200 第二次盗賊戦争 テキサスに対 テキサスに対し、これまでとは全 これまでとは全く異なる攻撃 なる攻撃がラ・ハリタから 攻撃がラ・ハリタから行 がラ・ハリタから行われようとしていた。 われようとしていた。 新たに攻撃拠点 たに攻撃拠点となったラ・ハリタは 攻撃拠点となったラ・ハリタは、 となったラ・ハリタは、前年の 前年の盗賊戦争の 盗賊戦争の舞台となったリオグランデ・ヴ 舞台となったリオグランデ・ヴ ァレーから二百 ァレーから二百マイル 二百マイル上流 マイル上流にあるタマウリパス 上流にあるタマウリパス州 にあるタマウリパス州ヌエボ ヌエボ・ラレドから19 ・ラレドから19マイル 19マイル南 マイル南に位置 している。 している。1916年 1916年6月8日、小さな一団 さな一団が 一団が河を渡り、郊外の 郊外の農場で 農場で働いていたラレド の住人シモン・ソリスを 住人シモン・ソリスを捕 シモン・ソリスを捕らえ、 らえ、メキシコへ拉致 メキシコへ拉致してガイドにした 拉致してガイドにした。 してガイドにした。6月10日 10日の夜、憲 政軍将校、 政軍将校、ビヤレアル中佐 ヤレアル中佐、 中佐、ノルベルト・ペサ大尉 ノルベルト・ペサ大尉、 大尉、二人の 二人の中尉を 中尉を含む三十人 三十人の一団がテ 一団がテ キサスに入 キサスに入った。 った。ラレドの北 ラレドの北二十マイルのウエッブで 二十マイルのウエッブで、 マイルのウエッブで、電話線を 電話線を切断し 切断し、灯油を 灯油を鉄道の 鉄道の橋 桁に染込ませた 染込ませた。 ませた。ペサ大尉以下全員 ペサ大尉以下全員、 大尉以下全員、アメリカを攻撃 アメリカを攻撃する 攻撃する事 する事は、アメリカに入 アメリカに入るまで知 るまで知ら されていなかった。 されていなかった。彼等は 彼等は憲政軍の 憲政軍の制服を 制服を着ていたが、 ていたが、赤地に 赤地に白で「平等・ 平等・独立・ 独立・自由」 自由」 と斜めに書 めに書かれた かれた旗を持っていた。 っていた。彼等が 彼等が丁度点火しようとしていた 丁度点火しようとしていた時 しようとしていた時、アメリカの諜報 アメリカの諜報 員の知らせを受 らせを受けた騎兵隊 けた騎兵隊が 騎兵隊が駆けつけた。 けつけた。小競り 小競り合いの末 いの末、ペサ大尉 ペサ大尉、 大尉、シモン・ソリス、 シモン・ソリス、 アントニオ・クエバ アントニオ・クエバスの三人 スの三人が 三人が捕虜になり 捕虜になり、 になり、三人のメキシコ 三人のメキシコ人将校 のメキシコ人将校が 人将校が死亡、 死亡、負傷者数名と 負傷者数名と 残りの兵士 りの兵士は 兵士は逃げた。 げた。米軍の 米軍の犠牲者はなかった 犠牲者はなかった。 はなかった。 ペサは ペサは戦争捕虜としてではなく 戦争捕虜としてではなく、 としてではなく、一般の 一般の犯罪人として 犯罪人として扱 として扱われたことに激怒 われたことに激怒した 激怒した。 した。彼はジ ェネラル・マウリリオ・ロドリゲスの命 ェネラル・マウリリオ・ロドリゲスの命によりビ によりビヤレアル中佐 ヤレアル中佐の 中佐の下に配属され 配属され、 され、軍人とし 軍人とし て単に命令に 命令に従ってアメリカ側 ってアメリカ側に侵入していた 侵入していた。 していた。ペサはカランサの ペサはカランサの国防 はカランサの国防・ 国防・海軍省長官 海軍省長官アル バロ・オブレゴン宛 ロ・オブレゴン宛てに公開文書 てに公開文書を 公開文書を送り、彼の部隊は 部隊は憲政軍上官の 憲政軍上官の指揮に 指揮に従ったもので ったもので、 もので、 無罪である 無罪であると であると主張した 主張した。 した。 一方、 一方、アントニオ・クエバ アントニオ・クエバスはロスアンゼルスにいた頃 スはロスアンゼルスにいた頃、フロレス・マゴン兄弟 フロレス・マゴン兄弟に 兄弟に会っ たことがあり、 たことがあり、機会ある 機会あるご あるごとにリヘ とにリヘネラシオンを読 ネラシオンを読んでいた。 でいた。彼はメキシコ人 はメキシコ人に対する間 する間 違った仕打 った仕打ち 仕打ちに報復し、テキサスを解放 テキサスを解放するために 解放するために、 するために、ラ・ハリタで部隊 ラ・ハリタで部隊に 部隊に加盟した 加盟した。 した。カラ ンサに対 ンサに対して猜疑心 して猜疑心を 猜疑心を抱いていたアメリカ側 いていたアメリカ側は国境騒擾の 境騒擾の責任はカランサにあるとして 責任はカランサにあるとして、 はカランサにあるとして、 クエバ クエバスを無 スを無視した。 した。一方、 一方、アメリカの諜報 アメリカの諜報機関 諜報機関は 機関はPSDの PSDの陰にPLMがある PLMがある、 がある、と考えて いたのがクエヴァスによって いたのがクエヴァスによって裏付 がクエヴァスによって裏付けられた 裏付けられたとした けられたとした。 とした。 101 102 ウエッブ攻撃 ウエッブ攻撃から 攻撃から五 から五日目の夜11時 11時、憲政軍大佐イサベル・デ・ロス・サントスの 憲政軍大佐イサベル・デ・ロス・サントスの指揮 イサベル・デ・ロス・サントスの指揮 する七 する七十五人の攻撃隊がラレドの 攻撃隊がラレドの南 がラレドの南東五十マイルにあるサンイグナチ マイルにあるサンイグナチオ ナチオ米軍基 米軍基地を攻撃し 攻撃し た。第十四騎兵大隊の 騎兵大隊のM部隊は 部隊は二時間 二時間前にI部隊によって 部隊によって増強 によって増強されていたことをメキシコ 増強されていたことをメキシコ 軍は知らなかった。 らなかった。戦死したクルス・ルイス 戦死したクルス・ルイス少 したクルス・ルイス少佐のメキシコ軍 のメキシコ軍は勇敢に 勇敢に戦ったが、 ったが、アメリ カ軍によって押 によって押し返された。 された。デ・ロス・サントスはPSD デ・ロス・サントスはPSDの PSDの信奉者 信奉者で、デ・ラ・ロッサの 熱心な 熱心な支持者であった 持者であった。 であった。アメリカ軍 アメリカ軍は捕虜五 捕虜五人、爆弾三十二 爆弾三十二個 三十二個、四十五ポンドのダ ンドのダイナマ イトを捕 イトを捕獲した。 した。メキシコ人 メキシコ人に交じって数人 って数人の 数人の日本人がいた。 がいた。メキシコ側 メキシコ側は死者九 死者九人負傷 者四人、アメリカ側 アメリカ側はそれぞれ四人と十五人であった。 であった。サンイグナチ サンイグナチオの ナチオの対 オの対岸にいた憲政 にいた憲政 軍隊長はアメリカ 軍隊長はアメリカ軍 はアメリカ軍に協力し 協力し、重傷を負った三人 った三人を 三人を含む十八名を逮捕し、裁くためモンテ 201 レーへ護 レーへ護送した。 した。デ・ロス・サントスのかき デ・ロス・サントスのかきあつめた三百人 あつめた三百人の 三百人の部隊は 部隊は離脱者 離脱者が続出したた 続出したた め七十五名に減ってはいたが、 ってはいたが、PSDの PSDの息吹をま 息吹をまだ をまだ充分に 充分に感じさせるものであった。 させるものであった。 多くのラレド住 くのラレド住民は恐れおののき ののき、日本人が砂糖キビの 砂糖キビの茎 キビの茎を使ったスノーケ ったスノーケルで、 ルで、水中 を潜って渡河 って渡河するの 渡河するのを するのを見たという噂 という噂が流れた。 れた。ラレドにある憲政軍 ラレドにある憲政軍の 憲政軍の機関紙「 機関紙「エル・プ エル・プロ グレソ」 グレソ」がアメリカを非難 がアメリカを非難する 非難する長文 する長文の 長文の記事を発表する 発表するや するや、怒った市民 った市民が 市民が事務所に 務所に押し入り、 編集者 編集者レオ・ウォ レオ・ウォーカーを引 ーカーを引きずり きずり出し、ラレドの北 ラレドの北にある渡河地点 にある渡河地点、 渡河地点、エル・パソ・デル・ インディ インディオで彼 オで彼をメキシコへ をメキシコへ追 コへ追い返すと、 すと、事務所に 務所に戻り印刷機を 印刷機を叩き壊した。 した。ラレドの新 ラレドの新 聞はメキシコの山 メキシコの山賊が近くの潅木 くの潅木の 潅木の中に潜み、我々を地獄に落そうと狙 うと狙っている、 っている、と書き たてた。 たてた。6月19日 19日ラレド・タイム ラレド・タイムスは「 スは「最も邪悪な 邪悪な試み」と題し、何者かが、 かが、リオグラ ンデの河 ンデの河沿のダウンタウンを見 ウンタウンを見下ろすウルスラ すウルスラ修道院に押し入ろうとし、 うとし、直ちに兵士と 兵士と警 官が駆けつけたため、 けつけたため、闖入者は 入者は河沿いの茂みに潜り込んだ。 んだ。それが日 れが日本人であったかど であったかどう か不明と 不明と報じた。 103 104 捜査局の 捜査局の諜報員はジェネラル・リカウトの 諜報員はジェネラル・リカウトの果 はジェネラル・リカウトの果たした役割 たした役割を 役割を高く評価し 評価した。リカウトはP リカウトはP SDの SDの台頭を阻止したの 阻止したのみ したのみならず ならず、ウエッブとサンイグ ウエッブとサンイグナチ イグナチオでの ナチオでの損害 オでの損害を 損害を最小限に止めた。 めた。 しかし、 しかし、リカウトはリオグランデの上流 リカウトはリオグランデの上流地 上流地域に勢力を 勢力を集中したため、 したため、地元の取締りが 取締りが手薄 りが手薄 になっていた。 になっていた。サンイグ サンイグナチ イグナチオの ナチオの攻撃 オの攻撃が 攻撃が始まろうとしていた6 うとしていた6月15日、百八十マイル河 マイル河 口へ向かったブラウンズ かったブラウンズヴィルに近 ルに近いサンベニートでアメリカの いサンベニートでアメリカの部隊 でアメリカの部隊が 部隊が二十四 二十四人ほどのメ ほどのメ キシコ人 キシコ人と交戦した。 した。アメリカ軍 アメリカ軍はメキシコ人 はメキシコ人の一団に 一団に向けて発砲 けて発砲し 発砲し、後で一人の 一人の遺体を 遺体を 発見した 発見した。 した。 ブラウンズ ブラウンズヴィルにあるフォ ルにあるフォート・ブラウンの指揮官 ート・ブラウンの指揮官ジェネラル・ジェー 指揮官ジェネラル・ジェーム ジェネラル・ジェームス・パーカ ーは第 ーは第三騎兵部隊の 騎兵部隊のA.D.ニ A.D.ニューマン大尉 ーマン大尉の 大尉の騎兵五 騎兵五十にメキシコ人 にメキシコ人追討を 追討を命じた。ニュ ーマンは6 ーマンは6月16日 16日の深夜、基地を出発して 出発して河 して河岸まで追 まで追いかけ、 いかけ、更に馬を泳がせて対 がせて対岸へ 渡る決心をした 決心をした。 をした。ニューマンは一 ーマンは一マイルほど マイルほどメキシコへ ほどメキシコへ侵入 メキシコへ侵入し 侵入し盗賊を 盗賊を攻撃し 攻撃し、二人を 二人を殺し た。パーカーはニュ パーカーはニューマンに援 ーマンに援軍を送る決心をし 決心をし、 をし、6月17日午後1 午後1時30分エドワ エドワード・ アンダ アンダーソン少 ーソン少佐は、第三騎兵大隊から 騎兵大隊から三 から三部隊、 部隊、機関銃部隊 機関銃部隊、 部隊、歩兵二十人 二十人と共に出発した 出発した。 した。 小舟二艘と無線機 無線機をトラックに積 をトラックに積んでいた。 でいた。 その日の午後六 午後六時、二百人 二百人の遠征部隊 遠征部隊はメキシコに 部隊はメキシコに入 はメキシコに入りマタモロスへ向 りマタモロスへ向かい、 かい、七マイル ほど西 ほど西で野営をした 野営をした。 をした。フンストンは翌朝引 フンストンは翌朝引き 翌朝引き揚げる指 げる指示を出した。 した。明らかにパーカーの越 らかにパーカーの越 権行為であった。 であった。機関銃部隊 機関銃部隊や 部隊や大部分 大部分のニュ のニューマンの部隊 ーマンの部隊は 部隊は無事河を 無事河を渡り、一部隊が 部隊が残っ ているところ ているところへ憲政軍が 憲政軍が発砲して 発砲してき してきた。アンダ アンダーソンの撤退 ーソンの撤退をアメリカ 撤退をアメリカ側 をアメリカ側から護 から護っていた ロバート・ビ ロバート・ビュラード大佐 ラード大佐は 大佐は直ちにアメリカ側 にアメリカ側から援護射 から援護射撃 援護射撃をすると をすると共に、残された騎兵 された騎兵 の反撃を認めた。 めた。騎兵は 騎兵は犠牲者を 犠牲者を出すことなく憲政軍部隊 すことなく憲政軍部隊を 憲政軍部隊を追い返した。 した。メキシコ側 メキシコ側の犠 牲者は 牲者は二人であった 二人であった。 であった。アンダ アンダーソンが迫 ーソンが迫っていたとき っていたとき、ジェネラル・リカウトは彼 ジェネラル・リカウトは彼の守備 隊をマタモロスから撤退 をマタモロスから撤退させた 撤退させた。 させた。 リカウトは矛盾 リカウトは矛盾する 矛盾する状況 する状況に 状況に直面していた 直面していた。 していた。国の威信にかけて 威信にかけて外国 にかけて外国の 外国の侵略を排除しなくて 排除しなくて 202 はならない一方 はならない一方で 一方で、PSDの PSDの取締りを 取締りを行 りを行っていた。 っていた。リカウトは女子供 リカウトは女子供を 女子供を町から退去 から退去させた 退去させた。 させた。 彼の部下に 部下に対しては侵 しては侵略したアメリカ軍 したアメリカ軍と戦うことを命 うことを命じ、そのことをジェネラル・パー カーに伝 カーに伝えた。 えた。 105 101. James A. Sandos, Sandos, “Rebellion in the Borderlands, Anarchism and the Plan of San Diego, 19041904-1923” 1923”, University of Oklahoma Press, 1992, P146 102. Ibid. P147 103. Ibid. P147 104. Robert Mendoza, “The Lonsome Death of Jesse Mosley Laredo 1916” 1916”, LoareDOS Vol XI#1,P4 105. James A. Sandos, “Rebellion in the Borderlands, Anarchism and the Plan of San Diego, 19041904-1904” 1904”, University of Oklahoma Press, 1992, P148
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