に、もちろんイエスも神がそのよう
象をいだいていた、それが彼の過失
に過酷だと主張しているわけではな
だったのだと理解することも可能だ
*1
いだろう 。ただわたしは、クリスチ
ろう。しかし、この部分をそのよう
ャンの 表面的な主張とは裏腹に 、後
に解釈しても、最終的な結論は何ら
のキリスト教が神をそのように厳し
変わらないように思う。それという
い方だと一方的に捉えているのでは
のも、イエス自身がそのような神の
ないかとの疑問を提示しているので
解釈が正しくないことをこの譬えを
ある。もっとも、このような見解に
含む多くの宣教で証ししているとわ
対して反発を覚えたり、あるいは認
たしは思うからである。だとすれば、
めがたい想いをいだく人も多いだろ
多くのキリスト教著述家達の言うと
うが、これについては本論において
ころの《神に対する厳しい恐れ》は
ルターやカルヴァンの神学について
間違った神観念であるということに
言及する時に詳しく論じたいと思っ
なる。ちなみにいささか余談ながら、
ている。ただ、ここで誤解がないよ
一部のクリスチャンが思い描くよう
う最低限のコメントをしておけば、
な「人類に対して怒りをたぎらせる
多くのキリスト教著述家の言う神へ
ような恐ろしい神が、世を救うため
の怖れは、先に論じた神への畏怖の
に自分の独り子を遣わす」などとい
念と言うよりは、不自然なほど過剰
う神学 (十字架の贖罪論ではいわゆる
になった怖れの感情である可能性が
「刑罰代償説」がこれに当たると言え
高いとわたしは考えている。件の使
るだろうが、これがピューリタニズム
用人には主人(神)への信頼の念が
においては贖罪論の主流とされている)
少しもないことが譬えからもよくわ
を生み出すその感覚自体が相当おか
かるが、神への厳しい怖れを説くキ
しいとノン・クリスチャンであるわ
リスト教著述家たちの心の中にも同
たしなどは感じるのである。大体に
様な神への不信感が根ざしているよ
おいて、イエスがそのような存在を
うにわたしには思えてならないのだ。
自分を遣わした天の父とし、わたし
*1 口語訳版『増訂新版 新約聖書略解』、p.95.
*2 前出『精神分析と宗教』
- 36 -
たちをしてその父に対して「アバ、
不思議なところだと思うのだが、先に
父」と呼ばわせるわけがないではな
も述べたように、この辺の違和感に関
いかと思うのが自然な感覚ではない
しては追々書いてゆくことになると思
だろうか (この辺の矛盾に気がつかな
う)。
いところが多くのキリスト教著述家の
神に対する厳しい怖れ
たしかに(特に西方における)キリスト
19:21) と言われる。わたしがここで着
教神学において、この使用人のような神へ
目したいのは、神を厳しく怖れる彼のその
の感覚、ひたすらなる神への怖れの感情が、
言葉(想い)のとおりに彼が裁かれたとい
長年にわたって神に対する正しい感覚だと
うことである。このように、神への怖れを
されてきたことは事実であると言えよう。
過剰に強調する(あるいはそのような信仰
人間性を否定せんばかりのキリスト教プロ
を生きる)クリスチャンは、神に対するそ
テスタンティズムにおける極端な「罪人観」
の想いのとおりに裁かれる可能性があるの
からすれば、それは当然の帰結かもしれな
ではないかとわたしは思うのだ。おかしな
い。しかしながら、この譬えばかりでなく、
考え方だろうか。
たとえば放蕩息子の譬え(ルカ 15:
もっともわたしは、ある人が過剰に神を
11-32) や失われた羊 (ルカ 15:1-7、マ
怖れたからと言って、ただそれだけでその
タイ 18:12-14) その他の譬えを語った
人が滅びに渡されるなどと決めつけたいわ
イエスにとっては、このような神の観念は
けではない。そんなことは思ってもいない。
必ずしも正しいものではなかったのではな
そこでわたしは、それは必ずしも神が追い
いだろうか。それはわたし一人の独断と言
出したのではなく、自らが自らを追い出し
うよりも、福音書を読めば誰の目にも明ら
たとも言えるのではないかと解釈したい。
かな事柄だと言ってよいだろうと思う(否
何となれば、もともと天の国にいるのでな
定する人も多いとは思うが、わたしはあえ
ければ―あるいは天国に迎え入れえられ
てそのように言うし、実際にも信じてい
ることが前提になっていなければ―譬え
る)。怖れるばかりでひとつも神を信頼し
とは言え「外の暗闇に追い出させ」という
ていなかった使用人は結果的に神によって
表現自体がそもそもありえないのではない
退けられざるをえなかったわけだが、この
かと考えるからである。もちろん「慈愛に
譬えが示しているように、このように神を
満ちた神が単に(過剰に)神を畏れたとい
怖れる人間は、その怖れのゆえに救いを得
うだけでその人間を排除することはない」
られず、天の国から外の暗闇に追い出され
という見解もあろうが、それにはわたしも
るのである。ちなみに、ここで参考までに
同感なので、そのような神に対する過剰な
指摘しておくが、並行するムナの譬えの箇
怖れは結果として自らを天の国から追い出
所においても、主人のことを《預けないも
す行為につながると解釈するのもよいので
のも取り立て、蒔かないものも刈り取られ
る厳しい方なので、恐ろしかった》(ルカ
19:21) と述べた僕は、主人である神か
ら《その言葉のゆえにお前を裁こう》(同
- 37 -
はないかと考える次第である*1。
怠惰と怖れ
さらに、ここでもう一つ二つコメントし
敬虔でも何でもなく、かえって大きな罪、
ておくと、神を怖れた使用人は、主人であ
ひいては神に対する冒瀆だとわたしには思
る神から「怠け者の悪い僕だ」と非難され
えるのだが、どうだろうか。したがってこ
ているわけだが、これもまた興味深いもの
の譬えは、神をいたずらに怖れること自体
がある。この言葉からわかることは、《神
が罪であると言っているように思える。然
に対する厳しいおそれに結びついた信仰》
るに多くのクリスチャンは、神を厳しく怖
(カルヴァン)によって、神から与えられ
れるあまり、神からの賜物を活かさずに仕
た「賜物」をわざわざ地中に隠して活用し
舞い込んではいないだろうか。神を怖れて
ないことは、すなわち怠惰の悪徳であると
せっかくの賜物を地中(土の器の中)深く
いうことになる。素人の見解ながら、深層
に仕舞い込んで、その賜物を活用するため
心理学的に言っても「怠惰」の背景には「怖
に外へ出て行かないこと、あるいは出て行
れ」の感情が控えているように思う。単純
っても、「伝道」と称して神への厳しい怖
に言っても、この気の毒な使用人のように
れを多くの人に「伝染」させているようで
臆病で動こうとしないのは当然そこに怖れ
は本末転倒というものではないだろうか。
があるからで、その怖れに打ち勝とうとせ
ず、そのための行動を起こさないという意
注 3-5:カルヴァン『信仰の手引き』、
味では、それはやはり怠惰なのである。そ
特に前半の「信仰の手引き」の「四
して、それは「変化」への怖れでもあると
人間について知るべきこと」など
*2
言えるのではないかと思う 。
を参照〔注 3-6〕。重要な論点なので、
注釈内での詳細な引用は控えるが、
次に、岩波書店訳では《自分の財産を預
カルヴァンはここで、原罪を負った
けた》の箇所が《自分の財産を彼らに引き
人間は《神の似姿を内に消し去られ
渡す》となっているが、これは「その持て
て》*3 いると述べている。また綱要最
るすべてをその能力に応じて、神は人類の
終版でも、《神の似姿は、人間のうち
すべてに賜物として授けて下さっている」
にあって絶滅され、消し去られたの
と読むこともできよう。そのような賜物を
ではなかったと言うことはみとめる
「もはや汚れきって使い物にならなくなっ
が、しかもそれは余りにも腐敗して
た」
〔注-3-5〕などと身勝手に断じることは、
しまって、残ったものといっては、
*1 一部にはセカンド・チャンスなどの考えもあるようだが、いずれにせよこの手の問題は神
が決める事柄だし、わたしにはもともとあまり興味のあるテーマではない。もっともこの問題
は予定説などとも関連するテーマなので、後で予定説について取り上げる時に補足的に触れる
ことがあるかもしれない。
*2 後述「変化への怖れと神への怖れ」参照。
*3 同書、p.14 ゴチックは引用者、以下同じ。
- 38 -
ただ不快な奇形だけである》*1 と書か
傾向があるように思うが、この点はカ
れている。後者では「神の似姿は消
ルヴァンも例外ではないようだ。それ
し去られてはいない」とはしている
がこの小著にも出ているように思う。
ものの、それでもカルヴァンは、そ
の神の似姿の残滓は汚れ果てて使い
ところでいささか余談ながら、カトリッ
物にならないものになってしまって
ク教会で言われる「七つの大罪」のうちの
いると言いたいようだ。残滓とは言
一つが怠惰の罪であるとされる。怠惰には
っても、神の似姿を 「奇形」ないし
ラテン語の acedia ないし pigritia(英語で
「醜悪」とまで言い切る ところにそ
は sloth ないし lazines)が対応するが、そ
れはよく現われていると言えよう。
の類語として、無関心・無感動を意味する
とにかくこれだけでもその片鱗がう
apathy(アパシー)を挙げることができる。
かがえるが、このような人間観はわ
無関心には「政治的無関心」などさまざま
れわれ近代人の目からすればあまり
なものがあるが、この場合の怠惰はまさに
も暗黒な人間観だと言ってよいだろ
霊的な無関心を意味すると言うことができ
う。然るに、このような主張を是と
よう。人は日常性に埋没して神を忘れるこ
するクリスチャンが意外と多いこと
と、すなわち霊的=宗教的な無関心として
もわたしには気になるところなので
の怠惰の罪を問われ、「怠け者の悪い僕」
ある。このような人間観にチャレン
として終末の時に神の御前で裁かれるので
ジ(批判あるいはコミット)するこ
ある。その意味で聖書においてタラントの
とがそもそも本論の目的でもあるの
譬えに先行して十人のおとめの譬え (マタ
で、以下の論述においてその辺の問
イ 25:1-13) が配されていることは大変
題を詳細に論じてゆく所存である。
興味深いものがある。眠ってしまった(霊
的に眠りについてしまった)五人のおとめ
脚注 3-6:渡辺信夫訳、新教新書・名著
たちもまた主人の婚礼の席から追い出され
復刊、新教出版社、1986 年 8 月、2000
るのである。
年 9 月復刊第 3 刷。訳者解説によれば、
本書は、キリスト教綱要初版本*2 の要約
先に怠惰の背景には怖れの感情があるよ
・精髄たる「信仰の手引き」と、さら
うに思うと書いたが、無関心・無感動の背
に後年に書かれた本「手引き」のさら
後にも怖れの感情が控えている 。その意
なる要約である「信仰の告白」を合本
味で無関心も怖れの一形態なのである。さ
したものであるという。ちなみに、洋
らに、無関心としての怠惰はまた変化に対
の東西を問わず、いわゆる本格的な論
する怖れ 〔後述〕 を生むであろう。しかも
著よりも新書や小冊子の方が書き手の
霊的な怠惰は必然的に神に対する怖れを生
本音がよりダイレクトに現われやすい
むのである。
*3
*1 同抄訳、p.44、前記注 3-4 参照。
*2 久米あつみ訳『J.カルヴァン キリスト教綱要(1536 年版)』教文館、2000 年 8 月.
*3 無関心と言った場合は多少ながら積極的な印象もあるのに対して、無感動と言った場合は
より怠惰に近い印象があり、その人が霊的にも病の状態にあることを示唆していると言える。
- 39 -
変化への怖れ
以上タラントの譬えを下にしていろいろ
ある庶民の怖ればかりでなく、既得権益が
と書いてきたが、最後に「変化への怖れ」
失われることに対する支配者たちの怖れも
という観点から神に対する怖れについて考
ある。あるいは庶民が変化への怖れから(自
えてみたい。
身の首を絞めることになることを知らず
に)支配者たちの味方をすることもあるだ
神を怖れた使用人は怠け者だと責められ
ろう。イエスをまず怖れたのは当時の世の
たわけだが、先にも少し触れたように怠惰
支配者たちであったが、最後は一般人もま
の背景に怖れがあるとして、その怖れは「変
たユダヤ教指導者とともにこぞってイエス
化」への怖れでもあるのかもしれない。上
を磔にせよと叫んだことからもそれは明ら
記と関連して、最後にそのことについても
かであると言えよう。
少し考えてみたいと思う。(泉田昭著『マ
*1
イエスの教えが当時の支配者たちに変化
にそのよ
に対する怖れをいだかせたということは、
うな解釈が為されているのを知ってなるほ
要するに彼らは「福音」を怖れたのだと言
どと思った。以下はその解釈に刺激された
うこともできる。そして、神への愛を強調
わたしなりの考えを書いたものである。)
するイエスの教えが当時の支配者たちに忌
タイによる福音書
翻訳と説教』
避されたのだとすれば、現代でもそれが忌
避されていないという保障はない(もしも
人間は本能的に変化を怖れ、安定を望む
キリストが現在この世に来たとすれば、キ
ものだが、それが過剰になればやはり問題
リスト教聖職者たちはこぞって彼を再び十
だと言わざるをえない。その意味で件の使
字架につけるに違いない。わたしたちは、
《も
用人も変化を怖れたため、せっかく主人か
しわたしたちが先祖の時代に生きていたな
ら差し出されたタラントを無駄にしてしま
ら、預言者の血を流すことに加わってはい
ったのだと解釈することができる。
なかっただろう》〔マタイ 23:30〕 と平気
で言える存在なのだということを肝に銘じ
いつの時代も変化をもたらす新しい教え
なければならない。その意味でイエスは今
は忌避されるものだが、それもこれも変化
も十字架に架けられたままなのである)。そ
への怖れに由来するものだと言える。それ
れに加えて、あえて言わせてもらえば、古
は現代でも少しも変わりはない。イエスが
来伝えられてきた神への過剰な怖れの教え
生きた時代に限って言えば、やはり同様に
も、もしかするともはや「古い教え」なの
イエスの新しい福音を聞いて、少なからず
かもしれない。イエス在世当時だけでなく、
これを怖れた人たちがいる。イエスが処刑
今もまだ福音は忌避されているのかもしれ
されたのも、当時の支配者たちの変化への
ない。怖れからの解放としての「新しい教
怖れを呼び起こしたからだと見ることもで
え」が 2000 年も前に人類に伝えられなが
きよう。さらに変化への怖れには、弱者で
ら、キリスト教において未だに神への怖れ
*1 いのちのことば社、2003 年 12 月.
- 40 -
が強調されることにも、福音に対する忌避
それが先に述べたように健全な怖れ(畏れ)
の念が現われていると見ることもできるの
ならば何も問題ない。けれども、人間のや
ではないだろうか。《だれも、真新しい布
ることに完全はないということをわれわれ
ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。
は決して忘れてはならない。聖書にもある
そのつぎきれは着物を引き破り、そして、
ように《義人はいない、ひとりもいない》
破れがもっとひどくなるから。だれも、新
(ロマ書 3:10) のならば、「(現在の)
しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。
クリスチャンは信仰において間違えない」
もしそんなことをしたら、その皮袋は張り
とは言いきれないはずだ。それだから、そ
裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。
の怖れが真実に神に対する怖れなのか、も
だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入
っと別のものに対する怖れではないのかと
れるべきである。そうすれば両方とも長も
いった疑問は、やはりどこまでも残らざる
ちがするであろう》(マタイ 14:16-17)
をえない。自分たちが神に対する怖れ(畏
怖)だと思い込んでいるものが神に対する
正しい怖れ(畏怖の念)なのかどうか、わ
もっとも、「それが神への怖れなら何ら
問題ないではないか」という意見も当然な
れわれはいつも自らを省みる必要があるの
ではないだろうか。
がらあるだろう。たしかにそのとおりで、
2:それでも神への怖れは必要不可欠なのか
以上いろいろと述べてきたわけだが、神
であるイエス)に対する愛と信頼だけなの
に対する怖れよりも神への信頼を強調する
である。タラントの譬えに即して言えば、
このような見解に対して、それでも「神へ
主人に認められた二人の使用人は、主人か
の怖れ」の必要性を強調する向きもあろう。
ら「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は
そのような人は、先に引いた聖書、特に《だ
少しのものに忠実であったから、多くのも
れでも幼な子のように神の国を受けいれる
のを管理させよう。主人といっしょに喜ん
者でなければ、そこにはいることは決して
できない》(マルコ 10:15) という聖句
についてじっくりと考えてみてほしい。幼
ない子どもは何も《神に対する厳しいおそ
れに結びついた信仰》など知りもしないし
(大体において健全に育った幼児は両親を
怖れない)、理解もしていない。それにも
拘らず、「 そのような者でなければ 天の国
に入ることはできない」とイエスは断言し
ているのである。イエスの許に群がった幼
児には、神への厳しい怖れなどひとつもな
い。あるのはただ神(この場合はキリスト
- 41 -
でくれ」(マタイ 25:21 および 23*1) と
資金は神を怖れた使用人から取り上げられ
言われて祝福されるわけだが、このように
るわけだが、これは神の与えられた使命な
神を怖れずに信頼する者に対しては神もま
いし賜物の剥奪を意味している。したがっ
たそれを喜ばれるのである。そのようなわ
て神を厳しく怖れる想いとは、その人間が
けで、敬虔からか神をひたすら怖れて、そ
神の似姿を失うことにもつながる悪しき想
の感情のままに神を賛美したとしても、神
いであると解釈することもできよう)。そ
はそのような賛美を決してよしとはされな
れに対して一部のキリスト教著述家によれ
いだろうことがこの譬えからもよく了解で
ば、アダムの堕罪によって人間のうちには
きるであろう。
神の似姿のカケラもない〔注 3-5 参照〕と
されるわけだが、繰り返し言うが、プロテ
要するに神によって裁かれるのはいたず
スタンティズムで主流を占めるこのような
らに神を怖れる人間なのであって、それに
見解にわたしは異を唱えたいと考えている
対してわたしは、「神を怖れよ」という宣
のである。
教に対して、「神を怖れるな」という宣教
先にわたしは怖れにも健全なそれと不健
が正しい福音だと信じ主張したいと考えて
全なそれとがあると書いた。当然ながらク
いる。ここで言う「神の賜物」は「神の似
リスチャンは、自分たちの主張する神に対
姿」と捉えてもよいと思うが、神の似姿た
する怖れを健全で正しい怖れだと主張する
るその賜物を地中(土であるところの肉の
だろう。けれどもわたしには、彼らの言う
器の中)にひたすら隠して活かさないこと
《神に対する厳しいおそれ》が健全で正し
の罪であることをこの譬えは示していると
い怖れであるとはどうしても思えないので
解釈することもできる(なお、預けられた
ある*2。
*1《主人といっしょに喜んでくれ》は、直訳すれば「主人の喜びに入れ」となるという〔岩波
書店訳新約聖書の脚注および口語訳版新約聖書略解〕。これは「天の国に入れ」と言っているに
等しいが、福音書記者マタイがこの譬えをわざわざ終末に関する一連の譬え話の中においてい
ることでもそれは明らかだと言えよう。《少しのものに忠実であったから》に関しては注 3-1
を参照。
*2 ただし、わたしは神への畏敬の念や畏怖の念までこれをすべて否定しているわけではない。
これについては前項で詳しく説明しておいた。
- 42 -
神への怖れと信頼―未熟な信仰と成熟した信仰―
はじめに
前頁などでわたしは神への怖れを強調す
彼らの熱情や誠実さがかえって裏目に出て
る教説に対する違和感をいろいろと述べて
しまったという側面があるのではないか。
きたわけが、それらを読んで、この人はよ
その逸脱と言うか、その思想がもたらした
ほどカルヴァンが嫌いらしいと思った方が
問題は非常に大きいようにわたしには思え
いるかもしれない。序文でも書いたように、
てならないのだ。
たしかにわたしにはカルヴァンの思想は肌
に合わない。だからと言ってわたしは、必
このことに関してはいずれ詳しく書くつ
ずしもルターやカルヴァンといった宗教改
もりだが、ルターやカルヴァンは、結局の
革者がすべて間違っていると主張したいわ
ところ神に対する怖れをより強調すること
けではない。評価できないと言いたいわけ
で、信仰の成熟を実現したかったのではな
でもない。たしかに彼らは自らの信仰に対
いだろうか。しかし、その結果は決して望
して彼らなりに極めて誠実に思索し実践し
ましいものではなかったように思う。わた
たのだろう。伝記を少しでも読めばわかる
しはその彼らの思想がもたらしたものに疑
とおり、それは紛れもない事実である。し
問をいだいているわけだが、ここではその
かしながら、肉体を持った人間のやること
問題ではなく、まずは彼らも当然重視した
はすべて不完全であって、これはルターや
であろう信仰の成熟の問題について考えて
カルヴァンとて例外ではない。そのため、
みたい。
1:未熟な信仰と成熟した信仰
―成熟した信仰はこの世でどこまで実現可能か?―
(1-1)成熟した信仰はこの世でどこまで可能か?
信仰の成熟の問題を取り上げるに当たっ
肉体面の成長だけでなく、あるいは知識面
て、本来ならば、その前提として、成熟と
だけでもなく、心理面や精神面といったさ
は何か、具体的にはどのような状態を成熟
まざまな側面のバランスの取れた成長が必
とするのか、といった事柄から論じなけれ
要となる。そのため、人間は生まれてから
ばならない。しかしここでは、それはある
大人になるまでの間、家庭や学校、また地
程度わかっているものとして議論を進め
域社会によってさまざまな「教育」を受け
る。単純に言って、成熟とはさまざまな意
ることになる。それに加えて、最近は教育
味で大人になることだとしておこう。人間
心理学でも、人間が健全な発達をとげるに
が大人になるには、(現代においては)少
は、親にしっかりと甘える経験、そういっ
なくとも 20 年近い時間の経過が必要であ
た時期が極めて大切だとされる〔補説 3-2〕。
る。しかも人間が成熟した大人になるには、
要するに人間が成熟するには、その前の未
- 43 -
熟な段階も極めて大切な時期であって、こ
としても、単なる教理問答書をまる覚えし
の時期をないがしろにすることはできない
たような理解でこれができると思ったら大
ということである。
間違いなのである。
しかも、これは何も成長に限らない。習
い事でも何でも一朝一夕には成就できない
そのうえ教会の門戸は、新しい信仰者を
ことは多くの人がご存知であろう。何事も
迎えるべく世間に対していつも開かれてい
そうだが、基本を学ばず、基礎の段階を経
なければならない。教会はいつも初心者を
ずして、一足飛びにプロの段階には誰も到
抱えていなければならない宿命にある。こ
達しない。信仰とて同様で、基礎の段階、
れは何も教会だけのことではなく、この世
未熟な段階を無視して、いきなり成熟した
のすべての組織が抱えている限界であると
信仰を求めても無理というものなのだ。大
言える〔注 3-7〕。それだから、初めて教会
体、人間が成熟するにも幼い段階があり、
の門を叩いた求 道 者にいきなり確立した
時間をかけて成長してきたのだから、信仰
成熟した信仰なるものを求めるわけにはも
の成熟にもそれなりの時間をかける必要が
ともとゆかないのである *1。たしかに信仰
あるはずである(コリント前書 13:11-12
教育のためには、形を為した、しっかりし
参照)。それならば、信仰者に多少未熟な
た教理も必要だろうが、それだけで教会員
ところが認められたとしても、特に初心者
の教導がすべて賄えるわけではあるまい。
の場合、あるいは一般信徒の場合でも、あ
このように教会はいつも不完全な状態にお
る程度はこれを容認し、その信仰で十分安
かれていることになるのだが、逆に言えば、
心して神を求めさせてあげる柔軟さが教会
それだからこそ教会は生きた信仰共同体な
や指導者に求められるべきではないだろう
のだと言えるのである。そのため、人間の
か。もちろん成熟した信仰とはどのような
成長と同様、効率が悪いかもしれないが、
ものか、(真に理解できているかどうかは
さまざまなハプニングの中での生きた教育
別にして)初期の段階できちんと教えてお
が必要となる。単なる知育ならまだしも、
く必要はあるだろう。当然それは大事なこ
霊的な事柄
とだが、しかし、生まれたばかりの赤児に
的に不可能だ。多少の効率化は可能だろう
いきなり牛肉のステーキを与える愚を冒す
し、必要かもしれないが、いたずらに効率
親がいないように、何事も焦りは禁物であ
を優先したら、信仰教育はおろか人間教育
る。その意味で彼らを成熟した信仰者に育
も無残な結果に終わる。この世においては、
てるのは教導者や先輩たちの役割であり、
教会も信仰者も、不完全なまま、未熟なま
腕の見せどころだと言ってよい。いくら成
まこれを容認することが求められている
熟した信仰の状態を神学的に明確にしえた
―いや、人間そのもの、そして世界その
きゆうどうしや
*2
を効率的に教えることは基本
*1 中世および近世のヨーロッパにおいてはその住民のほとんどすべてが形だけでもキリスト
教徒だったわけだから、宗教改革時における初心者はカトリック信仰からの転宗者がこれに当
たるだろう。ただ、ここではその点は脇において、現代のことも考慮に入れて論じている。
*2 これは人間的かつ人格的な事柄においても同様で、何も霊的な事柄にばかり限定されるわ
けではない。わたしは人間的=実存的な事柄はすべからく霊的=宗教的な事柄でもあると捉えて
いるが、両者はやはり無理に区別すべき事柄ではないのかもしれない。
- 44 -
ものがもともと不完全さを免れぬ存在なの
れは必然的に基本的不信感に根ざし
で、この世界においては完全無欠な教理や
た信仰態度となるであろう)はかえ
教会は誰にも実現できない。それはいわゆ
って病的な「狂信」を生むだけであ
るユートピアの夢でしかないのであって、
る 。そんなわけで、もしも基本的
われわれは常にそのことを意識する必要が
不信感(怖れ)を育てがちな宗教信
あろう。
仰があるとしたら、それだけでその
*2
宗教は問題を抱えていると言ってよ
補説 3-1:人間の基本的信頼感と宗
いのではないだろうか。その意味で
教信仰
基本的信頼感を信仰者にどれだけ得
ライフサイクル論やアイデンティ
させられるかでその宗教の真価が決
ティー(自己同一性)の用語で知ら
まるので、その点を無視して、その
れるエリクソンは、人間の成長にと
宗教や信仰が正しいか否かを客観的
って一番大事な発達課題は「基本的
に論じることはあまり意味がないと
*1
信頼」だとする 。次項等でも取り
わたしは見ている。当然のことなが
上げる信仰と甘えの問題とも関連す
ら、宗教を信じるにしても―逆に
るが、母親に心ゆくまで甘えること
思うかもしれないが―まずは自他
(授乳を含む)などから培われるこ
に対する「基本的信頼」を自分の中
の基本的信頼感が弱いと、成長して
に確立してからの方がよいというこ
も病的な依存など心理的な問題を当
とになる。もっとも基本的信頼を十
人が抱えることが多くなるだろうこ
分に確立できていない人間の方が現
とは昨今よく指摘されるところであ
実としては多くいるだろうことは想
る。そのような基本的信頼感の弱い
像に難くないので、そこで現実問題
人がたとえ誰かを愛したとしても、
として、その入信者が基本的信頼感
それが一種の依存的なしがみつきに
を得られるよう、その宗教の先達な
しかならない可能性は極めて高い。
どがその人の信仰(≒信頼感)を時
そのままの状態にとどまっている限
間をかけて育ててゆく必要があると
り、彼が人生において成熟した愛を
いう次第である。
手に入れることは、不可能ではない
にしても極めて難しいだろう。さら
注 3-7:毒麦の譬え (マタイ 13:
にそんな人間が長じて、たとえ何ら
24-30
かの宗教を信じたとしても、そのよ
く言及してみたいと考えている) にも
うな心理的状態で為される信仰がそ
見るように、成熟した人間と未成熟
のままで成熟した信仰に育つ可能性
な人間はこの世において共に最後の
は かな り少ない と言わざ るをえ な
時(終末)まで分け隔てなく付き合
い。基本的信頼感なしの信仰態度(そ
う必要がある。この譬えは宗教的寛
この譬えに関してもいずれ詳し
*1『幼児期と社会1』仁科弥生訳、みすず書房、1977 年 5 月. この発達課題が相当する時期
は 0 ~ 1 歳半の乳児期で、これはフロイトの言う口唇期に相当する。
*2 谷口隆之助『疑惑と狂信との間』ヒュ-マン選書、川島書店、1968 年、参照。
- 45 -
容を説くものとして解釈されること
麦は同じように見えるので、生長し、
*1
が多いそうだが 、拙速のあまり、折
収穫の準備ができるまで区別するこ
角育ちつつある麦を毒麦といっしょ
とができない。毒麦(不信者)と麦
に抜いてしまっては意味がないと聖
(信者)は、この世でいっしょに生
書も教えているのだと理解してよい
きなければならない。》
*2
であろう。《未成熟な毒麦と未成熟な
(1-2)神への甘えは許されるか?―信仰と依存および神への甘えについて―
ここで多少余談ながら、上記の議論と関
の言う意味ので「甘え」と共通する部分を
連する問題として、信頼と甘えおよび依存
持つと見てよいだろう。したがって、ここ
との関係についてごく簡単ながら触れてお
で「神に対して甘えることは許されるだろ
*3
きたい 。
うか?」と問われれば、わたしもある程度
は許されると答えたい。その人の信仰の状
態(成熟度)によっては、神に対する甘え
『「甘え」の構造』〔弘文堂, 1971 年〕で
も許容されると考えるからだ。もちろんい
知られる精神科医・土居健郎は、その一連
つまでもその段階にとどまっていてはいけ
の著書で甘えに相当する言葉が欧米には存
ないし、それでは成熟した信仰とは言えな
在しないことを指摘し、日本文化に特徴的
いかもしれないが、それでも神に対する関
なこととして、その治療的意義も含めて「甘
係としては、神を過剰に怖れるよりは神に
え」を積極的に評価した〔注 3-8〕。また、
甘える方がよほど優れた態度だと言えるの
同じく精神科医の渡辺登によれば、
「甘え」
ではないだろうか。わたしはそのように信
は「依存」に包括することができる概念だ
じている。
*4
と言う 。そして、渡辺は依存も発達段階
に応じたものであればそれはよい依存だと
*5
するのだが 、《支え支えられ、与え与えら
れ、癒し癒される成熟した依存》
*6
注 3-8:甘えを高く評価しながらも、
その一方で土居は、信仰と宗教の問
という
題に関して初めて書いた「甘えと信
渡辺によるよい依存の説明は、まさに土居
仰」と題する文章*7 の中で「甘え」と
*1 カメン『宗教的寛容の系譜』成瀬治訳、世界大学選書 013、平凡社、1970 年 12 月、p.28
~ 29.
*2『BIBLE navi 聖書新改訳 解説・適用付』いのちのことば社出版部、2011 年 12 月、p.1541.
*3 甘えと信仰の問題についてはいずれ詳論する予定ながら、とりあえず次項において多少詳
しく論じておいた。
*4 渡辺登『よい依存、悪い依存』朝日選書、朝日新聞社、2002 年 1 月、p.96 ~ 97.
*5 同書、p.52 ~ 54.
*6 同書、p.52.
*7『聖書と「甘え」』PHP 新書 30、PHP 研究所、1997 年 11 月. オリジナルの文章の執筆は 1966
年 5 月.
- 46 -
「信頼」(ちょっと記憶が定かでないの
テスタント(メソジスト)の教会生
だが、正確には「信仰」だったかもし
活と無教会主義(矢内原忠雄)を経
れない)とはあくまで区別すべきだと
て、ホイヴェルス神父との出会いを
述べている。土居はその後、信仰と
通してカトリックの信仰を得たとい
甘えに関してもう少し許容的な解釈
う。何冊も書かれた「甘え」関連の
するようになったようだが、甘えと
著作の中にも、わたしの知る限り、
『信
信頼(信仰)を峻別すべしという彼
仰と「甘え」』
〔春秋社、1990 年〕や『聖
の主張は、カトリック信徒でもある
書と「甘え」』
〔PHP 新書、1997 年〕、
『甘
自身の信条の現われたものであると
え・病い・信仰』〔長崎純心レクチャ
*1
いう 。なお、土居は母親が熱心なプ
ーズ3、創文社、2001 年 3 月〕といっ
ロテスタントの信者で、自身もプロ
たものがある。
2:極端な神への怖れがもたらすもの―神学の先鋭化と人間疎外―
以上、わたしの違和感を中心に、怖れと
とになるのではないか。そのとき彼はかな
その反対概念に当たる愛や信頼についてキ
り病的な心理状態におかれることになるだ
リスト教信仰との関係から論じてきたわけ
ろうことが推察される。それだから、ある
だが、本頁の最後に、多少簡単がながら結
対象に対して愛や信頼と同時に怖れの念を
論的なことを書いておきたい。
同時に持たせようとするアプローチは、か
えってその対象に対する分裂した感情を呼
び起こし、その関係を病的な歪んだものに
心理学に関しては素人ながら、わたしは、
する危険性が高いと考えられる。それに、
愛や信頼と怖れとは、少なくとも同じ対象
とかく人間は愛や信頼よりも怖れや敵意の
に関する感情としては本来同居しえないの
方に親和性を持ちやすいものである。先に
ではないかと考えている。もちろん先にも
触れたカルヴァン流の《厳しいおそれに結
書いたとおり、わたしは神や神的な存在に
びついた信仰》は、だから、怖れを強調す
対する畏怖や畏敬の念を必ずしも否定する
るあまり、神への信頼の念をかえって「疎
つもりはない。しかしながら、ある対象に
外」(この場合は「阻害」の方が表現として
対する怖れの感覚が特に過剰な場合、その
は適切かもしれないが、あえてこの表現を
対象に対する愛や信頼の念は自然と薄くな
用いる。何となれば神との信頼関係から「的
るはずで、この両者はもともと両立が難し
外れ=罪」となった状態とは、まさに神と
い観念なのだ。もちろんこの両者の同居が
の「疎外」状況そのものに他ならないから
絶対にありえないかどうかはわたしには断
である) する結果を生むのではないかと思
定できないが、もしもそれが同居しうると
うのだ。先にも述べたように、神に対して
したら、その場合、その人は相当にアンビ
独裁者ないし暴君に対するかのような接し
バレンスな矛盾した心理状態におかれるこ
方 (この場合は「服従」という表現がより
*1 同書、p.184.
- 47 -
適切である) をする人が真実に神を愛せる
によっては人間の非人間化を助長しかねな
とはわたしには到底思えない。ましてや性
いアプローチでもあることになる。神への
格的に歪んだ愛や怖れの持ち主が、神に対
過剰な怖れの強調は、このように当初の意
してだけはこれを正しく愛し畏れることが
図と違って、皮肉なことに(聖書カルトに
できるとも思えない。そんなわけで、最初
よる宣教について触れた時にも見たよう
から神への怖れを強調するアプローチ(神
に)福音を福音でないものに変質させてし
への接近の試み)は、その主張者のもとも
まう結果を生むことにつながりかねないの
と意図しない結果をもたらすだけのように
である。これが、カルヴァン流の禁欲的な
思えるのである。
ピューリタニズム―いや、より正確に言
えば、古代教会以来キリスト教がその教義
議論としていささか唐突な印象を与える
解釈を先鋭化ないし急進化(Radicalization)
かもしれないが、それが結果するところは、
させてきた、その行き着く先だったのでは
時に人間の歪んだ怖れや敵意の神に対する
ないか。わたしはそのように考えているし、
(深層心理学的な意味における)投影をす
それが本サイトにおけるわたしのキリスト
*1
ら生むだけであろう 。それは、 時と場合
教批判の主眼目でもある。
最後に―福音は怖れではなく喜びをもたらす―
福音は、「怖れよ」と伝えているのか、
それとも「怖れるな」と伝えているか?
えていると解釈すべきではないだろうか。
何となればイエスは、人が神を自らの真の
父として、しかも幼い子が父親を呼ぶ時に
先に引用した聖句(「恐れるな。見よ、
使うアラム語の「アッバ」という表現で呼
今日ダビデの町に救主がお生れになった」)
び求めるようにと人々を誘ったのである。
にもあるように、聖書は羊飼いたちに対し
イエスの新しさはここにあるのではないか
て明確に「怖れるな」と語りかけている。
とわたしは考えている (もちろん旧約でも
「(神を)怖れよ」であれば、旧約時代か
神は「父」のメタファーで呼ばれるが、し
ら散々言われてきた(もちろん「神を愛せ」
かし、その父を「アッバ」と幼児語で呼ば
も数限りなく言われてはいるのだが)。イ
せたのはたぶんイエスが初めてである)。こ
エス・キリストの福音に新しさがあるとす
こでは聖書などを引いて詳しく論証するこ
れば(もちろんそれが新しくないわけがな
とはしないが、少なくとも新約聖書が旧約
い!)、それはやはり「神を怖れるな」と
聖書以上に神への愛を強調していることは
いうメッセージに尽きるのではないか。そ
間違いないであろう。もっとも、これが聖
の意味で聖書は「神を怖れるな」と述べ伝
書根本主義的な立場の信仰では、旧約も新
*1 現代において神に対する怖れを極端に強調することは、権威主義的で、性格的にも歪んだ
在り方だとする批判を避けることはできないであろう。これに関しては、エーリッヒ・フロム
『自由からの逃走』の特に第三章「宗教改革時代の自由」、および『精神分析と宗教』の第三
章「宗教体験のある種の型の分析」〔いずれも東京創元社〕の議論を参照。
- 48 -
約もほぼ同次元でこれを重視するために、
私もかつてそうだったが、その喜びによ
「怖れるな」の福音が活かされずにきてし
って、その喜びにおいて、わたしたちは信
まったのではないかとわたしは推察してい
仰告白をするのである。怖れの感情からで
る―しかも、近年特にその傾向が強くな
はない。(もっともわたしの場合は、それは
っているようにも思うのである。
(ただし、
キリスト教以外の宗教の信仰であって、そ
ここで誤解のないように申し添えておくが、
の喜びの内容は当然ながら違うのだが、本
ユダヤ教の神すなわち旧約の神が怒りの神
質的には、すなわちその信仰の姿勢ないし
であるという捉え方は必ずしも間違ってい
方向性においては同じものだと信じてい
ないとは思うものの、そのことを強調しす
る。)
ぎることに最近は疑問を持つようになった。
何となれば、神への怖れの強調は、ユダヤ
※
本来このテーマ(「怖れに根ざし
教に由来すると言うよりも、先に触れた「先
た信仰」)は、カルヴィニズムとその
鋭化」という視点から見てキリスト教に特
近代への影響について考察する導入
有の変化の側面も強いのではないかと考え
部(序論)として書き始めたものな
るからである。)
のだが、実際に執筆してみると、こ
れがとんでもないテーマであること
がわかった。この問題はキリスト教
怖れの感情から人はその対象を真に求め
る(=愛する)ものだろうか?
しく論じなければならないテーマだ
再度聞きたい。福音は「神を怖れよ」と
伝えてるのだろうか?
の根幹に関わる、それこそ相当に詳
それが喜ばしき音
ずれだったのだろうか?
ったようだ。本テーマは、わたしに
とっては本来、序論的な論考という
よりも本論的な位置づけを持ったテ
ーマだった。それを今回改めて認識
先に引用したパウロの言葉からも明らか
させられた。そんなわけで、これか
なように、端的に言って福音とは、わたし
ら本テーマの各論的な議論に入ると
たちがイエス・キリストを通して神を自ら
(当初の予定では、ルターの個人的
の父(アッバ)として求めることを許され
な回心の体験や、アメリカにおける
News)な
大覚醒時代に活躍したジョナサン・
のだ。何となれば、再度引用するが、私た
エドワーズの脅迫的な説教などにつ
ちは《再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受
いてもいくらか触れる予定だった)、
けたのではなく、子たる身分を授ける霊を
いくら書いてもキリがない感じにな
受けたのである。その霊によって、わたし
ってきた。単にわたしが怠け者だと
たちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。》
(ロ
いうこともあるが、このままだと当
要するに、タラントの譬え
初予定していた論考にいつまでも手
における《主人といっしょに喜んでくれ》
がつけられなくなる。そこで、本テ
(マタイ 25:21、23) の直訳が「主人の
ーマは折々加筆は続けるものの、と
喜びに入れ」であることからも明らかなよ
りあえずはこれでいったん終了とし、
うに、福音において彼は神と喜びの関係に
当初予定していた論考の執筆に移る
入るのであって、怖れの関係に入るのでは
ことにしたい。
た、そのことの「福音」(Good
マ 8:15)
ない。
- 49 -
- 50 -
文化の違いと神信仰をめぐって
―欧米人と日本人の感覚の違いと神学思想―
ここで章を改め、キリスト教、特にプロテスタンティズムにおいて神に対する怖れが何
故に強調されるようになったのか、その点を考察してゆきたいと思う。ここでは、まずは
もっと全体的な歴史的=文化的な観点からこの問題にアプローチする。
- 51 -
文化の違いと神信仰をめぐって
幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。
神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子の
ように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない。
(ルカ 18:16-17
口語訳)
甘えの感覚すらない欧米人と神への怖れ
《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊で
はなく、神の子とする霊を受けたの》だ(ロ
はこんな問いかけをしたい気持ちを覚え
る。
マ 8:15) と言われ、さらに、《愛には恐
れがない。完全な愛は恐れを締め出》す(一
それでは、このような厳しい神への怖れ
ヨハネ 4:18、以上、新共同訳) とまで言
が強調されるようになった(これが神学の
われながら、わたしたちは再び怖れをいだ
先鋭化だとわたしは見ているのだが)のは
かせる奴隷の霊を受けたのだろうか?
なぜか?
厳
一体どのようにしてキリスト教
格なプロテスタンティズムの教説に触れ、
神学あるいは信仰の中に、このような極端
あるいはあまりに厳しい神への怖れを強調
とも言える神への怖れが入り込んできたの
する主張を見るにつけ、そのたびにわたし
だろうか?
はじめに―キリスト教への問いかけと問題提起―
以上わたしは、キリスト教における神へ
うさまざまな感覚の違いにも着目しなが
の怖れの強調についていろいろと述べてき
ら、この問題について考 察してみたい。
アプローチ
た。わたしは、キリスト教の伝統的な教義
解釈にしたがって、神の怒りやその神への
そのため、ここで章を改め、キリスト教、
怖れを主張するよりも、神の愛とその神へ
特にプロテスタンティズムにおいて神に対
の愛を強調したい、強調すべきだと以前よ
する怖れが何故に強調されるようになった
り考えてきた。しかし、このようにわたし
のか、その点を考察してゆきたいと思う。
が神への怖れよりも信頼(=愛)を強調し
ただこの問題を考察するには、まずはルタ
たいと思う要因のひとつは、わたしが日本
ーやカルヴァンの神学とその発展を調べる
人だからこそ感じることだと言えるかもし
ことが必要となるだろうが、しかし、それ
れないと、最近はそんなことも考えるよう
を行なうにはわたしの知識では荷が重いと
になった。そのこととも多少関連するが、
本項などでは彼我の文化の違いやそれに伴
- 52 -
いうのが正直なところである *1。そこで、
みたいと思う。
そのような個別な神学者の思想や人生の考
その手始めとして、前項で論じた未熟な
察に入る前に―これもわたしのできる範
信仰と成熟した信仰の問題に関連するテー
囲でしか行なえないことは当然だが―こ
マとして、簡単ながら「甘え」の問題をこ
こでは、まずはもっと全体的な歴史的=文
こで取り上げてみたい 。
*2
化的な観点からこの問題にアプローチして
1:言葉と文化―言葉(概念)がなければ存在しないも同じ―
よく知られているように、一般に西洋に
深い話題だし、本論ともかなり関わる問題
おいては、日本とは違い、依存を否定し、
なので、いささか余談ながら以下でなるべ
自立を強調する傾向が強い。特に西洋の近
く詳しく解説しておくことにする。
世・近代において「個人主義のイデオロギ
ー」
*3
が支配的となって以来その傾向がま
注 4-1:鈴木孝夫は『ことばと文化』
すます強くなったようだ。だからこそ、
「信
〔岩波新書、1973 年 5 月〕。また、ヴ
仰における甘えなど以ての外」といった考
ァン・デン・ベルク、早坂泰次郎共
え方も出てくるのだろう。もっとも、欧米
著『現象学への招待―<見ること>
社会には「甘え」という言葉(概念)すら
をめぐる断章』*4 およびクワント『人
存在しないことを土居健郎が指摘している
間と社会の現象学』 等を参照。クワ
ことからもわかるように、彼ら欧米人には
ントは、参照箇所の注釈でマーガレ
「神に甘える」という感覚すらもともとな
ットミードの研究を例に挙げて、《突
かったのかもしれない。
然、現代社会へと連れてこられた未
*5
開人は、未開の体験を通じてみるこ
そのことと関連するが、最近の研究によ
れば、言葉が存在しなければ、すなわち言
とを学んだものだけをそこに見るこ
*6
とになる》 と述べている。
葉によって意味が付与されなければその事
柄は存在しないも同じであるという 〔注
4-1〕。これらに関する事例はなかなか興味
言語学者の鈴木孝夫は『ことばと文化』
*1 現在いろいろとルターやカルヴァンの伝記類なども読んでいるのだが、参考資料の精読な
ど現在のわたしには少し荷が重い部分もある。そこで、先にも書いたようにキリがないので見
切り発車して、恥ずかしながらまずはできるところから書いている次第である。
*2 詳細な論考は後日「信仰と甘え」とでも題して別に論じる予定。
*3 レミ・C・クワント『人間と社会の現象学―方法論からの社会心理学―』早坂泰次郎監
訳、勁草書房、1984 年 6 月.特に第一章の議論を参照。
*4 川島書店・1982 年 6 月、p.99 ~ 100.
*5 前掲書、p.83 ~ 84 他。
*6 前掲書、p.120.
- 53 -
(岩波新書)の中でさまざまな事例を挙げ
いたっては、明治時代以降の西洋医学の導
ながら、言葉が《私たちの世界認識の手が
入による医学上のパラダイム変換に伴っ
かりであり、唯一の窓口であるならば、こ
て、現代では存在すらしない病気になって
とばの構造やしくみが違えば、認識される
しまったという 。この病気は下腹部から
対象も当然ある程度変化せざるを得ない。
股の付け根あたりに激しい痛みを生じ、悪
(中略) そこにものがあっても、それを
化すると陰部の肥大などの肉体的な病変を
指す適当なことばがない場合、そのものが
伴う疾患であったものが、江戸時代に一般
目に入らないことすらある》
*1
と述べてい
*5
に信じられてきた身体観がなくなると同時
にこの世に存在すらしない疾病になったと
る。
*6
いうのである 。その一方で逆に、現代人
具体例をいくつか挙げよう。
はその多くがストレスをかかえて生きてい
ある本によると、英米語には肩こりに当
るが、そのストレスにしても、1936 年に
たる言葉がないとよく言われるが、それは
セリエがストレス学説を発表するまでは人
日本人以外は肩がこらないからだという。
はストレスを感じることがなかったという
『冷えと肩こり―身体感覚の考古学―』
こともその例としてあげることができるだ
*2
という本に、ヨーロッパ在住経験の長い
ろう。ストレス学説が生まれ、ストレスと
医師による報告として、数年間にわたる在
いう言葉が人口に膾炙するようになって、
欧中に一度も肩こりを訴えてきた患者が存
人ははじめてストレス(実際にはフラスト
在せず、肩こりについていくら説明しても
レーションとの混同もあるようだが)を感
理解してもらえなかったという話が紹介さ
じるようになった。その意味でストレスは
かいしや
*3
れている 。また一説によれば、たとえ英
現代人にとって今や立派な身体感覚となっ
語圏の人間が stiff neck ないし stiff shoulder
たのである 。
*7
を医者に訴えてきても、その部位は日本人
のそれとは微妙に異なっている。ところが、
日本で長年暮らして日本語が達者になった
もっとも、これらの事例はあくまで個人
英米人には日本人と同じ部位に肩こりが現
の身体観の問題で、必ずしも文化や歴史と
*4
われるようになるともいう 。
は直接的な関わりはないのではないかとい
それだけではない。上記の本によると、
う疑問をいだかれる人もいるかもわからな
せん き
江戸時代の流行病であった疝気という病に
い。そこで今度は、もう少し大きな視点か
*1『ことばと文化』、p.30 ~ 31.
*2 白杉悦雄、講談社選書メチエ 581、2014 年 8 月.
*3 同書、p.4.
*4 早坂泰次郎『人間関係学序説―現象学的社会心理学手の展開―』川島書店、1991 年 4
月、p 215.
*5 白杉、前掲書、第4章「せんきの病」参照。
*6 身体観や世界観といったものも言葉と密接な関係があり、両者は切っても切れない関係に
あることをここで簡単ながら指摘しておく。
*7 前掲書、p.179 ~ 180.
- 54 -
らこの問題を考察してみようと思う。
その存在を許されるのであって、その逆で
はないということである。
今ではあまり見られなくなったとは思う
が、かなり原始的な生活を送っている未開
これは何も必ずしも主観主義的ないし観
な民族の誰かを大都会に連れてきても、そ
念論的なことを言っているのではない。ま
こで彼は何も意味のある存在を認めない、
してや、「思ったとおりになる世界」など
彼は何も見ないに等しいという。それに関
といった近頃はやりのスピリチュアルで唯
して、ある本に大変興味深い例が挙げられ
心論的な薄っぺらな主張を展開しようと思
*1
ている 。それによると、ある研究者が、
っているわけでもない。わたしは、たとえ
未開な山岳民族の一人をシンガポールの町
その事物が人間とは別個の客体として存在
で一日連れ歩いた上で「あななた何を見た
していたとしても、その事物に誰かが名前
か」と訊ねたところ、その男は「たくさん
(意味)を与えない限り、それは人間にと
のバナナを抱えた人を見た」とだけ答えた
っては認識できない、すなわち人間的な意
という。彼は実際たくさんのバナナを車に
味では存在しない(見えない)ということ
積んで運んでいる人を見たのだが、町中で
を言っているのだ。人間的な意味を持たな
見たもののうちで彼にとって意味のあるも
い、すなわち人間以外の捉え方というもの
のはバナナだけだったのだ。これは、その
はもともとこの世に存在しないのだし、人
男が関心を寄せられる、あるいは認識でき
間が生きている以外の世界は、人間がこれ
る身近な対象はバナナだけで、それ以外の
を「発見」するまでは無に等しいのである
自動車や舗装道路といった存在は彼にとっ
〔注 4-2〕。
ては存在しないに等しかったということを
なお、ここでひとつ補足しておきたいこ
意味している。これは、たとえばタイムマ
とがある。言葉(の違い)によって、特有
シンで原始人を東京やニューヨークなどと
の文化とその文化の中に生きる人間が作ら
いった大都会に連れてきても同様で、大都
れる(形成される)ということを以上いく
市の摩天楼も、舗装道路を走る自動車も、
つかの事例を挙げて述べてきた。しかし、
彼の目には映らない。それは、彼にとって
このことだけを強調することは言うまでも
意味のあるものがそこには何も存在しない
なく一面的な理解でしかない。言葉によっ
*2
からである 。われわれと同様の景色とし
て文化が作られることは事実だが、その反
てそれら摩天楼が彼にも見えるようになる
面、その中で生きる人間が文化を形成し、
には、そこで現代社会を彼なりに理解し、
新たな言葉を作ってゆくこともまた事実だ
現代人とほぼ同じような生活を彼が送るよ
からである。これは言葉の持つ両義性であ
*3
うになってからだろう 。以上のことから
って、そのどちらか一方だけを抜き出して
もわかるように、これは、人間が意味を与
強調することは、やはり物事の一面をしか
えた、すなわち言葉を付与した事象だけが
見ていないというそしりを免れないであろ
*1 ヴァン・デン・ベルク、早坂泰次郎共著『現象学への招待―<見ること>をめぐる断章』
川島書店・1982 年 5 月、p.99 ~ 100.
*2 クワント前掲書p.83 ~ 84 他参照。
*3 前掲書、p.120.
- 55 -
う。
そのため英語圏の人間には肩こりが
ないという指摘にしても、いろいろ
注 4-2:このような見解は、歴史学の
と興味深いものがある。その理由な
分野で言えばアナール派、特に『〈子
いし原因は何か。欧米人でも肩こり
供〉の誕生』に代表されるフィリッ
はあるのだけど、言葉が存在しない
プ・アリエスのそれに近いと言って
ためにその痛みを認識できないだけ
よいだろう (その証拠に、上記で紹介
なのか、あるいはそもそも本当に欧
したヴァン・デン・ベルクは、自分と
米人は肩がこらないのか、といった
近い立場としてアナール派の始祖とさ
具合に疑問はつきない。たしかに「言
れるルシアン・フェーブルの名前を挙
葉が存在しなければそのもの自体が
げている)。ただ、当時の人間にとっ
存在しないに等しい」という言い方
て意味を持たない、すなわち言葉が
はそれなりに納得するものがあるし、
まだ生れていない事柄が客観的にも
わたしも普段はその見解を正しいと
存在し得ないのかどうかとなると、
考えている。けれどもそんなわたし
これには疑問を持たれる方もいるだ
でも(実はわたしは本来イデア論的
ろう。その一例として、ライフサイ
な世界観、すなわち実念論的な立場
クル論で有名な E.H.エリクソンなど
の信奉者であった)、言葉がなくて存
は、アメリカ・インディアンなどの
在しないに等しいとされる事柄も、
原始的な民族にも何らかの形で青年
実は認識されないだけで存在はして
期が存在すると見ているようだ 〔次
いるのではないか、といった疑問は
項を参照〕。土居にしても、欧米社会
少なからずいつもいだいている。わ
には「甘え」に相当する言葉はない
たしも専門家ではないので、あまり
し、したがって認識もむずかしいと
断言めいたことは言えないのだが、
しながらも、それでも欧米人にも甘
これについてはわたしはとりあえず
えの心理は存在することをたびたび
次のように考えている。すなわち、
*1
指摘している 。彼も甘えに相当する
言葉が存在しない事柄は必ずしも(客
現象そのものは(日本人のようには
体的な意味合いでは)存在しないわ
自覚的でないだけで)欧米社会にも
けではないのだが、言葉がない事柄
存在すると見ていることになる。わ
は認知もされず、したがって彼らに
たしもそれに関しては同意できるの
とっては(主観的=主体的な意味合い
だが、この辺はなかなか厄介な問題
で)無いと同じだと考えてよいので
を孕んでいる。上でも触れたように
はないか。わたしも今はとりあえず
英語には肩こりに相当する語がなく、
このように捉えている。
*1『注釈「甘え」の構造』序文その他。
- 56 -
2:甘えが許されない文化と神信仰
*1
いささか脱線した。
にする 。
近年、信仰を依存と同一視し、これを否
土居は日常用語としての「甘え」
定的に捉える向きが多いが、わたしはその
を定義して、《「甘え」は自分の世
ような見解にはかなり異義がある。たしか
話をしてくれる者と気持の上で一体
にいつの時代も「宗教は民衆の阿片」であ
になることを欲することであり、ま
ったろうし、今もその手の宗教、偽造宗教
た一体感を楽しむことであると定義
および宗教偽造の営み(谷口隆之助)が存
することができる。現に一体感を楽
在することは事実だが、だからと言って、
しんでいる場合は「甘え」は感情で
そのことをもってすべての宗教的営みを否
あるが、しかし一体感の満足が得ら
定するのは間違っている。わたしは信仰は
れない場合、「甘え」は欲望として
単なる依存ではなく、これを単純に同一視
意識される》
することはできないと信じている。もちろ
え」の最も簡単な定義として、人間
んこの両者には共通する部分もあり、その
関係において相手の行為をあてにし
切り分けがむずかしいことも事実である。
て振舞うことである》*3 とし、さら
残念ながらこの問題について詳細に論じつ
に、《「甘え」は愛情表出を伴う快
くす準備は今のわたしにはないが、ここで
い気分であり、時にそのような気分
可能な範囲で論じてみたい〔補説 4-1〕。
を求める欲求をさし、また感情的依
*2
とする。また、《「甘
存を意味することになる》
補説 4-1:土居健郎による「甘え」
*4
として
これを概念規定している。その上で
の定義
土居は、『続「甘え」の構造』にお
議論を進めるに当たって、その前
いて、「甘え」を「健康で素直な甘
に、ここで先に触れた土居の議論を
え」と「自己愛的な屈折した甘え」
なるべく詳しく紹介しながら、土居
の二種類に便宜的に区別して議論を
が甘えをどのように定義して議論を
展開している (ただし、土居は後者
展開しているか、わたしなりにまと
の「甘え」を必ずしも病的ないし不
めておきたい。ここでは、土居の甘
健全な甘えとしているわけではな
え理論の総決算とも言える『続「甘
い)。また、ここは大変重要なとこ
え」の構造』
〔弘文堂、2001 年 2 月〕
ろだと思うのだが、甘える当人は自
を中心に、わたしなりの表現ないし
分が甘えているという意識ないし自
理解も交えながら説明を試みること
覚を持たないことが普通であること
*1 以下の文章は、「甘えと信仰」に関する文章を上梓次第、加筆の上そちらに移動する予定で
ある。
*2 土居『信仰と「甘え」』春秋社・1990 年 6 月、p.157.
*3 土居『続「甘え」の構造』、p.65.
*4 同書、p.157.
- 57 -
を土居は繰り返し指摘していること
な心理となって現われるのだと見る
である。それに加えて土居は、日本
ことができる)。土居の言う無自覚
語には「甘え」のバリエーションと
ないし無意識的な甘えは特に前者に
見られる心理を意味する多くの関連
より特徴的な要素であると言えるよ
語があるとして、「すねる」「ひが
うに思う。
む」「ねたむ」といった言葉を取り
その一方で、土居は《「甘え」の
上げて「甘え」との関連を説明する。
最も簡単な定義として、人間関係に
上に挙げた「甘え」の定義との関連
おいて相手の行為をあてにして振舞
で言えば、これらの感情は、他者と
うことである》
の甘えによる一体感が満たされない
味で「甘え」とは、「甘えたい」と
場合に生まれる欲求であり気分であ
する根源的で無自覚な欲求がまず当
ると言える。そして、これら「甘え」
人の側にあり、その欲求をよしとし
の類義語的な用語は後者の自己愛的
てかなえてくれる対象に依存した心
な甘えとの間により共通性を持って
理であると言える。ちなみに上記辞
いるように思う。なお、北山修『意
典によれば、a や m といった音韻か
味としての心―「私」の精神分析
ら、洋の東西を問わず、《これらの
用 語辞 典―』〔 みすず書房、2014
音は唇の働きを生かして容易に発声
年 1 月〕 においても、《甘えには、
され、吸着する口の働きが連想され
満 たさ れねばな らない絶 対の甘 え
るので、与えられることを求める「求
と、味を覚えてからの相対的な甘え
める愛」の原体験を感じさせ》る *3
とがあ》*1 るとして、土居と大略同
とする (いささか余談ながら、イエ
じような見解が示されている。もっ
スが神を「アッバ」と呼ぶことをわ
とも「甘え」を上記のように二種類
れわれに対して許されたことはよく
に分類する理解の仕方は本来土居の
知られているが、そのアッバもまた a
よしとするところではなかったよう
音で始まることは大変興味深いもの
だが、ここでは議論をよりわかりや
がある)。したがって、「甘え」は口
すくするために、前者の甘えを「よ
唇期(0 ~1歳半)における乳児の
り無意識的で根源的な甘え」とし、
安心感を意味していると解釈するこ
後者の甘えを「より派生的な甘え」
とができる。口唇期(時に口愛期と
としてこれを理解したいと考えてい
も表記されることもあるようだ)に
る (われわれが甘えを否定的に捉え
おける発達課題は、先に人間の成長
る場合のそれは後者のそれであると
にとって一番基本的な発達段階とし
言える。またこの意味の甘えにして
て指摘したエリクソンの「基本的信
も、当人にとってもともと甘えが無
頼」に時期的にも一致する。人間が
自覚なるがゆえにさまざまな派生的
生まれて最初の約二年間、特にこの
*1 北山修、前掲書、p.29 下段~p.30 上段.
*2 土居『続「甘え」の構造』、p.65.
*3 北山修、前掲書、p.28 下段~p.29 上段.
- 58 -
*2
とするが、その意
時期における(授乳に代表される)
ということになる。いや、そればかりか、
母子関係は乳幼児にとってとても重
そのような事象は欧米人にはこれを理解す
要な意味を持っている。それだから、
ることすら不可能かもしれない。少なくと
乳幼児にとって十分に親に甘えられ
も欧米社会においては、甘えないしそれに
る体験というものは、その子どもの
類する感情体験の重要性は近年に至るまで
成長にとって極めて大切な体験なの
特に指摘されてこなかったのである。
である。(ここで少し補足的な説明を
そんなわけで、このような日本人にはご
加えておこう。上記の乳幼児期にお
く当たり前な「甘え」という感覚も、欧米
ける母子関係の重要さに関する指摘
人にとってはただの「依存」(しかも悪い
を見て、それが「甘え」と密接な関
意味)としか捉えられなかったとしても仕
係があることは誰の目にも明らかで
方がないであろう。そのため、彼らが「甘
あろう。そして、そのことから欧米
え」を連想させる愛の神の概念を無意識の
社会にも言葉は存在しなくても「甘
うちに排斥していたとしても、文化的な限
え」の体験があることに変わりはな
界としては仕方がなかった面もあるのでは
いのではないかと思われる人も多い
ないか。かくして、「甘え」の感覚すら持
に違いない。それはたしかにそのと
たず、甘えを「依存」として排除してきた
おりなのだが、ここで注意しなけれ
ヨーロッパ人にして初めて近代的な個人主
ばないことがある。それは、乳幼児
義のイデオロギーを生み出しえたのだと解
期による母子関係の重要さが精神医
釈することもできよう。そして、「近代の
学や教育心理学等の分野で特に強調
宗教」とも言われるプロテスタンティズム
されるようになったのは、実は 20 世
が個人主義的傾向を強く持つ理由のひとつ
紀に入ってから以降のことだという
がここにあると言うこともできるであろ
ことである。ここではこれ以上詳し
う。そういった観点から見ると、カルヴァ
くは述べないでおくが、それ以前の
ンに代表されるプロテスタントの論者が、
欧米社会において、子どもは長く「(肉
依存の要素を多く含む従来の信仰と一線を
体的かつ知的に)小さな大人」とし
画し、成熟した正しい信仰の在り方の重要
て捉えられており、肉体面・知識面
な要素として神に対する「厳しい怖れ」を
以外では基本的に大人と同様に扱わ
より強調するのはそれなりに納得のゆくも
れてきたということである。したが
のもあるわけである。
って乳幼児期の発達課題などそこで
はほとんど配慮されずにきたし、そ
ここで、ついでながら簡単に注記してお
れで十分に間に合ってもきたのであ
きたいことがある。それは、ここで言う「依
る。)
存」は厳密には「甘え」と捉えるべきであ
ろう、ということだ。また従来の信仰とは、
聖人崇敬や告解による赦しなどさまざまな
さて、上で指摘した言葉と文化に関する
秘蹟を用意して信者の心を慰撫してきたカ
議論を踏まえて言えば、土居が指摘するよ
トリック教会における信仰がそれに相当す
うに欧米社会に「甘え」に対応する言葉が
るとわたしは見ているのだが、彼らの目か
存在しないとすれば、日本人がいだく甘え
らすれば、それは否定されるべき依存ない
の感覚そのものが欧米社会には存在しない
し甘えに相当する信仰であったに違いな
- 59 -
い。いや、彼らにとってそれは不信心です
できるだろう。実際このような学
らあったであろう。彼らにとって神に甘え
説が生まれたのも、欧米社会に甘
ることなどは、まさに神に対する馴れ馴れ
えに相当する言葉(概念)が存在
しい態度であり、神の権威を蔑ろにする許
しないがゆえではないかといった
されざる不敬虔な行為だったに違いないの
ことを土居も『続「甘え」の構造』
だ。
の中で述べている 。
*3
ちなみに土居は、甘えに否定的になりつ
もっともメラニー・クラインの
つある近年の日本において、欧米同様「自
学説についてはわたしもよく知ら
立」と「平等」が強調されるようになった
ないので、ここであまり詳しくは
*1
こととそれに伴う弊害を指摘している 。
解説しない。ただ彼女によれば、
もっとも欧米人が「自立」を強調するのは
すでに乳児の段階で、子どもは母
*2
かなり後世のことらしいが 、その萌芽は
親ないし母親的対象に対して感謝
すでに中世の頃から根強くあったと考えら
や愛情も当然いだくが、その反面、
れる。そんなわけで、依存を連想させる甘
その根底において相当強い羨望と
えが峻拒されても文化的には仕方がなかっ
破壊的な衝動をも併せ持っている
たのだと見ることもできるのではないかと
とする。その仮説の是非はさてお
わたしは見ているのである〔補説 4-2〕。
き、すでに乳児期の段階でそれほ
どの敵意を母親や世界に対してい
補説 4-2:甘えの概念を持たない
だくとするクラインに代表される
文化に生じる問題点
精神分析学説は、やはり子どもが
多少余談ながら、欧米社会に甘
親に対して甘えることを当たり前
えに相当する概念がないことから
と見る文化のものではないと言う
くる弊害というか、その影響につ
ことができる。このような激しい
いて、ここで参考までに触れてお
感情を乳幼児の中にすら認める見
くことにする。
解は、だから、「甘え」の概念が存
在せず、世界ないし人間関係を対
甘えを峻拒すると言った場合の
立的に見るような世界観を発展さ
特徴的な例として、たとえば奇矯
せてきた文化だからこそ生まれて
かつ難解で、おどろおどろしい印
きた見解だと解釈することもでき
象が強いメラニー・クラインのよ
るだろう。そのような世界観が一
うな精神分析学説を挙げることが
方では神と人間との関係に投影さ
*1『聖書と「甘え」』PHP 新書、1997 年 11 月、p.58 ~ 59、また、『甘え・病い・信仰―第 3
回長崎純心レクチャーズ―』創文社、2001 年 3 月、p.22 ~ 23.
*2「天は自ら助くる者を助く」といった有名な格言にしても、これが強調されるようになった
のは 17 世紀以降のことだという。ただし、古代ローマ世界ではこのような標語を見ることも
できるのだが、西洋中世世界においてこのような主張が特に為されたことはほとんどないとい
う。
*3 土居『続「甘え」の構造』p.103 ~ 5.
- 60 -
れたとしても何ら不思議ではない
ドである。ただし、リビドーを必ず
ので、そこから神に対する過剰な
しも性的なもののみに限定せず、そ
怖れを強調する教義が育まれてき
れらを含む生存欲求そのものと見る
た可能性も高いのではないだろう
こともできる) の概念の中にすで
か。もとより厳密に言えば、これ
にその根拠があったと言ってよい
はどちらが先だと言える事柄では
だろう。いささか乱暴ながら、簡
なく、相互的かつ相補的な関係〔注
単に言えばフロイトの学説は、社
4-3〕 で発展してきた価値観=世界
会生活を正常に送るためにはエス
観であり、また神学観であると言
の欲求をそのまま外に表わすこと
える。すなわち、世俗的な価値観=
ができないがゆえに、抑圧に伴う
世 界観 が神 学的 な世界観 =信 仰観
さまざまな神経症の症状が現われ
に影響し、 その神学的な世界観=
るとするものである。これは、「人
信 仰観 がま た世 俗的な価 値観=世
間は人間に対して狼」であって、
界観に影響を与える、そのような
自然状態のままでは「万人の万人
相互的かつ相補的な関係がそこに
に対する闘い」をもたらすだけだ
認められるのである。こうして、
とした 17 世紀の政治哲学者トマス
神と人間とが厳しく対立するよう
・ホッブスの思想と相通じるもの
な(それは当然ながら自然と人間
がある。このような見解は、卑俗
との間にも投影される)世界観ま
な表現を使えば「性悪説」的な人
た信仰観が生まれたのではないか。
間観だと見ることができる。要す
そして、それが時代が下るにつれ
るに人間の本質はホッブスやフロ
てその傾向がますます強くなって
イトに従えば邪悪なものだという
いったのではないだろうか。わた
ことになるわけだが、この見解は
しはこのように見ているのである
期せずしてキリスト教の原罪説と
(そこには先に指摘した先鋭化の
相通じるものがあると言える (も
ダイナミズム
動
きが働いていると見ることが
ちろんわたしは、イエスの教えすな
できよう)。そのような神と人間と
わち福音はそのような性悪説的な人
が厳しく対立する世界観を育んで
間観とは相容れないものだと信じて
きた文化だからこそ、対象との関
いる。言うまでもなく、それは性善
係において他者との対立を強調す
説とか性悪説などといった観点では
る、たとえば母子が厳しく対立す
そもそも括れないものなのである)。
るようなクラインに代表される学
それに加え、クラインのように対
説になって現われたと見ることも
象との関係において他者(この場
できるのである。
合は母親)との対立を強調する見
解もまた、キリスト教における神
いささか余談にわたるが、クラ
と人間の関係が投影されたものだ
インの学説は、灼熱の生存欲求で
と見ることもできるかもしれない。
あるフロイトのリビドー (この性
あるいは逆に、これは個人と個人、
的なエネルギーが蓄積された無意識
ないし個人と世界が対立するよう
の一番基層的な部分がエスないしイ
な西 欧的 な世 界観=人間 観がキ リ
- 61 -
ス ト教 の人 間観 =世 界観に 影響を
一動作)によるものではない、とい
与えたのだと見ることも可能であ
うことを意味している。また相互に
る〔注 4-3〕。
影響関係があると言った場合でも、
それは双方向にそれぞれ個別的なス
注 4-3: ここで注意してほしいこと
トロークがたまたま同時に行なわた
は、ここでは簡単な指摘にとどめる
ということではないのである。この
が、これらの影響関係は、そのどち
辺の事柄はなかなかうまく表現でき
らかが先だと言えるような因果律的
ないのだが、これは必ず同時に起こ
ストローク
な一方向的な関 係ではなく、相互的
る種類の相互的な関係を言っている
かつ相補的な関係における影響であ
のだと言えばよいであろうか。わた
るということである。当然ながら西
しが「相互的」とか「相補的」と言
欧文化はキリスト教の影響だけで形
った場合は、そのような同時的かつ
成されたわけではなく、キリスト教
共時的な非ストローク的な関係(大
もまた西欧文化の影響だけで形成さ
体において「関係」ということ自体
れたものでもない。しかもそれは、
がストロークという概念にそもそも
片方に純粋なキリスト教があり、も
馴染まないのである)を念頭におい
う片方に純粋な西欧文化があって、
ているのだということを遅ればせな
それらが相互かつ個別的に影響を与
がらここで指摘しておきたい。なお、
え合ったということでもない。これ
以上はどうも舌足らずな感じが抜け
は、たとえばAからBに対する影響
きらない説明であったので、後日考
と言った場合も、それは〔A→B〕
えを整理してきちんと書いておきた
という一方的なストローク(一行程、
いと思っている。
- 62 -
近代化と個人主義がもたらす神への怖れ
先に畏怖と怖れについて論じた頁の注記
れに伴って生まれた個人主義が神に対する
において簡単に触れたように、わたしは「近
過剰な怖れを必然的にもたらした可能性も
代のあけぼの」と言われるルネサンス期の
あるのではないかと考えているからであ
末期に宗教改革が起こったということはと
る。本頁においては、このような観点から
ても重要だと考えている。結論を多少先取
プロテスタント革命を捉えてみたいと思
りして言えば、わたしは、その近代化とそ
う。
1:世俗化した現代社会と宗教
(1-1)近代西欧世界の世俗化とそれが宗教信仰に与えた影響
多少ステレオタイプな言い方ながら、18
柄にその中心的な座を次第に明け渡すこと
世紀の啓蒙思想以来、人類は次第に宗教的
になる。これらの変化を一般に「世俗化」
ないし霊的な感性を失っていった。そして、
と言うのだが、これを分かりやすく言えば、
人類が自然に対する畏敬の念を忘れるのと
人びとの信仰の対象が神から 金 すなわち
引き換えに、科学、特に自然科学を絶対視
経済に移ったということである。このよう
する立場が多くの人たちの心を捉えること
にして、近代科学とそこから生み出された
になる。それまでのように単純に宗教を信
科学技術、そして産業革命を経て今も発達
じることができなくなった近代人は、その
し続ける経済優先主義(市場原理主義や新
代わりとして科学を宗教に変わって信奉す
自由主義はその最たるものと言える)は、
るようになるのだが、これがいわゆる科学
陰に陽に人びとの生活に影響を与えて現代
信仰、技術信仰という態度である。かくて
に至っている。前にも述べたように 、か
この時代を境にして、人間は自分たち人類
くして自然に対する畏敬の念を忘れた人類
の力を過信し、ここに悪い意味の人間中心
は、次第に霊的な感性を忘れ、過去の時代
主義がはびこることになった。そのような
と比べてより動物的とも言える状態に陥っ
風潮の中、信仰は経済その他この世的な事
てゆくことになった*2。
マンモン
*1
(1-2)産業革命とそれが近代世界に与えた影響
よく知られているように 18 世紀にはイ
界の工業化ないし産業化として、産業革命
ギリスで最初の産業革命が起こっている
は今もその発展の途上にある。産業革命に
が、それはイギリス一国にとどまらず、世
よる変化はそれ以後、世界中の人びとに明
*1「畏怖と怖れ」中の「驚きの感覚を忘れた現代人」の議論を参照。
*2 ヴァン・デン・ベルク『現象学の発見―歴史的現象学からの展望』立教大学早坂研究室
訳、川島書店・1988 年 2 月、特に「第三章 現代と宗教―その現象学」を参照。
- 63 -
暗さまざまな影響を与え続けて今日に至っ
いはそれと相俟って、ヨーロッパにおいて
ている。それは近代の完成をも意味してい
初めて青年期が生まれた理由である。要す
ると言えよう。しかも大変興味深いことに
るに青年期とは、社会がつくった「待合室」
は、この産業革命の時期と相前後して青年
としての執行猶予の期間なのである。ちな
期が生まれたということである。また、人
みに、ルソーは青年期を半年から1年程度
はこの時代以降初めて神経症で苦しむこと
の期間と見ていたらしいが、これは現代で
になったという事実もなかなか興味深いも
は信じられない見解であろう *2。辞典など
のがある 〔詳しくは後述〕。これらの問題
にも見るとおり、現代では、青年期とは、
については、本頁の論点からはいささか外
人間の 14、5 歳から 24、5 歳頃までの、性
れる議論ながら大変興味深く重要な論点な
的特徴が顕著となり、自我意識が著しく発
ので、参考までに以下でなるべく詳しく論
達する約 10 年ほどの時期とされ、あるい
じておくことにする。
は最近は 30 歳前後までの期間とされるこ
モラトリアム
とも多くなった。実際『モラトリアム人間
の時代』*3 などにも見るように、青年期お
捕論1:近代以前には存在しなかった
青年期とその特徴
よびそれに準じる時期は、時代が進むに連
前項でも紹介したヴァン・デン・ベルク
*1
の『現象学の発見』によると 、青年期は
れてさらに延びてきているのが実情であ
る。
ルソーの『エミール』(1762)以後ヨーロ
ッパにおいて初めて生まれた概念である可
これは前項の注記において論じた議論と
能性が高いという。著者によると、産業革
も関係するが、青年期はヨーロッパ近代以
命によってそれまでの生活環境が大きく変
前の原始的な民族にも存在すると見る人も
わり、子どもは従来のようにそのまま大人
いるようだ。その証拠にアイデンティティ
の世界に入ってゆけなくなった。そのため、
ー論で有名なエリクソンなども、アメリカ
産業革命によって大きく変貌した大人社会
・インディアン二部族をフィールドワーク
に子どもがすんなりと適応するための準備
した結果も踏まえて、原始的な民族にも青
期間ないし教育期間が必要となる。これが
近代以降、教育制度の確立とともに、ある
*1 ヴァン・デン・ベルク、前掲書、第八章「青年期の歴史的相対性―十八世紀~現代、子
どもと化した大人―」、立教大学早坂研究室訳、川島書店・1988 年 2 月、参照。
*2 原始的な社会においては、子どもから大人への移行は「通過儀礼」によって一気に行なわ
れることが知られているが、その期間は数日程度のものが大半であるという。ルソーの青年期
が半年程度とされているのは、当時の青年期がまだいわゆる通過儀礼によって乗り越えられる
程度のものと認識されていた可能性が高いと見ることができるかもしれない。ここで言う通過
儀礼は、それまでとは違った存在として再び共同体の中に生まれ変わる「再生儀式」としての
それを意味しているが、これが古代ないし原始的な民族における青年期の役割を果たしていた
ことは明らかであろう。しかも当時は、子どもは原則一回の儀式で直ぐに大人社会に参与する
ことができたのである。
*3 小此木敬吾、中公叢書・1978 年、中公文庫・1981 年.
- 64 -
年期が存在すると考えているようだ *1。こ
じるようになったのと同様、あるいは江戸
れなどは上記の議論とは正反対の立場だと
時代に存在した疝気という病がその時代特
言えるが、これに関して言えば、コロンブ
有の身体観(世界観)が消失すると同時に
スやコルテスの時代ならばともかく、彼ら
消失したのと同じく、神経症にしても、神
が現代アメリカの「居留地」に生活してい
経症という言葉がなければ―あるいは発
ることを無視することはできないだろう。
見されなければ―その病気自体がその人
フィールドワーク的な研究によっては、類
たちの世界には存在しなかったということ
推は許されても、コロンブスによる新大陸
になるわけである*3。
せん き
発見以前のアメリカ・インディアンの心性
に関して純粋な形での比較ないし記述自体
これも上記注記において取り上げた議論
がすでに不可能となっていることをわれわ
と関連するが、産業革命以前に神経症的な
れは忘れてはならない。たしかにその文化
症状が皆無だったと断定できるかどうかに
特有の性格形成は現在においても当然残っ
ついては、わたしも多少疑問をいだいてい
ているだろうが、しかし、彼らは現代に特
る。たしかに青年期に関しては産業革命以
有の変化も受けている存在でもある。われ
前には厳密には存在しなかったであろう。
われはそのような存在として彼らを見なけ
けれども、神経症的な症状に関しては例外
ればならないのである。
もあったのではないかと思う。
ここでは精神病的な疾患と神経症はいち
捕論2:産業革命に伴う神経症および
おう区別して論じているが、やはり当時も
精神疾患の意味の変化
一部の人たちは心を病んだであろうし、事
これも同じく前掲の『現象学の発見』の
*2
実メランコリーなどは古代ギリシア・ロー
指摘によるのだが 、それによると、哲学
マ時代からその存在を知られていた。その
者のヒュームを治療したチェインという医
ような神経症的ないし精神病的な症状の多
者が 1733 年に初めて神経症に関する本を
くは、当時においては祟りや神がかりとい
書いているという。しかもこの 1733 年と
った霊的な観点から解釈され処理されたこ
いう年は、実は産業革命の最初の機械が発
とも多かったに違いない。それらの症状を
明された年でもあるという。要するにこの
患う人は、時に憑きものとして怖れられ、
時代に初めて神経症に関する本が書かれた
あるいは忌避される一方で、時に共同体を
ということは、神経症は産業革命以後の生
導くシャーマンとして畏怖されもした。そ
活の変化に合わせて現われた疾病だという
のような人たちは、時代に先立って、心を
ことになる。前項で述べたこととも関連す
病むという形で共同体に対して何かを伝え
るが、このことは、近代以前には神経症と
る、あるいは何かを実現する徴候的な人た
いう病気がそもそも存在しなかったという
ちだったのだと考えられる。彼らは時に時
ことを意味している。すなわち、ストレス
代を動かす預言者的な働きをも為した、真
学説の登場によって現代人がストレスを感
に偉人と呼ぶに相応しい人たちだったので
*1『幼児期と社会』全 2 巻、仁科弥生訳、みすず書房・1977 年 5 月-1980 年 3 月、第 1 巻
*2 ヴァン・デン・ベルク、前掲書、p.64 ~ 65.及びp.179 ~ 181 参照。
*3 ヴァン・デン・ベルク、前掲書、p.180 参照。
- 65 -
ある〔注 4-4〕。それは現代でも変わらない
いてエリクソンは、ルターによるロ
だろうと個人的には思っているが、それと
ーマ教会への反抗とそれに伴う宗教
は別の意味で、現代においては精神的な疾
改革運動を、ルターによる青年期特
患を単に個人的な疾患として患う人が多く
有のアイデンティティー・クライシ
なったのだと見ることができる。そういっ
スとその克服の問題として考察して
た意味合いで、現代人のように単なる疾病
いる。ただ、先にも指摘したように
として個人的に神経症を患う人は産業革命
青年期そのものは産業革命以前には
以前にはほとんど存在しなかったのだとい
存在しなかった概念である。それに
うのならば、上記の見解はわたしにも了解
対してエリクソンは青年期の存在を
できる視点である。このように精神病ない
明確に認めている。これに関して言
し神経症の意味が近代以前と現代とでは大
えば、当時はたしかに一般的には青
きく変貌しているのであって、特に神経症
年期は存在しなかったものの、青年
と言った場合は、そのような個人的な疾患
期に特有の発達課題およびその心理=
を意味する時に使うのが適切であるように
社会的な危機は、洋の東西を問わず
思われる。いずれにせよ、神経症や青年期
今も昔も存在していたと見るべきだ
といったものが産業革命とほぼ時期を同じ
ろう。ただし、そのような問題を自
くして生まれているという事実は無視でき
らの実存的な課題として患うような
*1
ないものがあると言えるのだ 。
個人は、それこそ時代に先立つ徴候
的な人物として、時代に選ばれた個
注 4-4:エリクソンは、このような時
人に限られていたということなのだ
代を動かす“定め”を負った徴候的
ろうとわたしは考えている。ちなみ
な偉人や天才の例として、特にルタ
に西洋型の個人主義が生まれた時期
ーの青年期の問題を取り上げて論じ
を宗教改革の前後と仮定すると、そ
ている。これも大変興味深い研究な
して、エリクソンが言うように若き
のだが、残念ながらここで詳しく取
ルターが格闘した課題およびその病
り上げている余裕がないので、興味
理が青年期特有の問題と通じるとし
*2
のある向きは彼の『青年ルター』 を
たら、ルターのそれはその先触れだ
直接参照していただきたい。ここで
ったと見て差し支えないであろう 。
は本頁の議論に関わる最小限のコメ
すなわち、近代的個人が現代におい
ントだけをしておきたい。本書にお
て患う病理や苦悩をルターその人が
*3
*1 ここでは精神病的な疾患の意味を洋の東西を問わぬ形で論じたが、中世ヨーロッパ世界に
限定して言えば、精神病を患う人は多く魔女ないし悪魔に魅入られた者として怖れられ排除さ
れたであろうことを忘れてはならない。ルターにしても、時と場合によっては、その先行者と
同じく、異端者として、あるいは悪魔に魅入られた者として処刑台の上に消えていった可能性
も否定できない。このことに関しては、洋の東西を問わず、また宗教の違い等を越えて、異質
なものの「排除の思想」として後日詳しく取り上げて論じたいと考えている。
*2 全 2 巻、西平直訳、みすず書房、2002 年 8 月-2003 年 10 月.
*3 後述「プロテスタンティズムと個人主義」の項を参照。
- 66 -
われわれ現代人に先んじて苦悩した
のである。その意味で彼は時代に選
産業革命とは、1733 年にジョン・ケイ
ばれた人物だったのだと言えよう。
によってイギリスで産業革命の最初の機械
が発明されたことに端を発し、さらに 1771
近代化とそれに伴う人間の運命
年になってリチャード・アークライトが水
以上、補足的な論点も含めいろいろと述
力紡績機を開発してこれをさらに前進させ
べてきたが、このように産業革命とそれが
たことに由来する産業生産に関わる一連の
与えた影響はその後の世界の「運命」〔注
革命的な変化である。このことからもわか
4-5〕 を決定したと言っても決して過言で
るように、産業革命が効率的な産業機械の
はない。
発明に負っていることは極めて重要であ
る。すなわち、産業革命において機械のパ
注 4-5: ロシア出身の亡命思想家、
ラダイムが初めてヨーロッパに出現したの
N.A.ベルジャーエフの著書『現代世
であり、それはヨーロッパという地域的限
*1
界における人間の運命』 より借用。
定を越えて、工業化ないし産業化の波とし
訳者後書きによると、ロシア語で運
て世界中に広がっていった *2。それは近代
命を意味するスジバ(sud'ba、суд
化の波でもあった。現代人は今もこの機械
ьба)という語は元々「(天の)裁
のパラダイムの影響下に生きている。こう
き」という意味を含んだ語であると
してさまざまな機械や発達した官僚組織
いう。本論考においても、これは極
(その官僚組織も機械化に伴う産業の発達
めて重要な観点である。運命と言え
が導き出したという側面が強い)の中にお
ばギリシア神話におけるモイラを連
いて、人はマックス・ウェーバーの言う《鉄
想する方が多いと思うが、この「裁
の檻》
き」としての運命の問題は、いずれ
しむことになった。「マクドナルド化する
「神の裁きの下にある現代世界」と
社会」
でもいったテーマで取り上げて考察
おり、現代はまさに管理化された社会、い
してみたいテーマである。
や、ますます管理化されつつある社会なの
*3
*4
の中でその人間性を疎外されて苦
などという表現にも象徴されると
である。現代人は実にそのようなオートメ
*1 野口啓裕訳、社会思想社、現代教養文庫 155、1957 年 5 月初版,1974 年 6 月初版第 27 刷.
*2 これもまた大変味深いことに、産業革命が起こる前までは教会の建築様式の変化とともに
ヨーロッパ世界におけるパラダイムの変化が起こっていたものが、それ以降そのような教会建
築上の大きな変化と共時的なパラダイム上の変化は起こらなくなったという*1。それは機械の
出現による産業形態の変化(機械のパラダイム)が世界中に伝播したこととも関連していると
思うが、それではなぜ機械のパラダイムの出現が世界規模の変化に繫がったのかについては残
念ながらわたしにはわからない。
*3 マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、大塚
久雄訳、1989 年 1 月.
*4 ジョージ・リッツア『マクドナルド化する社会』正岡寛司監訳、早稲田大学出版部、1999
年 5 月.
- 67 -
ーション化されつつある社会の中で生きて
代科学および近代化を準備したのは、実は
いるのであって、これは現代に生きるわれ
遠く 14 世紀から 16 世紀のルネサンス期に
われの逃れられぬ「定め」〔注 4-6 参照〕な
起こった一連の「変化」であった。いささ
のかもしれない。
か教科書的表現ながら、ルネサンスは「近
代のあけぼの」と言われるが、その変化の
最後に―近代化の要因は何か?―
中に当然ながらプロテスタント革命も含ま
それでは、それらの近代化の変化の直接
的な要因は一体何だったのであろうか?
れている *1。先にも述べたように、そのル
ネサンス期の末期に宗教改革が起こったと
上で見てきたように、その直接的な原因
いうことはとても重要な意味があるとわた
は 18 世紀の一連の変化に求めることがで
しは捉えている。要するにわたしは、近代
きる。しかしながら、そのような近代の技
化とそれに伴って生まれた個人主義が神へ
術文明を準備した近代科学そのものは、実
の怖れを必然的にもたらした可能性もある
はさらにその前、17 世紀にはすでにその
のではないかという観点からプロテスタン
芽を出し、続いて科学技術の発達によって
ト革命を捉えたいと考えているのである。
近代化が始まったとされる。しかもその近
2:近代の宗教としての特徴と限界
わたしは上でプロテスタント教会を近代
なる。たしかにそれらの呼称は必ずしも間
の宗教だとする表現を用いたが、この表現
違いではないが、これは正確には「古代な
はあまりポピュラーではないかもしれな
いし中世の要素を現代にまで伝えている教
い。この表現はカトリック教会が時に「中
会」という意味だと捉える必要がある。ペ
世の宗教」と言われることに刺激されて用
テロの教会と言われるカトリック教会に対
いた面もある。だとすれば、この表現は近
してパウロの教会を名乗るプロテスタント
世ないし近代初期に宗教改革が起こったと
教会も、実はその意味で近代化の要素の強
いうことを単に意味しているにすぎないと
い宗教であるということなのである。(つ
も捉えられるかもしれない。しかしながら、
いでながら、ここで誤解のないよう書いて
それは単なる「時代区分」だけでそう呼ば
おくが、わたしはカトリック教会の方が問
れるべきものではない。もしも単なる発祥
題が少ないとか、東方正教会の方がよいな
および活躍した時代でもって教会をこのよ
どと間違っても言いたいわけではない。そ
うな時代区分で呼ぶとすれば、今度は、東
れらの信仰に参考にするべき、あるいは見
方正教会は古代の、カトリック教会は中世
習うべき点はいくらでもあるだろうが、こ
の宗教である(でしかない)ということに
こではそういうことを言いたいわけでもな
*1 時代を截然と分かつブルクハルト流のルネサンス観は、近年では多くの研究者によってほ
ぼ否定されているが、本論の範疇を越えるため、ここではその辺の議論には深入りしない。た
だ、理念系としての時代区分としてはその視点の有効性はまだあると思われるので、本頁では
ブルクハルト流のルネサンス観に大枠では従う形を取った。
- 68 -
い。わたしが言いたいのは、プロテスタン
徴や限界をそのうちに持っている宗教であ
トにしてもカトリックにしても、あるいは
る(もちろんお互いにそれぞれ長所も併せ
東方正教会にしても、そのそれぞれがお互
持っているのであって、われわれはそのこ
いに可能性と限界を持った信仰形態である
とを失念してはならない)。プロテスタン
ということである。先に述べたとおり完全
ト教会もまた、大自然や超越者に対する畏
な教会はこの世においてはありえないのだ
敬の念を忘れた現代文明を準備した近代化
から、これは当然の論理的帰結と言うべき
の過程で、ひいてはそのような社会の中で
であろう。)
花開いた宗教であることに変わりはない
(もっともその必然性がどの程度であった
かとなると、そこに神の意志がどの程度働
神を否定し、自然への畏敬をも忘れ、現
いていたかも含め、それは未知数であると
代人をその人間性において疎外している近
しか言いようがない)。だとすれば現代社
代文明の風潮に対して、当然ながらプロテ
会が抱える問題をプロテスタント教会も抱
スタンティズムは批判的立場を取り、さま
えていておかしくないはずである。プロテ
ざまなリバイバルを行なってその信仰を守
スタンティズムとは、―近代化がもたら
ろうとしてきた。それは紛れもない事実で
すさまざまな事柄に対して、たとえ保守派
ある。しかしその反面、当のプロテスタン
のクリスチャンたちがいくら(意識の上で)
ティズムは、やはり近世ないし近代の宗教
否定的な態度を取ろうとも、―やはりそ
としてその限界を強く持つ宗教であるとい
の胎内に近代化に伴う欠陥を孕んだ、そこ
うということもまた免れることができない
から逃れることのできない信仰形態なので
現実なのである。
ある。したがって近年の聖書根本主義も聖
したがって、プロテスタント教会が―
霊主義もまた、近代化に伴う同様の限界性
古来から、そして現に―いくら近代化に
をうちに孕んだ宗教であることに変わりは
対して否定的な立場にあったとしても、そ
ないということになる (ただし、近代化に
れだけをもって近代化の運命(ベルジャー
伴うさまざまな問題がいくら教会および信
エフ)からプロテスタント教会が自由であ
仰の足枷になっていようとも、この世の国
ると見ることはできない。大体において、
ではない 〔ヨハネ18:36〕 神の国の原理に
人間がつくる組織で、その組織が属する社
生きることを旨とする教会が、これら近代
会の動きから完全に自由な組織はそもそも
化に伴うさまざまな問題にコミットし続け
存在しない。それは教会とても例外ではな
ることの意義は、もちろんいつの時代も変
い。カトリック教会が当時の中世世界に伴
わらずにある教会のアイデンティティーで
う欠点をその胎内に持っていたように、プ
あるはずだと思う)。
ロテスタント教会もまたその時代特有の特
3:プロテスタンティズムとヒューマニズムの対立
近世ないし近代の宗教と言われるプロテ
実際はルネサンスとそれに伴うヒューマニ
スタント教会は、よく知られているように
ズムを強く否定したが、その代表的事例が
- 69 -
ルターとエラスムスによる自由意思をめぐ
義が奉じる「創造論(ないしは創造
る論争であった〔注 4-6〕。そのことも手伝
科学)」の対立もこの文脈で見るべき
って、プロテスタンティズムは以後も自由
だろう。わたしにはこの問題につい
意思論(エラスムス)に代表される近代的
て詳しく論じる素養はあまりないの
ヒューマニズムを否定し、これと対決する
だが、単なる宗教と科学の対立とし
ことになる〔注 4-7〕。
てよりも、これもひとえに古プロテ
スタント時代の福音主義(プロテスタ
注 4-6:ルターは、エラスムスの『評
ント発祥当時はプロテスタントの運動
論 自由意思』に対して『奴隷意思論』
は「福音主義」の名で呼ばれていた)
を著わして激しくこれを反駁した。
とヒューマニズムとの対決を根深い
しかし、ここで『奴隷意思論』とい
ところで引き継いでいる争点なのだ
う表題が『自由意思論』に対する「皮
と見ることもできる。古プロテスタ
肉」として付けられたものだったと
ンティズムと聖書根本主義の両者は、
しても、 自由 意思の反対が 奴隷 意思
ここにおいて同一の動機による近代
であるということは、やはり単なる
化ないしそれに伴う人間中心主義の
アイロニーを超えて極めて重要な論
否定にその意義を見出していること
点となる。たとえばフロムも言うよ
になる。
うに、ルターに代表される宗教改革
*1
者の権威主義的な性向 がこのタイト
なおいささか余談ながら、人間の自由意
ルにおいても非常によく現われてい
思をほぼ完全に否定し、その意思を奴隷意
ると見ることもできるだろう(ただ、
思に他ならないとしたルターの神学的発
フロムの分析にも一部に無理があるよ
展、そのような保守的なプロテスタンティ
うに感じるし、いずれにせよこの問題
ズムの神学がカルヴィニズム的な人間否定
は本頁の範疇を超える議論であるため、
の神学を胚胎させるのも故なきとしないの
これ以上は論じないでおく)。
ではないか 。つまり、それら近代化およ
*2
び人間中心主義に対する否定の重要な要素
注 4-7:一部で見るように、近代科学
として神に対する怖れの強調があったので
を代表する「進化論」と聖書根本主
はないかとわたしは見ているわけだが、こ
*1 フロム『自由からの逃走』「第三章 宗教改革時代の自由」および『精神分析と宗教』「III
宗教体験のある種の型の分析」を参照。
*2 これについてはいずれ詳しく書く予定なので、ここでは簡単な説明にとどめる。カルヴァ
ンの思想(カルヴァンの代表的思想と言うと一般的に「二重予定説」だとされているが、厳密には
彼の根本思想は「神中心主義」だと捉えるべきである) についてある程度知った上でルターの
『奴隷意志論』(ルターの「隠れたる神」の神学が詳しく展開された主著としては本書が有名であ
る)を見ると、カルヴァンの思想がルターの「隠れたる神」の神学をそのまま発展させ先鋭化
させたものであることがよくわかる。なお、カルヴァンの思想はその死後も後継者たちの手に
よって発展し、ドルト信仰基準(1619)などを経て、彼の死後 80 年ほど後のウェストミンス
ター信仰告白(1647)によって現代見られるような形でいちおうの完成を見た。
- 70 -
れについては今後書く予定の文章で詳論す
が叫ばれる理由もおそらくそこにあると言
る予定である。そんなわけで、リバイバル
えるのではないかと、わたしはこのように
が起こると、大概はその傾向の、すなわち
見ているのである。
人間性否定に傾いたキリスト教の「再生」
4:プロテスタンティズムと個人主義
次にプロテスタンティズムの近代的性格
て一人で神の前に立たねばならなくなっ
*2
は、それが個人主義と切っても切れない関
た」
という宗教的=心理的体験を意味し
係にある宗教であるということに特に現わ
ている。
れている (この問題はいずれ詳しく論述す
べきテーマだろうから、ここではできるだ
プロテスタント革命以後は、それまでの
け簡単に説明する)。もっとも個人主義が
カトリック教会のように、告解その他の秘
ヨーロッパにおいていつごろ発生したかは
蹟などによって教会が神との間を仲立ちし
諸説あろうが、わたしは大雑把ながらプロ
てはくれることはなくなった。つまりプロ
テスタント革命の前後に個人主義の発祥を
テスタント革命以後、クリスチャンは神の
みたいと考えている (哲学の分野で言えば
怒りの前に一人でさらされることになっ
個人主義的な哲学の祖としてデカルトを第
た。プロテスタントの著述家なり説教者が
一に挙げることができるが、そのデカルト
神への怖れを強調しようがしまいが、それ
はルターやカルヴァンより約1世紀ほど後
とは直接関係なく、ここに神への強烈な怖
の人物である。したがって、哲学的に洗練
れが個人的にもキリスト教信者を襲ったと
される前の個人主義はやはりこの時代あた
しても決して不思議ではあるまい。
りに求めても差し支えないのではないかと
もとよりカトリック教会でも神に対する
思う。ここでは詳論しないが、ルターはま
怖れは教えたであろう。あるいは若き日の
さにその意味で近代的な思考および感覚を
ルターのように、信者が個人的に過剰に神
代表する象徴的ないし徴候的〔注 4-4 参照〕
を怖れたこともあったであろう。しかしな
*1
な人物だったと言ってよいであろう )。
がら従来カトリック教会などの古典的な教
会では、聖人崇敬や告解その他さまざまな
秘蹟を含む「抜け道」が用意されており、
プロテスタンティズムの個人主義的な特
伝統的にそれらが信者に安心感を与えてき
徴はルターの「万人司祭説」によく表われ
た。そのため、プロテスタント革命以前は、
ている。それは簡単に言えば、「人はすべ
教会が与えるさまざまな秘蹟などの援けに
*1 半田元夫,今野國雄『キリスト教史 II』世界宗教史叢書 2、山川出版社、1977 年 4 月、p.38
参照。
*2 西洋的=キリスト教的個人主義は、その後、世俗的な意味における個人主義としても発展す
るが、その一方で哲学的・神学的には、後の実存主義、特にキルケゴールの「単独者」の思想
においてその頂点に達したと言ってよいであろう。
- 71 -
よって、人は直接に神の前に立たされるこ
的影響を与えたとしても決しておかしくな
とはなかった。ところが、宗教改革におい
いであろう。それゆえ、プロテスタント教
てカトリック教会におけるさまざまな秘蹟
会が必要以上に神への怖れを強調する印象
や功績主義が否定されたため、プロテスタ
を与える理由もここにあるのではないか。
ント教会においては、人は独立した個人と
近代のキリスト教が、神への自然な畏敬で
して直接神の怒りの前にさらされることに
はなく、不自然に感じるほどの神への怖れ
なった。その時以降、教会もその秘蹟も神
を強調しなければならなかったのもこの辺
の怒りから彼を遮ることはできなくなった
に原因があるのではないかとわたしは考え
こと、そして、個人として直に神の怒りと
ている。神への怖れの強調はその意味で近
裁きの前に人が直接さらされることになっ
代人の「宿命」(ベルジャーエフ)だった
たことが教会によって人々に告げられたの
のかもしれない。
である。それらが当時の人々に大きな心理
5:主知主義的な文化とプロテスタンティズム
最後に、「怖れ」という観点からは抜け
摘されるようになった。ここではこの問題
落ちてしまったプロテスタンティズムの特
についてあまり詳しく指摘できないことが
徴について、ここで簡単ながらまとめて取
残念だが、たとえば日本では哲学者の中村
り上げておきたい。
雄二郎氏>の指摘などが古くからよく知ら
れている。人間は全的に完成・陶冶されて
こそ人間なのだから、特に人間の身体性を
(1)プロテスタンティズムと
等閑に付した哲学は、多くの人が指摘して
いるとおり、やはりそれだけで多くの弊害
その主知主義的傾向
以上の指摘がよく証明しているように、
を伴っていると言ってよいであろう。日本
プロテスタンティズムが主知主義的な傾向
でも知育偏重の教育が批判されて久しい
の強い信仰形態であるということを最後に
が、身体性を含む感性の蔑視は人間の知性
指摘しておきたい。長くなるので、ここで
にとってかえって多くの弊害と問題をもた
はこれ以上詳しく指摘できないが、これが
らすのである。
プロテスタンティズムが近代の宗教だとす
もちろん、それはキリスト教とその霊性
るその最大の特長でもあると言えよう。そ
においてもこれは例外ではない。カルヴァ
して、これがまた「神への過剰な怖れの強
ンが、奢侈に流れがちなレジャーなどの感
調」とはまた別の意味で大きな弊害をもた
覚文化を忌み嫌い、ジュネーブ市からそれ
らすもとにもなるのである。
らを厳しく排除しようとしたことはよく知
られているところだが、こういったことに
その弊害の実態については割愛せざるを
もそれはよく現われている。これは多少極
えないが、キリスト教に限らず、西欧的な
端な例かもしれないが、偶像破壊の情念が
近代的価値観は理性偏重で、身体感覚を含
先鋭化した例としては適切なものだと思
む感性を蔑視してきたことが最近つとに指
う。知性ばかりを重視し、感性や情念とい
- 72 -
ったものを安易に否定してこれを顧みない
だから、ある意味で聖書を独占したとも言
でいると、かえってそれに復讐されるので
えるカトリック教会をそのことだけでもっ
ある。いずれにせよ、近年一部の神学者に
て非難することはできない。
よって、宗教改革、特に禁欲的なピューリ
キリスト教に限らず、洋の東西を問わず、
タンの影響によって一度失われたに等しい
特に宗教的な古典は、本来その内容をそら
典礼 (ルーテル教会などは例外としても、
んじている聖職者が一般人信徒にその内容
プロテスタント諸派において、特にカルヴ
を語って聴かせるか、文字が読める者がそ
ァンの流れを汲む長老=改革派の教会におい
れを朗読して聴かせるものであった。現代
てその傾向が特に強い) の見直しが叫ばれ
の文化を「文字の文化」「黙読の文化」だ
*1
るのも故なしとしないであろう 。
とすると、それ以前の文化は「声の文化」
「語りの(あるいは聴く)文化」であった。
伝統宗教はすべてこの「声の文化=語りの
(2)“聖書を読む”という文化
文化」の時代から長く続く信仰形態である
―読む文化としての聖書信仰―
ことを忘れてはならない。その意味で聖書
今回は補足として簡単に指摘するにとど
はもともと読むものではなく、聴くもの(聴
めるが、ルネサンスはもちろん宗教改革の
き取るもの)なのであった。
進展にグーテンベルクによる活版印刷術の
発明が非常に大きな影響を与えたことを指
いずれにせよ、ルターは聖書をドイツ語
摘することを忘れてはならないだろう。こ
に翻訳することによって、それまで教会が
の発明があったればこそルター訳の聖書が
占有していた聖書を一般人がその膝元で読
世に広まり、宗教改革も燎原の火のごとく
むことのできる「書物」とした。それ以降、
広まったのだと言うことができるからであ
聖書は一般の書物とともに“読書の対象”
る。
となった と言うことができよう。プロテス
タント教会による個人で「聖書を読む」と
いう信仰形態は、だから、長い人類史から
従来カトリック教会においては、聖書は
見れば非常に新しい、とても珍しい形態で
ギリシア語からラテン語に訳されたウルガ
あると言うこともできるのではないかと思
ータ訳だけが公式の聖書として存在し、ラ
う。プロテスタント革命以降、キリスト教
テン語を解さない一般信徒は教会のミサに
徒、特にプロテスタント信者は、それまで
おいて朗読される聖書を聴いて生活してい
の伝統と違って、聖書に対して読書するよ
た。日本人で言えば、それは法事などで読
うにこれに対するようになった。これもま
経される経文を有難く聞くようなものだっ
たプロテスタント教会の大きな特徴のひと
たのではないだろうか。ここでは詳しくは
つであると言えよう。その証拠と言っては
言及しないが、もちろんそれが一概に悪い
何だが、非プロテスタント信者には多少違
というわけではない。近代以前の文化にお
和感のある表現かもしれないが、プロテス
いてはそれが当たり前だったからだ。それ
タント信者の多くが自らの信仰を「聖書の
*1 以上の議論に関しては、わたしが読んだものではパネンベルグ『現代キリスト教の霊性』
第二章〔教文館、1987 年 7 月〕においてこの問題が取り上げられている。
- 73 -
信仰」と称するところにもその特徴がよく
は、その事情も考えずにこれを単に不謹慎
現われていると言える。
として日曜日の酒場の営業を禁止するので
ある。
これは非常に興味深い逸話だが、考えよ
なお、ここでもうひとつ指摘しておくと、
うによっては、「信仰による疎外」(工藤
プロテスタント革命とそれによる聖書の自
信夫)の問題はプロテスタンティズム発祥
国語への翻訳によって聖書を読むことが一
間もない頃から存在したと言うこともでき
般人にも可能になったとは言っても、それ
るだろう。これは由々しき問題と言わざる
は原理的な、あくまで可能性としての話で
をえない。何となれば、プロテスタンティ
ある。当時の識字率から考えた場合、自国
ズムはその発祥の初期から「信仰による疎
語で聖書が読めたのは、ラテン語やギリシ
外」の問題を少なからずその胎内に抱えて
ア語などの古典語は解さないまでも、自国
いたということになるからである。ちなみ
の文字は読むことのできる一部の知的エリ
にいささか余談ながら、同署の指摘による
ートだけであった。そう考えると、当時は
と、その後、識字率の低い一般大衆は次第
聖書はまだ一部の人だけの独占物であった
に教会から離れ、キリスト教信仰に対して
とも言える。そんなわけで、これはある本
無関心という消極的な形での抵抗を示すよ
*1
に書かれていたことなのだが 、文字を読
うになる。わたしはこれが世俗化への原動
めない底辺層の労働者たちは、新しくでき
力の一つになったという側面も否定できな
たプロテスタント教会に参列しても、説教
いのではないかと思う。いずれにせよ、彼
*2
の内容もよく分からず 、結局スポイルさ
ら一部のエリート信者の振る舞いとキリス
れてしまう。今までと違って教会(中世の
トに対するその熱意とが一般人を福音から
カトリック教会は共同体の社交の場でもあ
かえって疎外していたとするならば、これ
った)に居場所がなくなった彼らは、当然
は皮肉以外のなにものでもないと言ってよ
のことながら日曜日の朝から酒場に入り浸
いであろう。
るのだが、教会に通う敬虔なエリートたち
*1 小泉徹『宗教改革とその時代』世界史リブレット 27、山川出版社、1996 年 6 月.
*2 活字化され翻訳されたものとは言え、ルターやカルヴァンといった人達の聖書講解や説教
を少しでも見ればよくわかるように、その内容は「文字の文化」のそれを代表して極めて知的
で内容的にも高度なものが大半である。これを聴いただけで理解して共感しろというのは現代
人にとってもかなり難儀な相談だろう。それに対してカトリック教会のミサにおいては、参列
者の大半がラテン語を解さないのであるから誰も疎外感をいだくことはないし、その荘厳なラ
テン語ミサによって誰もがみなそれなりに敬虔な気持ちになることができたのである。〔小泉
『宗教改革とその時代』p.56 ~ 59.参照〕
- 74 -
最後に―神学の先鋭化と怖れ―
最後に、あまり詳しくは論じられないの
浅見によれば、そのような不合理な怖れが、
だが、簡単ながらここで結論めいたことを
人がフォビアを用いた破壊的カルト集団に
書いておきたい。
よる強力なマインドコントロールの餌食と
なる原因でもある。そういった観点から言
えば、合理主義に生きているはずの現代人
たしかに古代人の信仰生活の方が、外面
の方が昔の人たちよりもよほど怖れに根差
的に見れば「怖れに根ざした信仰」の名に
した生活をしていることになるだろう。そ
ふさわしいかもしれない。このような見解
れはキリスト教のようないわゆる高等宗教
は、たぶん多くの人が認めるところであろ
(この表現は現在ではあまり適切ではない
う。しかしながら、20 世紀になって現わ
かもしれないが、今はとりあえずそのまま
れたさまざまな文化人類学的な研究成果に
使う) でも例外ではないとわたしは見てい
も明らかなように、古代人はそれらの怖れ
るのである。先にも指摘したように、本来
を中和するさまざまな儀式なり作法なりを
「恐れからの解放としての福音」を宣べ伝
持っていた。そのため、彼らはそれら怖れ
えるものであるはずのキリスト教が、何故
をもたらす対象に対していたずらに囚われ
にそれとは正反対の「恐れに根差した信仰」
ることなく平穏に日々の生活を送ることが
を宣教するものとなってしまったのか。そ
できたのである。ところが、それに対して
れもこれも、伝統的なキリスト教神学に本
現代人はどうか。彼らははたして古代人が
来そのような怖れが内在していたことがそ
いだいたような怖れを克服しているだろう
のひとつの原因となっているのではないか
か?
とわたしは見ているわけである。
深層心理学的な観点から言えば、合
理的に物事を判断するようになったはずの
現代人が、意外なことに不毛な怖れなどの
原始的な感情生活を送っていることはよく
知られている事実である。
社会心理学者のエーリッヒ・フロムなど
も指摘するように、近代合理主義の発展に
よって、現代人の意識の上からはそれらの
なお、これに関して先に触れた著作の中
怖れは一見払拭されたように見えながら、
で浅見定雄氏が「浮遊する霊」という表現
実際はそのような不合理な信念は彼の心の
で大変興味深いことを書いているので、参
奥に今も無意識に存在し続けている *2。し
考までにここで紹介しておきたい。それに
かし恐ろしいのは、古代人の「怖れに根差
よると、古来より伝統的に伝わってきた怖
した信仰」よりも、合理主義的な現代生活
れを解除するためのさまざまな「作法」が
の中で無意識に抑圧されている分、無自覚
崩れた現代では、本来は霊が出現しなかっ
な現代人の(無神論・無宗教を含む)「怖
たような昼日中にまでのべつまくなしに霊
が現われるようになってしまったという*1。
*1 浅見『なぜカルト宗教は生れるのか』日本キリスト教団出版局、p.224 ~ 226.
*2 フロム『精神分析と宗教』東京創元社、p.39 ~ 43 参照。
- 75 -
れに根差した信仰態度」の方なのだ*1。
世俗化)の過程の中で次第に変質してゆく
現代人は古代人とは違って怖れとは遠い
にしたがい、さらに不毛なものになってい
ように見えて、その実、近代化の過程にお
ったように思う。あるいはその神への怖れ
いて、皮肉なことに人生におけるさまざま
は―近代資本主義の勃興とそれに伴う世
な怖れを中和させる方法をなくしてしまっ
俗化のプロセスの中で、神に対する信仰が
マンモン
た。そのため、現代人はかえって怖れを内
経済へのそれにすり替わっていったように
在化してしまったように思うのだ。神に対
―それにふさわしいものに単にスライド
する怖れにしても、宗教的信仰が近代化(=
しただけなのかも知れないが。
*1 ここで言う怖れは、たぶん無意識なものが大半だろうが、terror や phobia レベルの恐怖心で
ある場合が非常に多いのではないかと考えられる。
- 76 -