『 「根拠のない自信」がもたらす教育現場での危うさ』 3月20日(日) 学校現場では、先生方のチームとしての協力と連携のある取り組みが重要となる。もちろん、先生方の個 性が感じられる指導も大切なことには違いない。 しかし、 子どもの教育をより長い目で見ていこうとする時、 学校という組織での先生方の共通の理解を基盤とした取り組みが重要な場合が非常に多い。そのような共通 理解は、学校の教育目標、子ども像の大枠での捉え方、それらに基づいた指導のあり方、さらに知的障害や 発達障害の子どもについての客観的な視点での共通した理解が重要となる。これらは専門的知識と言われる ものに含まれ、客観性に基づいた基盤が整えられている。つまり、科学的な知識の集積によって、普遍性を もつものとして整理されてきていると言える。しかし、先生方の中には、 「教育観」ということばを後ろ盾に、 障害特性についても自分なりの見かたと捉え方をしている場合もあるように思われる。では、どうしてその ような客観的な視点で整理されている内容について、 教師による恣意的な解釈がなされてしまうのだろうか。 そこには、教育、特に特別支援教育という取り組みで生じやすい特質、教員に起こりやすいある種の傾向 性が関係しているようである。もともと、人は自分に自信があったり、自分のすることに自信があることに よって、新たなことへのチャレンジも可能となってくる。もちろん、そこでの自信に根拠など必要ないとい う場合もあるのだろう。根拠を探している間にチャンスを逃してしまうかもしれないし、エネルギーが失せ てしまうかもしれない。いろんなことにチャレンジしようとする子どもの場合、 「ぼくならできるはず」と自 信が先行してしまう。いわゆる「万能感」に支配された場合、 「根拠のない自信」を持ってしまうことが多い のだろう。 教員においても、 教育という営みの中において同じような事態が生じやすいのではないだろうか。 教員が自分の取り組みや実践に何らかの満足や充実感を見出してしまう時、 「根拠のない自信」が生まれてし まう危険性が起こってくる。自分の担当したケースでよい方向に事態が推移した理由やその原因、影響した 要因などについての客観的な視点からの検証が充分になされない場合は特にそのような傾向が強まってしま う。結果がよい方向性に収束することはそうでない場合よりも望ましいことには違いない。当事者や関係す る者と喜びを共有することは非常に大切な過程だろう。しかし、自分の取り組みや実践に「酔って」しまい、 分析的、 客観的な視点からその検証がなおざりにされてしまうということは、 筆者のまわりを見る限りでは、 教育の世界ではいとも簡単に生じてしまいやすいことのようである。その場合には、教員の自己満足、そし てそれによる充実感が蔓延する。そして、自分がやったことに自信を持つことで、 「自分スタンダード」の見 方をしてしまいがちになりやすい。そうなれば、分析の基準は「自分スタンダード」に含まれる要素であり、 以降の取り組みについても、他のグローバルな、特に客観的な視点から分析するという作業はさらに遠のい ていってしまう。客観的な視点からの分析なしでは、そこに生じるのは「自分スタンダード」に基づく「根 拠のない自信」だけではないだろうか。先に紹介した「万能感」に駆られていろんなことに挑戦してみよう とする子どもの場合、どこかの時点で何らかの失敗や挫折は必ず味わうものであるだろう。そこから、自分 の「身の丈」を知ってくる。そうすることで自分のできることやできないことを知り、得意な点や苦手な点、 がんばらないといけないことなどが分かってくる。自分が分かってくるのである。そして、自信には何らか の根拠が伴ってくるだろう。 教育において、そして特に筆者の携わる特別支援教育の場合、このような教員の「根拠のない自信」は当 の本人が気づかないままに多くの場面で保護者や同じ学校の先生をはじめ、関係者に困難を広げていきかね ない。 「根拠のない自信」によって自分のやり方に固執し、自分の価値観で物事を運ぼうとする場合、そして それでうまく事が運んで行っている限りでは、まわりが合わせてくれていることに本人は気づいていないこ ...... とが多い。あるいは自分の考える理屈(理論ではない!)を振りかざし、それを客観的な一般共通理解事項 (つまり、科学としての理論)としてまわりに吹聴している場合、もっともらしい内容を話して、展開して いるように思わせることでまわりを納得させてしまう。さらに科学であっても自分の身につけている部分は ほんの断片的な部分であるにも関わらず、その全体像を知らないために、一部分の拡大解釈をどんどん繰り 返し、それで納得してしまっていることもある。 「裸の王様」状態とでも言おうか、あるいは「似非科学」と でも呼ぼうか、ひとりよがりな状態が生じてしまう。そこでは、当の教員は自信たっぷりに振る舞い、まわ りを魅了してしまうこともある。しかし、自分の周辺以外では通用しないことが多いことは明らかである。 仮に客観的な一般法則や一貫性が断片的にあったとしても、総体の中での位置づけができない、あるいはそ のような状況に自分自身があること自体が理解できていないからである。簡単に言えば、取り組みや言って いることの根拠がないのである。自分だけの理屈で動いているにすぎないということになる。このような「根 拠のない自信」による行動パターンを取る時、自らは「ガラパゴス化」し、ひとりよがりな行動が増え、そ して自分の周囲以外からは相手にされなくなってしまうこともあるだろう。 「自分スタンダード」ないし、い わゆる「万能感」が「根拠のない自信」の根底にある場合が多いだろう。自分を客観視できずに、 「このこと . については、ぼく(わたし)は何でもできる」と思ってしまっている。持ち合わせている科学的な知識が断 .. .. 片的であっても、それが総体となってしまっている。もちろん、そのような場合にはいずれ取り組み自体に 行き詰まりが生じてきてしまう。そこに至って、自分の置かれた位置を把握できるようになればよいが、そ うでない場合には、 「どうしてまわりは分かってくれないんだ」と責任をまわりに求めてしまう。 「正当な意 見が認められない」ことから反発を感じたり、時に疎外感を持ち、場合によっては落ち込み、 「ぼく(わたし) の活躍できる場所はもっと他にあるはずだ」と今のポジションをやめてしまうことも生じ得るだろう。 民間企業では効率が上がり、利益が出てこなければ、いくら自分の「理屈」を持ち出しても、まず認めて もらえないのが実際だろう。一方、特別支援教育の現場においては、教育的取り組みの効果の表れ方が非常 にゆっくりである場合や目につきにくい場合も少なくない。さらに、教育に関しては、教育観や障害につい ての考え方、あるいは教師の主体性といった解釈の幅がきわめて広いことばが最終の砦としてよく登場して くる。そのために、すでに書いたように「客観的視点を欠いた自分スタンダード」ないし「根拠のない自信」 による砦をたやすく築いてしまい、 今の自分のやり方への反省がなかなかできないことが多い。 そうすると、 自分の今の取り組み方や考え方を見直すことを怠ってしまうのである。 「根拠のない自信」はこのような状況 に根ざしていると言えるだろう。ここから言えることは、教育現場では「根拠のない自信」は「おごり」と 「傲慢」を生んでしまいやすいということだろう。蓄積された根拠のある知見(科学的根拠のある客観的な 視点)を知らないこと、あるいは知ろうとしないことは、自分の実践の枠内での判断にしか価値を見出さな い状況を生み出してしまうことになる。さらに、このような「根拠のない自信」は近くの者に伝染しやすい ようである。 「根拠のない自信」を持ち合わせている本人が何らかの指導性を発揮した場合、特に新任者や教 員になって間もない者にはいとも簡単に伝染してしまう。若い先生方には、人間性に根差した教師としての 専門性はもちろんのこと、さまざまな客観的視点での知識( 「専門的知識」のこと。なお、 「専門性」イコー ル「専門的知識」ではない。 「専門的知識」は「専門性」に含まれる)を身につけていってもらいたい。確か な知識が特別支援教育では非常に大切である。それは、 「根拠のない自信」とは対極にあるものと言えるだろ う。専門的知識に基づく取り組みは、 「根拠」が説明可能である。特別支援教育で大切な点のひとつに「的確 な実態把握」に基づく取り組みがある。これこそ実践の根拠を明確にすること以外の何ものでもない。 「やる ことには根拠がある」のである。筆者には、この対極が「根拠のない自信」によって取り組まれる活動と思 えるのだが。 教育における専門性には人間性( 「人間力」という表現も同じことを指しているのだろう)が非常に大き な意味を持ってくる。自然科学系の学問が扱う対象とは違って、教育においては人間という極めて神秘的な 存在が対象となる。対象としての人に関しての条件統制は自然科学の場合のようにはいかない。心理検査に おいては、危険率が 15%の有意差での統計処理も有効である。つまり、教育における「専門性」はその基盤 があいまい性を含んでも仕方がないと言えるだろう。我々の「専門性」には愛情や共感といったことばにみ られるような定義困難なものが多く含まれる。しかし、教育はそのようなあいまい性だけでは成り立たない。 「専門性」の中には「専門的知識」が含まれる。教育が一貫性を持って、計画的に取り組まれるものである 限り、客観的な視点での知識は必要となる。 「専門的知識」はあいまい性を許さない。子どもや保護者の気持 ちに寄り添う場合は、あいまいさと根拠のなさが必要な場合が多いかもしれない。しかし、そのことと科学 的な知見とは決して二者択一的な関係ではない。我々教員の専門性とは、いずれをも重視し、場合に応じた 効果的な対応ができることだろう。特別支援教育では計画性と一貫性が重要となるが、教員の「根拠のない 自信」がそのような挑戦を捻じ曲げてしまわないように、学校での研修のあり方をしっかりと見据えていく 必要があるだろう。
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