01~02 - 医療法人つくし会 南国病院

2015 年 7 月発行
第 25 号 (1)
南国病院広報誌
第 25 号
日本医療機能評価機構認定病院
平成 23 年 8 月 5 日
審査体制区分 2
Ver.6.0
2015 年 7 月 31 日発行
つくし
■発行元■
南国市大埇甲 1479-3
医療法人つくし会 南国病院
Tel (代) 088-864-3137
http://www.nankoku-hp.or.jp
「第3回看護職のWLB推進カンゴサウルス賞」
授賞式
東京青山ダイヤモンドホール
看護部長
H27.5.13(水)
佐光 真由美
南国病院看護部では、平成19年度より「働きやすい職場環境作
り」を目標として、積極的に業務改善に取り組み、当院独自の職員
満足度調査も定期的に実施して来ました。
しかし、看護師確保が困難な中、離職率が平成21年度 19.8%と
高くなり、病院全体を巻き込んだ改善が喫緊の課題でした。平成2
3年2月の病院機能評価受審を看護部はチャンスと捉え、さまざまな取り組みの結果、平成23年度離職率は、1.4%と
大きく低下しました。しかし、その後の職員満足度調査においても、
「仕事に対するやりがいが得られない」
「現状に不安」
「仕事の成果が正当に評価されていない」等、調査結果には大きな変化が見られませんでした。
そのため、当院の課題を明確にし「精神科看護・神経難病看護に自信を持って取り組める職場環境を目指す」ことを目
的とし、平成24年度より社団法人日本看護協会主催「看護職のワーク・ライフ・バ
ランス推進ワークショップ」への参加を決めました。
「精神科と神経難病の専門性を
高め、質の高い看護の展開を行う」をミッションとし「働きやすく、やりがいのある
職場環境を整える」をビジョンと掲げ看護部スタッフと共に、また病院長の心強い後
押しを頂きながら取り組んできた3年間でした。取り組み結果の1つとしては、
「資
格取得奨励制度南国病院奨学金貸与規程」見直し後、当院看護助手3名の看護学校合格
を含め現在6名の委託生を抱える嬉しい状況下にあります。
このような3年間の取り組みに対して、
「第3回看護職 WLB 推進カンゴサウルス賞」
を受賞することになり、平成27年5月13日(水)東京青山ダイヤモンドホールにおいて
の授賞式に代表で出席させて頂きまし
た。今後もこのプロセスを継続し、南
国病院の看護職としてプライドが持
てるよう取り組みを続けて行かなけ
ればなりません。また、看護部から病
院全体の取り組みへと働きかけて行
きたいと思います。
2015 年 7 月発行
第 25 号 (2)
医師として25年を振り返って
副院長
神経内科部長
吉村 公比古
宮崎医科大学を卒業して、医師としてはや25年以上になりました。いい機会をいただいたの
で、その歩みを自分なりに振り返ってみました。
まず医師として、卒業後何科を選択するか、学生時代は精神科医であり小説家の加賀乙彦、北
杜生などにあこがれ、精神科医を考えていましたが、学生時代に回った精神科の教室に幻滅、ま
た精神科 Dr 達に変わった人が多く断念。神経系に興味があり、当時の宮崎医科大学の脳神経外
科の木下教授、第3内科の栗原助教授(神経内科医)に魅力を感じ、また木下教授は入学試験時
の面接官でもあったため、運命的なものも感じ、真剣に脳外科医を考えましたが、体力的に厳し
いと自分も自覚、神経内科の方向で決定しました。周りからは神経難病は治療方法もなく、診断して終わりなので、なん
でそんな科にとよく言われましたが、自分なりにこれからは脳の時代だろうと考えていました。
実際、21世紀になり、脳卒中やてんかん、認知症が社会問題となり、自分の両親も父親は脳出血で倒れ、リハビリで
何とか回復、母親も脳動脈瘤でコイル塞栓術行い、またアルツハイマー病にもなり、その時々で勤務先の病院で診断、治
療を行うことができ、現在も元気に長生きしています。
次に、卒業後の入局先で宮崎に残るか、高知に帰るか、または岡山大学が当時は高知県の病院に医局員を派遣していた
ので、岡山大学に入局するかの選択で悩み、最終的には地元高知にとなったのですが、神経内科をやっているのが、老年
病科と精神科だということで、ここでもかなり悩んだのですが、内科を少しはやっておきたいとも考え、最終的には高知
医大老年病科に入局することになりました。社会に出るにあたって、選択肢の中から選ばねばならない時があると思われ
ます。振り返ってみても自分なりに、その場その場でよい選択ができたのではないかと思っています。
入局後は神経内科をやろうと入ったのに、老年病科が循環器主体で、神経内科医は専門医が一人
だけで、あまり患者さんもいなく、時々顔を見かける先生で、これからどうなるのだろうと思い
ながらの研修医時代でしたが、しかし循環器科だったのが幸いしてか、全身管理や技術的な事は
大いに役立ち、心臓カテーテル検査ものちの脳血管造影や血栓溶解術など内科医がやらない分野
を高知で存分にやることができて、今思うと、大変だったけれど助けた患者さんもたくさんあっ
たと思っています。
研修後は、大学病院が嫌で早めに地方に出してもらい、一人で何とかやっていける度胸を渭南病院と大井田病院で身につ
けさせてもらいました。その後神経内科医としてやっていこうと真剣に考え、松林先生と小澤教授に相談、近森病院で神
経内科の患者さんを主体に診させてもらい、松林先生の外来を見学しながら一年間研修、6年目でやっと、松林先生の出
身である京大から医局員を派遣している、静岡の静岡県立病院に欠員ができたとの事で正式の職員として採用してもらい、
本格的な神経内科の勉強が始まりました。
静岡では、神経内科全般をやらせてもらい、特に上司が脳循環器系に詳しく、脳血管造影や選択的血栓溶解療法が始ま
ったころで、ウロキナーゼの動脈注入など積極的に取り入れ、私が循環器で心臓カテーテルをしていたことから重宝がら
れて、一緒に緊急カテーテルなども経験しました。脳血流シンチも始まって間もなくでしたが、核医学検査に積極的な技
師さんがいて、一緒に研究的な事までさせてもらい、唯一学術的な論文もまとめました。また、この頃の京大が、筋電図
では世界の木村といわれる人が教授で末梢神経系の神経伝導速度検査にも熱心で、若い先生も詳しい Dr が来ていて、そ
こから学んだことも大いに役立ちました。毎日富士山を眺めながら数年はいる気になっていたの
ですが、高知医大の老年病科の教授が、講師の土居先生に決まり、3年で帰ってこいとの命令が
出ました。当時はまだまだ教授が絶対的で、逆らえば高知では仕事ができなくなるといわれてい
ました。この時も残るか帰るかで大いに悩みました。帰る方を選択し、土佐市民病院の循環器科
科長で高知に帰ってきました。