ここに帰る 44号 H27.7.1

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市来 政 連
和田 重正
和 田 重正
和田 重 正
平成二十七年七月一日発行
第四十四号
ここに帰る
目
教育につ いての疑問
教育の 新しい道
あさぎり座談会
人間の陶冶性と鍛錬
小 学校一年 生
眠っていた手書き原稿三稿
写真
記
伊那市長谷 北沢峠
-1-
2
23
8
28
30
32
40
宏南先生 のひとりごと
後
表紙写真
13
和田重正
題字
教育とは引き出すことだと
言われるが、今日の学校で
は何を引き出すつもりだろ
う。知識?知能?知恵?
規範?徳性?本心?
知識と規範は注ぎ込むこと
はできても引き出すことは
できない。引き出せるのは
知能と知恵と徳性と本心だ
けである。とすると、学校
(特に中学以上)では
何をしている
のだろうか。
あさぎり 4
私はこう思う
教育についての疑問
和田重正
多くの人は教育の現状について
「これでいいんだろうか」と何か
不安を感じていると思います。そ
して、そう感じながら「ではどこ
に不安の原因があるのか」
、また
原因はわかってもそれに対してど
う対策を立ててよいかわからぬま
まに時代の風潮に押し流され、あ
れよあれよという間に月日が経っ
て行くというのが実状ではないで
しょうか。
そこで、今月はその不安の周辺
を少し整理してみようと思いま
す。
まず、われわれが直接感ずる不
安の一番大きなものは、
①子どもたちにこんなに勉強ばか
りさせていていいのだろうか、
しかもその勉強が強烈な競争意
識に追い立てられてする勉強で
あるということ。
②それが悪いとわかっても、もし
追い立てをやめたらばその子は
人生の敗残者、落伍者になって
しまいはせぬか。
ということだろうと思っていま
す。それから、もう少し考える人
は、
③今日強いられている「勉強」の
内容について、つまり、むやみ
に多くのことをオボエルだけが
勉強の内容であっていいのだろ
-2-
うか。また、これほど多くの犠
、
牲を払ってまでこんなことをオ
、エ
、なければよい社会人になれ
ボ
ないのだろうか。
という疑問も持つでしょう。
④また、今日の教育の欠点は明ら
かになっても、それに対する対
策が果たしてあるかどうか、差
し当たり自分の子、自分の教え
る子をその欠点から防衛するこ
とができるかどうか。
――まず不安のもとはこのような
ところだと思います。それから、
それらの疑問に付随したり、関連
したりして起こって来る疑問もあ
るでしょう。たとえば、
⑤今日の風潮に流されガツガツと
点収りに青春を捧げさせるのが
止むを得ないことだとしても、
多くの先生方の言われる通り
「もっと勉強させて」果たしてそ
れに見合うだけの点数の収穫が
あるのかどうか。
特にアタマの悪い?子を持つ親は
しばしばこのような疑問を抱くの
ではないでしょうか。
これらの疑問に私は次のように
考えます。
①と③について、ひっくるめて
言いますと今日の教育の実状は、
たとえば食うということの本来の
目的は味を楽しみ、栄養を摂ると
ころにあるはずですが、その目的
を無視して大食い競争をさせてい
るようなものだと思います。元来
胃腸の強い者は益々鍛えられて遂
に「大食賞」を受賞するに至るで
しょう。一流校にストレートで入
るなどがこれに当たるのではない
でしょうか。しかし大食必ずしも
健康ではありません。昔から言わ
れる通り「腹も身のうち」ですか
らあまり酷使すると胃腸の本来の
働きが鈍って栄養を摂取せず、な
んでも通過させる管に過ぎなくな
ってしまいます。そして胃腸ばか
りが鉄管の如く堅牢になり、手足
が痩せ細ってロクに働かない奇型
が出来上がってしまいます。その
極端なのが毎日の新聞を賑わせて
いるワイロ役人や政治家です。近
頃は大学の先生にまで同類の患者
が出るようです。彼等は自分自身
に自信がないから、ワイロなどと
いうみっともないことをしてまで
お金や地位を得て、その貫禄で儲
けたいと思うのでしょう。まこと
-3-
に浅ましい限りですが、今日の教
育が徹底して来ると将来益々この
傾向は甚しくなって行くに違いあ
りません。
そもそも育ち盛りの子どもには
遊びとか睡眠とか運動とか仕事な
どいろいろなことが必要です。生
活の中のそれらのいろいろな要素
が適当なバランスを保っているこ
とが必要です。食わせさえすれば
丈夫に育つというものではありま
せん。そのように、やたらに知識
を注ぎ込みさえすれば知能その他
の精神活動が優秀になるというも
のではありません。それどころで
はなく今日の学校教育のように、
無制限に多くのことがらをオボエ
させるのに力こぶを入れている
と、若者のアタマは硬直して、自
分でものを考え、自分で問題を解
決する力を失ってしまいます。人
の指図を受けなければ何一つでき
ない人間ができてしまいます。も
のをたくさん知っているバカ、つ
まり利口バカというものが学校教
育によって大量生産されているわ
けです。
しかし、その方はまだましな部
類かも知れません。若者の中のも
っともっと多くの者は大食競争に
堪えられるほどの胃腸を持ち合わ
せていません。ですからその人た
ちは競争圏外に出て全く無気力な
毎日を送り、食うでもなく食わぬ
でもない、いい加減な態度で、ゴ
マ化しています。今の高校生や大
学生は大食競争に参加してアセッ
ている者と、圏外に出て無気力に
なっている者との二大群に分けら
れると思います。自分のからだを
養うのに必要な栄養をしっかりと
摂って、自分の手足を働かし、自
分で自分を力強く生かそうとする
頼もしい若人はまことに寥々たる
ものではありませんか。 ――この
学校教育の現実の中ではそのよう
な若人を求むるのが無理なのでし
ょうか。しかし個人個人の不幸は
言うに及ばず、国家社会の将来を
思えば、まことに恐ろしい感じが
します。
ともかく今日のように、大食競
争みたいなモノオボエ競争に若者
を追い立てるのが教育だとされて
いる時代には、およそ味わいとか
豊かさというものを具えた人間が
出来るとは思えません。情緒もな
-4-
い干からびた小さなエゴイストば
かりがウジャウジャと出来てまこ
とに住み心地のよくない世の中を
作ってしまいます。
②では、この甚だしく歪んだ病
的な教育を是正して、健康な、人
間の教育らしいものにすることが
できるだろうか、と考えると実に
悲観的ならざるを得ないのです。
何故かと言えば、日本の教育を今
日の状態にまで落としいれた原因
は極めて深い処にあって、少しぐ
らいの対症療法ではどうにもなら
ないと考えられるからです。つま
り今日の日本の教育の依って立つ
人間観に根本的な誤りがあるので
すから、これを是正しない限り日
本の教育はまともな方には向いて
行かないはずです。しかもそのよ
うな根本的、革命的な教育の転換
は、どんなにわれわれが本気にな
っても今直ちに可能だとは思えま
せん。
ではどうなるのでしょう。幸か
不幸か日本はもう一度滅びるに違
いありません。今日の教育が利権
政治との搦み合いによる悪循環を
重ねて行ったら、日本は必ずもう
一度滅びるより他に道はないと思
います。どういう相で何時滅びる
かはわかりませんが、何等かの形
で行き詰まり、現在の日本 ――少
なくとも現在の日本を動かしてい
る力はもう一度滅びざるを得ない
と思います。その時に、この前滅
びた時と同じように、日本の生き
る ――つまり教育の正しい方向が
打ち出される見込みがないのだっ
たら、教育者は今のうちに廃業す
べきです。われわれはその時に備
えて今日微力を傾けているわけで
す。
右に私は日本の教育はその根本
の建て前が間違っていると言いま
したが、多くの先生や親たちは恐
らく私のような一介の庶民の言う
ことは信じないでしょう。日本に
はもっとえらい学者や役人が沢山
いて、その人たちが知恵を絞って
作り上げたことだから、それほど
間違った方向へ人々を引きずって
行く筈はない、と思ってついて行
っているのでしょう。ところが学
者や役人は学問知識には勝れてい
るでしょうが、われわれが自分た
ちの運命を任せておけるほどに
「人間」をよく知っているとはい
-5-
えません。人間をロクに知らない
人に人間の教育の正しい方向が立
てられる道理がありません。今日
の教育を築いた学者や役人の考え
た「人間」は実物ではなく、仮想
人間であったということは今日の
教育の実状を見れば明らかです。
仮想人間を対象として、ことばと
理論を弄んで作り上げた教育理論
とそれに基づく実践によって実物
人間が幸福にさせられる道理があ
りません。 ――これも大事なこと
ですから付け加えておきます。
④ところで、このような教育全
体の問題もむろん重大ですが、な
んと言っても最も切実な問題はわ
が子、わが教え子をどうするか、
ということです。この非人間的な
教育が改められるのを待っていて
はわが子たちは大人になってしま
います。目下の問題は自分に縁あ
る子どもたちに対して今どうして
やったらよいかです。
むろんこの大きな教育的風潮の
中にあってその弊害から全く解放
されることはできません。しかし
教師や親の心得次第では本当の教
育の筋だけは通すことができると
信じます。
まず第一の必要は子どもたちの
心にゆとりを取り戻すことです。
年中追いまくられて爪先き立って
いるような姿勢では何事も身につ
きません。と言っても先に述べた
無気力者に見るような精神の弛み
がいいと言うのではありません。
そのような活力を失わさないため
にはなるべく生活の自然のバラン
スを崩さないことが必要だと思い
ます。手練手管を用いて少しの隙
もなくいつも勉強にかり立てられ
ていては、覚醒剤で興奮させられ
たような状態になるか、それも効
かなくなって瞳孔が拡散したよう
な無気力に陥ってしまいます。こ
のような現象は必ずしも、親や先
生が求めるほど、実際に子どもが
息吐くひまもなく勉強をしている
場合には限りません。むしろ子ど
もが親の注文通りには勉強しない
場合の方が多いでしょう。それで
もこのような親の強い要求は子ど
、と
、り
、というものを悉
もの心からゆ
く奪ってしまう結果になります。
要するに親や教師がこのような
無茶な要求を持っているか否かが
問題なので、子どもが実際にその
-6-
要求通りするか否かはむしろ二義
的なことだと思います。そこで問
題は親や教師の心得如何というこ
とになります。
では実際に、多くの人々が信ず
るほどに、ガリガリ勉強が点取り
に有効なのでしょうか。逆に言え
ぱそれほどガリガリやらなければ
自分の能力に相応しい点が取れな
いのだろうか、ということです。
私はこれは大へんな誤りだと思い
ます。人間の頭は機械とは違い成
果は時間に比例しません。それど
ころかあるところまで行くと時間
の延長は殆ど無意味になってしま
います。これは短期間についての
観察ですが、五年、十年という長
期について言えば一層期待を大き
く裏切られるものだと思います。
しかし万一ガリガリと追い立て
たい気持を捨てたために子どの成
績が下がって、有名校に入れなか
ったらどうしよう、という不安が
あるかも知れません。そのために
その子は一生ウダツが上がらない
でしょうか。そんなことは絶対に
ありせん。一生という長い目で見
たらば、生じっか成績がよく、い
い学校を卒業するより、人間とし
て健全な発育をした方がどのくら
いウダツが上がるか知れないと思
います。
大体少しばかりの出世や金儲け
に人生を賭けるほどバカげたこと
はありません。 ――要するに親も
教師もこの簡単な結論を納得する
ことが子どもを今日の非人間的な
教育の弊害から守る要点だという
ことを強く言いたいのです。
しかも結果から見ればその方が
堅実に出世や金儲けの道にもつな
がっているのかも知れません。真
に役に立つ人間はそれ相応に酬い
られるのが世の中の大体の原則で
すから。 ――むろん、逆必ずしも
真ならず、ですが。
まみず第三巻 第四号
昭和四十三年四月号
-7-
「自分はこれより後、現状より
悪くなることは決してない」
と自ら信ずることができたら、
人はどんなに大きな安らかさを
得ることだろう。その「現状」
が何の現状を指すかは、その願
うものによって異なるわけだが
―― ともかく、まごころをつ
くして生きる人にとっては、
「これより悪くならない」のは
当たり前の
こ とな のだ 。
あさぎり座談会
三月二十一日・はじめ塾
教育の新しい道
ー創造性の育成ー
とみ ず
鈴木伴三
富 水小学校長
しん どう
真 道学園長
山田真三
和田重正
はじめ塾長
編集部 今日はお彼岸のお休みに
もかかわりませず、
「まみず座談
会」にお集まりいただいてありが
とうございました。
鈴木先生は、小田原市で一番大
きく、そして四、五年前から「創
造教育」をテーマにして学校全体
でユニークな研究実践を続けてお
られる富水小学校の校長先生で
す。また山田先生は、基督心宗を
開かれた川合信水先生に学生時代
からお導きをうけ、川合先生のご
助言で若い人たちの教育に専念し
ておられる富士吉田市の真道学園
の園長先生です。和田先生は申し
あげるまでもなく、はじめ塾で人
間教育一筋に四十年を捧げて来ら
れた方。三先生とも教育の実践に
おいては深く永いご体験をおもち
のベテランばかりです。教育実践
について、キメの細かなお話を承
われることと存じます。では鈴木
先生から創造教育についてお聞か
せください。
-8-
創造性の教育とは
――「創造性のテスト」
を通して ――
鈴木 最近はどんな教育講演に
も、創造性ということがよく話題
にされるようになりましたが、私
たちが学校全体の研究課題として
「創造性」をとりあげた昭和三十
九年ごろは、ほとんど教育界では
話題にされていませんでした。で
すから、いざこれを勉強しようと
思っても、その方法に困ってしま
いました。ちょうど、そのころ出
た東京工業大学の穐山先生の『創
造と心理』
というご本をみつけて、
みんなで読んでみましたが難しく
て分からないんです。それで穐山
先生に来ていただいて研究会を開
いていただくようになり、年々少
しずつ問題をふかめて来たんで
す。まだまだ分からないことが沢
山あって、来年になったらまた今
年とは違った考えが出るかも知れ
ません。
でもまあ、今どう考えているか
を分かっていただくために、ちょ
うど二月にやりました「創造性の
テスト」についてお話したらと思
うんです。
テストは三年生以上八七〇名を
対象にして五つの問題を出しまし
た。
第一問は、
「東京」
、
「日本」
、
「男
の子の名まえ」とだけ出して答え
の欄がそれぞれ五つあるんです。
連想力のテストです。
子供たちは、頭にヒラメイた事
柄をそのまま書いてゆくんです。
このヒラメキが創造性だと思うん
です。このヒラメキが豊かか、豊
かでないかをみるのですが、頭の
固い子はヒラメキが遅いために、
素直に書けないですね。どう答え
たら一番いい成績をとれるかとい
うのが頭に先に来てしまって思う
ように書けない。こういう子の頭
、け
、て
、見えるような気がしま
はす
す。ところがそうでない柔軟性の
ある子どもはそんなことは全然考
えませんから、思うように書くわ
けなんです。
「男の子の名まえ」
など、私たちの思いもおよばぬ名
前をつける子がいます。こういう
「頭のやわらかさ」というのは創
造性の教育の土台です。教育ママ
とか形式主義的な教師によって教
-9-
育されると頭が固くなってしまう
訳なんです。
第二問は作文で、
「もし、あな
たの兄弟が十二人いたとしたらど
うなるでしょうか。その時のこと
を想像して作文を書いてくださ
い」として、四〇〇字原稿用紙一
枚に自分の思うことを書いていく
訳なんです。
「テレビを見るとき
喧嘩がおきるだろう」と心配する
子や、
「お金がたくさんかかって
お母さんが大変苦労するだろう」
とか、子どもなりに書いてゆきま
す。
第三問は、Nという字の形が五
コずつ三段にならべて印刷されて
います。その一つ一つをつかって
思うような絵を仕上げてゆく訳で
す。創造力の豊かさをみるテスト
です。これも、子どもの思考の形
というのか、ヒラメキの強弱をテ
ストするのです。
第四問は「はい、いいえ」の問
題です。
「授業に必要な教科書や
ノー卜は前の日に準備しますか」
「学校から帰って二科目以上の勉
強をしますか」
「学校の予習、復
習のほうを先にやりますか」
「勉
強は切りがつくまでやる人と、終
らなくても時間がくると止める人
といますが、あなたは切りがつく
までやりますか」 ‥‥といった問
題を三十出してあるのです。
「先
生はエコヒイキをすることがある
と思いますか」などという問題も
あります。子どもは、案外正直に
つけています。
第五問が、
「あなたのクラスの
中で変わっていると思う人を三人
書いてください」
「あなたの好き
な人を三人書いてください(その
訳も)
」という二つです。
これらの五つの問題は、でたら
めなテストのように思われても仕
方がありませんが、大変面白い結
果が出てきたんです。正確な集計
はまだ出ていませんが、学力や知
能テストの成績との関係で新しい
発見をしたんです。
テストをした学級の中で、とく
に三学級一二〇名を調べたとこ
ろ、
①学力、知能も高い子ども
(約三十%)の中で創造性の低い
子が十五人いた。
②学力、知能の低い子(約三十%)
の中に創造性の高い子が同じく
- 10 -
十五人いた。
③学力、知能の最優秀児(約十五
%)の中に創造性の低い子が七
人もいた。
――ということなのです。
②の型の子どもを調べてみます
と、授業中はほとんど無言の行で
宿題もやってこないんですが、休
み時間になると元気がよくってユ
ーモアが十分あるんです。友だち
とも非常に面白い遊びをやったり
作り出したりしているんです。こ
ういうのが創造性の方は高いんで
すね。しかし一方、気紛れで楽天
的だし、クヨクヨしないという性
格もあります。
今までの学校では、こういう②
の型の子どもはないがしろにされ
ていたんですね。こういう子は、
高校や大学には進学しにくいので
劣っているように思われ勝ちです
が、
「創造性」という観点から見
れば、豊かな人間性をもっている
訳で少しも劣ってはいないんです
ね。
私たちの「創造性の教育」研究
の意義はこういう子どもを発見し
たところにもあるんだと思うんで
す。
和田 すばらしい発見ですね。お
話をうかがっていていろんなこと
が考えられて ‥‥。私も今までそ
うではないかと考えていたこと
が、科学的に証明されて本当に感
動しちゃってね。
編集部 鈴木先生方がお考えにな
っている「創造性」というのは、
結局なんなのでしようかね。
鈴木 私たちがいつもおかしいと
思うことは、あの学校は創造性の
研究をしているんだから、多分、
物事を発明したり、発見したりす
るような子どもだけを育てている
んだろうというような誤解をする
人が多いんですね。一種の天才教
育をやっているのではないかとい
う誤解なんですね。
私たちは決してそんな天才教育
をしようとしているんではないん
ですね。教育というのは、一人ひ
とりの子どもを見てゆく、しかも
その子どもが、それぞれ大きくな
って豊かな生活ができるようにし
てやるということが本来の目的な
んですから。創造性の教育という
ことも、その一環なんです。先ほ
どもちょっとふれましたように
- 11 -
ね。今までですと、先生の頭にあ
る、この問題はこうでなければな
らないというある一つの型を教え
ていたんですね。私たちはそれで
はいけない、子ども自身のヒラメ
キ、というんですか、どんな突拍
子のないこと、出たらめのような
ことでも、子どもが自分で考えた
こと、感じたことを大事にしなけ
ればならないと思うんです。それ
、造
、性
、を育てることだと思うん
が創
です。いくら試験の成績がよくっ
ても、頭の固い子では駄目なんで
すね。こういう子どもは、結局固
くなるように教育されてしまって
いるんで、本来は、創造性がある
んですね。それが、今までのその
子の成育の過程で、固くなっちや
っているんであって、それを軟ら
げるのが、また創造性の教育の一
つの課題なんだと思いますね。
私たちは、こういう意味では、
創造性の教育が、教育の本筋だと
思うんです。また、教育というこ
とは、人間の教育でなければなら
ないんですから、人間をつくる教
育として創造性を考えねばならな
いと考えています。
山田 本当に胸があつくなるよう
なお話で、全く共鳴しました。
和田 教育の本筋としてこの題を
とりあげたとおっしゃったんです
が、まったく同感で、納得以上に
いっちまいましてね。今までの教
育研究が一般に、浅い簡単な心理
操作みたいなものが多くて、何か
しら数字の上で出ればそれで満足
しているという傾向が強いんです
がね。
山田先生もそうでしょうが、
われわれは、大学を卒業して何を
教育されてきたんだろうと考えた
ときに、それを一番問題にしたわ
けなんですね。人間として何が一
番大切なのか、
ということですね。
発見学習の道
編集部 鈴木先生の学校では、実
際の授業といいますか、
「創造性
の教育」は具体的な授業のなかで
はどういう形になるんですか。
鈴木 私たちは、それを「発見
学習」と言っているんですがね。
例えば理科の「熱」の問題で、
子どもたちと先生のやりとりがあ
るんですけれど。熱の問題で一番
子どもたちに分からないのは、輻
- 12 -
射熱なんです。伝導のほうは分か
るんですが、輻射という現象は、
どういう訳で伝わるのか分からな
いんですね。
T「雲のある高い空へ高く高く昇
っていったら、そこにある空
気は暖かいだろうか冷たいだ
ろうか」
C「ぼくは暖かいと思う」
T「何故ですか」
C「だって太陽に近くなるもん。
太陽って、ガスの固りでしょ
う」
C2「私は上に行けば光が強くな
るから暑くなると思う」
C3
「ぼくも暑くなるのに賛成だ。
太陽に近づくほど空気は温ま
っていると思うんです」
C4「太陽に近くなるほど空気は
温まるというのは変だと思い
ます。空気は温まると上に昇
るでしよう。だから太陽の上
の方に行けばすごく暑いけど
地球は太陽より低いから、そ
んなことはないと思う」
C5「空に高く昇れば昇るほど空
気は薄くなるでしよう。太陽
は地球より高いところにある
んだから空気とは関係ないで
しょう。
C6「私は上に昇れば昇るほど温
かくなるというのは変だと思
う。この間、足柄峠に遠足に
行ったでしょ。あのとき頂上
に着いたら寒かったもん。だ
から、高くなればなるほど温
かくなるというんではなくっ
て、反対に寒くなるんじやな
い」
C7「そうだ、富士山には未だ雪
があるもん。水蒸気は空に昇
って冷えて雲になると本で読
んだことがある」
C8
「だけど私はこの前の実験で、
温まった空気は上に昇ったで
しょう。だから私は上に昇る
ほど熱くなると思う」
まあこういうヤリトリが続くわ
けです。発見学習の中で最も重点
的に考えていることは、
、面
、的
、に考えてその中
一つは、多
から真理を発見してゆこうという
行き方です。だから今までの考え
られていた原理は現在の原理であ
って、将来は覆えされるという仮
説をもっている訳です。そういう
- 13 -
見方をしないと子どもの扱い方が
単調になって、子どもの多面的な
発想を妨げます。
もう一つは、子どもに自然に自
由に、自分の発想や考えを述べさ
せ、先生がこれをダメだとか、押
さえるようなことを極力しないよ
うにするんですね。先生が自分の
考える通りに子どもも考えないと
いけないんだと少しでも思うと、
発見学習はできませんね。突拍子
なことでも、出たらめでも何でも
言わせるんです。
生活教育の面で
――舵をとるもの ――
編集部 山田先生、今の富水小学
校の共同研究と関連して、先生の
実践についてお話しくださいませ
んか。
山田 学科の勉強の方でこういう
発見学習という道を発見されたと
いうことは、大変すばらしいこと
だと思います。私は、心の世界と
いうことで、発見学習に類した学
習法で、
青年たちとやっています。
人生上のいろいろな生きた問題を
とりあげて、鈴木先生のように、
頭から押しつけるというようなこ
とでなく話し合いをしているんで
す。
この間も「人間関係をどうすれ
ば良くできるか、それを妨げてい
るのにはどんなことがあるか」と
いう質間をして青年たちに書いて
もらいまして、五、六十項目ぐら
いになりましたか、それらの項目
一つ一つについて討論したんで
す。
たとえば「心が狭いことが人間
関係を妨げている」という一項目
があるんですね。それについて、
具体的な体験をつぶさに話しても
らうんです。どういう場合に心が
狭くて人間関係が悪くなったかと
いうことも、みんなそれぞれ違っ
た意見が出るんですね。こういう
場合も心が狭いんじゃないか、こ
れはこうすればいいと思うという
ふうに。聞いていますと素晴らし
い生活の知恵が出て来るんです。
次にそれでは、
「心を広くする
にはどうしたらいいだろうか」と
問題を提起して、話す時間がない
から意見を書いてもらう。そうし
ますと、私ら一人で考えても思い
- 14 -
もおよばない多面的な答えがまた
出てまいりましてね。実生活に則
した知恵ですから本当に参考にな
ります。こういう学び方というの
は、鈴木先生のお話のように発見
学習だと思いますし、創造学習だ
といえるのではないかと思ったわ
けです。
鈴木 私たちの学校では、はじめ
道徳の時間では、発見学習はでき
ないという先生が多かったので
す。体育とか音楽、図工について
も、否定的に考える先生が多かっ
たのです。しかし考えてみると、
昭和のはじめごろは、図工とか音
楽は創造とはいわなかったけれ
ど、創作活動とか表現活動といっ
たくらいで、考え方は創造なんで
すよ。問題は、先生方の構えなん
ですね。ですから山田先生のそう
した勉強の仕方はまったく同感な
んです。
山田 私たちは、全体として一つ
の舵を取るといいますか、一つの
方向を皆がつかんでいくことがポ
イントだと思っているんです。た
だ平面的にぶつかりあっただけで
は、創造にはならないんだと思い
ます。一つの方向について進路を
提供するのに私たちを使っていた
だくわけでして、強制するわけで
はないんです、
そうしている間に、
みんなの討論がいい方向に流れて
ゆきますと、確かに抵抗なしに、
みんなもよくなってゆきますね。
鈴木 これは大事な問題ですね。
今の先生方は、とかく、中学の先
生ならば高等学校へ、高等学校の
先生ならば大学ヘ一人でも多く自
分の生徒をいれたいと夢中になっ
ていますから、どうしたって毎日
の授業が、
発見学習にゆかないし、
生徒もあせってしまうんですね。
発見学習というのは、時間も多く
とりますし、苦労もやはり大変で
す。先生が、教育本来の目的を見
失わないで舵をとるということは
大切ですね。
山田 人間教青という観点から考
えると、人それぞれ条件が違うん
ですね、困難なこと、苦しいこと
が、それぞれの立場や条件のなか
で無理もないことばかりなのです
ね。ですから、そこから抜けでる
にはどうしたらいいかということ
になれば、一義的な、結論的なこ
とは簡単には出てきませんよ。
- 15 -
鈴木 だけど、
今の学校教育では、
どうしても、ある一つの結論を先
生が頭にいれておいて。それに一
致させればよい、そちらへひっぱ
ってゆこうとしてしまっているの
が現状ではないでしょうかね。
和田 今のお話のような教育の根
本が、どこの小学校にもゆきわた
ったらこれは完全な教育革命です
よね。というのは、私なんか見て
いますとね、今の学校で本筋の教
育らしいことをまあまあ比較的に
やれるのは、小学校だけだと思う
んです。中学や高校になると、こ
れはもう手のつけられない状態に
あるのが現実ですね。さっきも鈴
木先生が言われたように中学・高
校は進学のための勉強だけでね、
先生も生徒もただガリガリ成績を
あげることばかりに夢中でね。
私のところにくる中学生や高校
生も益々程度が低くなって、秀才
というのはガリガリ物をたくさん
暗記したんですから、もう頭が固
いですよ。そういうのが一流学校
に入って役人かなんかになるんで
すから、まったくバカみたいな役
人が沢山できるはずです。物はい
っぱい知っているかもしれません
が、まるっきり人間としては何も
創造力がないんでね。それは、自
分が生きているという自覚という
か自信というか、そういうものが
ないんですね。だからそういう秀
才が役人になってホッとするとお
金がほしくなったり、地位があが
って貫禄をつけるかしか考えるこ
とがなくなるんですね。賄賂をも
らったり、ロクでなしが一杯でき
ている今日の社会は、私は、今ま
での教育がつくったんだと思いま
すよ。これは、もっとヒドくなっ
ていくと思うんです。それでこの
ままいったら、あと十年、十五年
たったら、どんなになるか、これ
はどこかで何とかこれを食い止め
ていかないといけないと思うんで
す。それではどこで、どうやって
食い止めるか、私は、今おっしや
ったような方向においてしかない
と思うんですね。
創造性の考え方
――産業界と教育界 ――
編集部 おそるべき教育の退廃と
いうのでしょうか。
こんどの号
(四
- 16 -
月号)にいただいた先生のお原稿
にも詳しくふれて、憂えておられ
ますね。
お話は少し違いますが、最近の
産業界でも、創造性ということは
大変な問題ですね。技術開発のみ
ならず経営全体において創造性の
必要が言われていますが、これに
ついて先生方はどうお考えなので
しようか。
和田 私たちの考えとは大分違う
ようですね。最近読んだ本で、湯
川秀樹さんと市川亀久弥さんの
『生きがいの創造』の本なんか読
んでも、創造性ということを、有
力な発明、発見をする能力と考え
ているんですね。技術的な創造力
を高めるために頭の回転の仕方を
どう変えてゆくかが、創造性の教
育なんですね。人が今までしなか
った新しい発見を可能にする方法
というところに主眼があるんです
よ。これは、一面、産業界の要請
にもマッチするところなんです。
しかし教育の上では、そういう
考え方ではおかしいと思うんで
す。世の中に、いくら過去にあっ
た事柄でも、子どもたちに、自分
が考え、自分で気がつき、自分が
発見してゆかせるということが教
育では問題なんですね。だいたい
技術上の問題でなくても、精神的
な問題にしても、私なんか四十何
年考えて「ああそうだ、そうだ」
と気がついたことを、ふりかえっ
て見れば二千年も昔から多くの人
がとっくに言ってしまっているこ
とばかりですね。何ひとつ新発見
というようなものはないですよ。
といって、何もないけどもそれは
、、、、、
自
分
の
も
の
で
す
よ
ね
。
教
育
に
お
け
、分
、の
、も
、の
、
る創造性というのは、自
を生みだしてゆくということじや
ないかと思います。そういった教
育基盤の中から、ある時は、非常
に優秀な人がパッと出て大発見を
するかもしれません。でもそうい
う例外や特別なもののみを考え追
ってゆくのは邪道だと思います
ね。
山田 人間の生き方にしてもそう
ですね。特別なものを求めてゆく
生活には間違いが出ますよ。奇嬌
なものが出来てきますね。
鈴木 確かにその通りで、今産業
界でいわれている「人間開発」と
いうのでしょうか。それは、斬新
- 17 -
なアイディアをうんで、それで事
業に経済的な利益を得ようといっ
た、一種の天才教育なんですね。
しかし私の学校でやっているこ
とは、どこの学校でもやっている
ことで、特別な変わった授業をし
たり求めたりしているわけではな
いんです、ただ、子どもたちの発
言を多面的に取りあげていこうと
いう考え方が根本なんです。
それからもう一つ、創造的とい
うことは、新しい物をつくりだす
という意味もふくんでいるんです
から勿論、今までにない新しいも
のを子どもたちが考え出す場合だ
ってあると思います。しかし、そ
れは期待外の特別な場合だけであ
って、一般には今、和田先生がお
っしゃったような「今まであった
ものだけれど、その子にとっては
初めてのもの」 ――ここが大事だ
と思うんです。その子どもが自分
で考え出したもの、まねないで作
りだしたもの ――これも創造とい
う活動だと思うんですね。
今日、創造性の教育で一番大切
なことは、その子にとって新しい
物をつくりだしたときの心の喜
ぴ、
「ぼくはあんなものをつくっ
たんだ」という喜び、その喜びを
求めさせ、味わわせることだと思
うんです。これを忘れてしまって
は、本当の教育はできないんで ‥
‥。
だから子どもには、今までにあ
ったものでもそれでいい訳で、「そ
んなものは昔からあった」などと
言って子どもの心を押さえてしま
うことが恐ろしいことなんです
ね。先生が「ああ、いいことを考
えだしたね」と言って励まし仕向
けていけば、子どもたちの創造的
意欲と活動がどんどん湧いて活発
になるんですよ。
山田 そういう喜びというのが生
きている喜びというんでしょう
か、
「生きがい」というんでしょ
うか、そういうものだと思います
ね。今日青年たちの無気力は、そ
ういう喜びを知らないからなんで
しょうね、あんまり何事も機械化
され、便利になりすぎていますか
らね。
編集部 結局創造性というのは、
自分の力を最高に発揮するという
ことなんでしょうね。
- 18 -
心のわくをはずす教育
――思いを止める
ということ ――
編集部 既成のわくというのでし
ょうか。子どもたちの心、若い人
たちの心が外的なわくの中にはま
りこんでいるのをふっと連れもど
す工夫なり方法があるでしょうか
ね。
和田 結局は鈴木先生の言われた
ことにもどるかもしれませんが ‥
‥、この頃、塾にくる子どもたち
をみていて一番気付くのは、疑問
をもたないことですね。持たない
というより持とうともしません
ね。だから一生懸命スキを見せて
打ちこんでこないかと、いろいろ
やるんですが、それでも引っかか
ってこないですね。まったく頭が
固いんですね。先生や親から言わ
れたことをソックリそのまま覚え
てれぱいいのだという根性になり
きってるんですね。
山田 一番安心というか、危険が
ないですからね。
大人っぽいです。
和田 たとえば、こういうことを
言ってやるんです。ジス イズ ア
ドッグ(
) ――こ
This
is a dog
れは犬である、
と訳すんだけれど、
「犬で」の「で」という字はどこ
にあるのと聞くんですね。実はこ
れ、私が中学一年の時に本当に困
った問題なんです。こういうこと
が英語にはいくつもあるんです。
先生にいくら叱られても聞いたん
ですよ。今の子もそうなのだと思
いこんでいたら、そうでもないん
ですね。アレ!と思わないかなと
思ってこんな質問するんだけど、
さっぱり反応がないんですね。
山田 まあ、そうでしょうね。
和田 もっと分かりにくい問題は
分数の割り算です。今の小学校で
はどういう風に教えておられる
か。私は小学生のとき、どうして
「ひっくり返して掛ければよい」
かが分らなくてね、これも先生に
何回質問しても、先生はただ「ひ
っくり返して掛ければいいん
だ!」と怒ったように言うだけな
んですよ。こちらは気分が悪くて
悪くてね。
編集部 先生のほうは、機械的に
そうすればいいんだ、理屈はあと
から分かってくるんだと思ってお
られるからでしょうかね。
- 19 -
和田 私がああ、成る程、そうら
しいなと自分なりに分かったのは
大人になってからですね。大人で
もこれを聞くと大抵カプトをぬぎ
ますよ。
私は大体、小学校一年の時にね
+ = はそれはそうだと
思ったんですが、 + =
‥‥以降がどうしても気分が悪く
て困ってしまいました。ハテな、
最初の式のプラス1と次の式のプ
ラス1の二つの1がどうして同じ
なんだろう。何か幅がちがうよう
に思えるです。だから小学校の時
は先生がどんなに質問されても、
頑として答えませんでしたね。と
にかく気分がすっきりしないから
なんです。2タス1は3、3タス
1は4という答は知っていても、
どうしても癪で答える気にならな
いんですね。だから小学生時代の
算術は、最低の成績でした。
今の子は、既成品みたいに、式
と答えをパッパ、パッパ呑みこん
でいるだけで一時は成績があがっ
ても最後は消化不良になります
よ。
鈴木 面白いですね。
この間もね、
ある知り合いの方からそのお子さ
んが算術の宿題を自分流に解いた
ら、先生に「教えた通りになさい」
と叱られた話をされていました
が。子どもさんの方は、どうして
自分流で悪いのか合点がいかなく
て困っているんですね。職員会の
ときに「うちの先生方は、まさか
こんな教え方はしないだろうね」
と言って念を押したことでした
が、今の子どもだって疑問をもち
何とか解決しようという気持はあ
ります。あるんですが、先生の方
で、試験の成績をよくさせるため
にそうなっちやうんですね。そし
て、だんだん子どももなれて疑問
をおこさなくなって、遂に先生の
教え方以外は悪いというような観
念をもつことになってしまうんで
すね。創造性の教育とまつたく反
対の教育ですね。
編集部 そのことは、家庭でも大
切なことですね。
鈴木 家庭もそういう考え方でい
ないと、子供は大成しませんよ。
和田 私のところにくる子どたち
には、鈴木先生のお知り合いのお
子さんみたいな問題がいっばいで
ね。だけど子どもの方は、学校の
- 20 -
1
1
2
2
1
3
方式でないと点数が悪いもんだか
ら、頑として聞きません。君がそ
れで満足できれば、点数なんかど
うでもいいじゃないかと言ってや
るんですがね。子どもはだんだん
バカになっちやいますよ。英語の
オブ( )
ofって何だと聞きますね、
すると「の」だといいますが「の」
なんていう英語はないですよ。た
またまそうなっただけでね。こん
な硬直してしまった知識を無闇や
たらに押しこむことが、どのくら
い子どもの頭を固くしているか ‥
‥。
山田 頭だけでなく、人間も悪く
しますね。冷酷な思いやりのない
人間をつくっていくんじゃないで
すか。
鈴木 今まで創造的な人間という
のが、何か変わり者といったよう
な感じが強かったですね。適応性
のない子と言った感じですね。新
しいものをつくるのは変人みたい
にね。一見既成のわくを破ること
なんですからそう見えるのでしょ
うが、実際に、適応性のある人、
外界に対して弾力のある人でない
と創造的な活動はできないんじゃ
ないですか。
山田 そういうことをハッキリと
データで示してくださったこと
は、本当に有難いですね。
創造性の源は、結局、愛という
ようなものがつくりだしてゆくん
じゃないかと思いますね。小さい
自分の利益だけしか見えない人
は、創造性は出てこないんじゃな
いですかね。
編集部 逆にいって愛につながる
創造性こそ価値があるんでしょう
ね。
和田 そのこととも関連するんだ
けれど、私はね、創造性の開発と
いうことで、実証的に証明はでき
ないんですが、鈴木先生とは違っ
た方向で昔から考えていることが
あるんです。勿論、鈴木先生の言
われる方向と併用しなければなら
ないことなんですが‥‥。
それは、
創造性の開発ということは心とい
うか頭というか、それを開放する
ことだと思うんですね。わくをは
ずしてやることなんですね。それ
は結局頭を空っぽにすることだと
思うんですね。鈴木先生が言われ
ているような方向を動的だとする
と、私の考える方向は静的な方向
- 21 -
だと言ってもよいのですが。極端
に言うと、思いを止めるほうなん
ですね。経験上、思いを止めるこ
とによって、人間の活動範囲が広
がるということは事実なんです。
教育というのは、人間らしさ、
人間の特徴を十分に発揮させるこ
となのだとすれば、
それは一つは、
今の学校で主力を注いでおられ
る、知能・知識といった文化能力
の開発であり、もう一つは自分を
知る、つまり自覚を持たせるとい
うことなんです。さっき言った静
的な方向というのが、この「自覚
の教育」なんです。それを言うと、
何かすぐ宗教的な何かを連想させ
てまずいんですが、それはやっぱ
り昔から偉い方々が考えている祈
りの生活 ――まあそういうことな
んですね。それを教育の上でどう
やって取りいれていったらよい
か、三十年来の懸案なんですが。
山田 それは、表面的な感情の動
きではなく、人間の深い所にあっ
てしかも非常に感受性の鋭い ――
そういった霊性の自覚ということ
だと思うんです。そういう自覚を
もたれた人は太陽の輻射熱のよう
に、途中を問題にしないで相手の
核心にポンと入りこみ、伝わって
ゆくそういうものではないでしょ
うかね。
和田「私の言うとおりにやりなさ
い」と言ってやらせるのが、
「キ
チンと坐って」
、なんですがね。
そうすればどうだという数字にあ
らわれるような風にはなりません
が、とにかくそういう経験をさせ
ることは、意味がなくはないと思
っています。そこから本当の生活
ができるようになってくるんだ
し、また、頭の働きも十分発現さ
れるんだと思うんですね。事実何
かにひっかかっているような頭で
は、
十分な働きは出来っこないし、
窮屈な考えしかできないと思って
いるんです。
編集部 鈴木先生方が目ざされて
いる「創造性」は、それをつきつ
めてゆくと、和田先生がお話にな
った「思いを止め」たときに実現
する生命の働きの一面というか、
働きそのものじゃないんでしょう
かね。ただ学校教育の中で、殊に
そういう静的な面を深めることを
方法化してゆくことは大変困難な
ことでしょうね。
- 22 -
和田 今の学校教育の仕組みの中
では不可能に近いかもしれませ
ん。
鈴木 私たちの場合でも方法化と
いうことでは、例えば評価に当た
って、どうしても教師の主観、人
間観が出てくるといった、問題が
沢山残っています。でも職員全体
で研究しあうということは、教育
的にも大変意味のあることだと痛
感しています。
和田 問題は教師自身ですね。
編集部 長時間ありがとうござい
ました。この座談会がきっかけで
日本の教育界に新風が吹きおこる
ことを念願して終わりにしたいと
思います。
まみず第三巻 第五号
昭和四十三年五月号
昭和四十九年一月十五日刊
『かなめ』第六号より
特集テーマ
教育に於ける
鍛錬の意味と方法 より
人間の陶冶性と鍛錬
市来政連
古来人間とは何かという問いに
対して
「人間は社会的動物である」
「人間は言葉を話す動物である」
「人間は道具を作る等物である」
「人間は工作する動物である」
「人間は労働する動物である」
「人間は遊ぶ動物である」
「人間は文化を創造する動物であ
る」
等々、人間の他の動物と異なる活
動の面を捉えて定義したものが多
いが、オランダの教育学者ランゲ
フェルトは、人間の特質をその陶
冶性にあるとして、
「人間は教育されうる動物である」
と定義している。ランゲフェルト
のこの定義は人間の特質の基本を
とらえていると思う。人間が言葉
を話すのも、道具を作るのも、工
作するのも、労働するのも、文化
を創造するのも、社会的な活動を
するのも、すべて、人間が教育さ
れうる陶冶性をもっているからで
ある。もし、人間に教育されうる
陶冶性がなかったなら、人間も他
の動物と同じく、何万年たっても
原始と同じ本能的行動を繰り返す
ことしかできないだろう。
- 23 -
人間が教育されうる陶冶性をも
っているということは、同時に、
人間は教育されなければならない
存在であることを意味している。
ペスタロッチが「人間は教育によ
って人間になる」といったのは、
このことの端的な表現である。
インドで発見された狼少女の例
は、陶冶性をもって生まれてきた
人間の子どもでも、人間の中で教
育されなければ人間になれないこ
とを示している。
本号の主題である「鍛錬」は教
育の方法の一つであるが、鍛錬が
教育の方法として効果があるの
も、人間が鍛錬すれば変わるとい
う陶冶性をもっているからであ
る。
ところで、人間が陶冶性をもつ
ということはどういうことだろう
か。
私は「かなめ」第四号に「情の
善玉と悪玉」と題して、情の教育
について、脳生理学の説を受け売
りする拙文を書いたが、
「教育に
おける鍛錬」の問題も、やはり脳
生理学の説に従って考えたいと思
う。
私は脳生理学については全くの
素人であるが、数年前、脳生理学
の権威、故時実利彦先生の『脳の
話』
『人間であること』
『脳を考え
る』等の諸著書を読んで、初めて
脳の構想とその機能を知り、長い
間の疑問であった人間の心の働き
がだいぶわかったような気がし
た。このごろは、教育の問題も宗
教の問題も、更に社会の問題も、
たいてい時実先生の脳生理学の説
と結びつけて考えることにしてい
る。
次にのべる脳の構造や機能はす
べて時実先生の説の受け売りであ
る。
―― 中 略 ――
戦前八幡製鉄所に、熔鉱炉の焔
をみつめていて、焔の色によって
熔鉱炉の溶けた鉄を流し出す適時
を決める名人がいたが、
この人は、
長い間熔鉱炉の焔をみつづけるこ
とによって、その視覚野の中に、
焔の色を見分ける能力をもった神
経線維の配線構想をつくりあげた
のである。
音楽家の鋭敏な音感や、食通の
微妙な味覚も、音を聴く刺激や食
物を味わう刺激を、耳や舌を通し
- 24 -
てそれぞれの分野の神経線維の配
線構想を発達させたのである。
体操選手の巧緻な運動や、演奏
家の指の動きや、職人の物造りの
技能など、主として運動野の神経
細胞を刺激しつづけることによっ
て、それぞれの運動に適用する神
経線維を伸ばしたのである。
このように、大脳の新しい皮質
のそれぞれの分野に、同じ刺激を
繰り返し与えて、ある能力をもっ
た神経線維のコンピューターをつ
くり上げることが鍛錬である。鍛
錬によってできる能力は、目や耳
や舌や腕や指にあるのではなく、
すべて大脳の新しい皮質のそれぞ
れの中枢にあるのである。目や耳
や舌や腕や指は、ただ情報を受け
てそれぞれの中枢に伝え、またそ
れぞれの中枢からの命令によって
動くだけで、末端の機関には何の
能力も備わっていない。
「あの職
人は腕ができている」というが、
正確には「あの職人は腕を十分動
かす運動野の神経線維の構造がで
きている」というべきである。要
するに鍛錬によって発達するの
は、大脳の新しい皮質の中のそれ
ぞれの中枢の神経線維である。
鍛錬によって発達するのは、感
覚や運動の中枢だけでなく、思考
・意思・欲望・情操などの中枢で
ある前頭連合野も、鍛錬によって
発達する。教育における鍛錬とし
て、最も重要なのは、この前頭連
合野の鍛錬である。なぜなら、本
能や情動の座である古い皮質を常
に監視し統御して、人間としての
正常な活動を保たせているのは、
この前頭連合野の機能だからであ
る。新しい皮質の各分野も、前頭
連合野の発する促進や抑制の指令
によって、分裂を生じないように
統御されているのである。
学校教育も、家庭教育も、社会
教育も、更に宗教教育もおよそ教
育と名のつく仕事の大部分は、前
頭連合野の神経線維の配線構造を
よりよくする営みであるといって
も過言でないと思う。また、学校
における各教科の教育に共通する
ことも、
前頭連合野を対象として、
その神経線維の配線構造をよりよ
くするための営みであるという点
にあると思う。
神経線維の配線構造ををよくす
るためには、たえずよい刺激を適
- 25 -
正に与えなければならない。今日
学校教育が混乱し、その効果が疑
われているのは、よい刺激を適正
に与える配慮を欠いて、むやみや
たらに知識の詰め込みをやってい
るからである。このことを続けて
いたら、児童生徒の前頭連合野の
い びつ
配線構造は、益々 歪 なものにな
ってしまうだろう。
現在児童生徒の受けている刺戟
は、学校における知識の詰め込み
だけでなく、テレビやマンガや流
行歌や、その他様々な不良不純な
刺戟があまりにも多い。これらの
刺激が、児童生徒の前頭連合野に
どんな神経線維の配信を伸ばして
いるのだろうかと考えると、肌に
を粟を生ずる思いを禁ずることが
できない。
だからといって、ルソーが説い
たように、児童生徒を社会の悪い
刺激から引き離して、
自然の中で、
すぐれた指導者が一対一でよい刺
激を与えるという方法を実行する
ことはとうていできない。われわ
れはこの混乱した社会の、不良不
純な刺激の洪水の中で、児童生徒
を鍛錬していかなければならな
い。
鍛錬とは、大脳の新しい皮質の
それぞれの分野に、ある能力を持
つ神経線維の配線構造を形成する
ために、絶えず同一の刺激を与え
ることであるとするなら、鍛錬の
方法は、最も効果のある基本的な
刺激を選んで、それを繰り返し与
えることである。スポーツの鍛錬
で、
私の忘れない経験が一つある。
私は昭和四十一年四月から、四
十七年三月定年で退職するまで、
伊豆七島の中にある新島という人
口わずか三千の小さな島の高等学
校に勤務した。
四十三年五月、
二年生女子三名、
一年生女子四名で、初めてバレー
ボールのクラブを結成して練習を
始めた。当時新島分校は中学校の
校舎を借りて夜間授業を行う定時
制だったので、クラブの練習は放
課後の九時過ぎから十時過ぎまで
のわずかな時間しかできなかっ
た。それに当時は体育館もなかっ
たので屋外照明灯下の校庭で練習
する外なかった。部員七名では、
試合の練習をする相手チームがな
いので、ただ、バレーボールの基
- 26 -
本的技術を毎夜繰り返して練習す
るだけだった。幸い都内の高校で
バレーボールの選手だった青年
が、無給でコーチを引き受けて、
大松式の猛訓練をしてくれた。七
じか
名の部員は直にコーチの指導を
受けて、はた目には全く味気ない
基本練習を一夜も休まず続けた。
彼女たちがその年の秋の東京都高
等学校体育連盟主催の定時制高校
バレーボール大会に出場したいと
申し出たとき、結成してまだ半年
も経たないクラブが、都内の大き
な高校の選抜チームと試合する実
力などないと思い、出場を認めな
いつもりだった。ところが、旅費
を自弁して出たいというたっての
希望だったので、一応出場させて
みることにした。
大会会場の都合で新島分校は第
ニ部で試合することになった。最
下位の第四部ならともかく、上位
の第ニ部では恐らく勝負にならな
い、惨敗を喫することと予想した
が、意外に勝ち進んで決勝戦まで
進出し、第ニ部で準優勝の好成績
を収めた。翌四十四年秋の大会で
は第ニ部で優勝、四十五年秋の大
会では第一部に編入され、選りす
ぐりの強豪チームと対戦して準優
勝の栄冠をかちとった。練習試合
をする相手を持たない十名足らず
の部員が、
基本練習だけをやって、
東京都で二位の成績を上げたこと
が不思議でならなかった。
彼女たちがこのような成績を挙
げることができたのは、彼女たち
の運動野の神経線維が、試合に臨
んで十分基本の技術を発揮できる
よう鍛錬されていたからだと思
う。そして基本技術の練習だけに
専念せざるをえなかったことが、
かえって彼女たちの善戦の原動力
となったものと思う。
念仏の行者に妙好人が多いの
も、たえず仏を念ずることによっ
て、その前頭連合野に仏のように
円満でありたいという思考趣向が
鍛錬され、円満な精神活動をする
神経線維のソフトウェアができあ
がるからだと思う。
はじめ塾で、人生の宝庫を開く
三つの鍵として、
「ケチな根性は
いけない。イヤなことはさけない
で。ヨイことはする」ということ
を塾生の胸のポケットに入れさせ
ているのも、きわめてわかりやす
- 27 -
い言葉で塾生たちの前頭連合野の
思考と意志と情操の神経線維を鍛
錬しているのだと思う。
人間を人間らしく育てるために
は、その前頭連合野の活動を自由
活発にする鍛錬をしなければなら
ない。ところが現在学校で行って
いる教育は、過多な知識の詰め込
みによってかえって前頭連合野の
活動を萎縮させているように思
う。このような教育を改めて、正
しい鍛錬が行われるためには、受
験体制を完全に廃止し、教材を精
選し、児童生徒の創造活動を豊か
にする学校に変えなければならな
い。
手書き未発表稿・三つ
(一つは書きかけ)
山人を見る
和田重正
それは自分がまだ幼い、今から
七十年も前のことだが、想像を絶
する大悲劇がこの地に起こった。
その豊かなそして激しい愛情がす
べての山も川も田んぼも畑も、一
切のものを包み育んでいたわが母
が、熱病であの世とやらへ行って
しまったのだ。
幼いわれわれ四人の同胞は茫然
としてあたりの山河を眺め、何処
までも続く白道の傍に咲くスミレ
やタンポポに見入り、土手に燃え
るマンジュシャゲの群れを何かの
焔と見て嘆いたものだ。
場所は大和国、
御所市の近くだ。
そのあたりの風景には今も時々
接する機会がある。そしていつの
間にか移り変わったこちらの心の
変化は、この山河も野の花の風情
までも変えてしまった。懐かしさ
は元のまま、今は悲しさはなく伸
び伸びと明るい風景を見るばかり
だ。
人の心の移り変わりは風物をも
変える。
そうだ、日本の山河がまたして
もあの荒々しい戦争の息吹に巻き
込まれることを許してよいだろう
か。
- 28 -
いのちのつながり
和田重正
ある夏の日、用事でよその家へ
行きました。きれいな奥さまに案
内されてお座敷へ入り、ご挨拶が
すむかすまぬに、その奥さまが小
声で、
「まぁ、イヤですわ。
」
とおっしゃいました。おや、と思
って奥さまを見ると、奥さまは大
きい蟻を一匹指でひねりつぶして
いらっしゃるのです。そして、こ
ちらの驚きなど全く意に介せず、
その蟻を灰皿の中へポイと捨てて
何食わぬ顔で私に座布団をすすめ
たり、天候のことなど言ったりし
ていらっしゃるのです。その間、
蟻は死に切れず足を動かしてもが
いています。私は苦痛に堪えず、
灰皿のなかのマッチ棒をとって、
「ゴメン。
」
と言いながらそれで蟻にとどめを
刺してやりました。
そして奥さまに向かって、
「罪もないのにひどい目にあうも
のですね。
」
と軽く言いました。奥さまは優し
い笑顔をこちらに向け、
「さようでございますね。
」
と言われましたが、その美しいお
顔には「罪があるじゃないの。人
の座敷へ上がってきたんですも
の」と書かれていました。
ある家へ物貰いが来ました。昔
の乞食とはだいぶ趣がちがってい
ます。服装もひどいボロではあり
ません。玄関に立って、無愛想に、
「何かくれ。
」
と言うのです。
食べ物をやろうとすると、
「お金をくれ。
」
と言って食べ物には目もくれませ
ん。そこの家の奥さんは仕方なし
に百円出して帰ってもらいまし
た。そのあとで奥さんは小学五年
の男の子と三年の女の子に向かっ
てしみじみとした声で言いまし
た。
「勉強しないと、あんなになっち
ゃうのよ。ねえ、いやでしょ。
」
市の公園で近くの施設の障害児
たちが十五人ばかり、箒を持って
木の葉や紙くずを掃き集めていま
した。
(三十一ページへ)
- 29 -
小学校1年生
過日の資料再点検作業で見つかった、乾板写真と思われる一枚。
飾り窓がプレスされたボール紙に貼られていて、上段のプレス
文字には「師・恩忘ルル勿レ」
。下段には、筆で校名と児童名が
書かれた紙が貼付されていた。
東京市小日向臺町尋常小學校第一學年一ノ組
大正二年十一月廿六日撮影
重正先生は、写真の変色していない部分のどこかにいます。
どこに写っているでしょう。(答は最終ページ)
- 30 -
そこを通りかかった中年の夫婦
がしばらく立ち止まってその様子
を見ていましたが、奥さんがため
息を吐きながら独り言のように言
いました。
「ああよかったわね、ほんとうに
よかったわ。うちの太郎も花子
もああならなくてよかったわ。
有難いのねぇ。
」
ご主人は、
「そうだよ、うちの子たちにこれ
を見せてやりたいようだ。あり
がたさが分かって少しは勉強も
するだろう。親の言うこともき
くようになるだろう。 ‥‥かわ
いそうだなぁ、この子たちは。
」
と応じながら立ち去りました。
まじめ
和田重正
先日兄の家へ行ったとき、面白
いものを見せられました。それは
大正四年の暮れ近いころ、つまり
わたしの母が死ぬ一ヵ月ほど前
に、当時ニューヨークにいた父へ
出した母の手紙です。
それにはわれわれ四人の子ども
たち一人ひとりについて近況を報
告してあるのですが、その中に、
「重正は椿校長先生から全校生徒
、じ
、め
、の標本としてほめ
の前で、ま
られ候」と書いてありました。
わたしはあまりの意外さに驚い
てしまいました。わたしの記憶で
は、受持の森覚道先生がいつも、
「ご次男さんのワルサには困りま
す」と母にもらしておられた、と
いうことになっているのですか
、じ
、め
、だとほめられたという
ら、ま
記録は全く意外なのです。しかし
これは嘘ではない、事実だったに
違いありません。してみるとわた
、じ
、め
、なところもあっ
しには本来ま
たのだろうか、と考えられるので
す。
それで、この手紙を見てわたし
、じ
、め
、とは何だろうか、また
は、ま
、じ
、め
、はいいことなのだろうか、
ま
自分はまじめだろうか、などと考
えているのです。
まだわたし自身にも答が出てい
ないのですが、面白い話題ですか
ら思いつくままを書いてみます。
お読みになった方がこれをきっか
、じ
、じ
、め
、についてま
、め
、にお
けに、ま
- 31 -
考えくださったら幸いです。
たとえば「あの人はまじめだ」
と言えば、ほめていることになり
ます。しかし、
「彼は酒もタバコ
、じ
、め
、さんだ」となる
ものまないま
とたいていの娘さんは興味を失う
でしょう。これはどういうことで
しょうか。今どきの娘さんは少し
は不まじめの方が好きだというこ
とでしょうか。そうではないと思
います。酒もタバコものまないこ
、じ
、め
、だと思うような、そう
とをま
いう形式的なコチコチが嫌いだと
いうことだと思います。つまり、
その人が酒もタバコものまないと
いう事実を嫌うのではなく、酒も
タバコものまないことを
( 原稿はここで止まっている )
般若心経
般若心経という有名なお経があ
る。仏教のことは何も知らなくて
も、このお経は知っている人が多
いのではないか。
観自在菩薩行深般若波羅密多か
ら始まって羯諦羯諦波羅羯諦波羅
僧羯諦菩提薩婆訶で終わる二百六
十何字かの間に何が説かれている
のだろう。余程味わい深いことが
説かれているのだと見えて古来こ
の註釈書とも言えない説明書がど
の位出されているか知れない。こ
れほど珍重されるのだからと思っ
て中身の字を拾ってみるとむやみ
に無という字が出てくる、その前
には不が沢山ある。要するにこの
お経の主眼は否定語にあるらしい
とまず想像される。なんで、何を、
説明しようとして片端から否定す
るんだろう。その魂胆はいったい
何処にあるのだろう。
いのちと言って誤解があると思
うならば、存在の実体とでも言っ
たらどうだろう。要するにその説
明をしようと思っているのではな
いか。
ところがそんな説明はいくらし
ても、これでよし、ということに
はならない。
道端に咲く雑草の花一つとっ
- 32 -
て、
(その本質というか、実態と
いうか)そのもの自体は何である
かと追究することはできない。追
究しても、これで終点というとこ
ろには到らない。人間(自分)も
同じ、どこまで行っても終点に至
らない。
そこで、
このお経はギャーテイ、
ギャーテイ、ハラギャーテイ、ハ
ラソウギャーテイ、ボヂソワカ、
と結んである。まことにヒトをな
めたお経である。
だけど、なめられない人があっ
てもいいではないか。
ヒトはヒト、
ワタシはワタシと、面を上げて言
い切れるものがあってもいいでは
ないか。
六一・二・一九
大雪の翌日
雪見障子
いま時の若い者は、雪見障子と
いう物を知らないだろう。いや若
い者どころではない。私自身数日
前まで知らなかった。しかもでき
てから数年間毎日坐っている自分
の書斎の窓にそれが作られている
のに気がつかなかったのだ。
三・四日前に来客が書斎に入っ
て来て何気ない風に「まあ、雪見
障子まであるんですね。
」と言う
のを聞いて、カンのいい私は、雪
見障子という風流言葉は何を意味
するかをすぐに悟った。ガラス戸
の内側にある日本障子の、下の部
分約三分の二が上に上がるように
なっていて、それを上げるとガラ
スがはまっている。なるほどこう
すれば障子を開けて寒い思いをせ
ずに雪景が見られる、という寸法
だ。うまいこと考えたものだと感
心した。
それが前述の通り数日前のこと
だが、今日は早朝から粉雪がしき
りに降っている。
書斎の掘りごたつに足を突込
み、脇には石油ストーブを焚いて
十分に温まっている私がその雪見
障子を早速活用したのは勿論であ
る。
おかげで朝から夕方暗くなるま
で降りしきる雪を存分に眺めさせ
てもらった。初め、木の葉の上に
白く積もった景色はまだ十分に雪
景色とは言えないが、段々本格的
になり木の枝の岐れ目あたりに逆
三角形に降り積った様は全くの雪
- 33 -
景色だ。もう地面は勿論、森や林
の木々もフンワリと綿の衣を着て
いる、
風がないので落ちもしない。
実に靜かなたたずまいだ。
小鳥が降りしきる雪の中をせわ
しそうに飛びまわり走りまわって
いる。ジョウビタキというのかノ
ビタキというのか。メジロだかマ
ヒワだか、いろいろなのが入れ替
わり立ち替わって梅やもみじの枝
に止まっては飛び去って行く。
雪見障子とはよく名づけたもの
だ。
近くも遠くも山は見えない。雪
が止んだときどんな姿になってい
るだろう。
山荘は雪見障子の明るくて
五九・一・一九
すべてはうつりかわる
諸行無常ということばは今から
六十年も前、中学二年のときの国
語の教科書に載っていた平家物語
の冒頭の名文句で知りました。当
時は「盛者必衰の理」と結びつけ
て感傷的な印象を強く受けまし
た。その後青年時代に聞かされた
「無常の風に誘われて云々」とい
うことばからは背筋のゾッとする
冷たいものを感じました。
このように若い頃には無常とい
うことばを衰微とか死滅など消極
的な変化の面を示すものとばかり
受け取っていたもので、一種の美
しさは覚えながらも、それは青白
い月光の中の墓石を見る種類のも
のでした。
ところがものごとの移り変りを
よく見るとつぼみが膨らむときも
あり、花咲いて散るときもある。
月光さえも薄れて闇夜になること
もあるが、
朝日の射し昇るときも、
白日輝くときもある。つまり栄枯
盛哀入れ混って行われています。
一瞬の停滞なく行われているもの
ごとの変化を、人情や願望を介入
させず、盛にも衰にも偏らずにあ
りのままにズバリと言ったのが諸
行無常ということばだと、だんだ
んわかって来ました。それに従っ
て、このことばを思っても引き込
まれるような恐怖心も、悲哀を伴
う美感も起らなくなりました。同
時に、昔は、このことばを一般的
事象について言っているものだと
頭では承知していながら、心では
- 34 -
自分の運命に就いての解説だと誤
って実感していた、ということも
わかって来ました。
これは有難いことでした。
自分の身心は、自分以外の無数
無限の事象と分ち難く、無限に複
雑でありながら極めて単純明快な
原理による相互関係のなかで瞬々
に変化している、しかも自分の運
命はすべて自ら選んでいるのだと
いうことを知って、焦ることもな
く、より明るい未来を見ることが
できました。宇宙に満ち満ちてい
るいのちの流れに沿って生きよう
と心がけさえすれば、その人の運
命はその瞬間から今よりもわるく
は絶対にならない道理であるばか
りでなく、それは実証済みの事実
です。
このことが本当に納得できたと
き、諸行無常は一転して光明を発
つことばとなりました。自分にと
ってそうであるぽかりでなく、子
どもや夫婦の問題で苦悩に行き詰
まっている人にこの味わいを伝え
ると必ずホッと息を吐き、生気を
取り戻してくれるのも興味ある事
実です。
能力について
『葦かびの萌えいずるごとく』と
いう本の初めのところに「風船は
どこまで脹らむか」というのがあ
ります。あの詁を中学生たちに話
してからもう三十年か、もっとた
っていますが、あの話は今でもい
い話だと思っています。
あれはつまり、人はみな生まれ
ながらにそれぞれ異なった能力を
持っているのだから、ひとと較べ
て自分の方が勝れていると得意に
なったり、劣っていると思ってシ
ョゲてしまうのはバカゲたこと
だ。少なければ少いなりに、多け
れぱ多いだけ、とにかく自分の持
っている分だけを発揮すればそれ
でいいんだ、という話です。
人は誰でも、ぐるりの人と較べ
てみたくなるのが普通です。だか
ら較べることは悪いことではあり
ませんが、他人とくらべて勝った
負けた、というようなことは大し
て気にするべきことではない、気
にしなければならないのは自分の
力を十分に発揮しているかどうか
- 35 -
ということです。
五十キロの荷物しか担げない人
もあるが百キロ担げる人もありま
す。力のない人が五十キロ担いで
いるのに大力の人が八十キロしか
担がなかったら、五十キロと八十
キロを較べてみれば八十キロの方
が多いけれども人間の値打の計り
方で言えば、八十キロしか担がな
い人の方が五十キロ担いだ人より
劣っているということになりま
す。
そんな人間の値打の計り方がど
こから出て来るのかと不思議に思
うかも知れないが、これにはしっ
かりした根拠があるのです。その
理屈はむずかしいから今は言いま
せん。でも分り易い言い方をすれ
ば、人の幸せの程度は、その人が
どれだけ力があるか、ということ
でなく、自分の力を何%発揮して
生きているかによってきまる、と
言っておきます。
これを自分にあてはめて考えて
みてそうだと思います。私は何を
やっても人並のことはできませ
ん、若い時に好きで、まあ人並み
にできた剣道や鉄棒なども大学を
卒業してからやりませんから今で
は中学生にもかなわないでしょ
う。それから若い頃私は外国語が
好きだったので英語は 〝ぺ 〟 ぐ
らい、独逸語は 〝ペラ 〟 ぐらい
できたのですが五十年もたった今
ではすっかり忘れて全然わからな
くなりました。その他自転車に手
放しで乗るのも得意でしたが今で
はもう両手を使っても乗れないの
ではないかと思います。本を読む
のは子どもの頃から嫌いだった
し、考えてみると何一つとして人
並にできることはありません。そ
れでも私は悲観せずに毎日、ほか
からみたらつまらなく見えること
を、
力いっぱいやっているのです。
ニワトリやキジに餌をやったり草
花や野菜を育てたり、時々頼まれ
て幼稚園や学校などへ行って講演
をしたり、家にいてはお客さんの
お相手をしたり、雑誌や新聞に出
すヘンな原稿を書いたり、それか
ら毎日手紙の返事を沢山書きま
す。どれを見たって一人前の大人
のするようなことは何もありませ
ん。それでも私は朝から晩まで一
分の隙もなくそういうことをして
毎日過ごしています。それで私は
- 36 -
不幸せだ、とは全然思っていませ
ん。
近頃は英語やフランス語などが
ペラペラの人が沢山います。そう
いう人と較べると情ないことで
す。本を読むのが嫌いだからどん
なことについても知識は人並の半
分もないでしょう。畑は大好きだ
けれど、何を作っても本職のお百
姓さんのようには出来たことがあ
りません。大根でも白菜でも大き
いのや小さいのが入れ混ってしま
います
そんな私ですが、人からたいし
てバカにされもしないで人並につ
き合ってもらえるし、食うに困ら
ないどころか、物があり過ぎて困
るぐらい与えられています。これ
では自分が不幸だと思おうと思っ
ても思えません。だから不幸でな
ければ非不幸でしょう。非不幸は
イコール幸せであるかどうかわか
りませんが、
私はこれでいいんだ、
と思っています。躁鬱病の躁状態
のように毎日ワクワクするような
のでなければ幸せ、とは言えない
と思っている人もあるらしいけ
ど、それなら私は幸せでなくても
いいと思うのです。これでいいじ
ゃないか、と私はそう思い込んで
いるのです。
自分のように何をやっても人並
にできない小さな風船でも力いっ
ぱい膨らんでいればそれで申し分
ないではないか、と満足し安心し
ているのです。
五七・七・二七
読書の価値の評価
小中学校の先生の中のある人々
は、読書の、人生に於ける価値を
無闇に高く評価しているらしい。
殊に小学校の先生には読書がよほ
ど価値あるものと思っているとみ
え、いろいろ手段をつくして読書
をすすめている人がある。夏休み
中に何冊読んだか、という報告を
させたり、平生でも(競争心を奮
い起こさせるためか)毎月の各人
読書冊数をグラフにして教室に掲
示するという奨励法を実行してい
る人もある。
このようにともかく多読をすす
める。本の種類を問わずともかく
読むことを奨励する。
これは無論読書習慣の涵養を目
- 37 -
的とするのだろう。
しかし読書習慣がそれほど人生
に於ての価値を認められなければ
ならないのだろうか。いや、読書
がそれほど高く評価されるべきだ
ろうかと言うのである。
多くの青少年を観察すると、読
書過多、読書にあまり価値を認め
すぎたために取り返しのつかぬ弊
害を被っている者が目につく。
いわゆる「アタマ人間」の多発
である。年中、言いわけと屁理屈
を捏ねているばかりで、行動力の
乏しい知識的人物の出現である。
読書によって得る知識が全然役
に立たないと言うのではない。知
識ばかりではない、読書が情の涵
養にも役立たぬとは言わない。し
かしそれらの+(プラス)が行動
ー
力の不発達による (マイナス)
を補っているとは思えぬ場合が大
変に多い。
アタマ人間は子どもでも大人で
も生意気で人に好感を与えない。
これは大へんな損である。自分で
はいい気になっているから損にな
っていることに自ら気がつかな
い、気がついても、それは相手の
せいだと思っている。こんな青年
が激増している。
その主要な原因の一つに、知の
過剰評価があると思う。それを煽
っているのが盲滅法な読書奨励で
はなかろうか。
世界中には億を以って算えるほ
どの書籍が氾濫している。日本に
でも百万の単位で算えるほどある
と思う。その中から、われわれは
一生かかって頑張っても何%を読
みこなせるものだろうか。そんな
目にも止まらぬほど僅かな知識、
そんな程度のもの知りがどれだけ
役に立つだろう。これほど読書を
高く評価するのは、どこかに間遠
いがあるのではないか、と思わな
いではいられないのだ。
原因はわからないが生来読書の
嫌いな人がいるものだ。その人で
もこの文化社会に生存している以
上必要止むを得ないだけの読書は
するものだ。それでもその人は社
会生活にあまり不自由をしていな
い。それは正に事実なのだ。その
読書嫌いが、では読書をしないで
何をしているかと言うと、手足を
動かし、目も耳も働かして周囲を
見ている。殊にぐるりの自然をよ
- 38 -
く見ているのだ。書籍から得る平
ったい知識のモザイクではなく、
深い立体的な存在を味わい取って
いるのである。花を見ても小鳥の
さえずりを聞いても平ったくはな
い。奥深く、そのぐるりの事物と
の微妙な関連を感じ取っているの
だ。
では読書好きと読書嫌いとその
どっちの方がより文化的である
か、人間的であるか、どちらの方
が人生をより豊かにするだろう。
なるほど、
「読書的扁平知」で
も、ないよりある方がいい、そし
て、
そういう知識と更にその上に、
「存在の実物を感じ取る力」があ
ればそれに越したことはないでは
ないか、という反論もあり得る。
なるほどそうだ。だが、これがア
タマ人間の発想による反論なの
だ。
ともかく、むやみな読書奨励は
子どもたちをして価値観の歪みに
追いやるだけだ。
これが読書嫌いな人間の、盲目
的読書奨励精神に対する反応なの
である。
*後 記*
先日宏南先生からこんなお便り
をいただきました。これを見てい
ると早春の風のない日だまりの土
手に寝転んで青空を眺めているよ
うな気持ちになります。人間の暖
かさって何なのでしょうか。嬉し
くてつい先生の了解も得ずに載せ
させていただきました。
先生ごめんなさい。
――
(瑞雄)
笠へぽっとり椿だった
山頭火
――
発行日 記入なし
宏南先生のひとりごとは、はじめ塾塾生
であり自らも塾の経営者である広井瑞雄
さんが、未発表のまま眠っ
ている和田先生の
沢山の書き物の存在を知り、それらに日の
目をみせたいと先生に申し出て編集・
発行
した小冊子。
- 39 -
- 40 -
◇◇
和田重正に学ぶ会の会費は年二千円です。
「ここに帰る」は一冊二百円
(〒別)でお分けします。 ◇◇ 当会活動資金へのご寄付 大歓迎
記
http://wadashigemasa.com/
後
写真ページにも記しましたが五月
末、くだかけ生活舎で資料再点検作
業を行いました。多くの自筆原稿、
写真、印刷物が出て来て、泊まりが
けで行った作業でも全てをデジタル
化保存することはできませんでした。
この四十四号は作業前にほぼ編集を
終えていましたが、新たに出てきた
原稿を先に載せるべく差し替えて、
再編集しました。
「宏南先生のひとり
ごと」はページの都合で、十三号を
先に載せてあります。
・
「まみず」に出会って ――は休載
(平 澤)
写真ページの答
前から二列目 左から五番目
郵便振替口座 00200-2-0044305
加入者名
和田重正に学ぶ会
和田重正に学ぶ会ホームページ
お詫びと訂正
四十三号に掲載の写真のタイトル
を「昭和五十三年 小澤道雄師来寮」
とつけましたが、今飯田保さんから
「来寮は昭和五十二年と思われる」
と連絡くださいました。早速『まみ
ず』のバックナンバーを調べたとこ
ろ、昭和五十三年四月号に小澤道雄
師ご逝去の報が載っていました。
「私どもが心から敬愛申し上げてい
た小澤道雄先生が昨夏突然病床にふ
せられて以来、多くの方々の奇蹟を
願う祈りにも拘わらず三月十六日ご
逝去、享年五十七歳」
誤りをお詫びして写真のタイトル
を「小澤道雄師来寮 昭和五十二年か」
と改めます。
和田重正に学ぶ会機関誌 第44号
平成27年7月1日
発行
発行 〒371-0101 群馬県前橋市富士見町赤城山 1204-1731
和田重正に学ぶ会会長 野村 邦男
編集 平澤 正義