近くに高架橋、工場配置を一新

 加賀製紙㈱︵金沢市︶は1915︵大正4︶
年に創業し、ことし9月で百年を迎える。
西 金 沢 の 広 大 な 地 に 社 屋 と 工 場 を 構 え、
加賀製紙㈱
主業務は板紙の製造、貼り合わせ
加工。1915
︵ 大 正4︶年9月 創 業 。
社長は中島秀雄氏。資本金1億35
00万 円 。決 算 期は3月 。売 上 高 約
億 円︵ 年 度 ︶。主 要 仕 入 れ 先は
島 畑 商 事 、石 山 商 店 、金 沢 紙 業 、三
谷 産 業 な ど 。販 売 代 理 店は国 際 紙
パルプ商事、シロキ、中島商店。社員
数は121人
︵2015年3月1日現
在︶
。
う に、 ひ た す ら 改 革 改 善 を 重 ね て き た 歴
可 欠 な 水 や 燃 料 焼 成 が 公 害 と な ら ない よ
昭 和、 平 成 と 歩 ん だ一 世 紀 は、 工 程 に 不
水の沈殿槽の点検通路に中島秀雄
場の一角にある、
紙づくりで使った
沢市西金沢1丁目、加賀製紙の工
早春の日差しが柔らかい201
5
︵平成 ︶
年3月上旬の午後。金
北陸新幹線開業に感慨
史といっても過言ではない。 工場のすぐ近
社長
︵ ︶
、眞田千里専務
︵ ︶
、石
69
64
り出すと、眞田専務、石山常務と
﹁いやあ、本当に景色が一変し
たね﹂
。感慨深げに中島社長が切
んだ。
く に 北 陸 新 幹 線 の 高 架 橋 が 建 設 さ れ るの
板紙づくり一 筋にまい進してきた。 大正、
13
27
64
もうなずいて、遠い目つきになっ
た。北陸新幹線の約 ㍍の高架橋
備はすべて移設した。
人が立つ沈殿槽以外の排水処理設
の配置換えを余儀なくされた。3
紙の工場敷地も結構削られ、施設
び付帯道路の新設に伴い、加賀製
がすぐそこにそびえる。高架橋及
15
︵平成 ︶
年5月であった。その後、
加賀製紙を訪れたのが2005
石川県、金沢市の職員らが新幹
線建設に伴う用地交渉で、初めて
近くに高架橋、工場配置を一新
工場内の製造現場で
社員から説明を受け
る中島社長(左から2
人目)
ら
=加賀製紙本社
諾したのである。
受ける先方の案を、条件なしで承
たものの、代替地として隣接地を
声が忘れられない。敷地が削られ
背景にある、中島社長のツルの一
は、トントン拍子で交渉が進んだ
力は惜しまずやろう﹂
。石山常務
とともに歩む加賀製紙だから、協
の幹部が次々やってきた。
﹁地域
鉄道建設・運輸施設整備支援機構
17
12
13
30
山紀久男常務
︵ ︶
の3人がたたず
北陸新幹線の高架橋を背に加賀製紙の来し方行く末を話し合う左から中島社長、眞田専務、
石山常務=金沢市西金沢1丁目の加賀製紙本社
を機に、工場配置も一新した 世紀の老舗
紙づくりメーカーを取材した。
21
取材/北國総研
特別企画2
加賀製紙㈱
加賀製紙で生産する板紙で作られた紙箱や本のハードカバー
⑧
❽
⑥
①
抄紙に使う大量の水を浄化
道工場長︶が、西金沢近くを流れ
る木呂川に排出されている。
972
︵昭和 ︶
年9月に導入され、
現在のシステムは当初、国内で
し方を振り返ると、
加賀製紙の来
公害対策が法制化された後の、1
特に戦後の 年は、同社が地域に
根差すがゆえに、そこに迷惑を及
年4月には改良型、2009
の試みを繰り返す歳月であった。
して 年9月には、北陸新幹線対
︵平成 ︶
年5月には微生物の力を
ぼしてはならないという公害防止
47
大な水
板紙の製造工程では、膨
を使う。まず、原料となる古雑誌
88
50
借りるバイオ処理型に改良し、そ
21
や古チラシをどろどろにとかし、
応の施設配置に伴い三層流動式に
RPFで大気汚染なし
改めて、現在に至っている。
11
砂や金属、ビニールなどの異物を
取り除く。これを、1日当たり普
通の ㍍プールで 個分に匹敵す
10
濁っているので、濁りがほとんど
が混じり富栄養状態で灰褐 色 に
廃棄物の紙くず、木くず、繊維く
ルだ。この乾燥汚泥も含め、産業
燃料に変える。徹底したリサイク
ず、廃プラスチックを原料とした
が有機物を分解する仕組みだ。B
注入した貯水槽に生息する微生物
った水は、活性化のために空気を
沈殿させる。かなり、きれいにな
いるため、品質が安定しており、
められた産業廃棄物を原料として
ら導入した。RPFの特長は、決
システムを2009
︵平成 ︶
年か
︶を
︵ RefusePaper&PlasticFuel
バイオマスボイラーの燃料とする
高カロリーの固形燃料即ちRPF
OD
︵生物学的酸素要求量︶ pp
その工程では、巨大な貯水槽に
濁った水を貯め、水中の不純物を
る。
なくなるまで浄化工程をくぐらせ
使用した水は細かいパルプの繊維
抄紙工程で生じた沈殿槽の不純
る地下水を使い、 抄 紙機で漉く。
物は、自社のエネルギー源となる
50
以下までといずれも基準値をクリ
ほとんどない。従って化石燃料の
抑えられ、ダイオキシンの発生も
塩素ガスによるボイラーの腐食を
︵喜多則
アした﹁透き透きの水﹂
説明しよう。まずは板紙の原料を
などの原料をどろどろに溶かす
削減に直結し、CO 2削減に寄与
もともと加賀製紙は、その高い
煙突が﹁西金名物﹂でもあったよ
﹁ パルパー﹂という機械に通す。
に運ばれてきた古チラシや古雑誌
うに、重油を燃やしてエネルギー
原料から﹁サイクロン﹂という機
械で砂や金物など重い異物を取り、
﹁スクリーン﹂という機械で発泡
煙の中の二酸化硫黄︵SO 2︶は
%超まで排煙脱 硫 装置で取り除
槽へ。
﹁チェスト﹂と呼ばれる原料保管
﹁ディスクエキスト﹂にかけた後、
く。続いて原料を洗浄し濃縮する
スチロールなど軽い異物を取り除
月にはFSC/COC︵FSC
法が評価され2013
︵平成 ︶
年
か、古紙100%リサイクルの製
れにより、加賀製紙ブランドの付
加価値がさらに高まったのは、言
うまでもない。
ただ今現在の抄紙の工程
こうした限られた地球資源の保
護と、コンプライアンス︵法令順
守︶に徹する堅実経営は﹁これか
ここで製造工程を上の図に沿い
らもずっと続く﹂
︵中島社長︶
。
うので使った水はともに排水処理
部門と抄紙部門には大量の水を使
の枚数を数えて積み重ねる。原質
る。最後に﹁レーボーイ﹂で板紙
カッターで適度な大きさに裁断す
ープリール﹂でロール状にするか、
﹁カレンダー﹂で光沢を付け、
﹁ポ
ート﹂などで乾燥させる。最後に
﹁ヤンキードライヤー﹂
﹁ドライパ
ス ﹂や﹁プレスパート ﹂を経て
紙層は脱水工程の﹁ ベビープレ
水分たっぷりの紙層になる。この
ート﹂という抄紙装置をくぐって
装置を通った原料は﹁ウェットパ
板紙製造工程での水の浄化や、 いよいよ抄紙部門に入る。原料
RPF採用に伴うCO 2削減のほ
使用量を調整する﹁種箱﹂という
森林認証で付加価値アップ
勘案し、RPFを導入した。
公害防止設備に要する経費などを
いていた。その後、燃料費の高騰、
99
の自社供給分をまかなっていたが、
つくる原質部門から。始めに工場
m以下、SS
︵浮遊物質︶ ㎎/ℓ
21
して地球温暖化防止にも貢献する。
40
15
25
リサイクル︶認証を獲得した。こ
11
⑨
⑪
⑩
❾
⑦
14
15
③
②
❼
❻
❺
❹
❸
❷
❶
④
⑤
5年 10月 1号抄紙機の据え付けを完了。円網多筒式。稲
藁を原料に板紙の製造開始。
1998
10年
2月 4代中島徳太郎が会長、
中島秀雄が社長に就任。
5月 自社従業員の手で1号抄紙機に2号抄紙機
(旧)
の機械を組み合わせ1号抄紙機の据え付け
を完了、板紙のみ生産再開。
1999
11年
2月 平成10年度県リサイクル製品に古紙を再生資
源とする
「各種板紙」
が認定。
8月 3代中島徳太郎社長が死去。
2000
12年
5月 スリッター機を導入、
運転開始。
2001
13年
2月 石川県リサイクル製品に
「古紙再生ファイル」
が
認定。
2003
15年
2月 4代中島徳太郎が死去。
2009
21年
5月 排水処理設備を運転
(1期)
4月 わら集積場土間のわら束にトラックから引火して出火。
1954
29年
紙1日分の生産量を購入していた
のが、 年にはゼロとなった。
その穴を埋めるため、工務、営
業部門とも努力を重ねる中、今度
は東日本大震災が起こり、個人消
費が低迷期に入った。リーマン・
ショックの前と後とで比較すると、
売上高で約1割程度、生産量で2
割ほど落ち込んだ。
国内の製紙業界では、 年5月
に岡山の老舗メーカーが民事再生
手続きを開始したり、 年7月に
は滋賀の企業が廃業するなど厳し
い状態が続いている。
﹁果敢に挑戦する﹂
とはいえ、ここ1、2年、アベ
ノミクスが効いてか明るい兆しが
ある。これまで取引のなかった流
通業からの注文が舞い込んだり、
大手製紙会社の工場再編に伴う需
要が入ってきたり。
﹁今こそ少し
でも新業務につながる可能性のあ
る分野には果敢に挑戦する﹂と表
現して眞田専務が示したのは二つ。
10月 中島商店社長、
中島雄吉が4代中島徳太郎を襲名。
11月 西田儀一郎が取締役会長に、4代徳太郎が社
長に就任。
3月 2号抄紙機
(新)
を設置。一部に、静岡県の大浜
製紙より購入した機械を導入。運転開始。
38年 12月 3号抄紙機を設置。円網ヤンキー多筒式。運転
開始。
1971
46年 12月 原質設備を新設運転。
1972
47年
1978
53年
3月 産業廃棄物対策の一環としてパルパー脱水装
置と3号抄紙機のシャワー装備を増強、運転。
いってよく、少量でも売れる商品
を開発したいと力を込める。
ことし1月、大阪方面の取引先
や販売代理店に年始のあいさつ回
りに訪れた中島社長は、いい情報
を耳にした。近年、円安や﹁いい
仕事をするものづくり日本﹂への
回帰で、ボルトやナット、ドライ
バーなどを入れる紙製工具箱の需
要が膨らんでくる、というのであ
る。需要に勢いが増してくればし
原料にしたという。昭和 、 年
代くらいまでは、小中学校でよく
部門をくぐる。また、乾燥する個
所には、無公害型の動力部門が威
われていたように、板紙でも、か
なる抄紙機は2号機︵平紙のみ生
内で展開される。紙づくりの要と
り半分にも相当する、広大な敷地
こうした工程が、総面積約6万
3772平方㍍と兼六園のざっく
自然発火はなくなった。石山常務
束に空気抜きの措置を施したため、
ったこともある。その後、稲わら
酵が進み、自然発火して火事にな
社敷地に積まれた稲わらの束で発
つて稲わらが主流だった。だから
産︶
、3号機︵平紙とロール紙生
は﹁私が入社した昭和 年代には、
か、1929
︵昭和4︶
年には、会
産︶から成る。老朽化した1号機
稲わら原料の時代もあった
﹁わらばんし﹂というザラ紙が使
40
力を発揮する。
30
去した。まさに重厚長大のシステ
は新幹線対応に伴い既に廃止、撤
っていましたよ﹂と懐かしそうに
まだ一部で、稲わらで板紙をつく
さて、経営状況に目を移そう。
眞田専務によると、ここ7年間に
2度の﹁激震﹂に見舞われた。2
008︵平成 ︶年秋のリーマン・
ショックと、 ︵同 ︶
年春の東日
どこまでも広がり、収穫の秋か、
真をみると、社外には加賀平野が
海外生産にシフトした。加賀製紙
国内の多くのものづくり企業が、
リーマン・ショックでは、為替
相場が急激な円高に振れたため、
本大震災である。
田んぼのそこここに稲わらの束が
の主要得意先の一つの大手バイン
ころまでは稲わらを原料にしてい
円筒形に積まれている。加賀製紙
ダーメーカーも、ベトナムに生産
︵ ︶
だ。秀雄社長の長男で、20
の工場内にもあり、これを板紙の
である工務と営業と
会社の 要
を所管するのが中島雄一郎取締役
原価管理意識を改める
て行くという。
で同業他社に対する優位性を増し
しまう。さらに、両面欠点検知機
﹁ニーダー﹂という新鋭機も原
料に混じった赤や青の色を消して
まった。
異物の混入を防ぐ精度が格段に高
という新鋭機を導入することより、
品質を向上させるための投資は
既に行った。
﹁ 高濃度パルパー﹂
た。古い時代の加賀製紙の全景写
2度の激震に見舞われ
のどかな時代を振り返る。
40
ムが産み出す板紙は平均して1日
約160トンに及ぶ。生産コスト
で電気は1日 万1000㌔㍗/
トントラック
杯分に相当する。
10
今でこそ、古紙と水でほぼ10
0%板紙をつくるが、昭和 年代
40
日190トンで
h、水は1日2万トン、古紙は1
10
9月 排水処理設備を運転
(2期)
7月 わらパルプ生産打切り、古紙主体に切り替え。
2月 新幹線関連工事が完了。鉄道・運輸機構引き渡
し。
51年
23年
1976
24年
8月 3号抄紙機を大規模改造。サクションロール、
バッ
ト、
ドライヤー、
ターボ集塵機など新増設。
2012
48年
2011
1973
12月 新幹線関連工事の総合安全祈願祭
1963
めたものである。まさに、
﹁板紙
23
19
8月 北陸新幹線金沢開業に伴い、停止していた1号
抄紙機を解体、
撤去。
22年
2010
9月 排水処理設備の第一弾、
マルチチューブクラリ
ファイヤー設置。
33年
7月 バイオマスボイラー
(RPFボイラー)
を稼働。RPF
を主原料とする年間5600トンのCO 2 削減効
果。
1958
の板紙は加賀製紙の﹁十八番﹂と
26年
拠点を移したため、毎月、加賀製
1916
8月 新社屋完成。
2月 抄紙工場裏側から出火。工場全焼。
1951
の加賀製紙﹂の出番なのだ。
11 20
11︵平成 ︶年7月に着任した。
ら、育てていく考えを示した。
雄一郎取締役の資質を見詰めなが
いていればということですがね﹂
。
いてもらわんなん。もちろん、向
みせる。
﹁やがては、その任につ
ながらも、いささか厳しい表情を
もっとも、父の中島社長は後継
者について聞かれると、目を細め
るところがあるという。
下、人事考課についても考えてい
やる気になるか﹂の視点から、目
そして、
﹁若い社員がどうすれば
にロスのある工程を鋭く指摘する。
はあるのだろう。時間的、数量的
その目でみれば、まだまだ改善点
。
﹁原価管理意識が今ひとつだね﹂
重厚長大の装置産業であるだけに、
務と営業のポイントは外さない。
り、基本を身に付けたとあって工
うが、紙づくりメーカーでしっか
このため、生産規模はぜんぜん違
業﹂を積みふるさとに帰ってきた。
大学を卒業してすぐ、大手製紙
メーカーの王子製紙に勤め、
﹁修
んできたようである。
の温厚篤実な人柄が、社内になじ
足掛け約4年を経て最近は、生来
23
加賀製紙㈱100年の歴史 主なエポック
厚物商品の進化
①
着色商品の開発
②
特に厚物という厚さ1・5㍉超
34
4年
16
17
13
30年
5月 2号、3号抄紙機に欠点検出器
(ソーター)
設置。
14年 10月 2号抄紙機で洋紙抄造開始。
24年 12月 砕木機を購入し、
GP
(砕木パルプ)
の製造開始。
元年 12月 2号抄紙機を大規模改造。バット、
ドライヤーなど
増設、
リールクレーン、
スクリーン、種箱遠隔制御
装置など新設。代理店からの製品供給増加の
要望受け。
1949
1989 平成
1939 昭和
8月 工場排水の処理設備運転。
5月 横山俊二郎に代わり、3代中島徳太郎が社長に
就任。
62年
13年
1987
1924
5月 №1 二上合紙機を設置。
1915 大正
5月 1号抄紙機の運転を停止。
5年
1955
8月 3号抄紙機を全密閉ベンチレーターなどに改造。
57年
8月 中島徳太郎取締役が死去。中島与四郎が3代
中島徳太郎を襲名。
1982
11年
5月 役員会で排水処理装置の増強と原質部門への
スクリーンの増設決定。公害対策のため。
1922
元号
54年
10
9月 菓子箱用の友禅風模様の板紙を商品化。
1993
工務と営業を担当する中島取締役
(手前右)
と打ち合わせをする社員
記 事
西暦
記 事
元号
西暦
9月 金沢製紙㈱の事業継承、加賀製紙㈱が創立。
社長に横山俊二郎が就任。
1979
14
=加賀製紙本社1階
工務と営業、総務の社員が執務するフロア
特別企画2
││
﹁社長に聴く﹂
インタ ビュー
加賀製紙㈱代表取締役社長
中島 秀雄 氏
択の一つかも 知 れ ないとみて、 専 ら 前 向 きに発 想 する。 長 年
マインドは微塵も揺るがない。多品種少量志向が生き残りの選
父から4代にわたり継いできた経営のバトン。 板紙一筋の企業
百 年 企 業の経 営 を 担 うのは大 変 なことである。 ましてやパ
イがここしばらく縮みがちの業界ならなおさらだろう。 曾祖
分野を手掛けず、板紙一筋で行きますか。
めて抱負を聞かせてください。今後も新
︱創業100年の節目を前に、あらた
板紙一筋は今後も変えない
りも、新商品開発などに営業努力を重ね、
縮小しつつありますが、新分野というよ
に果たすことができました。板紙市場は
コストダウンを図りながら売上増を期し
けたリニューアルはほぼ考えていた通り
生産ラインの配置転換を行い、将来へ向
培ってきた厚さ1・5㍉以上の厚物や、色板紙など高付加価値
てまいります。
︱地域とともに歩んできた姿勢を今後
法令順守で地域と歩む
特に品質については、高い評価を得てい
とも堅持しますか。公害防止やリサイク
考えます。従来からの板紙一筋の方針は
後とも続いていかねばならない企業だと
つは穀倉・加賀平野ゆえに原料となる稲
だのは3つの理由があったそうです。一
中島社長
弊社は板紙づくりで大量の地
下水を使います。創業時、この地を選ん
ルに対する考えをお聞かせ願いたい。
変わりません。と言うか、変えません。
道という当時最有力の物流の駅が近かっ
書はどのような分野をよく読みますか。
心誠意﹂です。
中島社長
座右の銘は﹁誠
日本の企業社会にあっては、これがない
汚染などの公害防止には、これまでも、
基礎大切でも、そこで止まるな
と、お客様に評価していただけません。
たこと、3つ目は板紙づくり
︱板紙メーカーの人づくり、人材確保
仕事を続けていくということは、一貫し
情報はどう収集していますか。
込めたこと、です。地下水抜
きに弊社の事業は語れません。
こそ、地域の皆様と協調する
ですから、もし、苦情があっ
住宅街にあるものづくり企業
ンがしっかり伝承されてきました。これ
と、長年にわたり、はぐくんだ経験とカ
先輩から後輩、後輩からまたその後輩へ
環境の変化に流されず、後世に残ってい
す。世の中がどんどん変わっていっても、
企業であり続けたいのです。
た場合は、直ちに原因を調べ、
くものが必ずあるんですね。真理という
不易流行の仕事をしていきたいです。
のはそういうものではないでしょうか。
は大きい力です。
が重要です。とにかく、コン
プライアンス
︵法令順守︶
に尽
きるわけで、水質汚濁や大気
ないか。まだ工夫が足りないのでないか﹂
展もありません。
﹁もっといいものができ
が、そこに安住してしまうと、進歩も発
しています。基礎は先輩から教わります
私は時々、幹部や社員に﹁それを基礎
としても、それでいいと思うな﹂と指導
されても、変わるものではありません。
ての紙づくりの基本は、どんなに機械化
功体験に固執しない組織づくりが肝要で
って、組織のトップたるもの、過去の成
は失敗する、との教訓を学びました。従
去の成功体験だけを頼りにすると、経営
かという分析があり、この本からは、過
ります。先の大戦で日本軍はなぜ負けた
います。印象に残っている本に、
﹃失敗
にどんどん積んで、
﹁積ん読﹂となって
めて上司に報告しなさいと勧めています。
ら、幹
情報収集は、会社においては 専
部や社員に対し、有益な情報があれば努
の本質﹄
︵戸部良一ほか著︶
というのがあ
と自らに問い、じっくり考えた仕事を重
あると肝に銘じています。
︱座右の銘があれば教えてください。読
﹁誠心誠意﹂ と ﹁不易流行﹂
ねるのが大切であろうと考えています。
見た目とか、手触りとか、五感を駆使し
械装置が格段に大きくなっただけです。
読 書 は 乱 読 か つ﹁ 積 ん 読 ﹂で す ね。
色々なジャンルの本を読み、自分の部屋
板紙づくりというのは、基本は、和紙
づくりの紙漉きと変わらないんです。機
すぐに対策を実行に移すこと
中島社長 百年企業というのは、人づく
た誠心誠意であると確信しています。
易 流 行﹂という概念を経営
り、人材確保の蓄積が違うと思うんです。
一方で﹁不
者として堅持したいと常日頃思っていま
について具体的な戦略はありますか。
これからも真剣に取り組む所存です。
1951(昭和26)年、金沢市生まれ、64歳。京
都大卒。73年住友商事入社。78年加賀製
紙監査役。82年取締役、89年副社長を経
て、98年社長に就任、現在に至る。中島商
店社長。金沢経済同友会理事。金沢商工
会議所副会頭。
に不可欠な大量の地下水が見
わらが豊富であること、もう一つは、鉄
このたび、北陸新幹線開業に伴う弊社
の用地提供を機に、大規模な設備投資と
先人たちが1世紀をかけて築き上げた
弊社は、わが国の板紙業界において、今
ると自負しています。
に通用するメーカーになったと思います。
だいたおかげです。今では、板紙で全国
中島社長
創業100年を迎えることが
できますのは、地域の皆様に育てていた
の可能性を追求してやまないオーナー社長の経営観を聴いた。
氏
中島 秀雄
従って、この地を離れての
操業はありえません。だから
創業以来、工場内の同じ場所に鎮座する稲荷神社。
「新幹線」対応でも、
「お宮
の場所は変えず」の創業からの教えを守った=金沢市西金沢1丁目の加賀製紙
森林環境保全に適合しているとして受けた森林認証の認証状
18
19
縮みの時代にも前向きに発想
高付加価値を追求してやまず
特別企画2