長沼守敬の渡伊以前と帰国後の活動に関する研究 大阪芸術大学 教養課程 教授 石 井 元 章 本年度は、予め提出した計画に沿って長沼の全作 た。本来は 2 日間を費やしてじっくり調査する予定 品・一次資料を整理し、可能なものについては現地 であったが、13 日に現地を通過した台風のため交 調査を行った。 通機関が麻痺し、双方とも 14 日に調査せざるを得 まず 6 月 3 日に岩手県花巻市萬鉄五郎記念美術館 なくなった。前者に関しては、像主の子息である鍋 に赴き、同館元館長千葉瑞夫氏、同館学芸員平澤広 島直大がローマ駐箚日本大使であった時にヴェネ 氏、一関市博物館学芸員大衡彩織氏と長沼の残した ツィア留学中の長沼が知遇を得ており、また萬鉄五 一次史料を調査検討し、読み下すべき資料の選択を 郎記念美術館には建設委員長としての大隈重信か 行った。当該資料は来年度以降専門家の協力により ら長沼への制作依頼の書簡が所蔵されているため、 データとしてインプットし、今後の研究の基礎とす これまで長沼の作品であると考えられていた。しか る。 し、佐賀市徴古館での調査によって、同像は長沼か 次いで、現存する数点の作品を調査した。まず、 ら依頼を受けた武石弘三郎の作品であることが明 数回に分けて東京大学本郷キャンパスに現存する らかとなった。他方、後者は筑豊炭鉱王の一人久良 作品を撮影・調査した。 《榊俶》 (東京大学医学部精 知寅次郎を像主とするが、この像も戦時中の金属供 神医学教室)、 《濱田玄達》 (東京大学医学部産婦人 出によって失われたと考えられていた。ところが、 科学教室)、《エドワード・ダイヴァース》 (東京大 世界記憶遺産に登録されて一躍名を知られるよう 学理学部)、《エルウィン・ベルツ》《ユリウス・ス になった炭坑の語り部・山本作兵衛の作品を所蔵す クリバ》 (東京大学医学部)がそれである。 《濱田玄 る田川市石炭・歴史博物館が本像の顔の部分を所有 達》の肖像は東京御茶ノ水濱田病院にも存在するた していると連絡が入り、博物館からの依頼に基づき め、そこでも確認を行った。 調査に向かった。当該作品は顔の前面部分だけが焼 藤田組の創立者《藤田傅三郎》の立像は、第二次 き切られて残されていた。金属供出の最中に、同像 大戦中の金属供出により失われたが、大阪市都島区 を境内に所蔵していた寺の住職が同像の顔部分を の藤田美術館に台座、および関連資料が所蔵されて 自ら焼き取ったと証言を残しているほか、様式的に いるため、学芸員に連絡を取り、調査を行った。萩 も長沼の作品に近いため彼の手になる可能性が高 市に立っていた《藤田伝三郎》立像に関する調査は いと考えられる。しかし、結論は更なる調査の後に 来年度に持ち越しとなった。 出したい。 11 月 18 日千葉県市川市香取の郵政博物館資料セ 長沼は日本が台湾を領有していた時代の初期に ンター、および東京スカイツリー内の郵政博物館に 台北に 2 体の彫刻を制作した。 《水野遵》 (台北市円 おいて、日本の郵便制度創始者である《前島密》の 山公園)と《長谷川謹介》(台北駅前)がそれであ 肖像を調査した。前者は著色の石膏原型、後者はそ る。前者は初代民政長官である水野遵が像主であり、 れを基に鋳造した最初の像である。 後者は台湾縦貫鉄道を完成させた長谷川謹介を表 2015 年 1 月 26 日東京国立博物館に収蔵される《岩 す。これらについては既に論文を完成し、大阪芸術 倉具視》 《木戸孝允》 《近衛忠熈》の 3 体の石膏原型 大学大学院紀要『藝術文化研究』第 23 号に掲載さ を調査した。これらはこれまで研究者の間で存在が れる予定なので、詳しくはそれに譲る。 確認されていなかっただけに興味深い。郵政博物館 夏季休暇の間にヴェネツィア美術学校古文書館 資料センターの《前島密》と同様、著色の石膏原型 に通って、現地に残る長沼の学籍記録等を洗い直し である。 た結果、いくつかの新知見を得ることができた。こ 10 月中旬に福岡県と佐賀県に存在したとされる 2 体の像《鍋島閑叟公》《久良知寅次郎》を調査し れについては稿を改めたい。これらの成果に基づき、 今後も研究調査を継続する。 - 32 -
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