教科書(山川:315~8 頁)書き換え試案 富永智津子 アフリカの植民地化(山川) アフリカの植民地化 (富永試案) 19 世紀前半、ヨーロッパ人のアフリカに関 19 世紀末、ヨーロッパ列強はアフリカ大陸 する知識は、北部とインド航路の港などア の分割に乗り出した。その先兵となったの フリカ沿岸部に限られていた。同世紀半ば、 は探検家(スタンリー)や奴隷貿易禁止とい リヴィングストンやスタンリーが中央アフ う人道的な目的を携えて大陸に向かった宣 リカを探検して事情を伝えたのち、列強は 教師(リヴィングストン)たちである。その この地域に関心をしめすようになった。 頃、アフリカの人々は、大小の民族集団に分 1880 年初め、コンゴ地域をめぐるヨーロッ かれ、農業は女性が、牧畜は男性が主として パ諸国の対立がおこると、ドイツのビスマ 担い、地域間の交易も活発に行っていた。そ ルクは 84~85 年にベルリン会議(ベルリン のアフリカの商品市場価値や一次産品(鉱 =コンゴ会議)を開き、ベルギー国王の所有 物資源や農作物)の将来性は未知であった 地としてコンゴ自由国の設立を認め、さら が、最後に残された未分割の大陸の領有権 にアフリカの植民地化の原則を定めた。こ をめぐって列強間に対立がおこり、それを ののち、列強はアフリカに殺到し、瞬く間に 調整するためにアメリカを含む列強 14 か その大部分を分割して植民地にした。これ 国がベルリンで会議を開いた(ベルリン= に対し現地の人々は、地域の自立や固有の コンゴ会議) 。会議で決められたのは、先に 文化をまもろうとして抵抗した。こうした 占領し、実効ある形で支配権を確立した国 抵抗運動はやがて民族主義運動や民族解放 に領有権を与えるという分割の原則である 運動に成長し、20 世紀の歴史を形成する大 (現在も領土の所有権に関する唯一の国際 きな流れになった。 条約の規定) 。その原則に従い、列強はアフ イギリスは 1880 年代初め、ウラービー リカ人の首長との条約を一方的にとりつけ、 運動を武力で制圧してエジプトを事実上の 地図上に国境線を引いて領土を分けあった。 保護下におき、さらにスーダンに侵入した。 こうした暴挙に対し、アフリカ人は各地 スーダンでは、マフディー派が抵抗して、 で地域の自立や固有の文化を守ろうとして ゴードン指揮下のイギリス軍をハルツーム 抵抗した。その中には、29 年にわたって抵 で破り一時侵入を阻止したが 99 年に征服 抗したソマリア人や 15 年ものゲリラ戦を された。 繰り広げた西アフリカの首長(サモリ・ト アフリカ南部では、セシル=ローズの式 ゥーレ)もいた。しかし抵抗運動は軍事力に で、ケープ植民地から周辺に侵攻する政策 勝る列強によってことごとく弾圧され、イ がとられた。1899 年にはブール人に対する タリアの侵入軍を破ったエチオピア(1896 南アフリカ戦争が始まり、激しい抵抗をう 年、アドワの戦い)とアメリカ植民協会によ けながら、トランスヴァール、オレンジ両国 って 1847 年に独立を与えられたリベリア を併合した。イギリスはさらに、ケープタウ を除き、大陸は、20 世紀の転換期をはさみ、 ンとカイロをつなぎ、インドのカルカッタ くまなく植民地化された(地図参照) 。 と結びつける3C政策をすすめた。 フランスは、1881 年にチュニジアを保護 植民地化はアフリカ人社会を大きく変化 させた。列強は、まず、鉱山開発(金・銅・ 国にし、さらにサハラ砂漠地域をおさえ、ア ダイヤモンド・ウランなど)に着手する フリカを横断してジブチ・マダガスカルと とともに、鉄道を建設し、その沿線に特 連結しようとした。この計画はイギリスの 定の熱帯産品(落花生、ココア、コーヒ 縦断政策と衝突し、98 年にファショダ事件 ー、サイザル麻など)の大規模農場を造 がおこったが、フランスが譲歩して解決し 成、労働力として近隣のアフリカ人を徴 た。その後、両国は接近して、1904 年英仏 用した。徴用の手段として使われたの 協商を成立させ、エジプトにおけるイギリ が、人頭税や小屋税の課税である。税金 スの支配的地位と、モロッコにおけるフラ を支払うために故郷を離れ鉱山や大規 ンスの支配的地位を認め合い、ドイツに対 模農場に出稼ぎに出ざるをえなかった 抗した。 のは男性である。残された女性は、重労 ドイツは 1880 年代半ば、カメルーン・南 西アフリカ・東アフリカなどの植民地を得 たが、いずれも経済的価値にとぼしかった。 働を強いられ、子育ての責任も負わされ ることになった。 一方、植民地下で導入された西欧的な そのためドイツは 20 世紀にはいるとあら 学校教育制度は、キリスト教の普及とあ たな植民地獲得をめざし、1905 年と 11 年 いまって、それまでのアフリカの文化や の 2 度にわたり、フランスのモロッコ支配 慣習や宗教への偏見を、世界の人々のみ に挑戦するモロッコ事件をおこした。しか ならず、アフリカの人びとへも植えつけ し、いずれもイギリスがフランスを支援し た。初期の抵抗運動が、共同体を基盤と たため失敗し、12 年モロッコはフランスの して、呪術や宗教などをよりどころとし 保護国になった。 て展開されたのに対し、1930 年代から イタリアは、1880 年代ソマリランド・エ 徐々に芽生え始めた民族意識や植民地 リトリアを獲得し、さらにエチオピアに侵 からの解放運動は、植民地化がもたらし 入したが、96 年アドワの戦いで敗れ、後退 た近代的な政治戦略によってより広い した。しかし、1911~12 年、イタリア=ト 地域を舞台として繰り広げられた。運動 ルコ戦争をおこして、オスマン帝国からリ の担い手の多くは、海外への留学を許さ ビア(トリポリ・キレナイカ)を奪った。 れた男性だった。 こうして 20 世紀初頭には、アフリカ全土 奪われた自治を取り戻す過程で、アフ は、エチオピア帝国とリベリア共和国を除 リカ人は植民地化がもたらした「主権」 いて、列強の支配下におかれた。列強は原料 や「解放」や「自由」という近代的価値 や資源の獲得、商品市場などの経済的利害、 観を学んだが、一方、アフリカ文化の喪 戦略基地設置などの関心から、人為的に境 失や植えつけられた植民地的経済構造 界線を定め、現地の人々のつながりや交易 は、その後のアフリカの自立への大きな 網を破壊したので、その後の住民の自立や 障害となった。 独立に大きな障害となった。
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