先人を知り、地域に誇りを

学校だより 平成27年2月号
綾川町立羽床小学校
先人を知り、地域に誇りを
校長
花房
わき
長広
た いち
郷土の偉人と呼べる人は、何人も数えられるところですが、羽床の誇るべき先人として、脇 太一(1900
年~1969 年)があげられます。全国の小・中・高校の校歌をはじめ、多くの作詞を手がけたことで有名な人
物です。本校の校歌ももちろん脇太一作詞です。
太一は 1900(明治 33) 年、(今の綾川町)羽床上に生まれ、1歳のとき(綾川町)小
野の脇家の養子となりました。まさに羽床っ子です。子どものころ、とても正義感
の強い少年で、弱い者いじめを許さない「正義の味方」と呼ばれていたそうです。
その後、師範学校、高等師範学校を出て、高等女学校の教師になりました。もと
もと文章を書くことが好きだった太一は、漢文の教師をしながら俳句、短歌、詩、
小説、脚本など多くの作品を作っていきました。作品作りを頼まれることも多かっ
たそうです。
〈脇 太一氏〉
太一の名前が有名になったのは、坂出の中学校長をしていた51歳のときです。NHKの二代目の「ラ
ジオ体操の歌」に応募し、1万点以上の作品の中で最優秀に選ばれたのです。(現在は三代目)
これをきっかけに、作詞家として全国的に知られ、北は東北から南は九州・沖縄まで、多くの小・中・高
校の校歌を始めさまざまな団体からも作詞の依頼が殺到しました。遠く離れた自分が行ったことがない
学校の歌を作るときは、地図やパンフレット、町誌等をできる限り取り寄せ、その土地の風土を熱心に
研究しました。そして、その町の特色が歌詞に表せるよう苦心しながら作りました。その土地の山や川
を思い描きながら、ふるさとの土地や歴史のすばらしさを伝えようとしたのです。
太一は68歳で亡くなるまでの十数年間で300近くの校歌などが採用されました。香川県内でも多
くの学校の校歌を作詞しました。近年、学校の統廃合で減ったとはいえ、まだ県内30校以上で太一作
詞の校歌が子どもたちに歌われています。(町内では、綾南中、滝宮小)
グローバル化の進む現代に生きる子どもたちにとって、将来の活躍の場は県内や国内にとどまらず、
世界中に広がっていくことでしょう。一方で、自分たちの足元をまったく知ろうとせず、あるいは見よ
うとせず、広い大きな世界に羽ばたこうとしても、それは説得力のない薄っぺらなものに思えます。
身近にすばらしい先人がいたことを記憶に刻み、地域の誇りとして語り継いでいきたいものです。お
りしも2月28日、子ども会主催で地
域のシンボル高見峰(たかんぼう)に
子どもたちと登ります。地元の自然や
人物に関心を寄せ、地域に誇りをもて
る人材を育てたいものです。
(参考:香川県教育会「さぬき・人・ここにあり」)
児童の活動から
ひ
そば挽き体験(5・6年)
1 月 20 日(火)
様々な体験を通して豊かな心を育んでいます
租税教室(6年)
1 月 22 日(木)
9月に種を
まき、11 月
に収穫した
そばの実を
石臼で挽く
と白くて細
かいそば粉
ができまし
た。
輝き集会(3年)
1 月 26 日(月)
税務署の方
から税金の
意義や役割
を教えてい
ただきまし
た。1 億円
の札束(レプリ
カ)に驚きま
した。
なかよし集会
1 月 31 日(土)
国語で勉強
した「サーカ
スのライオ
ン」を劇で
発表しまし
た。いろい
ろな場面を
上手に表現
しました
おみせごっこ(1年)
2 月 6 日(金)
保育所の子
どもたちが
開いたお店
にお呼ばれ
しました。喫
茶店で楽し
く語らって
います。
非行防止教室(4年)
2 月 10 日(火)
香川県警か
ら出前授業
に来てくれ
ました。万
引きは犯罪
であり、絶
対にしては
いけないこ
とを学びま
した。
学年ごとに
人権宣言を
発表しまし
た。これか
らもずっと
仲のよい仲
間でいてほ
しいです。
そば打ち体験(5・6年)
2 月 10 日(火)
そば打ちは
うどんより
延びにくく
難しかった
です。おい
しいしっぽ
くそばをい
ただきまし
た。
卒業記念植樹(6年) 2 月 12 日(木)
林業事務所
等のお世話
で堤山斜面
の竹伐採地
にヤマザク
ラを植えま
した。将来
桜の名所に
なるといい
ですね。