ヘーゲルとハイデガーにおけるユダヤ人と民族の共生の問題

ハイデガー・フォーラム第 10 回大会
応募発表要旨1
(統一テーマ:民族という問題――『黒ノート』が問いかけるもの)
ヘーゲルとハイデガーにおけるユダヤ人と民族の共生の問題
『黒ノート』の公刊は、ハイデガー哲学と反ユダヤ主義の関係をめぐり、世界的な討論
を巻き起こしている。明らかにハイデガーはナチスの生物学的人種主義を拒否する。だが、
「計算高さの才能」(GA96 82)や「根こぎ(Entwurzelung)」(GA96 82)といったステレオタ
イプで差別的なユダヤ人観が、存在史による技術時代の哲学的解釈に接続されてしまう1。
このユダヤ人観の貧しさは、ハイデガーが立ち入ってユダヤ文化を研究しなかった事を
示す。だが、アーレントが指摘した通り、反ユダヤ主義は、ユダヤ人の現実に無関心なま
ま、ユダヤ人を憎悪する。それ故、存在史と反ユダヤ主義の関係を考察する際、彼が挙げ
るステレオタイプの内実を詳細に検討するのと並行して、ハイデガーが、存在史という高
...................
度な哲学的課題と前学問的な偏見を結び付け、現実のユダヤ人を等閑視して彼らの歴史的
.................
意味を一方的に表象した事実そのものに焦点を当てるべきである。
この事実が存在史にとって内在的な可能性だとした場合、我々は二点を問うべきである。
第一に、この可能性は、存在史が語る存在の生起の歴史的場としての「西洋(Abendland)」
と、この場を反復して新たな共同性を創設すべき「我々」(GA94 1)としての「民族(Volk)」
にいかに波及するだろうか。第二に、そうした危険を克服する可能性が、存在史にはある
だろうか。原理上、これはユダヤ人だけでなく、現代日本でも問題になりうる。だが、西
洋哲学史におけるユダヤの表象の重要性を考えれば、まずこれに則して論点を分節化しな
ければならない。
本発表では、ヘーゲルとハイデガーにおけるユダヤ人の哲学的表象を検討し、自己と世
界の存在の根底から語られる共同性とその歴史の場について、これに特有の排除の機制を
考察する。ヘーゲルを取り上げるのは、彼が、精神の自己実現という形而上学の一つの完
成形態に則して近代社会の成り立ちを解明し、その内にユダヤ人を位置づけた点で、ハイ
デガーの存在史における反ユダヤ主義を理解するための歴史的地平を与えるからである。
具体的には、両哲学者について、
(a)共同体におけるユダヤ人の位置、(b)共同体の存
在論的基礎の水準でのユダヤ人の表象を考察する。ハイデガーについては、この作業によ
Trawny, P. Heidegger und der Mythos der jüdischen Weltverschwörung. Klostermann. Frankfurt a.
M. 2014. Kap.3
1
り顕在化する存在史のナラティブの問題点を克服する可能性も検討する。
周知の通り、ヘーゲルにとり、
「歴史」とは精神の自己実現の過程であり2、この過程は、
人倫に関しては、西洋の、特に北方のゲルマン国家でその極点にたどり着く3。
「国家」とは、
『法の哲学』によれば、客観的な「憲法」と国民の主観的「心術(Gesinnung)」によって自
由を具現する「倫理的理念の現実性」である4。そして、ヘーゲルは、
「国家」におけるユダ
ヤ人差別に反対し、
「国家」の理念の下に彼らを法的に平等に処遇すべき事を主張する5。だ
が、人倫の存在論的基盤である精神との関係については、ヘーゲルの語りはユダヤ人との
................
齟齬を顕在化させ、精神の自己実現から排除された民族としてユダヤ人を表象する。初期
の『キリスト教の精神とその運命』では、律法の実定性に固執した非道徳的なユダヤ人と、
「愛」による「運命」との「和解」を説いたイエスが鮮明に対比される6。後年の歴史哲学
講義では、やはり精神の具体性と主体の自由の欠如が指摘される7。
「国家」の法的処遇と形
而上学の根底における民族表象とのこうした乖離は、ユダヤ人に対する形而上学的な線引
きを実存の根底に秘めたまま、宗教的差異を無力化した形で、世俗国家への参加を許容す
るものと理解できる。
これに対し、ハイデガーの存在史は、形而上学による存在忘却の歴史を記述する点で、
ヘーゲルと違ってそれ自体の形而上学的根拠を持たず、存在の無根拠さにおいて西洋と民
族を語りだす。現実のユダヤ人への『黒ノート』の異常な無感覚さは、存在史のこの性格
の負の側面として理解できる。則ち、それ自体の根拠を持たないナラティブは、構造上、
実態と関係なくあらゆる集団を形而上学的なものと表象して、「我々」の「民族」から恣意
的に排除できる。だが、存在史には諸民族の共生に向けて歴史の語りを紡ぐ可能性もある。
なぜなら、存在史が現前(Anwesen)と非現前(Abwesen)の両義性から語られる限り、根本的
.........
には、その歴史の「我々」は「記号(Zeichen)」的に(GA7 135)、則ち、自己の存在を超えて
......
語りを紡ぐ事で初めて生起するからである。存在の無根拠に立ち臨む人間存在はおのれの
有限性を言葉に託す事で初めて反復される。その限り、技術時代の存在史が語る「西洋」
は、技術による絶滅の恐怖と苦痛の記憶を語る人々なしには成立せず、彼らに場所を与え
ねばならない。それ故、ショアー以後、ユダヤ人がこの「西洋」の不可欠な一部である事
は明白である。
Heidegger, M. „Hegel und die Griechen“. GA9 428f.
Hegel, G.W.F. Grundlinien der Philosophie des Rechts. §358
4 Ebd. §267, §257
5 Ebd. §270
6 Hegel, G.W.F. Frühe Schriften Werke 1. Suhrkamp. Frankfurt a.M. 1986. S.301
7 Hegel, G.W.F. Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte Werke 12. Suhrkamp. Frankfurt a.M.
1986. S.243
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ハイデガー・フォーラム第 10 回大会
応募発表要旨2
(統一テーマ:民族という問題――『黒ノート』が問いかけるもの)
メタポリティックの概念
ハイデガー全集における『黒ノート』の出版とともに、ハイデガーの1930年代後半
の「存在史」の構想のうちに含まれる反ユダヤ主義的な要素が問題となった。このとき哲
学的な問題になるのは、ハイデガー個人が(ナチ党員であった上に)反ユダヤ主義者であ
ったか否か、ではなく、ハイデガーの哲学がその本質的な部分において、はたして、ある
いは、どの程度反ユダヤ主義と結びつくものであったか、である。(この解明のためには、
ナチズムと反ユダヤ主義の「本質」も問われることになる。
)そこで、フィガールやトラヴ
ニーも言うように「区別すること」
「汚染に境界線を引くこと」が必要になる。
しかし問題は、ハイデガーの哲学あるいは思索が、このような区別に抗うような性質を
示していることであり、それは、ハイデガーの思索が歴史的、政治的な「現実」と取り結
ぶ特異な関係によるものである。このことは単純に非難あるいは弁護すべき「欠陥」では
なく、むしろ、哲学と現実の関係について再考するための特権的な一事例を提供するもの
と思われる。
『黒ノート』において顕著なことは、彼の存在史の構想が、現実の世界史的な事象と直
接的に結びつけられ、当時の歴史的、政治的現実にそのまま存在史的な意味が与えられて
いることである。古代ギリシアの「第一の始原」を受け継ぐ「別の始原」の民族として「ド
イツ民族」に特権性が与えられるだけではなく、これと敵対するものとして「歴史なきも
の」
「地盤なきもの」
(GA95,96)である「ユダヤ(Judentum)」が名指される。国家を持た
ないユダヤ人の現実が直接的に「無世界性」と結びつけられ、存在論的、存在史的な規定
と存在者的(オンティッシュ)な現実の事象が短絡させられている。ただし、この時期ハ
イデガーはすでにナチズムと批判的な距離を取っており、「第一の始原」の終焉は、いずれ
も近代形而上学の帰結としての作為性(Machenschaft)の諸形態であるナチズムと、アン
グロ・アメリカニズム、ボルシェヴィズム、そしてその根本にある「世界ユダヤ組織
(Weltjudentum)」の間の終末論的抗争を伴うものとされる。
ハイデガーの思索は、なぜこのような形で歴史的、政治的な現実を取り込むことになっ
たのだろうか。このことを解明するために、『黒ノート』に現れる「メタポリティック
(Metapolitik)」という概念を取り上げる。ハイデガーによれば「我々は哲学を終焉に導き、
それによって全く他なるもの、メタポリティックを準備しなければならない」
(GA94,115)
。
「現存在の形而上学は、その最も内的な接合構造に従って、歴史的民族「の」メタポリテ
ィックへと、深化、拡大しなければならない」(124)
。
ハイデガーにおけるこの語の意味について、トラヴニーは、メタポリティックとは「「第
一の」始原と「別の」始原の関係についてのハイデガーの存在史的考察」に他ならないと
している(532-3)。しかし、この語が用いられるのは彼の総長在任中の時期であり、この
語が「形而上学」と等置されている以上(116)、これをただちに存在史的考察と同一視す
ることはできない。むしろこの概念はハイデガーの『存在と時間』公刊後の講義に現れる
メタ存在論(Metontologie)の発展した形態と見なすことができる。
メタ存在論とは、現存在の存在理解を制約する事実性と有限性を、
「形而上学」の内部に
回収しようとする試みであった。
『存在と時間』において、初期フライブルク講義に始まる
事実性の解釈学を引き継ぐ実存論的分析論が、存在一般の問いのための基礎存在論として
位置づけられた。すると、
「問う者」である現存在の実存の事実性が、基礎存在論を制約す
ることになる。その後のハイデガーはこの「哲学の有限性」に踏みとどまるのではなく、
そこからの「存在論の転換」を要請する。「存在が与えられるのは、現存在が存在を理解す
るときのみである」が、
「存在が理解のうちにあることの可能性は、その前提として現存在
の事実的実存をもつ。そして現存在の事実的実存はさらに、その前提として自然の事実的
な直前存在をもつ」
(GA26,198-9)
。それゆえ、
「現存在の分析論」
「存在のテンポラリテー
トの分析論」に続いて、そこからの「転換」による、「存在者をその全体においてテーマに
する」「形而上学的存在者論」が要請される。これが「メタ存在論」であり、「基礎存在論
とメタ存在論は、それらの統一において形而上学の概念を形成している」(201)。つまり、
形而上学は「問う者」の実存の事実性、有限性による制約を、その前提となる「存在者の
全体」を取り込むことによって克服すべきものとされる。
メタポリティックは、このメタ存在論を、
「歴史的現存在」である「民族」のものとして
「深化、拡大」するものである。これによって、存在の問いを担う者としてのドイツ民族
の歴史的、政治的な現実が、
「形而上学」の中に取り込まれることになる。
ハイデガー・フォーラム第 10 回大会
応募発表要旨3
(特集:レヴィナス)
レヴィナスにおける「私固有の/本来的な在り方」を巡る問い
本発表は、レヴィナスが『全体性と無限』で展開した「私」の固有性を巡る議論を、ハ
イデガー『存在と時間』との対比において明らかにすることを目的とする。本発表は、四
つの節に分かれている。まず、レヴィナスが「世界内存在」から着想を得て展開した「わ
が家にある私」の議論を確認する(第一節)
。次に、『存在と時間』を繙きつつ、「本来的な
在り方」についての規定を確認する(第二節)。その後、レヴィナスによる「本来的な在り
方」への批判を確認したのち(第三節)、「私固有の在り方」が特権的に成立するとレヴィ
ナスが考えた、他者との(倫理的)関係の内実を探る(第四節)
。
第一節では、レヴィナスが自我の基本的な在り方として提示した「住まい」の議論を確
認する。
「住まい」とは、ハイデガーの「周囲世界」同様、存在者たちがそこで「適所」を
得る場であり、そこには、
「私」を起点とする有意味性の秩序が広がる。この「住まい」の
内に在る自我の在りさまを、レヴィナスは「エコノミー的な在り方」と呼ぶ。
第二節では、ハイデガーの「本来的な在り方」を巡る議論を簡潔に再構成する。ここで
確認しておくべきは、「本来的な在り方」が、「不安」を経験した現存在が自らの行為を自
覚的に選択し、世界の有意味性を新しく切り拓く現存在の在りさまを指すという点である。
第三節では、この立論に対するレヴィナスの批判を再構成する。その批判は、「私」を取
り巻く世界の有意味性が全く失われた状況(=不安)で、現存在はいかにして「私」の自
己同定を遂行するのか、というものである。
レヴィナスは、ハイデガーが陥ったこの困難が「身体の軽視」に由来すると考えている。
というのも、身体を通じて外界に曝されることで、その主体は、何らかの感覚を受容する
........
以上に、自分がいまここに、身体を持ってあるという理解を形成するからである。ハイデ
ガーは、身体を軽視することで、
「不安」の現存在が新たな行為の起点とするはずの「ここ
にいるこの私」を同定する根拠を見失ったのである。
レヴィナスのこの認定は、
「不安」を巡る議論への批判という形をとってはいるが、そも
そも人間が身体を持っていることは、現実に行為を遂行する上で欠かせない要素である。
存在者が得ている「そこ」での「適所性」は、行為者が身体を持っている「ここ」から測
られるからである。
以上の議論はしかし、ハイデガーの「本来的な在り方」ならびに周囲世界分析に対する
批判に留まる。本発表の最終節では、レヴィナス自身がその分析に力を注いだ、他者との
倫理的関係を、
「私」の固有性を際立たせる経験として再構築することを試みたい。
さて、レヴィナスによれば、
「絶対的な他者」との関係は、第一節で確認した意味で、な
おも「エコノミー的」である。というのも、身体の「ここ」を原点とする住まいを生きる
..
「私」が「他人 l’Autrui」と関係するとは、
「私は世界がこのようであると理解して行為す
る」という、世界についての理解を他者に正当化する(=弁明する)義務を負うことだか
らである。
言語活動を通じてなされる、他者との「正当化の争い」のなかで、ある極端な仕方で、
「私」
.
は自らの個別性に繋ぎとめられる。というのも、
「住まい」の中にある存在者についての私
.
..
..
の信念を、他者を説得する私の主張として、他者の問い質しに堪え得るような仕方で私が
正当化しなければならないからである。
他者との関係のただ中で、自我は「他でもなくこの私が」という「私」の個別性を引き
受けなければならない。それは、特権的な仕方で「私」の個別性が際立たせられる経験な
のである。以上が、レヴィナスが提示する「私固有のあり方」である。最後に紙幅が許せ
ば、上記の身体以外の論点から、これをハイデガーの議論と正面から「対決」させたい。
ハイデガー・フォーラム第 10 回大会
応募発表要旨4
(特集:レヴィナス)
「被投性」か「繁殖性」か
――レヴィナスのハイデガー批判はそもそも何を狙っていたのか――
2009 年からはじまった『エマニュエル・レヴィナス著作集』の公刊は、これまでのレヴ
ィナス哲学(とりわけ『全体性と無限』にいたる時期までの)の理解に対し、いくつもの
修正を迫るように思われる。第二次大戦中に書かれた「捕囚手帳」(第一巻所収)には、自
らの「なすべき仕事」が「存在と無」および「時間」の問題であると述べつつ、
「現存在か
ら出発するか、J から出発するか」という選択を自らに迫る若きレヴィナスの姿が認められ
る。「J」は存在範疇としての「ユダヤ的存在」を指しているが、そのことはともかく、そ
こに読みとることができるのは、後年の著作から惹起されるような「顔」の「倫理」の立
場からの存在論批判ではなく、ハイデガー哲学の根本的な意義を認めつつ、
『存在と時間』
の思想を、出発点を挿げ替えるかたちで書きなおすというレヴィナス自身の企てであるよ
うに思われる。もう一つ特筆すべきは、レヴィナス哲学の代名詞というべき「他者」とい
う発想はこの時期にはまだ現れておらず、その代わりに、『全体性と無限』第四部を彷彿さ
せるようなかたちで「エロス」の問題をめぐる哲学的考察が展開されていることだ。
もし、レヴィナスが温めていたそもそもの哲学的な企図が、ハイデガーとは別の仕方で
「存在」と「時間」の問題にとりくむことであり、なおかつ同時に「エロス」の問題にも
並々ならぬ関心を抱いていたのだとすれば、レヴィナスにおけるハイデガー理解(ないし
批判)という問題は、
(既刊著作と未公刊資料を読み合わせつつ)上のような視角から捉え
るべきではないか。これが本報告の基本的な立場である。
なかでも焦点を絞るならば、本報告の主題は、一言で言えば、ハイデガーにおける「被
投性」および「死」をレヴィナスがどのように捉えたかにある。もう少し具体的に言うと、
「被投性と〔…〕
「死に臨む存在」との統一態において、誕生と死とはすでに現存在的な「連
関」を形作っている」
(SZ, 374)と述べつつ現存在の「時間性」ないし「歴史性」の問題を
提示してゆくハイデガーに対し、レヴィナスがどのように応答するかということである。
そもそもこの問題へ応答を試みることこそが捕囚期から『全体性と無限』にいたるレヴィ
ナスの究極的な課題となっていたということが本発表で示したいことではあるのだが、そ
こにいたるまでの論点を分節化すると次のようになる。
第一に、現存在の具体的、事実的存在様態としての「被投性」という問題は、レヴィナ
スにとって、三〇年代初頭から、ハイデガー存在論のフランスへの導入に際しても、そこ
から自身の哲学を練り上げる段階に入っても、きわめて重要な主題となっていた。
第二に、レヴィナスの「被投性」理解の特徴は(『実存から実存者へ』を経て『全体性と
無限』にいたるまで)
、これを déréliction という否定的な価値評価を含む仏語で訳す点にあ
る。これは、単に世界に投げ入れられているだけでなく、「遺棄されている」、(とりわけ神
的存在から)
「見捨てられている」という意味を含む訳語であるが、そのような訳語の選択
はけっして中立的なものとは言えず、その意義を検討すべきであろう。
第三に、「捕囚手帳」から、同じく『著作集』第一巻所収の「哲学雑記」(主に五〇年代
に執筆されたメモ)へと続けて読解してゆくと、「被投性」の問題に対し、「創造」や「父
性」が対置されるのが認められる。
「私」は「父」なるものによる「選び」により「創造」
されている――読者をしばしば面食らわせるこうした比喩的表現も、そもそも事柄としては
(いわば「偶然」的「はじまり」とも言いうる)
「被投性」という考えと対置されるかたち
で考案されていたということは一考に値しよう。こうした挙措は、上に引用したようなハ
イデガーの言う「誕生と死」との連関を、「被投性」ではないしかたで考えようとするレヴ
ィナス自身の試みの一環とみなすことができると思われる 。
第四に、こうした試みは、ほかならぬ「エロス」(および「繁殖性」)を主題とする『全
体性と無限』第四部にいたって一定の理論化が与えられる。そこにこそ「生」と「死」と
の「関連」
、さらには「死」を超えた「歴史」の問題について、まさしくハイデガーとの格
闘のなかで、しかしそれとは別の基盤から論じるというレヴィナスの企ての眼目が示され
ているだろう。この点を示すことが本発表の最終的な目的である。ちなみに付言すれば、
そうだとするとレヴィナスの「繁殖性」という考えを、ハイデガーが「民族」の「歴運」
と述べたものとの関連で捉えなおす視もそこから開かれるように思われる。