宮本常一について

宮本常一について
佐野真一の「旅する巨人」が書かれたのは2009年であるが、そのずっと以前に、私は
山崎禅雄さんとのご縁から宮本常一を知った。宮本常一は近畿ツーリストがスポンサーで
「あるく みる きく」という旅の雑誌を出していたことがあった。
山崎禅雄さんはその編集長をしておられたのである。その頃、私は宮本常一について次の
ように書いた。
宮本常一は、広島湾と周防灘の間の周防大島の出身である。で中国地方では多くのファン
が居る。「忘れられた日本人」に描 かれた世界について、石牟礼道子は「ここに描き出
されたのはふつう、ふだんの世界であったと思うと、なおさら切ない情景である。」と述
べている。そういう ノスタルジアが皆の心に在るから、宮本常一の人気は今なお衰えな
いように見える。周防大島には宮本常一の記念館がある。その記念館には、「あるく み
る きく」が全巻揃っているし、宮本常一のすべてを知ることができるので、皆さん方も
機会があれば是非その記念館にお立ち寄り下さい。
さて山崎禅雄さんは、お父さまが亡くなり後を引き継いで今は島根県桜江町江の川のほと
りでお寺の住職をしておられるが、もともとは宮本常一の弟子である。 長い間、旅の雑
誌「あるく みる きく」の編集長もしておられた。中国・地域づくり交流会のご縁でお
知り合いになった。得難きご縁だ。山崎さんは、民俗学で養った鋭い感 覚でいろんな話
をして下さった。そのお蔭で、私は民俗学の重要性を知り、宮本常一の偉さを知った。
また、私は、建設副大臣の時、中越地震で壊滅的被害を受けた山古志村の復旧に少し関
わったが、その時、山古志村の歴史を勉強して、宮本常一が山古志村とも深く関わってい
たことを知った。そのころ「ふるさと山古志を生きる」という本が出た。
この本が出版された経緯は次のとおり、宮本常一の教えを活かそうというものである。
編集者から
宮本常ーが主宰した日本観光文化研究所では1970年代から80年代にかけての約10年間、当
時過疎問題で深刻な状況にあった村の振興計画、観光資源調 査、及び「牛の角突き」
「民具の収集と民俗資料館の設立」など民俗文化財の保存事業に携わりました。その活動
に携わった著者らは、中越地震の発生を機に当 時撮影した写真および調査記録を募集
し、村の方々が元気を取り戻すことができるような写真集を作ろうと「山古志村写真集作
成委員会」を立ち上げた。棚田や 錦鯉に隠された村びとの知恵や技、共に生きる気骨を
束ねた牛の角突きなどとともに、当時宮本常一が村の集落ごとに膝を交えておこなった講
演をテープ起こし で収録。農山漁村を励まし続けた宮本民俗学の真骨頂がここにある。
また、江戸時代の「村」そのものが残る[大内宿]が人気の観光地になっているが、これ
は、1969(昭和44)年、宮本常一の弟子の相沢韶男(現・武蔵野美術大学教授)が大内宿
を訪れ、家屋の配置や間取り、宿場の家並みの学術的報告を行ったものが基本となって復
元されたものである。
さらに、宮本常一の見識がベースになって、私はアタ族のことを書き、私の論文「邪馬台
国と古代史の最新」が出来上がっていることを申し添えておきたい。アタ族については次
の通りである。
阿多隼人は、もともと海の民であり、海上の道を通じて交易にもたずさわっていたので、
海人族のネットワークを持っていた。日本列島における海上の道は、隼人の国、おおむね
今の鹿児島県であるが、私の考えでは、阿多隼人が歴史的にも古く、いちばん力を持って
いたと思う。不比等としては、磐井の反乱や白村江の戦いを思うと、阿多隼人の反乱を心
配し、恐れを抱かざるを得なかった。そこで、不比等は、阿多隼人を徹底的に抑え込む戦
略を持った。
宮本常一は、南方から「アタ族」という海洋民族が渡来したとして、この「アタ族」の船
は集団移住のための外洋航海船だから当然構造船のはずで、したがって当然、鉄釘を使用
していたとして、アタ族の技術能力を評価し、その技術の中に製鉄技術を推定された。そ
の後、広州で、秦漢時代(紀元前221∼西暦220)の大規模な造船工場の遺跡が発見
され、その船台から幅6∼8m、長さ20mの木造船が建造されたようで、多くの鉄鋳
物、鉄釘、鉄棒や砥石などが発見された。
それらの技術は、広州からの渡来民・アタ族によって日本にもたらされたと見なされてい
るが、私は、その地点は野間岬、今のみなみ薩摩市、旧加世田市であり、アタ族の後裔が
が「阿多隼人」であると考えている。