増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想

増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵3
忍海「帰去来図」全図
享保12年(1727) 下↕上
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵4 「帰去来図」部分
口絵5
同
部分
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵6
忍海「千手観音像」部分
延享5年(1748) 京都・清浄華院蔵
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵7 「千手観音像」部分
口絵8
同
部分
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵9
忍海「阿弥陀如来像」全図
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵10
口絵11
忍海「聖冏上人像」全図
東京・増上寺蔵
忍海「法然上人像」全図
東京・最勝院蔵
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
〔杉本欣久〕
口絵12 「法然上人像」部分
口絵13 「聖冏上人像」部分
はじめに
増上寺の学僧・忍海の作画と復古思想
―江戸中期の徂徠学派にみる文化潮流―
杉
本
欣
久
華、越智雲夢、本多忠統、大内熊耳などの優れた門人があったが、そ
の学問や文化が全盛を迎えるには、さらに孫弟子にあたる世代が活躍
する十八世紀の半ば以降まで待たねばならなかった。特に江戸の地に
このような流れは美術に関する資料だけでは見えてこず、和歌や誹
室町時代以降、我が国において儒学思想の中心となったのは宋学を
生徂徠(一六六六~一七二八)は、強い影響力をもつ朱子以降の経書
諧と肩を並べるもう一方のジャンルで、それに劣らない質量を誇る漢
おいて、詩文のみならず書画や篆刻などの分野にも名を残したのは、
解釈「新注」に依らず、漢・唐時代以前の「古注」や史書の「左国史
詩文からのアプローチが必要となる。その視点の基礎を固めるために
大 成 し た 朱 子 学 で あ っ た。 江 戸 時 代 に 入 っ て も そ の 地 位 は 揺 る が な
漢」
(
『春秋左氏伝』
『国語』
『史記』『漢書』)、『楚辞』『文選』などを
は、散在する漢詩文集の内容を整理しなければならないと感じ、本誌
服部南郭(一六八三~一七五九)と大内熊耳(一六九七~一七七六)
重視し、いにしえの聖人による教えや言葉から直に解釈することを目
の九号と一〇号においてそこに認められる画人のデータベース『江戸
かったが、京都の伊藤仁斎(一六二七~一七〇五)が古学を唱えると
指した。それは道徳に特化して四書五経の経書のみを重視する学問で
中期の漢詩文にみる画人関係資料』を作成した。その過程で、荻生徂
の門人たちである。
はなく、詩文をはじめとした中国文化全般に目を向け、日本の社会や
徠や服部南郭によって形成された思想が、十八世紀半ば以降に活躍し
その様相は一変してくる。仁斎に影響を受け、古文辞学に傾倒した荻
文化に馴染みやすいように独自の視点で解釈する試みでもあった。徂
た画家にも何かしら受け継がれているとの認識を得たものの、それで
(
徠の学問は、道徳を重視する儒学から広範な中国学としての漢学へと
は徂徠学派の思想に基づき、目に見えるかたちで描いた画家もしくは
けれども、徂徠が蒔いた種が実を結ぶにはいましばらくの時間を要
たらず、多くが絵画を蒐集するか画家の指導的役割にとどまる程度で
漢学者があったかといえば、服部南郭を除いてそれらしい人物は見当
(
門戸を開く画期になったといえる。
し た。 徂 徠 に は 安 藤 東 野、 太 宰 春 台、 山 県 周 南、 服 部 南 郭、 平 野 金
61
(
え、その時代精神をうけてどのような人生を送ったのか画業の方面か
十八世紀前半における価値観の一端を代弁し得る重要な画人ととら
に関して目立つ動きをし、徂徠学派の絵画に対する考えを実現しよう
ら概観し、前稿に引き続く問題として徂徠学派がその時代に与えた文
あった。けれどもただ一人、南郭と近しい人物のなかにひときわ絵画
とした僧侶があった。それが本稿で取り上げる増上寺の学僧・忍海で
化的影響について論じていく。
わざマイナーペインターを見つけ出し、ことさらに喧伝するだけの内
の研究においてわずかに触れられるに過ぎない。それゆえ本稿はわざ
代の日本絵画史ではほとんど言及されることがなく、「当麻曼荼羅」
処罰を受け、江戸所払いとなった。徂徠はそれに伴い、若き日々を上
綱吉に侍医として仕えたが、延宝四年(一六七九)に何らかの理由で
る。徂徠の父・方庵は、上州館林藩主でのちに五代将軍となった徳川
徂 徠 学 派 と 増 上 寺 学 僧 と の 交 流 は、 す で に 荻 生 徂 徠 に 始 ま っ て い
一、服部南郭、本多忠統と忍海の交流
ある。
忍 海( 宝 蓮 社 曇 誉・ 一 六 九 六 ~ 一 七 六 一 ) は 若 く し て 増 上 寺 に 学
び、同寺御霊奉仕八ケ院のひとつで、二代将軍・秀忠の御霊屋を管理
容と解されるかもしれない。けれども、戦前においては相見香雨氏や
総長柄郡本納村で過ごし、二十代半ばの元禄三年(一六九〇)には父
する守護職寺院・宝松院の九世住職(別当)となった人物である。現
三村竹清氏などの碩学によって取り上げられ、特に服部南郭との関係
より先に江戸へ戻っている。この時、増上寺付近の芝三島町にあった
(
で重要な画人と見做されていた。ある画家がいまに知られているかど
「豆腐屋の裏」を住居とし、漢学の塾を開いた。徂徠学派の伝承を収
代性を理解しなければ評価できない作品は、難解なものとして敬遠さ
五四四~一六二〇)が徳川家康の帰依を受けたことで将軍家菩提寺と
三縁山増上寺は浄土宗七大本山のひとつで、十二世の源誉存応(一
(
うかは、明治頃まで画系が続いて後継者に顕彰されたり、地方の名士
録した基礎資料『蘐園雑話』に「増上寺の僧徒へ講釈などいたされし
(
として早くから顕彰されてきたことに依るところが大きい。さらに現
となり」と記されるのは、まさにその当時のことであった。
れる傾向にある。時流の価値観のみを尊重するばかりでは、いつまで
しての地位を確立した。総録所として浄土宗統制の役割を担う一方、
(
代においては一見して印象に残るかどうかが重視され、制作当時の時
経っても研究の偏りを正していくことはできない。以上のような状況
関東十八檀林と呼ばれる鎌倉光明寺、鴻巣勝願寺、瓜連常福寺、芝増
(
下において、いまだ京都や東京を中心とした浄土宗寺院には日の目を
上寺、飯沼弘経寺、小金東漸寺、生実大巌寺、川越蓮馨寺、八王子大
(
見ない忍海作品が数多く眠り続けている。いずれその全貌が明らかに
善寺、岩槻浄国寺、江戸崎大念寺、館林善導寺、結城弘経寺、本所霊
忍海は江戸の文化に多大な影響を与えた服部南郭から荻生徂徠の学
の出身であろうと浄土僧はこの檀林のいずれかに入り、二十年余りの
寺、十八ケ寺の筆頭として大いに栄えた。江戸時代にあっては、どこ
山寺、礫川寿経寺、下谷幡随院(新智恩寺)、新田新田寺、深川霊巌
(
問を受け継ぎ、彼らの絵画観を体現した画人であった。本稿は忍海が
たと気づくはずである。
なれば、我々は江戸中期の画人として無視できないほどの人物であっ
(
(
62
修学研鑽を経なければ住持たる資格を得ることができなかった。特に
一)、京都知恩院六十世・真察(名蓮社称誉・円阿・一六七〇~一七
七二)、増上寺浄光窟の曇龍(昇蓮社騰誉・一七二一~七二)、小机泉
四五)、上野太田の大光院三十四世・義海(騰蓮社空誉・冲黙・?~
徂徠の漢詩文集『徂徠集』には複数の増上寺学僧の名が見え、特に
谷寺二十世の恵頓(一七二五~八五)、青山妙有庵の耆山(青蓮社香
増上寺は地の利便性もあって入寺希望者が全国から集まり、常に三千
長崎大音寺の玄海(蒼誉)
、駒込蓮光寺の六世・堅卓(浄蓮社立誉・
誉・玄海・一七一二~九四)など、増上寺学僧の名が頻繁に認められ
一七五五)、深川霊巌寺十七世・曇海(清蓮社浄誉・円海・?~一七
慧巌・?~一七四〇)
、増上寺宝松院の六世・雲洞(青蓮社忍誉・暁
る。なかでも最も親密に交際し、その文芸観を共有するにまで至った
人の学僧を擁したといわれる。
山・亮徹・一六九三~一七四二)は頻出する。一方、徂徠門人の安藤
人物が、増上寺宝松院の九世住持となった十三歳年少の忍海(一六九
(
東野、服部南郭、太宰春台、本多忠統、越智雲夢、平野金華などの詩
六~一七六一)であった。
このうち山王町を除くすべてが増上寺にほど近い地域である。南郭が
ようやく終の住処となる赤羽の森元町(港区東麻布)に落ち着いた。
芝大門一丁目)などを点々とし、寛保二年(一七四二)の六十歳時に
座)
、富山町(港区西久保)
、宇田川町(港区浜松町)、三島町(港区
町)に移転している。さらにそののち十年の間には山王町(中央区銀
池 之 端 に 居 を 構 え、 そ の 二 年 後 に は 増 上 寺 門 前 の 新 網 町( 港 区 浜 松
九)であった。享保三年(一七一八)、柳沢家を致仕した南郭は上野
後、 江 戸 の 文 化 に 多 大 な 影 響 を 与 え た 服 部 南 郭( 一 六 八 三 ~ 一 七 五
文をはじめとした文化方面における徂徠の後継者として知られ、その
る様相であったとわかる。なかでも最も多くの学僧と交ったのは、詩
者のように道徳一辺倒ではなく、広く中国文化そのものに興味を持っ
八六~一七四六)とは特に親密であった。徂徠学派の漢学者は朱子学
から始まり、徂徠学派のなかでも南郭と幕府御典医の越智雲夢(一六
東野(一六八三~一七一九)との交流は宝永末年頃、忠統二十歳前後
余りを務めた若年寄に就任している。徂徠やその最初期の門人・安藤
頭、奏者番兼寺社奉行を経て、享保十年(一七二五)にその後二十年
た 人 物 で あ る。 五 代 将 軍 綱 吉 の 小 姓 を 務 め、 八 代 吉 宗 の 時 に は 大 番
あった本多忠恒の次男で、のちに伊予西条藩主、伊勢神戸藩主となっ
い る。 本 多 忠 統( 一 六 九 一 ~ 一 七 五 七 ) と は、 近 江 膳 所 藩 の 分 家 で
観を共有した徂徠門人で幕府若年寄の本多忠統が認めた書簡で触れて
忍海については、前稿において南郭の絵画観を知るため、その価値
(
文集にもその名が散見され、彼らの交流は徂徠学派の漢学者に混在す
享保六年(一七二一)春に書した大潮禅師宛書簡には、「不佞、近ご
て裾野を広げたことから、その対象は詩文にとどまらず書画や金石、
(
ろ宅を紫芝山下に移し、則ち縁山の諸苾芻と日々に文を以て会す」と
音楽などにも及んでいる。さらにそれに関連する書籍や文物を積極的
(
記しており、この頃、南郭は増上寺の学僧と詩文の会を日々催してい
に自家に収めようとする、蒐集家の側面も持った。忠統は若年寄とし
(
た と わ か る。 南 郭 の 詩 文 集『 南 郭 先 生 文 集 』 は 初 編( 享 保 十 二・ 一
て奥絵師の狩野家を管轄しただけでなく、仕えた吉宗が書画を好んだ
(
七 二 七 年 刊 ) か ら 四 編( 宝 暦 八・ 一 七 五 八 年 刊 ) ま で 刊 行 さ れ て お
こともあり、和漢の絵画のみならず画史画論の類にも精通し、その知
(
り、そこには増上寺四十六世・定月(観蓮社妙誉・一六八七~一七七
63
(
(
(
(
識 を 南 郭 や 忍 海 と 共 有 す る に 至 っ た。 こ の よ う な 交 流 の 渦 中 に お い
て、忠統は忍海から印と画を贈られ、返礼の書簡を送った。この「忍
二、忍海の生涯とその事績
(
絵画史に関する資料のなかで忍海についての記述が最も多いのは、
(
増上寺の寺誌『三縁山志』を引用し、「宝蓮社曇誉、忍海と号す。宝
(
くよまれたり」とあるのに加え、文政二年(一八一九)に刊行された
院九世也(泉谷瓦礫集ニ委詳也)、画に工なるのみならず、歌も又好
(
海に与ふ」
、
「忍海の雍州に遊ぶを贈る序」と題された二通の書簡には
幕末に編纂された画人伝『古画備考』である。「忍海上人は縁山宝松
①
絵画
の理想とすべきは古画であり、時代を遡るほどに良いとみる
ものの、唐以前の絵画はほとんど失われてしまったため、直接学
ぶことができる宋元時代の作品を尊重する。
② 日本
の絵画は室町から桃山時代が最良であり、明兆、雪舟、狩野
元信を最上とし、可翁、周文、雪村周継、秋月等観、玉畹梵芳、
暦十一年六月十七日寂」と短く記す。ただ、ここにもうひとつ宝暦八
年( 一 七 五 八 ) 頃 成 立 の『 冬 至 梅 宝 暦 評 判 記 』 を 引 い て お り、 そ の
絵方
ありがた(有難)
内 容 が 江 戸 に お け る 最 も 早 い 評 判 記 で あ る こ と か ら も 注 目 さ れ る。
「巻一」の「役者評判記」から、「忍海和尚
(
(
くてもおいや(嫌)な日そく(蝕)」という一文を掲げるに過ぎない
が、同書を紐解けば、さらに「巻三」にその詳細が記される。
忍海和尚
④ 忍海
の作品を古人と拮抗するほどのものと評価する。忠統がその
ように判断した理由として、かつて八代将軍吉宗が天下に伝わる
いかがと申せば、それでめったに頼ませぬ、手段と申せどそれは
の具代を高くとらるる所、わるひと申、いかに信心で出とても、
あまたの仏絵師を取て投る所、見事でござる、しかし二番めに絵
古画を集めた際に、御覧に供し得るかどうか事前の判断を自身が
が、本業の仏絵師以上に高い技量を備え、細部にこだわった仏画には
潤筆料が高いことに皮肉を込めるのは評判記ならではの風刺である
本稿はこのうち③に注目し、忍海における作画の様相を具体的に明
じ増上寺の了月(一六八五~一七五八)、沈南蘋に倣って花鳥画をよ
定評があったと知れる。同書には忍海以外の画人も取り上げられ、同
く。
らかにするため、まずは伝記資料から生涯の事蹟について概観してい
ということを挙げる。
ひいきすぎます、いやならいやといふたがよいとの御沙汰、
仏絵の上手、さりとはこまかな芸、当顔見世まんだら丸の役、
(1
狩野永徳もそれに比肩するとみるが、江戸時代になって探幽以降
は淡泊に流れ、衰えてしまったと捉える。
③ 忍海
については、南郭や忠統らと知識を共有しつつ、当時におけ
る画道の衰亡を歎いて「復古」を志し、古画と造化を師として宋
(
与り、古画の気韻を体得するほどに多くの作品を忠統が目にした
元絵画に逼る画風の確立に邁進する人物とみた。
(1
ね以下の四点に集約される。
南郭と日頃から論じていたという絵画観が示され、その内容はおおむ
(
64
雪館(一七一五~九〇)
、渡邊湊水(一七二〇~六七)らが活躍する
一~八五)の五人が見える。いまだ宋紫石(一七一五~八六)や桜井
一~一七六一)
、能楽の脇方で英派の画家であった福王雪岑(一七〇
くした諸葛監(一七一七~九〇)、英一蝶の後継者・英一蜂(一六九
(落ちぶれる)の苦報を憐み、これによりて世を厭い、出家の志を
女、 恍 惚 と し て 目 前 に 在 り。 師 こ れ を 患 う。 か つ そ の 愛 欲 沈 淪
ず。ついに病みて死す。自後、師、深更に間坐すれば、すなわち
せ て こ れ を 地 に 擲 つ。 つ い に 省 る に 肯 ぜ ず。 女、 怨 恨 し て や ま
艶書を并せてこれを致す (おくり届ける)
。師すなわち見て書を并
このように評された忍海の生涯を知ることのできる最も整った資
そかに亡えて縁山に奔り、学社に入り、所志を告げ請う。時に年
発し、しばしばもって父母に請う。父母、許さず。一日、師、ひ
なげう
以前の、十八世紀半ばにおける江戸市井の状況が知れて興味深い。
料が、
『古画備考』が注釈に掲げる小机泉谷寺の恵頓(一七二五~八
二十余、翩々 (才知すぐれ、姿もいきなさま)たる美丈夫なり。人み
あまね
はし
五)によって記された詩文集『泉谷瓦礫集』収載の「忍海上人伝」で
な怪しみ、許す者のあることなし。学社百区、経歴してほとんど
き
ある。恵頓は忍海の門人というべき近しい関係にあった浄土僧で、十
まさに遍かんとす。最後に鐵舩和尚の室に詣る。和尚、一見して
( (
七回忌にあたる安永七年(一七七八)にその伝記を著した。忍海に触
これを器とし、その由来する所を訊問し、すなわちこの志を奪う
いた
れたこれまでの研究も多くをそれに依拠しているが、文言で書された
べからざるを知り、すなわちあい為に父母に請て、雉髪受戒し、
なづ
一 部 を 意 訳 す る 程 度 で あ る か ら、 こ こ で は 全 文 を 順 に 掲 げ て 書 き 下
命けて忍海と曰い、縁山に籍す。
念してやまず。しばしば召見し、殊に寵して子のごとし。つねに
(
師、諱は忍海、字は海雲、宝蓮社曇誉と号す。また自ら白華、
供養して師を助く。ゆえにもって乏せざることを得たり。才気も
(
し、諸資料を交えながらその行跡について論じていく。
無礙子と号す。東都の人なり。姓氏を詳らかにせず。初め父母、
とより絶倫、学ぶこと日の昇るがごとし。十年ならずして自它の
時に西肥熊本侯の嫡母・清涼大夫人、師の発心の縁を聞きて感
子なし。千手大士に懇祈す。すでにして娠むことあり。ついに師
美貌岐嶷 (幼少の頃から才能が優れている)
、性、 酒肉 葷を 悪む。
真言儀軌弁妄」なるものを読みて、その卓識に服す。すなわち座
求せず。ほぼその要を識るのみ」と。たまたま敬首和上の「光明
きょうじゅ
章疏を概見す。常に謂わく、「吾れ書を読んではなはだしくは研
嬉戯 (遊び戯れる)して常に画を好む。長ずるに及んでますます甚
下に投じて学ぶところを督す。和上もまた深く器重 (才能を認めて
を産む。
し。父、画師某に学ばしむ。某、女あり。美にして艶なり。ひそ
重んじる)し、ためにその両端を扣して (手をかける)これを竭し、
にく
かに師を窺いて、心悦びてこれを好む。のちおおいに感想して、
ついにその後事を託属するに至るなり。師、かつて京師に游びて
つく
寤寐 (寝ても覚めても)に発す。ついにひそかに音好 (よしむを結ぶ
一 時 の 哲 匠 諸 律 師 に 歴 事 す。 も っ と も 律 儀 に 閑 い、 常 に し ば し
なら
手紙)を 脩 し、 人 を し て 為 に 殷 勤 (男女の思慕の情)を 通 ぜ し む。
がえん
ば「六物諸書」「教誡儀」「天台戒疏」を講ず。かつて台疏の「玄
かえりみ
師、顧るに肯ぜず。女、止むことあたわず。自らその指を割きて
65
(1
(1
道を脩し、諸尊の儀軌印明を伝う。特に当麻曼荼羅および諸尊の
や道教などおよそ注疏の類に至るまで十年を経ずして概見したとい
才智と気力にあふれた忍海は、仏教関連の書籍にとどまらず、儒教
修行に励んだと伝えている。
印契において所感の深秘あり。つぶさに別記のごとし。縁山の学
う。服部南郭が増上寺の学僧と日々の交流を持った時期とも符号する
談精義」を著す。すでに世に行わる。またかつて密乗に入て十八
徒、師に従いて菩薩戒を受け、諸尊の儀軌を伝うる者、数百人。
から画を好んだ忍海は、ある画家のもとに入門する。その画家には美
を綴り、増上寺に入ったのちに学んだ浄土教学の方向性を示す。幼少
た功徳により、忍海を授かった旨を記す。続いて発心出家に至る経緯
まずは出生譚に触れ、子宝に恵まれなかった両親が千手観音に祈っ
すれば、亡者を極楽往生させることができると説く『光明真言儀軌』
同書は大日如来と阿弥陀如来の神呪である「光明真言」を聴いて受持
刊)と出会ったことは、仏学の方向を決定づける大きな転機となる。
じゅ・一六八三~一七四八)の著作『光明真言儀軌弁妄』(享保三年
だ の で あ ろ う。 一 方、 終 生 に わ た る 仏 道 の 師 と な っ た 敬 首( き ょ う
こ と か ら、 ま さ に こ の 時 に 詩 文 を は じ め と す る 漢 学 を 同 人 か ら 学 ん
しく艶やかな娘がおり、やがて忍海に強い恋心を抱くようになるが、
について論じる。長らく空海の偽撰とされてきた『光明真言儀軌』で
(
忍海は意に介さない。娘は行動をエスカレートさせてゆき、ついには
あ っ た が、 江 戸 前 期 に 新 義 派 真 言 宗 の 僧 に よ り 真 経 と す る 説 が な さ
歳過ぎの忍海があまりに似つかわしくないのを訝り、どこも入学を許
教義を講説する数多くの学寮があったが、才智外見ともに優れた二十
し、父母の反対を押し切って増上寺に身を投じる。増上寺には種々の
も た ら す 苦 し み の 深 さ を 知 り、 世 を 厭 っ た 忍 海 は つ い に 出 家 を 決 断
戸初期には浄土宗の関東総本山・鎌倉光明寺の幹事であった秀誉含牛
畑正受院の開山となり、戒律の復興に努めた律僧として知られる。江
台、華厳、法相、三論などの八宗を修めた。さらに浄土宗の律院・花
宗」の考えに基づき、浄土の教えだけでなく、京都や南都を巡って天
敬首は他宗の経論や論理を用いて浄土宗の教説を扶助する「随他扶
(
自らの指を傷つけ、血書で恋文を綴るに至った。それでもなお顧みな
れ、「光明真言」は阿弥陀如来の名号を唱えるよりも優れると吹聴し
(
かった忍海を恨みつつ、娘は病に冒されて帰らぬ人となってしまうも
たことから、敬首が浄土宗の立場で反駁した内容であった。
さなかった。最後に訪ねた鉄船和尚は忍海の決意揺るぎなきことを悟
が、一切の伝書を持ち出して京都の西往寺に隠し、他見を許さないと
(
のの、後には幽霊と化して忍海の目前に現われるようになる。愛欲が
り、ついに父母を説得して剃髪し、忍海と名付けるに至った。これが
いう事件が起きた。一方、増上寺の伝書も散佚して伝法の儀式が出来
(
二十歳過ぎであったというから、享保初年(一七一六)頃のこととみ
なくなり、次第に混乱状態に陥いることとなった。伝法にともなう戒
(
られる。この若き忍海に対し、どのような経緯があったか不明ではあ
律が軽視され、僧風の堕落を招いた結果、十八世紀になると古式の伝
(
るが、以上の話が肥後宇土藩二代藩主・細川有孝(一六七六~一七三
法を復活し、僧侶となるために不可欠の戒律を復興しようという機運
(
三)の正室であった清涼院の耳に入り、援助を申し出て自分の子のよ
(1
が高まっていく。その嚆矢となったひとりが敬首であった。敬首の思
(1
うに可愛がったという。これにより、忍海は困窮することなく、仏道
(1
(1
66
インドの僧侶に理想を置き、釈迦を本師、龍樹と天親(世親)をより
ともに往生を成し遂げるためには重要であるととらえた。さらに古代
善行を勧める勧門としての念仏、悪行を戒める誡門としての戒律は、
守るべき項目を主としている。念仏を弘通させるための助業であり、
ないなど、持しがたいほどの厳しいものではなく、人として日常的に
台宗から授受したもので、人を殺めてはいけないとか窃盗してはいけ
し、
『梵網経』に端を発する「円頓戒」を重視した。それは法然が天
書伝授と対の関係になっていた戒脈の奥伝「布薩戒」を妄伝として排
たところに特徴がある。当時の浄土宗において、宗脈の奥伝である璽
仏弟子である以上は必ず受戒し、戒律を守るべきとの考えを推し進め
あった。ただ、その称名念仏を実行するうえで、在家出家に関わらず
か凡夫衆生を救済する道はないとする浄土宗の立場に根ざしたもので
はなく、専ら阿弥陀仏を頼んで往生する浄土門、すなわち称名念仏し
たく、他の仏に依らずに自らの智慧で往生(成仏)を果たす聖道門で
想は、末法の世にあって天台宗の観想念仏はどんな高僧でも成就しが
七八)に出版されている。同様にその没後の安永三年、尾張西蓮寺の
の状態で伝わり、彼らの没した後、敬首三十三回忌の安永七年(一七
に批判を加える。やはり天心が筆録し、忍海の校閲を経たものが稿本
いて論じた内容で、律宗の僧による過剰な反応や質素倹約を誇る風潮
た、『律宗禁絲決講義』は不殺生の戒を破って採取する絹の使用につ
校閲し、宝暦四年(一七五四)に忍海の跋文を添えて刊行された。ま
たもので、同じ敬首門の天心が書き留めていた講説を増上寺の大梁が
『典籍概見』は道教や儒学の書、その他の雑書について大略を論じ
の没後に出版された講説録の多くに関わっている。
質的な後継者であったといえる。忍海はこれに応えるかたちで、敬首
所立法門の趣」を伝授され、後事を託されていることからも、その実
八月二十五日には死期が近いのを悟った敬首から「宗旨の安心、自門
じ、敬首の方もその才能を認めて厚く遇した。寛延元年(一七四八)
上寺にありながらも、この独自の説を展開する敬首の卓見を奉じて参
たず、受戒者は二千人を超えたという。忍海は檀林の筆頭であった増
名付けた小庵に隠棲した。それでも訪問して教えを乞う者があとを絶
(
どころとして尊重したといい、それゆえ、浄土宗において一般的に行
吟 説 に よ っ て 出 版 さ れ た『 一 枚 起 請 親 聞 録 』 は、 元 文 元 年( 一 七 三
(
われていた教説であっても「雷同敬信」することがなかった。それま
六)に敬首が法然の遺書とも言える「一枚起請文」について講説した
(
でと多々異なる点のある敬首の講説は人々を賛嘆させたという。この
内容を、宝暦九年に忍海がまとめたものであった。一方、「忍海上人
(
ように戒律を重視する浄土宗の律僧は、本来的な僧侶のあり方を追究
伝」に記される「台疏の玄談精義」とは『梵網経菩薩戒品台疏玄談・
(
しようという厳粛主義的な傾向があったことから、社会性が強い十八
梵網経菩薩戒品精義』のことで、享保二十年(一七三五)に忍海が親
(
檀林の官僧とは相容れない部分を有し、敬首に学んだ関通(一六八三
(
炙して書き留めた筆録を、同門の慈光らの浄財によって宝暦四年に出
(
~一七七〇)や天心らは、実際に他の浄土僧から論難排斥を受けてい
(
版したものである。巻頭には敬首の自題が付された忍海の筆になる敬
(
(1
)、増上寺六十三世の連察と下総小金東漸寺二十八
(2
(2
世の貞鏡が序跋を寄せる、とりわけ体裁の整った刊本となっている。
首像を掲げ(図
る。
正受院を退いた敬首は下谷に移り、菩薩行によって衆生を救済する
ための「大乗戒」を説く『菩薩瓔珞本業経』に基づき、「瓔珞庵」と
67
(2
1
(1
図1 「敬首像」
『梵網経菩薩戒品台疏玄談』
(宝暦4年・1754刊)
師の敬首と同様、忍海も戒律を学ぶために京都を中心とした関西へ
の遊歴を果たしている。ただ、それがいつのことであったのか、この
「忍海上人伝」からは判然としない。先に挙げた本多忠統の忍海宛書
簡「忍海の雍州に遊ぶを贈る序」は、京都滞在中の忍海から山水画を
贈られたことへの返礼であったが、やはり年代を特定する手がかりは
(
(
示されない。この西遊時期については、一見これとは全く関係がない
ようにみえる忍海自身の著作『当麻変相私記』から明らかとなる。
(
間 で「 当 麻 曼 陀 羅 」 四 本 の 詳 細 な 調 査 を 行 っ た 際 の 記 録 で あ る。 当
(
五日、実際に奈良二上山東麓にある当麻寺を訪れ、十九日までの五日
本書は延享三年(一七四六)四月に成ったもので、延享二年五月十
(2
(
録『 当 麻 曼 陀 羅 正 義 隨 聞 記 』 に 示 さ れ る。 浄 土 宗 の 開 祖 で あ る 法 然
(
その発端は、「当麻曼陀羅」について敬首が講説した際の忍海の筆
連の調査は、いったい何を目的としたものであったのか。
はらしたり」と感想を記している。この数ヶ月にわたって行われた一
含まれていたらしく、それまで抱いていた彩色の疑問について「露を
伝」を余すことなく伝授されたという。なかには画像に関する秘伝も
た 忍 海 は、 そ の 探 究 の 熱 心 さ に ほ だ さ れ た 恵 音 法 印 か ら「 変 相 の 秘
りの「当麻曼陀羅」を実見している。八月に入り、再び当麻寺に赴い
るなど、市中の寺院に伝来した恵心僧都源信の作といわれる三十本余
いる。その後、いったん京都に戻り、六月二十三日には禅林寺を訪れ
のうち真言宗北宝院の恵音法印から曼陀羅に関する情報を聞き取って
時、当麻寺には真言宗三院、浄土宗三院の合計六つの僧院があり、こ
(2
最も重んじて注釈書の『観経疏』を著し、一方で『観無量寿経』など
専修念仏の教えを立てることとなった。この善導は『観無量寿経』を
は、唐時代に活躍して浄土教を大成した善導から多大な影響を受け、
(2
68
伝来したという七百年ほど前の、平安中期頃の制作になる「当麻曼陀
過ごしていたという。ところが寛保三年(一七四三)、忍海が奈良に
れ が 原 本 の 図 様 を 正 確 に 伝 え た も の か、 考 え あ ぐ ね て 空 し く 歳 月 を
説する必要性を感じていたものの、伝存する諸本には異同があり、ど
ひとつとして重視された。敬首は日頃から「当麻曼陀羅」について講
ても『観無量寿経』を絵画化した「当麻曼陀羅」は「浄土変相図」の
に基づいて自ら「浄土変相図」を描いたとされるため、浄土宗におい
なった。
が対処した結果、
「当麻曼陀羅」の歴史に新たな状況を加えることと
である。興味深いことにこの調査過程において、ある別の問題に忍海
色(黄土色)で彩り、立像形の来迎でなければならないと考えたよう
で あ ら わ す の は 時 代 が 下 る 要 素 で あ り、 本 来 は す べ て の 諸 尊 を 白 肉
泥で諸尊を彩ること、九品往生のうち上品の三生と中品上生を座像形
を転写して制作したために、古様を伝えていると解釈した。つまり金
からは賛同を得るが、一方でともに訪れていた知恩院入信院の実道か
当麻寺曼陀羅堂の厨子に懸けられた文亀本は当時にあってすでに損
関西に伝わる諸作品を実見した忍海の説は、以下のとおりである。
ら、貞享本の作成に携わった義山(一六四八~一七一七)、性愚(称
羅」を入手した。敬首は古様な出来映えを示すとみた京都の禅林寺本
まず、当麻寺に伝来する文亀三年(一五〇三)完成のいわゆる文亀本
求・一六二九~八六)両師の志を無礙にはできないとの意見が出され
傷が激しく、これを憂慮した忍海は貞享四年(一六八七)に完成した
について、諸尊を白肉色(黄土色)で彩るのは本来の彩色法であるも
た。そこで貞享本の諸尊を彩る金泥を白肉色(黄土色)に改めるのが
に近いものと判断し、それまでの考えを裏付けるところもあり、講説
のの、下部の「散善義」にみる上品の三生と中品上生の来迎が座像形
最善の策であるとの結論に達し、延享二年(一七四六)十月、知恩院
貞享本に懸け換えてはどうかとの提案を行った。けれども当麻寺側、
であり、かつ金泥で彩色するのは当初の表現を受け継いだものではな
の入信院に運んで仏絵師の洞玄に塗り直しを行わせた。翌年正月十八
するに至ったとしている。忍海はこの敬首の説を承け、表現形式に異
く、問題があるとみた。文亀本が制作された段階ですでに原本の痛み
日には知恩院五十世の鸞宿(一六八二~一七五〇)によって開眼供養
特に真言宗の僧院から、すべての諸尊を金泥で彩るのは白肉色の文亀
が激しく、特に下部が判然としなかったために他の伝来作品を参照し
が営まれ、二月に当麻寺へ戻されて曼陀羅堂の厨子に安置されたとし
同のある「当麻曼陀羅」について当麻寺の原本を含めた調査を行い、
つつ推測を交えて描いたとし、その根拠として他の部分が白肉色であ
て い る。 以 上 の 記 述 か ら、 い わ ゆ る 貞 享 本 は も と も と 諸 尊 を 金 泥 で
本と異なることから受け入れがたいと難色を示される。そこで忍海自
るのに「散善義」だけ金泥で彩色していることを挙げる。一方、京都
彩っていたが、延享二年十月、忍海の調査をきっかけに下部の「散善
その復元的考察を試みようとしたようである。そこには画人としての
の諸寺が所有する「恵心僧都源信作」との伝承がある「当麻曼陀羅」
義」を除いて塗り直しが行われ、現在にみる白肉色になったと判明す
らが本来の図像で描いて寄進しても良い旨を伝えたところ、当麻寺側
は、諸尊を金泥で彩るものが多いものの、禅林寺本などは上品の三生
る。
視点もあり、当初の彩色について明らかにすることも目指した。
と中品上生の来迎を立像形であらわす。これは平安時代の段階で原本
69
述から明らかとなる。それは服部南郭や本多忠統らが有した詩文や書
探るべく自らの眼で確かめようという態度は、『当麻変相私記』の記
えをもって西遊をなしたのかを明らかにするとともに、当麻寺の「当
画に求めた態度、仏道の師であった敬首が戒律をはじめとする伝法に
この一連の動向を記した『当麻変相私考』は、忍海がどのような考
麻曼陀羅」がどのように扱われてきたのか、その一端を明らかにする
求めた態度と同じ方向性にあったとわかる。
この『当麻変相私記』の記述から、延享二年(一七四五)五月十五
重要な資料である。一方、忍海の西遊目的がどの辺りにあったのか、
本多忠統の忍海宛書簡「忍海の雍州に遊ぶを贈る序」も忍海の言を引
日から翌年二月までの関西滞在が確認でき、さらに『当麻曼陀羅正義
鳥獣蟲魚、草木の花実、霜雪の深浅及び鬼神仙釈、宮室器物、人
や。すなはち旧習偏観を捨て、日月列星、風雨水火、雷霆霹靂、
あ に そ れ 人 に 師 す る よ り は、 こ れ を 造 化 に 師 す る に し か ざ ら ん
服部南郭も最初で最後となる西遊を果たしたことが知られる。それは
戸に戻っていた。実はこの忍海の関西滞在中、十代後半で江戸に出た
首が病床にあった一年半後の寛延元年(一七四八)八月までには、江
を筆録しているから、これ以降に旅立ったと判明する。そして師の敬
用しつつ伝えている。
の愉佚、憂悲、怨恨、酣酔、歌舞、戦闘は、蔵心蓄思を以てこれ
延享二年三月から五月のことで、五月十六日には江戸への帰着が確認
講聴書』によれば、延享二年二月十五日には江戸にあって敬首の講説
を発す。然るにまたただ独り患ふ所の者は、山水崖谷、奇石怪樹
できる。南郭の『南郭先生文集三編』巻之四には、「海雲上人の西京
(
のみ。ここを以て修装して発ち、千里の奇観、日々盡さんと欲す
に遊ぶを送る、二首(上人、画癖あり)」と題された七言絶句二首、
は、東福寺の裏山から山水画の着想を得たというから、自らもそこに
は及ばない。特に山水を描くためには千里の道程を旅し、自然の奇観
画を学ぶうえで、いくら人を師としたところで自然に即して描くに
華嶽甘泉探勝才
西都何処最徘徊
青雲不似白雲多
君但持来堪贈我
別是天遊飛錫過
長安宮闕対山河
名山限りなく好を摘取して
華嶽 甘泉 探勝の才
西都何れの処か最も徘徊
青雲は白雲の多きに似ず
君但だ持し来れ 我に贈るに堪たり
別に是れ天遊 錫を飛して過ぐ
長安の宮闕 山河に対す
(
…聞くならく、いにしへの明兆は丹青を東福の後山に得と。今も
なほあるか、試みに入てこれを索めん。粉彩復古もまた我が志な
入って確かめようという画業修行の思いがあったとする。さらに「粉
摘取名山無限好
携へ帰て須く少文に与て開くべし
り。
彩復古もまた我が志なり」というように、いにしえの彩色法を探るの
携帰須与少文開
のに盲従するのではなく、本来はどのようにあったのか、その原点を
に触れることが重要と忍海は認識していた。そしてかつて画僧の明兆
もまた、その目的であると述べている。それまでに権威づけされたも
(2
70
かつて才気をもって人を簡傲 (傲慢)することあらず。宗徒親疎
( (
が収録され、忍海を江戸で見送っていることから、この詠は自ずと三
なく、知ると知らざるとみな師の風采を称して口に容れず。ここ
よ
月以前となる。すでに関西とは縁遠くなっていた南郭からすれば、忍
に繇りて紳縉時彦よりもって衆庶師弟に至るまで、頸を延べて容
や
海の在京は西遊の好機であったともいえ、それを前提に挙行されたと
接 を 願 わ ざ る こ と な し。 體 は な は だ 癯 せ、 衣 に 堪 え ざ る が ご と
はみな三宝によってもってこれを致す。しかして吾れひとり受用
ばしば香水を灑ぎて牀席を扇ぎ、常に言わく「およそ僧家の所有
すなわち香炉の火を盛んにして仏場に置き、盛夏にはすなわちし
燭・菓果の類、三都の精選を盡し、四時の珍美を窮む。厳冬には
び道場の荘厳七宝、美盛を窮極す。その薦めるところの香華・燈
なし」と。また翰墨に善く、殊に篆書に工に、印章に巧みなり。
いて特に不言の玅あるを覚ゆ。その余の妍蚩 (美悪)は与ること
の真を写貌すること多し。ただ吾が円光大師は目精を点ずるにお
画くこと千余鋪、みな彩飾美を盡す。師、常に言う、「吾れ諸祖
心、琢磨に過ること遠し。その浄土の変相および諸尊の曼荼羅を
丹青に工にしてもっとも蘭梅に長ず。特に仏画の妙を極む。恵
に過ぎざるのみ。多
の推測も成り立つであろう。
つか
し。美味を好まず、食、常に淡泊、香菜豆
すべきや」と。供具もっとも互用を制す。浄人もし誤失すれば、
師の温潤なること、人いやしくも求むることあれば、すなわち峻
病、時ありて応対の煩に憊れるなり。
すなわち改めてまた用いることなし。貴価物といえども愛惜する
拒に堪えず。ここをもって素絹・印石の類、常に堆積を厭う。自
師、生平仏に奉ずること厳重なり。日課称名三万声、仏像およ
ところなし。およそ供養厳重、古よりいまだ師より盛んなるはあ
ら草々遑あらずと称すなり。師、方直志尚、いまだかつてその道
あお
らず。山徒、翕然として習服し、供厳ややに革易するは、みな師
を枉げて苟合 (迎合)するところあらず。一時の儕類 (ともがら)
そそ
の化よりこれを発す。師、少小より千手尊に奉ず。居る所みな仏
と い え ど も、 ま た こ こ を も っ て 敬 憚 ( 敬 い 畏 れ る )す。 も し 富 貴
いと
あずか
場の側において千手壇を安じ、供養ただ謹しむ。尊像を写施する
を挟んでもって偪り求たる者のあれば、一切に謝絶して受けるに
おぼ
もの最も多し。初め師、縁山の北渓に社す (同盟結社する)
。父没
肯ぜず。一日某侯、縁山方丈に遊ぶ。師また坐に預る。侯、すこ
いとま
してのち、母、師の社に就養す。賢明の婦人にて和学に熟し、国
ぶる酒色あり。師の席上の画を観んと欲し、ついに絵具を前に致
ま
風 (和歌)を善くす。のち師の教えを奉じてもっぱら念仏し、終
す。師、推卻 (押し退ける)して受けずして曰く、「君侯の名は朝
せま
り を 善 く す。 師、 人 と な り 灑 落 に し て、 威 儀 に 簡 忽( 軽んじる)
野に重し。具瞻 (高位高官の人)の帰するところ、挙錯 (ふるまい)
あずか
なり。温藉 (寛容)風流、よく物に接し、人情に明解なり。稠人
みな法るべからしむ。海、貧道といえども、職、沙門に備わる。
がえん
(ぎっしり集まっている多くの人)
、広坐の中に在て、師、道う所あれ
席画 (その場で即興の絵を描くこと)
、観に供するはけだし市肆画工
のっと
ば、人々おのおのその言に服す。交道の違順、常に情をもって恕
の事なり。吾れ誠に釈氏の法服を以て画工の業に従うに忍びず」
い
し て、 い ま だ か つ て 牾 す る ( さ か ら う )こ と あ ら ず。 ま た い ま だ
71
(2
は
它の巧拙を品物 (品定め)せず。ここもって諸々の芸名ある者み
しかれどもついにその雋異 (すぐれて異なる)を恃みて、しかして
し、意を効せり。師、書画みな兼て独絶 (比べる者がない)なり。
寡人 (諸侯が自分を謙遜して言う言葉)の過ちなり」と。ついに善交
て論ずべからざるのみ。しかしてこれを愛する者は侯なり。それ
いへども、師や香界の客にして、妙相の現ずるところ、有無を以
詩は声ありて象るべからず、画は形ありて写すべからず。然りと
て賞せらる。故にまた詩画に入りて共に妙なり。ただその国香、
海雲師の画蘭一巻、宇土侯珍蔵す。惟ふに蘭の物たるや、幽を以
と。一坐、色を失す。侯、愕然として慚じ、謝して曰く、「これ
な 師 に 従 服 し て、 そ の 不 逮 ( 及 ば な い )を 匡 す。 こ れ を も っ て 師
よく言の象すべからざるを象する者は詩なるのみ。乃ち侯の詩を
いた
の門、常に雑賓多し。しかして清泊寡欲にして、僧官禄位に蹂な
好むは、それ必ず能くするところあらん。則ちこの巻や、世の虚
この忍海の筆になる墨蘭図巻を所蔵したのは、宇土藩の五代藩主・
たの
らず。然れども臘 (僧侶が得度してからの年数)すでに満ちて、一字
賞なる者と異なれり。
修行生活にあっては布施による浄財を私的に用いず、斎食などは常
細川興文(一七二三~八五)であった。若き日に恩恵を受けた清涼院
ただ
班に除す (規定の順序に従って地位があがる)。
に淡泊である一方、修行の中心となる公的な仏堂には美盛を尽くし、
が二代藩主・有孝の正室であったことから、忍海と宇土藩の所縁は明
五~九四)が主催した細川幽斎一五〇回追善歌筵にも参加しており、
荘厳を極めたという。その出自の由来から自身も常に千手観音を奉じ
絵画については「丹青に工にしてもっとも蘭梅に長ず」とし、墨蘭
終生その関係は続いた。南郭は詩文集『桂源遺稿』二巻を残すほど詩
らかである。さらに宝暦九年(一七五九)八月には熊本藩四代藩主・
と墨梅を最も得意にしたことをいう。僧侶にありがちな余技としての
に長けた興文が、忍海の墨蘭図巻を所有することで詩画一致の全きを
て供養し、年老いた母を引き取って孝養したことなど、敬虔な人とな
素人画という印象を抱きがちではあるが、忍海は決して安請け合いを
得ると、盛唐詩人・王維の句「画は無声の詩、詩は有声の画」を踏ま
細川宣紀の娘で、宇土藩四代藩主・興里の正室清源院(軌子・一七二
せず、とある大名から即興で描く席画を求められた際にも、見せ物で
えて評している。ここに墨蘭図をはじめとした四君子の、彼らにおけ
りについて触れる。
描くのは画工のすることであり、法服を身にまとった者が画工の真似
る位置づけが示されているとみて良い。
( (
事をするのは忍びないとして拒絶した話を伝える。草々とした蘭や梅
師の画蘭巻に題す」という一文が認められる。
る必要がある。南郭の『南郭先生文集四編』巻之九に、「戯れに海雲
郭らとの漢学を通じた交流のなかで尊ばれた絵画であることを踏まえ
であっても、それは鑑戒主義的な文人画題としての四君子であり、南
とそれに続く二十六図、竹について描法を説いた「墨竹指」とそれに
であろう。原本の構成が蘭について描法を説いた「墨蘭指」二十八則
た雍正二年(一七二四)の序文を有する汪之元の『天下有山堂画芸』
忍海が墨蘭図を描くにあたって拠り所としたのは、自ら模刻出版し
(2
72
続く十八図の二部であるのに対し、模刻本『有山堂画譜』は通常の版
2)。画の最終頁である「二十六」に「延享丙寅六月無礙子模」とあ
(
らに青山妙有庵の浄土僧で、忍海と深交を持った耆山(一七一二~九
四)の「附言」があり、
芝山忍海上人、摹す所の蘭蕙譜一巻、乃ち墨帖と為して以て世
に 行 は る る な り。 苟 く も 指 を 繪 事 に 染 む る 者、 こ の 玩 味 に 據 ら
ば、則ち漸く佳境に到らん。
墨蘭の要は濃淡疎密のみ。およそこの帖、白は則ち淡墨、焦は
則ち濃墨なり。先は運筆を意とし、自ら應に本色を得るべし。
芝石草苔、皴法の精微濃淡はまた蘭蕙に倣ひて見るべし。
宝暦壬午之秋 青 山樵僧懶翁(印)
居 士雲阿刻(印)
と 記 さ れ る。 こ れ は す で に 忍 海 亡 き 宝 暦 十 二 年( 一 七 六 二 ) の 記 と
なっているが、耆山の詩文集『青山樵唱集二篇』にある「無礙上人、
( (
石墨の画蘭を贈らるるに謝す」と題された詩から、その出版事情を推
察できる。そもそも生前の忍海が延享三年頃に私家版として制作し、
人画題への関心と需要の高まりが窺える。
には四君子に関する模刻本が立て続けに版行されており、基礎的な文
詳録』、池大雅による宝暦十年刊行の『賞奇軒墨竹譜』など、この頃
五一)の『梅道人墨竹譜』、村上酔墨斎による宝暦六年刊行の『竹譜
して附記を加え、重版したと解せる。中山高陽による寛延四年(一七
交流のあった人物に配布していたものを、耆山が忍海の一周忌を期と
(3
このような水墨による草々とした画題を描く一方で、ここに示され
73
ることから、延享三年(一七四六)に模写されたものと判明する。さ
(
図2 『有山堂画譜』
(宝暦12年・1762刊) 千葉市美術館 ラヴィッツ・コレクション
本とは白黒逆になる拓版画の手法により、蘭部のみが版行された(図
(2
修行にあった以上、最も意を砕いたのは仏画であったとみるべきであ
述や『冬至梅宝暦評判記』の内容から判断するに、忍海の本願が仏道
相および諸尊の曼荼羅を画くこと千余鋪、みな彩飾美を盡す」との記
画家・楊補之が所蔵したという唐時代の書家・欧陽詢(五五七〜六四
(一六〇三)に董其昌が版行した『戯鴻堂法書』のうち、南宋時代の
れる。『有山堂画譜』と同様、法帖の模刻にも携わり、万暦三十一年
な り 」 と あ る よ う に 篆 書 を よ く し、 そ れ に 伴 い 篆 刻 に も 長 じ た と さ
忍海の書に関しては、「翰墨に善く、殊に篆書に工に、印章に巧み
ろう。
「浄土の変相」つまり「当麻曼陀羅」をはじめとし、「諸尊の曼
一)による楷書千字文の模刻『欧陽詢千字文』を手掛けた(図6)。
る「特に仏画の妙を極む。恵心、琢磨に過ること遠し。その浄土の変
荼羅」など本格的な仏画を多数制作したといい、手厚く奉じた千手観
伝存する同書の多くは忍海没後の安永四年(一七七五)の刊行である
(
音については「尊像を写施するもの最も多し」と記す。現時点で調査
が、元文三年(一七三八)八月になった忍海の跋文には、
延享元年(一七四四)に出版された『和字選択本願念仏集』は、文
二子之於書固已服膺欧陽氏、則此帖其真蹟可知也、余嘗双鈎珍玩
欧陽詢楷書千文出於戯鴻堂帖中、宋楊補之所蔵元金応桂所伝、而
(
を行った実作品については後段で論述することとし、ここでは一般に
言によって法然の思想をあらわした『選択本願念仏集』を関通(一蓮
焉、眉山卿者請石刻以不朽之、余為世許之、刻成対校真本毫無差
普及した版本の挿絵について触れておく。
社向誉・一六九六~一七七〇)が仮名交じりに直し、初学者に解りや
(
可謂真面目也、意此帖伝世而不朽乎、則何盛事加之、元文戊午仲
(
す く 配 慮 し た 五 冊 か ら な る 書 で あ る。 関 通 は 忍 海 と 同 じ く 敬 首 に 参
)。かつて双鉤塡墨の手法で忍海が写したものを、
秋、縁山北渓沙門忍海跋
は そ の 志 に 感 じ、 本 書 の 内 容 に あ わ せ た 挿 絵 二 十 四 図 を 寄 せ て い る
(図 )
。本書は諸所に多数伝存し、その発行部数の多さは忍海の名を
れた浄土六祖(菩提流支・慧寵・道場・曇鸞・大海・法上)、法然に
一)刊行の『浄土仏祖図録』は、唐時代の西河禅師道綽によって説か
広く知らしめたことを物語る。一方、これに先立つ寛保元年(一七四
巻頭にみる床几に座して顎髭をなでる欧陽詢像は、あるいは忍海の手
る。ここから書風に関しては欧陽詢に私淑していたことが窺え、本書
眉山という人物がその出版を申し出たことから本書が成ったとしてい
(
になったとも思われる。長崎の書物改役が編纂した『商舶載来書目』
(
統 の 忍 海 宛 書 簡 の 一 通 は 印 を 贈 ら れ た こ と へ の 返 礼 で あ り、 さ ら に
一方、篆刻については書以上に得意としていたようである。本多忠
ある神洞の詳細は不明だが、敬首の『放生慈済羯磨儀軌』に「門人」
・5)。著者で
よる浄土六祖(菩提流支・曇鸞・道綽・善導・懐感・少康)、南宋時
(
によると、『戯鴻堂法書』の書名で享保十六年(一七三一)の記載が
と記される(図
じ、三河尾張地方に浄土律を興隆させた捨世僧として知られる。忍海
(3
代に四明山福泉寺に住した志磐による蓮社七祖(慧遠・善導・般舟・
(
え た 二 十 一 図 か ら な る 浄 土 祖 師 の 図 像 集 で あ る( 図
(3
『南郭先生文集三編』巻之五にはその印譜に関する「白華印譜の序」
(3
と記されており、同門のよしみで忍海が画を寄せたと推察できる。
4
あり、およそ日本への輸入状況が判明する。
7
(3
法照・少康・智覚・円浄)の姿を忍海が描き、そこに釈迦と法然を加
3
74
図3 『和字選択本願念仏集』
(延享元年・1744刊)
図5 「慧遠像」
(同)
75
図4 「釈迦如来像」
『浄土仏祖図録』
(寛保元年・1741刊)
図6 『欧陽詢千字文』
(安永4年・1775刊)
図7
同
忍海跋文(元文3年・1738書)
76
墨跡・古器・皿・茶具等の諸々豪夸 (誇り輝くもの)の物、おおむ
はあらず。ともに交わるところの列侯豪富、みな一時好事の輩、
六六四~一七四四)によるもので、先にみた「天」巻の南郭序よりも
最後に十一の所蔵番号を有する一冊本は三冊本の「天」巻に相当す
あい争いて奉ずる所のものなるのみ。師、敢えて拒まず。得るに
ねもって数世を支えるに足る。然れども自ら好みてこれを致すに
る内容で、上記の一冊本と同じ大きさ、同様の紙を用いる。やはり三
随 い て す な わ ち 用 ゆ。 人 或 い は 欲 す れ ば、 手 に 随 い て こ れ を 散
三年の後、元文六年(一七四一)の書となる。
冊本と同じく南郭の序を有するが、書き入れはすべて墨書によってな
ず。すべて悋む色なし。古仏像に遇えばすなわち力を窮めて求め
以上、これらはすべて枠のみを墨摺した紙に一顆一顆の印を捺し、
一たび品題を経れば真贋立ろに定む。かつて京洛に游び、諸名藍
取る。必ず得てすなわち已む。もっとも鑒裁 (鑑定)に精なり。
おし
され、印影の数も少ない。
印文の内容や種類を朱や墨によって記す手の込んだ体裁であるとわか
を経歴し、嚢中の装、数十金を散じてすなわちひそかに寺僧に賂
末尾に自筆の跋を加えたうえで極めて近しい人物のみに配布したもの
詩文を通じて交誼を結んだ象徴的な逸話を取り上げる。当時、江戸市
次に忍海が親密に交わったもう一人の師である服部南郭について、
たちどこ
る。ただ、三冊本と一冊本の間には紙質の差と、朱書と墨書の違いが
い、その秘する所の霊像みな龕を開きて拝瞻すと云う。
ではなかったか。この三冊本が知己の間で好評を博したことから、三
中では新年を迎えるにあたり、十二月十三日に大掃除を行う習わしが
まいな
存在する。三冊本の「地」巻には松平頼貞の序がないことを考慮する
年後に「地」巻の序を頼貞に依頼し、忍海の刻印を載せる「天」巻と
あった。南郭はその喧噪を避けるべく、門生とともに忍海を訪ねるの
と、三冊本の方は元文三年に忍海が私家版として制作し、「地」巻の
「地」巻に限って版を重ねたのが、一冊本の体裁であったと推察する。
東都の故事に臘月 (十二月)十三日は城市の貴賤、壹是にみな
るという風雅な交流から、中国東晋時代の陶淵明と慧遠の関係になぞ
の会を「掃塵会」と称したが、世人は儒者の南郭が仏者の忍海を訪ね
を常としたという。終日、人生や世上の道理を論じて清談を重ねるこ
家屋を掃除し、新暦を迎う。鶏鳴より日午に至るまで、遠近掃撃
らえて「盧山陶謝集」と名付けたとしている。
のち常にもって例と為す。名づけて「掃塵会」と曰う。師の宝松
尊者を延べてあいともに名理を談じ、終日罄歓 (歓を尽くす)す。
携て風塵を師の蓮社に避く。師すなわち知立・曇海・耆山等の諸
上、興に乗じるあまり、渡らないと誓いを立てた谷川の虎渓を慧遠が
知 ら れ る。 そ の も と を 訪 ね た 儒 家 の 陶 淵 明 と 道 家 の 謝 霊 運 を 送 る 途
にあり、阿弥陀信仰に基づく念仏結社・白蓮社を結成した高僧として
慧遠(三三四~四一六)は潯陽の盧山(匡盧山)に所在した東林寺
とどろ
の 声、 雷 響 き 車 轟 く。 こ の 日、 儒 宗 (漢学者)南 郭 翁、 諸 門 生 を
に移るに及びていよいよますます盛んなり。時人、号づけて「廬
思わず越えてしまったという「虎渓三笑」の故事は有名である。忍海
自身も浄土教の先達として慧遠を敬していたらしく、南郭の後継・服
山陶謝集」と曰う。
師、多く書を蔵す。みな世の稀有なるところ、その它、書画・
79
部 白 賁( 一 七 一 四 ~ 六 七 ) に よ る「 海 雲 上 人 画 け る 壁 上 盧 山 の 図 を
猿啼の近きを訝るに似
鶴唳の長きを聞くかと疑ふ
似訝猿啼近
疑聞鶴唳長
(
琴を弾ずれば山
(
観る」
、南郭門人で北越出身の曹洞僧・祥水海雲(一七三八~一八二
弾琴山入座
帳を開けば月
主・海雲尊者に呈す」との七言律詩を詠じた石島筑波(一七〇八~五
山の宝松院に遊ぶ。今ここにまた例に随ひて陪遊す。席上に賦して刹
宅・芙蕖館には、南郭自身が延享二年(一七四五)の旅の感興によっ
都会の喧噪から離れた環境の快適さを詠じる。一方、赤羽森元町の本
山中奥深くに棲む動物の象徴として忍海が描いた猿と鶴を踏まえ、
(
八)も加えられる。一方、忍海側の浄土僧としては南郭の詩文集にも
て描いた「箕面の滝」、「江の島岩屋」、「薩埵峠と富士」、「木曽路」の
墅の「猿鶴図」については南郭と親交の厚かった熊本藩漢学者の秋山
(
認められる曇海(清蓮社浄誉・円海・?~一七七二)と耆山(玄海・
各図があり、ともにその風雅な生き方を象徴する設えであった。白賁
(
忍海と南郭の方外の交わりを物語るもうひとつの象徴的事例は、宝
(
玉山が、やはりその隠居生活の快適さを「服子遷の白賁墅の集、二首
り。よりて賦して謝となす」と題した五言律詩を収録する。
た だ に 小 荘 を 錫 光 す る の み な ら ず、 悠 然 と し て 隠 操 を 助 く る こ と あ
集四編』巻之一には、
「艸堂の壁上に海雲上人、ために猿鶴を画く。
れる。まさに自得したのちの悠然たる境地をあらわす。『南郭先生文
空しさを悟り、本来の質朴な自己に帰る。そうすれば咎がないと解さ
「文」と同義であることから、
「文(かざり)」の極みに達すればその
日夕有鳴琴
此中幽趣足
何知猿鶴心
不見丘園色
載酒暫相尋
問奇難屢得
玄経草自深
白賁門常鎖
この中 幽 趣足る
何ぞ知らん猿鶴の心
丘園の色を見ずんば
載酒しばらく相尋す
問奇しばしば得ること難く
玄経
白賁
草は自ら深し
門は常に鎖す
(
暦七年(一七五七)に新たに営まれた渋谷羽沢の南郭別邸・白賁墅の
海公 游戯の墨
日夕 鳴 琴あり
負郭 田 園静かなり
不惜為図牆
海公遊戯墨
負郭田園静
(4
為めに牆に図すことを惜まず
「賁」の「上九」をいい、
「无咎」とされる。「賁」は「飾る」の意で
(壁に猿鶴を画く)」として詠じている。
(4
(3
障壁画であった。
「白賁」とは『易』にみえる語で、六十四卦のうち
(
一七一二~九四)に加え、応立という名の僧がここに挙げられる。
牀に臨む
座に入り
七)による「忍海上人の房にて廬山図を観る」、同じく南郭門人の秋
開帳月臨牀
すでに移文の客を謝す
(
元 小 丘 園(?~ 一 七 八 三 ) に よ る「 海 雲 上 人 の 房 に て 廬 山 図 を 観 る
已謝移文客
永くここに艸堂を憐れまん
(
歌」など知友の詩から、住持を務めた宝松院の襖に「盧山図」を描い
永茲憐艸堂
( (
たことが判明する。
「掃塵会」の参加者のうち、南郭門人は以上のよ
(3
うな顔ぶれが想定でき、さらに「毎歳暮冬、服子、二三子を挟みて縁
(3
(3
80
風流瀟酒写余真
遊戯揮毫忍上人
青衣兼て見る□□趣
風流瀟酒 余が真を写す
遊戯揮毫 忍上人
幽人此地逃
青衣兼見□□趣
美酒憑りてまさに花鳥と親しむ
幽人 こ の地に逃る
間行 竹 逕に迷ひ
美酒憑将花鳥親
石を點じて金と為す 龍猛が幻
間行迷竹逕
點石為金龍猛幻
青山隠几高
白日啣杯盡
嗒坐聴松涛
青山 几 に隠れて高し
相忘れてまさに惜まざるべし
毛を添へて頰に加ふ 虎頭の神
嗒坐 松 涛を聴く
白日 杯 を啣して盡き
相忘応不惜
添毛加頰虎頭神
巻舒相対して吾れ我を忘れ
野色吾が曹に借す
巻舒相対吾忘我
形影還って疑ふ鏡裡に新なるかと
宴たけなわの席上で、忍海が花鳥や侍童を配して玉山の肖像を描い
形影還疑鏡裡新
野色借吾曹
秋山玉山(一七〇二~六三)は熊本藩六代藩主・細川重賢(銀台公
た鴻儒であった。南郭およびその後継・白賁は、漢学を好んで名君と
たことをいい、その交流の具体的な様相を活写する。忍海は肖像画も
子・一七二一~八五)から厚い信任を得、藩校時習館の創建に尽力し
して知られた重賢からしばしば賓師として江戸藩邸に招かれ、玉山と
(
よくしたらしく、特に同じ浄土僧からの依頼にしばしば応えた。
(
の交流も生まれた。忍海も宇土藩だけでなく本藩の熊本藩とも関わり
宝暦九卯年九月、得誉祐全兼而願望尓付、縁山宝松院忍海和尚招
を持ったことが、玉山の詩文集『玉山先生遺稿』の「春日、鸞嘯閣の
茗讌。大川、忍海二上人、大医令橘公に陪す。同に賦し、人字を得た
請之、起立大和尚真影写し取、同廿七日、下絵出来、香誉御自筆
(
り」と題された詩などから明らかとなる。細川家の菩提寺・東海寺妙
を 以 御 胸 中 江、 十 念 名 号、 年 七 十 八 与 御 認 メ、 同 年 十 二 月 廿 八
(
解院の禅僧で宝暦元年(一七五一)に大徳寺三五六世となった大川義
日、成就、表具出来、則、御自身尓御開眼被為遊候、当寺起立二
(
浚(一七〇三~六二)
、大医令橘公こと幕府の御典医・越智雲夢(一
世再住五世、七十八歳現在之真影なり、
目 黒 祐 天 寺 の 二 世・ 祐 海( 拈 蓮 社 香 誉・ 信 阿・ 一 六 八 二 ~ 一 七 六
(
六八六~一七四六)とともに、竜口(現・東京都千代田区丸の内)に
は特に南郭と懇意であり、南郭没した宝暦九年にはその菩提寺・東海
〇)に従事した祐全は、兼ねてから願っていた師の肖像を忍海に依頼
あった熊本藩江戸上屋敷の鸞嘯閣に招かれた際の詠である。この大川
寺少林院にあって葬儀の導師を務めている。さらに玉山には「忍海上
する。忍海は宝暦九年(一七五九)九月二十七日に祐海本人を目の前
に表装が完成したという。祐海はこの翌年に亡くなっているように、
人、戯れに余が酔像を写す。添ふるに花木侍童を以てす。阿堵の妙、
(
にして写し取り、祐海自身がそれに名号を加え、同年十二月二十八日
(4
(4
言 ふ べ か ら ず。 け だ し そ の 寓 意 や 深 し。 よ っ て こ れ を 賦 し て 謝 を 致
(
す」と題した七言律詩がある。
81
(4
(4
高僧最晩年の姿を写す要望は多かったものとみられる。また、増上寺
四十三世連察(入蓮社走誉・一六七二~一七五五)の肖像を描いたこ
とが、増上寺の寺誌『三縁山志』に伝えられる。
白賁墅に描いた「猿鶴図」がどのような画風であったのかは明らか
でないものの、忍海による別の「鶴図」については臼杵藩の漢学者で
南郭門人の荘田子謙(一六九七~一七五四)が「画鶴に題す。并びに
引」という七言古詩を詠じている。そこには「宝松の海雲上人は妙画
者なり。自ら謄写する所の牧渓画鶴を蔵す。服子の許にて借観し、賦
(
(
し て こ れ に 贈 る 」 と あ り、 南 郭 の も と で 観 た も の は、 南 宋 末 期 の 画
僧・牧谿の「鶴図」を忍海が模写した作品であったとしている。南郭
)、そこに付された南郭の
)。南郭の家には、その「龍図」とほぼ同じ
図様を有する忍海の模本が伝えられ(図
だったと思われる(図
であった牧谿の「観音猿鶴図」ならびに「龍虎図」を見ることは可能
まだ大徳寺の住持ではなかったものの、そのつてを辿って同寺の重宝
古画や仏画などを実見してまわっている。西遊当時、知友の大川はい
にはこのような宿願を抱いて西遊を果たし、古社寺に秘蔵されていた
ず、古雅に迫るべく絵画の「復古」を志した。延享二年(一七四五)
る価値観を南郭と共有した忍海も、当時行われていた画には飽き足ら
描いたが、一方で雪舟の遠源となる宋元絵画を尊重した。絵画に対す
は室町時代の画僧・雪舟を最も重視し、自らも雪舟に倣った山水画を
(4
る。
賛が「画龍の引」という題で『南郭先生文集三編』巻之一に収録され
12
11
牧谿「龍図」 京都・大徳寺蔵
図11
忍海「龍図」 服部家伝来
図12
82
南宋牧渓僧画先
君不見
君見ずや
筆力壮快至今伝
南宋の牧渓 僧
画の先なるを
筆力壮快 今 に至りて伝ふ
中有霊快之神物
天門嘘雨墨淋漓
展開咫尺大雲垂
与真無二析毫毛
海雲上人緇流豪
又不見
神理兼存五百年
岐角 鱗□勁筆に隨ふ
雷電の晦明□髣髴たるを看
中に霊快の神物あり
天門雨を嘘て墨淋漓
展開すれば咫尺大雲垂る
技を嘗て 画 龍いささか謄写す
真と二無くして毫毛を析く
海雲上人 緇 流の豪なるを
禅余の遊芸 功また高し
又見ずや
墨龍の跡 最 も生動
神理兼て存す五百年
ることはなかったであろう。一方で忍海は鑑定に長けて書画古器物な
明しようという純粋な目的が存在したならば、それにやましさを感じ
ためならば賄賂も辞さなかったと伝えている。各尊像本来の様式を究
になる。ちなみに「忍海上人伝」は、その西遊時において秘仏を見る
き、ともにいにしえを敬慕する「復古」の精神が反映されていたこと
を、 別 宅 の 白 賁 墅 に は 忍 海 が 牧 谿 の 筆 致 で「 猿 鶴 図 」 を そ れ ぞ れ 描
ろ う。 本 宅・ 芙 蕖 館 は 南 郭 自 身 が 私 淑 し た 雪 舟 の 筆 致 で「 山 水 図 」
このことから、忍海最晩年の作である白賁墅の「猿鶴図」も、大徳寺
他を笑ふ葉公の好 いまだ深からざることを
雷電晦明看髣髴
草成 手に信せて何ぞ真率なる
どを多く蔵し、放出されている古仏があれば積極的に買い求めたとも
笑他葉公好未深
草成信手何真率
鬼眼はなはだ牖中より窺ふに似たり
いう。これも同様の意識で行われたらしく、宝暦二年(一七五二)に
吾愛真奪天龍勢
鬼眼深似牖中窺
阿堵一點黒きこと漆の如し
は増上寺末寺であった浅草清光寺の本尊として、恵心僧都作という一
吾は愛す 真 に天龍の勢を奪ふを
ただ恐らくは風雨に壁間を擘きて
阿堵一點黒如漆
體毛簇々として剣峰を削る
尺七寸の阿弥陀如来座像を寄進している。何らかの事情で同寺の本尊
只恐風雨擘壁間
體毛簇々削剣峰
駿鬣直に肉中より出づ
を欠いたため、蓄えておいた仏像を融通したものとみられる。
雙飛して時にまた掣すべからざることを
駿鬣直従肉中出
九似三停何ぞ必ずしも論ぜん
雙飛時不可復掣
九似三停何必論
出没雲煙変じていまだ畢らず
後には「猿鶴図」の筆者であった忍海をそれぞれ失ってしまう。以後
墨龍之跡最生動
出没雲煙変未畢
すなはち知れり
鱗隨勁筆
嘗技画龍聊謄写
岐角
(
は手入れが行き届かず次第に荒れていったようで、南郭門人の秋元小
残念ながら白賁墅は造営されてわずか二年で主の南郭、さらに二年
(
伝来の「観音猿鶴図」を踏まえたものであったと見ることが可能とな
理が受け継がれたと詠じており、忍海の牧谿に対する私淑が窺える。
忍海が牧谿の「龍図」を模写したことで、五百年の時を経てその神
乃知
丘園や耆山などが苦心してその維持管理に務めた。
禅余遊芸功亦高
五百年来上人継
五百年来 上 人継ぐ
この道またまさに命世と称すべし
此道亦応称命世
83
(4
白賁墅、荒に就く。検校し畢る。
饁開南畝宴
この日 誰 か植と称す
いささか脩す屋数椽
饁は開く 南 畝の宴
客は対す 北 山の煙
聊脩屋数椽
もと生白を将て賁る
客対北山煙
元将生白賁
なお尚玄のために伝ふ
同に賦す(壁に猿鶴の図あり。古色依然なり)
猶為尚玄伝
烟色 松蘿古きも
あ っ た 幕 府 御 家 人・ 大 田 南 畝( 一 七 四 九 ~ 一 八 二 三 ) が 強 い 関 心 を
九月十日、公修、叔成と同じく白賁墅を尋ぬ
言律詩を詠じた。
七~一八〇五)とともに同所を訪れ、「猿鶴図」を織り込みながら五
た岡部四溟(一七四五~一八一四)、和歌山藩士の菊池衡岳(一七四
その後、白賁墅がどのようになっていったのか、耆山門下の俊英で
孰愁暴雨懸
集飲草堂晩
烟色松蘿古
画図 猿鶴全し
持って書き留めている。南郭の後継・白賁(一七一四~六七)が没し
此日誰称植
画図猿鶴全
依々として蕙帳に隨ふ
て十年ほどを経た安永五年(一七七六)には、青山百人隊騎士であっ
集飲す 草 堂の晩
孰か愁ん暴雨の懸を
依依随蕙帳
再成の年を賀するに似たり
(耆山『青山樵唱集二篇』)
似賀再成年
(秋元小丘園『小丘園集初編』巻之五)
山荘 経 過少なく
山荘経過少
白賁墅、荒に就き、社友相資して検校す
風露易荒凉
風露 荒 凉易し
蒿径 蕪 草を開き
蒿径開蕪草
重貫茅茨白
蔭茅宇
期を共にし幽趣長し
賀燕 巣 を梁に覓む
重貫の茅茨白く
節去菊猶存
堦空苔自上
牀頭古画猿
帳裡聴鳴鶴
白賁訪荒園
青山辞負郭
節去り菊はなほ存す
堦空しく苔自ら上り
牀頭
帳裡
榛路を披き
画猿を古たり
鳴鶴を聴き
白賁荒園を訪ふ
青山負郭を辞し
(墅
は東都城西渋谷村に在り。もと南郭先生の営む所なり。
壁上に忍海上人の猿鶴あり)
共期幽趣長
菜を剪る
旧林泉
憶ふ昔
客門に満つるを
林亭作茸墻
剪菜蔭茅宇
席を移す
憶昔披榛路
追随す
林亭 茸 墻を作す
嘯猿 画 壁に存し
移席旧林泉
虚室更めて白を生じ
追随客満門
嘯猿存画壁
虚室更生白
梧に拠りて宜しく玄を草すべし
賀燕覓巣梁
據梧宜草玄
84
(
(
白賁墅の所有は、白賁の養嗣子である服部赤羽(名・元立、字・仲
と南郭の詩を踏まえ、白賁墅の閑寂な様子を詠嘆する。さらに二十年
(大田南畝『杏園詩集』巻之二)
二句にみえる「荒園」の語をうけ、その具体的な様子を頸聯から尾
近くを経た文化五年(一八〇八)にはその随筆『一話一言』巻十八に
山、一七三六~一八〇八)に移っていた。ここでも忍海の「猿鶴図」
聯にかけて活写し、賑やかかりし往事のありさまを思い描く。南畝ら
「白賁墅」と題し、
三名に大森華山(一七五一~七九)を加えた四名は「牛門四友」と称
しく、そのような思いが懐古的な表現となって詩にあらわれる。それ
あたる南畝からしてみれば、白賁墅は敬慕すべき風雅の象徴だったら
今みえず。)庭に大きなる高野槙の樹あり、堂に竹簡篆書の額あ
あり。門に題門の七律の額をかく。(此額誰人か蔵せしやらん、
南郭服先生(元喬、子遷)白賁墅の別荘は渋谷羽沢といふ所に
された作詩仲間であり、ともに耆山から詩を学んだ。南郭の孫弟子に
から十四年の時を経た寛政二年(一七九〇)、南畝は門人らとともに
東隣松樹至今存
西嶽芙蓉廻望出
帳裏人空叫暁猿
牀頭画古余棲鶴
茅茨欹側鎖柴門
赤羽先生白賁園
傷情但に山陽の笛のみならず
東隣の松樹 今に至りて存す
西嶽の芙蓉 望を廻って出で
帳裏
牀頭
人空くして暁猿叫ぶ
画古りて棲鶴を余し
茅茨欹側して柴門を鎖す
赤羽先生の白賁園
(
(
と綴っている。服部白賁の『蹈海集』巻之六にも抽象的な表現で文飾
(
は、見るめもいぶせかりき。…
ば一諸侯のために豪奪せられて、拙き筆して猿鶴を補ひ画がける
字、先生の自筆なりき。近き頃ゆきてみしに、忍海の猿鶴の画を
子に蟒緞のきれをはり、金地の扇を二枚おして、夜鶴怨暁猿驚の
木を画き、障子に鶴を画く、忍海上人の画なり、袋棚の二枚の障
り。豳風七月の脱簡にして諏訪侯の賜なりとぞ。床の壁に猿と古
傷情不但山陽笛
伐木丁丁たり処処の村
何来の白雪の光、と。)
(
(大田南畝『南畝集八』)
右白
賁墅(南郭服子遷先生の墅、渋谷羽沢に在り。壁上、猿
鶴を画く。先生の詩に言ふ、東隣幸ひに借る青松の色、西嶽
伐木丁丁処処村
春日、徐徳卿、井子瓊、鈴一貫と同じく西郊に遊ぶ。五首
渋谷近辺を訪れ、再び白賁墅に立寄って七言律詩一首を詠じている。
画についても詳しく触れており、床の間に「古木猿猴図」、襖に「鶴
か ら、 特 に 注 目 し て 書 き 残 し た の で あ ろ う。 ま た、 忍 海 に よ る 障 壁
た。この詩は南畝の字の一字「耜」と、号の二字「南畝」を含むこと
り、『詩経』「国風・豳風」のうち「七月」の一部が抜き書きされてい
高 島 藩 五 代 藩 主・ 諏 訪 忠 林( 一 七 〇 三 ~ 七 〇 ) に よ る 篆 書 の 額 が あ
むしろこちらの方がわかりやすい。屋内には南郭と親交のあった信濃
した「白賁亭の記」という一文を載せるが、具体的な様相については
(5
図」を描き分けたものであったとわかる。そしてアイヌ製の「蟒緞」
85
(4
(4
驚」の三句ずつを南郭自らが書した二枚の扇面が貼られていたとい
して、これに豊かなるに至らんや。世或いは寺に住して欲楽に放
た師の至誠の衷によるなり。然らずんば何ぞそのこれを己に刻に
うち
こと深し。もとより親炙の熏するところといえども、そもそもま
う。ただし、忍海の「猿鶴図」はすでにいずれかの大名によって持ち
縦し、衣食精美を窮めてしかして供養の事に至りてはかつて奴隷
裂 で 飾 っ た 袋 戸 の 上 に は、 画 に 合 わ せ る よ う に「 夜 鶴 怨 」 と「 暁 猿
去られ、近年に訪れた際には別手の拙い「猿鶴図」が据えられていた
の給にだもしかず。いずくんぞ一人師のごとき者をその間に望ま
きわ
とする。それは忍海が描いてからおよそ五十年後のことであった。
恙 (軽い病気)あり。ついに六月十七日をもって西に向い念仏し、
師、 宝 松 に 住 す る こ と 十 余 年、 宝 暦 辛 巳 ( 一 七 六 一 )の 夏、 微
もって師門、常に雑賓多し。各々その好む所に従いてしかも為に
け だ し こ れ 師 の 摂 折 時 に 適 い て 衆 生 を 饒 益 す る 者 な り。 こ れ を
山甫の徳か。いわゆる仁にして不武なればよく達することなし。
んや。その寛裕温柔にして時ありて剛もまた吐かず。これそれ仲
安然として化す。気息すでに絶して念珠を すること止まず。夜
説法すれば、すなわち列侯搢紳及び游芸衆庶、師を見る者みな厭
や
はあにその志ならんや。すでにすでに璞玉渾金を質有し、しかし
ず。これによりて遂に愛海を絶たん。直に彼岸に向う。奪うべき
わゆる柳下恵を学ばんと欲せば、いまだこれより似たることあら
閑して、愛欲に牽かれず。惑わすべきはあにその心ならんや。い
古今人の発心、その縁けだし多し。今師のごとくはよく自ら防
その徳行に至るは、すなわちすべて掃て蔑たり。また爽やかなら
し。しかして世の月旦の者、いたずらにその工画を誦するのみ。
年。 い ま だ は な は だ し く は 遠 か ら ず 。 か つ 師 を 知 る 者 、 な お 多
りいかんせん。古今伎芸の実徳を蔽うや。師の没後、ここに十八
な。師の徳や、教行密律、各々一家を備成せざることなし。ひと
ん や。 こ こ に も っ て そ の 生 平 熏 練 の 功 を 識 る。 ち か ご ろ あ る か
ほうむ
半すなわち竭む。寿六十六。夏臘若干、闍維 (火葬)して浅草正
あらわ
足なし。いわゆる普門示現にあらずや。初めその父母、大士に祈
そ
往院、先父母の塋側に葬る。弟子二人、長は黙導、次は大鵬。み
得するゆえん、厥の徴る。すなわち今これを見る。その気息すで
て 東 諮 西 詢、 諸 名 徳 に 追 琢 し、 瑩 然 と し て つ い に 如 意 宝 器 を 成
ずや。いわんやまた弟子みなすでに流落して師の名徳を伝うる者
おと
な惰弱失行して師の名徳を隕す。哀しいかな。
す。むべなり、その手、常に無盡の宝を出し、書画図様、工巧玅
なし。余、不敏といえどもかつてその法澤に沐する日深し。すな
に絶えてしかして念珠止まず。それよく終りあると謂わざるべけ
を得てもって諸の仏事を施作し、その供養する所の繒蓋幢幡、衣
わ ち 已 む こ と を 獲 ず、 し ば ら く 見 聞 す る 所 の 者 の 数 條 を 記 し て
賛に曰く、
服飲食、珍玅華香、荘厳の具、意に随て厳浄光麗なるや、師の奉
もって不忘に備うることかくのごとし。
おお
仏は謂うべし、思を盡し、力を盡す者と。吾が黨の士、ややもす
すくな
安永戊戌の冬、泉谷隠士恵頓撰
かく
ればすなわち跳びて理に匿れ、事相に慢なる者のまた鮮からず。
それ恭敬尊重の脩、これを何とか謂わん。敬首和上これを誡める
86
止めなかったという。葬られた浅草の正往院は関東大震災で罹災し、
かって念仏しつつ息を引き取った。それでもなお、数珠を揺するのを
宝 暦 十 一 年( 一 七 六 一 ) 六 月 十 七 日、 病 を 発 し た 忍 海 は 西 方 に 向
る。
す 母 親 は、 享 保 十 八 年( 一 七 三 三 ) に 亡 く な っ た 左 の 女 性 と み ら れ
善くす。のち師の教えを奉じてもっぱら念仏し、終りを善くす」と記
方、「忍海上人伝」が「賢明の婦人にて和学に熟し、国風(和歌)を
享保二酉十一月廿二日」、右に「香馨院浄誉聚雲清祐大
誉大冲上人」以下数名の法名があり、左側面の中央に「聚香院清誉宇
一 方、『 当 麻 変 相 私 記 』 や「 忍 海 上 人 伝 」 の 記 述 か ら は「 当 麻 曼 陀
において、忍海が私的に画を描いたことは詩文集などに散見される。
服部南郭や本多忠統、秋山玉山などの漢学者や増上寺学僧との交流
三、忍海の画業について
昭和二年(一九二六)に世田谷北烏山の寺院通りに移転している。墓
寶暦十一辛巳歳六月十七日寂」と
碑は墓地最奥部東向きに建てられ、正面に「寶蓮社曇譽上人忍海和尚
墓」
、背面に「芝山寶松院第九世
)
。なお、向かって右側面には「忍誉覚順和尚」、「海
享保
刻まれる(図
姉
羅」を多く手がけ、阿弥陀如来像をはじめとする諸尊や祖師像など、
元禄十一寅五月十九日」
、左に「馨聚院願誉香雲智清大姉
白祐和居士
十八丑十月十六日」と三名の法名と没年がみえる。中央は父親と見ら
主に寺院で使用する公的な作品の制作も明らかとなる。生涯の大半を
(
所 蔵 さ れ る も の な ど 数 本 が 確 認 さ れ て い る。 増 上 寺 所 蔵 の『 五 天 竺
(
跡を、インドの地図によって辿った絵図である。現在、奈良法隆寺に
『五天竺図』とは唐時代に取経を目的として西遊した玄奘三蔵の足
図』二作品の模写はともに貫主の肝煎りであった。
過ごした増上寺内でも作画を行っており、『五天竺図』と『縁山勝景
れ、 忍 海 二 十 二 歳 時 の 享 保 二 年( 一 七 一 七 ) に 亡 く な っ て い る。 一
忍海墓(正往院/東京都世田谷区北烏山)
図13
勘を行っている。さらに十二月には忍海がそこに彩色を加え、残る五
碩、定月の三名が模写を担当し、了月、奚疑、順真の三名が文字の校
忍 海 以 下 六 名 の 学 僧 で あ る。 こ の 作 業 は 十 一 月 に 行 わ れ、 忍 海、 了
のであった。この時、頓秀は副本の制作を命じ、模写にあたったのが
寺四十一世の頓秀(伝蓮社通誉・一六六六~一七三九)に寄進したも
を転写し、元文元年(一七三六)、仏法のさらなる興隆を願って増上
図』は、京都小松谷正林寺の慧空が東寺に秘蔵されていたという原本
(5
人は更なる校勘を加えて『西域図麤覆二校録』一巻を完成させた。そ
87
13
図14 『五天竺図』
(
『大日本仏教全書114 遊方伝叢書第2』所載図)
(
)。
の後、慧空寄贈の原本は増上寺の法蔵に収められ、模本および『西域
(
図麤覆二校録』一巻は増上寺宝松院に伝えられたという(図
14
絵 方 」 と 評 さ れ、 さ ら に そ の 説 明 と し
に画家として掲載される六名のうちの一人である。「人にさわらぬ夜
更 の 月 そ く( 蝕 ) 了 月 和 尚
て「画道の名人、かるがるしくなされぬで、一入おく深い、つよい所
が二人とない、当顔見世墨絵の大臣と成、まやだら丸忍海どのをうや
まふ所、いかにもおとなしい仕内と申、年のよるはおしや」と記され
る。師の了也(念蓮社貞誉・一六二九~一七〇八)が増上寺三十二世
の貫主であったとき、しばしば陪して五代将軍・綱吉に拝謁したのを
(
(
きっかけとして、幕府奥絵師・狩野常信(一六三六~一七一三)の指
導を仰いだという。享保元年(一七一六)には目黒祐天寺を創建した
(
し取っている。なお、雪舟流をよくした関良雪はこの了月の門人であ
(
さらに同三年七月十六日には遷化直後に呼ばれてその臨終の真影を写
増上寺三十六世の祐天(一六三七~一七一八)八十歳の肖像を描き、
(5
一)は画僧として知られる月僊(一七四一~一八〇九)の才能を認め
て紫衣を許されている。また、定月(観蓮社妙誉・一六八七~一七七
世、鎌倉光明寺の六十五世となった人物で、八代将軍吉宗の帰依を得
十 一 に は、 宝 暦 八 年( 一 七 五 八 ) 秋 に 忍 海 が 書 し た「 縁 山 十 二 景 画
る。文政二年(一八一九)に刊行された増上寺の寺誌『三縁山志』巻
られる古澗明誉(一六五一~一七一七)が描いた増上寺の境内図であ
次に『縁山勝景図』とは、浄土宗において忍海以前の画僧として知
( (
て 名 を 与 え た 師 と し て 知 ら れ、 増 上 寺 四 十 六 世 と な っ た 人 物 で あ っ
( (
後」という記を収める。
ていたことを物語る。
彩」を忍海ひとりが担当したのは、増上寺内でもその技量が評価され
れ る。 特 に「 画 図 」 担 当 の 筆 頭 に 位 置 し、 か つ 彩 色 を 意 味 す る「 填
かで絵心があると知られた人物を中心に人選が行われたものと推察さ
ち『古画備考』には了月、定月の二名が掲載されており、増上寺のな
戸崎大念寺二十一世、知恩院五十三世となった人物であった。このう
る。残りの奚疑(成蓮社巌誉)と順真(巌蓮社麗誉)は、それぞれ江
(5
た。一方、校勘を担当した了月(神蓮社霊誉・一六八五~一七五八)
模写を担当した了碩(讃蓮社礼誉)は、のちに下谷幡随院の二十二
(5
は、先に引いた宝暦八年(一七五八)頃成立の『冬至梅宝暦評判記』
(5
(5
88
て遁辞と為すのみ。
や」と。上人乃ち笑ひて是とす。ただ余の不才、幸ひに此れを以
曰く、
「古人、詩中に画あり、画中に詩ありと云はざるにあらず
こ れ を 画 き て、 余 ま た こ れ に 賦 し て 何 の 謂 を 曰 は ん や 」 と。 余
列に在らんことを請ふ。余、これを戯れて諸賢に曰く、「すでに
して一時の諸賢をして各々詠ずるところあらしむ。余もまたその
なり。上人、遂に画に就きて命じてその間の十二勝に題し、しか
なり。則ち今筆削する所は、妄固といへどもまた恤はざるところ
り。またただ好尚同じからずして、然してその志に隨ひて至る所
已にして経営既に成るも、旧図と比校して類せざる者往々これ有
諄々として已まず。故を以てその梗槩を貌り、聊か委命を塞ぐ。
ね拙を以て解する者多し。然りといへども上人の懇、敦篤にして
りなり。況んや余の疎懶におけるや、人或ひは請ふこと有るも率
羅列し、則ちその玄趣壮麗、拙技のよく画く所にあらざるは固よ
ふ。縁山の大刹・園陵・殿堂・茂林・幽谷、鬱乎としてその中に
人覧じてこれを愛し、余をしてこれを摹せしめんと欲し、我に願
古澗長老図す所の縁山勝景、その徒あい伝へて珍蔵す。霊応上
として名を成した関思恭(一六九七~一七六五)によって書されたと
は忍海を通じてなされたとみるのが自然であろう。なお、各詩は書家
誉)であった。その多くが南郭門人か深交をもった人物であり、依頼
人の秋元小丘園(?~一七八三)、幡随院四十四世の大梁(観蓮社洲
人伝」を著した小机泉谷寺二十世の恵頓(一七二五~八五)、南郭門
白 賁 の 後 継・ 安 田 赤 羽( の ち 服 部・ 一 七 三 六 ~ 一 八 〇 八 )、「 忍 海 上
釈香谷、南郭門人で丹波篠山藩士の辻湖南(敏樹・一七〇二~?)、
南郭門人で旗本書院番士の榊原卮兮(一七二九~九二)、詳細不詳の
四 ~ 六 七 )、 増 上 寺 浄 光 窟 の 曇 龍( 昇 蓮 社 騰 誉・ 一 七 二 一 ~ 七 二 )、
番士の鵜殿士寧(一七一〇~七四)、南郭の後継・服部白賁(一七一
の曇海(清蓮社浄誉・円海・?~一七七二)、南郭門人で旗本御書院
に大徳寺三五六世の大川義浚(一七〇三~六二)、深川霊巌寺十七世
「円山月」「聳天塔」「翠柳井」「北渓雪」のことで、詩を詠じたのは順
楽 橋 」「 白 蓮 池 」「 五 雲 路 」「 紅 楓 磴 」「 垂 桜 蹊 」「 涅 槃 石 」「 望 嶽 亭 」
しまうと冗談を交えつつ断った旨を記す。十二景とは「万松林」「極
れば、王維の句「詩中に画あり、画中に詩あり」とは言えなくなって
忍海にも一景が割り当てられたが、画を描いたうえに詩も詠じたとな
いう。
増上寺四十九世の霊応(安蓮社豊誉・一七一三~七八)から、増上
い。そこで以下では、これまでに調査を終えた作品について論述し、
実作品については書籍や展覧会などで紹介されることはほとんどな
宝暦戊寅秋日 海雲、無礙草堂中に書す
寺に伝来した古澗筆『縁山勝景図』の模写を依頼された忍海は、画が
その根本に存在した作画精神を探っていく。
このように資料からは多岐にわたる忍海の画業が明らかとなるが、
拙なくうまく写すことはできないとの理由でしばらく留保していた。
けれどもその懇願篤かったため、原本に取捨を加えつつ自身の好尚を
反映させて描くことで責任を果たしたとする。霊応はこの勝景から十
二の景を選定命名し、交流のあった諸賢に五言絶句の詠を依頼した。
89
a、帰去来図(口絵
)
縦三九・七センチメートル、横五七・四センチメートル、紙本墨画
以孤往或植杖而耘耔登東皋以舒嘯
臨淸流而賦詩聊乗化以帰盡楽夫天
命復奚疑
一字あたり五ミリメートル前後の大きさで二十二行に収め、文末に
忍 海 」 と 署 す こ と か ら、 享 保 十 二 年( 一 七 二 七 )、
飛而知還景翳々以将入撫孤松而盤桓
流憩時矯首而遐観雲無心以出岫鳥倦
園日渉以成趣門雖設而常関策扶老以
柯以怡顏倚南窓以寄傲審容膝之易安
存携幼入室有酒盈罇引壺觴以自酌盻庭
載奔僮僕歓迎稚子候門三径就荒松菊猶
前路恨晨光之憙微乃瞻衡宇載欣
舟遙々以軽颺風飄々而吹衣問征夫以
者之可追寔迷途其未遠覚今是而昨非
形役奚惆悵而獨悲悟已往之不諫知来
画面の構成は下半を俯瞰で描いて近景とし、上半中央に三峯の山を
り組んだ浄土僧も「大乗戒」、「菩薩戒」の典拠として尊重している。
慈悲心を強調して積極的な衆生救済を説くことから、戒律の復興に取
かわらず、仏道に志す者が守るべき十重四十八軽の戒めを掲げ、特に
亦如瓔珞珠」を組み合わせたものである。『梵網経』は出家在家にか
いう語は、『梵網経』の序説にある偈頌四十六句のうち「戒如明日月
目の語である。一方、文頭に捺された朱文長方印の「戒如瓔珞珠」と
空のようであると知っても驚くことがない」という安住心を示す十番
空忍」とは、『華厳経』で説かれる「十忍」のうち、「一切の事象が虚
(一七三八)に成った『白華印譜』に収められる。前者の印文「如虚
忍 」、 白 文 の 五 岳 図 印 の 二 顆 を 捺 す が、 後 者 と 同 じ 印 影 は 元 文 三 年
陶淵明」として全文
淡 彩 の 横 幅 で あ る。 本 図 は 東 晋 時 代 の 末 に 生 き た 陶 淵 明 の「 帰 去 来
辞」を絵画にした作品で、画面右上に「帰去来
を書す。
「享保丁未春写
)。その左には朱文方印「如虚空
帰去来兮請息交以絶游世與我而相遺
重ねて遠景とする。近景左半を土坡として左寄りに屋宇を構え、右側
忍海三十二歳春の作とわかる(図
復駕言兮焉求悦親戚之情話楽琴書以
水 上 に は 今 ま さ に 帰 り 着 こ う と す る 陶 淵 明 を 乗 せ る 舟 を 配 す る( 口
帰去来兮田園将蕪胡不帰既自以心為
消憂農人告余以春及将有事乎西疇或
絵
)。船着き場では二人の僮僕が迎え、舟との間、上空に三羽の鳥
命巾車或棹孤舟既窈窕以尋壑亦崎嶇
15
1
宇内復幾時曷不委心任去留胡為遑々
物之得時感吾生之行休已矣乎寓形
而経丘木欣々以向栄泉涓々而始流善万
菊がみえ、後景中央に聳える山は南山を指すとわかる。敷地内の汀そ
た衝立を据える(口絵3)。稚児が覗く柴門そばの籬には詩に詠じた
「飲酒二十首」其五にみる五六句「採菊東籬下
がみえる(図
(
(
16
(5
悠然看南山」を書し
)。屋内には酒の入った瓶の側に妻が立ち、淵明の詩
欲何之富貴非吾願帝郷不可期懷良辰
2
90
図15 「帰去来図」部分
図16
91
同
部分
上に伸びて屋宇を覆う。山にかかる雲と飛鳥は、「雲は無心にして以
「松菊なお存す」や「孤松を撫して盤桓す」と詠われた太い幹の松が
表現は室町時代の山水画やその背後にある宋元絵画を意識したものと
や忠統は狩野派の衰退を嘆じて「復古」を主張したことから、本図の
風な構成に他の流派意識が明確に反映されているわけでもない。南郭
なお、描法には狩野派のように定式化した様態は見られず、その古
て岫を出で、鳥は飛ぶに倦みて還るを知る」という句をあらわしたも
とらえるべきであろう。遠山や流水、松の枝の表現などに、その片鱗
ばに陶淵明の号「五柳先生」の語源となった柳が植わり、画面左端に
ので、さらに後者は「飲酒二十首」其五の八句「飛鳥相与還」をも踏
が窺える。南郭には、雪舟の「富嶽図」を忍海が模写した作品に寄せ
継承し、
「帰去来辞」を収録した中国南北朝時代の編纂にかかる詩文
た頃にはすでに交流があったであろう服部南郭は荻生徂徠の学問を
え ず、 情 緒 を 留 め た バ ラ ン ス の 良 い 作 品 と な っ て い る。 本 図 を 描 い
てその後の狩野派や文人画家が描いたように説明的なくどい様相は窺
「帰去来辞」を理解したうえで忠実に絵画化しているが、かといっ
ころ、ほのかに夕陽が照っている有様を表現している。
や「飲酒二十首」其五の七句「山気日夕佳」の景、つまり日没寸前の
した金泥が認められる。これは「景翳々として以て将に入らんとす」
した部分や遠山の右側、土坡や舟の上部に描く対岸には薄く引き延ば
根と妻の着物などを代赭で彩る。さらに画面右上の「帰去来辞」を書
とした闊達な筆遣いが認められる。人物の顔を肌色で塗り、屋宇の屋
て重ね、形態を整える。特に松の枝や水流、舟を進める棹などに軽々
命画春卿署中壁
大国君臣宮殿開
名達明庭引見催
壮遊燕京探奇絶
飄々遠航滄海西
維昔雪舟舟載雪
上人顧指為我説
壁観
海雲上人謄奇迹
芥帯乾坤呑海隅
雪舟方外遊墨戯
俗工衰落気韻無
平生数見芙蓉図
大国の君臣 宮 殿開く
命ぜられて画く春卿署中の壁
明庭に名達して引見催し
燕京に壮遊して奇絶を探る
維昔雪舟 雪 を舟載す
飄々として遠く航す滄海の西
上人顧指して我が為に説く
海雲上人 奇 迹を謄し
として名山孤なり
乾坤を芥帯として海隅を呑む
雪舟方外墨戯に遊び
俗工衰落して気韻なし
平生しばしば見る芙蓉の図
た「芙蓉の図を観る引」という詩がある。
まえるのであろう。
描法は岩や遠山、人物など、およその景物をやや太めの中墨線でか
集『文選』を尊重していた。この大部の『文選』をすべて句読した南
筆下生動春風回
たどり、人物や屋宇に細めの濃墨、岩や遠山に太めの濃墨を輪郭とし
郭の『文選正文』十二巻は、門人の片山兼山によって出版され、その
闔国衆工無儔匹
満朝嗟賞す 妙 絶なるかなと
さらに明人の為に神嶽を写す
筆下生動 春 風回る
闔国の衆工 儔 匹なく
壁観
後において最も入手しやすい『文選』の和刻本として広く活用されて
満朝嗟賞妙絶哉
名山孤
いる。徂徠学派の影響で漢学熱が高まりつつあったなか描かれた本図
(
更為明人写神嶽
(
は、江戸中期における陶淵明再評価の魁としても注目される。
(5
92
秦漢昔嘗漫相覓
座上驚見金銀台
秦漢昔嘗て漫りに相覓め
座上驚き見る金銀の台
・図
ころが多かったとみられる。
b、千手観音像(口絵
) 清浄華院(京都市上京区)
鐵冠道人詹仲和
の掛幅である。画面左下に「沙門海云拝画」と署し、続けて金泥で正
始めて知る日本これ蓬莱なるを
鐵冠道人詹仲和
詩を作りて瞻仰し 意頗る多し
方形を形づくったあと、縁と「海雲」の文字を朱で描いて印形とする
(
作詩瞻仰意頗多
ただ恨むらくは名山と名筆とに
(図
聴此斂容暫瞪視
南郭野翁蹶然起
即今此土追飛仙
名画通霊如蝉蛻
帰本扶桑日出辺
此図何人携得伝
由来瀛海五雲の中
南郭の野翁 蹶
然として起く
これを聴きて容を斂めて暫く瞭視す
即今この土に飛仙を追ふ
帰本す扶桑 日
出の辺
名画 霊に通ずるは蝉蛻の如し
この図何人か携得て伝へ
音を描き、蓮葉形の宝蓋を頭上に飾る。肉身部分を金泥で塗り、膝に
装まで完備して開眼供養が行なわれたとわかる。
(量蓮社経誉・一六五八~一七〇七)門下の実元によって依頼され、
求」と記される(図
内 側 に は「 延 享 五 戊 辰 二 月 八 日 吉 祥 起 筆
即
由来瀛海五雲中
窟宅の神仙長く死せず
懸かる裳も同様に彩るが、肉身の輪郭は赤でくくるのに対し、裳は墨
)。この記録から、本図は増上寺の役者・寿元
實元上人
窟宅神仙長不死
峻極さらに真芙蓉あり
によっている。顔は白目に胡粉を加え、上瞼と黒目に濃墨を重ねる。
小 白 花 沙 門 忍 海 雲 敬 画 併 誌( 花 押 ) 応
峻極更有真芙蓉
彼の国の人 よく知るやいなや
画面中央には、下に獅子の伏せる八重蓮華座に結跏趺坐する千手観
延享五年(一七四八)二月八日に描き始め、一ヶ月後の三月八日に表
此日開光供養
彼国之人能知否
眉毛、鼻孔、口角にも濃墨を重ねてそれぞれを強調し、髭を淡墨の線
一として重んじたが、日本の画人のなかでは中国に渡ってその自然に
画楼記」を踏まえ、雪舟の伝記について触れる。南郭は宋元絵画を第
後半は文明八年(一四七六)の記になる禅僧・呆夫良心の「天開図
す る。 同 様 の 装 飾 を 宝 蓋 と 膝 か ら 下 の 台 座 部 分 に も 垂 ら し、 画 面 を
がら、緑、青、赤、金の円形を連ねて連珠垂飾とし、彩り豊かに表現
に墨でくくっている。瓔珞は中心部に白か金を塗った珠を取り混ぜな
したあと、金泥で文様を描き、さらに赤や緑で彩る。輪郭を裳と同様
描であらわす。合掌手、定印手にかけて肩から垂れる天衣は白を塗布
直接学び、北宋末期の楊補之を慕った雪舟だけは特別視した。忍海も
華やかに荘厳する(図
)。観音の背後には身光と頭光からなる二重
同じ僧侶かつ画人として牧谿のみならず、雪舟も敬慕の対象としてお
(服部南郭『南郭先生文集三編』巻之一)
22
円光背が覆い、強い意志により障難を焼き払う象徴としての火焔光を
同三月八日厳飾成就
)。作品を収める箱蓋の上面には「千手眼観世音尊像」とあり、
(
但恨名山与名筆
壓倒せられて嵬峩を闘しむるに足らず
始知日本是蓬莱
17
縦六九・七センチメートル、横二八・〇センチメートル、絹本着色
4
壓倒不足闘嵬峩
(5
り、水墨主体の作品においては、先達としての彼らの筆墨法に倣うと
93
24
18
図17 「千手観音像」全図
京都・清浄華院蔵
94
図18 「千手観音像」部分
図19
95
同
持物名称
外縁に巡らせる。背景のすべてを埋めるようにゆらぐ細線を金泥で描
き、身体の毛孔から発せられる光明の表現とする。
本手の二臂を法界定印として表現するため、造像例としてはあまり見
ない四十四臂の像容となっている。なお、下に獅子が伏せる蓮華座は
)、同経の冒頭に「一時釈迦牟尼仏、補陀落迦山の觀世音宮殿
土三部経のうち『無量寿経』や『観無量寿経』においては阿弥陀如来
薩普門品」に説かれることから、天台宗に造像例が多いが、一方で浄
眼のある千の手を有する。観世音菩薩は『妙法蓮華経』の「観世音菩
眼観世音菩薩」といい、衆生を余さず漏らさず救うため、それぞれに
であろう。「獅子座」は文殊菩薩に限らず、仏の坐す台座として一般
殿で説法したという状況にあるから、本来は観音の座であるとの解釈
れる。「宝獅子座」に坐すのは釈迦であるが、補陀落迦山の觀世音宮
を以て荘厳に用い、百宝幢旛、周匝懸列す」とあるのに則ると推察さ
宝荘厳道場の中に在りて宝師子座に坐す。その座、みな無量雑摩尼宝
(口絵
の慈悲を象徴する尊像とされ、浄土宗でも信仰対象となる。忍海の場
的に使用される呼称である。法然の彫像もこの獅子の伏せる蓮華座に
変化身である観世音菩薩の一形態・千手観音は、正確には「千手千
合、 両 親 が 千 手 観 音 に 祈 っ た 功 徳 で 自 身 が 誕 生 し た と 聴 い て い た か
座す姿であらわされることが多い。
実 は 本 図 と 同 じ 図 様、 同 じ 法 量 を 有 す る も う ひ と つ の「 千 手 観 音
)。 像 容 は 部 分 的 に 色 を 変 え た
像 」 が 伝 わ っ て い る( 図
當山十二代
・
『 千 手 千 眼 観 世 音 菩 薩 広 大 円 満 無 礙 大 悲 心 陀 羅 尼 経 』 が あ る。 こ こ に
り、宝箭の鏃を三日月状から雁股状に改めるなど、わずかな差異が認
・
は「願すでに心に至らば我が名字を称念し、またまさに我が本師・阿
められる。興味深いことにまったく同じ表装裂を用いるほか、通常よ
(
弥陀如来を専念すべし」や、
「専ら名号を称ふれば、無量の福を得、
りも少し高さのある同材同寸の桐箱に収める。蓋の上面には「第拾十
(
無 量 の 罪 を 滅 し、 命 終 ら ば 阿 弥 陀 仏 国 に 往 生 す 」 な ど と あ る こ と か
六号
靏譽」と記すが、「千
ら、浄土信仰との結びつきが窺われる。日本での造像において千臂に
手眼観世音尊像」のみ清浄華院本と同じ書体と判断でき、それ以外は
小白花沙門忍海
)。この存龍とは、相蓮社貌誉という増上
存龍上人求」とあり、依頼主が実元ではな
即此日開光供養
側にはやはり清浄華院本とほぼ同じ書式書体で「延享五戊辰二月八日
く存龍となっている(図
同三月八日厳飾成就
い。手に執る持物の詳細は『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心
)
、三十四番目に挙げられる「合掌手」は胸前で二臂を合わ
寺花岳院の学僧であろう。全く異なる場所に伝来した作品であるにも
来の化仏を戴くいわゆる「清水寺式」で表現する(口絵
せる表現、三十九番目の「頂上化仏手」は頭上で掌を重ねて阿弥陀如
23
かかわらず、以上のように符号する点が多く、いずれかが模本である
が(図
吉祥起筆
靏譽」という人物の詳細は不明である。内
寄附
作られた例は、葛井寺や唐招提寺など奈良時代から平安初期までの作
墨色や書体が異なることから、後から加えられたものとみられる(図
千手眼観世音尊像
品がみられるくらいで、それ以降はそれぞれが二十五の世界を救うと
24
陀羅尼経』に説かれ、釈迦が千手観音の功徳を四十の手になぞらえて
)。なお、「當山十二代
21
雲敬画併誌(花押) 応
の 解 釈 で 四 十 手 に 省 略 さ れ、 本 来 の 二 手 と あ わ せ た 四 十 二 臂 像 が 多
20
手観音の功徳を説く代表的な経典として、七世紀中頃の成立とされる
ら、念持仏として特に奉拝したことが「忍海上人伝」に記される。千
6
挙げる四十品に則られる。本図もこれを踏まえて四十品を忠実に描く
22
(6
)。これに
19
5
96
図20 「千手観音像」全図
97
個人蔵
図21 「千手観音像」 部分
98
図23
同
上蓋裏 (右・個人蔵
図25
同
落款
99
清浄華院蔵
左・清浄華院蔵)
図22 「千手観音像」上蓋表
(右・個人蔵 左・清浄華院蔵)
図24
同
落款
個人蔵
図27
同
上蓋表
図26 「阿弥陀如来像」
図28 「当麻曼陀羅図」のうち
「定善義・真身観」元禄15年(1702)
京都・知恩院蔵
101
図29 「阿弥陀如来像」部分
102
ニング法とも言え、西方極楽浄土にいます阿弥陀如来を実体として思
このうち「定善義・十三観」は、極楽往生するためのイメージトレー
界智なくして、ただ四智の心品と立つ。ただ浄土の五智のみ、一
各々の功能を施す。法相は四智を立て、一身に具れども第五の法
真言に五智を立るも、四智、四方に位して中智に即かず。四智は
(
い浮かべる観想の階梯を示す。「真身観」は「仏身観」ともいい、阿
身に五智を具足し、不共の所立なり。
麻曼陀羅」は宝幢を二本しか描かないのに対し、本図は四本をあらわ
は修行する姿としての「報身仏」の根本であるが、浄土宗において特
し、「五智」と阿弥陀如来は即の関係であって不離ではない。「五智」
つ ま り 宝 蓋 や そ れ を 支 え る 四 宝 幢 は 阿 弥 陀 如 来 の「 五 智 」 を 象 徴
(
弥陀如来本体を観想する九番目の段階である。「当麻曼陀羅」での図
様は、蓮華座に結跏趺坐する阿弥陀如来を描き、頭上に宝蓋、背後に
)。ただ「当
す。元禄十六年(一七〇三)
、義山(一六四八~一七一七)によって
に「五智」というときには阿弥陀如来の一身に備わるととらえ、密教
菩提樹をあらわし、その構成は本図と同様である(図
著 さ れ、 そ の 後 の 浄 土 宗 で「 当 麻 曼 陀 羅 」 解 釈 の 根 本 資 料 と な っ た
(
で説くように四方に位置するとは見做さないとしている。
(
に立てて宝蓋を張るのが役割であるから、二本しか描かないのは省略
された表現であると指摘する。また、忍海の師・敬首による「当麻曼
報身の相は宝冠、瓔珞、宝衣にて荘厳す。今変相、応身の形のご
の相を異するを表す。故に天冠を去るなり。かの極楽世界には実
とくなるは、しばらく娑婆の機に応じるが故に、仏と菩薩とはそ
宝蓋の相とはこれ、仏智を表す。仏智は総智の故、四智の四幢を
に天冠、瓔珞種々荘厳す。
弥陀もし五智を離れば弥陀にあらず。五智ももし弥陀を離れば五
智の所なり。故にこの五智は仏身荘厳中おいて最も第一となり、
となり、浄土を建立して光明名号を以て十方を摂化す。皆これ五
いて悟りを開き、一切の装飾を取り去った衲衣のみで人前に現れて済
は宝冠や瓔珞などを身に着けて荘厳しているものであり、この世にお
という。西方極楽浄土にある「報身仏」としての阿弥陀如来は、本来
という。そもそも浄土宗の開祖である法然は比叡山で修行し、先達で
いをあらわすためであり、便宜上そのように表現しているに過ぎない
仏」の姿で描くのは、悟りを開いた如来といまだ修行中の菩薩との違
度する「応身仏」とは異なる。「当麻曼陀羅」が阿弥陀如来を「応身
と記し、さらに忍海はこれを補って次のように述べる。
も中智を具す。故にその色黄金なり。
智にあらず。五智は即弥陀、弥陀即五智なり。西方に位してしか
すなり。およそこの五智は報身如来根本の躰なり。故に阿弥陀仏
覆ふて上方に在り。この四宝幢・宝蓋は全く中央如来の五智を表
陀羅」の講説録『当麻曼陀羅正義隨聞記』「第七仏智会」は、
加えて敬首は「第五不可称智会」において、
『当麻曼陀羅述奨記』は第八観「形像観」に関し、宝幢は台座の四方
28
(6
ある恵心や空也などに続いて念仏を重視したことから、その源流は天
103
(6
浄土の思想やその具体的な様相についても、浄土宗で解釈されてきた
やその遠源となる中国での教説にも精通していた。それゆえ西方極楽
台宗にある。敬首や忍海は、本来の浄土教に遡る必要性から天台教学
(図
法 然 像 は、 ほ か に 寛 保 元 年( 一 七 四 一 ) 刊 行 の『 浄 土 仏 祖 図 録 』 と
起 と し て 記 し、 和 歌 と と も に 伝 え た と い う。 忍 海 に よ っ て 描 か れ た
た。 こ の 話 を 江 戸 前 期 の 左 大 臣・ 二 条 康 道( 一 六 〇 七 ~ 六 六 ) が 縁
(
)。
)、雪舟流の桜井雪館門人で増上寺学僧の鸞山によって天明元年
教説に固執するのではなく、本来はどのように解すべきなのか、根本
(
(一七八一)頃に編纂された『大原問答抄』に認められる(図
本 図 は 畳 か ら 少 し 下 げ て 法 然 を 描 く こ と か ら、 二 尊 院 の「 足 曳 御
に遡って考究する態度を有した。忍海は西方極楽浄土にいます「真身
観」の阿弥陀如来を描くにあたり、四本の宝幢と宝蓋で「五智」をあ
影」にくらべて俯瞰性が強くなっている。顔は赤がちな代赭の線描に
)。口は輪郭を避けるよ
らわし、
「応身仏」のような衲衣姿ではなく、宝冠と瓔珞を着け、定
から太目の墨線を重ねて描き起こす(口絵
の掛幅である。画面下半に高麗縁の畳に座す法然(一一三三~一二一
縦八四・五センチメートル、横三五・六センチメートル、絹本着色
にしばしば認められる。また、上瞼と黒目の輪郭に濃墨線を重ね、瞳
茶色で形づくる。このような表現は、平安から鎌倉時代の祖師像など
で塗る一方、黒目は肖像表現でよく見られる淡墨ではなく、濃いめの
うに朱を塗るが、上唇をやや濃くして変化をつける。目は白目を胡粉
二 ) を 描 き、 左 下 に「 忍 海 拝 寫 」 と 書 し て 朱 文 方 印「 佛 弟 子 海 雲 」
を濃墨で点じるものの、円形でなく半円形としているところに特徴が
を捺す(図
(
を胸前にあげて数珠をつまぐる姿とする(図
(
)
。白衣のうえに墨染めの法衣と白の袈裟を着け、両手
) 最勝院(東京都港区芝公園)
10
ある。これは少し目尻を下げて下瞼が山形となる、慈悲心溢れる表情
d、
「法然上人像」
(口絵
よって輪郭や目鼻を構成し、全体に肌色を塗布したあと、代赭線の上
(6
印を結んで瞑想する「報身仏」の姿と解して表現した。
33
32
)。京都二尊院に伝来
8
る。 関 白・ 九 条 兼 実( 一 一 四 九 ~ 一 二 〇 七 ) は 法 然 に 帰 依 す る あ ま
る様の物あり」とあり、さらに「足曳」という名前の由来に触れてい
巻五〇「二尊院」の項には、
「坐像、御衣躰天台衣、前ニ鉄鉢を包た
て編纂された宝永元年(一七〇四)刊行の『円光大師行状画図翼賛』
の前に団花文のある淡青色の包布が置かれる。義山および円智によっ
し、十三世紀の作とみられる現存最古の「足曳御影」と同じく、右膝
わせる。袈裟は法衣よりも淡い墨で輪郭線や条線を引き、内側に胡粉
表出する。さらに輪郭線や衣紋線の内側となる部分に金泥の細線を沿
濃墨で描き、内側に淡墨を塗ったあと、中墨で陰影を加えて形態感を
いう語は、これらの工夫をいうものとみられる。法衣は輪郭や衣紋を
おいて特に不言の玅あるを覚ゆ。その余の妍蚩は与ることなしと」と
れ諸祖の真を写貌すること多し。ただ吾が円光大師は目精を点ずるに
に由来するのであろう。「忍海上人伝」にみえる「師、常に言う、吾
あずか
り、その真影を写すことを懇願したが固辞されてしまう。そこで沐浴
を塗布する。法衣と同様、線の内側に金泥線を沿わせるが、二重線と
おぼ
の あ と 足 を 伸 ば し て く つ ろ い で い た 法 然 の 隙 を 狙 い、 こ っ そ り そ の
するところが多い。手に持つ数珠は主珠を八八顆、弟子珠を二〇顆の
( (
姿 を 画 家 の 宅 間 法 眼 に 描 か せ た。 驚 き 慌 て た 法 然 が こ の 像 に 向 か っ
(6
合わせて一〇八珠とし、さらに母珠を二顆加えている。先に胡粉線を
31
30
て 祈 っ た と こ ろ、 た ち ど こ ろ に 足 が 折 れ 曲 っ て 組 ん だ 姿 へ と 変 わ っ
(6
104
図31
同
部分
図33 「法然上人像」
『大原問答抄』
(天明元年・1781序)
105
図30 「法然上人像」部分
図32 「法然上人像」
『浄土仏祖図録』
(寛保元年・1741刊)
引いて紐とし、上から茶色で珠を重ねるが、少しずれたところに下書
る。
聖冏もたびたび同寺で講説を行ったとされ、その所縁の深さが窺われ
画面下半に茶色の法衣に濃茶の袈裟を着け、右手に笏、左手に数珠
きの炭描き線が残っている。諸所に伝来する法然上人像の服制と数珠
は、その形態や色を異にするが、『円光大師行状画図翼賛』に「天台
)。右手前には小型の蛸足香炉を
置いた朱塗台を配し、背後には北斗七星の上に雲間の三日月を描いた
を執り、曲彔に座す姿を描く(図
おける天台宗の制度を踏まえなければならない。それを反映している
背 屏 を 置 く。 三 日 月 は ま さ に 聖 冏 の 異 相 偉 徳 を 象 徴 す る も の で あ る
衣」とあるように本来の有様を重視するのであれば、平安時代末期に
かどうかを明らかにするためには、袈裟と数珠に関する詳細な時代考
が、北斗七星が描かれる理由はよくわからない。あるいは両親の白石
志 摩 守 宗 義 夫 妻 が 常 陸 久 慈 郡 の 岩 瀬 明 神 に 七 日 間 祈 祷 し、 聖 冏 を 授
の春日神社(茨城県常陸大宮市下岩瀬)のことであるが、元禄年間に
かったという伝承に北辰妙見信仰が関係するのか。この明神とは現在
縦九三・一センチメートル、横三六・一センチメートル、紙本墨摺
徳川光圀が名を改める以前の状況は不明である。ただ、ここから忍海
) 増上寺(東京都港区芝公園)
一
(
手彩色の掛幅である。作品を収める箱蓋の上面に「了誉上人尊影
が肖像を描くにあたり、「法然上人像」の包布同様、物語性とともに
(
軸」とあり、浄土宗第七祖・聖冏の肖像であることを示す。箱底外面
そ の 人 を 伝 え よ う と す る 意 図 が 読 み 取 れ る。 背 屏 の 右 下 に は 篆 書 体
や『麗気記拾遺抄』など仏教以外の著作も残している。生まれながら
など広く仏教を修める一方、神道や和歌にも精通し、『古今集序註』
の相承を重視した。浄土教だけでなく、天台・密教・禅・倶舎・唯識
の 相 伝 が あ る こ と を 明 ら か に し、 特 に 法 然 以 来 行 わ れ て き た 円 頓 戒
を制定するとともに、
『顕浄土伝戒論』を著して浄土宗に宗脈と戒脈
を 受 け て 戒 脈 を 継 い で い る。 浄 土 宗 伝 法 の 規 範 と な る「 五 重 伝 法 」
法然以来の宗脈を継いだ。さらに相模桑原の定慧から円頓戒、布薩戒
と 下 で 異 な る の に 気 づ く。 こ の 境 界 を 辿 っ て い く と 背 屏 の 外 縁 部 に
される。一方、本紙の中央左やや下の部分に着目すると、紙の色が上
し、戒律の重要性を説いた聖冏の遺徳顕彰に目的があったものと推察
図の制作は『顕浄土伝戒論』によって浄土宗の宗脈と戒脈を明らかに
明する。この頃、増上寺では伝法への関心が高まった時期であり、本
描いた下絵をもととし、それを版に起こして墨摺手彩色したものと判
き、画を構成する墨線も同様であるとわかる。ここから本図は忍海が
凸にあわせて所々が白く抜けていることから版でほどこしたと判断で
(
額に三日月状の奇相があり、夜になると後光のように光ってみえたと
沿っており、そこを境として画面上部三分の一は別紙を継いでいると
(
いうことから、三日月上人や繊月上人とも称された。聖冏の愛弟子で
(
にはその伝来を示す「常然庵」の墨書がある。聖冏(しょうげい・酉
で「増上寺蔵」とあり、さらにその下に「忍海拝摸」の款記と黒文方
)。この文字は墨色が均質で、紙の凹
(7
わかる。これが破損によるものか、意図的なのかは判断しづらいが、
(
蓮社了誉・一三四一~一四二〇)は常陸久慈郡の白石氏に生まれ、瓜
印の「雲印」が付される(図
e、
「聖冏上人像」
(口絵
証が必要となろう。
34
連常福寺の了実に従って出家したのち、太田法然寺の蓮勝に師事して
9
あった聖聡(大蓮社酉誉・一三六六~一四四〇)が増上寺を創建し、
35
(6
(6
106
図35
同
部分
図36
同
部分
107
図34 「聖冏上人像」部分
補 紙 部 分 に「 五 天 竺 図 」 の 模 写 作 業 を 共 に し た 増 上 寺 四 十 六 世・ 定
月(観蓮社妙誉・一六八七~一七七一)により、聖冏の遺徳を讃える
以上、水墨による「帰去来図」のほか、「千手観音像」二点、「阿弥
計六点の分析を踏まえ、先に触れた文献をあわせながら忍海の作画に
陀如来像」、浄土宗の祖師「法然上人像」、中興の祖「聖冏上人像」の
彩 色 は 顔 や 手 に 肌 色 を 加 え ず 紙 の 色 を そ の ま ま 活 か し、 眼 窩 の 外
ついて総括する。ただし、いまだ諸寺に多数の忍海作品が眠っている
徳輝可知」の偈が加えられる。
側、額や目尻の皺の間などに淡い代赭を施して立体感を表出する。輪
も の と 類 推 さ れ、 こ れ ま で も 増 上 寺 別 当 寺 院 で あ っ た 妙 定 院 の「 千
「山據之新 化被四維 遺果之大
)。白
て髭の表現とする。側頭部も同様の方法で毛髪をあらわす。法衣は黄
黒目を形づくる。唇や口内を朱で彩り、そのまわりや顎に淡墨を刷い
目に胡粉を塗布し、目尻と目頭に墨のぼかしを入れ、濃いめの茶色で
壬申臘八起筆癸酉九月十二日功畢」の金泥落款がある「円光大師行状
の「吉水遺法弟子忍海雲拝寫
鹿ヶ谷法然院の八分の一縮写の「当麻曼陀羅図」、京都小松谷正林寺
手 観 世 音 画 像 」「 雲 中 弥 陀 仏 尊 像 画 」「 黒 本 尊 像 」「 大 黒 天 図 」、 京 都
郭には上から代赭を重ね、墨色の強さを和らげている(口絵
土色に塗ったあと、少し濃くした茶色を部分的にぼかしながら重ねて
図」四幅対、「寛延己巳九沙門忍海雲拝畫」の款記を有する「釈迦三
寶暦
質感を表出する。さらに線の片側に金泥を沿わせ、襟や袖、裾などに
尊像」三幅対など、画像を伴わずに伝来のみが報告されているものが
應小松谷現住常阿戒壽上人需云
金泥をぼかしつつ広めに塗布する。濃茶と緑に塗り分けた袈裟は、塗
ある。このように所在が確認される作品であってもすべてを実見した
(
布する色が濃いことから墨によって輪郭線や衣紋線を描き起こしてい
わけではなく、今後、継続的に調査を行ったうえで報告する予定であ
わらず時間をかけて彩っているのは明らかである。複数の墨摺画にこ
表出する意識や金泥線の用い方は「法然上人像」と通じ、肉筆画と変
ら、彩色は必ずしも忍海の手になるとは限らないが、法衣の立体感を
で あ り な が ら 荘 厳 を 意 図 し た 作 画 と わ か る。 墨 摺 と い う 制 作 方 法 か
全体的に金泥を惜まず多用し、先の「法然上人像」と同様に祖師像
を中心とした中国文化に関する教養を深めた。漢学を学んだのは単な
たり浄土教学を追究し続けた一方、服部南郭からは漢学を学び、詩文
有したことに起因している。忍海は師・敬首の影響もあって終生にわ
という性格以前に浄土僧としての本分が存在し、同時に漢学の素養を
など水墨を主体とする作品も描いた。この二極の様相は、忍海の画人
江戸時代においてサンスクリット語で直に仏典を解釈する試みもな
る 趣 味 に 終 始 す る も の で は な く、 仏 典 や そ の 注 疏 を 読 み こ な す た め
彩られたとみて良いと考える。
のように精巧な彩色を施すのはかなりの手間と時間を要することか
「盧山図」「帰去来図」「倣雪舟富嶽図」「倣牧谿龍図」「倣牧谿鶴図」
さ て、 忍 海 は 濃 彩 の 仏 画 を 手 が け た 一 方 で、「 墨 蘭 図 」「 墨 梅 図 」
(
る。濃茶の部分には雲気文を金泥であらわし、さらに墨線に沿わせて
ることを申し添えておく。
)。
(7
の、必要な知識を獲得するという明確な目的意識のもとに行われた。
金泥で描き、その形に金箔を貼って輝きを強調する(図
塗り、金泥を塗布して霞とする。月と北斗七星を形づくる星の輪郭を
金泥を引く。背屏の画は、夜空をあらわすために藍をぼかして雲間に
11
ら、大量に生産されたとは考えにくく、本図は忍海自身の手によって
36
108
の用語解釈に依らなければならなかった。そこに漢・唐以前の古注を
の多くが唐時代以前になされたことから、近世以降ではなく中世以前
え本義の理解には漢語の正確な意味を把握する必要があり、特に漢訳
には中国で漢訳されたそのものを解釈することを基本とした。それゆ
かったわけではないが、それは限られた状況においてであり、一般的
のような忍海の人となりを親しく知り、敬慕の念を抱いてその遺志を
れ、人徳の高尚さについては伝えられずに軽視されていたという。こ
の名は知られていたものの、いたずらに画に長じたことのみが吹聴さ
がおらず、忍海没後にその名徳を伝えるものもいなかった。世間でそ
おいては忍海がその役割を果たしたが、直弟子のなかには大成する者
恵頓(證蓮社極誉・願阿・一七二五~八五)は、摂津島下郡忍頂寺
伝えたのは「忍海上人伝」を書した恵頓と、後事をまっとうして文芸
いて、文人士大夫の価値観に基づく詩文や書画などの中国文化が忍海
村(大阪府茨木市忍頂寺)の吉沢氏に生まれ、村内にあった西福寺の
重視する漢学者としての荻生徂徠や服部南郭と、忍海をはじめとする
に 流 れ 込 ん で い っ た の は、 極 め て 自 然 で あ ろ う。 仏 画 は そ の 本 分 で
住持・鏡誉に就いて出家剃髪した。江戸へ出て増上寺に学んだあとは
面を継承した耆山という増上寺学僧の二人であった。
あった浄土の信仰と教学の上に成り立ち、水墨主体の作品はこの漢学
文章によって名を成し、しばしば代作を依頼されるほどの技量を有し
増上寺の学僧が結びつく契機があったのである。このような過程にお
の上に形成されたものであった。前者は仏学の師・敬首の精神、後者
た。 宝 暦 十 二 年( 一 七 六 二 ) 七 月 八 日 に 小 机( 神 奈 川 県 横 浜 市 港 北
(
は漢学の師・服部南郭の精神と無関係ではなく、彼らからいにしえを
区)泉谷寺の二十世住持として進山したのちも、交流のあった多くの
(
尚び、いにしえに復する「尚古」「復古」の思想を受け継ぎ、それを
(
閣、秋元小丘園などの詩文集にその足跡が刻まれる。
(
漢学者たちが訪れ、特に服部南郭門人の服部白賁、大内熊耳、千葉芸
─忍海を継ぐ者、恵頓と耆山─
理念として忍海は作画を行ったのである。
おわりに
忍海との深交は「忍海上人伝」を書していることからも明らかであ
するためには仏教そのものに対する知識がなければならないが、一方
べく、浄土教学について根本的に考究する風潮が生まれた。仏典を解
ず、しばらく見聞する所の者の数條を記してもって不忘に備うる
え ど も か つ て そ の 法 澤 に 沐 す る 日 深 し。 す な わ ち 已 む こ と を 獲
弟子みなすでに流落して師の名徳を伝うる者なし。余、不敏とい
り、末尾に付される賛には、
で漢語ひとつひとつの意味やニュアンスを習得するために漢学者に学
ことかくのごとし。
味の対象が広がっていく。その結果、増上寺学僧のなかから、徂徠学
かったので、法恩に浴した自分が彼らに代わって見聞した事績を書き
と 記 さ れ る。 忍 海 の 弟 子 が み な 零 落 し て そ の 遺 徳 を 伝 え る 者 が い な
であり、それを学ぶことにより自ずと詩文や書画などの諸文芸へと興
ぶ必要があった。漢学に対する知識は深遠な中国文化を包括するもの
十八世紀に入ると、増上寺学僧のなかから戒律を含む伝法を復興す
(7
派の漢学者とともに新たな文化の牽引役を担う者が輩出した。絵画に
109
(7
の 七 言 絶 句 が あ る。 こ の「 芙 蓉 図 」 は 以 下 で も 触 れ る よ う に 雪 舟 の
四年の作とみられる「慧頓上人のために芙蓉の図に題す」という南郭
とみる方が自然であろう。服部南郭からは漢学を学んだようで、宝暦
十歳という忍海との年齢差を考慮すると、その間に師弟関係があった
頓は、忍海から刪定を命じられるとともに「凡例」を付している。三
戒品台疏玄談・梵網経菩薩戒品精義』であった。このとき三十歳の恵
の出版に意を注いだのが宝暦四年(一七五四)に成った『梵網経菩薩
残すとしている。忍海は師・敬首の教説を多く筆録し、とりわけ生前
やしくも飽くことを欲せず。恒に言ふ、「その麤糲、腹に満さん
足、 所 余 な く、 ま た 困 す る に 至 ら ず。 性 す こ ぶ る 嗜 好 あ り。 い
んが為めなり。常に清貧に安じ、いまだかつて汲戚せず。衣食淡
賞す。しかして皆その好みにあらず。けだし時事無義の雑語を避
朋来り会することあれば、則ち書を読み詩を賦し、筆を走し茶を
して帰り居る。礼誦課称し、三十余年一日のごとし。浄業の暇、
の墓側に就て自ら寿蔵を建て、すでにして西遊す。幾ばくもなく
し、自ら嗜山と称す。独り母と居る。母没して梅窓院に葬る。そ
進 ん で ま さ に 第 二 班 に 列 せ ん と す。 浩 然 と し て 去 て 青 山 に 肥 遁
( (
「富嶽図」を模写した忍海の作品であった。
一方の耆山(青蓮社香誉・玄海・一七一二~九四)は、恵頓が日常
や鷹や、飢れども穂を啄まず」と。年すでに七十余、無病克壮、
よりはむしろ精微、口に約せんには」と。諺に云はざるや、「鷹
(
的 に 最 も 気 安 く 交 わ っ た ひ と ま わ り 年 長 の 僧 で あ っ た。 そ の 詩 文 集
独処自ら炊く。世、出世の族あることなし。伝持の衣鉢、身後属
(
『青山樵唱集』には恵頓の名が頻出するとともに、初篇には同人が序
するところなし。則ち予めこれが所を為し、後人を累はすことな
(
文を寄せている。また、恵頓の『泉谷瓦礫集』にも耆山に関係する文
からんと欲す。ここにおいてこれを明顕の山に沈め、その処に塔
(
章が多く採録される。特に「耆山上人衣鉢塔銘并序」は、老いさき短
し、しかして余をしてこれが銘を為らしむ。
(7
記として重要である。
釈 玄 海 は 東 都 神 田 の 人 な り。 世 姓 は 栗 原 氏、 幼 に し て 父 を 喪
ふ。 因 て 出 塵 の 志 あ り。 母 に 随 て 年 を 舅 家 に 待 つ。 甫 め て 十 一
歳、 縁 山 の 安 立 院 の 義 誉 上 人 に 投 じ て 薙 染 し、 乃 ち 衆 に 入 て 籍
土、これを此の蓁に留む。吾れまさに逍遊して安養の民たらんと
す。裁縫を用ふること勿ふして妙服身に在り。餔啜を須ひずして
禅食神に適す。永く有無を離れてまた人を煩はすことなし。累盡
き懸解けて帰去来、真に入らん。
づ。罔るにその方にあらざるを以てすべからざるなり。のち菅渓
も艱険備に嘗む。人情、曲に解す。衆伎を兼綜し、善悪の事に通
い、出家剃髪した。若い頃にはすでに内外の書籍に博く通じ、講義や
管 理 す る 守 護 職 別 当 寺 院 で あ っ た 安 立 院 の 超 音( 孝 蓮 社 義 誉 ) に 従
耆山は江戸神田の生まれで、増上寺のなかでも徳川家康の御霊屋を
天明辛寅冬十二月、泉谷隠子恵頓誌
に舎ん。博く内外に渉り、講書論議時輩に儷ひなし。僧階すでに
す。性、聡悟にして幹検なり。いまだ游方せずと雖どもしかれど
銘に曰く、師、それこれを置いて安にか之く。曰く、帰去来楽
いことを慮った耆山が伝法の証である衣鉢を明顕山祐天寺(東京都目
(7
黒区)に埋めて石塔を建てた際の銘文であり、親密な恵頓が書した伝
(7
110
昇っていたが、三千人余りの学僧のうち二十年ほどの修行を経て昇進
論議においてならぶ者はなかったという。僧侶としての位階も順調に
保寿(一七一四~八三)であった。
文を書したのは、服部南郭とも交流を持った松下烏石門の書家・河原
二月に完成し、翌年二月に刻まれたことが明らかとなる。なお、この
まらず絵画にも及んだ。
耆山と恵頓の交流には忍海の影響もあり、浄土教学や詩文だけに留
する一文字席、扇之間席、縁輪席という上位一五〇名に入る頃には増
上寺を飛び出し、青山の妙有庵に隠棲して母と暮らした。『青山樵唱
集二篇』に「偶成寛延己巳秋九月退芝山隠青山」という五言古詩があ
ることから、それは寛延二年(一七四九)の九月、三十八歳の時だっ
は、
「三十余年一日のごとし」とあるように、それからおよそ三十年
もその生色飛動あるを覚ふ。弊廬、ほぼ過客なし。もし時に過ぎ
近ごろ牧渓の画く所の蘆雁双幅を弋獲す。余、鑑賞なしといへど
耆山上人に与ふ
後の「天明辛寅冬十二月」のことというが、この組み合わせの干支は
る も 田 夫 野 人、 た だ 寒 温 農 話 の み。 絶 て 好 事 の 者 な し。 書 画 古
た と わ か る。 恵 頓 が こ の「 耆 山 上 人 衣 鉢 塔 銘 并 序 」 を 書 き 上 げ た の
)、
存在せず、誤りがある。ただ、この石塔が祐天寺に現存し(図
器、瓦石と異なることなし。則ち明月夜光といへども、即時の一
泉谷杜多恵頓謹誌」と記されるか
そ こ に は「 天 明 三 年 癸 卯 春 二 月
碗酒に如かず。これ転じて座下に致すことあるところの者なり。
37
ら、
「辛寅」は「壬寅」の誤りで文章自体は天明二年(一七八二)十
座下、もとより奇癖あるか。これがために踊躍し、金石以てこれ
を鳴し、響き宮商に中り、妙、精霊に通し、蘆雪以て風すべく、
墨 雁 揺 て 飛 ぶ が 如 し。 鳴 け ば 則 ち あ い 和 し、 行 け ば 則 ち 武 を 接
し、陽春に翔り、白雪に息ふ。千変万態、またただこれ師の般若
波羅蜜の力、片隻文字の間に生動して、人をして覚へず一唱三嘆
せしむなり。余、何の幸いかこれを座下に得るや、すでに装して
坐右に展べ、その歌態を想像し、その風韻を雋味して已み已むこ
とあたはず。嘗て聞く、子猷、飛禽の逍遥を愛すと。況やかつ吾
が黨、放生を事するをや。寓目すでに罷まばこれを放て空を凌ぐ
の翼に任せよ。何ぞ必ずしも樊籠せん。弊廬また無礙子の写す雪
舟渡唐の富嶽図を蔵す。恐くは貧道が有る所に非ざるなり。器服
の 称 は ざ る は 君 子 の 誡 す る 所、 吾 れ い づ く ん ぞ 此 を 用 い ん。 請
ふ、座下為に宜しく称ふべき所を卜し、余をして懐璧の罪を免れ
111
耆山上人衣鉢塔
(祐天寺/東京都目黒区中目黒)
図37
意に当らんや否や。幸いに笑て置け。
しめよ。委命する所の塔銘、謹て以て愚を窮む。知らず、座下の
た耆山の附言から推察するに、蘭の描法を示した書は当時にあっては
して模刻した『有山堂画譜』を重版して世に弘めた。そこに加えられ
珍しく、それを求める要望に応えることで忍海の遺徳を偲んだものと
一杯の酒を好むような農夫ばかりであり、むしろ書画を好む耆山の手
た。ただ、隠棲の地である小机の恵谷寺は客があっても風流韻事より
がとまり、鑑定に長けていたわけではなかったものの、それを入手し
あるとき恵頓は牧谿の筆になる「蘆雁図」の生き生きした表現に目
とする漢学を学び、『南郭先生文集四編』には宝暦三年の「秋日、耆
音 図 」 を 掛 け て 供 養 し た と い う。 耆 山 自 身 も 南 郭 か ら 詩 文 を は じ め
六 月 二 十 一 日 ご と に 詩 会 を 催 し、 堂 内 を 荘 厳 す る た め に「 三 十 三 観
菩提寺の東海寺少林院に納めている。その後、少林院では南郭命日の
服部南郭の手になる「三十三観音図」の模本を買い戻し、それを南郭
(恵頓『泉谷瓦礫集』)
元にあった方が意義深いと思い、これを贈ることにしたという。飽い
山上人の青山禅居を訪ふ」、宝暦五年の「春日、耆山上人の西遊を送
思われる。さらにその翌年には忍海の旧蔵品で、没後に流出していた
たならばその雁の翼に任せて手放してもかまわないと、仏教の放生に
る」とした交流詩が収められる。さらにその後継者・服部白賁とも親
なぞらえた心遣いは、両者の関係性をつぶさに示す機智に富んだ表現
しく交際し、南郭が晩年に住まいした白賁墅の維持管理にともに尽力
(
となっている。一方で恵頓は雪舟の「富嶽図」を模写した忍海の作品
した。耆山は後輩から慕われる性格だったらしく、「牛門四友」と呼
(
も有しており、誰か望む者があればそれを託してもかまわない旨を述
ばれる幕府御家人・大田南畝(一七四九~一八二三)、青山百人隊騎
(
べ て い る。 末 尾 に 衣 鉢 の 塔 に つ い て 触 れ て い る こ と か ら、 天 明 初 年
士であった岡部四溟(一七四五~一八一四)、和歌山藩士の菊池衡岳
(
を理解した人物であった。なかでも最も注目すべきは忍海亡きあとに
青山にいませし耆山和尚は、南郭先生の門人なり。青山百人町
め、 三 十 二 に し て 母 を 携 て、 青 山 百 人 町 に か く る。 其 時 の 歌 と
耆 山 和 尚 十 二 に し て 縁 山 に 入 り、 二 十 八 に て 堅 義 部 頭 を つ と
の吏、同地をかりてすむ事三十年、妙有庵といふ。万翠一窩とい
まず、一周忌となる宝暦十二年(一七六二)には、忍海が私家版と
義深い功績であった。
残された、いくつかの課題に責任をもって対処している点である。こ
山本人についても、
でも南畝は耆山から聞いたという話をしばしば著作に載せており、耆
(
学者・小田穀山(一七四〇〜一八〇四)など詩文の門人がいた。なか
(
(一七八一)頃のやり取りとみられる。なお、この「蘆雁図」に関し
(
(一七四七~一八〇五)、大森華山(一七五一~七九)や越後出身の漢
(
ては、耆山門下で和歌山藩士の菊池衡岳が「耆公山房にて宋牧渓蘆雁
図を観る」との七言律詩を残している。
耆山は毎年十二月十三日に行われた忍海と服部南郭の風交を象徴す
る「掃塵会」のメンバーであり、画こそ描かなかったものの、忍海の
(7
へる扁額をかかぐ。屏風に張置たる先生の書翰あり。
行跡を亡くなるまで顕彰し続け、増上寺学僧のなかで最もその文芸面
(7
れは恵頓が果たした「忍海上人伝」の執筆同様、その足跡を伝える意
(8
(7
112
て、
百が味噌二百が薪二朱が米一歩自慢の年のくれ哉
くはしくは小机泉谷寺恵頓和尚の衣鉢塔の文にみえたり。塔は
目黒祐天寺にあり。文は泉谷瓦礫集に載たり。
士寧鵜氏時駐駕
詠吟移晷踞莓苔
林鶯呼友如籠鳥
常鼓詩腸興象催
忍海雲洞本良材
吾黨僧伽多雋傑
と、
『仮名世説』にその伝を残している。常に白賁墅を気にかけてい
恵頓曇海称巨臂
(
た様子は先に触れたとおりであり、一方で文化六年(一八〇九)一月
書画勃卒振天才
(
には恵頓の住した泉谷寺を訪れ、『泉谷瓦礫集』を借りて抄録するな
倏忽群賢咸委塵
賦詠斐章奪金玉
恵頓が「耆山上人衣鉢塔銘并序」を記した天明二年(一七八二)に
士寧鵜氏 と きどき駐駕す
詠吟 晷 を移して莓苔に踞り
林鶯 友 を呼びて籠鳥のごとし
常に詩腸を鼔して興象催す
吾が黨の僧伽 雋
傑を多くす
忍海 雲 洞 本
より良材
恵頓 曇 海 巨
臂と称す
書画勃卒として天才を振ひ
賦詠斐章 金 玉を奪ふ
倏忽として群賢咸な塵を委て
拾藻記名 宛 として軸に満ち
寥寥天地存孤陋
拾藻記名宛満軸
ほ ど 近 い こ ろ、 七 〇 歳 過 ぎ の 耆 山 は「 自 叙 歌 」 と い う 七 言 古 詩 を 詠
併図弊宇作装裁
併わせて弊宇を図し 装
裁を作す
もし後世 風 致を同じくするものあらば
寥寥たる天地 孤
陋を存す
甘棠を追想し遺哀を動かす
曽て目巧を営じて茅室を翳す
如有後世同風致
追想甘棠動遺哀
曽営目巧翳茅室
一たび青山に臥せ 三旬を踰ゆ
屍視點頭長夜台
一臥青山踰三旬
南窓蓊蔚として 天 景を成す
忍海、雲洞、恵頓、曇海の名を挙げ、学問や文芸の恩恵を蒙った交際
を挙げる。さらに耆山と同様、南郭に師事した増上寺の学僧として、
一〇~七六)、南郭門人の高翼之と鵜殿士寧(一七一〇~七四)の名
英)と服部仲山(赤羽)、徂徠門人であった宇佐美灊水(子迪・一七
う。 漢 学 者 で は 服 部 南 郭 を 筆 頭 と し、 そ の 跡 を 継 い だ 服 部 白 賁( 仲
らに妙有庵の図を加えて一軸としたものに付した自序か自跋であろ
おそらくこれは耆山が親しく交わった人物との贈答詩をまとめ、さ
屍點頭を視る 長
夜の台
(耆山『青山樵唱集初篇』巻三)
三十余霜如昨夢
じ、自らの人生における交流を振り返った。
ど、耆山の交流に高い関心を寄せていたことも窺える。
三十余霜 昨 夢のごとし
独り逍遥を楽しみ采真に遊ぶ
南窓蓊蔚天成景
独楽逍遥遊采真
喬木脩竹遶渓濱
赤羽の書生 慰
問を通ず
子迪 翼
之 し ばしば徘徊し
花開き花落ち 幾 春度る
南郭先生 塔 していづくんぞ来らん
適嗣仲英 あ い追陪し
喬木脩竹 渓 濱を遶り
菜圃稲田 仄 塢に連る
菜圃稲田連仄塢
花開花落度幾春
南郭先生塔焉来
適嗣仲英相追陪
赤羽書生通慰問
子迪翼之屢徘徊
113
(8
耆山墓(梅窓院/東京都港区青山)
)。
な墓石は、徂徠学派の掉尾を飾る耆山を直に感じられる佇まいを有し
ている(図
範囲を明らかにする。それから十年あまりを長らえた耆山は、忍海没
そ二十年を経て行われた、この中国書画展観会の様相については、稿
四月十七日、八十三歳の高齢で息を引き取った。墓所は東京メトロ銀
座線外苑前駅を出てすぐにある青山梅窓院で、墓石には後ろ向きに座
無相徳之面
今也我如人
生来人視我
彷彿杜多蓮
敢論假與真
背坐し愜として神を伝ふ
今や 我 人 のごとし
無相徳の面
生来 人 我 を視る
彷彿たり杜多の蓮
敢て論ず假と真と
1
2
4 3
す姿の上に、
背坐愜伝神
( (
註
はじめに
( )「
(『古文化研究』
江戸中期の漢詩文にみる画人関係資料─事項一覧編─」
第九号・第十号 黒川古文化研究所 二〇一〇~一年)
。
( ) 相見香雨「服部南郭の画事 附、海雲上人(忍海)の画」(
『日本美術協会
報告』第四四輯 日本美術協会 一九三七年)、三村竹清『近世能書伝』
「忍
海上人」
(二見書房 一九四四年)
。ほかに忍海の伝記について触れているも
のに、小島章見「法然上人の眼─画僧忍海─」
(『浄土』第十六巻第七号 法
然上人鑽仰会 一九五〇年)がある。
一、服部南郭、本多忠統と忍海の交流
( )『
、所収。
(吉川弘文館 一九七九年)
続日本随筆大成 四巻』
( ) 増上寺の歴史については、中井良宏「檀林教育の成立とその発展について
─近世寺院教育の一形態─」
(『仏教大学研究紀要』第五一号 仏教大学学会
一九六七年)
、玉山成元『普光観智国師─近世における浄土宗の発展─』(白
帝社 一九七〇年)
、村上博了『増上寺史』
(大本山増上寺 一九七四年)
、
宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院 一九九九年)を参照し
を改めて述べることとしたい。
況をつぶさに物語る。忍海が没した宝暦十一年(一七六一)からおよ
る文人画家を生み出す土壌ともなり、谷文晁が登場する以前の絵画状
評する展観会が催された。その場は中国絵画に倣って作画したいわゆ
名や漢学者たちが所蔵の中国書画を増上寺の子院に持ち寄り、陳列品
た。十八世紀後半の安永から天明にかけては、彼らと交流のあった大
月 僊( 一 七 四 一 ~ 一 八 〇 九 ) な ど 絵 画 史 で も 知 ら れ る 学 僧 が 輩 出 し
五~九〇)に学んだ恢応(一七三七~九五)、鸞山(?~一七九一)、
と耆山の晩年には、同じ増上寺のなかから雪舟流の桜井雪館(一七一
忍海と南郭における風交の継承者として重要な役割を果たした恵頓
38
後三十年余りにわたってその足跡を伝え続け、寛政六年(一七九四)
図38
という七十三歳時に詠じた偈を刻む。自らの姿をあらわしたその風雅
(8
114
(
(
(
(
た。
)『 詩集日本漢詩 第三巻』(汲古書院 一九八六年)、所収。
)『 南郭先生文集初編』巻之九「大潮師に与ふ」、『詩集日本漢詩 第四巻』
(汲古書院 一九八五年)、所収。なお、「苾芻」とは僧侶のことをいう。
)「 八代将軍・徳川吉宗の時代における中国絵画受容と徂徠学派の絵画観─
徳 川 吉 宗・ 荻 生 徂 徠・ 本 多 忠 統・ 服 部 南 郭 に み る 文 化 潮 流 ─ 」(『 古 文 化 研
究』第十三号 黒川古文化研究所 二〇一四年)。
)『 猗蘭台集二稿』巻之五「忍海に与ふ」、『猗蘭台集二稿』巻之四「忍海の
雍 州 に 遊 ぶ を 贈 る 序 」、『 詩 集 日 本 漢 詩 第 十 四 巻 』( 汲 古 書 院 一 九 八 九
年)、所収。
忍海に与ふ
刻 鏤 の 労 を 辱 う す。 印 篆 は 秦 漢 の 大 雅 を 下 ら ざ る か。 今、 都 下 巧 者 多
し。然るに多くは繊麗なるを貴び、古雅自失するは巧者の病なり。然る
に あ に ひ と り 巧 者 の み、 こ れ を 貴 ぶ 者 な ら ん や。 ま た こ れ を 貴 き と な す
者 も ま た 巧 者 と な り、 い よ い よ こ れ を な す。 つ ひ に 貴 と 巧 と は 同 心 に し
て 古 を 失 ふ。 憂 ふ べ き こ と 甚 し。 し か る に 師 は 今 を な さ ず、 古 を 知 る と
い ふ べ き な り。 ま た 聞 く な ら く、 師、 古 画 の 志 あ り と。 ま た ま た 大 雅 な
ること甚しき者なり。
余、常に子遷と言ふ、「狩守信より以来、専ら淡薄これ務とす。然る
に守信は妙手なり。守信卒して後、安信・常信等出づるといへども、み
な そ の 妙 に 至 る を 得 ず。 こ こ に お い て 画、 す で に 衰 へ た り。 二 子 卒 し て
後、 ほ と ん ど 画 な し。 画 な き は 師 匠 な き が ゆ ゑ ん な り。 そ れ 師 匠 は い
に し へ に し く は な く、 か つ 山 川 草 木、 鳥 獣 蟲 魚 の 類 は そ の 物 に し く は な
し。すなはちいやしくもこれを知る者はいまだ難からずとなすも、ただ
人 物 は 学 ぶ べ か ら ず。 ゆ ゑ に 古 画 に 依 る に し く は な し。 け だ し 宋 元 の
間、 筆 意 も っ と も 妙 な り 」 と。 こ れ 常 に 子 遷 と 論 ず る 所 な り。 梁 楷 の
「蠶の図」一軸を摸し、子遷、師に伝へて言へらく、「吾、何ぞ師のため
惜まんや、すなはちその余の宋元の画蔵するところを供覧せんことを。
も し こ れ を 閲 せ ん と 欲 す れ ば、 子 遷 に 憑 り て 伝 へ よ 」 と。 子 遷 か つ て 謂
へらく、「師をして我が国第一の妙手たらしめんことを欲す」と。ゆゑ
に そ の 論 も っ と も 高 く し て 実 以 て 盡 せ り。 請 ふ ら く は、 そ の 論 に 違 ふ こ
となからんことを。
忍海の雍州に遊ぶを贈る序
画を観るに唐以前は邈たり。すなはち唐は呉道玄、戴嵩、閻立本、李
昭 道、 滕 王 元 嬰 の 輩、 図 し て 伝 ふ る 所 あ り。 然 る に 画 力 千 年、 何 す れ
ぞ 儼 然 と し て 取 ら ざ ら ん や。 宋 元 の 間、 名 家 数 人 伝 え て こ れ を 蔵 む。
諸家はすなはち徽宗帝、李龍眠、李成、范寛、郭熈、趙昌、徐熈、易元
吉、趙大年、陳所翁、僧法常、玉澗、李唐、李迪、李安忠、蘇漢臣、閻
次平、馬遠、馬逵、梁楷、夏珪、毛益、楼観、馬麟、范安仁、舜挙、顔
輝、君沢、子昭、月山、僧無準、張思恭、西金居士、胡直夫、王李本、
張芳汝、卒翁、趙子昴、蘇東坡の輩、各々得てなす所は皆超絶なり。こ
の余、文与可、米元章、楊補之、楊月礀、王若水、王元章、此山、王立
本、 頼 庵、 檀 芝 瑞、 恵 崇、 羅 窓、 門 無 関、 栢 子 庭、 因 陀 羅、 雪 礀、 用
田、黙庵のごときに至りてはもっとも工なり。然るに上の数人には及ば
ざるなり。すなはち吾が国においては文和天正の間、最も盛んなり。し
かして僧明兆、等陽、狩元信輩、ほとんど超絶の右に出づ。僧可翁、周
文、周継、等観、梵芳、狩州信もまた比肩雁行す。寛永の時に及びて、
狩 守 信 も っ と も 縦 横 に し て 海 内 に 名 あ り。 然 る に 晩 に 及 び て 澹 泊 に 過
ぎ、その末つひに大いに衰ふ。
僧忍海、常にこれを患ひ、すでにして復古の志あり。然るに観古して
以て師となすあたはず。 として自失すること久し。海、おもへらく、
「あにそれ人に師するよりは、これを造化に師するにしかざらんや。す
な は ち 旧 習 偏 観 を 捨 て、 日 月 列 星、 風 雨 水 火、 雷 霆 霹 靂、 鳥 獣 蟲 魚、
草木の花実、霜雪の深浅及び鬼神仙釈、宮室器物、人の愉佚、憂悲、怨
恨、酣酔、歌舞、戦闘は、蔵心蓄思を以てこれを発す。然るにまたただ
独 り 患 ふ 所 の 者 は、 山 水 崖 谷、 奇 石 怪 樹 の み。 こ こ を 以 て 修 装 し て 発
ち、千里の奇観、日々盡さんと欲す」と。また曰く、
「聞くならく、い
にしへの明兆は丹青を東福の後山に得と。今もなほあるか、試みに入て
これを索めん。粉彩復古もまた我が志なり」と。すでにして発つ。いく
ばくもなく、我に贈るに一大軸を以てす。
… す な わ ち 宋 元 の 名 家 数 輩、 各 々 得 て な す 所 の 者 は こ こ に 盡 せ り。
我、今観てこれを論ずるに、ほとんどすでに古人とあい頡頏す。ただそ
の形を取りて言ふのみならず。向きに御覧のゆへを以て、天下の古画を
集むることあり。しかして予、その可否を品目するに与るや、およそ万
数を以てす。ここをもって骨気風神、較然として心に得たり。忍海、も
とよりこれを造化に得て、その自らなす所の者はいまだ必ずしも自覚せ
ざるも、ことごとく中る所あり。今、我が鑑を得て我が言を聞くや、す
なはち始めて山水は誰某の法、鳥獣蟲鳥は誰某の格、宮室人物草木は誰
某の意なるかを知り、いよいよますます造化に師して已むことなし。す
でにすでに海の筆格綵緻、戸称家伝はすなはち澹泊の患、去りて古に復
するに日なし。あに興廃の人といわざるべけんや。
115
8
7
6 5
二、忍海の生涯とその事績
( ) 朝岡興禎『増訂古画備考』(思文閣出版 一九八三年)。
( )『浄土宗全書 第十九巻』(山喜房佛書林 一九七一年)、所収。
( )『徳川文芸類聚 評判記 第十二』(国書刊行会 一九一四年)、所収。
( ) 早稲田大学図書館本を参照した。
( )「 忍海上人伝」の書き下しに関しては読みやすさを優先し、送り仮名は新
仮名遣いとした。難解な語句に関しては、( )で意味を付した。
( ) 大正大学図書館本を参照した。
( )「 光明真言」については、ニールス・グュルベルク「近世の光明真言信仰
資料(その一)」(『人文論集』第四三号 早稲田大学法学会 二〇〇五年)
、
同「近世の光明真言信仰資料(その四)」(『人文論集』第四七号 早稲田大
学法学会 二〇〇九年)、小林靖典「江戸期と明治期における光明真言安心
について─伝不空訳『光明真言儀軌』をめぐって─」(『現代密教』第二四号
智山伝法院 二〇一三年)を参照した。
( ) 敬首の伝記として、
『浄土宗全書 第十八巻』(山喜房佛書林 一九七一年)
に収められる『略伝集』に「敬首和上略傳」がある。
( ) 浄土宗の戒律については、『浄土宗全書 続第十二巻 円戒叢書』
(山喜房
佛書林 一九七二年)、『浄土宗全書 続第十三巻 布薩戒叢書』(山喜房佛
書 林 一 九 七 三 年 ) を 主 に 参 照 し、 三 田 全 信「 法 然 上 人 の 円 頓 戒 の 正 統 者
に つ い て 」(『 仏 教 文 化 研 究 』 第 六・ 七 号 知 恩 院 仏 教 文 化 研 究 所 一 九 五
八年)、井川定慶「浄土布薩戒について」(『仏教論叢』第十九号 浄土宗教
学院 一九七五年)、恵谷隆戒『浄土教の新研究』(山喜房佛書林 一九七六
年)、恵谷隆戒『補訂概説浄土宗史』(隆文館 一九七八年)によって理解を
たすけた。
( ) 浄土宗における律僧のあり方については、伊藤真徹「浄土宗捨世派の自律
性と社会性」
(『仏教大学研究紀要』第三五号 仏教大学学会 一九五八年)
、
井川定慶「江戸時代浄土宗の復古と革新運動」(『佐藤博士古稀記念 仏教思
想論叢』山喜房佛書林 一九七三年)
、大島泰信『浄土宗史』(『浄土宗全書
第二十巻』山喜房佛書林 一九七六年)、長谷川匡俊『近世念仏者集団の行
動と思想』(評論社 一九八〇年)、同『近世浄土宗の信仰と教化』
(渓水社
一九八八年)、西村玲『近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』
(トラ
ンスビュー 二〇〇八年)、西村玲「近世律僧の思想と活動─インド主義を
中心として」(『仏教文化研究』第五八号 浄土宗教学院 二〇一四年)を参
照した。
( ) 長沢規矩也・阿部隆一編『日本書目大成三』(汲古書院 一九七九年)
、所
収。これを論じたものに、内藤湖南「敬首和尚の典籍概見」(『内藤湖南全集
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
第十二巻』筑摩書房 一九七〇年)
、三輪晴雄「敬首撰述『典籍概見』管観」
(
『仏教論叢』第二四号 浄土宗教学院 一九八〇年)がある。
) 龍谷大学図書館本を参照した。
) 龍谷大学図書館本を参照した。
) 龍谷大学図書館本を参照した。
) 東京国立博物館と佛教大学に写本が伝わる。前者は『當麻寺 極楽浄土へ
のあこがれ』
(奈良国立博物館 二〇一三年)に出陳された。後者は松永知
海「翻刻・忍海著『當麻変相考』
」(
『法然学会論叢』第三号 仏教大学法然
学 会 一 九 八 〇 年 ) に 翻 刻 さ れ、 さ ら に 同「 忍 海 著『 当 麻 変 相 考 』 に つ い
て」
(
『仏教論叢』第二四号 一九八〇年)によって解説される。
) 以下、
「マンダラ」の表記については浄土宗の主流派・鎮西派で通用して
いる「曼陀羅」を用いる。なお、この調査において忍海は、延享二年(一七
四五)七月十五日に東山大雲院の義淵龍から、延宝年間に性愚によって行わ
れた当麻寺伝来の「当麻曼陀羅」の修復と、貞享本の制作に関する詳細な記
録『当麻重新曼荼羅縁記』などを授与されている。大賀一郎『当麻曼陀羅修
復記録』
(田畑謄写堂 一九四一年)に翻刻され、詳しく解説されている。
) 佛教大学図書館本を参照した。
) 日野龍夫『服部南郭伝攷』
(ぺりかん社 一九九九年)で論じられる。
) 以下、『南郭先生文集』の引用に関しては『詩集日本漢詩 第四巻』
(汲古
書院 一九八五年)所収本を用いた。
)『
『浄土宗全書 第十九巻』(山喜房佛書
三縁山志』巻三「○宝松院」項。
林 一九七一年)
、所収。
) 千葉市美術館ラヴィッツ・コレクション本、九州大学文学部相見文庫本、
九州大学中央図書館本を参照した。ただし、千葉市美術館本は最後の二頁が
失われている。
『ラヴィッツ・コレクション 日本の絵本』(平木浮世絵美術
館 一九九四年)に三図、
『単彩画』
(久保惣記念美術館 二〇一三年)に二
図が掲載される。
)『
青山樵唱集』に関しては国立国会図書館本を参照し、以下の引用も同書
によっている。
謝無礙上人石墨画蘭見贈
春日之山生彩石
春日の山 彩 石を生じ
採来呵硯墨淋漓
採り来りて硯を呵せば墨淋漓
霊異怪物乗時出
霊異怪物 時 に乗じて出で
古往今来無人知
古往今来 人 知ることなし
揮毫忽試復有誰
揮毫忽ち試すにまた誰かあらん
無礙道人画禅癖
無礙道人 画禅の癖
23 22 21 20
24
27 26 25
28
29
30
13 12 11 10 9
15 14
16
17
18
19
116
(
(
(
(
(
(
卒払繭紙臨墨池
つひに繭紙を払ひ墨池に臨めば
九畹国香隨手起
九畹国香 手
に隨て起つ
一叢蕙葉吐紫蕤
一叢の蕙葉紫蕤を吐き
従来墨蘭称墨妙
従来の墨蘭 墨 に称ひて妙なり
更得神物愈神奇
さらに神物を得ていよいよ神奇
贈我山中帖壁上
我に贈る 山中帖壁の上
白屋輝光白玉姿
白屋輝光す白玉の姿
不羨王家磁斗色
羨まず王家磁斗の色
還思楚佩悲騒辞
還て思ふ楚佩悲騒の辞
誰識流芳千載後
誰か識らん流芳千載の後に
妙画神物遇一時
妙画神物一時に遇ふを
) 架蔵本を参照した。本書を論じたものに、新井俊夫「和字選択集」
(
『仏教
論叢』第二九号 浄土宗教学院 一九八五年)がある。
) 龍谷大学図書館本、西尾市立図書館岩瀬文庫本を参照した。
) 早稲田大学図書館本を参照した。
) 大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学出版部 一九六
七年)、所収。
) 南郭使用印のなかに忍海が手掛けたものが存在することについては、服部
匡延氏が「南郭印存後記」(『早稲田大学図書館紀要』第一二号 早稲田大学
図書館 一九七一年)で論じられている。
) 服部白賁『蹈海集』巻之二。国立国会図書館本を参照した。以下の引用も
同様である。
海雲上人の画ける壁上廬山の図を観る
高僧遊戯試神通
高僧遊戯神通を試み
援毫一掃代天工
毫を援て一掃天工に代ふ
大地縮来何所現
大地縮し来る何の現ずる所ぞ
九畳涌出廬岳雄
九畳涌出で廬岳雄なり
寓目蕩胸閑仰止
目を寓し胸を蕩して閑に仰止すれば
気色氤氳生室裡
気色氤氳として室裡に生ず
詠真之天不違顔
詠真の天顔を違へず
逸勢翩翔与鸞似
逸勢翩として翔鸞と似たり
梁間忽掛三千尺
梁間忽ち掛く三千尺
衣裳欲濺銀河水
衣裳濺せんと欲す銀河の水
林壑圍繞梵王宮
林壑圍繞す梵王の宮
峭壁懸巌各自峙
峭壁懸巌各自ら峙ち
就中莫是五老峰
なかんずくこれ五老峰なること莫んや
逈壓彭蠡横雲起
逈かに彭蠡を壓して雲に横りて起る
虎渓還往絶塵俗
虎渓還往塵俗を絶つ
冥契盡是嘉遁士
冥契盡く是れ嘉遁の士
我亦宛入列真囿
我もまた宛として列真の囿に入る
寧論殊域千万里
寧ぞ論ぜんや殊域千万里
古来幾人写名山
古来幾人か名山を写す
借問此図誰得比
借問す此の図誰が比するを得ん
君不見
君見ずや
雁門法師能画流
雁門法師能画の流
禅余或応少文求
禅余或いは少文が求に応ず
弾琴一曲今老矣
弾琴一曲今老たり
不妨臥作蓮社遊
妨げず臥して蓮社の遊を作すことを
( ) 祥水海雲『金城余稿』巻之一。大阪府立中之島図書館本を参照した。
忍海上人の房にて廬山図を観る
開士神通力
開士の神通力
含毫掃列牆
毫を含みて列牆を掃ふ
嵐烟看起坐
嵐烟看々として坐に起り
彩翠忽流梁
彩翠たちまち梁に流る
瀑布三千尺
瀑布三千尺
松杉夏日凉
松杉 夏日の凉
攅峰争秀色
攅峰 秀色を争ひ
畳嶂入冥茫
畳嶂 冥茫に入る
石鏡常懸月
石鏡は常に月を懸け
杏林長駐芳
杏林は長く芳を駐む
虎渓人似笑
虎渓の人は笑ふに似たり
彭蠡雁成行
彭蠡の雁は行を成す
景物九江外
景物九江の外
風雲南斗傍
風雲南斗の傍
違顔唯咫尺
顔を違へて唯々咫尺
寓目此徜徉
目に寓してここに徜徉す
絶妙収天地
絶妙天地を収め
嶙峋集几牀
嶙峋几牀を集む
還驚丈室裡
還て驚く丈室の裡
万里縮殊方
万里殊方を縮めることを
) 秋元小丘園『小丘園集初編』巻之三。早稲田大学図書館本を参照した。以
下の引用も同様である。
(
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海雲上人の房にて廬山図を観る歌
雲映帯分樹嬋媛
雲映帯分 樹は嬋媛たり
堂上恍見一乾坤
堂上恍として見る一乾坤
山嶤岏兮水栄廻
山嶤岏として水栄廻す
誰人有力能移来
誰人か力ありてよく移し来るや
樹下有人呼不起
樹下人ありて呼べども起きず
開樽我将就崔嵬
樽を開て我まさに崔嵬に就かんとす
海公囅然笑説余
海公囅然として笑ひて余に説く
乗興払拭匡廬図
興に乗じて匡廬図を払拭すと
匡廬山匡廬山
匡廬山匡廬山
我昔
我昔
夢冥捜兮神空往
夢に冥捜し神空往く
倏忽今見法筵隅
倏忽として今見る法筵の隅
此山九畳元神秀
この山 九 畳もと神秀
古来曽称天子都
古来かつて天子の都と称す
天地壮観幾千里
天地壮観幾千里
後望岷流前彭湖
後は岷流を望み前は彭湖
石鏡照来五老影
石鏡照らし来たる五老の影
紫霄縹緲白雲孤
紫霄縹緲として白雲孤なり
三石危梁誰復度
三石危梁誰がまた度さん
金闕玉房跡有無
金闕玉房 跡
有りや無しや
千峰直指皆万仭
千峰直指みな万仭
就中秀出是香爐
中に就ひて秀出すこれ香爐
香爐向天欲摩天
香爐天に向かひ天を摩せんと欲す
開先瀑布相対懸
開先瀑布相対して懸かる
天裂地崩激波裡
天裂け地崩れる激波の裡
歘如蛟龍之蜿蜒
歘として蛟龍の蜿蜒たるがごとし
噴雪散珠何雄壮
雪を噴き珠を散じて何ぞ雄壮なる
枯松摧柏遥綿連
枯松摧柏遥かに綿連
如此勝迹丈室内
かくのごとき勝迹は丈室の内
対此寧知丈室在
これに対してなんぞ知らん丈室の在らんことを
公也善画称無敵
公や画を善くして敵なしと称ふ
且知天工人其代
かつ知る天工に人それ代はることを
峭門峻闕秋毫末
峭門峻闕 秋
毫の末
青靄丹霞各分態
青靄丹霞おのおの態を分つ
時看花龕倚百尋
時に看る花龕百尋に倚ることを
定知此處是東林
定めて知るこの處 これ東林なることを
遠公隠処聞已久
遠公の隠処 聞 くことすでに久し
方驚
まさに驚く
此日対坐共会心
この日 対
坐ともに心を会することを
少文唯道耽臥遊
少文ただ道う臥遊に耽ると
方驚
まさに驚く
此日虎渓猶滞留
この日 虎
渓になお滞留することを
十八高賢皆羅列
十八高賢みな羅列す
塵尾玄言勢可求
塵尾玄言勢ひ求むべし
匡廬山匡廬山
匡廬山匡廬山
歴観何処不清幽
歴観し何れの処か清幽ならざらん
君不見
君見ずや
陶令攅眉曽空還
陶令攅眉してかつて空しく還り
謝公塵雑徒愁顔
謝公塵雑していたずらに愁顔するを
海公海公
海公海公
多謝此中能容我
多謝すこの中よく我を容れ
容我許杯翫此山
我を容れ杯を許してこの山を翫ばしむることを
( ) 石 島 筑 波『 芰 荷 園 文 集 』 巻 之 四。
『詩集日本漢詩 第十四巻』
(汲古書院
一九八九年)
、所収。
毎歳暮冬、服子、二三子を挟みて縁山の宝松院に遊ぶ。今ここにま
た例に随ひて陪遊す。席上に賦して刹主・海雲尊者に呈す
相将晴日入山門
あい将いて晴日山門に入る
回暖諸天収雨痕
暖を回して諸天雨痕を収む
雪盡猶疑檀特嶺
雪盡きてなほ疑ふ檀特嶺
雲圍何譲給孤園
雲圍みて何ぞ譲らん給孤園
遺宮深鎖標華表
遺宮 深
く鎖して華表を標し
別院斜通限碧垣
別院 斜 に通じて碧垣を限る
不隔年々延我輩
隔てず年々我輩を延べ
為開香積飽盤飱
為に香積を開きて盤飱に飽く
( ) 耆山の『青山樵唱集初篇』に「掃塵会の後、宝松主人に謝し奉る」と題し
た詩がある。
白社香筵属歳闌
白社の香筵 歳 闌に属し
別来偏憶共憑欄
別に来り 偏 へに憶ひて共に欄に憑る
杉松月照玉盤浄
杉松月照して玉盤浄く
嶂壁風吹華髪寒
嶂壁風吹きて華髪寒し
酔態論文多逸興
酔態 文 を論じて逸興を多くし
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清談移席罄高歓
清談 席 を移して高歓を罄す
遠公為愛陶劉輩
遠公 為 に陶劉の輩を愛し
酒客不妨登梵壇
酒客 梵 壇に登るを妨げず
其二
寒光凋落白蓮居
寒光凋落す 白蓮の居
佳会風流興不疎
佳会の風流 興 疎からず
道友論交金共断
道友論交し 金 共に断ち
英才満座玉相如
英才満座し 玉 相如ふ
氷壺傾盡宝池上
氷壺傾盡す 宝 池の上
沆瀣長沾香積余
沆瀣長沾す 香 積の余
唯惜残年催短景
唯だ残年を惜みて短景を催し
祇林暮色更蹰躇
祇林の暮色 更 に蹰躇す
( ) 秋山玉山『玉山先生遺稿』巻之二。早稲田大学図書館本を参照した。以下
の 引 用 も 同 様 で あ る。 な お、 秋 山 玉 山 の 伝 記 に つ い て は、 徳 田 武『 江 戸 詩 人
伝』(ぺりかん社 一九八六年)に詳しい。
( ) 細川重賢については、『銀台遺事』(『肥後文献叢書 第一巻』隆文館 一
九〇九年、所収)、中野嘉太郎編『細川越中守重賢公伝』(長崎次郎書店 一
九三六年)を参照した。
( ) 秋山玉山『玉山先生遺稿』巻之二。
陪宴攀飛閣
陪宴飛閣に攀り
天晴鳥語新
天晴れて鳥語新たなり
茗迎蓮社客
茗は蓮社の客を迎へ
杯引杏林人
杯は杏林の人を引く
白足連禅榻
白足 禅
榻を連ね
青嚢謝世塵
青嚢 世
塵を謝す
高歌難可和
高歌和すべきこと難し
況復値陽春
いはんやまた陽春に値ふ
( ) 秋山玉山『玉山先生遺稿』巻之三。
( )『 明顕山寺録撮要』壱「起立上人御像并画像之事」。伊藤丈主編『祐天寺史
資料集 第一巻(上)』(祐天寺 二〇〇二年)、所収。
( ) 写本『豊城集』巻之一。早稲田大学図書館本を参照した。
妙画吾黨抵掌称海師
妙画 吾が黨抵掌 海師を称ふ
今日復見絶世之精奇
今日また絶世の精奇を見る
等揚已来実独歩
等揚已来実に独歩
意匠心巧誰得窺
意匠心巧誰か窺ふを得ん
真理所至物皆至
真理至る所物皆な至る
上人風標又可知
上人の風標また知るべし
君不見
君見ずや
孤鶴飛来壁間落
孤鶴飛来して壁間落ちるを
昂々対看凌霄姿
昂々として対看す凌霄の姿
孤操清韻見高致
孤操清韻 高
致を見はす
鳳翼亀背備羽儀
鳳翼亀背 羽
儀を備ふ
仰望未由翔金穴
仰望して未だ金穴に翔くるに由らず
悲鳴有意飲瑶池
悲鳴有意 瑶
池を飲む
仙駕休伴茅山神
仙駕休伴 茅
山の神
願言長隨階除馴
願言長くして階除に隨ひて馴る
云是牧渓墨痕妙
云ふ是れ牧渓墨痕の妙
海師冩得全逼真
海師写して全きを得 真
に逼る
驚看人間有此妙
驚きて看る 人 間この妙有るを
且喜且翫分附人
且つ喜び且つ翫び 人に分附す
何厭人呼羊公鶴
何ぞ厭はん人 羊
公の鶴を呼ぶを
愛爾原自出氛塵
愛爾原より自ら氛塵を出す
( ) 宇 高 良 哲 編『 江 戸 浄 土 宗 寺 院 寺 誌 史 料 集 成 』
(大東出版社 一九七九年)
「 清 光 寺 」 項。
『 御 府 内 寺 社 備 考 第 三 冊 浄 土 宗 』( 名 著 出 版 一 九 八 六 年 )
に影印される。
( )『
、所収。
(汲古書院 一九八七年)
詩集日本漢詩 第七巻』
(岩波書店 一九八七年)
、所収。
( )『大田南畝全集 第四巻』
( )『
(吉川弘文館 一九七八年)
、所収。
日本随筆大成 別巻 一話一言 三』
三、忍海の画業について
( )『
(朝日新聞社 一九九九年)に神
西遊記のシルクロ─ド 三蔵法師の道』
戸 市 立 博 物 館 本 と 法 隆 寺 本 が 紹 介 さ れ る。 こ の「 五 天 竺 図 」 を 論 じ た も の
に、室賀信夫・海野一隆「日本の行われた仏教系世界図について」
(
『地理学
史研究』第一集 地理学史研究会 一九五七年)
、荻野三七彦「法隆寺の「天
竺図」と慶政上人」
(
『日本古文書学と中世文化史』吉川弘文館 一九九五
年)
、海野一隆「宗覚の地球儀とその世界像」(
『東洋地理学史研究 日本篇』
清文堂出版 二〇〇五年)、ジャメンツ・マイケル「第四章 法隆寺所蔵「五
天竺図」についての覚え書き」(藤井譲治・杉山正明・金田幸裕編『大地の
肖像』京都大学学術出版会 二〇〇七年)などがある。
( )『
(名著普及会 一九八〇年)、
大日本仏教全書一一四 遊方伝叢書第二』
所収。
( ) 定月については、三村竹清「妙誉定月上人事蹟」
(
『心の花』第二七巻第九
号 竹柏会 一九二三年)
、野村恒道・伊坂道子『妙定院史』
(妙定院 二〇
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紅楓磴
釋曇龍
楓磴霜前樹 園陵秋後山
看連天錦色 相映曝雲間
垂桜蹊
滕子宥
古蹊覆地花 爛漫二三月
如雪好満枝 枝々不堪雪
涅槃石
釋香谷
石面会群生 双樹望不極
困識涅槃姿 還留常住色
望嶽亭
源稷卿
雪迎大嶽白 雲送縁山紫
更添明月色 清気満亭子
極楽橋
楽国開真境
何須論下乗
万松林
万松連浄界
不須蓮漏刻
鵜士寧
鏡中孤影斜
捧出数茎花
僧円海
石橋横古渓
不使凡夫棲
前大徳大川
衆宝自為枝
清風度六時
北渓雪
僧大梁
積素三千社 北渓寒最深
可憐求道客 俱入雪山心
翠柳井
菅習之
青々映井華 祇苑楊柳樹
垂絲何所繋 禅心元不住
聳天塔
釋恵頓
孤高不可登 湧出自崚嶒
誰接聳天勢 超騰窮五層
円山月
田仲山
空山何所有 明月与禅心
相照不相厭 清光夜々深
白蓮池
芝嶺白雲落
看裁清浄色
右
鳳岡関思恭書
( )「飲酒二十首」其五の全文を掲げておく。
結盧在人境 而無車馬喧
問君何能爾 心遠地自偏
服忠英
高擁登仙路
千秋霊蹕駐
57
五雲路
払雲松柏樹
気色信佳哉
〇八年)に詳しい。
( ) 了 月 の 伝 記 に つ い て は、 寛 政 五 年( 一 七 九 三 ) の 序 文 が あ る『 新 撰 往 生
伝 』 巻 之 五(『 浄 土 宗 全 書 第 十 七 巻 』 山 喜 房 佛 書 林 一 九 七 一 年、 所 収 )
に 掲 載 さ れ る。 な お、 師 の 了 也 と 将 軍 綱 吉 と の 関 係 は、 伊 藤 唯 真「 円 光 大 師
贈号と増上寺了也・柳沢吉保」(『日本仏教史学』第十一号 日本仏教史学会
一九七六年)で触れられる。
( )『 明顕山寺録撮要』壱「開山略事跡」「開山真影之事」。伊藤丈主編『祐天
寺史資料集 第一巻(上)』(祐天寺 二〇〇二年)、所収。
( )『 浄土宗全書 第十九巻』(山喜房佛書林 一九七一年)、所収。
縁山十二景画後
古 澗 長 老 所 図 縁 山 勝 景、 其 徒 相 伝 珍 蔵 焉、 霊 応 上 人 覧 而 愛 之、 欲 令 余 摹 之
願 我、 縁 山 之 大 刹 園 陵 殿 堂 茂 林 幽 谷 鬱 乎 羅 列 其 中、 則 其 玄 趣 壮 麗、 非 拙 技
之 所 能 画 也 固 矣、 況 乎 余 之 疎 懶、 人 或 有 請 率 以 拙 解 者 多 矣、 雖 然 上 人 懇 敦
篤 諄 々 不 已、 以 故 貌 其 梗 槩 聊 塞 委 命、 已 経 営 既 成、 比 校 旧 図 不 類 焉 者 往 々 有
之、 亦 唯 好 尚 不 同、 然 隨 其 志 所 至、 則 今 所 筆 削 雖 妄 固 亦 所 不 恤 也、 上 人 遂 就
画命題其間十二勝而使一時諸賢各有所詠、請余亦在其列、余戯之曰諸賢、已
画之、余亦賦之曰何謂也、余曰古人不云乎詩中有画、画中有詩非邪、上人乃
笑是、唯余不才幸以此為遁辞焉耳、
宝暦戊寅秋日 海雲書於無礙草堂中
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56
120
採菊東籬下 悠然見南山
山気日夕佳 飛鳥相與還
此中有真意 欲辨已忘言
( ) 陶淵明を画題にした作品については、救仁郷秀明「日本中世絵画における
陶淵明と蘇軾」(『東京国立博物館紀要』第三八号 東京国立博物館 二〇〇
三年)に詳しい。
( )『 大本山清浄華院の美術工芸』(佛教大学宗教文化ミュージアム 二〇一一
年)に「絵十三」として掲載される。
( )『 大正新修大蔵経 第二〇巻 密教部三』、所収。
( ) 宇 高 良 哲 編『 江 戸 浄 土 宗 寺 院 寺 誌 史 料 集 成 』( 大 東 出 版 社 一 九 七 九 年 )
「 本 誓 寺 」 項。『 御 府 内 寺 社 備 考 第 三 冊 浄 土 宗 』( 名 著 出 版 一 九 八 六 年 )
に影印される。
宝暦十年正月津誉縁山に在て千手法を宝松院忍海上人に受く、仍而御
腹籠之尊像を出し天神谷寮にて供養す、時に同年二月六日城北火あり、
災当寺に及んで地蔵堂而已巋然として、余はことごとく焼失せり、正観
音 の 像 も こ の 時 烏 有 と な る、 御 腹 内 之 像 は 縁 山 に 有 ゆ へ に 仍 て 幸 ひ に 火
を 免 か る、 又 一 奇 也、 小 像 な る を も つ て 紛 失 を 慮 り 宮 殿 を 造 り て 是 を 納
るもの也、但此小像も何頃か紛失す。
( ) 佛告阿難及韋提希。此想成已、次當更觀無量壽佛身相光明。阿難當知。無
量壽佛身、如百千万億夜摩天閻浮檀金色佛身高六十万億那由他恆河沙由旬。
眉間白毫、右旋婉轉、如五須彌山。佛眼如四大海水、青白分明。身諸毛孔、
演 出 光 明。 如 須 彌 山。 彼 佛 圓 光、 如 百 億 三 千 大 千 世 界。 於 圓 光 中、 有 百 万 億
那由他 恆河沙化佛。一一化佛、亦有衆多 無數化菩薩。以爲侍者。無量壽
佛、 有 八 万 四 千 相。 一 一 相、 各 有 八 万 四 千 隨 形 好。 一 一 好、 復 有 八 万 四 千 光
明。一一光明、徧照十方世界。念佛衆生、攝取不捨。其光明相好及與化佛、
不可具説。但當憶想令心眼見。見此事者、即見十方一切諸佛。以見諸佛、故
名 念 佛 三 昧。 作 是 觀 者、 名 觀 一 切 佛 身。 以 觀 佛 身 故、 亦 見 佛 心。 佛 心 者 大 慈
悲是。以無縁慈、攝諸衆生。作此觀者、捨身他世 生諸佛前、得無生忍。是
故 智 者、 應 當 繫 心 諦 觀 無 量 壽 佛。 觀 無 量 壽 佛 者、 從 一 相 好 入。 但 觀 眉 間 白
毫、極令明了。見眉間白毫者、八万四千相好、自然當見。見無量壽佛者、即
見 十 方 無 量 諸 佛。 得 見 無 量 諸 佛 故、 諸 佛 現 前 受 記。 是 爲 徧 觀 一 切 色 身
想、名第九觀。作此觀者、名爲正觀。若他觀者、名爲邪觀。
維時安永戊戌仲秋十有二日
上来書寫及以讀誦禮拝稱名之功勲冀哀愍覆護我令法種増長此世及後生願佛常
攝受 杜多了瑛拝寫
( ) 龍谷大学図書館本を参照した。
(
(
(
(
(
(
(
(
) これに関する忍海の説として『当麻曼陀羅正義隨聞記』の「第三無等無倫
会」に、
真 言 家、 五 智 を 談 ず る と い へ ど も 弥 陀 一 仏 の 上 に お い て 五 智 を 立 て
ず。しかも浄土教を以て貶め顕教となす。
今云ふ、浄土教のみ西方極楽において五智を建立す。この五智の説の
根本は大聖に出でて、曇鸞大師これを略釈す。然りといへどもいまだそ
の義を尽さず。然るに法相・三論・花厳・天台はただ四智を説き、五智
を知らず。五智を知る者は浄土教と及び真言家となり。然れども五智根
本は浄土教に出づ。真言は却て枝葉なり。何となれば浄土の五智の説は
後漢の支流伽懺、平等覚経を訳し、この時すでに五智の説あり。仏法東
漸最初の五智の説なり。真言の五智は季唐に方り、無畏(善無畏)
・金
智(金剛智)等盛んにこれを演ふ。然りといへども浄土教の五智に後る
ること数百年なり云々。
とある。
) 法然上人像に関する論文のうち、主要なものを挙げておく。裏辻憲道「足
曳御影考」
(
『画説』第二号 東京美術研究所 一九三七年)
、望月信成「法
然上人の御影」
(『美術研究』第七九号 東京美術研究所 一九三八年)
、中
村 興 二「 法 然 上 人 像 と 四 十 八 巻 伝 」(
『仏教芸術』第一三〇号 毎日新聞社
一九八〇年)
、津田徹英「図版解説 法然上人像(伝藤原隆信筆)京都・知
恩院蔵」
(
『美術研究』第三八二号 東京文化財研究所 二〇〇四年)
、高間
由香里「御影に見る浄土宗祖師信仰発展の過程」
(
『仏教文化研究』第五八号
浄土宗教学院 二〇一四年)
。
) 早稲田大学図書館本を参照した。
) 佛教大学図書館本を参照した。
)『
「絵
増上寺史料集 附巻』(増上寺史料編纂所 一九八三年)の目録に、
一五 紙本着色了誉聖冏上人尊像影」とある。
) 聖冏の伝記については、冏祖五百年遠忌準備局編『聖冏禅師伝』
(一九一
九 年 )、 玉 山 成 元「 了 誉 聖 冏 上 人 伝 の 諸 問 題 」
(
『仏教文化研究』第三九号
浄土宗教学院 一九九四年)
、東海林良昌「随自顕宗・随他扶宗について─
大 玄『 浄 土 頌 義 探 玄 鈔 』 を 中 心 に ─ 」
(『佛教大学総合研究所紀要』第一六号
二〇〇九年)
、鈴木英之『中世学僧と神道 了誉聖冏の学問と思想』
(勉誠出
版 二〇一二年)を参照した。
) 大宮町史編さん委員会編『大宮町史』
(大宮町役場 一九七七年)。
) 野村恒道・伊坂道子『妙定院史』
(妙定院 二〇〇八年)
、藤堂祐範「法然
上人行状画図の弘伝に努めし人々─殊に横井金谷について─」
(
『仏教文化研
究』第一〇号 知恩院仏教文化研究所 一九六一年)
。
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(大内熊耳『熊耳先生文集』巻之二)
おわりに
( ) 恵 頓 の 伝 記 は 寛 政 五 年( 一 七 九 三 ) の 序 文 が あ る『 新 撰 往 生 伝 』 巻 之 五
(『浄土宗全書 第十七巻』山喜房佛書林 一九七一年、所収)に掲載される
ほか、『泉谷瓦礫集』巻頭の「自叙」にも詳しい。また、その事蹟について
大橋俊雄「泉谷寺恵頓の著書に就て」(『書物展望』第十六巻第四号 書物展
望社 一九四九年)、同「泉谷寺恵頓について」
(『仏教論叢』第二八号 浄
土 宗 教 学 院 一 九 八 四 年 ) が 触 れ て い る。 な お、 大 阪 府 茨 木 市 に あ っ た と い
う 西 福 寺 は 廃 寺 と な っ て お り、 そ の 寺 地 に は 浄 福 寺 と い う 名 の 寺 が 建 立 さ れ
ている。
( ) 以下、それぞれの詩文集より、一首ずつを掲げておく。なお、『熊耳先生
文集』は早稲田大学図書館本、『芸閣先生文集』は『詩集日本漢詩 第十五
巻』(汲古書院 一九八九年)、所収本をそれぞれ参照した。
送恵頓上人陪版輿帰摂西
摩耶山上白雲飛 千里郷関接帝畿
但道北堂恩可報 相従遥転法輪帰 (服部白賁『蹈海集』巻之五)
宿泉谷寺呈恵頓上人
投宿依方丈 遠公趺坐辺
六時滴蓮漏 通夕掛風泉
十載人間別 三生石上眠
祇須共剪燭 却語旧因縁
寄懐恵頓和尚
青山繚繞漢陵傍 楼観巍然佳気長
結社長留金錫影 当窓自産玉芝香
牀前曽刻蓮華漏 衣裏偏懸明月光
聞説講筵揮塵尾 玄風知是満僧房 (
千葉芸閣『芸閣先生文集』巻之三)
暮秋同田仲山及聞信俊霊徳巌三師陪服先生遊小几山泉谷寺途中賦贈
仲山
此行非独往 提挈自依依
一老従縫
三乗伴衲衣
前程寧厭遠 佳境本調饑
踪背鳳城闕 心閑鶴水𥔎
海方東道拆 眼界萬山圍
渉澗流泉激 穿林秋葉飛
時追樵唱逈 更指岫雲帰
浄域知何処 群峰坐落暉
暮鐘聲髣髴 香刹望霏微
(秋元小丘園『小丘園集』巻之六)
俱喜烟霞窟 幽尋願不違
( )『
南郭先生文集四編』巻之三、
為慧頓上人題芙蓉図
壁上芙蓉万仞山 雪華如玉対開顔
奪将芥子須弥色 容在諸天方丈間
なお、南郭との交流を示すものとして、南郭初七日の宝暦九年(一七五九)
七月九日に服部家を弔問したことのわかる「宝暦九年七月九日付、坪井喜八
宛服部白賁書簡」が、服部匡延「服部南郭資料」
(近世文学史研究の会編『近
世中期文学の研究』笠間書院 一九七一年)で紹介される。
( ) 耆山については、玉林晴朗『蜀山人の研究』
(畝傍書房 一九四四年)に
おいて詳細に論じられる。
( ) 恵頓『泉谷瓦礫集』「耆山上人詩稿序」、
詩は以て志を観るべし。心志の趣くところ、事物に触れて経営し、結構
し、 こ れ を 声 音 に 発 し、 諷 詠 以 て 接 し、 情 欲 の 感 ず る と こ ろ、 山 川 の
奇、 名 勝 の 趾、 こ れ を 意 匠 に 寓 し、 興 象 以 て 応 ず。 こ の 故 に 喜 ぶ 者 あ
り。怒る者あり。哀しむ者あり。楽しむ者あり。あるいは賦、あるいは
比、あるいは興、物に応じて千変万態し、始めより定る跡なし。なほこ
れ天籟の衆竅に鳴て転変窮り已むことなきがごとし。然して才難し。そ
の気格声律、風韻の妙、苟も朝習夕講、沈思苦吟、日磨し月琢してその
章を金玉にし、而して師友に就てこれを裁正するに非ざれば、いまだ以
て与に言ふべからざるのみ。嗜山上人、夙に青山に隠れ、名を逃れんと
欲する者なり。それ名を逃るる者はその迹を晦ます。その迹を晦ます者
は 徳 を 韜 く し 光 を 葆 す。 已 む こ と な く ん ば 佯 狂 妄 行、 一 挙 萬 里 す る の
み。詩は世の騒士の尚む所、文情葩辤なり。身すでに隠るにいづくんぞ
文を用ん。然して今世、徳の以て称すべき無くして、而して名を顕んと
欲する者多し。これ一に何ぞ実に嗇にして賓に豊なるや。皮の存せざる
毛、まさに安んぞ傅けんとするや。ただ得ることなきのみにあらず、徒
に世の笑を取るのみ。名を逃れて倡狂するも、なほこれその影を畏れて
日中に走るがごとし。その跡いよいよ彰る。潜かに伏すといへどもまた
またこれ昭らかならんと云はずや。苟もその実豊かにして、中に弸ちて
外彪ならば、則ち文独り何ぞ傷まん。上人居恒に貧屢、一鉢一瓶、その
楽を改めず。その楽しむ所、乃ち散じてこれをその詩に発す。故にその
詠ずる所、いまだ気格声律を必とせず、またいまだ嘗て師友に就てこれ
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を裁正せず。然れども高尚の逸する所、自然に妙境に臻る者あり。それ
弸ちて彪なる者と謂はざるか。また何ぞ常人に望む所ならんや。近ごろ
友 人、 そ の 稿 を 録 す る 者 あ り。 上 人 も と よ り ま た そ の 録 と 不 録 と を 管 せ
ざるときは、則ち即ちまたいまだ嘗て巧拙を以て念とせざるや、知るべ
きのみ。見る者の常調を以てこれを議すること得ることなかれ。上人す
でに跡を晦まし、世を玩して累外に逍遥し、高く引て浄業に隠る。安ん
ぞその緒余を以て間然することを得んや。余を以てこれを観るに、およ
そ禅余の遊戯、詩より善きはなし。澄心凝思、惛掉の気、頓に化し、屏
息 深 坐、 禅 定 の 智、 漸 く 熟 す。 そ れ 然 し て の ち、 歴 縁 遷 ら ず。 吾 が 奢 摩
多 毘 鉢 舎 那、 遂 に 以 て こ れ よ り 進 ま ん。 古 徳 あ る い は 謂 ふ、 釈 氏 の 詩 に
お け る や、 須 べ か ら く、 経 論 の 偈 頌 に 則 る べ し と 云 て、 而 し て 故 ら に 風
韻 を 殺 す る 者 あ り。 蓋 し 偈 頌 は 貫 散 壹 是 に 皆 な 逢 意 の み。 質 直 無 文 な
り。 こ れ そ れ 彼 此 対 訳 の 時 に 方 り て、 た だ 称 合 こ れ 務 め て 頗 る そ の 雅 馴
の 風 致 を 失 す る 者 の 無 き こ と を 得 ん や。 然 ら ず ん ば、 何 ぞ 雅 思 淵 才 文 中
王 を 以 て 称 し て、 而 し て 金 口 の 宣 す る 所、 質 の み に し て 野 に 卒 は る こ と
あ ら ん や。 上 人 蓋 し 深 く こ の 契 を 窺 ふ。 則 ち 機 軸、 我 よ り し て 而 し て 錦
段 鸞 章 の 美 を 乖 か ざ る 者 な り。 翼 く は 吾 が 門 の こ の 技 に 遊 ぶ 者 の こ こ に
おいて取ることあらんことを。泉谷杜多恵頓撰
( ) 菊池衡岳『衡岳先生思玄亭遺稿』巻之三。東京都立中央図書館本を参照し
た。
渓公画絶表僧林 写得霜禽妙更深
聯歩相呼風雪裏 離群孤宿萩蘆陰
梁王不顧池辺影 漢使何伝塞外音
還託山房長戢翼 忘機墨戯愜禅心
( )「 八代将軍・徳川吉宗の時代における中国絵画受容と徂徠学派の絵画観─
徳 川 吉 宗・ 荻 生 徂 徠・ 本 多 忠 統・ 服 部 南 郭 に み る 文 化 潮 流 ─ 」(『 古 文 化 研
究』第十三号 黒川古文化研究所 二〇一四年)で詳しく論じた。
( )『 南郭先生文集四編』巻之一
秋日訪耆山上人青山禅居
古道青山静 空居白日寒
柴門信客啓 笏室容天寛
茶水清充飲 菊英香可餐
陶家秋色少 此就遠公看
『南郭先生文集四編』巻之三
春日送耆山上人西遊
雲遊仗錫幾山河 最是長安春色多
縦是幻華無所著 勝情寧得等閑過
(
『大田南畝全集 第十巻』
( ) たとえば享和三年(一八〇三)の『杏園間筆』
岩波書店 一九八六年、所収)には、末尾に「耆山上人の話を記し置り」と
し、敬首と忍海について次のように記している。
○箕輪土手のほとり寿永寺に増上寺敬首和上の墓あり。真如菩薩僧敬首
和上之墓とあり。忍海、曇海などみなその弟子也。今より五十余年前に
遷化也。
○題画梅
忍海上人
梅花雪裏開 雪色自相似 別是有天香 群芳不可比
又、忍海上人増上寺にありし時天神夢想の歌あり。
粟の飯紙の衣に草の庵たるとしりなばやすき世中
故に粟紙草の三字を書て額とし、萱野の天神の社頭にかかげしとぞ。又
宝暦六年上野二王門建し時の狂歌に、
上野なきたうとき寺の門なれば花よりさきに先二王也
忍海、字海雲、号無礙子、又号白華、画をよくせり。増上寺宝松院主也。
( )『
(吉川弘文館 一九七三年)
、所収。
日本随筆大成 第二期第二巻』
( ) 墓石裏面には次のように刻まれている。
寛政六甲寅年四月十七日
青蓮社香誉上人耆山玄海和尚
江都青山百夫巷隠栖
八十三翁南蓮社無誉山之墓石
寛政甲寅六正旦
妙有庵
図版出典
図 ・
早稲田大学学術情報検索システムホームページから転載した。
図
『牧谿』
(五島美術館 一九九六年)
図
『江戸時代図誌 第五巻 江戸二』
(筑摩書房 一九七六年)
塩竈義弘『曼陀羅を説く』
(山喜房佛書林 二〇〇三年)
図
7
[附記] 本稿を成すにあたっての作品調査、写真掲載に関して、最勝院・住職の
村田洋一氏、清浄華院・執事の平祐輝氏、研究員の松田道観氏、増上寺・
出版課各位のお手を煩わせ、御高配を賜った。末筆ながらここに記して謝
意を表します。
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忍海(1696〜1761)略年譜
元
号 西暦 齢
元禄 9 1696
1
事
項
出
典
生。
享保元 1716 21 この頃、増上寺の鉄船和尚に従って出家剃髪し、忍海と名付けられる。
2 1717 22 11 月 22 日、父を亡くす。「聚香院清誉宇白祐和居士」
12 1727 32 春、「帰去来図」を描く。
18 1733 38 10 月 16 日、母を亡くす。「馨聚院願誉香雲智清大姉」
11 月 25 日、敬首が説いた菩薩戒の談話を筆録する。
恵頓『泉谷瓦礫集』
「忍海上人伝」
墓碑
a
墓碑
『瓔珞和上説戒隨聞記』
20 1735 40 敬首が説いた「梵網経菩薩戒品台疏玄談」を筆録し、印可を得る。
元文元 1736 41 2 月 15 日〜 30 日、敬首による「阿弥陀経」の講説を筆録する。
『阿弥陀経隨聞録』
夏、敬首による「一枚起請文」の講説を筆録する。
『一枚起請文親聞録』
11 月、慧空が増上寺に寄贈した『五天竺図』を了碩、定月とともに模写する。
『西域図麤覆二校録』
12 月、模写した『五天竺図』に彩色を加える。
『西域図麤覆二校録』
3 1738 43 夏、印譜集『白華印譜』を版行し、「地」巻に自筆で跋文を書す。
二松学舎大学図書館 3 冊本
8 月、模刻本『欧陽詢千字文』の跋文を書す。(縁山北渓沙門忍海跋)
寛保元 1741 46 2 月、陸奥守山藩主・松平頼貞が『白華印譜』「地」巻に序文を寄せる。
二松学舎大学図書館 1 冊本
神洞編『浄土仏祖図録』刊。浄土祖師図を描く。
3 1743 48 秋、大和古刹の恵心僧都筆という「当麻曼陀羅」を入手する。
『当麻曼陀羅正義隨聞記』
延享元 1744 49 関通著『和字選択本願念仏集』刊。24 点の挿図を描く。
4 月 21 日、敬首による「当麻曼陀羅」に関する講説が始まる。
2 1745 50 2 月 15 日、敬首による「当麻曼陀羅」に関する講説が終わる。計 32 回。
『当麻曼陀羅正義隨聞記』
『当麻曼陀羅正義隨聞記』
5 月 15 日〜 19 日、大和の当麻寺を訪れ、4 本の「当麻曼陀羅」を調査する。
『当麻変相私記』
6 月 23 日、京都の禅林寺を訪れ、「当麻曼陀羅」を拝観する。
『当麻変相私記』
7 月 15 日、東山大雲院の義淵龍から『当麻重新曼荼羅縁記』を手写授与される。
8 月 8 日〜 11 日、当麻寺北宝院の恵音法印から「変相の秘伝」を伝授される。
大賀一郎『当麻曼陀羅修復記録』
『当麻変相私記』
10 月、当麻寺の貞享本「当麻曼陀羅」を知恩院入信院に移送し、塗り直しを行う。 『当麻変相私記』
3 1746 51 1 月 18 日、貞享本「当麻曼陀羅」を知恩院入信院で開光供養する。
『当麻変相私記』
4 月、『当麻変相私記』を執筆する。
『当麻変相私記』
6 月、
之元の『天下有山堂画芸』を模刻出版する。
秋、妙導の『幡隨意上人行状』に跋を加える。(東都縁山北溪釋忍海雲)
5 1748 53
『当麻変相私記』
2 月、貞享本「当麻曼陀羅」を当麻寺へ移送する。
2 月 8 日、「千手眼観世音尊像」を描き始め、3 月 8 日に開眼供養をする。
(小白花沙門忍海雲敬画併誌)
7 月、三田永昌山龍源寺のために「釈迦三尊像」を描く。
(延享戊辰秋七月縁山北渓沙門忍海拝描)
寛延元 1748 53 8 月 25 日、師の敬首から「宗旨の安心、自門所立法門の趣」を伝授される。
9 月 20 日、師の敬首が遷化する。
『有山堂画譜』
『浄土宗全書』17
b
『御府内寺社備考』
『略伝集』「敬首和上略伝」
『略伝集』「敬首和上略伝」
2 1749 54 9 月、京都小松谷正林寺の「釈迦三尊像」を描く。
宝暦 2 1752 57 5 月 15 日、浅草清光寺に「阿弥陀如来木像、座像長 1 尺 7 寸恵心僧都作」を寄贈
『御府内寺社備考』
する。
12 月 8 日、小松谷正林寺の戒寿に依頼された「円光大師行状図」の制作を始める。
3 1753 58 9 月 12 日、正林寺の「円光大師行状図」四幅対が完成する。
4 1754 59 敬首説・忍海筆録『梵網経菩薩戒品台疏玄談・梵網経菩薩戒品精義』刊。
敬首説・天心筆録『典籍蓋見』が忍海の跋文を加えて刊行される。
(東都縁山宝松沙門海雲自書)
7 1757 62 服部南郭の別邸・白賁墅の床の間や襖に「猿鶴図」を描く。
8 1758 63
秋、古澗が描いた「縁山勝景図」を模写して「縁山十二景図」とする。
(海雲書於無礙草堂中)
『三縁山志』
この頃、『冬至梅宝暦評判記』が刊行され、その名前が掲載される。
9 1759 64 6 月 5 日〜 7 月 10 日、「当麻曼陀羅」に関する講説を行う。
8 月、細川幽斎 150 回追善歌筵に白金の清源院法尼の宅を訪れる。
『当麻曼陀羅正義隨聞記』
『三縁山志』
9 月、敬首による「当麻曼陀羅」の講説を『当麻曼陀羅正義隨聞記』として取りま
『当麻曼陀羅正義隨聞記』
とめる。
9 月、『九巻伝』の写本に付記を加える。
『浄土宗全書』17
12 月 27 日、祐天寺 2 世住持・祐海 78 歳の肖像画を描く。
『明顕山寺録撮要』
敬首による「一枚起請文」の講説を取りまとめる。
安永 3 年 (1774) に『一枚起請親聞録』として刊行される。
『一枚起請親聞録』
南郭の形見として、南郭筆「三十三観音図模本」を養嗣子の服部白賁から贈られる。 『蘐園雑話』
10 1760 65 正月、深川本誓寺の津誉に「千手法」の伝授を行う。
11 1761 66 6 月 17 日、没。
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耆山によって『有山堂画譜』が重版される。
『御府内寺社備考』
墓碑
『有山堂画譜』
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