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神島内浦汁方に遺る長鋪家本家の邸宅
先祖は小見山氏、陶山氏と共に元弘元年(1331)9月京都笠置山軍功あり。
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所在地:笠岡市神島内村汁方(しるかた)現住所は神島3055番地。
本図は「長鋪姓と陶山、小見山氏について」長鋪宏著より借用、以下も同
長鋪家の先祖は小見山氏であった。 また小見山氏の遠祖は藤原鎌足の後裔大夫将監氏長の説もある。
氏長は藤原氏全盛の頃、守平親王(959-991 村上天皇第五皇子、後の円融天皇)に供奉し信州に下る。数代に
して小見山に住しやがて小見山を氏とするという。その後小見山二郎行忠が、備中国後月郡高屋において城を、
構え、笠岡城主陶山藤三義高と共に元弘の乱(1331)のとき笠置山攻めに加わったことに繋がってゆく。
元禄十三年(1700)小田郡神島内村検地帳には先祖伝右衛門名儀で百拾八歩の屋敷と田畑が記載されている。
上の写真がその現状で現在は600坪の敷地の屋敷を昭和48年に改修を施し、三分の一ほどに縮小補修をお
こなったが、その後は定住者なく空き屋の様子。場所は神島内浦汁方の旧道沿いの山寄せに建っている。
小見山から長鋪への改姓は福山藩阿部藩主の頃で、当時福山城改築の功があり、小見山を変えて長鋪にせ
よと、領主阿部侯から「丸に鷹の羽根」の家紋と「姓」を賜ったという。当主の佐太郎敬恒(天保9年歿)の墓石に
は「小見山変性長鋪佐太郎敬恒」とある。また佐太郎の寄進した狛犬が天神社に在り、台座には長鋪佐太郎の
銘と寛政年号(1789-1801)が刻まれている。
佐太郎を嗣いだのが子の元右衛門(明治7年3月歿)、彼は慶応2年(1866)5月、明治新政府へ三百両の寄附に
より長鋪の名字を受けた。この時、笠岡の名士たち金浦久我家五百両を筆頭に13人が名を連ねた一人である。
元右衛門の子が佐太郎信養(大正2年5月歿)、この時相続した資産は田畑20町歩、山林5丁歩、塩田2町歩、
千石積帆船2隻(金比羅丸・徳一丸)であった。塩田は中村西浜新田と呼ばれるもので幕末に塩田となった土地。
千石船2隻は現在神島資料館にその持船だった「金比羅丸」の模型が展示されている。
神島史料館展示の『千石船』(模型)長鋪信養氏寄贈、平成元年十月吉日。
米を千石積載できる能力から千石船と呼ばれた。
正式には弁才(財・済)船と呼ばれ木造大型帆船を
いう。江戸中期頃より大型化し千石積(150トン)で
全長29m幅7.5m深2.5m程、帆は18mx20mあった。
長鋪家の「金比羅丸」には多くの関係文書が残され
ており、史料館に模型船と共に展示されている。
右の写真は「船額」(せんがく)。この額は船名が決
まった時に作られて船内に掲示されていた。額の
大きさは船の大きさに比例し、船名板は船の船尾
に取り付けられた。
右の古文書は明治
十七年(1884)に児島
の塩田王野崎家から
塩二千俵余りを積込
んだ金比羅丸船長久
造宛てに代金の受領
と船積商品引渡証で
ある。長鋪家も塩田を
経営しており塩の輸送
も関連事業としておこ
なっていたことが分かる古文書だ。
帆船の運航は明治35年頃から蒸気
船が主流となって大量輸送ルートは
大手海運会社に集約されたものの
小量近回りの和船は昭和になっても
運航されていた。
長鋪家の海運事業は現在でも引き
継がれ日本国外を往来する遠洋資格
の外航貨物船数隻を保有している。
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「神島史料館」 運営は神島史料館協議会 おすすめです♪ 是非一度はご来観を~
地域の人たちが持ち寄った漁民具などを展示した手作りの史料館です。
館内には国の重要文化財「絹本著色仏涅槃図(写)(自性院・安養院共蔵)
」も展示。見学の際は神島公民館へお申し出を。
住所
〒714-0044 岡山県笠岡市神島4136
TEL
0865-67-5885(神島公民館)
開館時間 9:00~16:00
休館日 土・日曜日、祝日、年末年始
入館料 無料
ホームページURL http://www.kasaoka-kankou.jp/spot/155
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位置図: 笠岡市神島内浦汁方
笠岡神島内村汁方01.jpg