小林悟空君の卒業論文研究

現代のコミュニケーションの構造と意義
京都大学 文学部 4 回生 小林 悟空
0100-23-3211
目次
1 はじめに
1-1 研究背景・「コミュニケーション能力」の流行
1-2 方法
2 コミュニケーションの構造
2-1 コミュニケーションの内容と形式
2-2 コミュニケーションと社会的関係
3 コミュニケーションの位置づけ
3-1 公私の場面の分離
3-2 匿名コミュニケーションの出現
3-3 社交の労働化
4 コミュニケーション能力
4-1 コミュニケーション能力の歴史
4-2「コミュニケーション能力」とは何か
4-3「コミュニケーション能力」の蔓延
1 はじめに
本論の目的は、コミュニケーションが社会的にどう位置づけられているかを知ることである。
1-1 研究背景・「コミュニケーション能力」の流行
「コミュニケーション能力」は「コミュニケーション力」とか、略して「コミュ力」などとも呼ばれている。
この言葉は、ここ数年のあいだで急激に、いたるところで使われるようになり、また重視されるように
なったという印象がある。例えば、日本経済団体連合会が発表した「新卒採用(2013 年 4 月入社
対象)に関するアンケート 調査結果の概要」(2014 年 1 月)によれば、企業が「採用選考時に重
視する要素」は 10 年連続で「コミュニケーション能力」が第 1 位だという(表 1、表 2)1。
表1
表2
こうした状況についてさまざまな解説が与えられている。一つ参照してみると、産経ニュースの連
載記事「プロが教える就活最前線」(2013 年 8 月)では「社内外関わらず、プロジェクト単位やチー
ムで仕事をする機会が増加したため 。」「どのような職種に就いても、様々な関係各所との調整が
必要なため 。」「(営業などで)商材が高度化、多様化する中で、相手のニーズを引き出すヒアリン
グ力が必要であるため。 」「上司からの指示、お客様からのご要望を適切に理解し、応えるため。
」といった理由を挙げている。そして、コミュニケーション能力とは「相手と会話のキャッチボールが
違和感なくできるかどうかに尽きる」としている。そして、その具体的な要素として、自分の考えや
思いを相手にわかりやすく「話す力」、相手の話に注意を払ってより深く、丁寧に「聞く力」、相手が
聞いてくる質問の意図や背景を「読む力」の 3 つに分類できると述べている。これは、コミュニケー
1
「新卒採用〈2014 年 4 月入社対象〉に関するアンケート 調査結果の概要
〈https://www.keidanren.or.jp/policy/2014/080_gaiyo.pdf〉(2014 年 12 月 26 日アクセス)
1
ションを知的情報の伝達手段として、ビジネス上の道具と見る立場だと言えそうである。
一方、労働の場面から離れて、さほど議論の厳密さを要しない日常の場面においても、この能力
は頻繁に言及されているのだが、その注目される点は産経ニュースの説明とは大きく異なってい
る。例えば、SNS や電子掲示板においては特にリア充/非リア充2といったこととの絡みで語られ
ているものをしばしばみかける。そこでは、コミュニケーション能力とは単に情報を上手くやり取りで
きることだけが重視されるのではない。そのコミュニケーションを盛り上げられるかどうか、ときには
コミュニケーションを楽しめる性格かどうか、までが能力として語られているように感じられる。これ
はコミュニケーションを、楽しむための手段、あるいは楽しみそのものとしてみる立場だと言える。
第4章でさらに詳しく見ていくが、上記の 2 つの例を見ただけでも、コミュニケーション能力という
概念は大きな揺れを持っていることが分かる。現在、能力向上を目指すための多くの教本やレッス
ンが存在している。しかし、こうした曖昧さを残したままにしておけば、我々は必要以上にコミュニ
ケーションに対して意識せざるを得なくなり、疲弊することになるだろう。そして、この曖昧さは、恐
らくコミュニケーションそのものの複雑さ・多面性によるものである。そのため、本論ではコミュニ
ケーション自体に関して論じることとする。
1-2 方法
なぜ近年になってコミュニケーション能力という概念が登場し、広く受け入れられるようになった
のか。また、コミュニケーション能力とは現在、どのような場面で用いられる言葉であるか。本論で
はこれらを、コミュニケーションの社会的な位置づけの問題として読み替える。すなわち、複雑な構
造をもつコミュニケーションのうち、どのような側面が特に着目され、社会の中でどのように扱われ
ているかを考えていくのである。
そもそも、コミュニケーションが重要でなかった時代や地域など無かったと考えるほうが妥当であ
ろう。例えば商業的な場面においては、M・モース(1924)が富の交換の起源を、経済的な交易で
はなくポトラッチ文化3のような高度な心理的駆け引きを伴ったやりとりにあったことを示している。
そのほか、学問的な場面では古代ギリシアの哲学者が複雑な議論を交わしていたことは有名であ
るし、社交的なコミュニケーションの例としては日本の歌会や茶会、西欧のサロンなどがあった。こ
こに挙げた例はほんの一部でしかなく、また当時の人々は文字通り、命をかけてこれらに取り組む
2
3
「リアルが(非)充実している」人を指す略語
北アメリカ太平洋岸のインディアン社会に広くみられた、贈答慣行。所有の移転よりも、財物を惜しみな
く振る舞うことで自らの財力や気前の良さを見せつけるという、情緒的な目的があった。
2
こともあったようである。コミュニケーションが以前から重要であったことに疑いはないだろう。それ
にも関わらず、日本において個々数年の間に急激に、コミュニケーションが問題視されるように
なったのは、その位置づけに何かしらの変化が起きたからだと思われる。
2 コミュニケーションの構造
本章では、先行研究にならい、コミュニケーションの構造を解明していく。それは、コミュニケー
ションの社会的な位置づけを知るために、コミュニケーションとはどのようなものであるのか、確認
する必要があるのである。とはいえ、コミュニケーションに関する研究はこれまでも哲学・社会学・
心理学・情報工学・教育学等々、様々な分野からなされており、それらすべてをまとめ上げること
は不可能である。そこで本論では、Ḡ・ジンメルとE・ゴフマンという、2 人の社会学者の理論に絞る。
なぜなら「社会的な位置づけを知る」という目的上、コミュニケーションが人びとの間でどのようなも
のとして現れ、社会に対してどのような影響を与えるものであるかという、社会学的な観点から確認
していくことが重要だからである。コミュニケーションをする際に生じる微細な心理的変化や、情報
の伝達の最も効率のよい方法などは、ここでは論じない。
2-1 コミュニケーションの内容と形式
コミュニケーションを社会学の視点から論じた最初期の人物として、Ḡ・ジンメル(1917)が挙げら
れる。彼は形式社会学を提唱し、相互作用について観察した。相互作用という言葉が、コミュニ
ケーションと何らかの関係をもつことは、直感的に理解できるだろう。ではまず、形式社会学とは何
か、というところから見ていきたい。
ジンメルはまず、相互作用を内容と形式に区別する。前者は、衝動や目的といったものを指すも
のであり、相互作用はこれらを満たすために発生する。しかしあくまでも、相互作用が発生するた
めの素材であるに過ぎない。相互作用は実際には、常に何らかの形式を与えられて成立するもの
である。例えば、性欲や金銭欲などの、内容それ自体は社会的な存在ではなく、一人きりであって
も持つことのできるものである。しかし、それらが結婚をしたり取引をしたりといった、相互作用の具
体的な形式をもつようになっとき、そこに社会が生まれたと言うことができるのである。別の例を挙
げれば、学校や企業、政党などは、それぞれ教育、利益追求、政治といった別々の内容をもった、
社会的な組織である。しかしそれらの中で行われる相互作用には、協力や主従関係、闘争などの
共通した形式を見出すことができる。
これらのことからジンメルは、社会は相互作用によって生まれるものであり、社会の形式とは相互
3
作用の形式と同一のものであるとまで考え、形式社会学を考案したのである。そしてこの場合の、
人間同士で行われる相互作用とは、コミュニケーションのことであることは明らかであろう4。そのた
め、形式社会学の発想は、個々の複雑な内容に惑わされることなく、コミュニケーションの形式だ
けに焦点を当てて観察する視点を与えてくれるものと言える。また、コミュニケーションの拒否、あ
るいは断絶と位置づけられがちな「闘争」や「秘密」を、ジンメルはもっとも生き生きとした相互作用
の一つとみなしている点にも着目すべきだろう。嫌味を言いあうことや、腹の探り合いをすることも
当然、コミュニケーションに含まれるだけでなく、それらは人間関係を活発にさせるものなのである。
さらにジンメルは、現実的な内容の抜け落ちた、純粋な相互作用の形式として、社交を挙げる。
例えば会話についても、目的のある場合には、あらかじめ伝える内容を決めて話し始める。しかし
社交においては、話題は魅力的なものでなければならないものの一つの話題に執着する必要は
全くなく、会話の結果もなんの意味も持つべきでない。また、内容だけでなく、社会的地位や特別
な能力等、個人的な諸要素も持ち込むべきではないと述べられている。仮面舞踏会や無礼講の
宴席は、この指摘が正しいことをよく表しているものである。このように、ジンメルは社交は自己目
的的かつ自己完結したものであるとしたうえで、これを社会的遊戯であるという。
ジンメルの社交論を、「目的も個人的な要素も持ち込まず、その場だけの楽しみとすべきである」
という、単なるマナーの問題として読むことも可能ではあるだろう。しかし、ここでは社会的「遊戯」と
いう表現に注目したい。なぜなら、社交をコミュニケーションの遊戯形式としてみるとき、我々のコ
ミュニケーション観に重大な転換が起こると思われるからである。我々は遊戯を、内容に満ちた現
実的な日常からの逃避、時間の無駄遣い、と位置づけてしまうことがある。ところが生の哲学者で
もあるジンメルは、遊戯を、芸術と同じように、生命の維持という内容から離れた、独自の価値をも
つものと考えるのである。すなわちジンメルは、遊戯、そして社交に対して、現実的な内容をもつ
営みと同等の地位を与えようと試みているのである。社交と、目的を達成するための手段的コミュ
ニケーションとを区別することは、今後も重要なものとなる。
2-2 コミュニケーションと、社会的関係
E・ゴフマンは、対面的相互行為について詳細な記述を行ったことで知られる。ここでも、相互行
為がコミュニケーションと同義であることは明らかだろう。『行為と演技』(1959)では、日常の相互行
為を、劇場にまつわるものに喩えて観察している。例えば、何か行為をする者は、その行為によっ
ジンメルは別の著作で、農業を人間と大地との間の相互作用だと述べている。そのため、相互作用一般
をコミュニケーションとするのは避ける。
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て理想的な自己を提示できるように発言はもちろん、何気ない仕草までをも制御しようとするパ
フォーマーに喩えられ、またその行為の受け手はオーディエンスに喩えられる。同様に『儀礼とし
ての相互行為-対面行動の社会学』(1967)では、相互行為を宗教的儀礼になぞらえる。人を、
聖性をもったものとみなすと、感謝や謝罪の言葉はみな、その聖性を維持しあうための礼拝式のよ
うなものだと考えられるとする。
日常の相互行為の例を数多く挙げ、それらをパフォーマンスや宗教的儀礼に喩えていくゴフマ
ンの記述は、一見すれば、比喩すること自体以上の意図が見えづらい。しかし、阪本(1991)は、
ゴフマンの晩年の著作『 Forms of Talk』(1981)をもとに、ゴフマンの諸著作に共通する一貫した主
題を見つけ出すことに成功している。
阪本によれば、ゴフマンは「トーク5とトークは互いに必ずしもなんらかの規則性を持って連関して
いるのではないと主張し…各々のトークを社会的状況全体に関連して発せられるものと考える」
(坂本,1991:105)のだという。つまり、会話とは言葉の辞書的な意味の論理的な繋がりによっての
み進むものではなく、社会的状況を様々な形で反映しながら行われる、というのである。これにより、
冗談や皮肉が特別な意味を与えられた言葉であることや、普通は奇妙に思われる「独り言」がラジ
オ放送においては許容されることなどが、状況がトークに影響を与えている例として理解可能とな
る。しかし、本論においてより重要なのは、いわゆる「空気を読む」という事態についてである。空
気を読むとき、人は相手との地位の相違やその場の雰囲気を考慮しながら「理想的な関係」を築
けるような発言をする。ゴフマンがいくつもの比喩を用いて示そうとしたのも、この点である。パ
フォーマーは「理想的な関係」を成立させるために演技し、宗教的儀礼はその関係を壊さないた
めに行われる、というように。
ここで「理想的な関係」をどう考えるかという点について少し詳細に述べておきたい。なぜならこ
れは、直接に「理想的なコミュニケーションとは何か」という問いに繋がるものだからである。例えば、
企業の部下が上司と会話をしている場面を考えてみると、この部下が上司には逆らうべきでないと
考えているならば、彼は多少の不満は我慢して上司に服従する。しかし彼が、議論を良いことと考
えているならば、上司に対してであっても反論することを躊躇わないであろう。このように、「理想的
な関係」また「理想的なコミュニケーション」とは、倫理観や目的意識など、個人の価値観によって
定まるものである。ところが、理想的なコミュニケーションの姿が一方的に確定され、それを各個人
に対して押し付けている状況が、現在の「コミュニケーション能力」の蔓延であることは、次章移行
を先回りしていま指摘しておく。
5
会話の全体を指すものではなく、一つひとつの発言、発話行為という意味で使われている。
5
まとめると、コミュニケーションとは社会的状況全体との関連の中で、「理想的な関係」を維持でき
るような形でなされるものであることを、パフォーマンスや宗教的儀礼の比喩を用いながら示すこと
こそが、ゴフマンの主題だったのである。これに従えば、コミュニケーションを円滑に進めるにあ
たって、言葉の扱いが巧みであるだけでは不十分であるのは明白であろう。いくら綺麗な言葉を
読み上げようとも、それが状況に不釣り合いであった場合、無礼であるとか、コミュニケーション下
手であるという評価を受けることになる。そのため、社会的状況を正しく把握できることがまず第一
に重要であり、そのあとで、自分にとって理想的な関係を築けるような行為、発言を選択する必要
が出てくるのである。
3 コミュニケーションの位置づけ
本章の目標は、コミュニケーションの位置づけの変遷を知ることにある。位置づけとは、コミュニ
ケーションの複雑な構造のうち、どの側面が特に重視され、社会の中でどのように扱われてきたか、
のことである。そして日本では、近年コミュニケーションの位置づけが大きく変わってきているように
思われる。なぜなら、第 4 章で詳述するが、「コミュニケーション能力」という概念が日本の新聞に
初めて登場するのは 1986 年頃であり、このことはコミュニケーションが意識的に重視されるように
なってきたこと、すなわち位置づけが変わってきたことを示しているからである。
しかしそもそも、コミュニケーションが重要でなかった時代などなかった。それにも関わらず、現在
のように、能力として重視される状況が起こっているのは、コミュニケーションそのものの位置づけ
が変化し、何か特別な役割を担わされるようになっているからだと考えることができるだろう。その
ため本章では、こうした変化の原因を探り、また現状の理解をより正確なものとするべく、コミュニ
ケーションの位置づけの変遷を見ていくことを目標とする。
3-1 公私の場面の分離
19 世紀から 20 世紀への世紀転換期のドイツを生きたジンメルは、当時急速に進められていた
都市化/工業化によってコミュニケーションのあり方に大きな動揺があったことを示している。例えば
「十九世紀のバスと鉄道と市電の発達以前には、人々はけっして数分間から数時間もたがいに語
りあうこともなく、たがいに眺めあうことができたり、あるいはそうしなければならないといった状態に
はなかった。」(ジンメル,1908。訳は居安:252)というように、公共交通機関というそれまで存在しな
かったものにより、人びとがコミュニケーションの取り方に混乱していたことが見て取れる。これと似
たようなことは、生活のあらゆる場面で起こっていたという。大都市においては、小都市と比べて知
6
人と会う確率が低いため、同じ場所にいることを意識しながらも声を掛け合うことのない状況が多く
なる。都市化はこうした公共的空間を日常化させ、そこでは互いに不干渉を遵守すべきであるとの
モラルが生まれたのである。
さらに、工場労働という労働形式に関しても言及がある。ジンメルは「労働者」について「この前
代未聞なほどに影響の大きい概念は、すべての労働者が何をつくっていようと、それとはかかわり
なく彼らの一般的なものを結合させるが、この概念は前世紀の人びとには親しみがなかった。彼ら
の仲間結合はしばしばはるかに緊密かつ親密であった。なぜならそれらは本質的に個人的な言
葉による交流にもとづいており、彼らには大工場と大衆集会が欠けていたからである。」(同:257)
と語っている。前世紀までの職人仲間などと比べて、工場労働において労働者たちは互いに私語
を慎むことが求められ、代わりに上司からの命令の言葉ばかりが飛び交う。これと同じように、講堂
の学生や軍隊の兵士たちも、学校、軍隊が大規模化するにつれて沈黙することが規則化していっ
た。
このジンメルの記述は、社会的な環境の変化が、コミュニケーションの位置づけを変えた端的な
例の一つである。内容に満ちた手段的なコミュニケーションと、社交的なそれが行われる場面との
二つに大別して考えるとすれば、都市化・工業化といった変化は両者をそれ以前よりも強力に分
離するように働いている。多くの工場や軍隊などは、主に上意下達の、手段的コミュニケーション
ばかりが取られる場面である。一方で、雑談はこれらの合目的的な場所においては規則として禁
止されるものであったし、また公共的な空間でも相互不干渉を守ることがモラルとして広まってい
た。そのため、雑談のような社交的なコミュニケーションは、ごく一部の親しい家族や友人が集まる
場面で、より交わされやすいものになっていったのである。こうした傾向は現代日本にも残ってい
るどころか、より強くなっているものである。ジンメルは、これらの公私の場面の分離が、、大都会や
大工場などに特有のものと感じていた。しかし現代日本においては、たとえ所謂田舎であっても、
公共空間はいたるところに発生し、人びとにマナーを守ることを強制している。
ところで、第二章第二節で見たようにゴフマンは、状況の把握が重要であることを指摘していた。
状況が変化したとき、それに気づくことができなかったり、適応が遅れたりすれば、その人物はコ
ミュニケーション下手、より酷い場合には精神病とさえ見なされる。ジンメルが報告している変化は、
まさにこうした事態を引き起こしたものであったといえる。公的な場面においては手段的なコミュニ
ケーションが、私的な場面においては社交的なそれが適切であるとして社会的に位置づけられて
いくことにより、人びとはコミュニケーションの取り方を変えざるをえず、課題を抱えることになった。
コミュニケーションの位置づけの変化とは、そういうことなのである。
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3-2 匿名コミュニケーションの出現
本節では、通信媒体の発達・普及により、コミュニケーションの位置づけが変わってきた過程をみ
ていく。まず確認すべきは、コミュニケーションの最も原始的な形態は、直接に対面してのものだと
いう点である。この形態は現代でもやはり最も身近なものであって、多くの「コミュニケーション能
力」の教本もこれを中心に扱っているようである。とはいえ、コミュニケーションをこれのみに限定し
て語るのは誤りである。むしろ、媒体に関わらずに、個人間の相互行為をみなコミュニケーションの
一形態だとみなすべきだろう。そして、どの形態もみな、その特徴に応じた役割が与えられるように
なったために、社会の中でのコミュニケーションの扱われ方も変わってきている、と考えられるので
ある。ではまず、それぞれの媒体の特徴をみていく。
手紙はそのほとんどを文字、すなわち言語に頼るものである。非言語的な部分はほぼ排除され
ているし、一方向的な情報の送り合いとなりがちでもあるのだが、それだけに文章は注意深く推敲
されたものとなる。そのため手紙は、哲学的議論の手段として使われることもあるし、恋文や文通の
ように親交のために用いられることもある。また、時候の挨拶のような、独特の礼儀が発達している
ことも注目すべきだろう。このように、手紙は時間をかけて書かれる、理性的なコミュニケーション手
段として位置づけられているように思われる。ただ、手紙の歴史は古く、紀元前 3000 年のエジプト
での伝書鳩の利用にまで遡る。そのため、手紙はコミュニケーションの位置づけを一変させたとい
うよりも、伝統的な手段として、常に人間の歴史に寄り添ってきたものといえるだろう。
これに対し、電話は音声のみを使用するものであるが、手紙とは違って時間的に同時に、双方
向的なコミュニケーションが行われる。日本では、 日本電信電話公社が 1952 年に設立された頃
から使用が一般化する。初めは企業や商店が業務のために使用する程度であったが、70 年代に
は一般家庭にも普及し、さらに 90 年代には携帯電話が小型化し、誰もが持つようになっていった。
電話は、業務上の理由であれ親交のためであれ、繋がりたいときに繋がることを可能にした。ただ
し通話料金がかかるため、長電話は好まれるものではなかった。
そして、1990 年代後半から、パソコンと、高機能化した携帯電話によって担われる、インターネッ
トが多くの人に利用されるようになってきた。インターネットでは、さらに電子メールやチャット、ビデ
オ通話など様々な方法を使い分けることができるため、それらすべてを一概に語ることは難しい。
しかし、それらの方法から適切なものを選択することができれば、かなりの制約を排除することがで
きる。それはただ、複雑な用事を文書化してメールで送るとか、料金を気にせずに複数人でビデ
オ会議が可能になった、というだけではない。不特定多数を相手に意見の発信をしたり、共通の
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趣味をもつ人を探しだして語り合ったり、といったことが容易になったのである。このように、イン
ターネットはそれ以前とは全く違ったコミュニケーションの取り方を可能にしている。
さて次に、これらの媒体の出現がコミュニケーションの位置づけに対してどのような影響を与えた
かを順にみていく。手紙は、その歴史は古く、紀元前 3000 年のエジプトでの伝書鳩の利用にまで
遡る。つまり手紙とは、伝統的な手段として常に人間の歴史に寄り添ってきたといえるものであって、
コミュニケーションの位置づけを変化させたと捉えることは難しいものである。次に電話について考
えると、これは確かに便利なものではあるが、対面でのコミュニケーションの補助具に留まっている
のではないか。というのも、電話においては通話料金により用事を簡潔に済まさなければならな
かったし、基本的に知人や取引先のように、既に何らかの社会的関係を結んでいる者同士でしか
そもそも電話をしようがないからである6。これに対し、インターネットだけが、コミュニケーションの位
置づけを一変させることに成功している。それは次の理由による。
インターネットの重要な特性の一つに、匿名性がある。匿名を保つことは、ストーカーや詐欺のよ
うな犯罪を防ぐだけではなく、現実での地位や友人関係といった社会的なしがらみから離れられる
ことを可能にするこれは、ジンメルのいう社交の条件を満たしやすくするものである。また、不道徳
であったり過激であったりする発言をしても、現実の発信者はなんの非難も受けずに済むようにな
る。事実、ネット上で自分の名前を公表しない場合、「言いたいことをいいやすいと思う」と回答した
割合は、72.5%にまで登る7。電子掲示板の2ちゃんねるで、膨大な数のスレッドが建てられ、日々
論争が繰り広げられていることはその際たる例である。このように匿名でのコミュニケーションは、
自由で束縛のないものとして位置づけられているのである。。
そして、それと逆の事態が、対面はもちろん電話や手紙を含む、知人とのコミュニケーションにお
いて起こっている。論争を引き起こしたり、反論を呼んだりしかねない話しを匿名でできるように
なったことにより、知人とのコミュニケーションの際には、わざわざそういった話題を出すことが忌避
されるようになっているのである。これを反映した調査が表 3 である8。これは〈相手や場面に応じて
の自分の態度のあり方について」年代別に調査したものであるが、インターネット利用率の高い若
年者ほど、「相手や場面に合わせて態度を変えようとする」割合が高い。もちろん、年齢に応じて
社会的地位も上がり、態度を変える必要がなくなるという事情も考慮に入れる必要はあるものの、
6
テレフォンクラブなど、一部の例外はある。
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ネットエイジアリサーチ|ブロガー・SNS 利用者の「対人距離感」~実名伏せて本音・事故開示・なりたい自分~|
図表 11-1 〈http://www.mobile-research.jp/investigation/research_date_111114.html〉(2015 年 1 月 2 日アクセス)
8
文化庁|平成 25 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要
〈http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h25/pdf/h25_chosa_kekka.pdf〉(12 月 31 日アク
セス)
9
現代のインターネット利用者が、相手との摩擦を避けようとする傾向にあることは、間違いないだろ
う。以上のことから、インターネットの出現は、(知人との)コミュニケーションを協調的にあるべきも
のとして位置づけていることが確認された。
表3
3-3 社交の労働化
現代日本は、「脱工業社会」と呼ばれることがある。脱工業化とは、ダニエル・ベルが 1973 年に
初めて提唱した概念であり、その要点は、財の生産からサービスへと経済活動の重心が移行した
社会、という点にある。こうした概念の出現は、生産拠点の後進国への移転や、前節で見た情報
技術の発達など、様々な要因によるものではあるが、とにかくジンメルが生きた約 100 年前のドイ
ツとは大きく異なった事態が発生していることを表している。そして、こうした変化はもちろん、コミュ
ニケーションの位置づけに対しても影響を与えていると考えられる。この点について、詳しくみてい
こう。
山崎(2003)は、「脱工業社会」という概念を用いながら、現代の日本にとって、社交が再び重要
な役割を果たすようになりつつあることを主張している。山崎は、工業技術がめざすものとは、加工
者や加工対象などのあらゆる個性を無視して、同一のものをつくりあげることであると述べる。その
ため、工業中心の社会では上意下達のコミュニケーションだけでも十分だったし、むしろそうするこ
とが最も効率がよかった。ところが、「脱工業社会」では知的労働とサービス業がその比重を増して
おり、そこでは社交的なコミュニケーションが求められるのだという。知的労働では、新しく、独創的
なものを作り出すことが求められる。これは芸術に似た営みであって、そのため、上司と部下の関
係であっても、労働中であっても、双方向的な会話をすることで情報を更新し続けることが必要と
10
なり、奨励される。また、サービス業9は、物質的な財の交換には重点が置かず、精神的な満足を
目的とするものである。すなわち、人と人とが顔を見交わし、互いに求めるものを察しあうという、社
交に似たコミュニケーションが目的となり、商業に組み込まれているのである。
このように、脱工業社会では社交が重要な位置を占めるようになる、と山崎は考えているようであ
る。前節で見たように、ジンメルは工業化・都市化の進行により、コミュニケーションの形式が公私
の場面の間で極端に分離されつつあることを指摘していたのだから、脱工業社会は、一見すれば
真逆の変化を起こしているといえる。しかし実際には、山崎が見ている変化は、労働の社交化とい
うよりも、社交の労働化といったほうが正しいものであり、ジンメルが指摘する変化の同一線上にあ
ると考えることはできないだろうか。というのも、社交という、労働とは対極にあったはずのものまで
が、労働の論理に縛られるようになっているからである。
労働とは目的的な行為であり、労働の中に社交を組み込もうとすれば、必然的に社交の純粋さ
が失われる。つまり、ジンメルにとって遊戯であり、独自の価値を持つといわれていた社交が、労
働のための一手段としての有用性で測られるようになったのである。確かに、議論や談笑を活発
にするために、立場に違いの無い関係であるかのように振る舞おうとすることはよくある。とはいえ
実際には、労働の場における上司と部下、顧客と店員という社会的関係は絶対に維持されなけれ
ばならないものでもある。この、対等さの実現(社交)と関係の維持(労働)、という矛盾した要求に
押しつぶされて、我々はコミュニケーションの取り方を変えざるをえなくなっている。例えば、部下
は上司の誤りを批判しなければならない一方で、上司の面子を潰さないような言い回しをすること
も同時に求められている。また、店員は客と談笑しながらも、決してそれが仕事であることを忘れず、
さりげなくかつ効率的に、貨幣の支払いへと誘導していかなければならない。
こうした、微妙で繊細なコミュニケーションの取り方の出現が、社会的に広く認知されるようになる
と、個人の資質に依拠するのみでなく、組織的にこの技術を鍛えようとする動きが起こり始める。そ
れが「コミュニケーション能力」という概念の採用である。「能力」と名付けることによって、社会はコ
ミュニケーションの理想を一方的に押し付けることに成功している。社交がもつ明るさや快活さを利
用して、労働を効率よく進めようとする企業の論理が、多くの人に受け入れらているのが現状とい
えるのである。すなわち、ある目的を遂行するのにより役立つように、コミュニケーションという人格
に深く根ざすものまでをも制御するように働いているのが「コミュニケーション能力」だと考えることも
できる。
9
サービス業は第三次産業と同義と見なされることもあるが、ここでは、対人接遇のサービス全般を指すと
明言されている。そのため、小売業の販売員や、看護師などもサービス業に含むとされる。
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以上の議論をまとめよう。脱工業社会においては、労働の場面で双方向的なコミュニケーション
を取ることが奨励される。山崎はこれを労働の社交化であると考えた。しかし実際には、社交まで
もが、労働の中に組み込まれていると考えるべきであろう。これによって、コミュニケーションは労働
を効率化する、ひとつの手段として位置づけられるようになる。この位置づけ方が社会的に広く受
け入れられると、人びとはそれを「能力」として、つまり反論を許さない理想的なコミュニケーション
のあり方として、一方的に押し付けるようになったのである。そしてこれは、労働の場面に限定され
た話ではあるまい。日常の至るところで、明るく楽しいコミュニケーションのみが正しいものであり、
論争は「能力」の低さから起こってしまうものと考えられるようになっているのだろう。
4 コミュニケーション能力
最後となるこの章では、「コミュニケーション能力」についてみていく。しかしここでは、本当のコ
ミュニケーション能力とは何かを定義することに関心はなく、むしろここでは、この概念がどう扱わ
れているか、その社会的な主流に着目する。というのもこの概念は、これまでも論じ続けてきたコ
ミュニケーションの位置づけを、最も象徴的に示したものであると考えるからである。つまり、「コミュ
ニケーション能力」を通してコミュニケーションの位置づけを知ることが、本論の目的である。
4-1 コミュニケーション能力の歴史
「コミュニケーション能力」という言葉はもともと、言語学者である D・ハイムズが1972年に初めて
使用した用語 communicative competence の訳語である。ハイムズは、第二言語の教育に関してこ
の概念を提唱している。その要点は「言語を用いてコミュニケーションを成立させるには、文法的
能力をもっているだけでは不十分である。その言語がコミュニティーの中でどのように使用されて
いるかを知ったうえで、運用できるようにならねばならない。」というものであった。つまり
communicative competence は裏を返せば、母語話者であれば大抵の人間はもっているもの、と想
定されていたようである。
その後、日本の新聞において「コミュニケーション能力」という言葉が初めて登場したのは読売新
聞と朝日新聞で1986年であり、毎日新聞でもその翌年には登場している。そのいずれもがハイム
ズの用法どおりに、外国語教育の文脈で使用されている。しかしながら、1988年の読売新聞に、
意図的か非意図的かは不明であるものの、次のような違った用法がなされた「いま単なるプログラ
マーでなく、システムエンジニアが求められているというのは、総合力、分析力、判断力、コミュニ
ケーション能力が求められているということだ。学校で教わらなかったことを再構築できる人材を育
12
てなければならない。」という文章がある。これは明らかに、母語話者同士でのコミュニケーション
に関して使用している。しばらくのあいだ、こうした用法は、初めはまれに見られるのみであったが、
2014 年現在では、かなり一般的になっている印象がある。以下の表4は、「コミュニケーション能
力」の用法を仮に「外国語教育に関するもの」と、「母語に関するもの」に二分して、読売・朝日・毎
日新聞の3紙での出現回数の合計の推移を示した自作の表である10。「外国語教育に関するも
の」の項目は、1986 年から徐々に増加しているが、「母語に関するもの」は 1997 年を境に、急激
に増加している事が分かる。なお、記事中での用法が曖昧なものが多く、両方に跨っているものも
多いため、正確な数字ではないが、おおよその目安にはなるだろう。
表4
2000年以降には、1年間で数百回も出現するようになるため表の作成は省略する。とにかく、注
目すべきことは、「コミュニケーション能力」は 1997 年を境に急激に、外国語教育だけでなく、いた
るところで問題視されるようになってきた点である。国際化が次第に意識されている中で、外国語
で会話をできるように、という元々の意味でのコミュニケーション能力の教育が重視されたのは、必
然的なことだろう。それに対して、母語話者同士での「コミュニケーション能力」が問題視されるよう
になっているのは、奇妙にも思える。日本語が唯一の公用語であり、識字率もほぼ 100%である日
本において、言語による会話を成立させることができなくなっている事態は考えにくい。実際多く
は、「良い」コミュニケーションを取ることができない者が多い、という主張のようである。
こうした傾向の説明として、若者の「コミュニケーション能力」の低下を挙げられることがある。ビデ
10
毎索〈https://dbs.g-search.or.jp/aps/WMSK/main.jsp?uji.verb=GSHWA0300&serviceid=WMSK〉
ヨミダス歴史館〈https://database.yomiuri.co.jp/rekishikan/〉
朝日新聞記事検索サービス〈http://database.asahi.com/library2/main/start.php〉の 3 サービスを用いて「コミュ
ニケーション能力」と入力して検索し、各用法の出現回数を数えたものである。
13
オゲームやインターネットにのめり込んだり、メールに頼ってばかりいたりするために、対面でのコ
ミュニケーションに不慣れな者が増えているというのである。実際、政府による世論調査では「言葉
や言葉の使い方に関する社会全体の知識や能力は、どうなっていると思うか」の問に「以前よりも
低くなっていると思う」とする回答が 6 割近いように、「コミュニケーション能力」の未発達な者増え
ていることが広く信じられていることは確かである11。しかし、実際に人びとの「能力」の低下のみが
原因の全てであるならば、我々は教本やレッスンで「能力」を身につけさえすれば良いと結論でき
てしまう。
そうではなく、私は、社会的なコミュニケーションの位置づけが現在は偏ったものとなっているた
め、それに上手く適応できない人びとが一定数存在しているに過ぎない、と考えるのである。すで
に第三章で見てきたように、社会環境の変化によってコミュニケーションもまた重視される側面、与
えられる役割が刻々と変化してきた。それらの結節点として、「コミュニケーション能力」という概念
が利用されるようになっているのであり、この語は現代の歪んだコミュニケーション観を象徴したも
のだと考えるのである。
4-2 「コミュニケーション能力」とは何か
「コミュニケーション能力」という概念には、常に特定の価値基準が包含されている。なぜなら、
「能力」と言うからには必ず、ある基準をもって、上手い/下手の区別がなされるはずだからである。
本来のハイムズの用法においては、情報の授受を言語を用いて行えるか否かのみが、その判定
基準となっている。これに対して、現在問題としている母語話者同士での用法では、「良い」/「悪
い」コミュニケーションという価値的な基準が立てられており、それに沿った形でコミュニケーション
を行えるかどうかが焦点となっている。そしてこの価値的な基準は、今までも論じ続けてきたコミュ
ニケーションの位置づけを、強く反映したものだと考えられる。
第三章を振り返ってみると、都市化・工業化の進展は公私の場面を強く分離したのに伴い、コ
ミュニケーションの位置づけもまた変化したことを確認した。公共的な場面においては一方向的に
情報が発信されるようになり、社交的な会話は慎むべきものとするマナーが生まれたのである。そ
れから約 100 年後に、インターネットが普及する。インターネットはその匿名性により、個人的な要
素や利害の介入が少ない、社交の成立しやすい空間となったが、その反動から、知人同士でのコ
ミュニケーションにおいては協調性が重視され、議論や論戦は忌避されるようになった。さらに、イ
11
文化庁|平成 25 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要
〈http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h25/pdf/h25_chosa_kekka.pdf〉(12 月 31 日アクセス)
14
ンターネットの普及と時を同じくして、脱工業社会が到来したことにより、知的労働・サービス業が
拡大している。この労働形態のため、社交の労働化とも言うべき事態が進行している。
これを踏まえた上で、これから「コミュニケーション能力」とはどのようなものか詳しくみていくこと
にする。 表 5 は、「人とのコミュニケーションにおいて、重視すること」のアンケートに対する 2012
年の回答結果12である。この表から、「相手との人間関係を作り上げながら伝え合うこと」がすべて
の年代、もちろん企業において重役を占める年代においても、「根拠や理由を明確にして論理的
に伝え合うこと」よりもはるかに重視されていることが分かる。 次に、表 6 は「誰かと話をするときに、
相手から不快感を覚えるのはどのようなことか」を調査したものである13。これにおいて注目すべき
点は、情報の授受の巧拙に係る項目は「話が理解されず会話がかみ合わない」「話の内容に問題
がある」「話の組立てや流れに問題がある」だけであり、それ以外はみな、感情に関わるものなの
である。さらに表 7 は、「”コミュニケーション能力が高い人”のイメージ」を複数回答形式によって
調査した結果14である。上位項目に注目してみると、「明るい」「人当たりが良い」「アクティブ」と
いった感情の面に強く関わる項目が上位にある。「話し上手」「聞き上手」などは判別し難いが、情
報の授受の巧拙に関わると断言できる項目はせいぜい「説得力のある」「知的」「客観的」のみであ
る。
表5
12
13
14
文化庁|平成 24 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要
〈http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h24/pdf/h24_chosa_kekka.pdf〉(12 月 31 日アクセス)
注 12 と同じ
東京工芸大学|「全国の大学生コミュニケーション調査」|調査結果ニュースリリース
〈http://www.t-kougei.ac.jp/static/file/university-student_communication.pdf〉(2014 年 12 月 31 日アクセス)
15
表6
表7
これらの調査結果から、コミュニケーションにおいて多くの人は、論理的な会話をして情報をス
ムーズにやりとりすることよりも、「良い」人間関係作り出すことに重点を置いていることが明らかに
なった。そして、こうした会話ができないとき、人は自らの「コミュニケーション能力」が足りないと感
じたり、相手を非難したりするのだと考えられる。つまり、「コミュニケーション能力」とは一般的に、
相手の感情に良い印象を与えられる力を指すものなのである。では良い人間関係とはどのような
ものかと言えば、表4・表5の結果から、明るく振る舞ったり、マナーを守ったりすることで作られるも
のと考えれていることが分かる。簡潔に言えば、協調性を持つことや、空気を読むことを求める者
が多いのであるが、これは第三章の第一・二節での結論とほぼ一致している。また、この能力を労
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働の場面に応用し、同僚や顧客と積極的に親密な関係を作ることで、労働の効率を上げようと考
える者がいるならば、それは第三章第三節の結論そのものである。以上のことから、「コミュニケー
ション能力」において重視される点は、コミュニケーションの社会的位置づけを反映したものである
ことが確認された。
4-3「コミュニケーション能力」の蔓延
「コミュニケーション能力」が、単にコミュニケーションの位置づけを反映しているだけの言葉、例
えばコミュニケーション観と全く同じ意味であるなら害はない。しかし実際には、「能力」と名付けら
れることにより、反論を許さない形でコミュニケーションの「良さ」という価値的な基準を押し付けるよ
うに作用している。言い換えれば、「コミュニケーション能力」が逆にコミュニケーションの位置づけ
を変えているのである。これが有害だと言うのは、真っ向から反論することや論争することなどの、
協調を乱すことを「悪い」とみなすこの基準は、異常と言わざるをえないものだと考えるからである。
本来は、反論や論争なども否定されるべきものではない。そのため、この基準に適応できないのは、
むしろ自然なことである。ところが、前節でもみたように「コミュニケーション能力」はますます広まっ
ている。これは同時に、この誤った価値基準の押し付けが強くなっていることを意味する。
第三章をいま一度まとめると、コミュニケーションは様々な社会的変化を受けて、公私の場面で
使い分けるべきものとして、知人とは協調的に行うべきものとして、そして労働の目的意識を持ち
つつ社交の奉仕を行うべきものとして位置づけられてきたものである。「コミュニケーション能力」は
これらを「良い」コミュニケーションとすることで、個人の価値観を圧迫している。だとすれば、「コミュ
ニケーション能力」を重視することは意外にも、人格の個性化を阻害していることになる。われわれ
は今、社会とコミュニケーションとの関係を、再考しなければならない状況にあるのではないだろう
か。
【参考文献】
・奥村隆(2013)『反コミュニケーション』弘文堂
・Ḡ・ジンメル著(1917)、居安正訳(2004)『社会学の根本問題(個人と社会)』世界思想社
・松本拓(2009)「ジンメル社交論の再検討」『龍谷大学社会学部紀要』 35号:116-126 龍谷大
学
・E・ゴフマン著(1959)、石黒毅訳(1974)『行為と演技』(ゴフマンの社会学1)誠信書房
・阪本俊生(1991)「トークと社会関係」安川一編『ゴフマン世界の再構成──共在の技法と秩序─
─ 』世界思想社
17
・E・ゴフマン著(1986)、広瀬英彦・安江考司訳(1986)『儀礼としての相互行為──対面行動の社
会学』法政大学出版局
・Ḡ・ジンメル著(1908)、居安正訳(1994)「感覚の社会学についての補説」『社会学 社会科の諸
形式についての研究 下』白水社
・池田光義(2012)「ドイツ世紀転換期のコミュニケーション空間と感覚の戸惑い-ジンメル「感覚の
社会学」注解- 」『コミュニケーション文化』6 号:1-8 跡見学園女子大学
・山崎正和(2003)『社交する人間 ホモ・ソシアビリス』中央公論新社
・Vesna Bagarić(2007)「DEFINING COMMUNICATIVE COMPETENCE」『Metodika』8 号:94103
・水本幸太郎(2013)「コミュニケーション能力って何?取り違える学生が急増」
〈http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130818/fnc13081807010001-n4.htm〉(2014 年 12 月 26
日アクセス)
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