吉野源三郎『君たちはどう生きるか』に見る教養教育の原理像 -偏狭な国粋主義への対抗とヒューマニズムの精神- ○児玉英明(京都三大学教養教育研究・推進機構) 1.はじめに -教養教育が必要論と不要論の間を揺れ動く理由- 教養教育の究極の目標は「民主的社会」とその豊かな展開を担う「民主的市民の形成」である1。 日本における教養教育は、必要論と不要論の間を、振り子のように揺れ動いてきた。なぜ、教 養教育は必要論と不要論の間で揺れるのか。教養教育が必要とされる時はどのような時か。 教養教育が必要論と不要論の間を揺れ動く理由は、次の二点である。第一に、教養教育の究極 の目標である民主主義は、確立された制度ではなく、たえず民主化を求める試みによって、かろ うじて保たれる可変的なものだからである。第二に、日本人の民主主義の理解には次の特徴があ るからである。丸山眞男は、日本人の民主主義に関する理解について、次のように対比的に論じ ている。 「西欧やアメリカの知的世界で今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけと かほとんど何百年以来のテーマが繰りかえし『問わ』れ、真正面から論議されている状況は、戦 後数年で、 『民主主義』が『もう分かっているよ』という雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき 対照をなしている」2。日本人は、「民主主義なんてもう分かっているよ」と平時では全く気にか けない一方で、時代状況によっては「私は民主主義を本当に分かっているのだろうか」と急に不 安になり自問自答を始めることがあるから、教養教育は必要論と不要論の間で揺れ動くのである。 教養教育の出番は、社会の中で民主主義が後退している時である。しかし、いま問わなければ ならないのは、 「民主主義が後退している局面を察知するセンス」を、我々が持ち合わせているの かどうかである。持ち合わせせるような教育を、我々が受けてきたのかどうかである。 2.社会科から政治性を排除したことで失ったもの -民主主義の危機を察知するセンス- 近年、教養教育に再登場を期待する雰囲気が出てきている。その背景には、今日の日本におい て、民主主義を問い直さざるを得ない局面が複数目につくようになったからである。しかし、問 題なのは、民主主義が危機に瀕していること自体に、どれだけの人が気付いているかである。 中学校、高等学校で、政治性を極力排除した社会科教育を受けてきた人々は、民主主義が危機 に瀕しているにもかかわらず、それに気付く社会科学的な感性を持ち合わせていない。本来なら ば、民主主義に関する社会科学的なセンスを養成し、主権者教育としての役割を果たすはずの「現 代社会」「政治経済」といった公民科目は、受験のための典型的な暗記科目に堕している。 映画監督の想田和弘は『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』の中で、今日の日本を 無気力・無関心の中で進む「熱狂なきファシズム」と捉えている。想田は「僕の脳内では、民主 主義に対する危機を察知するセンサーが作動し、アラーム音が鳴り始め、その音は止むどころか どんどん大きくなりつつあります。ところが、そのアラーム音が聞こえている人は、どうも日本 人のごく一部に限られているようです」3と述べる。 教養教育の原理像とは、民主主義が後退している状況に直面した時に、それを察知する社会科 学的センスの養成に見られる。現代において、どのような局面に民主主義の後退を見るのか。ま たは、偏狭な国粋主義を見るのか。それを察するセンスを育てることが教養教育の役割である。 3.「偏狭な国粋主義」と「ヒューマニズムの精神」を一体として教える中学生向け教材 吉野源三郎は『君たちはどう生きるか』の主人公コペル君が通う中学校において、 「柔道部の上 級生による学校の気風を引きしめる運動」が起きていることを、 「偏狭な国粋主義」のエピソード として、子どもでも理解できる形で描く。 柔道部の上級生は「愛校心のない学生は、社会に出ては、愛国心のない国民になるにちがいな い。愛国心のない人間は非国民である。だから、愛校心のない学生は、いわば非国民の卵である。 われわれは、こういう非国民の卵に制裁を加えなければならぬ」4と考えている。その結果、下級 生は上級生に脅え、自由な気風はなくなり、息苦しい学校生活を送っている。 ある日、校庭で雪合戦をして遊んでいる時に、コペル君の親友の北見君は、不注意から上級生 の雪だるまを壊してしまう。北見君は、上級生から見ると生意気な下級生として日頃から映って おり、雪だるまを壊してしまったことがきっかけで殴られる。もし、上級生から理不尽な制裁を 加えられるようなことがあれば、コペル君、北見君、水谷君、浦川君の 4 人は、友人として団結 して抗議することを約束していたにもかかわらず、コペル君だけは、3 人の親友を裏切ってしま う。あれほど団結して上級生に抗議することを約束していたにもかかわらず、コペル君は、上級 生の前で恐怖から体が動かなくなってしまう。親友を裏切り、仲間の北見君が制裁を加えられる ことを見て見ぬふりをした後悔の念から、コペル君は何日間も寝込むことになる。 このエピソードは、どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モ ラルの面でわずかなりとも成長が可能なことを伝え、これができるのは人間だけであると伝える。 4.おわりに -教養教育の原理像に思想性を取り戻す- 吉野は『君たちはどう生きるか』の中で、 「偏狭な国粋主義への対抗」と「ヒューマニズムの精 神」を一体として理解できるエピソードを、中学生の目線で展開している。 丸山眞男は吉野を追悼する目的で書いた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」の中で、先 の柔道部の上級生のエピソードについて、 「1937 年という時代に、きわめて広く流通していた『非 国民』という用語をあえて用いて、時代思潮に抗しようとした著者の勇気と論理は、まさに『非 国民』という言葉が感覚的に通用しにくくなった現代こそ正しく伝承さるべきではないのか。そ れを少年読者の心に内在的に理解させることが、この『少国民』のための古典を教材とする教師 にとって何より肝要な問題である」5と述べる。丸山は『君たちはどう生きるか』の素晴らしさに ついて、 「深くその時代を語りながら、いやむしろその時代を語ることを通じて、その時代をこえ たテーマを、認識の問題としても、モラル論としても提起している」6ところにあると評している。 戦後間もなくの教養教育を象徴する『君たちはどう生きるか』に学ぶべきことは、いま生きて いる時代状況に一人ひとりが問題意識を持ち、教養教育の原理像に思想性を取り戻すことである。 1 2 3 4 5 6 日本学術会議『21 世紀の教養と教養教育』2010 年、11 頁。 丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961 年、18 頁。 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』岩波書店、2013 年、3 頁。 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店、1937 年、166 頁。 丸山眞男「 『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」1982 年、338 頁。 同上、329 頁。
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