平成27年5月18日(月)職員朝会 配布資料 子どもとの学びや生活が始まる今だからこそ戒めにし合いたい毛涯章平先生の十戒 一 子どもをこばかにするな。教師は無意識のうちに子どもを目下 の者として見てしまう。子どもは一個の人格として対等である。 二 規則や権威で、子どもを四方からふさいでしまうな。必ず一方 を開けてやれ。さもないと、子どもの心が窒息し、枯渇する。 三 近くに来て自分をとりまく子どもたちのその輪の外にいる子に 目を向けてやれ 四 褒める言葉も、叱る言葉も、真の「愛語」であれ。愛語であれ ば必ず子どもの心にしみる。 五 暇をつくって子どもと遊んでやれ。そこに本当の子どもが見え てくる。 六 成果を急ぐな。裏切られても、なお信じて待て。教育は根 くらべである。 「成果を急ぐな」とあります。そのとおりだと思います。「成果」の対象になる主語、主体は、 当然「子ども」です。しかし、学校では、時により教師の都合でつい急いでしまうことがあるのか もしれません。そのような時は、成果を急いでいる主体、主語は教師だと考えられます。だれのた めの成果なのでしょうか。その主語が教師であれば、急ぐことがあります。それは、常に無理との 背中合わせになり、結果的に、そのしわ寄せは子どもにいきます。 「裏切られても」という言葉は教師側の心理の表現としては少々きつい響きがします。子どもは、 教師を裏切ろうなんて少しも思ってもいないし考えてもいないのではないでしょうか。逆に、明確 に裏切ることを意識していれば、指導しやすいと思います。教師が、裏切られたなどと思うことは 慎んだ方がいいと思います。だから、戒に入れたのでしょう。 「信じて待つ」ことは大切です。教師には、「裁判的」な役割があります。「警察的」な役割も あります。「宗教者」のように信じて待つ役割もあります。この信じるという言葉には重みがあり ます。さて、自分自身のことを振り返ったとき、今の自分を信じてくれる人が何人思い浮かぶか考 えてみます。いるのかな?学級の子どもは、先生としてのわたしを信じてくれているのか、自信を もって信じられていると答えられるかだろうか。そういう関係を求めると、教育は必然的に根くら べになります。対子どもとの根くらべだけではなく、対自分との根くらべにもなるから、そこにき つさがあるのだと思います。「信じられる自分」を目指すより「信じる自分」を目指した方が楽そ うにも感じられますが、はたしてどうでしょうか。「信じられる自分」に辿り着くにも、「信じる 自分」に辿り着くにもかなり精進が必要だと感じられます。そうしてみると本当は自分との根くら べが核心なのかもしれません。たぶんそれも教育なのだと思います。 長野市立清野小学校長 - 1 - 岡本 力
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