『弁内侍日記』の執筆意図

『弁内侍日記』の執筆意図
一 はじめに
松 永 晴 子
元年末まで続いていたとする根拠のひとつは、本日記を典拠とした
とおぼしき記事が『増鏡』第六巻「おりゐる雲」に見られるからで、
この記事というのが正元元年、後深草天皇退位の場面なのである。
故日記を書くに至ったのかが非常に読み取りにくいという側面を
と捉えられてきた。近年ではそればかりではないという見方が強ま
『弁内侍日記』は「微笑の文学」とも称され、作者が若かっ
従来、
たため、また、作者の無邪気な性格ゆえに明るく書かれているのだ、
年あたりまで、と考えてよいだろう。
幼帝に仕える弁内侍がその即位から起筆し、退位で筆を置いたと考
持っている。そこで、本稿では、作者が書き残したかったもの、作
り、例えば松本寧至氏は日記の記録性という部分に着目し、後深草
『弁内侍日記』は鎌倉時代の女房日記である。作者は藤原信実の
女、弁内侍で、現存する日記記事のなかでは十歳に満たない幼帝後
者の執筆を促したものを探ることにより、『弁内侍日記』の執筆意
天皇時代の宮廷を記した女房日記であることを踏まえれば、「めで
えるのは極めて自然といえる。弁内侍の生存が建治三年 (一二七七)
図に迫っていきたいと思う。
たきこと」や「をかしきこと」を内侍の立場で記述するのは当然の
頃まで確認できることも考慮に入れ、日記全体の最終的な成立年は、
ま ず、 作 品 の 基 礎 情 報 を 次 に ま と め て お く。『 弁 内 侍 日 記 』 は、
寛元四年 (一二四六)正月二十九日、後嵯峨天皇から後深草天皇へ
ことと述べられている。つまり、内侍としての職掌に、本日記の性
深草天皇に仕えている。この日記には、他の日記に見られるような
の譲位記事を冒頭に、以降は日次を追って綴られている。上下二巻
質の一端を認めたのである。以来、このような考え方が主流となっ
後深草天皇が退位した正元元年以降、弁内侍が生存していた建治三
からなり、下巻に入ると虫食いによる欠損が目立ちはじめ、巻末に
て『弁内侍日記』の作品論を支えていくことになる。
序文が存在せず、いきなり後深草天皇への譲位の儀からはじまる。
近付くほど判読が難しくなる。現存する日記の最終記事は建長四年
そのため、作者がどのような思いでこの日記を綴っていたのか、何
(一二五二)十月のもので、以降の記事は散逸してしまっているが、
「宮
しかしながら、作品論が転機を迎えたあたりから、とりわけ、
⑴
本来は正元元年末まで続くものであっただろうと推測される。正元
― 190 ―
そこで、今一度原点に立ち返り、本日記の明るさについて筆者な
りに検証し、『弁内侍日記』の性質について再度検討を試みたいと
ことになりかねない。
み込まなくなったとき、本日記の研究はそこで歩みを止めてしまう
内侍日記』の性質を「宮廷賛美」の一言で片付け、そこから先に踏
を晴れ晴れしく書かせたのだといえばそうでもあろう。だが、『弁
く流布し出す。内侍としての職掌意識が宮廷を賛美させ、その御世
廷賛美」という言葉が、かつての「微笑の文学」のフレーズのごと
かし」は二例を数える。これ以下、作者の心に深くかかわる語を挙
「をかし」があり、三七例である。このうち、第三者の発した「を
が続くが、この語句を単独で調べても、作者の心理へ迫ることは困
ろし」は十一例である。数の多い順にあげていくと次点には「なし」
数える。このうち、作者以外の他者の台詞や心情を表した「おもし
形容詞は、作者の心情を最も端的に表現し得る品詞である。本日
記中で、特に多く抽出される形容詞は「おもしろし」で、九五例を
・欠字で読み取れないものについては、原則カウントしない。
かがえる。もう少し焦点をしぼって考えてみよう。
驚くべきは、すべてがプラスの意味合いで用いられていることだ。
こういった語句の選び方、使い方を見ても、弁内侍の執筆姿勢がう
直結する頻出形容詞である。
「いみじ」十一例(第三者のもの一例を含む)、以上が作者の心理に
三者のもの五例を含む)、「うつくし」十二例、「めでたし」十一例、
で、感動詞「あはれ」はカウントしていない。「ゆゆし」十二例(第
げるとするなら、「あはれなり」十三例(詠歌中のもの一例を含む)
難 と 考 え、 こ こ で は 考 察 対 象 か ら 外 す。 三 番 目 に 多 い 形 容 詞 に は
思う。
なお、本稿で『弁内侍日記』本文を引用するにあたっては、特に
断らない限り、岩佐美代子校注『新編日本古典文学全集 四八』(小
学館 平成四年)を使用し、章段番号もこれによるものとする。
二 天皇描写
(一)おもしろしの日記
『弁内侍日記』の明るさについては多くの先学が言及しているが、
我々にそう感じさせる要因は何か。王道ではあるが、本日記研究の
例えば、本日記中最多の形容詞「おもしろし」は、目の前がぱっ
と明るくなる、晴れやかな気持ちがするの意で、自然物や風景を対
導入の意味も込めて、形容詞に着目しながら考えていく。以下、形
容詞の数を列することになるが、このカウントについては次の四点
のには、月、歌、花、雪、音楽、景気、などが見られ、なかでも月
象とする場合が多い。『弁内侍日記』で「おもしろし」とされるも
が 多 数 を 占 め る。 そ れ も 単 な る 月 で は な く、 多 く は 明 る く 冴 え わ
に注意されたい。
裁が保たれていると思われる今関敏子編『校注弁内侍日記』
(和
いえるだろう。逆にいえば、このように作品の本質にかかわる「月」
ろであり、『弁内侍日記』の本質を理解する上で、重要な一材料と
たった月の姿である。このことは他の文献でも指摘されているとこ
・形容詞の抽出・分析の際に使用したテキストは、最も底本の体
」といった名詞も含む。
泉書院 平成元年)である。
・「~なり」のような形容動詞も含む。
・「うれしさ」のように ~「さ
― 191 ―
としての役割以上に、重大なものが託されていると考える。
な い。 私 は、『 弁 内 侍 日 記 』 に お け る 月 に は、 単 な る「 宮 廷 賛 美 」
いうなれば「おもしろしの日記」と称しても差し支えないかもしれ
後嵯峨天皇は幕府の意向で即位したこともあって、幕府との関係
は比較的良好であった。齊藤歩氏が、後嵯峨院時代をさして聖代と
解するため、父の後嵯峨院まで遡って見ていきたいと思う。
位を迫られた後深草天皇の存在がある。後深草の境遇をより深く理
『弁内侍日記』の背景には、中関白家ほどに極端な転落は見られ
ない。それでもやはり、両親に愛されず、自分の意思によらない退
を形容する言葉が「おもしろし」であるのだから、
『弁内侍日記』は、
さて、「おもしろしの日記」が『弁内侍日記』であるとするなら、
俗に「をかしの文学」と称されるのは『枕草子』である。時代の違
きる。
しているが、このことは『五代帝王物語』からも読み取ることがで
まして後白河・後鳥羽二代は目出き御事共も多、末代の佳例に
⑶
い、日記と随筆というジャンルの違い、内裏女房と後宮女房という
こ そ 引 ま ゐ ら せ た れ ど も、 う き 事 を も 御 覧 ぜ ら れ し に、 故 院
⑵
違いこそあれ、明るさの一点において、性質の共通性を見出すこと
ではない。実は、作者が仕える主人の境遇、ひいては、作者の境遇
ができるのだ。しかし、この両作品の共通点は、内容の明度ばかり
が、非常によく似ているといえるのである。
貴事を深く仰奉りしかば、さらでだに嘆かしかるべき御事に、
御坐せば、公家も武家も異心異事の心もなく、一すぢに聖慮の
せ御坐す事、ありがたき程の聖運にてぞわたらせ給うへ、叡慮
(の)御代は波も風もたゝず、都の中殊に穏かに、三十一年保
周知のように、『枕草子』の作者清少納言が心を尽くして奉仕し
たのは、一条天皇の中宮、藤原定子であった。父は中関白道隆、母
定子は第二皇女の出産がもとで早世してしまう。伊周は妹の亡骸を
の寵を争うことになるのだが、長保二年 (一〇〇〇)十二月十六日、
ら髪を切り、尼となる。道長の女彰子が入内してからは、互いに帝
されるのである。眼前で兄を捕らえられてほどなく、定子は手ずか
か数年のうちに重なり、伊周は太宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷
右大臣昇進、花山法皇狙撃事件、東三条院呪詛事件、これらがわず
この父と、太政大臣西園寺実氏の女、姞子(大宮院)の間に誕生
君臨した父のもとに生まれたのだ。
は「波も風もたゝず」なのである。後深草天皇は、こうした聖代に
になった後白河・後鳥羽院に比べ、故院、すなわち後嵯峨院の御世
は隠岐に流され同島で没している。このような「うき事」をも御覧
殿に幽閉されている。後鳥羽院時代には承久の乱があり、後鳥羽院
後白河院の時代には治承・寿永の乱が起こり、後白河院自身も鳥羽
柔和にうけて、御慈悲をさきとせり。万づにつけて御情ふかく
は高階貴子、同母兄弟には伊周、隆家、原子らがいる。
いとゞ思に色を添てぞ侍し。
(二)後深草天皇
、中関白家が極めた五ヵ年間の栄華は、四月十
長徳元年 (九九五)
日道隆の薨去を境に陰りを見せはじめる。政敵である叔父の道長の
抱いて慟哭したと伝えられている。
― 192 ―
のように述べられた根拠は、『増鏡』『とはずがたり』の記事からう
たから、いわゆる蒲柳の質と思われる」と記している。肥後氏がこ
⑷
し た 後 深 草 天 皇( 諱 を 久 仁 ) は、 寛 元 四 年 (一二四六)正 月、 四 歳
山天皇への譲位を余儀なくされるのである。
後深草天皇が十七歳で病気をした折、父上皇の命によって、弟の亀
愛は、健康で闊達英明な恒仁へと傾いていくことになった。そして、
ければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のな
るを、閑院殿やけけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたり
にて、また御腰などのあやしくわたらせ給ふぞ、口惜しかりけ
御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやか
あくる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、
かがい知ることができる。
で践祚し、同年三月十一日、太政官庁で即位式をあげる。あとに詳
説するが、後深草天皇は身体が弱かったらしい。恒仁親王(のちの
文永二年 (一二六五)四月、後深草上皇には皇子煕仁が、文永四
年十二月には亀山天皇に皇子世仁が生まれるが、後嵯峨上皇は亀山
ほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
亀山天皇)が同母弟として誕生すると、父後嵯峨上皇と母大宮院の
天皇およびその子孫に期待を寄せ、煕仁親王を差し置いて、世仁親
がひどかったものが、『弁内侍日記』にも記述がある閑院殿炎上の
なかったので、口惜しいとしている。また、幼少の頃はもっと症状
⑸
あった旨を伝えた。こうして、亀山天皇の親政に決まったのである。
右記は、『増鏡』「内野の雪」からの抜粋で、後深草天皇元服の記
事である。大変御身体が小さく、御腰が普通の状態でいらっしゃら
る。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけ
王 を 皇 太 子 と 定 め た。 そ し て、 文 永 九 年 (一二七二)二 月、 後 嵯 峨
法皇は、後継者を定めることなく世を去ってしまう。このとき、故
法皇が兄弟のうちどちらを治天の君として立たせるつもりだったの
亀山天皇が兄の後深草天皇より先に治天の君となったことで、後深
際に、立派にお立ちになったという。もっとも、「閑院殿やけける
かを尋ねてきた幕府に対し、大宮院は亡き法皇の素意が亀山天皇に
草は、到底解消することのできない不満を抱くことになる。
に吉事へ結びつけていると考えたほうがよいだろう。
の姿を書く必要があった。これは、両作品に顕著な明るさの一因で
人公でもある二条は、写経のために那智へこもり、母の形見の手箱
凶事を吉事に結びつける手法は、
『とはずがたり』巻五「那
この、
⑹
智での夢」にも共通して見られる。後深草院崩御後、作者であり主
まぎれより」云々のくだりは、閑院殿炎上という不幸な事件を無理
以上のように、清少納言も弁内侍も、敗者の立場に甘んずるより
他ない主君に仕えた。また、それに至るまでの不穏な空気も感じて
あろうと思われる。
この那智の山にて、二条の「うちまどろみたる暁方の夢」に、後深
いたことだろう。ゆえに、記録の上でだけでも、今を時めく我が君
さて、後深草天皇は身体が弱かったらしい、ということはすでに
述べた。肥後和男氏はこれについて、「幼少の時から足腰の発達が
草院が現れるのである。父の雅忠に、後深草院の出御の最中である
を売って写経のための資に換え、さらに父の形見の硯までも手放す。
おくれていたらしく、青年になっても右の方に傾く身体つきであっ
― 193 ―
善の床を踏みましましながら、いかなる御宿縁にて御片端はわたら
ましたるさま」である。この様子を不思議に思った二条が、父に「十
と告げられて、院の姿を見ると、院は「右の方へちと傾かせおはし
一二〇段「おめたる鬼」を次に引用する。後深草天皇を主格とす
る部分を傍線で示した。
その描写を徹底して簡潔に済ませているのである。
ことがわかる。そして、ただでさえ数少ない天皇登場章段の多くは、
腫物といふは、我らがやうなる無知の衆生を多く後へ持たせた
あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫物あり。この
被きて大所の口に立ちたれば、大番の者共騒ぎて、弓など取り
て人々おどせ」と仰言ありしかば、袴を胸まで着て、濃き単を
御神事の程、御人少なにていと御つれづれなりしに、「面形し
せおはしますぞ」と尋ねると、雅忠は次のように語る。
まひて、これを憐みはぐくみおぼしめすゆゑ、なり。全くわが
直して立ちめぐり侍りしかば、かへりてあまりにおそろしくて、
までもお引き受けになっているからであって、院自身の過ちではな
後深草院が「御片端」であるのは、君主として我々の分のお苦しみ
梓弓引きたがへたる命こそ添へける親のまもりなりけれ
たりし、親の護りあはれにて、弁内侍、
せ給ふ。次の日、里より、「慎むべき事あり」とて物忌を給び
遣水に落ち入りて侍りしを、「おめたる鬼かな」とて人々笑は
御過りなし。
いという。この父の言葉によって、「御片端」という、後深草院の
威光を貶めかねない記述は帳消しになる。それどころか、『とはず
を院にとって好ましいこと、すばらしいことへ転換しているのであ
とって不利になりそうな事柄をもわざわざ記しておきながら、それ
て人々おどせ」と突然に命令を下す。弁内侍は鬼の面をかぶって大
して遊楽を遠慮しなければならず、これに退屈した幼帝は「面形し
祭祀関係の行事が続いていた時分、事にあたる廷臣たちは祭場に
奉仕するため、宮廷内には出仕者が少なかった。また、天皇も謹慎
がたり』では、後深草院自身にとって、もしくは後深草院の御世に
る。
まう。
を読み解きながら考察していく。
書かれていない。この章段では、幼帝は命令を下すだけの存在なの
ここには、突飛でやや理不尽な命令を下す天皇の姿がある。その
仰言は子どもらしいといえばそうだが、その後の天皇の反応は一切
所に立つ。しかしこれが思わぬ騒ぎとなり、慌てて遣水に落ちてし
では、『とはずがたり』でそのように描かれた後深草は、『弁内侍
日記』ではどのように描写されているのか。この点について、本文
(三)月にたくすもの
れ方をする。天皇の行為が直接讃えられる章段は皆無に等しく、天
である。実は、『弁内侍日記』の天皇は、しばしばこのような描か
本日記中、後深草天皇が出てきたことが明らかな箇所を抜き出す
と、全一七五段中二一段にすぎず、天皇の登場場面は極めて少ない
― 194 ―
それが、「おもしろしの日記」を支える「月」の描写である。
だが、『弁内侍日記』は決して天皇不在の日記ではない。内侍と
しての作者は、別のかたちで、幼帝を日記のなかに記そうと試みた。
姿勢といえるだろう。
のなかで威信を保たせた弁内侍の、「内侍」という立場ゆえの執筆
いる。これは、天皇にとって不都合なことを記さず、最小限の文章
病気の気配などなく、健康そのもののようにカモフラージュされて
第二節で述べた『増鏡』『とはずがたり』などの資料から、後深
草天皇は身体が弱かったと推測されるが、『弁内侍日記』の幼帝は、
で幼帝ではないかのような錯覚も覚えさせられる。
そしてまた、そうした徹底して限定した描写ゆえに、後深草がまる
皇自身の身体にかかわる描写も全くといってよいほど見られない。
「日」を後嵯峨、「月」を後深草と捉えることもできる。先述したよ
えることは、さして無理のないことのように思われる。当該記事が
と、『弁内侍日記』の冒頭の「月日」に幼帝が重ねられていると考
中宮を月にたとえ、そのように輝かしい姿を宮中で目にすることが
見る身のちぎりさへうれしとぞ思ふ 」と詠っている。天皇を日に、
が正装で並んでいる様子を見て、「雲のうへにかかる月日のひかり
京大夫集』がある。出仕してまもない若い右京大夫は、天皇と中宮
これと同様に、「月日」を詠み込んだ歌を日記の導入付近に配置
した作品に、高倉天皇の皇后徳子に仕えた女房の日記『建礼門院右
ぎ見ない日はないよ、と反語で詠じられている。
冒頭歌で「月日」は月と太陽の意で用いられており、月日を空に仰
すべきは弁内侍が詠んだ和歌で、「月日」という部分である。この
いる。この「月」に、後深草天皇が投影されているのではないだろ
れていた。未だ幼かった後深草天皇は、優れた世の君主といわれる
うに、後深草天皇の父、後嵯峨院の治世は波風の立たない聖代とさ
後嵯峨天皇から後深草天皇への譲位の記事であることを考慮すれば、
できた己の宿縁を心から喜んでいるのである。この記事を踏まえる
⑺
『中務内侍日記』で晴れ曇りの月や霞んだ月が好まれているのに
対して、『弁内侍日記』の月は、そのほとんどが力強く冴え渡って
うか。
寛元四年正月廿九日、富小路殿にて御譲位なり。その程の事ど
れたと考えるのが自然だろう。
はなり得ず、むしろ、父院の威光のもとで輝く「月」になぞらえら
後嵯峨院の実権下にあった。ということは、後深草は決して太陽に
も、数々しるしがたし。いといとめでたくて、弁内侍、
弁内侍が帝イコール月と考えていることは、六十段「万世の影」
にも示されている。
万世をすむべき月の影ぞとはいかにか今宵契りおくらん
隆親、扇の端を折りたるに書きつけて、
月明かりし夜、清涼殿の孫廂に人々あまた遊ぶ中へ、中宮大夫
今日よりは我が君の世と名づけつつ月日し空にあふがざらめ
や
右は『弁内侍日記』の冒頭で、二十七歳の後嵯峨帝からわずか四
歳の幼帝へ譲位が果たされた記事である。弁内侍は「その程の事ど
も、数々しるしがたし」という短文にて喜びを表現している。注目
― 195 ―
少将内侍、
たい。
のがあったはずである。これを明確にするために、次節では、弁内
侍が育った環境、主に父からの影響という点に着目して考察を進め
契りありてすむべき月の影までも空にぞしるき秋の万世
弁内侍、
三 父信実の影響
弁内侍の父信実は似絵の名手として知られ、歌人としても定評が
あった。また、それだけでなく、説話集『今物語』の作者とも目さ
万世と契りおきても余りあり月にともなふ雲の上人
れている。まず、その『今物語』中の一話、第十五話「丁字がしら」
「月明かりし夜」だと明言していること、場所が天皇の御殿である
む」「住む」の掛詞とし、この内裏に住まれる主上を万世までも照
「清涼殿」であることの意味は大きい。一首目の歌は、
「すむ」を「澄
を取りあげる。
束しております、となろうか。第三首目の歌は、隆親(公親の誤写
でいるに違いない月の光までも、この空に際立ち、秋の万世をも約
さしたりければ、よにかうばしくにほひけるを、堀河、
なるまで草子を見けるに、ともし火のつきたりけるに、油綿を
待賢門院の堀河、上西門院の兵衛、おとといなりけり。夜深く
⑻
らさんとする、月の誓いを詠み込んだものと考えられる。少将内侍
か)を含む殿上人達のことを「月にともなふ雲の上人」と表現する。
はこれを受けて第二首目の歌を詠む。我が君との契りがあって澄ん
つまり、弁内侍はここで月を主上になぞらえて詠んでいるのである。
も重ね合わせ得る、明るく冴え渡った月を何度も登場させていたの
配慮と考えられる。そして、天皇を直接描かない代わりに、天皇に
けれ」と詠じる。これに妹の兵衛がすばやく応じ、「丁子頭の香や
がしたことに姉の堀河が気付き、「ともし火はたき物にこそ似たり
院政期を代表する女流歌人姉妹、堀河と兵衛の連歌の即興を主題
とする話である。ともし火に油綿の香油をさしたところ、よい匂い
丁子がしらの香やにほふらん
とつけたりける、いとおもしろかりけり。
ともし火はたき物にこそ似たりけれ
と言ひたりければ、兵衛、とりもあへず、
月が「万世までも」と約束してもまだ十分ではないほどです、満月
のような我が君と、君に連れ添う皆様方は、と解釈できるだろう。
この歌からも、弁内侍が「満月のような帝」という意識を持って
いたことがわかる。『弁内侍日記』には天皇描写が極端に少ないが、
である。
がかたまりになったものをいい、丁子の実に似ていることからこの
それは身体があまり強くなかった後深草天皇を守るための弁内侍の
弁内侍は後深草天皇とその御世を再生すべく筆をとった。本節に
て、弁内侍の書き残したかったものは明らかになったといってよい。
よ う に 呼 ば れ る。 丁 字 は ス パ イ ス の 一 種 ク ロ ー ブ な の で、 兵 衛 は
にほふらん」と句を付ける。「丁字頭」とは、灯心のもえさしの先
だが、彼女の強い思いをかたちにするために、執筆を後押ししたも
― 196 ―
合った連歌のやりとりをする堀河・兵衛姉妹に、信実が自分の娘、
す る で し ょ う か 」 と 付 け た わ け で あ る。 興 味 深 い の は、 こ の 息 の
している。しかし、精力的に連歌会へ出席していたらしい信実は、
歌会は、九条家、西園寺家など名家の自邸でも催され、信実も参会
後嵯峨院の治世下、沈滞していた宮廷文化は息を吹き返し、また
院を中心に連歌会がしばしば催されるようになった。こういった連
「ともし火の灯心は丁字頭というだけあって、やはり丁字の匂いが
弁内侍とその妹少将内侍を重ねているのではないかという指摘があ
の点について木藤氏は、後嵯峨院の治世がはじまるころには信実は
『菟玖波集』入集歌数十一句と、数の上で娘たちに劣っている。こ
うになってほしいという信実の願いが込められていたのかもしれな
弁内侍・少将内侍二人の息が合っていたのか。堀河・兵衛姉妹のよ
備えていたと考えてもよいだろうか。もしくは、幼い頃からよほど
雅会をともにする機会があった。ゆえに、彼女らの作品が多く伝え
た。逆に弁内侍や少将内侍は後嵯峨院の近くにいて、為家や為氏と
の場で詠まれたものが少なく、その大部分が後世に伝えられなかっ
察されている。また信実の最盛期であった承久の変後は、まだ晴れ
七十歳に近く、作家としての活躍が次第に衰えつつあったのだと考
⑻
~一二四〇)に は す で に、 信 実 が 期 待 を 抱 く ほ ど の 才 能 を、 姉 妹 が
ることである。そのよう仮定すると、本説話集の成立期 (一二三九
い。この流れで、連歌と信実、また連歌と弁内侍との関連を考えて
に御車に召された。御車が出ようかというときに、お供の為氏が花
れている。後嵯峨院の御幸の際、弁内侍・少将内侍は御連歌のため
近い立場にあったこと
御指摘のとおり、彼女ら姉妹が後嵯峨院に
⑽
は大いに関係していると思われる。『井蛙抄 』には次の話が伝えら
られているのだろうと指摘されている。
いきたいと思う。
延文二年 (一三五七)に勅撰に準ぜられた連歌集『菟玖波集』には、
本話にある堀河・兵衛姉妹の連歌の入集が認められる。また、当該
り、これは、『菟玖波集』所収の女性連歌作者のなかで最多である。
連歌集には弁内侍の句が十三句、少将内侍の句も十五句とられてお
弁内侍の連歌作者として活躍は、父の影響によるところが大きいだ
瓶に立てられた桜の枝を手折る。それを御覧になって、後嵯峨院が
月記によると定家の出席している連歌会の大部分に顔を見せて
い者が出現していることは注目すべきで、信実のごときは、明
連歌が貴族や僧侶の間で流行するにつれて、連歌の専門家らし
てよい。そしてやはり、院に見出された姉妹の実力は、本物であっ
鎌倉時代初期、後嵯峨院の歌壇にあって院に目をかけてもらって
いたということは、弁内侍・少将内侍にとって幸いであったと考え
いる。
句ながら、こまかに付たる。誠達者の所為也云々」と締めくくって
⑼
ろう。信実の連歌会での活動は、木藤才蔵氏の『連歌史論考 上 』
いる。これは信実が諸方の連歌会に相当頻繁に招かれているこ
き弁内侍が詠んだ上句について、『井蛙抄』は「取あへぬ時分の狂
「為氏が花をぬすむに、連歌一つしかけよ」と仰せになる。このと
とを示すもので、連歌会には欠くことのできない存在であった
たといえる。
に詳しい。
ことを意味するのであろう。
― 197 ―
由の歌よみて、家の集などに書かるべし」といわれていることは、
ののち、大納言三位に「この恋草の御連歌、思ひ出なるべし。その
内侍の三人だけで余興に開かれた連歌会の様子が記されている。会
からもうかがえる。公式な会ではないが、後嵯峨院・弁内侍・少将
父の連歌作者としての活動を受け継ぎ、弁内侍も一女流作者とし
て 頻 繁 に 連 歌 会 に 参 加 し て い た。 連 歌 会 の 様 子 は、『 弁 内 侍 日 記 』
できるのではないかと思う。
いくことは、『弁内侍日記』研究史の枝に、新たな芽を継ぐことが
らない。しかしながら、このような視点をもって本日記を紐解いて
面白さが理解される当座の文芸であることも考慮に入れなければな
していく必要はあるだろうし、連歌が、その〝場〟にいてはじめて
のなかに連歌の要素があるとは断言できない。語彙のレベルで検証
いるのではないだろうか。もちろん、これらだけで『弁内侍日記』
いる。このような点は、連歌作者としての弁内侍の手腕が影響して
本日記の位置づけや執筆動機を考える上でも重要である。このエピ
四 おわりに
ソードの連歌は鎖連歌だが、本日記には短連歌も散見される。中納
言典侍が何となく「舟のとまりはなほぞ恋しき」と口ずさんだもの
現代の我々が日記を書くとき、それはいったい誰のために書くだ
ろうか。多くは自分のために綴るのだろうが、我が子の成長記録、
に、弁内侍が「湊川波のかかりの瀬戸荒れて」とつけたエピソード
友達との交換日記というのもあるだろう。他者の目に触れさせない
(四二段)があり、即座に句をつけてみせた瞬発力が冴える。八五
段「鶏合せ」では、公忠と公保が鶏を合わせた折、公忠の鶏が踊り
タ ー ネ ッ ト を 通 じ て 不 特 定 多 数 の 読 者 に 公 開 し て い る 人 も い る。
ようにと、机の引出しに鍵をかけて保管している人もいれば、イン
『弁内侍日記』は、弁内侍のためだけに書かれたものではない。彼
はねるのを見て、公相が「久方の空踊りこそをかしけれ」と連歌の
こそ」と普通に返事をしてしまう。この件を「をかし」と記す弁内
上の句のつもりで詠みかける。しかし、公忠はそれに気付かず「さ
侍はもちろん、公相が付句を求めていたことに気付いていた。もし
しろしの日記」を支える「月」の描写をもって天皇不在を意識させ
女が筆を下ろしたときより、当代・後代にかかわらず、誰かに読ま
ないようにしたのではないか。その態度は、明らかに読者の目を気
れる可能性を少しも考えなかったはずはないのである。
父の連歌作家としての活動は、弁内侍と少将内侍を連歌の世界へ
引き入れた。また、それが後嵯峨院の目に留まり、二人の才能は院
にするものである。だからこの日記は、いつでも澄んだ月光に満た
弁内侍に詠みかけられた句であったなら、彼女は即座に下句をつけ
のもとでさらに磨きがかけられる。磨かれた才能をどこかに表出し
されている。弁内侍は月の冴えた内裏で、和気あいあいと活動する
てみせたのではないだろうか。連歌作者としての弁内侍の感性が光
たいと考えるのは、作家の本能である。『弁内侍日記』は短い章段
る締めくくりとなっている。
の 連 な り で あ り、 音 読 す れ ば 小 気 味 よ く リ ズ ム 感 が あ る。 ま た、
君臣和楽を描き出し、天皇とそのサロンの再生を試みたのである。
弁内侍は直接的に天皇を描くことをせず、「書かない」ことで天
皇の幼さや不健全を読者に悟らせまいとした。その代わり、「おも
所々に機知や即応、諧謔を散りばめながら、宮廷生活が筆録されて
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ていたことで、その娘である弁内侍・少将内侍も才能を開花させた。
しかし、女房としての職掌意識ばかりが本日記の性質ではない。
折しも連歌が流行りはじめたこの時代、信実が連歌会に再三参加し
⑷ 肥後和男編『歴代天皇紀』(秋田書店 昭和四十七年)
⑸ 井上宗雄全訳注『増鏡(上)』(講談社 昭和五十四年)
⑼ 木蔵才蔵『連歌史論考 上』(明治書院 平成五年)
⑽ 野中和孝『井蛙抄』(和泉書院 平成十八年三月)
版 平成十六年)
⑻ 三木紀人訳注『今物語』(講談社 平成十年)
⑹ 久保田淳校注『新編日本古典文学全集 四七』(小学館 平成十一年)
⑺ 辻勝美 ほ
[か 校
] 注『中世日記紀行文学全評釈集成 第一巻』(勉誠出
『弁内侍日記』にどこまで連歌が浸透しているか。それは後考を俟
たねばならないが、姉妹を歌合や連歌会のような場に引き出した信
実の存在が、弁内侍の日記執筆を促したことはほぼ間違いない。さ
らには、信実だけでなく、少将内侍が身近にいたことは大きいと思
われる。姉妹の両者とも、『続後撰集』以下の勅撰集に四十五首入
集しており、気軽に歌を詠みかけられる仲間であった。同時に、よ
き競争相手でもあったことだろう。そんな二人の様子は、院政期、
ともし火の薄明かりのなかで句を重ねた女流歌人姉妹を彷彿とさせ
る。
内侍としての弁内侍と、連歌作者としての弁内侍が綴った世界は
かなり独特である。登場人物の一人である自分自身を極力抑えて執
筆しながらも、そこかしこに、日記作者としての彼女らしさが滲み
出てしまっているのだ。そういった視点をもってこの作品を読むと
き、読者はより生き生きとした『弁内侍日記』の世界を感じること
ができるのではないだろうか。
参考文献
⑴ 松本寧至『中世女流日記文学の研究』(明治書院 昭和五十八年)
⑵ 齊藤歩「理想としての「後嵯峨院時代」」(『日本文学』通巻五八四 平成十四年二月)
⑶ 弓削繁校注『六代勝事記・五代帝王物語 中世の文学』(三弥井書店
平成十二年)
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