河内成幸氏 スペシャルインタビュー

FGひろば161号
クリエイターズ・アイ
Web Special Version
版画家
河内 成幸氏
PROFILE 1948年、
山梨県上野原町生まれ。
独自に開発した「木版凸凹摺り」で独創的な
版画表現を展開。1970年に第38回日本版
画協会展で新人賞を受賞して以来、国内外
の版画展で次々と最優秀賞を獲得し、
日本の
木版画界をリードする存在に。2001年から台
湾芸術大学特別講師、台北芸術大学客員教
授、中国美術学院特別講師等を歴任。2007
年から名古屋造形大学の客員教授を務める。
2011年6月には紫綬褒章を受賞。
http://www.kawachiseikoblog.com/
北斎のごとく、死ぬまで創作に挑み続け
いつか宇宙の真の姿を版画で表現してみたい。
品だからいい、高価だからいいなんていう見方をする人が結構
何のための経済か、何のための文化か
いまこそ原点に返って考え直そう
多いのね。会社だって、儲かっている会社がいい会社だと思い
がちでしょ?本来、会社はひとつの社会なのよ。字も
「社会」
を
河内 バックナンバーを拝見すると、
このコーナーには写真家や
ひっくり返したものだし。社会である以上、
人間のつながりがどう
イラストレーターなどいろんなクリエイターが登場していますが、
なっているか、
まずは文化が大事なわけで、知名度が高いから、
今回、
版画家になったのには何か理由があるんですか?
儲かっているからいい会社だとは限りません。
編 正月はやっぱり版画かなあと。
とても安直なんですが…。
編「業績がいいブラック企業」
というのが、
ありますもんね。
河内 版画イコール年賀状、
みたいな?確かにあるよね、
そういう
河内 アメリカ的な発想なんです。経済の中に文化を入れ込も
イメージ
(笑)
。だけど版画家もたくさんいるでしょう。僕を選んで
うと思っている。人間の意識からすれば、絶対に文化が先なん
くださったのは、
どうしてなんだろう。
ですよ。
しっかりした文化があって、
そこにお金のやりとりが組み
編 勉強不足で、
ごく一部の版画家のお名前しか存じなかった
込まれていくのが自然なんです。
それがいま、
日本もアメリカナイ
ものですから、
まずはネットで、版画家のカテゴリーの中から次々
ズされ、何でもかんでも経済経済になってきてしまいました。
この
と作家をピックアップし、知名度や肩書にとらわれず、代表的な
ままいけば、
必ず、
人間も文化も行き詰まってきますよ。
作品を拝見していったんです。
もちろん、
モニター上の小さな画
編 日本の版画と言えばすぐに浮世絵を連想しますが、
浮世絵
像なので、
あくまでも瞬間的な印象として。かなり多くの作品を
の文化的なパワーというのは凄かったのではありませんか?
閲覧したんですが、
その中で、
ぱっと見て
「これは何だ!? 」
とびっ
河内 浮世絵は印刷の原点であり、
日本の芸術の原点でもあり
くりしたのが、河内さんの作品でした。
ますね。印刷を芸術にしたのは、
たぶん浮世絵じゃないかな。
そ
河内 それは嬉しいなあ。
れまでの版画は技術であって芸術ではなかったんだけれども、
編 静かなのに激しく、
一瞬のようで永遠のようで。木版らしい
浮世絵については世界中の人たちが「最も優れた芸術の一つ
大胆さと、木版とは思えない繊細さ、
どっちもあって、時空を超え
だ」
と認めているわけです。日本でというより、世界全体の文化
た不思議な感じ。
こんな版画をつくる人は、
いったいどんな人な
的な価値から見ても凄いのだと。
あの時代、
カラー刷りをやって
んだろうかと。
いたのは浮世絵だけでしょ?ヨーロッパのリトグラフにしても銅
河内 こんな人
(笑)
。
しかしそれは光栄ですね。僕はね、
みんな
版画にしても、
まだまだ単色でしたからね。
にもっと直感で絵を見てほしいんです。日本人には、有名な作
編 でも浮世絵がそこまで世界的に評価されているということを、
1
FGひろば161号/CREATOR'S EYE 河内成幸氏 ロング・インタビュー
なかなか日本人自身は実感できない。
て、
そこからちょこんと飛び出している細い枝と小さな花を描い
河内 そうそう。一般的すぎるというか、大衆芸術ですからね。だ
ていたらしいんだよね。小学校3年生ぐらいのことでよく覚えて
けど実はそれも素晴らしいことなんですよ。いま地球上に残っ
いないんだけど、僕が絵描きになってから、当時の先生に
「お前
ている、文化的・芸術的に価値の高いもののほとんどは、当時、
の絵は変わっていたなあ」
と、
そんなエピソードを聞かされたこと
貴族や王族に守られていたけれど、
浮世絵は庶民のものですか
があります。
ら。天皇や幕府が奨励したのじゃなく大衆の中から沸き上がっ
編 視点が凄いですね。小学生にして、
いきなり奥村土牛の
てきた。それでいて芸術性も高い。いまの漫画だってアニメー
『醍醐』の桜みたいな絵を描いている
(笑)
。経歴を拝見すると、
ションだって、浮世絵が原点なんですよ。葛飾北斎の『北斎漫
多摩美術大学に進学されていますから、子供の頃から美術の
画』
なんていうのもありますからね。世界に誇れる、
こんな凄い
道へ一直線という家庭環境だったわけですか?
財産を持っているんだということを我々はもっと意識して、
アメリ
河内 山梨にある割烹旅館の長男坊だったんですよ。
カに振り回されず、何のために経済があって何のために文化が
編 ということは、
苦労知らずのお坊ちゃんで
(笑)
。
あるのかを、
もう一度原点に返って考え直さなければいけない
河内 だいたい美大に行こうなんていう人は、坊ちゃんやお嬢
時期に来ているんじゃないかと思います。
ちゃんが多いんじゃないの
(笑)。
まあ、
ありがたいことに、経済
的には恵まれていた方でしょう。だけど高校2年頃だったか、
「将
母親の反対で「絵描きから建築家志望」へ
先輩の反対で、一転、再び絵の道へ
来は絵を描いていきたい」
と母親に言ったら猛反対されてね。
そ
んなヤクザな商売でどうやって生きていくんだって。
これはダメだ
編 その版画との出会いを伺いたいのですが、
一般的には、
いき
なと諦めて、
それじゃ建築家になろうと思い、高校3年の夏ぐら
なり版画ではなく、
まずは絵ですよね。やはり子供の頃から得意
いまでは建築の勉強をしていたんです。
もともと理数系も好き
だったんですか。
だったし建築に興味もあったから。
ところが、受験寸前になって
河内 上手くはなかったなあ。変わっていたけどね。
たとえば学校
先輩が言うのよ。
「お前な、建築家の資格を取ったからって、有
の授業で春に桜の絵を描くでしょう。みんなは全体を見て、
きれ
名な建築家の事務所に入ってみい。下水がどこを通っている
いなピンクの花も幹も全部描く。
なのに僕は幹だけをアップにし
とかそんなことばかりで、図面なんか絶対に引かせてもらないか
ら」
ってね。
「それはまずい」
と、親の反対を押し切って、再び油
絵に戻って美大を受けたわけですよ。
編 受験には苦戦して2浪しているそうですが、
そんなすったもん
だがあって準備が間に合わなかったんですね
(笑)
。
河内 それもあるけど、
美大の受験科目はすべて文系なのよ。僕
は数学が得意だったのに、
ぜんぜん活かせない
(笑)
。
編 2浪している間も、
絵は描いていらしたんですか?
河内 もちろんです。版画に興味を持ったのも、
その頃ですね。
へえ〜こんな世界もあるんだと。浪人時代に通っていた研究所
(予備校)
の地下室で、不安な気持ちを表現しようと
『地下室
の夢』
っていう版画をつくっています。銅版画ですけどね。
憧れて留学したアメリカで
日本文化の真価が見えてきた
地下室の夢 1968年
編 多摩美に入った1968年から翌年にかけて、
大学紛争で大
学が閉鎖されていたそうですね。めでたく入学が決まったのに。
河内 仕方ないから、
その1年半は、浪人時代に通っていた研
究所の地下室で、
引き続き、版画をつくらせてもらっていました。
そこに集う人たちと、版画のなんたるかについて議論したり、
よ
く展覧会にも行きましたよ。
編 生の作品に触れることが一番の勉強になるんでしょうね。
河内 忘れられないのが、東京国際版画ビエンナーレ展という
展覧会で見た、
ジャスパー・ジョーンズ※の『的』
という作品。そ
の表現コンセプトに感銘してね。後から考えると、本格的に版
現代社会に取り残されたフォルム 1972年
※20世紀のアメリカの画家。アメリカにおけるネオダダやポップ・アートの先
2
駆者として重要な役割を果たした代表的な作家。ダーツの標的、アメリカ50州
の地図、数字や文字などを「描いた」作品がよく知られる。
(Wikipediaより)
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画に取り組む大きなきっかけになった出会いだったね。
編 具体的には、
どんなことをつかみ取ったんですか。
河内 美術表現の最も観念的な行為は
「写すことなんだ」
とい
うこと。版画はまさに写し取るものです。表裏左右をひっくり返
しながらね。彫るときは、鏡のように、世界を逆さまに考えるのよ。
これが面白いんだ。写真のネガ・ポジじゃないけれど、
この目の
前の社会を、
あるいは自分の内面を、版画で鏡のように映し、
そ
して写し取ったらどう見えるのか。少し絵をやった人はわかると
思うけれど、
自分で一生懸命デッサンしていても、
なかなか自分
の目ではその狂いがわからないでしょ?何となく合っているように
見える。だけど鏡に映してみれば一目で
「これは変だ」
と、客観
的にわかるじゃない。
それと同じよ。版画で写し取ることで、見え
ないものが見えたり、裏腹なものが感じられたり、絵画とは別の
新しい表現ができるんじゃないかと思ってね。
編 多摩美術大学在学中の昭和45年、
日本版画協会展で、
いきなり新人賞を受賞していますね。
河内 あれはシルクスクリーンで制作した作品だね。
編 当初は銅版やリ
トグラフも一通りこなしていたということです
が、
次第に木版メインになっていったのはなぜですか?
河内 銅版やリトグラフは、
どうしても西洋的なものなんだよ。日
本人にはやっぱり木が合う。風土にも合っているしね。
さっきも
言ったように、
日本の芸術の原点を考えると、木版の浮世絵に
行き着く。僕は1985年に、文化庁芸術家在外研修でニュー
がクラークと共同で映画化したものですね。
ヨークのコロンビア大学・大学院に一年間留学したことがある
河内 あの中で、遭難した船長が胎児に戻るシーンが出てくる
んですが、
そのときに痛感したのよ。日本人が世界に出て油絵
じゃない。ああ、人間ってこういう想像力があるんだなと驚いた
とか彫刻やっても、
なかなか関心を持ってもらえない。
ところが
よ。
それ以来、
宇宙の中での地球、
地球上での自分の存在とい
浮世絵という芸術を背景にした日本人、
となると違ってくる。僕
うのを考えるようになり、
なにかそういうものを表現したいと思う
の版画もすぐに認めてくれるんだよね。浮世絵は凄いと頭では
ようになった。あとは、
さっきもちょっと話したように、僕は美術や
わかっていたものの、
これほどとは思わなかった。実はそれまで
建築だけでなく数学も大好きだったから、宇宙数式みたいなも
僕はアメリカに憧れて憧れて
(笑)
、留学も楽しみで仕方なかっ
のに興味があったんです。
たんだけれど、外から日本を見ることで、逆に日本文化の素晴ら
編 宇宙というと物理学を想像しますが、
数学ですか?
しい価値を再発見することができたのね。
と同時に、
日本の芸
河内 そう。たとえば、
フランスの有名な数学者・ポアンカレなん
術が、
すでに相当アメリカナイズされていることに気づいた。
こ
かは、100年ぐらい前かな、一本のロープで宇宙の形を予想で
れはいかんと。
その留学後から、
ますます木版画に傾倒するよう
きるかどうかと考え、
それを数式で表現したのね。いわゆる
「ポ
になり、
さらに、浮世絵の研究や江戸文化の研究にまで踏み込
アンカレ予想」
という位相幾何学の定理なんだけど、
その後の
んでいくようになったわけです。
100年間、天才的な数学者が次々とその定理の証明に挑み、
最近ついにペレルマンというロシア人数学者が解決したわけ。
鬼才映画監督のSF表現に感嘆し
天才数学者の描く宇宙に思いを馳せる
で、
その定理により、宇宙が閉じた幾何学構造を持つ場合の
編 浮世絵を原点とする木版画とは言っても、
河内さんの作品
がどんな形状であっても、球体を含め、必ず8種類の断片に分
は、西洋・東洋などという概念を超えた、生命とか宇宙とか、何
解できる、
ということも証明されたんだよね。普通、
「 形」
と言うと、
か壮大なテーマを感じますが。
丸・三角・四角などを思い浮かべるじゃない。
河内 そうね、人の生死も含めて、宇宙的なものというのは、版
編 江戸時代の禅僧・仙厓和尚の禅画にも、
筆でその3つの形
画を始めた頃から、
モチーフとしてはありました。1960年代の終
が書かれていますね。宇宙の真理だとか、禅の教えだとか、
いろ
わり頃、
映画で
『2001年宇宙の旅』
を観たのね。
いろな解釈があるようですが。
編 アーサー・C・
クラークのSF小説を、
スタンリー・キューブリック
河内 ところが8種類の形とは、
そういう我々の概念を超えてい
形としては、概ね球体だろうということになった。
と同時に、宇宙
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威風堂堂(桂ー'14) 2014年
ピラミッド
(2)
2011年
威風堂堂 2014年
て、穴のあるドーナツが2つくっついて横とか縦に別の輪が繋
テーマを2次元・3次元でとらえるのではなく、初めにも言ったよ
がっているような、
とにかく不思議な立体なんです。物理学だけ
うに、大胆だけれど繊細だったり、
どっしりしているのにスピード
でなく、数学の計算で宇宙の姿を突き詰めていく感覚がおもし
感があったり、
いくつもの多次元の構造が、同じ空間の中に重
ろいなあと。僕も、数学者にとっての数式のように、版画によっ
なり合っているように感じます。具体的には、面と線の表情が
て僕なりの宇宙の形を追求し表現していきたいなと思ってね。
多彩だと言いますか。
編 芸術も科学も宗教も、
究極的にはどこかで繋がっています
河内 それは、従来の伝統的な凸版に凹版を組み合わせた木
よね。
「正しい公式はつねに美しい」、
というようなことを語って
版凹凸摺りだからでしょうね。凹版というのは、彫刻刀で彫って
いる数学者もいましたし。
へこんだ部分にインクを入れて…。
河内 それはあるよね。相対性理論なんて、方程式をざーっと
編 はい。読者が印刷業界の人たちなので、
すぐにイメージでき
追っていくと、確かにきれいだもん。
ると思います。印刷ならグラビア印刷ですね。木版の凹版とい
編 河内さんが高校の頃に勉強していた、
建築だってそうですよ
うのは昔からあったんですか。
ね。本質をとらえた設計は、
時代を超えて、
とても美しい。
河内 いや、
なかったから僕がつくった
(笑)
。なぜ考えたかと言
河内 そうそう。構造建築として地震に強いとか、
そういうことも
うと、銅版画をやっていたときに、
まあリトグラフもそうなんだけど、
一つあるけれど、美しいものの基本は同じ。自然の美しさに似
とても自由に線を表現できていたんですよ。ペンなどで線を描い
ていると思うよ。スペインのガウディだって、森をつくりたいって
て腐食させればそのまま再現されるからね。
リトグラフは、油性の
言ってたんだよね、聖堂の中にさ。やっぱり人の手による人工
クレヨンなどでコンテを描いたらそれが線になるでしょ?
物でも、素晴らしいものはどこか自然や宇宙に通じるところがあ
編 石版画ですね。
いまは石じゃなくアルミらしいですが。
るんじゃないかな。
河内 ところが木版の凸版で、細く滑らかな曲線を彫るのは大
変なのよ。画線部を残さなければならないんだから。
木版表現の常識を変えた独自の凹凸摺り
そのノウハウを、後世の作家のために公開する
編 ちょっと勢いあまって削り過ぎたら線が途切れてしまう。細け
れば細いほどその危険があると。
河内 だから浮世絵なんかでは、
ほとんど、
そういう細線や曲線
編 河内さんの作品は、
宇宙や時間、人の生き死になどの深い
4
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が多用されることはありません。
編 そうすると、
広重の名所江戸百景に出てくる夕立(『大は
しあたけの夕立』)
の雨の線なんかは、超絶のテクニックだっ
たわけですね。
河内 そりゃ大変ですよ。
もっとも、広重が彫っているわけじゃ
ない。広重は絵師だから。彫り師や摺り師が凄かったわけで。
編 それに、
雨は直線ですが、河内さんの線は、長短さまざま、
大小の曲線も混じり合い、
自由自在ですよね。
河内 漫画なんかでもよくあるでしょ、
シャシャシャ〜っていう
細かい線が(笑)。走っている人の足のそばにそういう線があ
ると、何だか駆けている感じがするじゃない。ああいう動きの
ある線を描きたかったのよ。物理的な動きだけじゃなく、内面
的な感情的な部分の揺れ動きなんかも含めてね。それが凸
版で難しいなら、銅版のように凹版でやればいいじゃないか。
そんな発想で始めてみました。1973年ぐらいからかな。
編 それまで誰もやっていなかったということは、
難しい面が
あったんじゃないですか?
河内 未だに難しいと思うんだけど、
なかなかうまく刷れないの
よ、木版の凹版は。彫るのは凸版より簡単。削るだけだから。
なぜ摺るのが難しいかっていうと、
インクの微妙な硬さの違
いで、線の表情がまったく変わってきちゃうのね。何年もやっ
ているうちに、やっとそれに気づいた。春夏秋冬によって、
そ
自然の枠組み
(向日葵)
2012年
の日の気象条件によってインクの硬さが変わるから、
それに
合わせて摺り方を変えていかなければならない。
編 インクは油性と水性を使い分けるんですか?
河内 僕の場合、凸版はだいたい水性で、
とても細かい粒子
の顔料を使うんですが、凹版ではアクリルインクを使います
ね。水性よりも盛り上がって、凹部のインクがよく着くから。
編 アクリル系だからよけいに硬さが仕上がりに影響すると。
河内 そうそう。凹版の上を拭き取るときに、
インクの硬軟に
よって、
うまく取れなかったりする。あとは、心の安定というの
も、思いのほか摺りに影響するんだよね、凹版では。
編 そうして試行錯誤で積み上げてきた独自ノウハウは
「秘
伝・河内流」みたいなものなんでしょうか
(笑)。
河内 いやいや。以前、美術手帖っていう本でも発表してます
し、講師をしている大学でもときどき教えてますから。若い作家
の中にも取り組んでいる人は結構いますよ。僕だけの技術だな
んて言ってクローズドにしていたら、版画界全体のためにならん
でしょう。次世代の作家たちが新たなアイデアを加え、木版凹
凸摺りをさらに進化させてくれれば、
それが一番。僕は、芸術的
なものとか科学的なものに特許があるのはおかしいと思うんだ
よね。
もとの手法や技術をベースに研究し改良していくことは
必要だし、文化や芸術、科学の発展のために、
どんどん動かし
ていけばいい。
どんどんオープンにして、変えていくべきだよなあ。
特許とか著作権という考え方自体がすでにアメリカ的なんです
よ。文化の前に、
まずは商売という発想だから。
樹樹
(Ⅵ)
2012年
5
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クリスタル北斎
(Ⅰ)
2009年
ずだ、諦めてはいけないと。そんな希望を込めながらつくった
作品なんです。
編 自分は浮世絵にはあまり詳しくないんですが、
北斎だけは
別格ですね。展覧会があればたいてい観に行きますし、信州
小布施の北斎館にも何度か出かけています。人生に疲れる
たびに
(笑)。
とくに晩年の作品には惹かれるものがあります。
80代後半にもなって、小布施に呼ばれて天井画を描いたり
してるんですから、超人ですよね。
河内 本当だよね。飛行機も車もない時代に、新宿あたりから
長野まで歩いて行って、絵を描いて、
また帰ってくるんだよ。す
翔べ北斎
(XIIX)
2010年
げえ体力だぜ
(笑)。超人なんだけど、人間味があってね。俺
は北斎、
「 へくさい
(屁臭い)
だ」なんて文書が残ってたりする
迷える現代のクリエイターたちに
とてつもない北斎のエネルギーを
(笑)。落語みたいな。
編 ユーモア精神とサービス精神。
それと反骨精神。
編 「 文化より経済を優先するな」
と怒られそうなんですが
河内 そうそう。50〜60歳頃に中風になって、絵師の生命で
(笑)、自分は経済的に余裕がなくて、河内さんの作品、
とく
ある腕が利かなくなって、筆を持てなくなっちゃってね。だけど
に大きなものは買えそうにない。
もしも一点だけ「贈呈する」
と
彼は自分で漢方を勉強して薬をつくって、手を動かせるように
言われたら、
どれが欲しいかなあと、小学生並みの思いつきで
回復させてしまった。
妄想してみたんです
(笑)。一点となると、迷いますね。それで
編 筆力を高めるため、
療養中に震える手で毎日、霊獣である
本気になって作品集などを拝見し、迷いに迷って、
これが欲し
獅子の絵を墨描きしていたそうですね。その精神力が凄い。
いと思ったのが『翔べ北斎』
でした。
河内 北斎のあのエネルギーっていうのは、我々が、
いまのク
河内 あ〜、
ありがとうございます!僕もあれは大好きな作品で、
リエイターが見習うべきものだよ。それから、
自分に厳しく、
目
出世作だと思ってんのよ。サンフランシスコで開催された国
標を持ち、理想を追求し続ける生き方もね。
際版画展で、
グランプリっていうか美術館賞をもらったものな
編 『富嶽百景』
のあとがきに「70歳までに描いたものにはろ
んです。僕は北斎に憧れて、
いつか北斎を乗り越えたいと一
くな絵がなかった」
なんて書いてますからね。
生懸命仕事をしているのね。その自分の原点を探りながらつ
河内 73歳になってようやく動物や草木の生きている姿が
くった作品なんだけど、
あのニワトリは、僕自身なのよ。白色レ
わかってきたから
「80歳になればずっと進歩し、90歳になっ
グホンは、最もニワトリらしい日本的なニワトリでね。
たらさらに奥義を見極められ、100歳になればもっと思い通
編 普通、
ニワトリはあんなダイナミックに飛べませんよね。
りに描けるし、110歳になったらどんなものでも本当に生き
河内 うん、
そう。でもあえてニワトリを羽ばたかせることで、
こん
ているように表現できる」
と宣言してるよね。人生50年ぐら
な俺だって飛べるんだと。見る人にも
「我々だって自由になれ
い生きられればよかった時代に、110歳まで目標にしていた
る、飛べるんだ」
と気づいてもらいたいなあと思ってね。北斎
こと自体が、僕は凄いと思う。いまのお年寄りにも、
こういう
は確かに偉大で神のような存在ですよ。だけど同じ日本人な
気概を持ってほしい。そう言う僕ももう66歳だから、持つよ、
んだから、俺たちも同じように考えられるはずだし生きられるは
持てるように頑張るよ
(笑)。
6
FGひろば161号/CREATOR'S EYE 河内成幸氏 ロング・インタビュー
も鉱物も、
みんな同じ。宇宙の中で生まれた地球で生まれたも
見たままの姿を写生するのではない
神話的・宇宙的な富士山をとらえたかった
の同士なんだから。
きっと全宇宙を統合する共通の原理が何か
あるんだろうね。北斎に負けず、死ぬ間際まで現役を貫き、
いろ
編 北斎の
『富嶽三十六景』
は70歳を過ぎて刊行されたわけで
んなモチーフで、宇宙的なものを版画で探求し続けていきたい
すからね。富嶽と言えば、
河内さんも最近は富士山をモチーフに
ですね。
した版画をおつくりになっているそうですが。
編 北斎が神の境地に辿り着くはずだった110歳まで、
あと44
河内 実は僕はずっと、富士山は俗っぽいと思っていて、
なかな
年!!なんとか頑張ってください
(笑)
。
か手をつけられなかったのね。
ところが、15〜16年前に朝日新
河内 北斎は絵師だったけど、
こっちは彫りも摺りもやってるから
聞から山梨について寄稿の依頼があって、富士山を版画で表
大変よ。過酷な肉体労働なんだから
(笑)
。
現してみることにしたのよ。
そしたら、制作過程で
「日本人とは何
編 本日は長時間にわたり、
いろいろ興味深いお話しをありがと
なんだろう」
「何をもって日本文化なんだろう」
と、
あれこれ考え
うございました。
始めてしまった。富士山と真剣に向き合うことでね。
編 俗っぽいと思っていた富士山が、
そうではなかったと。
河内 やっぱり日本の心象風景の原点と言うか、
日本文化発祥
の源と言うか、
そんな大きな力を感じましたよ。
編 しかし、
一つ間違えばとたんに俗っぽくなってしまうのが、富
士山の怖さではありませんか?
河内 作家なら誰でも
「自分だけの富士山」
を描こうと思うはず
なんです。
そのために、
どうアプローチするか。北斎や広重はど
うだったのか。おそらく彼らは、実際に富士山を見ながら描いて
いたわけではないと思います。僕の、創作に対するスタンスにも
遺産不二 2013年
共通する部分があるんですね。見たままの富士山を写生するん
じゃない。そこから生まれた人間の想像力、
つまり伝説や神話
もモチーフにしようと。世界遺産登録後につくった
『遺産不二』
なんかも、
ニニギノミコト
(天照大神の孫)
の妻で富士山の神で
このはなのさくやひめ
ある
『木花咲耶姫』
の感覚で表現したものなんです。
編 現代にありながら、
江戸を遥かに超えた古代を見据えて富
士山を描くとは、北斎もびっくりでしょう
(笑)
。
これから70歳・80
歳と、北斎が生きた年齢を辿っていくわけですが、
この先、
どん
なテーマを追っていきたいとお考えですか?
河内 やっぱり宇宙を描きたいなと、未だに思っています。版画
の画面の中で自分なりの宇宙をきちんと表現できて、見てくれ
た人が「うわ〜宇宙だ」
と感じてくれたらもう最高ですね。数学
者や物理学者は公式や数式で宇宙の形を追い続けている。で
も、
お釈迦さまなんて、地球が丸いことさえわからなかった2500
年も前に、全部、頭の中で宇宙の姿をイメージできて、
自分は、
人間はこんなにも小さな存在だということを悟ったわけじゃない。
菩提樹の下で、
うとうとしながら。要するに、仏教も宇宙観なん
だよね。富士山も宇宙的だし、
ポアンカレなんかの定理も宇宙
に通じている。僕にとっても、宇宙というのは、
まだまだ挑んでい
かなければならない大きなテーマであることは間違いありません。
編 宇宙を見るということは、
人を見る、
ということですよね。自分
を突き詰めていくと、結局、宇宙につながっていく。人と宇宙は
相似関係にあると言われていますから。
河内 細胞の原子と電子の関係なんて、
何となく太陽系に似て
いるもんね、
挙動や構造が。人間ばかりじゃないよ。動物も植物
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