大洲市名誉市民称号贈呈式 中村修二教授記念講演要約文 「青色LED

大洲市名誉市民称号贈呈式 中村修二教授記念講演要約文
「青色LEDの開発から、ノーベル賞受賞まで」
平成27年2月3日(火) 大洲市民会館
ノーベル物理学賞は、発明・発見なんです
最初に言いたいことがありまして、ノーベ
ル賞発表後の紹介についてなんですが、赤崎
勇先生、天野浩先生、私の3人がノーベル物
理学賞を同時に受賞したんですけれども、日
本の報道では、赤崎、天野氏が「青色発光ダ
イオードの開発」、中村氏が「その量産化技
術の開発」なんです。私、怒ったんですよ。
「量産化技術でノーベル賞受賞なんてどこ
にも書いてないぞ」って。
ノーベル物理学賞というのは、アルフレッド・ノーベルの遺志で「物理学における発明あるい
は発見にノーベル賞を授与する」って書いてあるんですよ。発明・発見なんです。量産化技術に、
誰も賞はあげないんですよ。それで賞をもらえるなら、日本の製造業は世界でいちばん量産化技
術が得意ですから、日本のサラリーマン全員がノーベル物理学賞を受賞できてしまいます。
そのことがあって、ノーベル賞授賞式の日、報道のインタビューは受けないって言ってたんで
す。そうしたら、記者に「メダルの感触はどうですか」って突然質問されて「そんなんただの金
属や」って怒ったんです。すると次の日、
「中村氏、金属と言った」ってすごい記事になってしま
いました。
学生時代のこと
私は小学2年生から大洲にきて、育ったんですよ。大洲っていいところですよ。盆地で、静か
で。みんな親しくてね。高校生のみなさん、勉強するのにこんなにいい環境はないですよ。
喜多小学校のころは、遊んでばかりでした。大洲北中学校では、兄貴がバレーボール部のキャ
プテンをしていて、バレー部に入らされたんです。ところが、バレー部がスパルタなんですよ。
朝練もやって、夜も暗くなるまでやって。当時は体育館がなくて、外でフライングレシーブとか
やらされて傷だらけです。当時の北中学校の目標が「根性」なんです。そのバレー部が弱くて、
いつも負けるんです。でも社会に出てからすごい自信になるんですよ。あれだけ苦労して、あれ
だけ負けてもやり続ける。これはすごい自信になりますよ。
高校は、大洲高校に入ったんです。またバレー部の人が来て、入れっていうんで、入ったんで
すよ。大洲高校のバレー部も弱くて、多分、勝ったことがないと思います。練習も厳しくて、フ
ライングレシーブ何回やったら強くなるとか言って…。
結局、高校3年間部活動やって、今度は大学受験です。小さいころから算数・数学、物理は好
きだったんですが、文系の科目が大嫌いだったんです。それで、徳島大学が理系の配点が高いの
で、徳島大学工学部に進学しました。大学に入ったら自由に勉強できると思っていたんですが、
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入ったら2年間は教養課程というのがあって、一般教養をつけなさい、というわけです。そした
ら、また文系の科目です。もう嫌になって、下宿に閉じこもって仙人生活を始めたんです。6カ
月間。何をしていたかと言いますと、自分の好きな数学・物理、あるいは哲学などの本を読んだ
んです。高校時代に大嫌いだった本をいっぱい読んだんです。
その時に、自分の考えができたんです。自我に目覚めたんです。自分の言うことが正しいと。
そうしたら大学を早く卒業したいと思って、卒業のための試験のテクニックを覚えたんです。
試験の2、3週間前に理解なんてせずに、覚えるまで本の斜め読みを4、5回やるんです。丸暗
記してそのまま試験で百点満点とれました。これで、徳島大学電子工学科で一番になったんです
よ。でも、2、3週間で全部忘れます。これは、何にも意味ないです。本当の勉強というのは、
好きで理解しないとダメです。
日本のためにも海外へ
一方、アメリカは好きな科目を選択して勉強できるので、若い人はどんどんアメリカに行って
ほしいです。
今の日本の一番の課題は、グローバリゼーションです。日本は素晴らしい製品を作るんです。
携帯電話も世界で一番いいものを作った。太陽電池も、テレビも、シリコンの半導体も全部そう。
でも、今、落ち込んでいます。これは日本国内だけで売って、外国に売れないからなんです。私
が思うに、これは言葉の問題なんですよ。英語ができない。高校生、大学生で外国に5年行った
ら若いからペラペラになります。ぜひチャンスがあったら、特にアメリカに行ってください。日
本を外から見たら、みなさんの人生観がガラッと変わります。
日本の場合、有名高校、有名大学、有名企業、これがエリートコースです。でも、定年まで永
遠のサラリーマンです。経済が悪いとレイオフ(一時解雇)です。アメリカで優秀な学生は、自
分で会社を起こすか、中小企業に入ります。だれも大手に行きません。全然考え方が違うんです。
こういうのは、日本にいたら分かりません。ぜひ、海外に出てほしいです。それが日本のためで
すから。
青色LEDとの出会い
徳島大学を早く卒業しようと思ったんですけど、卒業研究を始めたら面白くなって、修士課程
までいって卒業したんです。それから徳島県阿南市の日亜化学工業株式会社に入りました。そこ
で赤色LEDやそれに使う結晶成長などをやったんです。入社してから10年間で、3つくらい
製品化したんですけど、売れなくて赤字だったんです。そうしたら、会社のお偉いさんが「責任
とって辞めろ」って言うんです。それで私も頭にきて、じゃあ辞めてやろうと、辞める前に好き
なことをやってやろうと。それが青色LED(発光ダイオード)だったんです。
会長のオフィスに行って、辞める覚悟で「青色LEDやらしてください」って言ったら、
「いい
よ」って言うんです。
「じゃあ、5億円出してください」って言ったら、これも「いいよ」ですよ。
ほんの5分、10分の話でした。それで、MOCVD(青色LEDの材料の結晶成長に使う装置)
の研究に一年間フロリダ大学に行ったんです。そうしたら、ドクターコースの学生が言うんです。
「あなた、ドクター(博士課程)持っとるか」「論文書いたか」。徳島大学では、修士課程しか出
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てないから博士課程は持ってないし、論文も書いてないんです。そうすると扱いがガラッと変わ
るんです。アメリカの科学者、研究者はドクターを持っています。ドクターを持っていない人は、
テクニシャン(科学者、研究者の手伝い)なんです。ですから、科学者を目指す人は、必ずドク
ターを持ってくださいね。
それで、帰国してから論文を書いてドクターを取ることが夢になったんです。それが1989
年。
世界初の高輝度青色LED発明
青色LEDの材料には、二つあって、一つはセレン化亜鉛、もう一つが窒化ガリウム。当時、
世界中の研究者は、セレン化亜鉛を選んでいました。窒化ガリウムは、ほんの数グループでした。
セレン化亜鉛は論文が山のようにあり、窒化ガリウムはほとんどありません。窒化ガリウムなら
論文がかけると思って選び、それがたまたま発明につながったんです。
最初、市販で2億円のMOCVDを買ったんです。でも全然できなくて困って、改造を始めた
んです。そこで、中学、高校時代のバレーで苦労した当時を思い出して、それから一年半、休み
なし。午前中は装置の改造、午後は反応。これを一年半。そしたらいい装置ができたんです。
「ツ
ーフローMOCVD」といって、90年の10月のことです。ここから世界一になったんです。
窒化ガリウムあるいは、窒化インジウムガリウムがどんな結晶とくらべても世界一なんですよ。
これが異常なくらい発光するんです。
中学、高校時代に、バレーボールで苦労して、それでも勝てない。負け続けても、それでもや
る。それが非常に自信になります。苦労はエネルギー
になるんです。私はそのエネルギーを使って「ツーフ
ローMOCVD」をつくりました。
そして、93年末に窒化インジウムガリウムを発光
させた高輝度の青色LEDを、世界で初めて発明した
んです。それがノーベル賞を受賞した理由です。
高校生のみなさん、高校時代にいろんな苦労がある
と思うんですけど、それを生かして、ぜひ頑張ってく
ださい。
(要約文作成:大洲市総務部人事秘書課)
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