後藤静香詩集 「何処(いづく)よりか」 より 貫行 なんでもいい 善と信じた

後藤静香(ごとうせいこう:男性)という明治・大正・昭和を生きた詩人の詩が目にとまりました。
平成27年は,生誕131年目になります。その一部を紹介させていただきます。
1884(明治 17 年)~1969(昭和 44 年) 大分県生まれ。東京高等師範学校数学専修科を卒業後,大分高等女
学校,香川女子師範学校で女子教育に従事する。教員時代に中学入試の参考書「算術倶楽部」を出版,ベス
トセラーとなる。教師として 13 年勤務。その後上京,社会教育に身を投じ 50 年,「点字の普及」「ハンセ
ン病患者救済」「エスペラント運動」「老人福祉」「アイヌ救済」「現代仮名遣いの普及」などを行った。
1969 年,85 歳で東京に没した。現代でも長嶋茂雄や松坂大輔のように,彼の残した格言を愛する人は多い。
後藤静香詩集 「何処(いづく)よりか」 より
何処よりか
こころ暗く
与えよ
貫行
報いを求めず、ただ与えよ
なんでもいい
涙にくれたるとき
与えても与えても残りがある
善と信じたことを
いずくよりか声あり
与えることだけに努力せよ
ただ一つでも続けてみよ
まだ用事がある
反対に
何が続いているか
お前の中に力がある
与えられ与えられて
三年
お前は強くなる
いくらでもふえてくる
五年
お前を要する者がいる
与えつくす積もりで
十年
さめて
与えてみよ
続いたことが幾つあるか
夢ならぬ夢に奮いたつ
死ぬまでかかっても
一事を貫きうる力が
与えつくせぬ豊富におどろく
万事を貫く
本気
大したこと
支える力
本気ですれば
活かしきった一生からは
いのちをかけて
たいていの事はできる
大したことができる
仕事を
してみよ
本気ですれば
深い井戸の水のように
なんでも面白い
くめばくむほど湧く
死なないことに
おどろく
本気でしていると
雪だるまのように
だれかが助けてくれる
ころがせばころがすほど
かれは弱い
大きくなる
しかし
人間を幸福にするために
本気で働いているものは
何ほどのことも出来ないのは
かれを支える力は
みんな幸福で
完全に
つよい
みんなえらい
活かしきらぬからである
今のままで
激励の声
お前は
立て
たしかに生まれた
この手にすがれ
見方
人生は面白くないという
面白くないことばかり
何のために生まれたのか
失敗しても
探しているのだもの
全部が消滅してはいない
お前は
たしかに生きている
人生は思い通りにならぬという
こまらなくていい
行けるところまで行け
万人の思い通りになったら大変だ
失望するな
人間はわるいもの
世界はひろい
つめたいものという
何をすればよいのか
お前は
たしかに死ぬ
今のままで
わるいところ
立て
つめたいところばかりに
うしろに強いものがいる
ふれているのだもの
死んでもよいのか
これがために
たしかに生まれた
必要だからだ
たしかに生きている
永久
腹のたつときでも
憎まれても
永久という問題に思い及ぶと
憎みかえすな
のんびりする
果たして罪すべきものならば
まだ用事があるからだ
「われこれがために生まれたり」
はっきりと
どんな悲しみも
自然の罪が課せられる
永久にはつづかない
どうされても
そう言いうるものを
つかんだか
許すもの
永遠の生の中に
愛を以てわが道をゆけ
ゆったりとした歩みを運ぶ
寛容
前途の無限が
憎むものは
人間を大きくする
自ら苦しみ
何の権威で誰を責むるか
人間としてはごうまんすぎる人間
責むる言葉を自己に当てはめよ
時がある
自分に許されたい事があるならば
言いたいことはある
誰をも心から許すがよい
しかし
人のあやまちを思うとき
言ってはならぬ時がある
その一切がわたしにある
したい事がある
種をまくにも時がある
どうして誰を責められよう
しかし
刈り入れるにも時がある
「許す」という言葉さえ
してはならぬ時がある
人間としてはごうまんすぎる
種をまくにも時がある
いかりを含んで責むるとき
刈り入れるにも時がある
その罪、死に値いする
許すものは
心常に平かなり