池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 商学論集 第 84 巻第 2 号 2015 年 12 月 【 調査報告 】 「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 池 澤 實 芳 ■まえがき 1. 詩人・雷石楡について 雷石楡(1911.5 ∼ 1996.12)の一生を,前半の中華民国(1912 ∼ 1949)時期と後半の中華人民 共和国の時期(1949 ∼ 1996)に 2 区分した場合,文学史的な観点から,主に中華民国(1912 ∼ 1949)時期に,つまり前半生の時期に活躍した詩人として評価することができる。彼の詩作品には, 日本語詩集『沙漠の歌』 (1935 年 3 月, 前奏社) , 広州詩歌出版社出版の『国際縦隊』 (1937 年 11 月), 『新生的中国』(1938 年 5 月),長 『一九三七・七╱七 ─ 一九三八・一╱一』(1938 年 1 月), 篇児童詩『小蛮牛』(1943 年 4 月,桂林文化供応社)があるけれども,代表作として挙げるべきは, 「別了,廣州!」「我聴見你的嘆息」 「悲歌」「勝利」 「再一度生活在春天」等が収録されている, 1946 年 8 月,台湾高雄で出版した詩集『八年詩選集』(2003 年 8 月,潮流出版社より日本語訳が 出版されている。訳者,内山加代)所収に結実する,中国語詩 63 篇,日本語詩 7 篇の計 70 篇の諸 作品である。この詩集の諸作品には,抗日戦争を背景にした,晋南の戦場や国民党統治区で生みだ された,悲喜交々の「民衆の叫び」や「自分自身の個性や思想感情」 ( 『もう一度春に生活できるこ とを』所収の回想記「私の思い出」 )が,つまり雷石楡の「魂の叫び」, 「生命」の「呼吸」が表現 されている。 彼は前半生において,故郷・台山から日本留学,日本追放後,上海,福州,広州,台山へ,そし て抗日戦争勃発後の山西省南部,洛陽へ従軍し,大後方の昆明,宣威等の雲南省で 4 年間を過ごし, やがて東南の桂林,江西省の信豊,龍南を経て,長汀で抗日戦争勝利を体験し,漳州,厦門から, 台湾に渡り結婚,長男誕生,台湾追放後,香港を経て,天津の津沽大学の教師となるまで,長い放 浪生活を送る。このような経歴をもつ雷石楡は,放浪詩人と呼ぶことができる。彼は,日本留学時 代に日本語で詩を書き,日本人の詩人(主に『詩精神』『詩人』の同人)たちと交流しており,留 学生の中でも稀有な体験をもつ日本語詩人でもある。詩創作の方法からみると,自らの詩を「私の 心の響きであり,私の魂の叫びであり,私の生命の最高の,また最も微かな呼吸である」 ( 『八年詩 選集』「序」冒頭)と位置づけた浪漫主義詩人であり,また詩の思想内容からみて,プロレタリア 詩人とも言える。 ― 65 ― 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 2. 「雷石楡創作年譜」前半(補遺)について 「雷石楡創作年譜」は,池沢・内山編訳『もう一度春に生活できることを――抵抗の浪漫主義詩人・ 雷石楡の半生』 (1995 年 8 月,潮流出版社)所収の資料として作成され,1997 年 12 月の当該書第 二刷の際に若干の修正が加えられた成果である。この「年譜」の底本は, 『文教資料』 (隔月刊) 1991 年第 3 期(南京師範大学・古文献整理研究所「文教資料」編輯部・編輯出版)所収の劉玉凱 輯「雷石楡創作年表」である。劉玉凱氏の「年表」を底本とし,雷石楡本人と張麗敏夫人の協力を 得て作成したものが,この「雷石楡創作年譜」である。 当「年譜」作成後,張麗敏『雷石楡人生之路』 (2002 年 7 月,河北大学出版社) ,張麗敏編著『雷 石楡詩文選』(2010 年 10 月,河北大学出版社)が刊行され,また,上海の『立報』 ,福州の『福建 民報』『小民報』,昆明の『雲南日報』等の雷石楡の創作作品の原載資料のマイクロフィルムを入手 することができ,当該「年譜」の補遺を作成する必要があると判断した。ただし,雷石楡の前半生 の創作作品のうち,雲南を離れ,東南行を開始した時期から台湾,香港時期までの原載資料につい ては,抗日戦争後半及び国共内戦時期の江西省,福建省等の東南地区の地方新聞や著者自身の著作 の散逸のため,入手するのが困難であることも判明した。そこで,当該「年譜」は,残念ながら, 主として 1911 年∼ 1944 年 1 月(昆明)までの「前半(補遺)」としなければならなくなった。し たがって,雷石楡の 1944 年 2 月以降の創作作品に関する調査は,今後の課題となることを指摘し ておかなくてはならない。 なお,この「創作年譜」に関わって,拙稿「雷石楡「私の思い出」考 ─ 隠された物語を読 む ─」(2013 年 2 月『商学論集』第 81 巻第 3 号)で,内務省警保局編 石堂清倫解題『極秘 (龍溪書舎,1980 年 7 月)の『第 1 巻 昭和 外事警察概況 昭和 10-17 年度 全 8 巻 付図 1 函』 10 年』を引用した際に誤記した引用箇所を,以下のように訂正しておく。 「同年[1935 年]十一月 四日身柄を保護検束し」(誤) → 「同年十一月十四日身柄を保護檢束し」 (正) 。 (1995 年 もう一つ, 『もう一度春に生活できることを ─ 抵抗の浪漫主義詩人・雷石楡の半生』 8 月,97 年 12 月,潮流出版社)の「人名索引・凡例」で,人名の伊福吉部隆( 「年譜」前半(補遺) 1936 年 3 月 1 日参照)の読み方を不明なものの例として, 「(いふくべたかし)?」と仮に読んでお いたが,おそらく(いふきべたかし)ではないかと思われることを付記しておく。 凡例 無印 :「雷石楡創作年譜」 (『もう 1 度春に生活できることを』収録の作品)の記述の踏襲部分。 ☆ : 張麗敏『雷石楡人生之路』 (2002 年 7 月,河北大学出版社)(以下,該書を『人生』と 略記する)記述による補遺。 (2010 年 10 月,河北大学出版社)所収の作品による補遺。 △ : 張麗敏編著『雷石楡詩文選』 ◆ : 原載誌のマイクロフィルム等で確認できた『人生』以外の作品の補遺。 ― : 下線部は訂正・加筆部分を示す。 あいう : 削除部分を示す。 ― 66 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) ■「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 雷石楡創作年譜 中国近現代史関連事項 1911 年 10 月 辛亥革命 1911 年(0,1 歳) 5 月 28 日(旧暦 5 月 1 日),広東省台山県の水歩圩毛坪郷のわずか 8 戸の僻地の 1912 年 1 月 中 華 民 国 山村・馬山村に,インドネシアの華僑の長男として生れる。幼名・雷社穏。 成立 父は雷享(字,家暖),インドネシアの華僑,大工職人で,ジャワ(今のジャ 1915 年 1 月 日本,21 ヵ 条要求提出 カルタ)で家具屋を経営する。 1917 年(5,6 歳) 6 歳の時,母,病死する。以後,祖母に養育される。 1919 年(7,8 歳) 祖母の意向で,私塾に通い,『三字経』『千字文』を読む。 1920 年(8,9 歳) 父,帰郷し,再婚する。 1917 年 1 月 文学革命 1918 年 5 月 魯 迅「 狂 人日記」 1919 年 5 月 五 四 運 動 (∼ 6 月) 1921 年 7 月 中 国 共 産 党成立 1923 ∼ 25 年(11 ∼ 13 歳) この間,私塾をやめ,飛び級で新しい学制(1912 ∼ 1913・壬子癸丑学制)の 高等小学(3 年制)に入学。 1926 年(14,15 歳) 高等小学を卒業し,広東台城瑞応書院の中学予備班に進学。経書,古典詩文 を熟読し,旧体詩詞の創作に熱中する。劉晩成校長はその才能を認め,彼に 1926 年 7 月 北伐開始 石楡という名前を付ける。以後,雷石楡(留日期以後,本名としても使用) の筆名で台城『溯源月刊』に旧体詩を発表。 1928 年 10 月 南京・国 民 政 府 成 立( 北 京 を 1929 年(17,18 歳) 北 平(∼ 49 年 9 月 ) 台山県立台山中学校に在学。新文学運動の影響を受けマルクス主義の科学理 と改称) 論を学び,政治経済学,哲学,新興芸術に興味を抱き,むさぼるように読書 する。白話文(口語文)で創作を開始。 中学在学中に,同郷の雷秋波(筆名は哲如)と共同で,文芸週刊誌『汐』を 創刊する。メンバーには伍示月,白曙(陳作梅)等がいた。文学面では創造社, 太陽社の浪漫主義の影響を受け,革命文学を提唱した。 校内雑誌『台中半月刊』の主編となり,劇の台本を発表。休暇中に長編小説「情 1930 年 3 月 左 連, 上 海 で 成 立 ╱ 9 月 東 縁之果」を書き,県城の新聞に半年連載するが,新聞の停刊に伴い執筆を中 京左連成立(∼ 33 年 止した。 6 月) 1931 年 9 月 満州事変 1931 年(19,20 歳) 冬,台山中学を卒業する。台城『民国日報』社に就職し,副刊(文芸欄)の主 編となる。 1932 年 1 月 上 海 事 変 1932 年(20,21 歳) ╱ 3 月 満 州 国 成 立 『民国日報』副刊にマルクス主義理論を解説した文章をシリーズで発表したた ╱ 5 月 五・ 一 五 事 め,物議をかもし 3 ヵ月間包囲攻撃を受けた後,解雇される。 件 32 年,マルクス主義理論を解説した論文集『在文化闘争的旗下』 (文化闘争の旗 の下に)を,広東台城同文印書館より出版。 曹谷冰著の散文集『蘇俄視察記』(ソビエト視察記)の書評を,上海の『文芸 新聞』第 55 号(32 年 5 月 16 日発行)に発表。なお胡愈之著『莫斯科印象記』 (モスクワ印象記)の書評も同誌(号数は失念。待査)に発表。 1933 年 2 月 日 本 軍, 1933 年(21,22 歳) 熱 河 侵 攻 ╱ 5 月 塘 春,父の海外からの為替送金により,私費で日本に留学し,日本の中央大学経 沽協定╱ 12 月 東京 済学部(研究生)に入学する。課外に文学創作を行なう。 左連再建(∼ 36 年春) 1934 年(22,23 歳) 春,同郷の林為梁が日本へ留学し東京に来る。林為梁は雷と会い,日本留学の 文学青年である魏晋,林煥平,陳紫秋,黄新波,陳子谷等と連携をとり文学 ― 67 ― 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 研究グループを組織し,常に集い祖国内外の政治情勢を話し合ったり,文学 運動を研究して, 左連東京支部成立[正確には 1 度消滅した東京左連の再結成] と機関誌創刊の準備をする。 6 月 1 日,日本の進歩的雑誌『文化集団』2 巻 6 号(1 周年記念号)に,日本語 訳の詩「鬻児謡」(中国現代詩人・王一心の作品)を発表。 8 月 1 日,中国左連東京支部『東流』創刊。創刊号は雷石楡が主編(未署名)と なる。その後,主編は林煥平,陳達人に交替する。創刊号に,詩「天堂階下」 を発表。筆名は紗雨。 『文化集団』2 巻 8 号に,日本語の詩「非 常 帝の娘」(「非常帝」は「非上帝」 の誤植)を発表。詩集『沙漠の歌』に収録。 秋,雷石楡という名前は『詩精神』主編の新井徹(内野健児)と夫人の後藤郁 1934 年 10 月 紅軍,長 征開始 子(編集発行兼印刷人)に注目され,面会の後,唯一の中国人同人として受 け入れられる。その後,常に同人の活動に参加し,遠地輝武,秋田雨雀,中 野重治,小熊秀雄,槙本楠郎及び労働者,農民作家たちを知る。特に小熊秀 雄と親交を結ぶ。 11 月 1 日,『詩精神』1 巻 10 号に,日本語の詩「カフェー」を発表。執筆は,8 月 20 日,房州にて。筆名は,ライセキ楡。『沙漠の歌』に収録。 11 月 13 日,日本語の詩「アスの太陽」を作る。『沙漠の歌』に収録。 11 月 20 日,夜,日本語の詩「ギターを弾く乞食」を作る。12 月 19 日改作。『沙 漠の歌』に収録。 11 月 23 日,夜,日本語の散文詩「小芸術家」を作る。『沙漠の歌』に収録。 11 月下旬,日本語の詩「乞食の老人」を作る。『沙漠の歌』に収録。 12 月 1 日, 『東流』1 巻 2 期に,詩「黄鳥」を発表。筆名は紗雨。執筆は,避暑 地の房州で,同年 8 月 6 日。 12 月初旬,日本語の詩「自ら訴へる」「初雪」を作る。共に『沙漠の歌』に収録。 12 月 7 日,日本語の詩「不自然にあらはれる」を作る。『沙漠の歌』に収録。 12 月 1 日,日本語の詩「二本の足」を作る。『沙漠の歌』に収録。 12 月 13 日,日本語の詩「涙」を作る。『沙漠の歌』に収録。 12 月 17 日,日本語の散文詩「姉さんに」を作る。『沙漠の歌』に収録。 12 月 18 日,日本語の詩「ある詩人たちに(故国の感想の 1)」 「生きる」を作る。 晩,日本語の詩「イトコに」を作る。共に『沙漠の歌』に収録。 12 月 27 日,晩,日本語の詩「俺は新年がない」を作る。『沙漠の歌』に収録。 1935 年(23,24 歳) 1 月 1 日,『詩精神』2 巻 1 号(新年号)に,日本語の論文「中国詩壇の近状」 1935 年 1 月 遵義会議 を発表。 1 月 3 日,小作人・スヰオンが前科者になった顚末を綴った日本語の詩「良民」 を作る。『沙漠の歌』に収録。 1 月 9 日,日本語の詩「三原山繁昌」を作る。『沙漠の歌』に収録。 1 月 16 日,日本語の詩「沙漠の歌」を作る。『沙漠の歌』に収録。 1 月 23 日,日本語の詩「鶯の歌を聴く」を作る。『沙漠の歌』に収録。 1 月 26 日,日本語の詩「燃す」「春」を作る。『沙漠の歌』に収録。 1 月 27 日, 『太白』1 巻 8 期(35 年 1 月 5 日発行)の「速写」欄掲載の朝水「包 飯作」を参考にして,日本語の詩「包飯作」を作る。『沙漠の歌』に収録。 2 月 1 日, 『詩精神』2 巻 2 号に,日本語の詩「あげてよ」を発表。執筆は 34 年 12 月 14 日夜。『沙漠の歌』に収録。また,該誌同号の「ハガキ文学」欄に, 『詩 精神』創刊 1 周年を記念して,日本語で「一週年に当つて」を発表。 2 月 6 日,日本語の詩「筆跡」を作る。『沙漠の歌』に収録。 2 月, 『東流』1 巻 3・4 期合併号に,詩「三原山繁昌」「従那裏飛進来的呢」を 発表。筆名は紗雨。後者の詩の執筆は 11 月 3 日。 3 月 1 日, 『詩精神』2 巻 3 号に,中国現代詩人・蒲風の詩の日本語訳「小莉茜」 を発表。 3 月 24 日,日本語の処女詩集『沙漠の歌』を東京前奏社より出版。34 年 8 月∼ 35 年 2 月までの間に創作した作品 25 篇を収録。この詩集には,遠地輝武,新 井徹, 後藤郁子の序と著者の自序がある。その中の「不自然にあらはれる」 「三 ― 68 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 原山繁昌」「燃す」は,『沙漠の歌』25 篇の目次と共に,1975 年 4 月,河出書 房出版の『日本現代詩大系』第 8 巻に転載。 4 月 1 日, 『台湾文芸』2 巻 4 号に日本語の詩「顫へる大地」を発表。執筆は 2 月 12 日。 4 月, 『東流』1 巻 5 期に,詩「雪中祈祷的照片」を発表。筆名は紗雨。執筆は 1 月 30 日晩。また,同期に玉桑の筆名で散文詩「爽約」を発表。 5 月 1 日, 『詩精神』2 巻 5 号に,日本語の詩「櫻が咲く」を発表。 ☆『文学評論』臨時増刊号・2 巻 6 号(新人推薦号)に,日本語の詩「細雨」を 発表。執筆は 34 年 11 月 26 日。 5 月 5 日, 『台湾文芸』2 巻 5 号に,日本語の詩「飢饉」を発表。 5 月 10 日,東京で『詩歌』を創刊。創刊号に,「序詩」 「櫻花不在他們的上面開」 を発表。後者の詩の執筆は 4 月 13 日夜。『詩歌』第 3 期まで雷が主編となる。 日本の警察当局に何度も召喚,尋問,威嚇,警告されたため,その後編集を 魏晋と交替する。該誌はまもなく停刊となったが上海に移り『詩歌生活』と 改名し,林林が編集・発行する。 5 月 15 日,風間光作主編の『詩人タイムス』第 3 号に,詩「十字架の釘から」(未 見)を発表。 5 月, 『東流』1 巻 6 期に,訳詩「縫工」(原作は 34 年 11 月『詩精神』1 巻 10 号 掲載の後藤郁子「縫工の歌」)と詩「墓場之旁」を発表。筆名は紗雨。 6 月 10 日, 『台湾文芸』2 巻 6 号に,中国語と日本語の該誌宛書信各 1 通と中国 1935 年 6 月 11 日 梅津・ 何 応 欽 協 定 ╱ 12 日 語の評論「我所切望的詩歌 ─ 批評 4 月号的詩 ─」を発表。執筆は 4 月 国民政府,「邦交敦睦 12 日。 令」を発布 6 月 28 日,『詩歌』1 巻 2 号に,詩「兵」を発表。執筆は 5 月 27 日。また魏晋 訳「給姉姉」(原作は『沙漠の歌』所収の「姉さんに」)を掲載。 7 月 1 日,『詩精神』2 巻 7 号に,日本語の詩「雷・雨・晴天」を発表。 ☆ 7 月,未発表ながら,小熊秀雄の激励により,7 月 1 日に日本語・中国語の詩 「理屈」 ,9 日に中国語の詩「一幕悲劇」,15 日に日本語の詩「狂歌」,22 日に 日本語の詩「没落階級の生活と希望」 ,26 日に日本語の詩「失業」など,7 月 1935 年 8 月 中 国 共 産 に詩を多作する。 党「 八 一 宣 言 」 を 発 8 月 4 日, 『台湾文芸』2 巻・8・9 合併号に,中国語の詩論「詩的創作問題」を 表 発表。 8 月 5 日,『詩歌』1 巻 3 号に,詩「幽霊的再抬頭」を発表。筆名は紗雨。執筆 は 7 月 8 日。 8 月 15 日,雷の記憶によれば,『詩人タイムス』に,長詩「小熊秀雄氏について の印象 ─ 小熊秀雄詩集出版記念会にあたる」を発表したという。(待査) 。 執筆は高円寺で 7 月 1 日,この日は新宿「オリンピック」で小熊秀雄の 35 年 6 月・前奏社『飛ぶ橇』の出版記念会が新井徹の司会で開かれ,雷はこの詩を 当会で朗読した。雷は初め該詩の題名を「小熊秀雄のイメージ」としたが, 小熊の朱により前述の詩題に改めた。(注 :『詩人タイムス』は 36 年 1 月 1 日 より『東京詩人新聞』と改題) 8 月 26 日夜,小熊が最初のはがき詩を雷石楡に寄せる。2 人は郵便を通じて急 速にはがき詩を交換する。保存されている手稿によれば,9 月下旬までに 37 篇になった。◆また,上海『立報』副刊にも数篇を中国語に訳し載せる。『文芸』 1976 年 1 月号所収「日中往復はがき詩集」の木島始による「解説」によれば, 雷から小熊宛てのはがき詩 18 通の消印は,順に第 1 番の 2 が 8 月 28 日,4 が 29 日,6 が 30 日,8 が 9 月 1 日,第 2 番の 1,3,5,7 が 8 月 31 日,第 3 番 の 1,3,5,7 が 9 月 2 日,第 4 番の 1,3 が 9 月 2 日,5 が 9 月 5 日,7 が欠, 9,11 が 9 月 6 日という。 ☆ 8 月,東京の『文芸』3 巻 8 号に日本語の詩「故国を離れて」を特別寄稿(原 稿料 5 円)として発表。執筆は 6 月 26 日で,初め中国語で草稿を作り,同日 日本語に訳す。草稿の詩の冒頭に「贈給小熊秀雄」と記したが,投稿時にそ の文字を削除した。翌年 1 月発行の東京前奏社『一九三五年詩集』に収録。 9 月 1 日,『詩精神』2 巻 8 号に,日本語の詩「詩人の自殺すること」を発表。 ☆執筆は 6 月 19 日で,初め中国語で草稿を認め,同日日本語に訳す。詩題の「詩 ― 69 ― 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 人」とは中国の詩人・朱湘を指す。 10 月 10 日, 『詩歌』1 巻 4 期の「翻訳欄」に,雷石楡・小熊秀雄合作の「明信 1935 年 10 月 紅軍,呉 起鎮到着 片詩集選訳」(往復はがき詩集の作品第 2 番の雷(7)と小熊(8)を自らの訳 で発表。なお当期の『詩歌』に,すでに編集の職を辞し魏晋に交替した旨の「雷 石楡啓事」を掲載。 10 月,東京の『文学案内』10 月号に,日本語の論文「中国文壇現状論」を発表。 この論文は,当時の中国文壇の現状を紹介し,各派の詩人の創作情況を報じ たもの。 秋,雷が反戦詩文を発表したことに激怒した警視庁はしばしば彼を召喚・尋問 する。 ☆ 11 月 5 日,東京の城北文学社編・出版の『詩導標』創刊号(編輯兼発行人, 寺尾精二)に,日本語の詩「友よ悲しむ勿れ」を発表。 ☆ 11 月 12 日,友人と千葉県市川市に住む郭沫若を訪問し,書を求める。( 『惨別』 参照) ☆ 11 月 14 日,日本の警視庁外事科亜細亜系の警察署によって逮捕・拘留され, 『詩 精神』との関係等の供述を迫られ拷問される。留置所内で,政治犯で逮捕さ れていた無政府主義派の詩人・岡本潤,植村諦・梨子夫妻に遇う。(内務省警 保局編『極秘 外事警察概況 昭和 10-17 年度 全 8 巻 付図 1 函』 (1980 年 7 月,龍溪書舎)の『第 1 巻 昭和 10 年』参照) ☆ 11 月 21 日,午前 11 時,横浜港から筑波丸に乗せられ日本を追放される。私 服警官に横浜埠頭に護送された時,日本の詩友・新井徹,後藤郁子,小熊秀 雄及び詩歌社の詩友・蒲風,魏晋,林林,戴何勿,また台湾詩友・呉坤煌等 が埠頭まで見送りに来て「雷さん万歳」と叫ぶ。彼らは長期間にわたり監獄 救出の救援活動に奔走してくれた。 ☆ 11 月下旬,上海着。上海北四川路永安里 10 号に雷公嶺の名前で仮寓。 11 月 27 日, 『日文研究』4 号に,中国語訳詩「紀念 ─ 贈給雷石楡詩兄」を発表。 筆名は紗雨,原詩は新井徹の「記念 ─ 雷石楡詩兄に贈る」。 12 月 1 日, 『詩精神』2 巻 10 号(最終号)に,日本語の詩「ある女優に」を発表。 ☆ 12 月 6 日, 『詩導標』1 巻 2 期の「壁通信」欄に,主編・寺尾精 2 への返信(35 1935 年 12 月 一二・九 年 11 月付)を発表。 運動╱冀察政務委員 12 月 11 日深夜,自伝体の中篇小説「惨別」を脱稿,10 日間で書きあげる。 会成立 12 月 31 日,東京聶耳紀念会編輯『聶耳紀念集』(編輯人は天虚,黄風,印刷者 は「日本東京神田区神保町 1 ノ 45」の堀川印刷所)が発行され,雷石楡訳で 秋田雨雀の詩「紀念聶耳」が掲載される。 1936 年(24,25 歳) 1 月 1 日, 東京の『日文研究』5 号に,中国語日本語対照の詩「給災区逃亡的人們」 (災区から逃亡する人々に)」を発表。趙望雲の挿図「蘇魯災区写生」を掲載。 執筆は,上海,35 年 11 ∼ 12 月間。 年初,中学時代の親友・白曙を通じて曁南大学の謝六逸先生を紹介され,その後, 謝六逸主編『立報』副刊「言林」にしばしば作品を投稿。 1 月 28 日, 『台湾文芸』3 巻 2 号に,中国語の散文「和一個異国婦人的対話及其他」 を発表。執筆は 35 年 5 月 21 日夜,8 月 20 日修正。 ◆ 1 月 31 日,『立報』副刊「言林」に,詩「狗」を発表。 1 月, 『詩人時代』6 巻新年号に,評論「復興期以後に於ける中国詩壇の動向」(未 見)を発表。 2 月 1 日,『詩人』3 巻 2 号に,日本語の詩「バルビュスよ静かに寝なさい」を 発表。 『詩人』 (文学案内社発行)は『詩精神』を発展改称した雑誌。 ◆ 2 月 4 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「我国的「非常時」」を発表。 ◆ 2 月 6 日,『立報』副刊「言林」に,詩「関於恋愛」を発表。 ◆ 2 月 7 日,『申報』副刊「申報・文芸週 刊」第 13 期に,評論「関於新詩創作 諸問題」を発表。雷は日本追放後の上海で,該刊主編の呉景崧と面識をもち, 以後,該篇を含めて該刊に評論 5 篇・通信 1 篇の作品を投稿。なお該刊「申報・ 文芸週刊」或は「申報・文芸専刊」は毎週金曜の刊行。 ― 70 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) ◆ 2 月 10 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「給日本的詩友」を発表。 ◆ 2 月 13 日, 『立報』副刊「言林」に,散文「支那人與狗」を発表。 ◆ 2 月 17 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「血路」を発表。 ◆ 2 月 24 日, 『立報』副刊「言林」に,父のことを綴った詩「斑白的頭髪又添 上多少」を発表。 1936 年 2 月 二・ 二 六 ◆ 2 月 25 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「愛国的子民」を発表。 事件 2 月 29 日, 『台湾文芸』3 巻 3 号に,中国語の詩「摩砕可憐的霊魂」を発表。35 年 6 月 5 日草稿,7 月 8 日改作。 3 月 1 日,伊福吉部隆・編輯兼発行『現代詩』創刊号に小熊秀雄・雷石楡「春の ために河は流れた ─ 共同創作詩 ─ 」を発表。該詩は「日中往復はがき 詩集」の一部(35 年 9 月 2 日作の作品第 3 番・8 首) 。 3 月 5 日,上海で『夜鶯』創刊,主編は方之中。創刊号に,2 首の詩「我仍要歌唱」 「雖然你的臉上没有奴隷的烙印」を発表。 ◆ 3 月 16 日,『立報』副刊「言林」に,詩「謳歌普希金」を発表。執筆は 2 月。 同年 6 月 1 日発行の日本の詩雑誌『詩人』3 巻 6 号に,自ら該詩を日本語に訳 し発表。 3 月 20 日, 『日文研究』6 号に,訳詩「現実的砥石」を発表。原作は小熊秀雄の「現 実の砥石」 。 3 月,父から郵送された百余元銀貨を受領する。その後,このお金を頼りに,林 未春の変名で日本へ潜入する。桜の満開の時節に東京に着く。出発前に 4 篇 の詩を『夜鶯』に投稿。 4 月 5 日,『夜鶯』1 巻 2 期に,詩「新世界的父母」を発表。 ◆ 4 月 11 日,『立報』副刊「言林」に,詩「中国是永遠和平的」を発表。 ◆ 4 月 19 日,『立報』副刊「言林」に,詩「詩人的辞典」を発表。 △ 4 月 25 日,新鐘創作叢書の第 1 輯第 13 冊として,『惨別』を上海新鐘書局よ り出版。該書には「題詩」 (36 年 3 月 29 日作),中篇「惨別」,短篇「帰来後」 を収録。 ◆ 4 月 27 日,『大晩報』副刊「火炬」に,『文学案内』3 月号掲載の貴司山治の 評論を中国語に訳した「世界文学上的婦女 ─ 関於恩格斯的易卜生論」を発 表。 4 月,父の為替受領の後,林未春の変名で日本へ潜入する。散文「愛的追憶」や 「私の思い出」には桜の満開の時節に東京に着いたと記している。具体的な日 本再渡航の日時は不詳。出発前に 4 篇の詩を『夜鶯』に投稿。 5 月 1 日, 『詩人』3 巻 5 号に,日本語の評論「中国のバイロン郷詩人…王独清」 を発表。☆日本追放後の 35 年 12 月に,上海で方士人の紹介で雷は王独清に会っ たことがある。 ◆ 5 月 3 日,『大晩報』副刊「火炬・星期文壇」に,評論「高爾基論創作技術」 を発表。 5 月 10 日,『夜鶯』1 巻 3 期に,詩「黄水之歌」を発表。(秋吉久紀夫氏は該詩 を日本語に訳し「黄河の砂原で」と題して,86 年 10 月 1 日『潮流詩派』に発 表した) 5 月 25 日,『東方文芸』1 巻 2 期に,訳文「給批評家的信」 (プーシキン作)を 発表。該文は,37 年・上海光明書局『普希金創作集』に収録。 ◆ 5 月 28 日,『立報』副刊「言林」に,詩「暮色的童年」を発表。 ◆ 5 月 29 日, 『大晩報』副刊「火炬」に,評論「飢餓的聯想」を発表。 5 月,上海『青年界』5 期に,散文「略説我学日文的経過」を発表。 6 月 1 日,日本の『詩人』3 巻 6 号に,日本語の詩「プーシキンを謳歌」を発表。 執筆は 2 月。該詩は同年 3 月 16 日付『立報』副刊「言林」発表の中国語詩「謳 歌普希金」を日本語に訳したものである。 6 月 15 日, 『夜鶯』1 巻 4 期に,詩「被強姦的土地」を発表。 6 月, 『文学導報』1 巻 6 期に,詩「我要和你們合唱」を発表。86 年 2 月に,北 京中国文連出版公司の『12・9 詩選』に収録。 ◆ 7 月 1 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「生活圏外」を発表。 7 月 3 日, 『申報』副刊「申報・文芸専刊」第 34 期に,評論「中国僅是日本文学 ― 71 ― 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 的課題 ?」を発表。 ◆ 『立報』副刊「言林」に,詩「誰個這様閒情」を発表。 ◆ 『大晩報』副刊「火炬」に,評論「賣淫婦的詩」を発表。該論は,『詩人』2 月 号掲載の木村毅「淫婦の詩」を中国語に訳し,資本主義時代に売春婦に落ち る悲惨を記述した詩として紹介している。 ◆ 7 月 6 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「給妙子小姐」を発表。「妙子」は本 多菊枝を指す。 ◆ 7 月 9 日,『立報』副刊「言林」に,詩「給×× 老爺」を発表。 ◆ 7 月 11 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「最写意的主題」を発表。 1936 年 7 月 19 日 スペ ◆ 7 月 15 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「給 NAMI」を発表。 イ ン 戦 争(∼ 39 年 4 ◆ 7 月 20 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「又是酷暑了」を発表。 月) 7 月 25 日, 『東方文芸』1 巻 4 期に,ゴーリキーを記念した文章「普羅文学的師 表 ─ 高爾基」を発表。 ◆ 7 月 26 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「国境」を発表。 ◆ 7 月 29 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「文化提携」を発表。 ◆ 8 月 5 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「異国人的生命」を発表。 8 月 21 日, 『申報』副刊「申報・文芸専刊」第 41 期に,評論「諷刺文学的積極性」 を発表。 ◆ 9 月 4 日,『大晩報』副刊「火炬・毎週文壇」に,評論「六年祭當中対 瑪耶 濶夫斯基的認識」を発表。 ◆ 9 月 7 日, 『大晩報』副刊「火炬」に,大宅壮一作の評論を中国語に訳した評 論「日本 新版文壇地図」(1)(未完)を発表。 ◆ 9 月 8 日,『立報』副刊「言林」に,詩「血」を発表。執筆は,8 月 28 日。そ の後,37 年 11 月『国際縦隊』(以下,『国際』と略す)に収録。 9 月 11 日, 『申報』副刊「申報・文芸専刊」第 44 期に,評論「新詩人応有的運動」 を発表。 ◆ 9 月 12 日,『立報』副刊「言林」に,詩「敢違尊意」を発表。 ◆ 9 月 13 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「給一位被放逐者」を発表。 ◆ 9 月 21 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「我要滾回你的懐抱」を発表。 ◆ 『大晩報』副刊「火炬」に,大宅壮一作の評論を中国語に訳した評論「日本 新版文壇地図」 (2)(3)を発表。 ◆ 9 月 25 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「回老家去」を発表。『国際』に収録。 ◆ 9 月 27 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「一個散兵」を発表。 ◆ 9 月 28 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「贈宗派主義者」を発表。 ◆ 『大晩報』副刊「火炬」に,大宅壮一作の評論を中国語に訳した評論「日本 新版文壇地図」 (4)(続)を発表。 ◆ 9 月 30 日,『立報』副刊「言林」に,詩「勿傷友好」を発表。 9 月, 『詩人』3 巻 9 号に,訳詩「親愛なるお前よ,さようなら!」(原作は『青 島詩歌』掲載の羅倫の詩「親愛的你呀,再見」 ),「朝鮮婦」 (『前奏』創刊号掲 載の胡明樹の詩「朝鮮婦」),「われわれの誇り」(『東方文芸』3 期掲載の任鈞 の詩「我們的驕傲」)及び日本語の詩「リース・ロス爵士に」を発表。 10 月 1 日, 『詩人』3 巻 10 号に,日本語の詩「万里長城を電賀」を発表。その 中国語訳を『詩歌雑誌』1937 年 3 期に掲載。☆『詩歌雑誌』創刊号(連合詩 歌雑誌社編集・発行)に,論文「国防詩歌応走的路線」を発表。執筆は, 「5 月 2 日,上海にて」と記すが,「上海にて」の記述は日本再渡航隠蔽のための 偽装と思われる。 ◆ 10 月 2 日,『立報』副刊「言林」に,詩「杞憂」を発表。 10 月 4 日,詩「義勇軍」を作る。『国際』に収録。 10 月 9 日,『申報』副刊「申報・文芸専刊」第 48 期に,評論「白徳吶是怎様的 詩人」を発表。 「白徳吶」とは,べードヌイのこと。 1936 年 10 月 19 日 魯 ◆ 10 月 15 日,『立報』副刊「言林」に,詩「報王遊日」を発表。 迅没 10 月 25 日,『東方文芸』2 巻 1 期(革新号)に,詩「為誰犠牲」を発表。 ◆ 10 月 28 日,『立報』副刊「言林」に,詩「我告訴你」を発表。 ◆ 11 月 2 日,『立報』副刊「言林」に,詩「何必討價」を発表。 ― 72 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) ◆ 11 月 5 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「暴風雨,你来吧!」を発表。 11 月中旬,帰国し,上海の中国人経営紡績工場である永安公司の労働組合職員・ 11 月 8 日 ∼ 27 日 頃 上海の日本人経営紡 韋及の家に仮寓する。後に蒲風の尽力で福州に赴く。 績工場の労働者の反 11 月 11 日,詩「罷工」を作る。『国際』に収録。 日大ストライキ 11 月 13 日, 『申報』副刊「申報・文芸専刊」第 53 期に,通信「 (東京通信)日 本詩壇一風景」を発表。 ◆ 11 月 15 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「「禮拝工」歌」を発表。執筆は 11 月 11 日。 『国際』に収録。 11 月 16 日,詩「国際縦隊」を作る。『国際』に収録。 ◆ 11 月 20 日,『立報』副刊「言林」に,詩「華北的気管」を発表。 ◆ 11 月 21 日,『立報』副刊「言林」に,詩「怪艦」を発表。 ◆ 11 月 24 日,『立報』副刊「言林」に,詩「通航」を発表。 12 月 2 日,詩「不打中国人」を作る。『国際』に収録。 ◆ 12 月 6 日,『立報』副刊「言林」に,詩「睡獅醒了」を発表。 12 月 8 日,詩「贈給鄧南遮吧」を作る。38 年 5 月『新生的中国』(以下, 『新生』 と略す)に収録。鄧南遮は,イタリアの詩人,作家・ダヌンツィオのこと。 なお, 『新生』収録詩 31 篇のうち該詩のみが 36 年の執筆で,他の 30 篇は 38 年の作品を収録。 ◆ 12 月 12 日, 『立報』副刊「小茶館」に,歌詞「一日貢献国家歌」を発表。丁 璫の作曲。厦門の『星光日報』等の刊行物にも転載。『国際』に収録。また, 歌集『民族呼声集』にも収録される。 12 月 13 日,福州の『小民報』副刊「新村」「毎周文壇」に,評論「日本文壇的 厄運」を発表。また,該文の前言に,雷石楡の作品が『質文』『東方文芸』『詩 歌雑誌』等に掲載されていること,11 月 1 日の本紙「新村」「毎周文壇」の雪 蒂「国防詩歌的実践」で雷の国防詩歌の理論を紹介済みであること,長年日 本に留学していたが最近福州に到着し,すでに『新村』特別寄稿者に招聘さ れたことが紹介された。 ◆ 12 月 14 日, 『立報』副刊「言林」に,詩「又来一套」を発表。 12 月 19 日,詩「縫軍衣」を作る。『国際』に収録。 12 月 22 日,詩「上前線」を作る。『国際』に収録。 12 月 23 日,詩「打漢奸」「看護歌」を作る。『国際』に収録。 ◆ 12 月 29 日,『立報』副刊「言林」に,詩「我們不火迸」を発表。該詩の執筆 は 12 月 19 日。「不火併」と改題し,『国際』に収録。 12 月,詩「殺過鴨緑江頭」を作る。『国際』に収録。 36 年,葉紫(1910 ∼ 39.10)が重病となり,医療費をすべて友人の援助に頼っ ていた。雷が『申報・文芸専刊』の主編・呉景崧を通じて原稿料を葉紫に贈る。 このことを葉紫は臨終の時にも忘れなかったという。 1937 年(25,26 歳) 1937 年 1 月 中国共産 1 月 1 日,上海の『熱風』創刊号に詩歌「犠牲」を発表。 党,保安から延安に 1 月 9 日,詩「送行」を作る。『国際』に収録。 移る ◆ 1 月 11 日,『立報』副刊「言林」に,散文「論「出風頭」」を発表。 ◆ 1 月 15 日,福州の平凡文芸社編輯・発行の月刊『平凡』を福州にて創刊。創 刊号 1 巻 1 期に,訳詩「果実」(原作は森山啓の詩)を発表。該誌の寄稿者は 雷石楡の他に,任其,翛朔,魏艾寒,西裴,徐君藩,問蒼,陳学英,林冷秋, 林心平,陳啓粛,糜文開,魏弼,荑石,蕉風,秀子,葉可根,一勺,佃暁軍, 琬夫,舒謙,李小山,雪蒂など。 ◆ 1 月 25 日, 『立報』副刊「言林」に,散文「擦皮靴的故事」を発表。筆名は 紗雨。 1 月 26 日,福州の『小民報』副刊「新村」に,雑文「外表」を発表。 1 月,福建師範の上半年の蒲風の授業を代理で担当する。また,葉可根・蒲風共 訳『普希庚詩抄』を校正する。 2 月 3 日, 『小民報』副刊「新村」に,詩「蛙式的作家們」を発表。執筆は 1 月 21 日,福州。 ◆ 2 月 7 日, 『立報』副刊「言林」に,散文「『平凡』的三個短篇」を発表。 ― 73 ― 商 学 論 集 ◆ 2 月 8 日,『立報』副刊「言林」に,散文「小賬」を発表。 ◆また,『小民報』副刊「南風」5 巻 3 期に,葉可根訳で,雷石楡作「両條腿」 を掲載。原作は『沙漠の歌』所収の「二本の足」(執筆は 34 年 12 月 1 日) 。 2 月 10 日, 『小民報』副刊「新村」に, 「普式庚百年忌特輯一」として,訳詩「給 開倫夫人」 (プーシキン作)を発表。 2 月 16 日, 『小民報』副刊「新村」に, 「普式庚百年忌特輯二」として,訳詩「阿 拉克赤益夫伯爵」(プーシキン作)を発表。 ◆ 2 月 22 日, 『小民報』副刊「南風」に,雷の『沙漠の歌』所収の日本語の詩「カ フェー」が,葉可根訳で発表される。 2 月, 『詩歌雑誌』2 期に,訳詩「颶風前奏曲」(秋田雨雀作),論文「在詩歌的 連合戦線上」を発表。該文の執筆は 36 年 10 月 11 日,日本にて。なお,該誌 2 期には「中国詩歌作者協会宣言」が発表された。雷の該文は該会成立に呼応 するものだった。 ◆ 3 月 10 日,月刊『平凡』1 巻 2 期に,詩「剿滅不了我們的霊魂」 ,評論「棄詩 求歌論批判」を発表。該詩は,91 年 3 月・海峡文芸出版社『一九三〇 ─ 一九四九 福州詩与散文選』に転載。 3 月 17 日,『小民報』副刊「新村」に,諷刺詩「狂人自画像」を発表。執筆は 3 月 13 日。 ◆ 3 月 18 日, 『立報』副刊「言林」に,散文「電燈泡」を発表。 3 月 20 日, 『小民報』副刊「新村」の「「我的文学生活」専輯」欄に,「我的文学 修業」 (上)を発表。 3 月 21 日,詩「青春曲」を作る。『国際』に収録。 3 月 23 日,『小民報』副刊「新村」の「「我的文学生活」専輯」欄に,「我的文学 修養」 (下)を発表。 3 月 30 日,『小民報』副刊「新村」に,詩「心霊枷鎖」を発表。執筆は 3 月 18 日夜。 4 月 1 日,『小民報』副刊「新村」の「「詩的意見」専輯(上)」に,「談詩」を発 表。執筆は 1 月 19 日。 4 月 2 日,詩「偽満官大人」を作る。また,おそらくこの日,詩「中国兵」を作 る。共に『国際』に収録。 ◆ 4 月 3 日, 『福建民報』の副刊「芸術座」第 1 期を創刊。編集者は,雷石楡, 糜文開,盧茅居,張西野の 4 人。副刊の内容は「詩歌」と「文彙」の 2 種類で, 前者は雷が主編。該刊第 1 期に,雷の詩「樊幼英」を発表。 『小民報』副刊「新村」に,詩「臨別回礼」を発表。 4 月 8 日,『小民報』副刊「新村」に,詩「春日雑感」を発表。 4 月 12 日,『小民報』副刊「南風」5 巻 10 期に,詩「我記得 ─ 懐日本詩友植 村諦」を発表。執筆は 3 月 25 日。 4 月 14 日,詩「鐘声你的歌喉」を作る。『国際』に収録。 ◆ 4 月 15 日,月刊『平凡』1 巻 3 期に,詩「和平・子弾」を発表。 4 月 28 日,詩「封建廃塔里的少女謡」を作る。『国際』に収録。 『小民報』副刊「新村」に,詩「瞻仰演習」を発表。執筆は 3 月 30 日。 5 月 1 日, 『福建民報』副刊「芸術座」第 5 期に,温芝青の挿絵を付して,詩「福 州車夫歌」を発表。執筆は 4 月 2 日。 ◆厦門の天竹文芸社出版・発行の月刊誌『新地』1 巻 2 号に, 「文芸時論」 (3 篇) を発表。該誌の主編は童晴嵐など。【『平凡』1 巻 3 期末尾の広告欄参照】 5 月 5 日, 『小民報』副刊「新村」に,詩「「会意」 」を発表。執筆は 4 月 4 日夜。 該詩は,91 年 3 月・海峡文芸出版社『一九三〇 ─ 一九四九 福州詩与散文 選』に転載。 5 月 8 日, 『福建民報』副刊「芸術座」第 6 期に,詩「不要文化」を発表。執筆 は 5 月 4 日。 5 月 25 日,詩「餓眼欲穿」を作る。『国際』に収録。[ 『小民報』副刊「新村」に は未掲載で,『国際』が初出] 6 月 9 日, 『小民報』副刊「新村」に,詩「難活的漁船」を発表。執筆は 5 月 30 日。 『国際』に収録。 ― 74 ― 第 84 巻第 2 号 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) ◆ 6 月 12 日, 『福建民報』副刊「芸術座」第 11 期に,詩「為隣人而夢想」を発表。 筆名は紗雨。執筆は 6 月 4 日夜。該刊の編集者の「編後幾句話」に「雷石楡 がいつ戻って来れるか分からない」という記述があり,少なくとも 6 月 12 日 の時点で,雷が福州を離れ広東へ赴くことが周囲に知られていたと推量され る。 6 月 18 日,『小民報』副刊「新村」の「高爾基周年忌専輯」に,追悼詩「一束心 霊的花圏 ─ 献給高爾基的霊前」を発表。執筆は 36 年。該詩末尾に次のよ うな「附記」がある。「附記 : 本詩曾為「文海」二期的高爾基逝世紀念特輯而作, 後「文海」二期未出版。因時間関係,拙作亦未改在別処発表,直至於今。」 ◆ 6 月 19 日, 『福建民報』副刊「芸術座」第 12 期に,詩「驪歌両闋」を発表。「両 闋」とは「A 別贈在閩諸友」「B 別贈諸学弟妹們」の 2 首のこと。執筆は 6 月 12 日。該刊には,雷を送別する雷の 2 人の女学生,梁碧瑜(「別了親愛的師長」 6 月 12 日作)と謝培貞(「別」6 月 11 日作)の 2 篇の送別詩が掲載されている。 謝培貞は後に蒲風と結婚する。 6 月 20 日,半月刊『閩声』1 期に,詩「怎能忘記你」「迷離之巷」を発表。 ◆ 6 月 26 日, 『福建民報』副刊「芸術座」第 13 期に,送別の辞「告別読者諸君」 を発表。執筆は 6 月 24 日夜。この送別の辞で,次期からの「芸術座」は糜文開・ 盧茅居・張西野らにより編集され継続発行される旨を言及する。なお,該刊 には,漾舟「贈別詩人 ─ 雷石楡」,倪述祖「別矣」,何藍勛「贈別雷先生」 など 3 人の送別詩が掲載されている。 ◆ 7 月 3 日, 『福建民報』副刊「新村」第 380 号に,評論「関于中国文壇的門羅 主義」を発表。執筆は「于福州」。なお,7 月 7 日「新村」第 382 号に顧綬珍 の送別詩「贈別雷石楡」が掲載されている。 7 月初,雷は福州に別れを告げ広州に到る。数日後,故郷の台山に帰る。 7 月 7 日,盧溝橋事件勃発。まもなく台山に事件の報が伝わり,抗日活動を行な 1937 年 7 月 7 日 盧 溝 橋 事 件。 抗 日 戦 争 勃 う。 発 7 月 10 日,月刊『平凡』1 巻 4 期に,評論「「意境」詩論者的意見」を発表。[該 誌の発行日は,任其「『平凡』的回憶」(海潮撮影芸術出版社,1993 年 10 月『福 州文壇回憶録』所収)による] ◆ 7 月 12 日,『福建民報』副刊「芸術座」14 期「戯劇専刊(一)」に,評論「今 後福州劇運応有動向」を発表。 7 月 19 日, 『小民報』副刊「野草」に,序文「有現実感的詩 ─ ―序南澗詩集」 を発表。 7 月 21 日,詩「応戦」を作る。『国際』に収録。 ◆ 7 月 22 日, 『福建民報』副刊「新村」393 号の「廣州詩壇動態」欄(執筆は煉, 7 月 10 日)の末尾に,雷の離福に関わる次のような記述がある。「最近雷石楡 由福州返粤,李磊亦將近作「生之歌」付印,預科這在蘆構橋事件発生以後, 更將使廣州詩壇飛躍猛進哩」。 7 月 25 日, 『福建民報』副刊「南風」7 巻 4 期に,散文「「我与新詩」特輯(一)」 を発表。この「特輯(一)」には,雷の他に秀子,陳啓粛,糜文開,南澗,李錀, 劉含懐,陳潤徽の 7 名が投稿している。 7 月 30 日,詩「靠」を作る。『国際』に収録。 8 月 1 日,詩「最後勝利的旗幟」を作る。『国際』に収録。 8 月 28 日,詩「戦呵,戦呵!」を作る。『国際』に収録。 8 月 29 日,詩「殺呀,殺呀!」を作る。『国際』に収録。 8 月,詩「歌頌二十九路軍」を作る。『国際』に収録。 9 月 23 日 第 2 次 国 共 9 月,詩「九一八」を作る。『国際』に収録。 合作成立 10 月 1 日,詩「冬耕」「壮丁隊」を作る。『国際』に収録。 10 月 10 日, 『中山日報』第 2 張第 1 版「国慶紀念特輯」欄に,詩「雙十歌」を 発表する。 『国際』に収録。 10 月 13 日,詩「後援歌」を作る。『国際』に収録。 10 月 15 日, 『廣州詩壇』1 巻 3 期の「抗戦特輯」欄に詩「華南也是鋼釘」を, 「詩 歌論壇」欄に詩論「詩歌作者総動員」を発表。なお,該期の「詩人印象記」 欄に, 「1. 郭沫若(蒲風著),2. 蒲風(白嘉著),3. 雷石楡(嬰著)」が載った。 ― 75 ― 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 黄寧嬰,陳残雲,蘆荻,蒲風等創刊の『広州詩壇』は 37 年 7 月 1 日創刊,第 4 期から『中国詩壇』と改称。該誌の特別寄稿者に,郭沫若,穆木天,徐嘉瑞 等がいた。詩歌出版社創立の基金を準備するために寄付金集めに奔走する。 また,蒲風の編集工作に加わる。 10 月 28 日, 詩「八路軍」を作る。『国際』に収録。該詩は「平型関殲滅大捷有感」 により作ったもの。 10 月,歌詞「保衛台山」を作る。台山発行の週刊『抗敵呼聲』[或は『抗戦呼声』 か]第 3 期に発表。李凌(本名,李樹連)作曲。『国際』に収録。 11 月 11 日, 詩「 墳 墓 和 活 路 」 を 作 る。38 年 1 月『 一 九 三 七・ 七 / 七 ─ 一九三八・一/一』(以下『七/七∼一/一』と略す)に収録。 11 月 15 日,広州詩歌出版社より詩集『国際縦隊』を出版。収録詩は 36 篇。 『廣州詩壇』1 巻 4 期を発行。該誌は 1 巻 4 期より『中国詩壇』に改称。該号 に散文「関露」(詩人印象記),詩歌「壮丁歌」(署名は紗雨),詩論「開展大 衆詩歌活動」を発表。 11 月 30 日,詩「系農又系兵」を作る。『七/七∼一/一』に収録。 12 月 7 日, 『救亡日報』に,即興詩「歓迎郭沫若先生」を発表。『七/七∼一/一』 に収録。 12 月 10 日,詩「学生,戦士」を作る。38 年 1 月 13 日『救亡日報』に発表。『七 /七∼一/一』に収録。 12 月 12 日,詩「誰説」を作る。『七/七∼一/一』に収録。 12 月 15 日, 『中国詩壇』1 巻 5 期に,詩「打日本鬼歌」と詩論「新歌謡的創作 12 月 13 日 ∼ 16 日 南 京大虐殺 問題」を発表。 12 月 22 日,詩「轟隆隆」を作る。『七/七∼一/一』に収録。 12 月 23 日,詩「七十万人三千里路」を作る。『七/七∼一/一』に収録。 12 月 27 日,詩「殖民地的野火」「日本的心臓麻痺了」を作る。『七/七∼一/一』 に収録。 ◆ 37 年,詩「挽殉情者之歌」「趕制防毒面具」「制干粮」 「好仔要当兵」「二万遊 撃隊」を作る。 『七/七∼一/一』に収録。 1938 年(26,27 歳) 1 月 1 日,広州で『救亡日報』復刊する。社長は郭沫若,総編集長は夏衍,雷は 該報の常連の寄稿者となる。また,詩「一九三七・七/七 ─ 一九三八・一 /一」を作る。 『七/七∼一/一』に収録。 ◆ 1 月 5 日,『救亡日報』に,詩「粉砕倭寇向南犯」を発表。『七/七∼一/一』 に収録。 1 月 6 日,広州放送局の放送で,詩「華南,我們保衛你」を自ら朗読する。該詩 は当日の『救亡日報』に発表。『七/七∼一/一』に収録。 1 月 9 日,詩「抗戦到底」を作る。『七/七∼一/一』に収録。 ◆ 1 月 14 日,『救亡日報』に,評論「創作方法上的両個問題 ─ 関於写実主義 和浪漫主義」を発表。 ◆ 1 月 17 日,『救亡日報』に,評論「芸術的大衆性」を発表。 ◆ 1 月 18 日,『救亡日報』に,詩「沙漠上的英雄」を発表。執筆は 1 月 15 日。 1 月 21 日,詩「哀曲的反響」を作る。『新生』に収録。 ◆ 1 月 23 日, 『救亡日報』に,散文「薛排長」を発表。 ◆ 1 月 24 日, 『救亡日報』に,評論「加強理論批評」を発表。 1 月 25 日,広州詩歌出版社より,詩集『一九三七・七/七 ─ 一九三八・一/ 一』を出版。茅盾の題詞「華南,我們保衛你」,封面に郁風の作者画像が付さ れる。収録詩は 18 篇。 ◆ 1 月 27 日,『救亡日報』に,評論「為写作人呼籲」を発表。 2 月 1 日,詩「来」を作る。『新生』に収録。 2 月 4 日,詩「逃不得喲」を作る。『新生』に収録。 ◆ 2 月 5 日,『救亡日報』に,評論「未来派的再認識」を発表。 2 月 10 日,詩「贈加藤勘十」を作る。『新生』に収録。 2 月 11 日,詩「売淫婦又売俏了」を作る。『新生』に収録。 2 月 15 日,詩「思想・自由」を作る。『新生』に収録。 ― 76 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 2 月 20 日, 『中国詩壇』2 卷 1 期(蒲風の従軍により雷が全ての編集工作を担当) に,「給創作詩歌的青年朋友」「編輯余話」を発表。 2 月 22 日, 詩「日本女子是羊羔嗎 ?」 「獣行獣欲満京中」を作る。『新生』に収録。 2 月 23 日,詩「東京近郊的惨劇」を作る。『新生』に収録。 2 月 24 日,詩「欧州的野狗群」を作る。『新生』に収録。 3 月 8 日,詩「義勇軍的母親」を作る。『新生』に収録。 3 月 9 日,詩「你在微笑着 ─ 紀念総理逝世十三周年」を作る。『新生』に収録。 3 月 11 日,詩「再在你的播音台歌唱 ─ 為香港『立報』発刊而作」を作る。『新 生』に収録。 3 月 19 日,詩「你們没有敗退」「呑不下去」を作る。『新生』に収録。 3 月 20 日, 『中国詩壇』2 巻 2 期に,詩劇「詩人的合流」を発表。 3 月 21 日,詩「参観舞場有感」を作る。『新生』に収録。 3 月 22 日,詩「盧氏婦」を作る。『新生』に収録。 3 月 27 日,雷も武漢で成立した中華全国文芸界抗敵協会(略称,文協)に参加 する。 ◆ 3 月 28 日, 『救亡日報』に,散文「民族詩人文天祥」を発表。 4 月 10 日,詩「新生的中国」を作る。『新生』に収録。 4 月 11 日,詩「真英雄」を作る。『新生』に収録。 4 月 20 日,『中国詩壇』2 巻 3 期に,陳継武詩集の序「高射炮的歌唱」を発表。 4 月 24 日,詩「炮火轟断了愛情 ─ 懐菊枝」を作る。『新生』に収録。 4 月 26 日,詩「支那無名烈士之墓」を作る。『新生』に収録。 4 月 28 日, 詩「烈女秋霞」を作る。『新生』に収録。また蒋錫金編の詩歌叢刊『五 月』創刊号(38 年 6 月,詩歌工作社出版)に発表。 5 月 5 日,詩「広九粤漢路工人」を作る。『新生』に収録。 5 月 12 日,詩「特異的紀念碑」を作る。『新生』に収録。 5 月 20 日, 『中国詩壇』2 巻 4 期に,散文「五月・詩歌日」を発表。ソ連が 1936 年に 5 月 24 日を〈詩歌日〉と決定した。該文はこの〈詩歌日〉にちなんで作っ た。また,同期に雷,孫望の共同執筆の「談詩歌大衆化」を発表。 5 月 21 日,詩「先放幾吨軟炮弾」を作る。『新生』に収録。 5 月 25 日,詩「吊楊任」を作る。『新生』に収録。 5 月 30 日,詩歌出版社より詩集『新生的中国』を出版。該詩集には,同年作の「被 抑圧者の歌」 (被抑圧者的歌),「二人は会えない」(我倆不得相見) ,「ひがし の雲」 (東方的雲), 「戦場こはいや」 (戦場可怕呀)の日本語・中国語対照詩「対 敵兵宣伝歌四首」(日本軍に対する宣伝歌四首)を含む計 31 篇を収録。 7 月 26 日,中国詩壇社の本拠地外居住の同人で新華社特派員・袁勃の漢口から の手紙を受け取る。手紙の内容は,雷を晋南第 2 戦区の通訳工作への赴任を 推薦するというもの。雷は北上を決意する。出発前に広州・中国詩壇社同人 が歓送会を開く。歓送会で雷は即興で詩「別了,広州」を朗誦する。9 月 1 日 『中国詩壇』2 巻 5・6 期合併号に,詩題を「再会吧!」に改めて発表。該詩は 再び詩題を「別了,広州」に改めて,46 年 8 月『八年詩選集』(以下,『八年』 と略す)に収録。 8 月初,漢口の新華日報社に到着し,呉克堅と接見する。その後,18 集団軍後 勤弁事処に着任を報告し,北上の事務手続きを行なう。鄭州経由の汽車で北 上し澠池から黄河を渡り,そして垣曲の城南の莘荘村の前敵総司令部と戦地 工作団に赴き,衛立煌部隊の工作に配属される。主要な任務は日本軍捕虜の 資料(手紙,日記等)の研究,捕虜の尋問,思想の良好な捕虜の認定等,把 握した情報・情況をもとに,資料を作成し総司令部経由で重慶の国民政府軍 事委員会政治部へ提供すること。また,「戦地随筆」を執筆し,発表する。 8 月 16 日, 『戦歌』創刊号に,「『中国詩壇』近訊」を発表。『戦歌』は羅鉄鷹等 の編集による抗戦時期の大型詩歌雑誌。雷も校正等の編集に参加したことが ある。該誌には雷の詩が掲載された。 8 月 31 日,詩「你的丈夫死了」を作る。執筆は晋南。該詩は捕虜からの鹵獲品 中の 1 通の手紙 (家族が戦死した日本兵に宛てたもの)を材料にして作った。 『八 年』に収録。また,86 年 1 月,広州花城出版社『南国詩選』にも収録。 ― 77 ― 3 月 27 日 武漢で中華 全国文芸界抗敵協会 (略称,文協)成立 5 月 19 日 徐州陥落 毛沢東「持久戦論」 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 9 月 10 日, 『中国詩壇』2 巻 5・6 期合併号に,詩「別了,広州」を「再会吧 !」 の詩題に改めて発表。執筆は 7 月 26 日,広州。該誌同期は「送雷石楡同志赴 戦特輯」を企画し,黄寧嬰,陳残雲,蘆荻,艾莎,陳継武等の歓送詩を発表 する。 10 月 18 日,詩「故郷在烽火中」を作る。執筆は垣曲。『八年』に収録。 10 月 21 日 広州陥落 10 月,広州陥落により,中国詩壇社離散する。 11 月 1 日,『戦歌』1 巻 3 期に,「(補白)石雷楡来函(一)」として「詩友們的 10 月 26 日 武漢陥落 来信」を発表。 11 月 26 日,詩「潼関外的弧線路上」を作る。執筆は西安より中条山への帰途。『八 年』に収録。 12 月 15 日,詩「人生難得這一回」を作る。『八年』に収録。執筆は平陸。 12 月末,蒋介石,陜西省武功県で軍事会議を開き,共産党の脅威を恐れ第 2 戦 区の「戦地工作団」の解散を命じる。 1939 年(27,28 歳) 1 月,武功会議後,衛立煌は第 1 戦区司令長官(同年 9 月に河南省主席も兼任) に任ぜられ,司令部の洛陽に移動となる。雷石楡も衛立煌軍に従い,洛陽に 移動する。 1 月,『戦歌』1 巻 5 期に,詩「侵略的猟犬 ─ 写給鈴木猛」を発表。執筆は 12 月 16 日。 『八年』に収録。 2 月,『戦歌』1 巻 6 期に,歌詞「衝上去呀!」を発表。丁璫の作曲。また,9 月 20 日の『中国詩壇』復刊 3 期にも再録。該期の『戦歌』に,論文「攝取旧形 式与創造新形式」を発表。 2 月 4 日,『春雲』5 巻 1 期に,詩「喪失了一只戦馬 ─ 悼蒲風同志」を発表。 しかし,蒲風「犠牲」は誤伝で,実際,蒲風は 43 年に死去。 2 月 22 日,詩「致南国的朋友」を作る。執筆は洛陽。『八年』に収録。 2 月 25 日, 『抗戦文芸』3 巻 11 期に,報告「正義的交響」を発表。 長編詩「曾是異国的情敵」を作る。執筆は洛陽。『八年』に収録。 3 月 25 日,詩「張伯倫媒婆与達拉第小姐」を作る。『八年』に収録。 5 月 1 日,『中国詩壇』復刊号に,詩「別贈呉履遜将軍」を発表。執筆は 38 年 7 1939 年 5 月 日 本 軍 の 重慶爆撃 月 27 日。 『八年』に収録。 5 月 8 日,詩「寡婦与木人」を作る。執筆は洛陽。『八年』に収録。 6 月 1 日,『文芸陣地』3 巻 4 期に,詩「春在洛陽」を発表。執筆は 4 月 8 日, 洛陽。 『八年』に収録。 6 月 16 日,中国文芸社『文芸月刊・戦時特刊』3 巻 5・6 期に,改作した詩「自 衛軍歌」を発表。 春夏,詩「夢」を作る。内山訳『八年詩選集』は執筆時期を「一九三九年春夏 の間」とする。 『八年』に収録。 8 月 10 日,山西民族革命出版社『西線文芸』創刊号に,詩「朋友,你去吧 !」を 発表。 9 月 16 日, 『文芸月刊・戦時特刊』3 巻 10,11 期に,詩「中国的筆部隊 ─ 献 給作家戦地訪問団 ─」を発表。『八年』に収録。 9 月 25 日, 『中国詩壇』嶺東刊 2 巻 2 期に,改作した詩「自衛軍歌」を発表。改 作は同年 5 月。 10 月 15 日,詩「呼喚你的永生 ─ 紀念魯迅逝世四週年」を作る。 『八年』に収 録。 10 月,洛陽から東南へ赴こうとして,衛立煌に長期休暇(辞職)を請い,重慶 で郭沫若を 2 度訪問する。また,重慶では『新華日報』の呉克堅やタス通信 社の方士人夫妻を訪問する。 11 月上旬,昆明到着。昆明で雷は,文協昆明分会事務所(民衆教育会館)に住み, 分会の仕事の責任者として雑誌『西南文芸』 (昆明分会の名義で)の主編となる。 なお,台湾で再会することになる黄栄燦は,11 月 1 日『雲南日報』副刊「南風」 に,木版画「拡大難民生産運動」を,11 月 10 日には論文「現段階青年芸術家 的責任」を,40 年 1 月 27 日には木版画「新中国的婦女」を発表している。 11 月 17 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,散文「昆明随感録」を発表。 ― 78 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) ◆ 11 月 19 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,詩「新情歌」を発表。 11 月 29 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,散文「一個手溜弾的収穫 ─ 西線随 筆之一」を発表。 12 月 6 日,『雲南日報』副刊「南風」に,散文「霊巧勇敢的避敵和撃敵――西線 随筆之二」を発表。 12 月 15 日,『雲南日報』副刊「南風」に,歌体詩「築路歌」を発表。 12 月 16 日, 『新華日報』文芸専刊に,詩「我従西北来」を発表。執筆は 10 月 22 日,旅中の貴陽。『八年』に収録。 ◆ 12 月 19 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,詩「別母」を発表。執筆は 11 月 16 日。 『八年』に収録。 12 月 22 日,『雲南日報』副刊「南風」に,散文「人生是学習的過程」を発表。 12 月 29 日,詩「愛与恨」を作る。『八年』に収録。 1940 年(28,29 歳) 1 月 4 日,『雲南日報』副刊「南風」に,詩「我応該再穿起武装」を発表。 1 月 8 日,『雲南日報』副刊「南風」に,文論「論芸術性」を発表。 1 月 12 日, 『雲南日報』副刊「南風」「詩歌専号」に,詩「走向更新的闘争」を 発表。 1 月 13 日,詩「心曲」を作る。『八年』に収録。 『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「何謂技巧」を発表。以後,該報に創作 談を 6 月 18 日まで連続で 17 篇発表する。 1 月 17 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「関於個人与集体的主題」を発 表。 1 月 20 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「写什麼和怎様写」を発表。 1 月 23 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「談素材,題材与主題」を発表。 ◆ 1 月 31 日, 『新華日報』第 4 版に,散文「他愛父親的祖国」を発表。 ◆ 2 月 1 日,読書生活出版社『新音楽月刊』1 巻 2 期に,歌詞「新兵歌」(丁璫 作曲)を発表。 2 月 5 日,『雲南日報』副刊「南風」「詩歌特刊」に,創作談「座談・詩歌的民族 形式」 (座談会の総括)を発表。 2 月 13 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「読書,体験与写作」を発表。 2 月 16 日,『新蜀報』副刊「蜀道」46 期に,雑文「拉與姦」を発表。 2 月 19 日,『雲南日報』副刊「南風」の「詩歌専刊」に,座談「怎様開展地方性 詩歌」を発表。 ◆ 2 月 21 日,『雲南日報』副刊「南風」の「如何保障戦時作家生活特輯」企画 の初日に,評論「応如何保障作家的生活」を発表。 2 月 26 日, 『新蜀報』副刊「蜀道」56 期に,雑文「敵後方去来」を発表。 2 月 27 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,詩「再会吧,昆明 !」を発表。『八年』 に収録。 詩「詩友的結婚 ─ 寄賀蒲風与謝培貞伉儷」を作り,『八年』に収録。執筆 場所は晋寧金山寺(昆華師範の移転地)。 2 月 30 日,文化崗位編輯委員会編『文化崗位』2 巻 2 期に,短論「創作与修養」 を発表。該誌は中華全国文芸界抗敵協会雲南分会出版・発行。 ☆ 2 月,昆明の南約 50 キロの晋寧県金砂郷金山寺(滇池之濱)所在の昆華師範 の招聘を受け,当校の国文教員となる。この時は任期 1 年(その約 1 年後の 43 年前半の半年も赴任し,昆華師範には都合 1 年半の赴任。但し 2 度目の赴 任地は昆明と思われる)。昆華師範を辞した後の 1 年間,宣威郷師に 41 年 2 月∼ 8 月の半年,雲瑞中学(昆明)に 42 年春∼秋の半年,それぞれ赴任する。 3 月 6 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「芸術価値論」を発表。 3 月 13 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「語言文字的使用」を発表。 3 月 16 日,『文芸月刊・戦時特刊』4 巻 2 期に,詩「誓語」を発表。 3 月 19 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「事物的人格化」を発表。 3 月 28 日, 『 雲 南 日 報 』 副 刊「 南 風 」 に, 創 作 談「 両 種 創 作 方 法 的 統 一 性 ─ 関於浪漫主義与写実主義」を発表。 ― 79 ― 商 学 論 集 ◆ 3 月 28 日, 『僑光報』掲載の『中国詩壇』昆明版第 1 期に,詩「幾重奏」を 発表。 [蒙樹宏著『雲南抗戦時期文学史』 (雲南教育出版社,1998 年 4 月)p. 242 参照] 4 月 1 日, 『文芸新潮』2 巻 6 号に,詩「譲我再想起你」を発表。執筆は 39 年 12 月 19 日。 『八年』に収録。 4 月 2 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「人物典型的型造」を発表。 4 月 8 日,詩「贈」を作る。『八年』に収録。 4 月 17 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「性格的描写」を発表。 4 月 21 日,『新蜀報』副刊「蜀道」101 期に,詩「我把青春向你献上」を発表。 執筆は 39 年 9 月 5 日,洛陽。『八年』に収録。 4 月 26 日, 『新蜀報』副刊「蜀道」106 期に,詩「田舎英雄」を発表。執筆は, 39 年 4 月 31 日,洛陽。『八年』に収録。 4 月 30 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「作品与批評」を発表。 ◆ 5 月 7 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,詩「你永遠帯着敵人的烙印 ─ 為 許華君受傷而作 ─」を発表。執筆日時は 4 月 19 日。執筆場所は滇池之濱, つまり晋寧県金砂郷金山寺。 5 月 9 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「諷刺的意義」を発表。 6 月 1 日,桂林『中国詩壇』復刊号 4 期に,詩「献給空軍将士們」を発表。 ◆『新音楽月刊』1 巻 6 期「作者生活通訊」欄に近況を発表。 6 月 2 日,重慶『新華日報』に,歌詞「新相思曲」を発表。後に,甄伯蔚が作曲 し,41 年 1 月 15 日の『新音楽月刊』2 巻 4 期,また 41 年 4 月の増智書局『抗 戦新歌』第 2 集にそれぞれ再録。 6 月 13 日, 『雲南日報』副刊「南風」に,2 幕歌劇「流亡的孩子們」を発表。 6 月 17 日, 『雲南日報』副刊「南風」の「詩歌専頁」に,詩歌「假如我的兒子」 を発表。 6 月 18 日,『雲南日報』副刊「南風」に,創作談「学習高爾基」を発表。 6 月 28 日, 『新華日報』に,童話長編詩「小蛮牛」の第 5 章「守住崗位」を発表。 6 月,雲南・晋寧で,序文「吹響了軍笳 ─ 彭桂萼著詩集『辺塞的軍笳』序言」 を作る。彭桂萼『留芳集』に収録。 7 月,『戦歌』2 巻 1 期に,論文「詩歌日的回憶与展望」を発表。 8 月 2 日,『新蜀報』副刊「蜀道」189 期に,詩「走向決闘的戦場」を発表。 9 月 10 日, 『文芸月刊・戦時特刊』詩歌特輯・5 巻 1 期に,詩「歌唱民主的祖国」 を発表。 秋,日本軍の飛行機が昆明を連日空襲する。 9 月 30 日,報告文学「血債 ─ 為「九・卅」被炸而作」を作る。『婚変』に収録。 10 月 7 日, 『新蜀報』副刊「蜀道」249 期に,詩「反正我們還活着」を発表。 10 月 15 日, 『中国詩壇』復刊 5 期に,詩「我死了也不要棺材」を発表。執筆は 1 月 7 日。 『八年』に収録。 ☆ 10 月, 『詩与散文』(40 年 10 月 10 日,昆明で創刊)1 巻 3 期に,長編詩「真 野的叛逃」 (この長編詩は連載されたらしいが,詳細は不明)を発表。 11 月 1 日,桂林『自由中国』新 1 巻 1 期に,報告文学「戦地房東」を発表。執 筆は 5 月 20 日,滇池之濱(晋寧金山寺)。『婚変』に収録。 11 月 14 日,『新蜀報』副刊「蜀道」283 期に,詩「你真的走了」を発表。 11 月 24 日,詩「友情」を作る。『八年』に収録。 11 月 26 日,詩「我聴見你的嘆息 ─ 致日本詩友小熊秀雄」「你們走在我的前頭」 を作る。共に『八年』に収録。 12 月 1 日,『新蜀報』副刊「蜀道」297 期に,詩「誰説你老了 !」を発表。 12 月 24 日,小説「甄校長」を作る。『婚変』に収録。 12 月 29 日,小説「両弦集」を作る。『婚変』に収録。 1941 年(29,30 歳) 1 月 13 日,詩「家破人亡者的歌」を作る。『八年』に収録。 1 月 14 日,詩「春又来了」を作る。『八年』に収録。 1 月, 『戦歌』2 卷 2 期に,論文「要怎様習作詩歌的」,詩「響応」を発表。該詩 は 39 年 1 月 27 日,晋南の作。(『戦歌』の創刊は 38 年 8 月 16 日,この 2 巻 2 ― 80 ― 第 84 巻第 2 号 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 期が終刊) 2 月 1 日,在華日本人民反戦同盟機関誌・月刊『真理の闘ひ』(在華日本人民反 戦革命同盟会 真理の闘ひ社。通信所 : 重慶軍事委員会政治部文化工作委員 会 転)13 号に,日本語の詩「日本の革命同志に」を発表。執筆は,40 年 12 月 25 日。『八年』に収録。 2 月 13 日, 『新華日報』文芸専刊に,街頭詩「紡績,不要疏忽」を発表。 2 月,雷は昆明到着後,文協昆明分会の責任者となり分会機関誌『西南文芸』(41 年 2 月創刊)の編集・発行に尽力。『西南文芸』創刊号に,艾青「火把」,庄 涌「突圍令」 ,臧克家「泥淖集」,韓北屏「人民之歌」に関する「詩評」を発表。 その後,該文は 89 年 5 月,四川教育出版社出版の国統区抗戦文学研究叢書『詩 歌研究史料選』に再録。また,『西南文芸』創刊号に訳詩「洗濯日」 (原作は 月刊『真理の闘ひ』1 号(40 年 11 月 1 日発行)所収の浅野公子の作品「労働 週間(洗濯デー」 )を発表。 4 月 9 日,詩「懐念故郷」を作る。『八年』に収録。 4 月 17 日,詩「寄江南 ─ 為『江南文芸』的誕生而作」を作る。執筆場所は宣 威。 『八年』に収録。 4 月 25 日,詩「壮行 ─ 寄贈張徹」を作る。『八年』に収録。 4 月頃,宣威郷師の教師となる。任期は 42 年冬(2 月頃か)まで 1 年間。 6 月 16 日,郭沫若宛に手紙を出す。7 月 6 日に郭からの返信を落掌する。郭の 返信を『西南文芸』に発表。 8 月 1 日,月刊『真理の闘ひ』第 19 号に,日本語の詩「あなたがたを歓迎する」 を発表。『八年』に収録。(鹿地亘資料調査刊行会編『日本人民反戦同盟資料』 第 1,2 巻(94 年 5 月,不二出版)に『真理の闘ひ』第 1 号(40 年 4 月 15 日) ∼第 18 号(41 年 7 月 1 日発行)まで転載されている。1 号∼ 7 号まで月 2 回 発行,8 号∼ 18 号まで月刊だった。『資料』第 1 巻の井上学の「解題」によれ ば,謄写版印刷・月刊『真理の闘ひ』の最終号は,41 年 8 月 22 日にガリを切 り終わり,翌 23 日に製本作業をしたことが鹿地亘『続 火の如く風の如く』 に描写されているが,最終号を未見のため第 19 号か 20 号か不明という。と すれば,19 号は 8 月 1 日の発行で,最終号は 20 号と推量される)。 8 月,王礼錫を追悼する散文「文化戦士之死」を作る。『婚変』に収録。 秋,小説「尼尼」を作る。『婚変』に収録。 9 月 26 日,詩「難童」「同情」を作る。『八年』に収録。 9 月 27 日,詩「答客問」を作る。『八年』に収録。 10 月 16 日,詩「成長在教育的揺籃」を作る。『八年』に収録。(原載『八年』末 尾の記載「1610,19,41,於滇東」は「16,10,1941,於滇東」と推測される。 10 月,散文「収穫」を作る。『婚変』に収録。 11 月 20 日,文協成都分会『筆陣』新・1 期に,評論「血与霊魂的陰影 ─ 評 張煌的北方故事」を発表。 1941 年 12 月 太平洋戦 成都で『戦時文芸』を創刊。初め半月刊,後に月刊に変更。 争開始,香港陥落 41 年,詩「紅豆」を作る。執筆場所は昆明。 『八年』に収録。 1942 年(30,31 歳) 1 月 27 日,詩「在国境外索還血債」を作る。『八年』に収録。 1 月,『西南文芸』2 期に,「客観的規定性与主観的独創性」を発表。 2 月 3 日, 『雲南日報』に,散文「假如茅盾先生真的遭難了」を発表。 3 月 1 日, 『戦時文芸』1 巻 4 期に,小説「如夢之恋」を発表。 3 月 30 日,詩「悲歌」を作る。『八年』に収録。 2,3 月,42 年 1 月『西南文芸』第 2 期の広告 p26「消息(二)」によれば,この 頃, 第 5 詩集『在戦争中歌唱』を粤北で「詩長征叢書」として出版したという。 しかし現在,散逸し未見。該詩集は従軍時期から雲南 1 年間までの 40 余篇の 作品を収録もので,本来は『戦歌』の「戦歌叢書」として出版を計画してい たが,印刷所が爆破され全壊し,出版が頓挫したため,「詩長征叢書」として 再度出版されたという。 春,半年間,雲瑞中学の教師となる。 7 月 1 日, 『戦時文芸』1 巻 6 期に,訳詩「夜思」(ハイネ作)を発表。 ― 81 ― 商 学 論 集 7 月 7 日,詩「投回祖国的懐抱」を作る。『八年』に収録。 8 月 6 日,小説「婚変」を作る。『婚変』に収録。 11 月 28 日,散文「流亡人語」を作る。『婚変』に収録。 ☆ 11 月 5 日, 『莽草』手抄本出版に,詩「想起了你」を発表。執筆は 42 年 11 月。 『八年』に収録。 12 月,散文「可憐的生」を作る。『婚変』に収録。 42 年, 詩「請你再弾一曲」 「空中進行曲」等を作る。『八年』に収録。この 2 篇を, 内山訳『八年』は 43 年作とする。 1943 年(31,32 歳) 上半年,某女子中学の招聘を断り,半年を無職で過ごす。上海雑誌公司昆明分 会公司と華僑書店に仮住居し,上海雑誌公司の叢書を翻訳。 1 月 1 日,『戦時文芸』2 巻 1 期に,訳詩「女」(ハイネ作)を発表。 2 月 1 日,『戦時文芸』2 巻 2 期に,訳詩「海涅故事七章」を発表。 2 月,湖南・沅陵『長風文芸』1 巻 2 期に,小説「愛的追憶」[ 『詩文選』では散 文とする]を発表。 △ 3 月 11 日,重慶『新華日報』に,散文「蒲風在我的記憶里」を発表。 4 月,長編叙事詩『小蛮牛』を桂林文化供応社より出版。46 年 9 月,再版。47 年 11 月,3 版。該著は当出版社のシリーズ物の「少年文庫之一」。 5 月 12 日, 『雲南日報』に,翻訳「一個投誠兵的回憶録」(秋山龍一編)を発表。 △ 5 月,『詩与散文』2 巻 5 期に,散文「断章」を発表。 8 月 20 日,詩「睡与醒之間」を作る。『八年』に収録。 8 月,桂林文匯書店より翻訳『海涅詩抄』『奴隷船』(続集)を出版。これら 2 著 はともに生田春月の日本語訳のハイネの詩を重訳したもの。 秋,昆華師範の教師となる。任期は半年。 12 月,主編(筆名,雷破空)として華僑書店のために,『文学評論』を出版する が,僅かに 1 期を出すのみで停刊となる。該刊に,小説「吹牛家」,1 幕劇「囤 積」 ,評論「文学的任務」,「「小蘭花」読後」を発表。これらの評論での筆名 は紗雨。 43 年,湖南『長風文芸』1 巻 3 期に,中篇小説「女教師」を発表。『夫婦們』に 収録。 『群報』13 期に,散文「譲我們早一点見面吧」を発表。 年内に,中国詩壇同人の殷夢萍より,殷が江西・信豊で発行している新聞『干 報』と主編の文芸叢刊『収穫』を寄贈される。この新聞・雑誌に雷の詩文が 掲載されていた。また,殷から投稿を依頼される。雷が殷に当地赴任の希望 を通知すると,殷から雷に『干報』総編集兼副刊の編集の職と,旅費の送金 を約束する旨の返事が来た。 1944 年(32,33 歳) 1 月 9 日,詩「聴我歌一曲」を作る。『八年』に収録。 1 月 10 日,詩「青春解」を作る。『八年』に収録。 2 月,小説・散文集『婚変』を,昆明崇文印書館より出版。報告文学「戦地房東」 含む 16 篇を収録。 春,殷夢萍からの旅費を受領し,桂林行きの車に乗る。途中,貴陽で 2 日休息し, 謝六逸を訪問する。桂林に到着し,病気で寝込む。殷夢萍と連絡を取りつつ, 「東 南行走筆」を作る。該文を『収穫』に連載。 4 月 8 日,詩「桃江夜曲」を作る。執筆は信豊。『八年』に収録。 5 月 22 日,詩「幻想曲」を作る。執筆は信豊。『八年』に収録。 6 月 21 日,詩「生日歌」を作る。『八年』に収録。 6 月 24 日,詩「血染汨羅弔屈原」を作る。『八年』に収録。 6 月,雷が総編輯で『干報』を復刊する。また,副刊「万緑叢」を編集し,別に 専欄「三言両語」を設け,自ら毎日数百字の原稿を執筆。編集員に,谷斯範, 呉忠翰等がいた。 8 月 12 日,詩「哀悼戦闘的詩人 ─ 紀念蒲風逝世両週年」を作る。『八年』に 収録。 10 月 20 日,詩「憶」を作る。『八年』に収録。 ― 82 ― 第 84 巻第 2 号 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) 12 月 19 日,詩「憶福州」を作る。『八年』に収録。 1945 年(33,34 歳) 年初,江西・龍南郷村師範学校の国文,美術教員となる。 1 月 18 日,詩「縦使我一切都失去了」を作る。『八年』に収録。 1 月 19 日, 詩「人道主義的旗手折了 ─ 羅曼羅蘭逝世」を作る。『八年』に収録。 4 月 2 日,詩「那麼一天」を作る。執筆は龍南。『八年』に収録。 4 月 26 日,南平『東南日報』副刊「筆墨」に,散文「夜的嘆息」を発表。91 年 3 月,海峡文芸出版社『一九三〇 ─ 一九四九福州詩与散文選』に転載。 6 月,日本軍が広東北部より襲撃し,学校は疎開する。福建西部に沿って北上す る。 7 月 1 日,詩「駝鈴過緑州」を作る。執筆は旅中の瑞金。『八年』に収録。 7 月,長汀で,中国詩壇同人の王雲波に会い,『民治日報』副刊編集の職に就く。 7 月中旬∼ 9 月末,長編小説「辺秋一雁声」(上篇)を,福建・長汀『民治日報』 副刊に連載。字数は約十万字。 8 月 10 日,夜,日本のポツダム宣言受諾による抗戦勝利のニュースが伝わり, 詩「勝利」を作る。『八年』に収録。 8 月,小説集『夫婦們』を福州立達書店より出版する。中篇小説「夫婦們」「吹 牛家」 「女教師」の 3 篇を収録。 10 月末,漳州『閩南日報』の趙天問から王雲波宛ての手紙で,趙が厦門へ『閩 南新報』創刊の準備に赴くので王に『閩南日報』の編集員の人材の推薦を依 頼してきたので,王は雷を推薦した。 11 月初,雷は漳州に到着する。暫時,趙の代わりに『閩南日報』の編集,社説 執筆,副刊の編集,レイアウト,校正等の職務を行なう。 12 月下旬,趙天問が漳州に戻り,雷は彼と共に厦門へ行き,『閩南新報』副刊の 主編となり,分担で社説執筆も担当。 45 年,詩「報春的微笑」「我聴見一種声音」を作る。『八年』に収録。『人生』は 「我聴見一種声音」の執筆時期を 45 年初とする。 1946 年(34,35 歳) 1 月 26 日,厦門で内戦の危機を予感し,平和な春を渇望し,詩「再一度生活在 春天」を作る。 『八年』に収録。 4 月下旬,雷は光復後の台湾へ渡る。高雄に上陸する。 5 月,日本語の詩「新たな楽園を」「島の夏」「夜の町」を作る。執筆は高雄。『八 年』に収録。 6 月, 『国声報』創刊。陳香が総編輯となる。雷は主筆及び副刊主編となり,毎 週社説を 2,3 篇執筆する。日本語の詩「旅の愁(散文詩)」 「心の醉」を作る。 『八年』に収録。 上半年,勝利まもない厦門の情況を題材に,長編随筆「舞場内外風景線」を作り, 『国声報』に連載。 7 月 9 日, 『八年』を編集し,夜に「序」を書く。 8 月,『八年詩選集』を,高雄粤光印務公司より出版。収録詩は 70 篇。 10 月,台北に行き台湾交響楽団の編集審定係の職に就く。西洋の古典音楽理論 書を翻訳し,『音楽理論訳叢』に発表。演奏曲目の紹介文も執筆。 11 月 1 日,台湾文化協進会出版『台湾文化』1 巻 2 期(魯迅逝世十週年特輯号)に, 散文「在台湾首次紀念魯迅先生感言」を発表。 11 月 4 日, 『台湾新生報』文芸欄「新地」第 49 期に,新体詩「您所痛恨而又熱 愛 紀念魯迅先生逝世十週年」を発表。執筆は 10 月 17 日。 46 年,文学論集『文芸一般論・一』を,厦門学習出版社より出版。収録論文は 17 篇。 1947 年(35,36 歳) 1 月 1 日, 『台湾文化』2 巻 1 期の「随筆」欄に,「随想・一∼六」を発表。 1 月初,蔡瑞月の舞踏公演を台北・中山堂で行う。雷の作った舞劇詩「假如我是 一隻海燕」を彼自ら舞台で朗読。66 年(民国 55 年)舞踏家・蔡瑞月の 20 周 年記念パンフレット・中華舞踏芸術研究社創立廿年紀念特刊『化雨舞涯二十年』 の中に, 雷の某友人の名でこの舞劇詩が別刷で配布。93 年 8 月 5 日『厦門日報』 ― 83 ― 1945 年 8 月 抗 戦 終 結 (抗戦勝利) 1945 年 10 月 双十協定 1946 年 6 月 国 共 内 戦 開始 商 学 論 集 第 84 巻第 2 号 副刊「海燕」 (第 6 面)に該詩を掲載。 2 月 5 日, 『台湾文化』2 巻 2 期に「随筆」欄に,「随想・七,八」を発表。 1947 年 2 月 2・28 事 2 月 17 日,高雄『国声報』第 3 面に,「介紹台湾舞踊家蔡瑞月女士」を発表。 件勃発。 3 月 1 日(奥付は 5 日) ,『台湾文化』2 巻 3 期の「随筆」欄に,「随想・九∼ 十二」を発表。 4 月∼ 5 月 18 日,高雄『国声報』(第 4 面)副刊「南光」に,選訳「男女諸問題」 (一) ∼(三十)を連載。筆名は紗雨。 5 月 5 日,高雄『国声報』副刊「南光」35 期に,「世俗篇」を発表。 5 月 7 日,高雄『国声報』副刊「南光」37 期に,「愛情的品格」を発表。 5 月 10 日,高雄『国声報』副刊「南光」40 期に,「看「重逢有日」後」を発表。 5 月 12 日,高雄『国声報』の「芸文週刊」(第 6 号)に,「文学的任務」を発表。 5 月 19 日,高雄『国声報』の「芸文週刊」(第 7 号)に,「我的家」を発表。 5 月 28 日,高雄『国声報』に,「給青年習作者」を発表。 5 月,蔡瑞月再び台北に来る。5 月 20 日,台北で,蔡瑞月と結婚。 6 月 5 日, 高雄『国声報』副刊「南光」64 期に, 「苦口之音 沈黙与呆子」を発表。 6 月 6 日,高雄『国声報』副刊「南光」65 期に, 「苦口之音 情操与工作」に発表。 6 月 7 日,高雄『国声報』副刊「南光」66 期に,「苦口之音 「人上人」乎哉」 を発表。 6 月 8 日,高雄『国声報』副刊「南光」67 期に,「苦口之音 人将死其言善」を 発表。 6 月 13 日,高雄『国声報』副刊「南光」71 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「牝牛」を発表。 6 月 14 日,高雄『国声報』副刊「南光」72 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「馬」を発表。 6 月 15 日,高雄『国声報』副刊「南光」73 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「山羊」を発表。 6 月 17 日,高雄『国声報』副刊「南光」74 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「兔子」を発表。 6 月 18 日,高雄『国声報』副刊「南光」75 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「蝦蟆」を発表。 6 月 19 日,高雄『国声報』副刊「南光」76 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「鹿」を発表。 6 月 20 日,高雄『国声報』副刊「南光」77 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「猿」を発表。 6 月 21 日,高雄『国声報』副刊「南光」78 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「白鳥」を発表。 6 月 25 日,高雄『国声報』副刊「南光」79 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「水蛇・毛虫」を発表。 6 月 27 日,高雄『国声報』副刊「南光」80 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「猪・蟋蟀」を発表。 6 月 28 日,高雄『国声報』副刊「南光」81 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「蝗虫・螞蟻和小鴟鵠」を発表。 6 月 29 日,高雄『国声報』副刊「南光」82 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「庭院中」を発表。 6 月 30 日,高雄『国声報』副刊「南光」83 期に,盧那爾作・雷石楡選訳「博物志」 の「金絲雀」を発表。 12 月 12 日∼ 20 日の間,台北市内の福星国民学校を会場に台湾文化協進会主催 で毎夜 2 時間の「中国現代文学講座」を開催。雷も「詩歌」担当の講師とし て参加。講座の目的は文学の民主的精神と科学的思想の宣伝。当講座の題目 は以下の通り。 「一,中国新文学発展概略,台大副教授・李竹年[何林]/二, 新旧文学之演変,台大教授・台静農/三,西洋文学之介紹,台大教授・李霽 野/四,散文,台大文学院長・銭歌川/五,詩歌台大副教授・雷石楡/六, 戯劇,観衆演出公司理事・洗群/七,小説,台大副教授・黄得時」。講座参加 の聴講生は各々約百人で講座は成功。(『台湾文化』3 巻 1 期所載の「文化動態」 ― 84 ― 池澤 :「雷石楡創作年譜」前半(補遺) の記述による。但し雷によれば,当講座の期間は 12 月 1 日∼ 20 日までと記 憶しているという) 1948 年(36,37 歳) 上半年,雷は台北に来た周伝枝と芸術団体「郷音芸術団」を組織する。/「現 実主義」 「新現実主義」「浪漫主義」「新浪漫主義」等の創作方法の問題をめぐ り台湾文芸界で一大論戦を展開する。論戦の文章は,絶えず『新生報』副刊『橋』 に発表。雷と揚風の 2 派に分かれ,雷は下記の 5 篇の文章を書き,論戦に参加。 [以下の 48 年の旧体詩 2 首と『新生報』副刊『橋』 (以下,『橋』と略す)掲 載の作品は黄英哲氏の指教による。] 4 月 1 日,『台湾訓練半月刊』6 巻 1 期に五言律詩「弔鄭成功」と七言律詩「詠 日月潭」の 2 首を発表。 5 月 12 日, 『橋』に「我的申弁」を発表。 5 月 24 日, 『橋』に「再申弁」を発表。 5 月 31 日, 『橋』120 期に「台湾新文学創作方法問題」を発表。☆ 6 月 7 日,揚 風『橋』124 期に「五四,文芸写作 ─ 不必向 “五・四” 看斉」を発表し,雷 の文章を批判する。 6 月 14 日,『橋』に「形式主義的文学観 ─ 揚風的『五四文芸写作』」を発表。 6 月 16 日,『橋』に「形式主義的文学観 ─ 揚風的『五四文芸写作』 (続完)を 発表。 6 月 30 日,『橋』に「再論新写実主義」を発表。 7 月 2 日, 『橋』に「再論新写実主義」(続完)を発表。 夏,台湾大学は教授多数を解雇。雷も解雇され自宅で舞踊研究所(蔡瑞月が主宰) を開く。新聞に詩を発表。 ☆ 1948 年,昆明の包白痕・夏揚合編『詩播種』第 2 輯の『世紀星辰』に,中国 語の散文詩「悼念亡姊」を発表。 48 年,長男・雷大鵬生れる。(☆雷の記憶では,3 月 28 日の復活祭の日) 1949 年(37,38 歳) 2 月 23 日∼ 25 日,蔡瑞月の「第二届舞踏発表会」を台北・中山堂で行なう。蔡 の舞踊に合わせて,雷の作った舞劇詩「假如我是一隻海燕」を彼自ら舞台で 朗読し,好評を博す。93 年 8 月 5 日『厦門日報』副刊「海燕」(第 6 面)に, 該詩を発表。 春,特務に監視され,頗る行動が不自由となる。 6 月 1 日,夜,自宅でさよならパーティーを開くために帰宅するが,パーティー 直前,台湾大学・傅斯年学長からの呼び出しという口実で,[蕭渥廷主編『台 湾舞踏家的先知 ─ 蔡瑞月口述歴史』(行政院文化建設委員会,98 年 4 月) 参照]玄関前から特務機関の「調査処」に連行・逮捕され, 「黒牢」に拘禁さ れる。3 ヵ月の投獄中,家族と面会不許可となる。 9 月 3 日,台湾追放の判決(「奸党嫌疑犯」)を受ける。 9 月 8 日,雷は突然台湾を追放される。妻子の同行を許されず,離別する。 9 月 11 日,広州に到着,市内の小さな旅館に 2 泊する。 9 月 13 日,列車で九龍に行き,数日休息する。 9 月中旬,九龍から香港に至る。 10 月 5 日,『星島日報』に「紗雨」の筆名で,散文「鄭成功的故郷」 (五言律詩 を含む)を発表。 10 月 8 日, 『文匯報』に「牛車」の筆名で,散文「新歴史的第一頁」を発表。 10 月 10 日, 『星島日報』に「紗雨」の筆名で,散文「台湾第一勝地 ─ 日月潭 及発現的伝説」を発表。 10 月 17 日,『星島日報』に「紗雨」の筆名で,散文「紅頭嶼的恙虫」を発表。 10 月 19 日,『大公報』副刊「大公園」(以下,「大公園」と略す)に,「破空」の 筆名で,詩歌「人民心霊的救星 ─ 紀念魯迅先生逝世十三週年」を発表。 1950 年(38,39 歳) 本年も新聞・雑誌に,詩,散文の執筆を継続する。 1 月 9 日, 「大公園」に,「雷霆」の筆名で「『小団円』略評」を発表。(南方書局 印行『小団円』は陳残雲の小説集) ― 85 ― 1948 年 11 月 傅 斯 年, 台湾大学第 4 代学長 に就任(∼ 50 年 12 月) 1949 年 1 月 蒋 介 石, 総統辞任╱人民解放 軍,北平入城 1949 年 10 月 1 日 中華 人民共和国成立 1949 年 12 月 国 民 党, 台湾に逃亡 1950 ∼ 53 年 鎮反(反 革命鎮圧運動) 商 学 論 集 1 月 16 日, 「大公園」に,「雷霆」の筆名で「評「王貴与李香香」」を発表。 6 月 25 日, 「大公園」に,「非我」の筆名で翻訳「女攤販日記」を発表。原作は 1950 年 5 月 1 日発行『働く婦人』34 号「嵐に向う女性の手記」欄掲載の井町 梅子「女露天商の日記」。 8 月 8 日,「大公園」に,「杜拉」の筆名で諷刺詩「頼伊応該帯把雨傘」を発表。 9 月 17 日,「大公園」に,「杜拉」の筆名で雑文「金元意識形態」を発表。 9 月,香港・南方学院『南方園地』に,「式羽」の筆名で詩歌「鍛錬我們自 己 ─「南方」開学晩会的朗誦詩 ─」を発表。 10 月 19 日,「大公園」に,「杜拉」の筆名で詩「魯迅仍活着」を発表。 10 月 25 日,「大公園」に,「杜拉」の筆名で「台湾高山族」を発表。 11 月 6 日,「大公園」に,「莫非我」の筆名で「台湾地名的由来」を発表。 11 月 21 日, 「大公園」に, 「非我」の筆名で「名貴神奇的植物 ─ 台湾談片之一」 を発表。 11 月 25 日, 「大公園」に,「非我」の筆名で「最大的庭院 ─ 台湾談片之二」 を発表。 11 月 28 日, 「大公園」に,「非我」の筆名で「国姓爺鄭成功 ─ 台湾談片之三」 を発表。 (11 月 29 日∼ 12 月 7 日の間に「大公園」掲載の「台湾談片之四」があると思わ れるが,未見) 12 月 8 日, 「大公園」に, 「非我」の筆名で「伝奇性的日月潭 ─ 台湾談片之五」 を発表。 12 月 19 日,『南方生活』に「式羽」の筆名で文芸論「芸術的政治性和独創性」 を発表する。 12 月 21 日, 「大公園」に,「杜拉」の筆名で翻訳「新民主国家的電影 ─ 捷克・ 斯洛伐克電影」 (日本『映画新潮』1950 年 10 月号より節訳)を発表。 1951 年(39,40 歳) 1 月 20 日, 「大公園」に, 「杜拉」の筆名で映画評論「投入現実之火 ─「火鳳凰」 観後感」を発表。 11 月 8 日,『文匯報』に,「馬山」の筆名で映画評論「創痕還新的教訓 ─ 看了 「希魔血洗欧州」的感想」を発表。 1950 ∼ 51 年の間,香港の各新聞に発表した上記以外の散文は,例えば非我「日 皇碰釘子」 「 「美人遅暮」云云 ─ 李香蘭和訪問的記者」や翻訳「二十世紀」 (希 克梅特原作),馬山「致邱吉爾首相」,紗雨「呉鳳的故事」 「「布袋」秋霜」,雷 霆「読者与写作」,杜拉「死島上的流刑者」「推薦」「我這一輩子」等。 12 月,李何林の推薦で天津・津沽大学(河北大学の前身)に招聘され,天津行 を決意。以後,長期間,台湾,香港との音信不通となる。 1952 年(40,41 歳) 1 月初,専門書『写作方法初歩』を香港初歩書店より出版。筆名は杜拉。 2 月 1 日,天津・津沽大学に到着し,赴任を届ける。中文系の教授となる。 ― 86 ― 第 84 巻第 2 号 1950 年 6 月 朝鮮戦争 勃発 1950 年 10 月 中 国 人 民解放軍,チベット 占領 1950 年 11 月 中 国, 朝鮮戦争に義勇軍派 兵 1951 年 4 月 映 画『 武 訓伝』批判 1952 年 1 月 建国後最 初の文芸整風運動開 始
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