27.10.29 震災講演会 吉川市立東中学校

浦和学院高等学校
石巻・東松島交流プロジェクト
「今、浦学できること」 伝え・広める震災講演会
浦学の方向性
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27.10.29
石巻・東松島交流センター
常に前向き、一人ひとりが何かを感じ、考え、すぐに行動する
未曾有の大震災の教訓を教育の中に活かすこと
本校では、4年 7 ヶ月前に起きた未曾有の東日本大震災以降、生徒・教職員・浦学ふぁみり~が一体となり「支援・
炊き出し・交流・新聞配布・海岸清掃や買い物復興支援・体験」など、様々な交流活動を実施し積極的に取り組んで
いる。現在では、石巻・東松島市を中心とした交流活動を展開し、10月で公式訪問50回目を数え、生徒・教職員
のボランティア数は延べ600名を超えている。現地の方々との出会いを大切に、微力ながらも風化を防ぎ、復興の
一助となることを願い「被災地の現状を伝えること」「本校生徒が、何を感じ・考え・行動するかを実践し、教育の
中に取り入れていくこと」に重点を置き、「心と心を結ぶ」交流を継続していく。
平成25~26年の2年間、本校にて理科講師として教鞭をとる傍ら、現地交流の連携・語り部を担当しとした畠
山卓也氏の講演会は、約90回にも及び反響を呼んだ。畠山氏が伝えてきた東北の思いを継承し、地域に伝えていく
役割を担うのは、東日本大震災発生直後の4月2日に宮城県石巻市に支援物資を搬送し、その後自らが現地に 70回
以上訪れ、本校の交流活動団長を務め積極的な交流活動を推進している、現石巻・東松島交流センター長の車谷裕通
(事務部長兼広報・企画局長)である。そして、今年度2回目となる講演会の様子をお伝えしたい。
挨拶をはじめ、眼差し・姿勢、聞く態度が
素晴らしい456名の中学生
平成 27年10月29日(木)
、吉川市立東中学校のふれあい講演会にて「東日本大震災から学ぶ ~今、私たちに
できること~」の演題のもと講演会が行われた。講師として、車谷裕通(前述紹介)と、伊藤せい子さんが招かれた。
伊藤さんは、震災の被害に遭っており、東松島市の家は全壊、石巻市の実家は全壊に近い被害に遭い、仲良しの妹も
失っている。他人には計り知れない経験を重ねながら、2女の母として生活を支えつつ一生懸命に街の復活や復興の
ために頑張っている。現在、東松島あんてなしょっぷ「まちんど」店長兼東松島市元気な街づくり委員副委員長を務
め、本校の交流活動の際にも現地と浦学を結ぶ役割を担ってくれている。
話し手の車谷からは、震災直後の映像をはじめ当時と今の現地状況を伝えるとともに、本校の交流活動の中で、同
じ年代の子どもたちや現地の方々の様子を伝えた。また、本校のボランティア活動の形―「自分たちの満足感ではな
く相手が喜ぶことをする」をモットーにしたボランティアの一例、活動記録の映像「現地の方の喜ぶ顔」を紹介した。
震災以降、日本各地どこで何が起きるか分からない現状である。越谷での竜巻発生による被害や吉川市でも浸水被
害のあった台風に伴う記録的豪雨による被害。そして、隣の常総市で起きた鬼怒川の堤防決壊により家が流されるな
ど身近に起きた大被害を事例にあげ、
「明日はわが身。少しでも安全に暮らせるよう、家族・地域で防災意識を高め、
万が一に備えてほしい。
」と、語った。次頁にて、語り手の伊藤さんが伝えてくれた現地の声の一部を紹介する。
娘が中学生。今日は、みんなの
お母さんのつもりで話をした
い。そして、私の経験が、みん
なの力になれば。また、困った
時に今日の話が役に立てばいい
なと思う。
Q.あの時、あの時間、どこにいた?
A.お店の仕事で、車で10分くらい走っていた。経験したことのない強い揺れで、車のハンドルがとられてしまう
ほど。止まっても、ハンドルにしがみついていないと、窓に頭をぶつけるくらい大きな揺れだった。
Q.その後、娘2人が通う小学校に向かったとのこと。小学校の状態は?
A.まだ津波はきていなかったが、子どもたちは大きな揺れに驚いた表情で、先生の案内により校庭に座っていた。
(余震含む大きな揺れで立っていることができない状況)
一番心配したのが、ラジオで聞こえてきた大津波警報。先に津波が到達する女川町に到達しているときき、津波
何mかは、パニックで記憶にないが、津波に呑まれるギリギリだったことを痛感している。
学校で、子どもたちと会え、そのまま校庭にいた。安否を確認した親や子どもたちと揺れに我慢しながらいた。
とても、寒かったので体育館に移動したが、屋上に上がって周辺の様子をみていた先生方があわてて「3階や屋
上へあがって避難して」と声を大にし、誘導してくれた。上へあがる途中、渡り廊下からみる光景は、水路のよ
うに水が流れていて、見たことのない不思議なそして怖い光景。道路が海や川のようになっていて、驚いた。
6mくらいの津波が押し寄せてきたが、3階以上へ避難し無事であった。
(体育館の壁をポインタで示し、この辺りが6mの位置と実際の高さを伝えた。
)
Q.50㎝の津波がきたら、人は立っていられないと言われているがどうか?
A.50㎝、大人からすると低いように感じるかもしれないが、水(津波)の力はものすごくて、建物を倒してしま
う。電柱も…家も…街も…信じられないよね。
皆が住んでいた家や街が、一瞬にして「バッ」と、なくなってしまう。自然の威力…本当に恐ろしい。
Q.子どもたちの状態は?
A.子どもたちは怖くて怖くて…とにかく怖がっていた…
寒いし着るものもジャージのまま。それでも、濡れながら避難してきた人たちに、重ね着していたジャージをか
けてあげたり、カーテンをはずして絨毯がわりにしたり、あるもので寒さをしのいだり、学校にいる友人や周り
の人と助けあって過ごした。電気も止まってしまったため、ロウソクであかりを灯したが、グラウンドに入って
くる車によるガソリンの臭いがし、火は危ないと判断しロウソクの使用を中止した。すると、理科の実験などで
つくった、手でくるくるまわす懐中電灯があり、それで明かりを灯した。何が何だか分からない状況で、子ども
たちは、
「みんなで励ましながら助けあおう」と、団結して過ごしていた。
~子どもが描いた絵の紹介~
当時小学校3年生だった娘は、明るい大きな絵を「パッ」と書く子だった。
避難所を出て4ヶ月経ち仮設住宅に住めるようになったころ、娘の
描いた絵を見たとき、怖くなり新聞につつみ棚にしまった。
今回、講演の機会を頂き、皆さんに見せようと思い持ってきた。そして、
ここに来る前、地元の人にこの絵を見せたら、
「津波の臭いがする…。
」と。
津波のことを思い出すと、臭いや空気感まで思い出されてしまう…。
「子どもたちのショック。自分が見た津波の色。その時の心が、
この絵にすべてあらわれている。
」
(上段は震災前、下段が震災後に描いた絵)
Q.防災について心掛けていることは?
A.震災以降、いつも持っているものがある。
水(500ml のペットボトル)
・チョコやキャラメル、飴などの食料。
少しでもあれば、自衛隊や助けがくるまでの4日を生きることができる。
子どものバッグにも常備している。
(3日分の食料確保を!)
家族での約束事。安全な集合場所を決め、災害があったときは、状況が
落ち着いてから会おうと約束している。
子どもが心配で、迎えに行く途中で津波に呑まれ、命を落とした母親も
いる。会えなくなるほど悲しいことはない。
そして、自分の命は自分で守ること。
いつ、どこで、何が起きるか分からないことへ備えている。
伊藤さんより、最後に中学生に伝えたいこと
最後まできいてもらったことが何より嬉しい。
水や飴を持っていると良いということを思い出してもらったり、
今日の話が何かあった時の力になったらなぁと思う。
親は、みんなのことを怒ってくれたり注意してくれると思う。
それは、みんなを想ってのこと。親と会えなくなってしまった子ども
や、子どもを失った親もみてきている。
親に感謝して生きて、親も子どもに感謝していきているから。
高校生になる子どもが、この講演の話をした時に、話してくれたこと
がある。
「もし戻れるとしたら、
『震災の日の朝に戻りたい』実はね、
おばあちゃんと喧嘩したままだったんだ。」と。
ずっとずっと言いだせなくて、心を痛めていたんだなって…。
最後に、みんなに約束してほしいことがある。