第25回 吉田秀和賞 受賞作品 椹木 野衣 『後美術論』

第25回
椹木
吉田秀和賞
受賞作品
野衣 『後美術論』(美術出版社 2015年3月刊)
[審査員選評]
まるごと非吉田秀和「好み」です。だから「吉田秀和賞」にふさわしい。決して逆説を弄してい
るのではありません。水戸芸術館のアート部門は椹木野衣がゲストキュレーションをしたときなど、
扱いに困る事件がたびたび起こってもたじろぐことなく、館長のたくみな采配の下で、いまや世界
から注視される存在になっています。包容力があるのです。
このたびの著作『後美術論』のキーポイントは、後=ポストと美術=アートをくっつけたところ
です。記述されている様々な事件は過去半世紀にわたる、美術界と音楽界では鼻つまみとみられて
いた反社会的行為までを含むワイルドなパフォーマンスばかりです。それが著者自らの「好み」と
みえます。べったりとその現場に踏み込んで叙述している。息もつかせぬ臨場感があります。あげ
くにこれまでの 20 世紀芸術の通説が動転し、崩壊がはじまる。これから何がうまれるのか、誰も説
明できないところまでもその所在が示されています。少なくとも著者は水戸芸術館の出発した頃か
ら、世代が上の私はその前の四半世紀を、これらの事件の発生現場に生で立ち合っています。登場
人物も知っています。これらの事件の連鎖がポストアートと名付けられている。これを著者自らの
「好み」と表明していることに注目して下さい。たんなる研究や報告ではなく、この報告そのもの
が誰も真似できないプロジェクトであることを証すものです。
磯崎
新
椹木野衣さんは乱世型の批評家だと思う。批評家に必要なものは対象と視線と想像力。椹木さん
が論じたくなる対象は、力が有り余って定型から溢れ出してゆくもの。椹木さんの時代への視線は、
平時に破局の兆しを見つけ、非常時には破局を回避しようとするよりも破局のインパクトのもたら
す変革の可能性に賭けようとするもの。かくて椹木さんの想像力は、あらゆるものを貨幣と交換可
能にしようとし、原子力発電所の「事故からの復旧や将来にわたる賠償や信用さえ、結局は金で解
決される」現代に対して、「無償の愛や目的のない旅によって絶えずどこか遠くへと向かおうとす
る純粋な欲望の発露、決して一商品には置き換えられない無限=夢幻への果てしない飛翔」を行お
うと、ジャンル不詳の過剰なものと化してゆく尖鋭な「アート」を、常に挑ませる。椹木さんが本
書で描くのは結局、資本主義と「アート」の最終戦争。これぞ「3・11」後の芸術批評である。
片山
杜秀
[著者略歴]
椹木
野衣 (さわらぎ・のい)
美術批評家。1962 年秩父市生まれ。著書に『日本・現代・美術』
(新潮社)、
『シミュレーショニズム』
(増補版・ちくま学芸文庫)
、
『「爆心地」の芸術』(晶文社)、『黒い太陽と赤いカニ―岡本太郎の日
本』
(中央公論新社)
、
『戦争と万博』
(美術出版社)、
『美術になにが起こったか』
(国書刊行会)、
『な
んにもないところから芸術がはじまる』
(新潮社)、『反アート入門』(幻冬舎)、『新版
でぼくらが生き延びること
平坦な戦場
岡崎京子論』
(イースト・プレス)、
『アウトサイダー・アート入門』
(幻
冬舎新書)
、『戦争画とニッポン』
(会田誠との共著、講談社)、
『日本美術全集 第 19 巻 拡張する戦
後美術』(責任編集、小学館)
、
『Don’t Follow the Wind 公式カタログ 2015』
(Chim ↑ Pom との共
著、河出書房新社)など。
手がけた展覧会に「アノーマリー」展(レントゲン藝術研究所、1992 年)
、「日本ゼロ年」展(水戸
芸術館、1999-2000 年)
、
「太郎のなかの見知らぬ太郎へ」展(岡本太郎記念館、2006 年)、
「未来の
体温 after AZUMAYA」展(ARATANIURANO/山本現代、2013 年)など。現在、多摩美術大学教授。