東俣野

民話 と鎌倉武 士のふ るさ とを訪ね
て
( 深谷 口俣野 ヨー
ス)
このコースは 「
民話 と鎌倉武士のふるさと」がテーマです。
「
鉄砲
まさか りが淵」「
鬼鹿毛伝説 F小栗判官照手姫伝説」「
「
「
五
と河津掛け
と
目薬師様信仰」等、庶民
」
宿伝詢
俣野 郎
の生活 と鎌倉武士の生き様が こんなにも盛 り沢山残され てい
るコース も珍 しく、素晴 らしいところです。 これ らの伝説が
庚申塔、道祖神、馬頭観音、等 と一緒に村のあち こちにあり、
人々の心のよりどころとしての民間信仰に結び付 いているこ
とが良 く分か ります。
コース案内とは別の角度か らの説明にな りますが、お楽 しみ
ください。
河津掛け」
俣野五郎影久 と 「
俣野五郎景久は源頼朝を囲む武士団の宴会の席上行われた相
撲で、二十一番勝ち続けたが、
最後 に管我兄弟の父河津二郎
祐泰に敗れま した。その時、
河津二郎祐泰が使 つた技が、
河
相撲技 として現在 も残る 「
津掛け」です。
河津掛け :
相撲の手の一。片足を相手の片足の内側 にか らめかけ、掛け
た足と同 じ側の手 を相手の首にまいて後へ反 つて相手を倒す
こと。
曾我兄弟 :
平安末期、源頼朝が流されていた頃の伊豆を舞合に領地をめ
ぐる親族間の争 いの果てに、父河津三郎祐泰を討たれた幼い
官我兄弟が、成長 して敵討ちをはたす。
鬼鹿毛伝説
ウイ トリッヒの森の南、聖母の園の裏山に鬼鹿毛山と呼ばれ
ているところがある。昔 ここに一頭の馬が放 し飼いされてい
た。この馬は、仲間や通る人々を食い殺す という荒馬だつた
ところから鬼鹿毛と呼ばれ、この馬のいた山を鬼鹿毛山と言
った。
今か ら 500年 近 くも前の応
利持
永 30年 (1423)足
氏は茨城県真壁郡の小栗城 を
攻 め落 とした。落城 した小栗
一
城の城主 ・小栗満重 が 族 を
頼つて三河へ逃げる途中、こ
の地を通つた時、当地の豪族
承知しなかつたため、
横山大膳の家来になるよう誘われたが、
・
大膳は殺害を計画 し荒馬 鬼鹿毛に乗るように命じた。実は
乗馬の名人であつた満重は、曲芸をするほど見事に鬼鹿毛を
乗りこなした。と言う伝説が残っています。
小栗判官」の中に
この話は市川猿之助の歌舞伎で知 られる 「
出て来ます。
小栗判官照手姫伝説
照手姫伝説も小栗判官満三にかかわるもので、 この伝説 では
横山大膳は盗賊の頭とな つております。満重を殺 して財宝を
奪おうと、酒盛 りを開き酒
に毒を入れて飲ませ、十人
の家来は死んだが、遊女の
中に照手姫と言 う女性が、
満重に同情 して遊行上人に
頼ん で満重を生き返 らせた。
そ して、上人は熊野の温泉
に満重を湯治に行かせ全快させた。
満重は旧領を戻 した後、上人及び照手姫の思にむ くいた。照
手姫は満重の死後尼にな り、長生院 (小栗堂)に 住み害提を
弔つた。長生院 (小栗堂)は 遊行寺境内にある。
鉄砲宿伝説
むかし、遊行寺の近くに森と言う金持ちがいた。森家は大蛇
を飼 つてかわいがつていたが、大食いの蛇なので、倉の酒や
米を失敬するため、たまりかねて蛇に言い聞かせて、影取池
に捨てることにした。捨てられた蛇は思案の末、池の水に映
る旅人の影を取 つてその所
た。
持する米や酒を巻き上tず
旅人は不思議 に思い調べた
ところ、大蛇の仕業とわか
った。 しか し、鉄砲を向け
ると影の ごとく消え、撃ち
殺す ことが出来なかつた。
大蛇が森家に飼われていた
ころ 「
おはん」と呼ばれていたことを知り、松の本の下にた
ヽしぃ名前を呼
たずんで 「
おはんさん」と呼んだ。ntl抽
ばれ、森家の人が迎えに来たと思い、姿を現 した。とたんに
「
ズ ドン」と―発、見事に撃ち殺す ことが出来た。それから
池を鉄砲池、鉄砲を撃つたところを鉄砲宿と呼ぶようになつ
たと言うことである。
国道 一号線 と藤沢 バ イパス
の分岐点、東南方向 100m
の谷間に池があつた。 この池
が鉄砲宿伝説の池であり、昭
和 14年 に横浜市への合併の
時、伝説にちなみ町名を影取
町とした。
聡 M軒 荘 まG郷 働 帥