Title Author(s) 伝記・神話・美術史 : 女性芸術家はいかに語られてきたか 米村, 典子 Editor(s) Citation Issue Date URL 女性学研究. 20, p.17-44 2013-03 http://hdl.handle.net/10466/14504 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 17 論文―― 2012年度コロキウムより 伝記・神話・美術史 ――女性芸術家はいかに語られてきたか―― 米村 典子 1 はじめに 本論は,17世紀のバロック時代のイタリア人アルテミジア・ジェンティ レスキ(Artemisia Gentileschi: 1593−1654)と,パリで絵を学んだロシ ア人で,その日記が一時世界的な人気を博したマリー・バシュキルツェフ (Marie Bashkirtseff: 1858−1884)を取り上げ,女性画家が神話化される 構造を検討し,美術史が伝記を通して女性芸術家をどのように語ってきた かを考察しようとする試みである. 「女性芸術家はいかに語られてきたか」とは,いささか大それた副題で あるが,これはリンダ・ノックリンの1971年の有名な論文「なぜ偉大な 1) 女性芸術家は現れてこなかったのか」 を意識したものである.しばしば フェミニズム美術史の口火を切ったと言われるこの文章の問いに,ノック リンは二つの答えを用意した.ひとつは, 「偉大な女性芸術家は存在した が,知られていない」という答えで,実際「知られざる」女性の大芸術家 を発掘する動きは盛んとなった.しかし,「偉大な芸術」の概念が男性中心 の歴史のなかで決定されてきたとしたら,その既存の価値観に合致する女 性の芸術を発見するに留まってしまう.もうひとつの答えは,「女性の芸 術には,女性固有の偉大さがある」というものである.伝統的に「女らし い」と見なされてきた特質を積極的に評価するなら,男性の芸術とは異な る女性固有の芸術の「偉大さ」が認められるだろう.だが,裏返せばそれ は女性芸術家にだけ適用される価値基準があると認めることになり,女性 の芸術は「第二の性」による「第二の芸術」と見なされかねない.ノック リンはこの二つの立場のどちらも退け,むしろ「なぜ偉大な女性芸術家が 18 伝記・神話・美術史 いないのか」を制度の面から指摘しようとした.女性芸術家はそもそも男 性芸術家と同じ出発点に立てなかったのだから, 「偉大な女性芸術家はど のくらいいるのか」ではなく「なぜいないのか」を制度的に考察すること が重要だというのである.この結論に至る論述は当時としては巧みだった が, その結果ノックリンは「偉大さ」については追い詰めることはしなかっ た. 「偉大な」芸術家という言葉は,いったいどのような特質を指すのだろ うか.作品を語る際,様々な形容や状態を表す言葉がその特性を伝えるた めに用いられるが, これほど具体性を欠いた, 曖昧なものはないだろう. 「偉 大さ」は,伝記というテキストを通して作られた芸術家像に貼り付けられ る.それは,美術史という学問の成り立ちや構造と深い部分で絡み合って いるのであるが,同時に正体のつかめない亡霊のようなものでもある.本 発表の最終的目的は,この亡霊を見つめることである. 2 マリー・バシュキルツェフ バシュキルツェフは,1858年にウクライナの地主の家に生まれた.両親 は早くに別居し,1870年に母と母方の叔母や祖父などとともにロシアを離 れ,ヨーロッパ各地をへてパリとニースを拠点に暮らしはじめた.声楽も 熱心に学んでいたが,結核のため声量が落ちて難聴となり音楽方面は断念 する.1877年にパリの画塾アカデミー・ジュリアンに入学して本格的に画 家を目指す中,1884年に結核のため26歳を前に没する.絵画ではなく,没 後に出版された日記が評判となり,世界中で読まれた時期もあったが,現 在の知名度は低い.バシュキルツェフの代表作は,アカデミー・ジュリア ンの女性クラスを描いた≪女性たちのアトリエ≫(図1)とサロンに入選 して話題となった≪ミーティング≫(図2)であるが,前者はウクライナ の首都キエフにあり目に触れにくく,後者はオルセ美術館で見ることがで きるがいい位置に展示されては来なかった.26歳を目前に画家としては未 熟と言わざるを得ないような段階で亡くなったバシュキルツェフを有名に したのは,作品ではなく日記であった.結核で死を予感していたバシュキ 米村 典子 19 ルツェフは,亡くなる半年前に日記のために書いた序文で次のように書い ている. 図1 マリー・バシュキルツェフ,≪女性たちのアトリエ≫, 油彩・布,1881年,145.0x185.0, ドニエプロペトロフスク美術館,ウクライナ. 図2 マリー・バシュキルツェフ,≪ミーティング≫, 油彩・布,1884年,195.0x177,オルセ美術館,パリ. 20 伝記・神話・美術史 嘘をついたり気取ったりしても,なんになろう.そう,明らかに私は,可能な限 りの手段を使ってこの世にとどまりたいという,希望ではないにしても欲望を もっている.早死にしないならば,偉大な芸術家になりたい.もし若くして死ん 2) でしまったら,この日記を発表してもらいたい.これが面白くないはずはない . 3) 105冊のノートにフランス語で書かれた日記は,1887年に出版された . ただし,それはマリーの母と当時ロマンティックな小説を量産していたア ンドレ・トゥリエにより編集された抄録で,筆者本人の意思を無視した親 族による検閲を経たものだった.日記は反響を呼び,早くも1889年には英 4) 訳が出版され ,以後日本を含めさまざまの国で,このフランス語の抄訳 5) を基本に,ときにはさらに短く編集された日記が出版されている . 序文に見られるような「野心」に満ちた発言が女性によってなされると, その赤裸々さを評価する者がいる一方で,否定的な評価も受けることにな る.印象派の女性画家ベルト・モリゾと画家エドワール・マネの弟ウジェー ヌ・マネとの間に生まれたジュリー・マネは,両親がこの日記についてた くさん話をしていたこと,エドガー・ドガがバシュキルツェフのような女 は公衆の面前で尻をたたいてやるべきだと述べたことなどを日記に書き留 6) めている .さらに,20世紀になっても,たとえばシモーヌ・ド・ボーヴォ ワールは, 『第二の性』で以下のように書いている. マリー・バシュキルツェフは有名になりたかったので絵を描く決心をした.名 誉の妄想が彼女と現実の間に介在する.本当は,彼女は絵を描くのは好きでは ない.芸術は手段でしかないのだ.(略)書物や絵画は,彼女が最も重要な現実 ──自分という人間──を公に誇示できるためのあまり重要でない仲介物でしか 7) ないのだ. ボーヴォワールはこの他にも何度かバシュキルツェフについて言及して いるが,全体的に辛辣な口調である.バシュキルツェフの一家は,ロシア に残った母の兄が借金問題などで不名誉なトラブルを起こし続けていたこ と,さらに一家の贅沢な生活を支えた叔母の財産に関わるスキャンダルが 米村 典子 21 訴訟にまでなったことなどが原因で,パリのロシア人社交界において孤立 していた.こうした状況が,世間に認められたいという願望を,早熟で聡 明だったバシュキルツェフに抱かせたことは確かだろう.しかし,ボーヴォ ワールの言うように「妄想」にすぎなかったとしても,バシュキルツェフ が画家としての成功によって「名誉」が得られると夢見ることができたの は,近代だからこそである.女性が働いて生活費を稼ぐことが有閑階級か らの転落を意味するような時代において,ローザ・ボヌールがレジオン・ ドヌール勲章を女性としては非常に早く受け,女性初のオフィシエとなっ たように,視覚芸術は働いて収入を得ると同時に,体面を保ち社会的名誉 を手に入れる可能性を持った稀な「職業」分野だったのである. 1880年代は,女子中等公教育を開始する法律や離婚に関する法律が成立 するなどの変革が起こったが,芸術関係でも,1881年に女性画家彫刻家組 合(Union des femmes peintres et sculpteurs)が設立され,エコール・ 8) デ・ボザールへの女性の入学を求めて運動が展開された .バシュキル ツェフもその組合のメンバーであり,当時のフランスで婦人参政権運動を 行っていたカミーユ・オークレールが1881年に創刊した新聞『女性市民(La Citoyenne) 』に,ポリーヌ・オレルという偽名でエコール・デ・ボザール 9) への女性の入学許可を求める記事を書いている .入学許可を求める嘆願 は女性たちによって何度も行われたが,様々の方面からの反対にあった. 最も基本的な問題として繰り返し議論されたのは,女性が裸体,とりわけ 10) 男性モデルの裸体を見るという「眼差し」の問題であった .バシュキル ツェフを含む嘆願者たちには,女性が男性と同じように裸体を描く機会を えられることが平等であり, 「偉大さ」への道であると見えたのである. しかし, 1880年代には印象派の画家たちはすでに一定の評価を得つつあり, ポスト印象派のセザンヌやゴッホ,ゴーギャンが登場する.過去の芸術に 理想を求める時代は終わり,同時代のモダンな社会を描くモダンな絵画が 時代の先頭を切っていた. 「裸体」を学びたいという要求は,後の時代か 11) らみれば時代錯誤であった . 22 伝記・神話・美術史 3 アルテミジア・ジェンティレスキ:20世紀の評価 女性芸術家が大学の美術史の領域で本格的に取り上げられはじめるのは 1970年代で,その皮切りとなったのは,冒頭に挙げたノックリンの「なぜ 偉大な女性芸術家は現れてこなかったのか」である.以後,1970年代には 「知られざる女性芸術家」の発掘が盛んとなり,それまで姿が見えてこな かった女性画家を「可視化」する動きが活発となる.そのような中で,注 目されていくのがアルテミジアで,1970年代にフェミニズム美術史が盛ん になって以後, 「昔日の巨匠(オールド・マスター)」に匹敵する女性画家 として筆頭に上がる存在となった. アルテミジアは,画家である父オラツィオ(1563−1639)から絵を学ぶ が,父はバロックを代表する画家カラヴァッジョ(1571−1610)ともつな がる人物である.フィレンツェ,ローマ,ナポリなどで活動し,オラツィ オがイギリスのチャールズ1世の宮廷画家だったこともあって,4年間イ ギリスにも滞在している.父に比べ評価は低い状態が続いていたが,1970 年代にフェミニズム美術史が盛んになるにつれ,注目されていく.研究書 の出版は相次いでおり,作品が多く並ぶ大規模な展覧会も21世紀にすでに 12) 2回開催されている . アルテミジアを取り上げた最初の本格的美術史論文は,イタリアの碩学 ロベルト・ロンギが1916年に発表した若書きの論文「ジェンティレスキ父 13) 娘」 とされている.しかし,学術的研究は,その後,1968年のR・ウォー ド・ビッセルが学会誌T KHA UWB XOOHWLQに発表した論文まで目立つものはな 14) かった .ビッセルの論文はロンギの時代にはまだ不正確だったアルテミ ジア作品についての基礎的資料となり,1970年代の女性芸術家関係の文献 でしばしば参照元となっているが, 父オラツィオの研究からの展開であり, 1960年代のフェミニズム運動からの影響はなかったようである. 「なぜ偉大な女性芸術家は現れてこなかったのか」では,筆者のノック リンの専門が近代美術ということもあってか,アルテミジアは以後続く 文献に比べると特権的な扱いはされていない.この論文にはいくつかの ヴァージョンがあるが,最初に発表された雑誌『アート・ニュース』の女 米村 典子 23 性解放運動と女性芸術家と美術史の特集号では,ウフィッツィ美術館所蔵 の《ホロフェルネスの首を切るユディット》 (図3)の白黒図版が巻頭記 事の見開き片側全面に掲載され,キャプションには次のように書かれてい 15) る . ウーマンリブの旗印といっていい作品がアルテミジア・ジェンティレスキの《ホ ロフェルネスの首を切るユディット》(ウフィッツィ美術館,フィレンツェ)で, 主題はこのローマの画家が好んだもののひとつだった.このヴァージョンは1615 −20年頃,つまり彼女が師との性的問題のある関係にあったとされるスキャンダ ルの直後の制作である. 図3 アルテミジア・ジェンティレスキ,≪ホロフェルネスの首を切るユディット≫, 油彩・布,1612−21年,199x162,ウフィッツィ美術館,フィレンツェ. 1970年代には,ノックリンの論文に続いて,女性芸術家を扱った著作が 現れはじめた.エレノア・タフツの『われわれの隠された遺産:女性芸術 16) 家の5世紀』 や,エルサ・ファインの『女性と芸術:ルネサンスから20 24 伝記・神話・美術史 17) 世紀にいたる女性画家と彫刻家の歴史』 は,専門家のビッセルによる先 の論文を参照して,ナポリ派という限定の中でアルテミジアをカラヴァッ ジョに次ぐ者として高く位置づけている.だが,こうした留保やためらい は,この種の書物からは欠落していく.たとえば,ヒューゴー・ミュンス ターバーグは1975年の『女性芸術家の歴史』で, 「アルテミジア・ジェン ティレスキは,1610年に没したカラヴァッジョに次いでイタリアのカラ ヴァッジョ様式で描く画家の中で優れており,当時の最も偉大な芸術家の 18) 1人だった」 と書いている.ミュンスターバーグは,序文ではフェミニ ズム美術史の金切り声とは一線を画した客観性を保つとしているが,アル テミジアに関しては最高の評価をする結果となっている.この評価のイン フレーションは,気づかれていなかったわけではない.1976年に開催され た女性画家の重要な展覧会『女性芸術家:1550−1950年』のカタログで, アルテミジアの項目を担当したアン・ハリスは,ビッセルに比較的忠実と 思われるタフツの記述についてさえ,アルテミジアの「影響はカラヴァッ 19) ジョに次ぐと述べたとき誇張している」と批判している .こうして,ア ルテミジアは,男性の天才芸術家と対等の才能を持つ「フェミニズム美術 20) 史のイコン」 への道を歩むことになる. 1979年には,1970年代のフェミニズム美術史の集大成のようなジャーメ 21) イン・グリアの『障害物競争』が発表された .タフツ,ファイン,ミュ ンスターバーグらが同時代芸術までを対象としているのに対し,グリアは 19世紀で終えることにより記述対象と時間的距離をとり,同書が本格的「歴 史」研究であるという印象を強めている.この中で,グリアは「大いなる 例外」という見出しで,ジェンティレスキにだけ1章を費やすという破格 の扱いをし,「今日の女性にとり,アルテミジアは昔日の巨匠に相当する 22) 女性を代表している」 と述べている.だが,どれほどジェンティレスキ が「偉大である」と主張しようと,その評価がフェミニズム美術史の外で も共有されなければ,囲いの外にでられない「第二の芸術」の中での評価 にすぎない.そこで待望されたのが,ジェンティレスキの単独研究,モノ グラフィーである.すでに,タフツは,1974年の著作のアルテミジアの章 の締めくくりで,17世紀の主要芸術家なのに1冊の本も書かれていないと 米村 典子 25 23) いう不満をもらしている .それを実現したのが,1980年代に登場するメ 24) アリ・ガラードの研究である . 4 アルテミジア・ジェンティレスキ:19世紀の評価 芸術的評価という裏付けを欠くバシュキルツェフが,20世紀後半には忘 却の淵に沈んでいったのとは対照的に,アルテミジアは「偉大な」女性芸 術家を求めていた流れの中で1970年代以降に脚光を浴びはじめる.しかし, 彼女は19世紀には傑出した存在とは見なされていなかった. 19世紀中頃には,主として英語圏で,女性芸術家の短い伝記を集めた出 版物が見られるようになる. こうした著作に見られるアルテミジア像には, ①肖像画で評価される,②歴史画も描くが,肖像画より重要なこのジャン ルでは父オラツィオより評価が低い,③私生活では,容姿や恋愛遍歴が注 目される,という3つの定型が見出せる.これらの定型は19世紀特有のも のではなく,たとえば18世紀の初めのリチャード・グラハムの著名芸術家 25) を解説した中の短い文章に凝縮された形で現れている . アルテミジア・ジェンティレスキ:彼の娘で,肖像画では父をしのぎ,歴史画に おいても彼にほとんど劣らないほどだった.生涯の大半をナポリで華麗に暮らし た.そして,絵画における才能だけではなく,優雅さと恋愛沙汰によってヨーロッ パ中で有名だった. この定型は,やがて18世紀中頃のホーレス・ウォルポールの『英国絵画 26) 逸話』 をへて,18世紀末にイタリアの美術史家,考古学者で聖職者のル イジ・ランツィ(1732−1810)が出した『イタリア絵画史』(英訳1847年出 27) 版) へと継承されていく.19世紀の英語圏の文献の多くが参照している のは,このランツィと,女性芸術家を扱った最も早い例とされる1858年の 28) エルンスト・フォン・グールによる小冊子『美術史における女性』 ,お よびその書評の体裁をとりながらドイツ語原典の内容を英語で要約してい るとされる『ウエストミンスター評論』1858年7月号の無署名の「女性芸 26 伝記・神話・美術史 29) 術家」と題された記事 である. アルテミジアが肖像画を得意とするという①の定型は, 『ウエストミン スター評論』や,女性芸術家のみを対象とした英語圏で最初の書物とされ る1859年のエリザベス・エレットの『あらゆる地域と時代の女性芸術家た 30) ち』 に, 典型的に見られる .その評判は19世紀にはじまったことではなく, 前出のグラハムやウォルポールのようなイギリス人による言及以前にも, 17世紀末から18世紀中頃のイタリア語文献にも同様の記述があると指摘さ 31) れている .しかし,アルテミジアが非常に多数制作したはずの肖像画は, 自画像(図4)を除けば確実な真作はおそらく1点で,肖像画家と呼べる 32) ほどの数を制作していたかについても,意見の一致を見ていない .筆者 たちがアルテミジアの代表作として挙げるのは,自画像の他にはピッティ 宮(ウフィッツィ美術館)の《ユ ディット》 ,《スザンナと長老た ち》 (図5)などといった歴史 画だけなのだが,その矛盾は意 識されていない.この問題は, ②の定型につながる.肖像画家 とされたアルテミジアは,歴史 画を得意とする父オラツィオと 比較され,才能が劣るとされる のであり,先に挙げたグラハム の著作でも彼女については父の 3分の1程度しか書かれていな い.構想力と教養が必要と考え られていた歴史画はジャンルの ヒエラルキーの頂点に位置して おり,下位に位置する肖像画は 女性芸術家の得意ジャンルと見 33) なされてきた . 図4 アルテミジア・ジェンティレスキ, ≪絵画の寓意としての自画像≫, 油彩・布,1638−39年,96.5x73.7, 王室コレクション,ロンドン. 米村 典子 27 図5 アルテミジア・ジェンティレスキ,≪スザンナと長老たち≫, 油彩・布,1610年,170x121,ヴァイセンシュタイン城, ポンマースフェルデン. 『ウエストミンスター評論』の筆者にとっての「偉大な芸術家」の典型は, ラファエロ(1483−1520)やミケランジェロ(1475−1564)であった.そ れに対し,女性芸術家は「ある程度優れた域まで行ける可能性がある」だ けだとされ,ラヴィニア・フォンタナ(1552−1614),マリエッタ・ロブ スティ(1560−1590) , エリザベッタ・シラーニ(1638−1665),アンゲリカ・ カウフマン(1741−1807) ,ローザ・ボヌール(1822−1890)といった多 彩な時代と地域の芸術家たちの名前があがっている.しかしながら,アル 34) テミジアは含まれていない . アルテミジアをおそらく唯一高く評価していたのは,女性美術史家の 草分けであり文芸評論でも知られているアンナ・ジェイムソン(1794− 1860)である.何度もイタリアを訪れ,イタリア絵画の案内書を執筆して いるジェイムソンは,後の女性芸術家伝の筆者たちが孫引きの文章を書き 28 伝記・神話・美術史 がちなのとは異なり,アルテミジアを肖像よりも歴史を描く画家と認識し ている.だが,「絵画で名声を築いた女性のほとんどが肖像画に秀でてい たことは注目に値する」と認めつつも, 「ルーベンスやミケランジェロの ような人を生み出すには,まず女性という一族の身体組織を変えねばなら 35) ない」と書くジェイムソンは,本質主義的立場をとる .女性は女性的芸 術の領域にとどまるべきだというジェイムソンは, 「女性的」でない画家 アルテミジアに才能を見いだしたが,定型の③に該当する「品行が悪い」 といったコメントを挟むなど,批判的な記述も見られる.ジェイムソンに とって,アルテミジアは「偉大な」女性芸術家がいることを証明する神話 的存在ではなく,女性の本分を踏み外しているという意味での例外でしか なかった. 5 伝記と美術史 アルテミジアは,19世紀に現れだした女性芸術家伝の中で言及されてい るが,その体裁だけを見れば列伝形式は新しいものではなかった.美術の 歴史を「偉大な」芸術家の伝記を連ねることによって語る手法は,伝統的 なものである.その原形は,イタリアのジョルジョ・ヴァザーリ(1511− 74)が1550年に初版を出した『もっとも卓越したイタリアの建築家,画家, 36) 彫刻家たちの伝記』 ,通称『芸術家列伝』にある .若干名の女性に言及 があるとは言え,ルネサンスの芸術規範を形成していくこの「卓越した」 芸術家たちはもちろん男である.だがそもそも, 「卓越した」「偉大な」芸 術家とは,何をもってそう呼ばれるのであろうか. ヴァザーリの『列伝』の問題点を,ジョルジュ・ディディ=ユベルマン は, 『イメージの前で 美術史の目的への問い』で優雅なたとえを用いて, だが的確に指摘している.ヴァザーリは「真珠に糸を通したのだが(彼は 知の財宝を蓄積していたという意味である) ,それは自分の首飾りに形を 与えるためであり(理想的目的のあらかじめ構想された形態) ,そして同 時に威厳のある品物を生み出すためであった(貴族性 QRELOLWjの社会的目 37) 的にしたがって)」のである .ヴァザーリは,真珠の玉,すなわち彼が 米村 典子 29 称揚したい芸術家を取捨選択し,あらかじめデザインした首飾りの形をな すように糸に通していく.そこには,価値の高い首飾りを作り上げるとい う明確な欲望がある.だが,首飾りがそのような目的のために選ばれた芸 術家を集めたものであることは,首飾りが価値あるものに見えることで見 失われ,首飾りの玉であることによって芸術家が称賛され,裏にある選択 と欲望が正当化されるのである.書き手による選択の結果として出現する 列伝が,まさにそこに選ばれているが故に評価されるという転倒を引き起 こしている. ヴァザーリにより語られる美術の歴史は,実際には首飾りのような円環 を描くのではなく,頂点に向けて直線的に進むものであった.ヴァザーリ は,美術が完成に達した時代に自分は属していると考えていた.ディディ =ユベルマンは, そこにヘーゲル的な進歩史観を指摘している.すなわち, 「美術史そのものが完璧さというイデアの,……略……完全な実現へと向 かうイデアの自己実現として定義された」のである.学問としての美術史 の遠い起源が, ここに進歩の概念とともに見いだせる.その頂点はヴァザー リにとっては「完璧さの絶頂」であり,彼より少し年長のミケランジェロ において具現化されている.言い換えれば,この流れをくむ美術史におい ては,イデアに,あるいはその具現化である「神のごとき」ミケランジェ ロにどれほど近いかによって, 「偉大さ」が決定されるのである. このようにしてはじまった学問としての美術史は,18世紀後半に新たな 段階を迎える.キャサリン・M・スースロフによれば,18世紀後半に伝記 の標準的タイトルがLife/VitaからBiographyに変わり,伝記は発見された 「事実」についての実証主義的な記述と小説的虚構とが混じり合った近代 的な形式となった.そして,物語を通して歴史を語ることに学問的客観性 が備わっていると見なす矛盾は意識されないまま,伝記は美術史の方法論 的基本のひとつとなった.そうした伝記において, 「天才」に恵まれた芸 術家は,いかなる特定の歴史的環境をも超越した自立した個人であるとい う意味で「絶対的芸術家」であり,ここに芸術家の近代的神話が誕生した 38) という . 女性芸術家は,かつてはこうした神話化とは無縁だった.19世紀に女性 30 伝記・神話・美術史 芸術家について書いた者たちは,ほとんどが美術史を専門としておらず, そもそも,女性には「偉大な芸術」を生み出す能力を持つ者はいないと 考えていた.ジェイムソンは女性には女性の領域があると主張し, 『ウエ ストミンスター評論』の筆者は教育訓練において同等の位置に立てないこ とを指摘したが,いずれの立場を取るにせよ,女性芸術家の列伝的な読み 物を書いた執筆者たち自身が,女性の芸術はヴァザーリ以来の伝統的な大 芸術の規範には到達し得ないことを前提としているのである.対照的に, 1970年代の著作の執筆者たちは,何らかの形で美術史を学んでいて, 「偉 大な」女性芸術家が存在したことを示そうとした.女性芸術家の「偉大さ」 を巡る立ち位置は正反対であるが,アルテミジアについては19世紀の女性 芸術家伝も20世紀の著作も伝記中心の記述の集合体の中で取り上げられる という点で構造的には共通性があり,女性芸術家の歴史を広く浅く網羅し ているため,概説書や入門書にはなり得ても「絶対的芸術家」を立ち上げ る力は不足していた.しかし,その作品がカラヴァッジョに比肩するとま で書かれるようになったアルテミジアが, 「絶対的芸術家」に非常に近い こともまた多くが認めるところであった.だからこそ,列伝の一部ではな い,アルテミジアの単独研究,モノグラフが待望されることになる. 6 女性芸術家と神話 アルテミジアが20世紀後半, 「フェミニズム美術史のイコン」となるべ くスター街道を突き進んでいくのに対し,バシュキルツェフは,日記や読 み物,研究書のたぐいはたしかに出版されてはいるが,華々しい復活を遂 げることは出来なかった.バシュキルツェフは,死後,画家としてではな く早熟な天才日記作者として「聖女」となっていった.遺族はバシュキル ツェフの好んだ色である白をモチーフとした盛大な葬式を挙行し,巨大な 霊廟をパッシーの墓地に建立した(図6) .遺族の守る彼女の部屋を訪れ 39) る客たちは,聖地への「巡礼」に例えられた .加えて,19世紀末から20 世紀前半にかけて,バシュキルツェフは,小説や雑誌記事でしばしば女性 画家のモデルとして利用され,画家になることを夢見る少女にとり手本と 米村 典子 31 40) なる存在であった .バシュキルツェフは,モダニズムの勝利する20世紀 後半から見れば芸術家として敗者となっていくのだが,日記のおかげで女 性画家の典型と見なされるほどの社会的な認知を得た.近代という時代が, バシュキルツェフのような野心と自我の発露を女性に可能にしたのだが, その近代は彼女も信奉していた「偉大な」芸術の息の根を止めていく. 図6 バシュキルツェフの墓,パッシー墓地,パリ,筆者撮影. 美術史の領域においては,バシュキルツェフの作品は,忘却の中から彼 女を拾い上げたいという 「欲望」 を刺激しなかったと言える.ヴァザーリは, 古代を復活させたルネサンスを絶頂へと導く過程で,中世を否定し,抹殺 しようとする.悪である中世は死に,善であるルネッサンスは不滅の名声 を得るという一種の勧善懲悪の物語である.この構造は美術史の常套であ り,彼方にある精神的なものが目指されなくなった後も,19世紀の美術を 語る際にはアカデミズム対アヴァン=ギャルドという形で見いだせる.そ して,バシュキルツェフは,その力量の問題以前に,死すべき運命のアカ 41) デミズムの側に近いものとして分類されるのである . 32 伝記・神話・美術史 アラン・ボウネスは,芸術家が名声を得ていく過程を周囲の芸術家によ る承認,批評家による承認,画商やコレクターによる後援,大衆による賞 42) 賛という連続する4つの段階に分けて論じた .経済的に順調な成功をす るためには,画家はある程度長生きしなければならない. 「原因がなんで あれ若くして死んでしまうと,芸術的経歴は失敗に見えがちであるし,成 43) 功しない芸術家についての神話が育ちはじめる」 .ボウネスの言う「成 功しない芸術家」の神話にもっとも当てはまる画家のひとりが,ヴィンセ ント・ファン・ゴッホ (1853−90) である.ゴッホは,死の直前にアルベール・ 44) オーリエによってはじめて本格的に論評され ,ボウネスが述べるところ の第1段階から第2段階へ登りつつあった.作品が1枚しか売れなかった という存命中の不遇,それとは対照的な死後の作品価格のとてつもない高 騰,経済的援助をはじめとする弟の献身的支援,アルルでのゴーギャンと の共同生活とその果ての耳きり事件,繰り返される狂気の発作,麦畑での ピストル自殺といった物語に包まれて,彼は世に受け入れられなかった悲 45) 劇の天才となった . ゴッホがパリに出てきたのは1886年であり,バシュキルツェフはその約 1年半前に世を去っている.従って,2人がパリですれ違うことはあり得 なかったが,パリに出て絵を学んだ外国人で,フランス語を母国語としな い外国人の文章――ゴッホは手紙,バシュキルツェフは日記――が没後に 発表されて多くの読者を引きつけた,といった共通点は指摘できる.ゴッ ホの自殺と同じように,バシュキルツェフの死因となった結核という病 も,神話的物語を呼び寄せる.スーザン・ソンタグは,「隠喩としての病」 でロマンティックな病としての結核崇拝,ファッションのようになってし 46) まった状態を示す例として,バシュキルツェフの日記を引用している . だが,20世紀が進むにつれてバシュキルツェフは一般大衆からは忘れられ ていく.日記からも一般的読者が去ってしまい,1970年代に女性芸術家が 取り上げられるようになったときも,特にスポットライトを浴びることは なかった.しかし,1980年代末には,グリゼルダ・ポロックの有名な論文 47) 「モダニティと女性性の空間」 に,日記の1節が引用されることになる. 米村 典子 33 私が熱望するのは自由.1人で出かけ,行ったり来たりする自由,チュイルリー * 公園のベンチに,そしてとりわけリュクサンブール宮殿 の庭のベンチに座る自 由,美術関係のショー・ウィンドーを立ち止まってのぞき見る自由,教会や美術 館に入る自由,夜に古い街路を歩く自由.これが,私の熱望すること.この自 由なしには,人は芸術家になれない.私のようにお目付役がついていて,ルーヴ ルに行くのに馬車と付き添いの女性や家族を待たねばならないとしたら,見たも のがどれほどの役にたつというのだろう.(マリー・バシュキルツェフの日記, 48) 1879年1月2日木曜日) * [筆者注]当時のリュクサンブール宮殿は,フランス政府が購入した作品が芸 術家が亡くなって10年経過するまで展示されていて,国家によるお墨付きを得た 「最先端」の作品が見られる,重要な場所であった. ポロックが論じているのはモダニティとモダニズムの問題である.バ シュキルツェフの文章は,パリというブルジョワの都市が男性と女性の両 極にジェンダー化されているということを示す一例として引用されている 49) にすぎず,ポロックは彼女の作品については触れようとしない .1980年 代は,70年代のように「知られざる女性芸術家」の発掘をすることで男性 による芸術の歴史に女性を付け加えるだけではなく,女性を排除してきた 美術史という学問の構造自体を問おうとする動きがおこり,ポロックの論 文はまさにそうした立場から実際に作品を検討しようという試みだった. ただし,ポロックが取り上げて論じた女性芸術家の作品はほとんどモリゾ とカサットのものであり,バシュキルツェフの画家としての面には触れら れていない.ポロックの論点からは,モダンなパリを描くことはしないバ シュキルツェフの作品が注目されないのは当然かもしれない.アヴァン= ギャルド対アカデミズムという対立構図はどこまでもバシュキルツェフに つきまとう問題である.彼女は神話となるためのカードをいくつも取り揃 えていたが,そして名前を残すことを切望していたが,いったん落ちた忘 却の淵からは少なくとも美術史の領域では浮上していない. 34 伝記・神話・美術史 7 伝記と神話 バシュキルツェフの場合,結核という病による早すぎる死,赤裸々な日 記による成功といった要素が一時的な神話の形成を助けたが,画家として は同時代の評論家の注目を浴びることはなかった.生前にサロンに出品し たときや没後の回顧展に際して美術関係の雑誌に言及は見られるが,その 50) ほとんどが短い大衆向け記事であった .一方,アルテミジアは若くして 死んだわけではないが,ドラマチックな人生の出来事という切り札は持っ ていた.アルテミジアをめぐる19世紀の記述の定型③「私生活では,容姿 や恋愛遍歴が注目される」という項目である.しかし,19世紀には,この 切り札が遠回しな示唆以上に使われることはなかった.ヴィクトリア朝的 な道徳観が支配する時代には,有名なアゴスティーノ・タッシによる強姦 とそれに続く裁判沙汰は,女性向けの書物では触れることのできないタ ブーだったであろう.そして, まさに20世紀には,この部分がクローズアッ プされていき,小説や映画に取り上げられることになる.この事件がアル テミジアにとってどれほどの「傷」になったのかについては,美術史学者 だけではなく小説家や歴史学者まで参加して,当時の裁判記録や結婚観と いった角度から発掘され,調査され,分析され多くの論議がなされている. アルテミジアを主人公とした小説は,美術史家で小説家であり,ロンギの 妻でもあるアンナ・バンティが1947年に発表したものを皮切りにいくつも 51) 出版され ,1997年にはフランスのアニエス・メルレが監督したフランス・ 52) イタリアの合作映画『アルテミシア』 が制作される. ガラードは, 『アルテミシア』 の上映が英語圏で1998年4月にはじまると, フェミニズムの活動家でジャーナリストのグロリア・スタイネムとの連名 53) でこの映画を批判するチラシを作成し上映先での配布を呼びかけ ,同年 54) 10月には雑誌『アート・イン・アメリカ』に批判記事を発表した .この 映画を巡って,女性芸術家を神話化する文化産業と, 「フェミニズム美術 55) 史のイコン」の研究者とがぶつかり合うことになった .ガラードは,映 画の内容に関して, 「歴史的事実」つまり伝記的側面の歪曲や捏造を告発 するが,「事実」の意図的歪曲以上に,アルテミジアの芸術が正当に扱わ 米村 典子 35 れていないことを重大な問題だとした.映画の中の若いアルテミジアが描 く《絵画の寓意としての自画像》は,脚本の都合上実際の制作年代よりは 約20年早く描かれたことになってしまったのだが,その作品のサイズ自体 がまさに4分の1に矮小化されているのである.さらに,現実には彼女と ジャンル違いの二流以下の海景画家でしかなかったタッシに芸術的影響を 受けたようにとれる点も,ガラードは批判している.ただ,その一方で, アルテミジアを「偉大である」と語る際のガラードは,たいへんナイーヴ に思える. メルレのアルテミジアは,真実に対する芸術の責任についてやっかいな問題を 提起している.というのも,多くのアメリカ人が歴史的知識をテレビや映画や小 説から獲得するというドキュメンタリー・ドラマや伝記映画の時代において,歴 史を脚色された解説で見せることは,少なからぬ文化的役割を担っているからで ある.結局,アルテミジア・ジェンティレスキについてこのように誤った提示をし, このように名誉を汚すことは,彼女が女性にとって,とりわけ芸術家にとって重 要な文化的モデルであってきたがゆえに,たいへんな問題となる.男性には多く の役割モデルがいるが,女性には非常に数が少ない.ミケランジェロやカラヴァッ ジョやヴァン・ゴッホが評判を落としても(これらの芸術家たちを扱った映画が 彼らを芸術家として英雄化しているという事実はひとまずおくとして),まだレ オナルドやレンブラントやゴーギャンがいる.そして,さらに何百人もいるのだ. しかし,唯一アルテミジア・ジェンティレスキしかいなかったのである――20世 紀以前の女性芸術家のなかでは,これほど偉大な芸術家のひとりに近いと見なさ 56) れる者はいなかった. ガラードは, アルテミジアを「重要な文化的モデル」で「偉大な芸術家」 に最も近い存在であると述べるとき,まさに芸術家を神話化するシステム にはまってしまっている.アルテミジアはミケランジェロに匹敵する存在 であり,その「偉大な」天才の秘密を語るのが美術史であるという構造自 体は変わりない.19世紀の著作では,アルテミジアは父オラツィオに及ば ないとされるのが通例だった.1970年代以降,アルテミジアは女性芸術家 36 伝記・神話・美術史 の中で最も「偉大な」芸術家のひとりとなった.評価は逆転したかに見え るが,これに対する異論は存在する.ミーケ・バルによれば,2001年にメ トロポリタン美術館で開催されたジェンティレスキ父娘の展覧会では,二 57) 人の作品がそろったことから, 両者の芸術的評価が問題となった .ガラー ドたちはアルテミジアが忘れられた画家であり,過小評価されてきたとす る.それに対し,展覧会でオラツィオ部分を担当したキース・クリスチャ ンセンは,それは過大評価であり,父の方がより「偉大だ」と主張してい る.「偉大さ」が象徴する規範のシステムは,非常に根強いと同時に,流 動的でもあるといえる.ディディ=ユベルマンのたとえを思い出してみよ う.語り手である美術史家は真珠を選び取る.それは,ある者にとっては オラツィオであり,ある者にとってはアルテミジアなのである. とはいえ,ゴッホよりもバシュキルツェフを選び取る者はおそらくいな いだろう.オーヴェール=シュル=オワーズのゴッホの墓への巡礼は今も 続いている.ゴッホはボウネスの言う上昇の過程をまさにたどり,ヴィン セント・ミネリの『炎の人』 (1956年)やロバート・アルトマンの『Vincent & Theo』 (邦題『ゴッホ/謎の生涯』 ) (1990年)といった伝記映画の格好 の対象となった. アルトマンの映画は, ≪ひまわり≫のオークションのシー ンから始まり,ゴッホの葬儀の列席者の歩く様子に続くゴッホと弟の2つ の質素な墓石のアップで終わる.作品が途方もない高額で競られる様子か ら一転して貧しい暮らしをする無名のゴッホにシーンは切り替わり,まさ に画家の死から始まる神話の誕生で映画は終わる.だが,ゴッホの死の時 点で弟は生きている.実際には,テオはいったんオランダに埋葬され,そ の後にフランスに墓は移された.しかし,神話にとって,それは些細なこ となのである. ほとんど知られていないが,バシュキルツェフを主人公とする映画が 1935年に制作されている.しかし,それはフィルムすら残っていない.監 督はドイツのヘルマン・コステルリッツ(1905−88)で,オーストリアで 制作され,ヨーロッパ各国だけではなく,アメリカや日本でも上映され 58) た .バシュキルツェフは晩年に, 性別や正体を隠して作家のギー・ド・モー パッサンと文通をしていた. ここから, 映画はバシュキルツェフをモーパッ 米村 典子 37 サンの恋人として描いている.そして, この映画を見て「通俗的ロマンス」 と切り捨てた宮本百合子によれば, 「実は彼女の絵の教師が貰ったサロン の金牌を,彼女へおくられたものとして持ってくるモウパッサンの愛の偽 59) りに飾られて死ぬ」のである .バシュキルツェフはその後の評価を象徴 するかのように,死を経て神話となったゴッホとは異なり,死に際して偽 物をつかまされる. 8 むすび 芸術家の伝記映画は,神話に包まれた芸術家伝の歴史を背景にして,大 衆化時代の娯楽として20世紀に登場してくる. ガラードが批判したように, 映画はしばしば現実を誇張し,鑑賞者の想像力を奪うような過剰な内面の 描写を行う.だが.物語の進行を通して天才の,芸術家の「偉大さ」の説 明を行うという語り口は,究極的には同じではないだろうか. 美術史は,伝記的手法だけを用いてきたわけではない.19世紀後半から 20世紀にかけては大学における学問領域として美術史が確立していく時期 であり,主観的印象と実証的記述が混じり合った伝記とは異なる方法論の 確立を目指す動きが見られた.芸術家個人を超越した「芸術意志」が美術 を変化させるとするオーストリアのアロイス・リーグル(1858−1905)や, 著作『美術史の基礎概念』において作品の様式に対する分析に感覚ではな い方法的基盤を持たせようとしたスイスのハインリヒ・ヴェルフリン(1864 −1945)といった,大学に本拠を置く研究者が現れる.こうした民族や国 家,時代や流派を意識した学問的歴史研究は,理論として複雑多岐にわた るが,「偉大な」芸術家の支配する美術史とは異なり,芸術をひろく文化 現象として捉える考察といった点で,ヴァザーリ的な美術史とは別の道を 進むものである. ヴァザーリの系譜の進化論的美術史の立場からは,たとえば,アフリカ の仮面やアボリジニの絵画は稚拙な初期段階と見なされるだろう.白人の 男性による白人の男性権力者のための高級な芸術/ハイ・アートの歴史と しての美術史語りは,形をかえてヴァザーリから20世紀のモダニズムまで 38 伝記・神話・美術史 続いていた.1970年代には,彼方のイデアや絵画の本質に向けての進歩と いう大きな物語は崩壊した.フェミニズム美術史も,そうしたポストモダ ン的な見直しの一環として捉えることは出来る.とはいえ,ヴィジュアル・ カルチャーやアウトサイダー・アートやプリミティヴ・アートの議論より も,フェミニズム美術史は――とりわけアルテミジアのように「昔日の巨 匠」と作品が比較される場合には――「偉大さ」の亡霊にまだつきまとわ れている.ヴァザーリのように郷土愛や貴族的社会における政治的なもの が全体の構想に深く関与しているとしても,あるいは今日の研究者がすで に荒らされた畑であるかどうか,新知見や先行研究を巡る同業者間の競争 を考慮して研究対象を選んでいても,選び取った真珠について何かを語り たいという意欲が美術史の根底にはあるだろう. それがある限り, 「偉大さ」 の亡霊を背に語り続けるしかない,それが現時点での筆者のいきついたと ころである. 【注】 1)Linda Nochlin,“Why Have There Been No Great Woman Artists?”A UW N HZV, LXIX, 1971(「なぜ女性の大芸術家は現れないのか? 」,松岡和子訳, 『美術手帖』,1976年5月号) . 2)マリー・バシュキルツェフが,1884年5月1日に,全105冊のうち第104冊 目のノートに書いた日記への序文. 3)Marie Bashkirtseff, J RXUQDO, edité par André Theuriet, Paris, 1887. 4)M DULHB DVKNLUWVHIIWKHJ RXUQDORIDY RXQJA UWLVW1860−1884 , translated by Mary J. Serrano, New York, 1889. T KHJ RXUQDOV RIM DULHB DVKNLUWVHII, translated by Mathilde Blind, London, 1890. 5)日本では1926−1928年に,國民文庫刊行會から『マリ・バシュキルツェフ の日記』として出版された.『文学界』の同人や夏目漱石門下生,森鴎外 などが翻訳メンバーに参加した文学全集「世界名作大觀」中の2巻本.注 3のフランス語版と注4の二冊の英訳をもとに,英文学者の野上豐一郎が 翻訳したが,その一部を豐一郎の妻で作家の野上彌生子が担当していたと 考えられている.また,1948年には『Journal de Marie Bashkirtseff』 (學 陽書房)として同じ訳者による改訂版が出版されている.野上彌生子自身 の日記や小説中にも,バシュキルツェフについての言及が見られる.以下 米村 典子 39 を参照.田村道美, 「野上彌生子と『世界名作大觀』 (8)――『マリ・バシュ キルツェフの日記』上下――」,『香川大学教育学部研究報告』1996年第Ⅰ 部.拙論「マリー・バシュキルツェフと日本」, 『芸術工学研究』 (九州大 学大学院芸術工学研究院紀要) ,第6号,55−63頁. 6)ジュリー・マネ, 『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』 ,ロザリンド・ ドゥ・ボランド=ロバーツ,ジェーン・ロバーツ編,橋本克巳訳,中央公 論社,1990年,p. 116.1897年10月28日付(Julie Manet, G URZLQJU SW LWK . WKHI PSUHVVLRQLVWVT KHD LDU\RIJ XOLHM DQHW, Rosallind de Boland ed., 1987) 7)シモーヌ・ド・ボーヴォワール, 『第二の性』 ,中嶋公子・加藤康子訳,新潮社, . 1997年,第2巻,p. 592(Simone de Beauvoir, L HD HX[LqPH6H[H, 1949) 8)Marina Sauer, L’ E QWUpH GHV IHPPHV j O’ E FROH GHVB HDX[-A UWV1880−1923 , 1990. Tamar Garb, S LVWHUVRIWKHB UXVK : W RPHQ·VA UWLVWLFC XOWXUHLQL DWH N LQHWHHQWKC HQWXU\P DULV, 1994(『絵筆の姉妹たち 19世紀末パリ,女性た ちの芸術環境』 ,味岡京子訳,ブリュッケ,2006年) . 9)Pauline Orell(Marie Bashkirtseff),“Les femmes artistes,”L DC LWR\HQQH, No. 4, dimanche, 6 mars, 1881. 10)J. Diane Radycki,“The Life of Lady Art Students: Changing Art Education at the Turn of the Century,”T KHA UWJ RXUQDO, Spring 1982. 11)バシュキルツェフについてより詳しくは,以下の拙論参照.米村典子, 「描 /書く女 ――マリー・バシュキルツェフとフェミニズム美術史」, 『美術 史をつくった女性たち,モダニズムの歩みの中で』 ,勁草書房,2003年. 12)Keith Christiansen and Judith W. Mann, O UD]LRDQGA UWHPLVLDG HQWLOHVFKL, 2001. Roberto Contini et. al. A UWHPLVLD(1593−1654): SRXYRLU JORLUH HW SDVVLRQVG XQHIHPPHSHLQWUH, 2012. 13)Roberto Longhi,“Gentileschi padre e figlia,”L’DUWH, 1916. 14)R. Ward Bissell,“Artemisia Gentileschi ‒ A New Documented Chronology,”T KHA UWB XOOHWLQ, vol. 50, 1968. 15)このコメントは,注1に挙げた雑誌,および雑誌発表記事を集めたアー ト・ニュース・コレクションに見られる(Thomas B. Hess and Elizabeth .ノックリンが最初に脱稿したと思 C. Baker, A UWDQGS H[XDOP ROLWLFV, 1973) われる,タイトルの時制がこれだけは現在形の“Why are there no great women artists?”(in W RPDQLQS H[LVWS RFLHW\, ed. by Vivan Gornick and Barbara K. Moran, 1971)および1989年の著作集(Linda Nochlin, W RPHQ A UWDQGP RZHUDQGO WKHUE VVD\V, 1989)収録分にはない. 16)Eleanor Tufts, O XUH LGGHQH HULWDJHF LYHC HQWXULHVRIW RPHQA UWLVWV, 1974. 17)Elsa Honig Fine, W RPHQ& A UWA H LVWRU\RIW RPHQP DLQWHUVDQGS FXOSWRUV 40 伝記・神話・美術史 IURPWKHR HQDLVVDQFHWRWKH WKC HQWXU\, 1978. 18)Hugo Munsterberg, A H LVWRU\RIW RPHQA UWLVWV, 1975, p. 23. 19)Ann Southerland Harris and Linda Nochlin, W RPHQA UWLVWV: 1550−1950 , 1976, p. 119.ただし,ハリスも中世以降で「同時代の芸術に意義があっ て疑いなく重要な貢献をした,西洋美術史上最初の女性である」とアルテ ミジアを高く評価している.この展覧会はまた,それまで人目に触れにく かった《スザンナと長老たち》を含め6点のアルテミジア作品が一堂に会 し,1976年12月から翌年11月にかけてアメリカ国内で4箇所の美術館を巡 回する画期的なものであった. 20)こ の 表 現 は, た と え ば 以 下 に 見 ら れ る.Mary D. Garrard, A UWHPLVLD G HQWLOHVFKLA URXQG1622: WKHS KDSLQJDQGR HVKDSLQJRIDQA UWLVWLFI GHQWLW\, 2001, p. 121. 21)Germaine Greer, T KHO EVWDFOHR DFHWKHF RUWXQHVRIW RPHQP DLQWHUVDQG T KHLU:RUN, 1979. 22)Greer 1979, p. 207. 23)Tufts 1974, p. 59. 24)ガ ラ ー ド の 最 初 の 論 文 は1980年 に 発 表 さ れ る(Mary D. Garrard, “Artemisia Gentileschi’ s Self-Portrait as the Allegory of Painting,”T KH A UWB XOOHWLQ, vol. 62, 1980).最初の単独研究書は,1989年出版のA UWHPLVLD G HQWLOHVFKLWKHI PDJHRIWKHF HPDOHH HURLQI WDOLDQB DURTXHA UWである. 25)Richard Graham,“A Short Account of the most Eminent Painters, both Ancient and Modern, continued to the Present Times, According to the Order of their Succession,”in T KHA UWRIP DLQWLQJ, London, 1716, p. 349. 26)Horace Walpole, A QHFGRWHVRIP DLQWLQJLQE QJODQG, reprint of the edition of 1786, 1871 London, pp. 185−186(初版:1762−71). 27)Abate Luigi Lanzi, T KHH LVWRU\RIP DLQWLQJLQI WDO\IURPWKHP HULRGRIWKH R HYLYDORIWKHF LQHA UWVWRWKHE QGRIWKHE LJKWHHQWKC HQWXU\, translated by Thomas Roscoe, volume I, London, 1847(Abate Luigi Lanzi, S WRULD P LWWRULFDGHOODI WDOLDGDOR LVRUJLPHQWRGHOOHB HOOHA UWLF LQP UHVVRDOF LQHGHO XVTTT S HFROR, 1792−96). 28)Ernst von Guhl, D LHF UDXHQLQGLHK XQVWJHVKLFKWH, Berlin, 1858. 29)“Women Artists,”W HVWPLQVWHUR HYLHZ, July 1858. これが書評の形を取る グールの本の要約との指摘は以下にある.Sherry Piland, W RPHQA UWLVWV A QH LVWRULFDOC RQWHPSRUDU\DQGF HPLQLVWB LEOLRJUDSK\, second edition, 1994, p. 54. 30)Elizabeth Fries Ellet, W RPHQA UWLVWV LQ DOOA JHV DQGC RXQWULHV, London, 米村 典子 41 1859, p.66. 31)Judith W. Mann, O UD]LRDQGA UWHPLVLDG HQWLOHVFKL, 2001, p. 360.ひとつは フィレンツェのフィリッポ・バルドヌッツィが1681年から1728年の間に公 刊したもので, 「彼女は肖像画を制作することをまず自ら決心したのであ り,ローマで非常に多数の制作をした」とあるという.もうひとつは1742 ∼43年のナポリのベルナルド・デ・ドミニチの文章で, 「彼女があれほど までに卓越して描いた重要人物たちの肖像画」に基づいて彼女は賞賛され たという. 32)Mann 2001, pp. 360−361. 33)ジャンルのヒエラルキーにおいて肖像画よりさらに低い位置にあった静物 画も,女性芸術家が得意とする領域と考えられてきた.19世紀の記録に は全く見られなかったが,アルテミジアが静物画も得意としたという記 録はある.これについては,ビッセルが検討し,他の女性画家の記録と 混同されたのであろうという推論をしている.R. Ward Bissell, A UWHPLVLD G HQWLOHVFKLDQGWKHA XWKRULW\RIA UWFULWLFDOUHDGLQJDQGFDWDORJXHUDLVRQpH, 1999, pp. 105−108. 34)W HVWPLQVWHUR HYLHZ, p. 164. また,前出エレットも,ソフォニスバ・アンギッ ソラ(1532/35−1625)6ページ,シラ−ニとフォンタナが各4ページ, イギリスに縁の深いカウフマンに至っては18ページも割いているのに対し て,アルテミジアについてはたったの2ページである. 35)Mrs. Jameson, V LVLWV DQGS NHWFKHV DWH RPH DQGA EURDG ZLWK WDOHV DQG PLVFHOODQLHVQRZÀUVWFROOHFWHGDQGDQHZHGLWLRQRIWKHD LDU\RIDQE QQX\pH, London, 1834, vol. 2, pp. 119−120. 36)ジ ョ ル ジ ョ・ ヴ ァ ザ ー リ,『 ル ネ サ ン ス 画 人 伝 』 , 平 川 祐 弘・ 小 谷 年 司・ 田 中 英 道 訳, 白 水 社( 新 装 版 ) ,2009年. ク ル タ ー マ ン, ウ ー ド『美術史学の歴史』,勝國興・高阪一治訳,中央公論美術出版,1996 年( 原 著 増 補 新 版1990年 ) .Corine Schleif,“The Roles of Women in Challenging the Canon of‘Great Master’Art History,”in A WWHQGLQJ WRE DUO\M RGHUQW RPHQ, edited by Susan D. Amussen and Adele Seeff, 1998. Nanette Salomon,“The Art Historical Canon: Sins of Omission,”in (E Q)*HQGHULQJ.QRZOHGJH)HPLQLVWVLQ$FDGHPH, ed. by Joan E. Hartman and Ellen Messer-Davidow, 1991, pp. 222−236. 37)ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,『イメージの前で 美術史の目的 への問い』 ,江澤健一郎訳,法政大学出版局,2012年,p. 116(Georges Didi-Huberman, D HYDQWO·LPDJHTXHVWLRQSRVpHDX[ÀQVG·XQHKLVWRLUHGHO·DUW, Paris, 1990). 42 伝記・神話・美術史 38)Catherine M.Soussloff, T KHA EVROXWHA UWLVWT KHH LVWRULRJUDSK\RIDC RQFHSW, 1997. Greg M. Thomas,“Instituting Genius: the formation of biographical art history in France,”in A UWH LVWRU\DQGI WVI QVWLWXWLRQVIRXQGDWLRQVRID GLVFLSOLQH, ed. by Elizabeth Mansfield, 2007. 39)たとえば1885年に女性画家彫刻家組合によって開かれた回顧展のカタロ グには,François Coppéeによる訪問記が掲載された.この文章は,1889 年 のSerranoに よ る 英 訳 版 に も 転 載 さ れ て い る.J. J. Conway,“Marie Bashkirtseff in Paris,”Q XDUWLHUL DWLQ, vol. 6, no. 30, 1899, pp. 320−324. 若 い聖女たちの例を引きながら,いまだに,巡礼のようにバシュキルツェフ ゆかりのアトリエや通りを訪問する人が後を絶たないと書かれている. 40)バシュキルツェフのイメージは,次の3つに大きく分類することができ る.①遺族が保持したかった白い服を好む無垢で早熟な日記を書く少女. たとえば,Albéric Cahuetの L HVPDVTXHDX[\HX[G·RU(1924)では,主役 ではないが,ニースの町を舞台にバシュキルツェフ自身が白い服を着た少 女として登場する.②芸術家になりたい女性の目標.たとえば,アメリカ のRebecca Harding Davisによる小説 F UDQFHVW DOGHDX[(1897)に,パリ に渡ってバシュキルツェフと同じキャリアをたどることを希望する娘がで てくる.③世間のモラルに逆らうボヘミアン的女性(芸術家).たとえば, Henrys Batailleによる戯曲 L HSKDOqQH(1913)では,多くの点でバシュキ ルツェフと共通性が見られる彫刻家が主人公で,結婚や性をめぐる道徳の 規範にとらわれない生き方をする.これについては,バシュキルツェフの 母が故人を冒涜するものだとして訴訟を起こしている. 41)詳しく言えば,バシュキルツェフの晩年のスタイルは,アカデミズムでは なく自然主義というのがふさわしいだろう.そのスタイルの代表的画家の ひとりがジュール・バスティアン=ルパージュ(1848−84)で,バシュキ ルツェフは晩年親しい交流を持っていた. 42)Alan Bowness, T KHC RQGLWLRQVRIS XFFHVVH RZWKHM RGHUQA UWLVWR LVHVWR F DPH, 1989, p. 11. 43)同上書,p. 48. 44)Georges-Albert Aurier,“Les isolés: Vincent Van Gogh,”L HM HUFXUHGH F UDQFH, 10 janvier, 1890. 45)ゴッホ神話については,美術史の領域で問題化され,解体が進んでいる. 以下を参照.圀府寺司編,『ファン・ゴッホ神話』 ,テレビ朝日出版部, 1992年.圀府寺司, 「消えた『烏』と『麦畑』現代の映像作品におけるファ ン・ゴッホ物語の解体」 ,『西洋美術研究』 ,no. 1,1999年.ナタリー・エ ニック,『ゴッホはなぜゴッホになったか 芸術の社会学的考察』,三浦 米村 典子 43 篤訳,藤原書店,2005年(Nathalie Heinich, L DJORLUHGHV DQG RJKE VVDL . G DQWKURSRORJLHGHO DGPLUDWLRQ, 1991) 46)スーザン・ソンタグ, 「隠喩としての病」,『新編 隠喩としての病・エ イズとその隠喩』 ,富山太佳夫訳,みすず書房,1992年(原著1977年) , pp. 42−43. 47)Griselda Pollock,“Modernity and the spaces of femininity,”in V LVLRQ& D LIIHUHQFHF HPLQLQLW\F HPLQLVPDQGWKHH LVWRULHVRIA UW, London and New York, 1988, p. 70. ( 『視線と差異 フェミニズムで読む美術史』 , 萩原弘子訳, 新水社,1998年).『第二の性』にも,ほぼ同じ部分が引用されている(前 . 出翻訳書,第二巻,pp. 597−8) 48)Marie Bashkirtseff, J RXUQDO: E GLWLRQI QWpJUDOH, 26 VHSWHPEUH1877−21 GpFHPEUH1879 , 1999, p. 583. 49)とはいえ,ポロックはバシュキルツェフに関心がないわけではない.1890 年のBlindによる英訳が1985年に復刊されるが,ポロックは,ロジカ・ パーカーと共に長文の詳しい紹介文を書いている.T KHJ RXUQDORIM DULH B DVKNLUWVHII, translated by Mathilde Blind with a New Introduction by Rozsika Parker and Griselda Pollock, 1985. 50)バシュキルツェフの作品評は,死去の翌年開催された回顧展のカタログに まとめて収録されている.Union des Femmes Peintres et Sculpteurs, ed. C DWDORJXHGHVRHXYUHVGHM DGHPRLVHOOHB DVKNLUWVHII, 1885. 51)Anna Banti, A UWHPLVLD, 1947. これ以降の諸作品については,以下の文献 を参照.Laura Benedetti,“Reconstruction Artemisia: Twentieth-Century Images of a Woman Artist,”C RPSDUDWLYHL LWHUDWXUH, University of Oregon Eugene, volume 51, number 1, Winter 1999. 52)映画『アルテミシア』,アニエス・メルレ監督,1997年,フランス・イタ リア合作,98分. 53)全文は,http://songweaver.com/art/artemesia.htmlなどで読める. 54)Mary D. Garrard,“Artemisia’ s Trial by Cinema,”A UW LQA PHULFD, October 1998. 1998年には,ガラードの他にも,イギリスのグリゼルダ・ ポロックも映画評を書いている. Griselda Pollock,“A Hungry Eye [Review of Agnès Merlet’ s A UWHPLVLD],”S LJKWDQGS RXQG, vol. 8, no. 11, 1998, pp. 26 −28. 比較文学分野では,注51のベネデッティが,アルテミジアを扱った 小説などを取り上げた際に,映画にも言及している. 55)この問題に関しては,たとえば以下を参照.Griselda Pollock,“Feminist Dilemmas with the Art/Life Problem,”in T KHA UWHPLVLDF LOHVA UWHPLVLD G HQWLOHVFKLIRUF HPLQLVWVDQGO WKHUT KLQNLQJP HRSOH, ed. by Mieke Bal, 2005. 44 伝記・神話・美術史 56)Marry D. Garrard,“Artemisia ’ s Trail by Cinema,”A UW LQA PHULFD, October 1998(in S LQJXODUW RPHQW ULWLQJ WKHA UWLVW, ed. by Kristen Frederickson and Sarah E. Webb, 2003, pp. 27−28) . 57)Mieke Bal,“Grounds of Comparison,”in T KHA UWHPLVLDF LOHV, 2005, pp. 129−167. 58)この問題についてより詳しくは,下記拙論参照.米村典子, 「マリー・バシュ キルツェフと伝記映画」 , 『芸術工学研究』(九州大学大学院芸術工学研究 院紀要),第8号,2007年. 59)宮本百合子, 「マリア・バシュキルツェフの日記」 ,初出『新女苑』,1937 年7月号.宮本はまた,別稿では「ぎょうぎょうしくて,しかも愚劣であっ た」と述べている.宮本百合子, 「映画の恋愛」 , 『日本映画』 ,1937年8月号.
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