諸王端 『明三十家詩選』 の自序 「言己夢」 について 一 言寺人と しての

江端『明三十家詩選』の自序「記夢」について
−詩人としての宋渡の評価をめぐって−
鈴木敏雄
清の江端女史(1793−1838)の『明三十家詩選』(以下、『詩選』と略称する)(1)の冒
頭に付せられる「記夢」(夢を記す)と題する一文は、恐らくは自序(あるいは凡例の総
則)の代わりに付けられたものであろう、明の宋凍(1310−1381)の詩を選外とした理由が
繚々述べられている。それは併せて、選詩という形で明代の文学史を綴るに当たっての(「選
政」の)指針を示したものと言って好く、載録される詩人たちの当選か選外かの選詩基準
(ただし大原則)も托されているものと考えられる。
この「記夢」という文は、編者江端が『詩選』編集のために不眠状態が続き、神経を病
んでいたらしいこととも関係があるであろうが、『詩選』を編み終えた後で老女が夢に現
れ、宋嫌(景渡、文意、潜渓)をかたどった仏像を豊千禅師の生まれ変わりであると紹介
する設定で始まる。
余編『明三十家詩』既竣、夜夢至古寺、殿中設一轟、上有蓮茎、塑一立像、紗帽緯
砲、自舜偉貌、長三尺許、 ̄勇一褐衣姐笑謂余日、「子識之乎。此豊干禅師也。在明代
馬宋景凍、今成悌臭。子孟拝之。」余日、「果文憲公邪。余生平所敏也」壷拝之、
既謂姐日、「文意公在比、則劉文成、高太史諸公、亦應有像、余皆欲拝識之。」姐指
別室日、「皆在是、子自我之。」余歩人見塑像数十躯、有衣冠者、有儀巾服者、有戊
装製甲者、有蓑笠者、其前皆有栗主、題姓氏。余欲諦視、而櫨煙繚綾、蔽其字、不待
見。
(余『明三十家詩』を編んで既に填るに、夜古寺に至るを夢みる、殿中に一意を設け、
上に蓮台有り、一立像を塾どり、紗帽緯袖、白髪偉貌、長さ三尺許りなり、芳らの−褐
衣の姐笑ひて余に謂ひて日く、「子は之を識るか。此れ豊干禅師なり。明代に在りて
は宋景渡と為り、今仏と成れり。子壷ぞ之れを拝せざる」と。余日く、「果して文意
公か。余の生平敬ふ所なり」と。轟かに之れを拝し、既に姐に謂ひて日く、「文意公
此に在れば、則ち劉文成、高太史の諸公も、亦た応に像有るべし、余皆拝して之を識
らんと欲す」と。姐別室を指して日く、「皆是に在り、子自ら之を識れ」と。余歩み
入りて塑像数十躯を見れば、衣冠の者有り、儒巾服の者有り、戊装製甲の者有り、蓑
笠の者有り、其の前に皆栗主有り、姓氏を題す。余諦かに視んと欲するに、燻煙繚擁
して、其の字を薇ひ、見るを得ず。)
ー1−
夢には劉基(文成、青田)や高啓(太史、育邸)の塑像も現れるのであるが、位牌に記
されている名は宋渡のものしか読み取れない。そこで江端は宋渡がなぜ今ここに現れたの
か、その無念をはたと悟り、はっと目覚める。劉基と併称されるべき明建国の功臣である
宋嫌を、江端は『詩選』で選外としてあるのである。
遂蓮然宿、因自答日、「明初開園、劉宋並稀、青田以謀略著、滑渓以文章顆。今文
成詩褒然首列、而文意詩渦未入選。公之遺憾一也。
且余是選頗有知人論世之意。如青邸、孟載、志道、同文、清江、海里、西涯、二泉、
大復、升庵、昌穀、茂秦、海漠、鳳洲、大将、茶柑諸家詩、前成有論断、凡数百年、
毀馨失寛之案、無不烏之。更正滴洗、而於文書濁無一言。公之遺憾二也。且夫文憲事
明祖数十年、虞師儒之重、罪渉疑似、既誅其子孫、猶不少寛傾、幾致湛身、嗣以馬后
太子力救、尚不免諦死轡荒、不得蹄葬、亦可悲臭。
(遂に蓮然として宿め、因りて自らを谷めて日く、「明初の開園は、劉・宋並び称せ
られ、青田は謀略を以て著れ、潜漢は文章を以て顕はる。今文成の詩は褒然として首
列さるるに、文意の詩は独り未だ選に入らず。公の遺憾の一なり。
且つ余の是の選は頗る人を知り世を論ずるの意有り。青邦、孟載、志道、同文、清
江、海里、西涯、二泉、大復、升庵、昌穀、茂秦、槍撰、鳳洲、大樽、茶村ら諸家の
詩のごときは、前に威論断有り、凡そ数百年、毀誉寛を失ふの案は、之を為さざる無
し。更に正に揃洗するに、文意に於いては独り一言も無し。公の遺憾のこなり。
且つ夫れ文意は明祖に事ふること数十年、師儒の重きに処るも、罪は疑似に捗り、
既に其の子孫を誅せられてすら、猶は寛候少なからざるも、幾ど身を避むるを致し、
嗣いで馬后・太子の力を以て救はるるも、尚は諦せられて蛮荒に死するを免れず、帰
りて葬らるるを得ざるは、亦た悲しむべきかな。)
そこで江端は、自らの選政に起因する宋演の無念に三つ程あることに思い当たる。
一つは、明の開国に功績のあった家臣としては、宋嫌は劉基と併称される著名な人物で
あるにも関わらず、劉基の詩だけが明代第一位と評価され、宋嫌の詩は選外となっている
こと。
二つ目は、『詩選』は「人を知り世を論ず」が編纂意図にあり、当選者はその観点に基
づいて皆論評が加えられ、冤罪の者には雪辱も果たされているにも関わらず、主要な功臣
の一人であるはずの来演には、一言の言及もないこと。
そして三つ目は、宋渡は明の太祖朱元埠に事え、重鎮に列せられていたにも関わらず、
晩年は罪を疑われ、子孫は誅せられ、それでも自らは経を授けた太子と皇后に救われはす
るものの、結局は左遷され、相応な死を得られなかったという憂き目を見たこと。
さらに江端は、宋藻にはそのような無念があるにも関わらず、後世、例えば王世貞(鳳
ー 2 −
洲)や王登(守渓)にも明の臣ではなく元官だと言われ、その大節を汚すような論評をさ
れ、一度は元に仕えたというなら劉基も同じであるところを、宋凍ばかりが踏みにじられ、
悲しまざるを得ないことを思う。
ただしその際、江端は来演と似たような経歴を持つ高啓ら16名を列挙し、これらの詩人
たちには「論断」を加え、『詩選』に載録したにも拘わらず、それでも宋湊は選外となっ
た、という言い方をしている。実はそこに、江端の選詩基準が一つ潜んでいるものと考え
られる。
高啓ら16名はなぜ、『詩選』初集正選13名(附録22名)、二集正選17名(附録48
名)の、計100名の中から敢えて今ここに取り出されているのか(2)。
それは、これら16名は宋渡とは異なり、「人」としては確かにそれぞれに日く付きでは
あるけれども、「詩」がかなり優れていることが考えられる。そしてそのことが江端の選
詩基準を支えることになる。
例えば虐同(同文)の場合、彼は元に仕え、‘朱元埠とは敵対した陳友諒に仕え、さらに
朱元埠に仕えている。主人を三回も替えているので、江端は次のように論評を加える。
同文歴事三姓、大節全麻、雌有厭替微忠、亦何足道。然其詩情嶋爽朗、自成一格、
不以人膚言、故仇録之。
(同文は三姓に事ふるを歴れば、大節は全く解く、献替微忠有りと錐も、亦た何をか
道ふに足らんや。然れども其の詩は清嶋爽朗、自ら一格を成せば、人を以て言を廃せ
ず、故に仇は之を録す。)
虐同は「人」としては「微かなる忠」しか無いものの、「詩」が「清嶋爽朗」であって
「自ら−格を成す」と言える程であるので、江端は『詩選』に載録すると言う。
また杜溶(干皇、茶柑)の場合は、彼の性癖として他人の詩を酷評しがちであったので、
金持ちに自分の詩集を買い占められ、燃やされてしまったという経歴を持つ。そこで江端
は、次のように論評を加える
韓、字干呈、……論詩極厳於時人、多所排誌、有宮人重償購其集、而焚之。後郷人
某接待其遺棄、行世。蓋不及十之三云。
朱錫暦日、「啓禎之間、楚風無不教法公安景陵者。茶村猫以杜陵創市、是亦豪傑之
士。惜其障窮以老、孟貞曜所云『好詩多抱山』也。」
江端論日、「茶村詩逸情孤詣、通出塵表、奇嘱而絶離刻、警健而謝椀豪、錐遽幅少
狭、要不失烏鷺長江・周大朴。乾陸中詩家主性垂者、排抵不留韓地、錐異枇好撼樹、
不免蹄是丹非素之病夫。」
(溶、字は干皇、……詩を論じて極めて時人に厳しかりければ、排託せらるる多く、
ー 3 −
富大有り重価もて其の集を購ひ、而して之を焚く。後に郷人の某其の遼東を捜し得て、
世に行はる。蓋し十の三にも及ばずと云ふ。
朱錫餞日く、「啓禎の間、楚の風法を公安景陵に教はざる者無し。茶村独り杜陵を
以て師と為せば、是れ亦た豪傑の士なり。惜むらくは其の陶窮すること老を以てし、孟
貞曜の云ふ所の『好詩は山を抱くこと多し』なるを」と。
江端論じて日く、「茶村の詩は逸情孤り謂り、退かに塵表を出づ、奇嶋として離刻
するを絶ち、響健にして摘なるを執る、辺幅少狭なりと錐も、要は質長江・周大朴
と為るを失はず。乾陸中の詩家の性霊を主とする者、排抵して緑地を留めず、範経の
樹を靂ヵサに異なると錐も、丹を是とし素を非とするの病ひを踏むを免れず」と。)
杜淳は唐の孟郊(貞嘩)と同様に生活が苦しく、孟郊の順悩」詩に言うように「悪詩
は皆官を得、好詩は空しく山を抱く」(惑詩皆得官、好詩空抱山)と嘆かざるを得ず、詩
は少々狭まりはするものの、独り杜甫を師とする豪傑であって、取って付けたような荒さ
ではない「奇蠣・警健」といった美点を持ち、質島や周朴と同じく、所属詩派だけで「丹
を是とし素を非とす」と決定することのできない好さがある、とし、江端は載録を決める
(3)。
もうひとり張以寧(志道)の場合を取り上げると、彼は元の順宗の知遇を受け、外更か
ら侍従にまで抜擢されたのだから、明の世になった時、身を棄てて節を全うすることも出
来ただろうし、また明の爵位を断って隠居することも出来たであろう、それなのに、結局
二人目の主人に仕えてしまった、と江端は言い、次のように論評を加える。
江端論日、「志道、格兼唐宋諸牌、皆清剛韓上、一洗元季繊縛之乱後東関派如林
子羽等、倶不達也惜其身受順帝知遇、_自外吏擢居侍従、元社既屋、則鳥貴殿士.・伯
顔子中之硝躯、完節可也、鳥楊廉夫・張光弼之辞爵、隠居亦可也、皆不出比、而以衰
幕僚年臣事二姓。其出慮不能不興危太模索同議、然太模以白描老臣見薄、卒至妊死和
州、而志道奉使南荒、不辱君命、覆身有祭事之被、重奏無陸貫之金(用志道自挽詩中
語)、則其清節足嘉、=‥‥。」
(江端論じて日く、「志道、格は唐宋の諸体を兼ね、皆清剛烏上、一ら元季繊膵の習
を洗ふ。後束の間派の林子羽らの如き、倶に逮ばざるなり。惜むらくは其の身は順帝
おほ
の知遇を受け、外吏より擢んでられて侍従に居るも、元社既に屋へば、則ち黄般士・
伯顔子中の躯を捕つるを為し、節を完うするは可なり、楊廉夫・張光粥の爵を辞する
を為し、隠居するも亦た可なるに、皆に此を出ださず、而して衰幕の繚年を以て臣と
して二姓に事ふ。其の出処は危太模索と同に謝られざる能はず、然れども太横は自ら
老臣と称するを以て薄Lとされ、卒に定められて和帖こ死するに至るも、志道は使ひ
を南荒に奉じて、君命を辱めず、身を覆ふに緊婁の被有り、薬を垂るるに陸雷の金無
ー 4 −
ければ(志道の自らを挽く詩の中の語を用ふ)、則ち其の清節は嘉するに足る、・‥日。」)
張以寧はそれでも、結果的に順宗を辱めた「亡国の臣」危素(太模)よりは増しである
とし(4)、しかもその詩は「清剛俊上、もっぱら元季繊縛の習を洗ふ」と評価できるため、
江端はこの張以寧をも載録することになる。
以上、いずれも「人」は札付き、日く付きではあるものの、「詩」は優れているとされ、
取り上げられていることが分かる。
ところが、これら16名と比べて遥かに知名度の高い宋嫌を、江端は選外としている。そ
こで続けて、せめてもの弁解であろう、宋嫌の友人でもあった劉基の「龍門子(宋凍)の
仙華山に入るを送るの辞」や『明史』の宋凍伝、鎮謙益の『列朝詩集』、朱奔尊の『明詩
綜』が、のきなみ宋嫌が元宮を辞していることを証明しているとし、その、「人」として
の汚名を晴らすことに努めて見せる。すなわち、江端のこの一文での弁明は、『詩選』の
編纂意図でもある「人を知り世を論ず」の一環として宋演の「人」だけは改めてそれなり
に評価し直そうとするものとなっていることが分かる(「詩」はさて措き、いわば、せめ
て「人」の面で復権させている)。
而鳳洲『雑編』且列之於元官、王守渓『筆記』亦赦其曾鵠元編修。夫文成仕元者再、
尚不足損其佐命之勅、文憲仕元亦復何害。且考『明史』本俸、載其至正中薦授翰林編
修、以親老辞不行、入龍門山著書。文成集中亦有送公入道評、『歴朝詩集』『明詩綜』
皆載公辞官入道之事。則其未脛仕元、確有可接、而鳳洲諸人凌轢前輩、且井其出虞大
節汚之、是誠何心哉。
(而るに鳳洲の『雑編』は且く之を元宮に列し、王守渓の『筆記』も亦た其れ曽て元
の編修と為ると叙す。夫れ文成は元に仕ふる者再びにしてすら、尚は其の佐命の勅を
損なふに足らず、文意の元に仕ふるも亦た復た何をか害せんや。且つ『明史』本俸を
考ふるに、其の至正中に薦められて翰林編修を授かるも、親の老ゆるを以て辞して行
かず、龍門山に入りて書を著はすを戟す。文成の集中にも亦た「公の道に入るを送る
の辞」有り、『歴朝詩集』・『明詩綜』は皆に公の官を辞して道に入るの事を載す。
則ち其の未だ元に仕ふるを経ざるは、確かに拠るべき有り、而るに鳳洲の諸人は前輩
を凌轢し、且つ井びに其の出処の大節は之を汚す、是れ誠に何の心なるかな。)
そしてその弁明の一環として江端は、自らの夫の父(翁大人)陳文述(1771−1843)もそ
の著『株陵集』で明初に疑獄に遭った諸臣の冤罪を晴らしていると言い、また夫の陳装之
(澄懐1794−1826)も「七姫権暦志論」(5)を書いて、明の宋克(仲温)の書、虚熊(公武)
の蒙、張羽(来儀)の著になる「七姫権暦志」に論及し、朱元唾に敵対した張士誠の家臣
(娘婿)であった播元絹と夫とともに節を守って自決したその七人の妾を称賛してしまっ
ー 5 −
た張羽らの汚名を雪いでいると言って、自らの『詩選』の偏りと比べてみせる。しかし『詩
選』は、「人」の面での評価は譲っても、「詩」の面での妥協をしない。
因みに高啓はその張羽らとともに「呉中四傑」と称せられ、また宋克・張羽らと交わり
を結んで「北郭十友」と称せられてもいる(6)。なお張羽も、江端は『詩選』二集巻二上附
録に載録し、詩27首を採録している(2)。
翁大人著『株陵集』、於明初文武諸臣冤獄皆有所揺白。澄懐論劉文成、事及「七姫
樺庸志論」、於青邸、乗儀、仲温、公武、亦昭雪。
(翁大人は『株陵集』を著し、明初の文武の諸臣の冤獄に於いて皆弁白する所有り。
澄懐は劉文成を論じて、事は「七姫植原志論」に及び、青邸、乗儀、仲温、公武に於
いても、亦た雪ぐを昭らかにす。)
ついで江端はここで、自らが宋嬢の詩を選外とした理由を述べ始める。
この部分は、この一文の趣意を顕在させていると言って好い。すなわち江端が宋藻を選
外としたのは、「公(宋凍)の詩の才力の亦た甚だ博大なるも、憶だ其の文の精純なるに
及ばざるのみを以てなり」という理由を明示する。来演は文士文豪であって、詩人として
はやはり落ちるのであろう。そこのところが江端の本音であって、『詩選』はあくまでも
「詩」で詩人を選ぶのであって、「人」で詩人を選ぶのではない、「詩を以て人を存し、
而して人を以て詩を存するの比に非ず」と強張することになる。
江端の選詩基準から言うと、『詩選』は宋嬢のように「人」はそれなりであっても、「詩」
はそれほどでもない詩人を、決して入選させない。たとい明代の文学者としては著名な宋
嫌であっても、『詩選』の「正選」には列ねるわけに行かない、かと言って、「附録」に
も列ねかね、中途半端な位置づけになってしまうので、思い切り選外としたと弁明する。
しかしそれは恐らくは言い訳に過ぎず、明言してしまえば、来演は明らかに選詩基準に合
格していない。そこでこの「記夢」という一文を轟き、以下に改めてきちんと選詩基準を
示すことになる凡例各則の頭に置いているのであろう。
甚至余、於有明諸公主持公論、亦自謂不達偉力、而干公蓋闘如者、以公之詩才力亦
甚博大、惟不及其文之精純。且余所選、又以詩存人、而非以人存詩之比、筍令列諸正
選、末免遷就、列諸附録、又患軽襲、故意不入選、乃白鳥一書之例也。不運其詩、因
不論其事、亦此書例也。而公之屈掬、遂不得附比書以明於後世、因以示夢於余郡。
(甚しきは余に至り、有明の諸公の公の論を主持するに於いて、亦た自らも繚力を遺
さずと謂ふも、而も公に干いて蓋関如たる者は、公の詩の才力の、亦た甚だ博大なる
も、雁だ其の文の精純なるに及ばざるのみを以てなり。且つ余の選する所は、又た詩
を以て人を存し、而して人を以て詩を存するの比に非ず、筍も各し諸れを正選に列ね
ー 6 −
ば、未だ遷就を免れず、諸れを附録に列ねば、又た軽褒なるを患ふ、故に寛に選に入
れず、乃ち自ら一書の例と為すなり。其の詩を選せず、因りて其の事を論ぜざるは、
亦た此の書の例なり。而るに公の屈抑は、遂に此の書に附して以て後世に明かにする
を得ず、因って以て夢に余に示すか。)
そこで江端は、宋嫌に怨まれても仕方ないと言いつ?、宋嫌の人品正しく、学問は純粋
で、天子を翼賛し、その天子には可なるを献じて否なるを替えさせる補佐の才の有ったこ
とを評価しつつも、いわば豊干禅師の生まれ変わりであり、十善を行い得た仏として天界
に生まれ出るのは当然の理である、というような言い方をすることになる。勿論それはこ
れまでの方針を「人を以て詩を存す」に改めるというのではない。「詩を以て人を存す」
は依然として堅持している。
余維公人晶最正、草間最醇、瑚費最久、戯替最多、且精通繹典、則其應豊干後身、
生天成債、亦理所應有。.余事得於夢中好香種之、錐未録其詩、而不可不論其人。因附
列之、以志吾過、且以鳥天下後世苛論前哲汚蠣名賢者有所戒焉。
(余は錠ふ公は人品最も正しく、学問最も醇ばらにして、瑚賛最も久しく、献替最も
多く、且つ釈典に精通すれば、則ち其の豊千の後身、生天の成仏と為るは、亦た理の
応に有るべき所なりと。余は幸に夢中に於いて香を始へて之れに礼するを得れば、未
だ其の詩を録せずと錐も、而も其の人を論ぜざるべからず。因りて附して之に列ね、
以って吾が過ちを志し、且つ以て天下竣世の前哲を苛諭し名賢を汚磯する者の戒むる
所有ると為すなり。)
この、宋渡を「豊千の後身」としている点も、前掲の16名の列挙とともに注視しなけれ
ばならない。畳千といえば、鴎外の「寒山拾得」ではないが、「登千億舌、鋳舌爾陀」(豊
千の餞舌、鍵舌なる弥陀)や寒山による批判「汝不是我同流」(汝は是れ我が同流ならず)
の逸話を持っている人物として即座に想起される(7)。例えば「倦燈録」には、次のように
見える。
寒山者、始誓願有寒明二巌、以居寒巌中、得名。時往囲清寺、就拾得取僧残食、食
之。拾得者、因翌干行山中見一見可数歳孤菜、豊千穂至囲清寺、名拾得、在厨内源器。
嘗自賛畢、澄濾食梓、寒山束即負之而去。闇丘公田牧、豊干造之。間丘乞一言、堅千
日「到任記謁文殊普賢。」日「二菩薩安在。」師日「国情寺洗器者寒山拾得是也。」
間丘尋至寺、問「寒山拾得是何人。」有僧封日「二人現在厨執役。」間丘訪之、不覚
致拝、二人連聾叱咄日「翌干餞舌。」二人自此相撼出松門。闇丘又至寒巌碓謁二人、
高馨喝之、便縮入鹿石縫中、忽然縫合。‘
ー 7 −
(寒山なる者は、始め豊県に寒・明二巌有り、以て寒巌の中に居り、名を得。時に国
情寺に往き、拾得に就いて僧の残食を取り、之を食らふ。拾得なる者は、豊千の山中
を行きて一児の数歳ばかりにして孤り棄てらるるを見、豊干携へ七国情寺に至るに因
りて、拾得と名づけられ、厨内に在りて器を源ふ。嘗て日斎畢はり、食津を澄濾すれ
ば、寒山来たりて即ち之を負ひて去る。闇丘公牧に出づるに、豊干之に造る。闇丘一
言を乞へば、豊千日く「任に到れば文殊・普賢に喝するを記せよ」と。日く「二菩薩
は安くにか在る」と。師白く「国清寺にて器を洗ふ者の寒山・拾得は是れなり」と。
間丘尋いで寺に至り、間ふ「寒山・拾得は是れ何人ぞ」と。僧有り対へて日く「二人
は現に厨に在りて役を執る」と。閣丘之を訪ひ、覚えず拝を致せば、ニ人声を連ねて
叱咄して日く r豊千は鏡舌なり」と。二人此れより相携へて松門を出づ。闇丘又た寒
巌に至りて礼して二人に謁するに、声を高らかにして之に喝し、便ち縮んで巌石の縫
中に入り、忽然として縫合す。)
それに豊千は、その詩は二首のみが伝わり、寒山・拾得に比べて極めて少ない。殆ど無
いと言って好く、何よりも先ず、詩人としての評価を得難い。江端はそのような豊千に栄
藤を擬えていることになる。いったい何を托そうとしたのか。
宋嫌に対する江端の記述の仕方を見ると、「人品」「学問」「瑚賛(翼賛)」「敵替」
といった能力を備え、かつ「釈典に精通す」という点で豊千の生まれ変わりであるとして
いる。江端一流の弁明の一環ではあるものの、宋液には確かに「題四十四分金剛経後」「政
金融軽蒙書後J「金剛経寮異賛」「題金書法華経後」「新刻法華経序軌「大般若経通開
法序」r金剛固着経新鮮序」「重刻金剛般若経序賛」「新刻梯伽脛序」「題何氏頗書般若
心経後」「新註梯伽脛後序」等の仏典に言及した文章が数多く存在し、「釈典」_に精通し
ていたことが知られる。
さらに宋渡には「寂照囲明輝師壁峯金公設利塔碑」「千巌渾師語録序」「題慈受渾師遺
墨後」「樫山悦堂渾師四合語序」「虞州白雲渾節度公塔銘」「愚庵渾師四合語序」「西天
僧授善世渾師詩」「和林国師授都綱繹師詰」r党原繹師逮衣塔銘」「育王大千繹師照公石
墳碑文」「蒲魔弾師書像賛」「素魔弾師行業碑銘」「寧禅師碑銘」「全室渾師像賛」「育
王渾師裕公三食語録序」等々といった文章も見られ、宋演が多くの禅師、上人、和尚らと
交流を持ち、仏教に造詣の深かったことは確かであろう。
宋旗が仏教に傾倒していた頃の元末の思潮は、例えば祝普文氏の把握(8)に拠れば、次の
ような溌況を呈していたという。
元武宗以後、皇帝多半幽居深宮、不理朝政、耽干享楽、至順宗時尤甚。『績資治通
鑑』載、「時帝(順帝)息子政事、荒干満宴、以官女三聖努、妙欒努、文殊努等一十
六人按舞、名残十六天魔……」他椚還不惜把大部分人力物力用於敬神、修寺等宗教活
ー 8 −
動上、埠意揮雇、至毎年催事、耗麺四十三万九千線斤、油七万九千線斤、醗蜜五万線
斤。作者(宋渡)封此深慮不満、……
(元の武宗以後、皇帝の多くは半ば探宮に幽居し、朝政を理へず、享楽に耽り、順宗
の時に至って尤も甚し。『続資治通鑑』には、「時に帝(順帝)政事を怠り、辞宴に
荒れ、官女の三聖努、妙楽努、文殊努ら一十六人を以て舞を按じ、名づけて十六天魔
と為す……」と載す。かれらは還た大部分の人力物力を把って神を敬ひ、寺を修むる
等の宗教活動上に用ゐるを惜しまず、意を埠にすること経巻とし、毎年の仏事に至っ
ては、麺四十三万九千絵斤、油七万九千線斤、醗蜜五万僚斤を耗らす。作者(宋凍)
は比に対して深く不満を為し、……)
さらに三浦氏の指摘(9)に拠れば、宗教上の「制度的な改革が望みにくい指導者不在の時」
にこそ、宋嫌は若き日に「一大蔵経を閲尽した経歴は、なにものにも優る自慢の種であっ
た」ようで、彼は仏道修行を積んで悟境に達し、三教の乱れに危快を抱き、「みずからを
厳しく律Lはするのだが、おそらくはそれ故にかれは、あくまでも世間と共に在ろうとし
た。眼前の堕落した仏者たちに、仏教的知識を誇示するだけの若き日の自分が重なって見
えたかの如くである」と言う。これらの指摘の中で、とりわけ来演が「あくまでも世間と
共に在ろうとした」とされる点は、豊千を努常とさせるものがあるように思えるが、江端
は、そのような思潮下に於ける仏典や仏者らとの関連に於いて、宋嫌を豊千に擬えたもの
と思われる。
すなわち、「豊千の後身」とされる宋渡は、「詩」では評価しがたいものの、「文」に
於いては極めて「釈典に精通す」という別の優れた面を備えており、評価に値するという
ことを、江端は言っていることになる。
豊千の側から言えば、間丘胤を「嘲賛」(翼賛)し、「献替」し(可なるを献じ否なる
を替へ)、寒山・拾得を世に出し、豊干自身も寒山・拾得とともに「国清寺の三隠(三賢)」
の一人とされ、「人品」があり、「学問」があったことは言うまでもない。「詩」では評
価できないとは言え、寒山・拾得とは異なる流の「人」として、別の評価が有っても一向
に支障は無い。江端はその豊千のように別途の評価を得られる人物として宋藻を位置づけ
よ_うとしたのではないかということが、ここで明らかになる(なお、この「(宋嫌は)豊
千の後身」であるとの説は、更なる考察の余地があろう)。
そして、それら宋藻の事績を明らかにした上で、そのような「人」を誤って選外として
しまうような選政が為されぬよう戒め、江端は弁明を済ませ、最後に自らの功績を述べて
この一文を結ぶ。その際、自らの『(明)詩選』を清の顧嗣立の『元詩選』に匹敵するも
のと自負している点も、更なる注視に値しよう。「煙雲供養、霊爽式憑」という語を用い
て述べている点はそれを象徴的に物語っている。
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或謂、「普顧侠君選元詩唆、見古衣冠数百人爽凱」今金於夢中亦見塑像数十人、
煙雲供養、整爽式憑、即以是鳥余聞幽発隙之功也。則余豊敢。
嘉慶庚辰孟冬十日江端記
(或るひと謂ふ、『昔顧侠君元詩を選し竣はり、古衣冠数百人の来たりて謝するを見
る』と。今余も夢中に即、て亦た塑像数十人の、煙雲供養し、霊爽式憑するを見る、
即ち是を以て余が幽を開き隠を発くの功と為すなり。則ち会堂に敢てせんや」と。
嘉慶庚辰(嘉慶二十五年1820年)孟冬(十月)十日、江端記す。)
「煙雲供養、霊爽式憑」は、来演以外の劉基や高啓らの精霊が、『詩選』に当選したこ
とで却って長生を得、そのような生を惜しみ、夢に憑依降臨して謝意を表しに来たと言う。
そしてそのような言い方をすることにより、江端みずからが劉基らの隠れている好さを世
に出したからであるとの自信を示し、かつ自負するに至っている。
以上、江端はあくまでも「詩を以て人を存す」という選詩基準を堅持し、『詩選』を編
んでいる。そしてその点にこそ『詩選』の、『元詩選』にも匹敵する、また他のアンソロ
ジーとは一線を画する特徴と価値が在るということになろう。
因みに、江端がなぜそれほどまでに「詩を以て人を存し、而して人を以て詩を存するの
比に非ず」に拘ったのか。それは、『詩選』の曹貞秀女史の序(10)がある程度語ってくれ
ている。
選詩之家、大要有二、日「以人存詩」「以詩存人」。「以人存詩」則失之濫而無常
別裁之旨、「以詩存人」則失之願而同異尚論之乱求通両家之輝、去其失而兼其美者、
真夏平、其難夷。‥‥(『詩選』)大旨以詩烏断、而或英人之勲業操行、有足以昌其
詩而重其詩者、則仇列正選、以垂激勘、於別裁之中、寓尚論之意、精思憤搾、閲三年
而始唆。・‥=‥竹柁之『明詩綜』則重在人、蹄愚之『明詩別裁』則重在詩、均烏善本而
均不能無、或厳或濫之失甚臭。選政之難也、今観玄選、論詩則務取清眞力剰俳偽、論
人則務崇名節堅斥邪僻、油能兼両家之美。‥‥‥
(選詩の家には、大要二有り、臼く「人を以て詩を存す」と「詩を以て人を存す」と
なり。「人を以て詩を存す」れば則ち之を濫るるに失ひて別裁するの旨に当つる無し、
「詩を以て人を存す」れば則ち之を厳しきに失ひて尚論するの識を具ふる岡し。両家
かつか・つ
の駅に通じて、其の失ふを去りて其の美しきを兼ぬる者を求むるは、重々平として、
其れ難きかな。・(『詩選』の)大旨は詩を以て断を為し、而して或は其の人の勲
業操行に、以て其の詩を昌んにし其の詩を重んずるに足る者有れば、則ち仇は正選に
列して、以て激勧を垂れ、別裁の中に於いて、尚論の意を寓し、精しく思ひ慎んで択
び、閲ぶること三年にして始めて竣はる。‥‥‥竹蛇の『明詩綜』は則ち重んずるは人
に在り、帰愚の『明詩別裁』は則ち重んずるは詩に在り、均しく善本と為し而して均
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しく無かる能はざるも、或は厳しき或は濫るるの失甚し。選政の難きや、今茄の選を
観るに、詩を論じては則ち務めて清真を取り力めて俳偽を胴り、人を論じては則ち務
めて名節を崇び堅く邪僻を斥け、抱に能く両家の美を兼ねたり。……)
曹貞秀は、朱顛尊の『明詩綜』のように「人を以って詩を存す」ということを重んずる
と「人」に惑わされ、「詩」をきちんと「別裁」する、選別することが難しくなる、また、
沈徳潜の『明詩別裁集』のように「詩を以って人を存す」ということを重んずると、「詩」
の選別で厳格になり過ぎ、「尚論」(11)すなわち過去の優れた「人」に遡って論じようと
する点がぎくしゃくしてしまう、そこで両者を兼ね備えた選政が望まれるのであるが、『詩
選』は「詩を以って人を存す」ということを重んじていながら、まさにその両者の好いと
ころを兼ね備え、「詩」を論じては「清真」なるものを採って「俳備」であるものは捨て、
「人」を論じては「名節」のあるものを尊んで「邪僻」であるものは排斥し得ている、な
ぜそれが出来たのかと言えば、『詩選』は「人」の功績や行いを論断する際に、「詩」を
昌んにし、「詩」を重んずるに足る詩人を選ぼうと努めたからである、と言う。
すなわち江端が「詩を以て人を存す」に拘ったのは、「人」を選別する基準として、「其
の詩を昌んにし、其の詩を重んず」を旨とし、「清真」なる詩作の業の出来映えを自らの
勲功とすることができ、「名節」を維持する詩作を行うことを自らの節操とすることので
きる詩人こそが、「勲ある業、操ある行ひ」を成し遂げた人物、すなわち完成された詩人
・詩家であると見、それを選詩基準として堅持しようとしていたからであることが見えて
来よう。
この曹貞秀の言葉を借りれば、来演を代表とする詩人達が『明三十家詩選』で選外とな
ったのは、「人」(詩人・詩家)としての「名節」を尊ぶという域にまでは達せず、「詩」
も”青真」であるとは言い難かった為である、ということも、逆に見えて来る。
註
(1)同治12年(1873)10月刊「海蘭吟館重莱」本に拠る。
(2)膚同(同文)は『詩選』初集巻一附録に10首を採録(膚同は、宋凍らと日暦を修
す)、高啓(青郎1336−1374)は初集巻二に175首を採録、李東陽(西渡1447−1516)
は初集巻三上に67首を採録、郡賛(二泉1460−1527)初集巻三上附録に9首を採録、
楊慎(升庵1488−1559)は初集巻三上附録に14首を採録、何景明(大復1483−1521)
は初集巻四に125首を採録、徐禎卿(昌穀1479−1511)は初集巻五上に61首を採録、
謝榛(茂秦1495二1575)は初集巻五下に68首を採録、李撃龍(槍漠1514−1570)は
初集巻六上に46首を採録、王世貞(鳳洲1526−1590)は初集巻六下に57首を採録、
陳子龍(大樽1608−1647)は初集巻七上に60首を採録、杜溶(茶村1610−1686)は
初集巻八上附録に28首を採録、貝壕(清江元末−1379)は二集巻一上に52首を採
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録、張以寧(志道1301−1370)は二集巻一下に61首を採録、楊基(孟載)は二集巻
二上に94首を採録(門弟として楊維禎(廉夫1296−1370)の座に在り、高啓と相知
り、張羽(二集巻二上附録に27首を採録)、徐貴(二集巻二上附録に14首を採録)
とともに「呉中国傑」と号す)、蓑凱(梅里)は二集巻二下に33首を採録(門弟と
して楊維栃(廉夫1296−1370)の座に在り)。
尚お、以上1・6名の生卒年は、囲立中央園書館編「明大博記資料索引」董博文史
哲出版社1965年に拠る。
(3)「是丹非素」という評語は、孟郊「孟東野集」の四庫提要に「蓋蘇(賦)尚豪韓、
元(好問)尚高華、門樫不同、故是丹非素、未可接為定論也」と見える。
(4)危素(字は太模)は、張以寧とともに「明史」巻285に伝がある。明の査継佐『罪
惟録』には「‥‥‥他日上御東関側室、素履聾葉菜簾外、上目『誰』、日『老臣素』、
上目『朕謂督文天祥』。御史王著等、劾素亡国之臣、不互列侍従、講含山守、……」
とある。
(5)陳襲之(澄懐)「七姫横厚志論」は『詩選』二集巻二上附録「張羽」の条に掲載が
見られる。
(6)土岐善麿『高音郎』日本評論社1942年に拠る。
(7)「文意集」、「宋学士文集」の中では、管見の及ぶ限りでは、宋凍自身が豊千を取
り上げてはいない。
(8)祝普文『宋凍寓言選繹』書目文献出版社1988年に拠る。
(9)三浦秀一「元末の宋演と儒道仏三教思想」東洋古典撃研究1集6号1996年に拠る。
(10)「道光二年(1822)歳次壬午長至日、長洲墨琴女史曹貞秀序於里門之寓韻軒」と
ある。
(11)『孟子』萬章・下に「尚論古之人」侶っかた古の人を論ず)とあるのに基づく。
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