WIJC150308誰を救うため?

●時:2015
●時:2015 年 3 月8日 ●題:「救い主として来られたお方:誰を救うため?」
●聖書:イザヤの預言書
●聖書:イザヤの預言書 53 章1-6節
章1-6節
序
論
●「キリスト教」と言うと最初に浮かぶイメージは、多くの人にとって大きく言って次の二つであろう。
1.一つは、クリスマスのイメージ
一つは、クリスマスのイメージである。
クリスマスのイメージである。飼い葉おけに寝かされているイエス様のイメージ、それ
をじっと見守る両親マリヤとヨセフのイメージ、イエス様を拝みに来た羊飼いたち、東方からき
た博士たちと呼ばれる人々の来訪と礼拝のイメージである。
2.しかし、もうひとつのイメージ
もうひとつのイメージは、
イメージは、その正反対のイメージである。即ち、イエス様の生涯の最期
のイメージである
のイメージである。それは、イエス様と弟子たちの最後の食事のイメージ、イエス様の十字架の
イメージ、イエス様の死からの復活のイメージである。
●キリスト教信仰にとっては、どちらが中心で、重要なメッセージなのか?と言う疑問が起こる。
1.イエスキリストが、この地上に生まれて来たという「誕生」の事実が重要か、それとも、
2.十字架で死んで、3日目に甦ったという、イエス様の「死と復活」の事実の方が重要か、
3.それとも、両方とも同じ程度に重要なのか?
4.世の中の判定は、明らかに「クリスマス」である。クリスマスのイメージの方が、はるかに人々に
とっても魅力的であり、商業的に言っても、お金になる重要なイメージである。
●しかし、聖書からの答えは、後者、イエス様の「死と復活」が中心であり、最重要事であると言う。
1.即ち、イエス様は確かに歴史上の事実として(おとぎ話しとしてではなく)、この地上に生まれた。
2.即ち、イエス様は、そのことによって、「私たちと同じ人間になられた」(このことは来週、もっ
と詳しくお話しすることになる)。
3.しかし、それはすべて、彼が、私たちの罪を背負うために、十字架で死ぬためであったと言う。
4.即ち、イエス様は死ぬために生まれたのである(普通は「生きるために生まれる」のであるが)。
●聖書が、イエス様の生涯において、その誕生より、むしろ、その死にフォーカスをあてていることは
次の事実からも明らかである。
1.まず第一に、聖書の直接・間接の表現・主張から明らかである。その良い例は、
(1)Ⅰコリント 15 章3-4 節である。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私
も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のた
めに死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って、3 日目に甦られたこと、またケ
パに現れ、それから 12 弟子に現れたことです。」
(2)マルコ 10 章 45 節「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであ
り、また、多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです。」
2.第二に更に興味深いことは、イエス様の 33 年間の生涯の記録とも言える4「福音書」が、イエス
様の最期の部分をその誕生の記事より遥かに長く、細かに扱っていることである。
(1)そもそも「誕生」の記事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書全部が扱っているのでは
ない。イエス様の「誕生」を直接的、歴史的に記しているのはマタイとルカの2つだけである。
(2)マルコとヨハネは、ヨハネの「まことの光があって世に来ようとしていた」「言葉は、人となっ
て私たちの間に住まわれた」などの抽象的なイエス様の来臨を告げる数節の表現を除けば、完
全に「誕生」の記事をスキップして、いきなり 30 歳のイエス様から始めている。
(3)しかも、その誕生の出来事を記しているマタイ、ルカの福音書にしても、せいぜい 2 章をそ
のために使っているだけである。
(4)しかし、それがイエス様の死と復活の問題になると全く違うことを発見する。
★4 つの福音書の「全部」
全部」が、十字架と復活を含めたイエス様の地上生涯の最後の 1 週間を記
している。
★しかも、相当な長さと詳細・克明さをもってである。4 つの福音書がイエス様の地上生涯
の最後の一週間、その死と復活等について割いている章の数を見るとそれが分かる。即ち、
それは、時間的に言うと、33 年の内のわずか約 1 週間の出来事である。しかし、
マタイの場合は、全 27 章の内、7章、
マルコの場合は、全 16 章の内、6章
1
ルカの場合は、全 24 章の内、5 章 ヨハネに至っては全 21 章の内 10 章(約半分)
★全体からいうと、全 88 章の内、28 章、即ち 32%、3分の1が、実に、イエス様の最後
の一週間と言えるイエス様の死と復活の記事のために割かれている。
★即ち、福音書全体の構成から言っても、イエス様の死と復活がキリスト教信仰の中心メッ
セージであることを伝えているのである。
●そこで、今日から、今年の「イースター(復活祭)」である「4月5日」にかけて、このキリスト教信仰の
最重要事である「イエス様の死と復活」についてのメッセージをいただく計画である。
●特に、今日から3回のメッセージは、イザヤ53章の預言から、「十字架にかかられた救い主イエス
様」について学び、メッセージをいただきたい。
●今日のテーマは、イエス様は、一体「誰を」救うために生まれ、生き、十字架にかかられ、死なれたの
かである。聖書の焦点は、イザヤ書53章6節である。「私たちはみな、羊のようにさ迷い、おのおの、自
分かってな、道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼(イエス様)に負わせた」。
●一体イエス様は「誰のために」死なれたのか?! 「羊のようにさ迷」っている「私たち」のためである。
●私たちは、イエス様に出会うまで、イエスさまによって救われるまで「さ迷える羊」であった。そのさ
迷える羊である私たちを救うためにイエス様は来られたのである。
●分かりきったことと思うかもしれない。しかし、この分かりきったことが、私たちの魂にもう一度し
み込み、私たちの歩みと人生の何かが変わり始めることが、今日のメッセージの目的である。
本
論
Ⅰ.今日最初に見たいことは、「迷える羊」と言うイメージの背後にある「基本的」な聖書のイメージについてである。
A. そのために、まず3箇所、聖書を見ていただきたい。
1.詩篇 100:3
2.詩篇 23:1
3.ヨハネ 10:14
4.Ⅰペテロ2:25
1.神様は「羊飼い」で、私たち人間は「羊」であると言うイメージである。
2.上述したように、聖書は、旧約聖書から新約聖書に至るまで、この羊飼いと羊のイメージを
用いて、神様がどのようなお方か、人間がどのような存在かを如実に語っている。
1. 羊飼いが羊のすべてを知っているように、イエス様も私たちの何もかもを知っておられる。
(1)イエス様は、ヨハネの 10 章2-5、14 節で、羊飼いは一匹一匹の羊を知っていると指
摘された。「・・・・」
(2)羊飼いは、羊たち、一匹一匹に「名前」を付けて彼らを知っていた。「十把ひとからげ」に
「羊たちよ。集まれ」ではなく、一匹一匹の名前を呼んで彼らを集め、点呼したのである。
(3)それは、大学の大講義やセミナーで先生が名前を呼んで出席を取るのとは違っていた。そ
のようなクラスでは、先生が生徒をよく知らないので「代返」しても分からない。
(4)むしろ、それは、幼稚園の先生が、クラスの子供たち一人一人を知っているようであった。
(5)でも、そんな先生でも、その一人一人が卒園して行くとともに、ごくわずかな目だった生
徒を除いては段々とその子たちのことを忘れていくであろう。
(6)しかし、私たちの羊飼いであるイエス様は、たとい世界に 70 億以上の人たちがいても、
その一人一人を、幼稚園の先生が、クラスの一人一人の生徒のことを事細かに、その性格
も、そのくせも、何もかも知っている以上に、私たちのことを知っていて下さるのである。
(7)しかも、幼稚園の先生でも、それらの生徒のことを段々と忘れていくが、イエス様は、私
たちのことを永遠に忘れることはない。
(8)最近、「子供が一番使う言葉とは何か?」についてこんな話を聞いた。それは「見て、見て」
だそうである。それは「私のことを知って」と同じ叫びである。
(9)今この瞬間、世界中の幼子たちが、子供たちが、ティーンエージャーたちが、若者たちが、
中年の大人たちが、お年寄りが、みんな「私を知って」と叫んでいる。でも、それが叶わず
皆が孤独の中にいる。それができるお方は、「真の羊飼い」であるイエス様だけである。
B.これらの言葉を通して聖書が私たちに教えていることは、譬えて言うなら、
C.それでは、聖書は、どんな意味で、神様・イエス様は羊飼いのようなお方だと言っているのか?
2
2.イエス様は、羊飼いが羊たちにベストの牧草地、水飲み場、憩いの場へと導くように、
(1)私たちを、それぞれにとって、人生の最善の場所へと導き、必要な霊肉の食べ物を与え、
憩いの場所、即ち、励まし、慰めを与えてくださる。
(2)ダビデも人生を振り返りそのことをしみじみ感じて詩篇 23:2-3節を書いたのである。
3.イエス様は、また羊飼いが羊を命がけで守るように私たちの霊肉を悪の手から守って下さる。
(1)詩篇 23:4-5 はそれを語っている。
(2)それは、またヨハネ 10 章 11 節でイエス様が言われたことである。「私は良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と。
4.古代中近東地域で発見された古代文書によると、その地域の「理想的な王様」のイメージは
「良き羊飼い」であったことが分かる。それは強さとやさしさを兼ね添え、また忍耐深く、ベ
ストの知恵と知識をもって民衆を導き、支え、守り、幸せへと導びく王の姿であった。
1.私たちと羊の第一の類似点は「弱い」ことである。
(1)羊は、その体に敵を攻撃するに使えるような部分がない。攻撃に仕えるような角も、牙
も、爪もない。
(2)羊は、自分を守るものも持っていない。特に逃げるための早い足もない。まったくバル
ナブルで、敵に対してまったくと言って無防備な状態である。
(3)それは、また私たち人間の姿である。私たちは頭があるから、頭を使い、色々な自分を
守ったり、自分から敵に攻撃をしかけることのできる様々な道具や器械を作ってきたので、
自然界に君臨しているかのように思うが、果たしてそうだろうか?
(4)ある人は冗談のように「今世界大戦争が起こったら、最後に生き残るのは蛆虫だ」と言う。
(5)かつて室温は 18 度が適温だった気がする。今は 24 度。人間の肉体は文明の発達と共
に、どんどん甘やかされ、弱くなっている。私たちを守っている文明の世界が壊され、自
然界に放り出されたら、一番最初に滅びるのは人間であろう。
(5)人間は肉体的に弱いだけではない。精神世界はなおのことである。人間は誘惑に弱い、
試練に弱い。教養も、家柄も、教育もこの弱さをカバーできない。みな等しく弱い。
(6)しかも、その弱さが、文明の発達と共に、皮肉にも最近どんどん増して言っているよう
に感じる。確かに世の中は複雑になってきているが、昔の青年たち(特に江戸時代末期に
輩出された有為な人物たちを思い起こす)の方が、その優秀さだけでなく、遥かに、忍耐
強く、苦難に耐える精神力、物事を成し遂げる精神力があった(アジアの未開発国の若者
たちにも同じことが言えるであろう)。しかし、今はすぐに落ち込む、すぐに切れる。
(7)いずれにせよ、人間は羊のように弱いのである。
2.第二の類似点は、遠くが見えず、迷い易いことである。
(1)羊は「近視」だそうである。それゆえ、しばしば羊飼いを見ず、目の前にいる羊のお尻に
目をつけ、それについて行く。それで前が迷うと一緒に迷うということも多いそうである。
(2)私たち人間もそうである。遠くが見えない。先が見通せない。だから「現実」と言う名の
下に、目先だけを見つめてしまい、返って失敗をする。
(3)だから聖書は言う。ヤコブ4:13-15「・・・・」と。
(4)先が見えないからこそ、先を見るために羊飼いであるイエス様を仰げば良いのに、羊が
そうするように前の羊についていくことを安全だと思い、一緒に迷ってしまう。
(5)日本人は特にそうである。「みんながやるから、私もする」。「イエス様が言っているから、
真理である」ではなくい、「みんながするから真理になる」のである。
(6)羊のように、周りに、人に振り回されやすく、迷い易い、それが人間である。
D.それでは、次に、どのような意味で、私たち人間は羊なのか?
Ⅱ.それでは、羊である私たちが、「さ迷う」とはどういう意味か?
A. このことを考えるために、聖書の実例をここに引用したい。それは、ルカの福音書 19 章の 1-10 節に登
場するザアカイの人生である。
1.ザアカイは、富裕な町として知られたエリコという町の収(取)税人の頭、今で言う税務署の
署長であった。即ち、それ相当な地位を得た人物であった。
3
(1) もっとも当時のユダヤの税務署の役人である取税人は、しばしば悪徳な人物として、軽
蔑されていた。
(2) いずれにせよ、税務署の署長として、彼は言うまでもなく、大金持ちでもあった。
(3)しかし、彼は「背が低い」というコンプレックスをもっていたようである。聖書はこのよ
うに言う。「(彼は)イエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので群衆のため
に見ることができなかった」(3)と。
(4)これらから彼の生涯をまとめてみると:
●彼は幼い日から、背のコンプレックスのために馬鹿にもされたであろう。昔からユダヤ
でも、サウルを王として選ぶとき、或いは、ダビデのときにもそうであったが、やはり
人々の目は、リーダーとして仰ぐ人に「背の高さ」と言う魅力を求めたようである(今の米
大統領戦でも、候補者には無意識の内にも背の高さが求められていると言う)。というこ
とで、彼の低さは出世の妨げにもなったであろう。
●それを克服するべく、彼は一生懸命働き、努力した。取税人という人々に嫌われる仕事
を選んだのも、結局、何だかんだ言っても、「人の幸せは最後はお金で決まる」と思った
からであろう。
●そして、彼はその道で大成功を収めた。エリコという大きな町の取税所のトップの役人
となったのである。
(5)一言で言うなら、彼は長い間の念願がかなって、今や成功者となっていたのである。自
分のしてきたことは、間違いなかったと誇り、満足しても良かった。
2.しかし、そんなザアカイのこれまでの生涯をご覧になって、イエス様は、
(1)「成功したね。良かったね。よく弱さや劣等感を克服してここまで来たね。それで良いん
だ。それがこれから実を結ぶよ」と言う評価をなさらなかった。
(2)むしろ、イエス様は、ザアカイのそれまでの生涯を、「失われた」生涯と言われたのであ
る。即ち、ルカ 19 章 10 節で「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」と。
(3)ここで言う「失われる」とは、決して存在が「無くなった」という意味ではない。それは、
英語で”I am lost”と言うように、「迷っている」と言う意味である。
(4)即ち、イエス様はここでザアカイは、イザヤ 53 章 6 節のように、「羊のようにさ迷って
いる」と言われたのである。
3.それは、ザアカイ自身も感じていたことであった。
(1)目当てにしていたものを手に入れた。地位も、金も。しかし彼の心は空虚で空しかった。
(2)「私の人生はこれではいけない。何かが欠けている」。そう思ったからこそ、彼は、それ
まで、金の亡者として、心のこと、宗教のこと、信仰のことなど、およそ考える人ではな
かったのに、あの日イエス様をどんな方か、一目見たくて、町に出てきたのである。
(3)しかも、それは、単なる興味本位やひやかしではなく、実に真剣なものだった。だから
こそ背が低いために人垣で見えないと分かったとき、諦めなかったのである。小走りに前
方に進み、大の大人が木によじ登ってでも、イエス様を見ようとしたというのである。
(4)それは、彼が自分が「失われている」存在であることを既に深く自覚していたからである。
1.まず、失われるとは、「いなくなる」ことではない。
(1)私たちの存在が無くなることではない。私たちは、なおそこにいるのである。ザアカイ
は、そこにいたのである。いなくなったのではない。
(2)だから外から見ただけでは、失われているかどうか分からないのである。ザアカイも外
から見たら、彼が失われている人であるかどうかは分からなかった。
2.また、失われるとは、「貧しい」ことや、「貧弱さ」を必ずしも意味していない。
(1)ザアカイは地位もあった。お金もあった。財産もあった。有能さもいっぱい持っていた。
経済的に貧しいわけでも、物質的に貧弱な人生を送っていた訳でもなかった。
(2)むしろその逆であった。即ち富んでいた。財産も才能も豊かに持っている人物であった。
3.失われるとは、羊飼いの元から迷い出た羊のように「迷っている」ことである。
B. それでは、ここでもう一度「失われる」とはどういうことかを考えたい。
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(1)英語で言う"I am lost” である。親から離れて道に迷っている子供の姿である。
(2)その人は、なおそこにいる。貧しいどころか、経済的、金銭的に、また能力においても
豊かに持っている。しかし、その人は失われている。
●行くべき道が分からないのである。さ迷っているのである。
●即ち、その豊かさをもってどこに進んで行ったら良いかわからないのである。行くべき
道が分からないのである。
(3)換言すると、自分の持っているものを何のために使ったら良いか分からない人生である。
●物質的な豊かさ、この地上的豊かさは持っている。しかし、どこに行って、何をしたら
心に豊かさと満足を得られるか、分からないで迷っている人生。
●これが失われている人生。さ迷っている人生である。
(4)その根本は、羊である私たちが、牧者であるイエス様から離れ、迷い出た状態である。
4.聖書はこの失われた人生を「罪」と呼ぶのである。
(1)聖書の言う「罪」とは繰り返して言うように、嘘をつく、人のものを盗む、人を傷つける
などなどという、いわゆる「悪いこと」をすることではない。それらは、むしろ聖書の言う
「罪」の結果である。
(2)聖書の言う罪とは、私たちが神の元から迷い出ることである。このことについて、イザ
ヤ 53 章6節「・・・・」を見たい。
●そこで聖書は、「私たちがみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」
ことを告げた、そのすぐ後に、「しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)=罪(英訳
eniquity)を彼に負わせた」と言う。
●即ち、聖書は明らかに、私たちが牧者である神の元から離れ、背き、勝手に自分の道を
進んでいくことを罪と呼んでいるのである。
(3)即ち聖書の言う罪とは:羊のようにさ迷い、おのおの自分勝手な道に向かうことであり、
●牧者である神の愛への反抗であり、
●牧者である神の義への挑戦であり、
●牧者である神になどお世話にならなくても自分でできるという傲慢とうぬぼれである。
結
論
●イエス様は、誰のために死なれたのか? 誰を救うために来られたのか?
●牧者であるイエス様に背き、迷い出た羊である私たちのためにである。
●最後にⅠペテロ 2 章 25 節をもう一度読みたい。
●まだ、イエス様を受け入れていない方は、今こそ、牧者であるイエス様のところに帰って頂きたい。
●すでに、イエス様を受け入れ、牧者の元に帰られた方々は、その罪をイエス様が負ってくださったという
ことの意味を深く味わい、感謝し、その愛に応答するものでありたい。
●C.T. Studd:
●Is this your response to what Jesus has done for you too? これがイエス様があなたのためにして
くださったことへのあなたの応答でもあるか?
If Jesus
Jesus Christ be God, and died for me, then no sacrifice can be too great for me
to make for Him.
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