真田丸 20

岩 櫃 城 周 辺 図
至渋川
岩櫃城温泉
くつろぎの館
群馬原町駅
役場
観光協会
柳沢城
観音山
不動沢
大戸口
バンジョウ
不動堂
不動滝
コニファーいわびつ
番匠坂
案内板
北の木戸
平沢一本松
岩櫃神社
50台
東の木戸
新井
登山口
至岩下
西の木戸
二の丸
天狗の架け橋
櫃の口
鷹ノ巣遺跡
中城
川戸神社
通り
あ
と
東吾妻町
東吾妻町観光協会
定
放映決
岩櫃城跡
十二様通り
(真田
国道145号
切沢
(霧沢)
潜竜院跡
案内板
古谷
集会所
10台
郷原城
線
じ ょ う
殿邸
妻
つ
岩櫃山
(802m)
密岩通り
赤岩通り
吾
び
本丸
JR
わ
2016年 NHK大河ドラマ
い
真田丸
真田氏上州の拠点
通り
尾根
道)
沢
商店
郷原駅
至長野原
郷原
!!
厚田
至高崎
至榛名湖
要害地区略図
岩櫃城は岩櫃山(標高 802 m)の中腹東面に築かれた中
ほど行った所を端としています。この東西を両端とする北東
世の山城です。頂上より約 200 m下がった場所(標高 593
方面へ 1.9km 延びる尾根線上に主たる遺構があります。南
m)に本丸・二の丸・中城があり、この場所を中心に広い範
側は切沢の谷を自然の堀にして南西の境とし、南東側は岩櫃
囲を城域としています。また、近くに2つの支城、北東側に
山の山裾の斜面を壁面として、さらに吾妻川を自然の堀に活
柳沢城と岩櫃山南側に郷原城を持っています。通称番匠坂を
用し、限界としていると考えられます。北側は不動沢が境界
東端とし、西側は本丸のある中心地から距離にして 400 m
線となっています。
東吾妻町役場地域政策課
〒377-0892 群馬県吾妻郡東吾妻町原町594-3 TEL.0279-68-2111 FAX.0279-68-4900
http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/
東吾妻町観光協会
〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町626-2 TEL・FAX 0279-70-2110
http://www.tohgoku.or.jp/~aysk/
吾妻氏、真田氏の歴史舞台。武田領内の三名城
岩櫃城の歴史
岩 櫃 城 は、 年 代 は 定 か で は あ り ま せ ん
が、 南 北 朝 の こ ろ 築 城 さ れ た と 考 え ら れ
て い ま す。 城 郭 の 規 模 は 一 三 六 ㌶ と 上 州
最 大 規 模 を 誇 り、 後 に 甲 斐 の 岩 殿 城、 駿
河の九能城と並び武田領内の三名城と称
さ れ ま し た。 こ の 城 の 城 主 と し て 最 初 に
名 前 が 出 て く る の が 吾 妻 太 郎 行 盛 で す。
行 盛 は 南 北 朝 時 代、 南 朝 方 の 里 見 氏 に 攻
岩櫃城落城伝説
貞和五年︵一三四九︶、ときの城主は吾
妻 太 郎 行 盛、 敵 は 里 見 義 時︵ 兵 庫 と も い
関越自動車道
上越新幹線
渋川駅
高崎JCT
信越本線
碓氷・軽井沢IC
岩櫃城破却
だと言われています。
福 寺 の 五 輪 塔︵ 町 指 定 史 跡 ︶ が 行 盛 の 墓
高崎駅
渋川・伊香保IC
のときの滝は米を落として滝に見せかけ
取、 落 城 は 時 間 の 問 題 と な り ま し た。 こ
を 断 と う と 里 人 を 味 方 に 付 け、 水 口 を 奪
と 思 わ れ て い ま し た。 そ こ で 里 見 は 水 口
の人出があったことを徳川家康が不審に
口付近から貯水池付近︶に市が立ち、多く
︵一六一四︶に城下の平川戸︵現在の登山
江 戸 時 代 の 文 献 に よ る と、 慶 長 十 九 年
が 滝 と な っ て 流 れ 落 ち、 城 中 の 水 は 十 分
れ た 名 城 岩 櫃 城、 し か も 岩 の 上 か ら は 水
岩櫃城が壊されたのは一国一城令に
よ る と こ ろ が 大 き い と 考 え ら れ ま す が、
う ︶。 要 害 の 地 を 利 用 し 難 攻 不 落 と い わ
高崎IC
北関東自動車道
前橋駅
北陸新幹線
き 自 ら の 首 を 切 り、 対 岸 め が け て 投 げ つ
切 り 立 原 河 原 の 露 と 消 え ま し た。 こ の と
ました。行盛は大石にとび上がり腹をかっ
り、 敵 陣 を 突 破 し、 吾 妻 川 立 石 河 原 へ 出
で ⋮⋮ と 行 盛 は 討 っ て 出、 東 側 斜 面 を 下
て い た と 言 わ れ て い ま す。 も は や こ れ ま
といいます。
櫃山中腹の子持岩を結んだ直線上とした
︵原町の大ケヤキ︶
﹂︵国天然記念物︶と岩
割 り の 起 点 を 原 町 の 東 端 に あ る﹁ 槻 の 木
移 転 し た と い わ れ て い ま す。 こ の と き 町
を 壊 し 城 下 町 を 観 音 原︵ 現 在 の 原 町 ︶ に
思 っ た こ と を 知 っ た 真 田 信 幸 は、 岩 櫃 城
の 城城
城 と な っ て い ま す。 そ し て、 幾 多 の ド
幸の叔父矢
矢矢矢 沢 頼 綱 が 城 代 と な り、 信 幸 方
方 に 分 か れれれれれ
れ ま し た。 こ の と き 岩 櫃 城 は 昌
慶慶慶慶慶 五五年年年年年
慶長五年︵一六○○︶、関ヶ原の戦いで
は、 昌 幸
幸幸︵ 西 軍 ︶ と 信 幸︵ 東 軍 ︶ は 敵 味
岩 登 山山
山 口 近 くくく
の 御 殿︵ 赤 岩岩岩岩
くに潜竜院跡とし
南南南南南 側側側
側 に 勝勝勝
国 し、 岩 櫃 山 の 南
勝頼を迎えるため
れ ま ししししし
し たたた
を 提 案 し て 許 さ れれれれ
た。 昌 幸 は 急 ぎ 帰
田の再挙を図ること
勝 頼 を 迎 え 入 れ、 武 田田
上上上、
、、 真 田 昌 幸 は 岩 櫃 城 に
し た。 軍 議 の 席 上
天 正 十 年︵ 一 五 八 二 ︶ 三 月、 武 田 勝 頼
は 織 田・ 徳 川 の 連連連
連合軍に攻められていま
明治十七年にその護摩堂が原町顕徳寺の
あ る 根 津 潜 竜 院 と 称 し て 明 治 に い た り、
れ ま す。 急 造 さ れ た 御 殿 は 昌 幸 の 一 族 で
立場に置かれていたことも十分に推測さ
岩櫃城は戦乱の舞台として時代の中心的
の と き に 勝 頼 が 吾 妻 に 赴 い て い た な ら ば、
わ ず 天 目 山 で 自 刃 し て し ま い ま し た。 こ
ラマ
マママ の 舞
舞舞 台
台台台台台台 と な っ た 岩 櫃 城 も 徳 川 家 康 が
本堂となっています。
現在の本堂は一部修復してあるが、明治当時のもの。
顕徳寺本堂
まますすすす
す。。
すすす
。︶をををををを
を三日間で造りました。
て残っていま
武田勝頼を迎えようとした御殿跡︵潜竜院跡︶
︵現在の川戸神社︶で、岩井地区にある長
け ま し た。 そ の 首 を 祀 っ た の が 首 宮 明 神
原町市街から子持岩がまっすぐに見通せ、槻の木と
を結んだ直線を町割りの起点としたことがよくうか
がえる。
められ吾妻川原において自害したという
ぐんま
ごうばら はらまち
藤岡JCT
上信越自動車道
「槻の木から子持岩を望む」
伝 説 が あ り ま す。 そ の 後 行 盛 の 子 千 王 丸
︵斉藤越前守憲行︶が北朝方の上野守護上
杉憲顕氏の支援によって岩櫃城を奪回し、
その子孫が戦国時代までこの城を本拠と
して東吾妻を支配しました。
永禄六年︵一五六三︶、武田信玄は上州
侵 略 の た め、 家 臣 真 田 幸 隆 に 岩 櫃 城 攻 略
を 命 じ ま し た。 と き の 城 主 は 吾 妻 太 郎 行
盛より数えて六代目の吾妻太郎斉藤越前
守 憲 広︵ 基 国 ︶ と い わ れ、 堅 城 を 利 し て
奮 戦 し ま し た が、 つ い に 落 城 し て し ま い
ま し た。 こ う し て 岩 櫃 城 は 武 田 氏 の 手 中
に 落 ち、 信 玄 は 幸 隆 に 吾 妻 郡 の 守 護 を 命
じました。
天正二年︵一五七四︶に幸隆が世を去り、
岩櫃城主には長子の信綱が収まりました
が、 翌 年、 長 篠 の 戦 い で 信 綱、 昌 輝 兄 弟
が 戦 死 し た た め、 真 田 家 は 幸 隆 の 三 男、
昌 幸 が 相 続 し ま し た。 そ の 後、 昌 幸 の 長
男 信 幸 が 支 配 し、 信 幸 の 弟 幸 村 も 少 年 時
代をこの城で過ごしたと言われています。
天正十八年︵一五九○︶
、北条氏が滅亡し、
一度北条氏の支配下に置かれた沼田は再
び 真 田 氏 の 支 配 下 と な り、 信 幸 は 初 代 沼
田 城 主 ととととと
と な り ま し た。 岩 櫃 城 は 沼 田 の 支
東吾妻町
戦国の歴史を刻む岩櫃城
本丸下に延びる長大な竪堀。幅も広く、規模の大
きさが伺える。
西の木戸と対応し、城下町の東端を固めてい
た。
軽井沢駅
群馬県の西部に位置する吾妻の地は自然景勝に富み、多くの名所・旧跡が点在しています。
「本丸下竪堀」
「東の木戸」
JR吾妻線
中でも特にすぐれた八ヵ所は吾妻八景と呼ばれ、広く観光客などに親しまれています。
真田宝物館蔵)
大前駅
東吾妻町の北東にそびえる岩櫃山︵標高八○二メートル︶は吾妻八景を代表する景勝地として知られています。
このほかに西面図があり、岩櫃城に関する文献資
料としては極めて少ない中の1つ。
岩櫃城跡
発したたたた
た一一一
一国
国国国国一城令︵元和元年︹一六一五︺︶
ててててて 吾
吾吾吾吾吾 妻 郡 統 治 の 中 心 地 と し て の 役
城として
中央が吾妻太郎の墓で両隣が夫人と臣下の墓と言わ
れている。
頼 はははは
は 吾吾吾吾吾
吾 妻 の 地地地地
し か し、 勝 頼頼頼
地に来ることかな
ししました。
割を果たし
長福寺の五輪塔
潜竜院跡
に よ り、 四四四四四
四 百 余 年 の 長 い 歴 史 を 残 し、 そ
25 m× 15 mの建物の土台状の遺構があり、展
望台、指揮台を兼ねての中枢部と考えられている。
参考資料:「岩櫃城跡保存整備計画報告書」東吾
妻町教育委員会
の姿を消
消消消消消し
しししししました。
岩櫃城本丸跡
本丸下の鉤の手状に折れる竪堀。折れを設けるこ
とで高い防御力を有する。
この山の中腹に吾妻の歴史舞台となった岩櫃の城跡があります。
「上州吾妻郡岩櫃古城之図」
(長野県長野市立