SOS洞爺丸 ∼昭和29年洞爺丸台風・日本史上

SOS洞爺丸 ∼昭和29年洞爺丸台風・日本史上最悪の海難事故∼
津嶋 智志
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︻小説タイトル︼
SOS洞爺丸 ∼昭和29年洞爺丸台風・日本史上最悪の海難事
故∼
︻Nコード︼
N9338CG
︻作者名︼
津嶋 智志
︻あらすじ︼
1954年9月26日 北海道函館市。
この地に普段北海道には殆ど上陸しない台風が勢力を保ったまま
上陸し、北海道に多大な被害をもたらした。
当時は現在ほど天気予報の体制が発達しておらず、予測見込み違
いによって青函連絡船5隻が転覆・沈没し、全船合わせて1430
名が亡くなる大事故が発生してしまった。
その中で最も被害が大きかったのは、貨物鉄道だけではなく旅客
1
輸送も行う﹁洞爺丸﹂で1155名もの乗員乗客が七重浜の大波に
消えた。
その物語である。
※ このお話は、1990年に実際に遭難し生存された方から託さ
れた手記を元に描いております。
1991年函館市社会学自由研究コンクール銀賞作品リメイク
2
第1章・青函連絡船︵前書き︶
この物語は、1990年に洞爺丸事故の生存者、田辺康夫氏に直
接取材を行い、その際に頂いた当時の手記を元に、当時の事故の詳
細資料や通信記録を交えて描いております。
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田辺康夫氏の手書きの手記︵ガリ版印刷︶
60年前の物なので風化し、印字も潰れて解読に時間がかかった。
・協力︵敬称略︶
田辺康夫︵洞爺丸乗客生存者・故人︶
秋坂勇治︵北斗市︶
白田弘行︵元・弘和重機社長︶
小川由江︵函館朝市・故人︶
村山勝男︵函館市・故人︶
對馬きくゑ︵北斗市・故人︶
函館市教育委員会︵1990年︶
※故人の方はご健在だった1990年前後に取材を行ってます。
・取材先
函館市立図書館
メモリアルシップ摩周丸︵函館市︶
船の科学館︵東京 お台場︶
・参考文献
洞爺丸遭難記録︵手書きガリ版・田辺康夫︶
洞爺丸台風海難史︵青函船舶鉄道管理局︶
青函連絡船 栄光の軌跡︵JR北海道︶
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洞爺丸台風 遭難通信関係記録︵日本鉄道技術協会︶
さようなら青函連絡船︵北海道新聞︶
わが青春の青函連絡船 ︵坂本幸四郎 著 光人社︶
鉄道連絡船100年の軌跡︵古川達郎 著 成山堂書店︶
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第1章・青函連絡船
★青函連絡船 1988年3月13日。北海道函館市。
この日、函館駅には大勢の人々が押し掛け、上空には報道ヘリが
飛び交っていた。
当時世界一の海底トンネルとなった青函トンネル・JR海峡線が
開通し、本州と北海道がレールで結ばれ、その初の列車が函館駅を
出発するのを見送る為だった。
その一方で、もう一つの黒山の人だかりが列車と別の方を向いて
いた。
青函連絡船の最後の運航を見守りに来た人々だった。
本州と北海道を繋ぐ動脈として永らく運航が続けられたJR青函
航路は、創立当時、日本国有鉄道の手により運営され、絶えず最新
鋭の技術が連絡船に用いられていた。
最後に運航された連絡船は現在、函館港及び青森港に展示されて
いる﹁摩周丸﹂︵函館︶と八甲田丸︵青森︶その他同型船により運
航されていた。
1964年の頃から随時建造・就航し、歴代の連絡船の例に漏れ
ず、最新鋭の技術が投入され、航路が短く限定された航路しか就航
しないにも関わらず、外洋船並みの造りが施され、当時は﹁海の新
幹線﹂と言われた程だった。
青函トンネルが作られた当時は﹁青函連絡船も必要﹂との事で並
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行運航も論議されたが、1970年代の航空機の発達と、民間カー
フェリーの充実で青函連絡船の利用者が減り続け、結局1970年
代終盤に﹁青函トンネルが開通次第、連絡船は廃止﹂という方針が
決まってしまう。
そして、青函連絡船に替わって﹁世紀の難工事﹂と言われた青函
トンネルが登場したきっかけは、1954年9月26日に発生した
﹁洞爺丸台風﹂であった。
青函トンネル構想そのものは戦前からあり、終戦直後の1946
年にも調査が行われていたが、﹁将来に向けて調査﹂という考えだ
けだった。
廃止により別れを惜しむ人々に見送られる青函連絡船。
その光景を哀悼の目で見つめる一人の男性がいた。
田辺康夫氏。洞爺丸台風で仲間と共に遭難、数少ない生存者の一
人である。
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田辺康夫氏
★洞爺丸型連絡船
1945年7月14日、15日。終戦間際の函館・青森。
当時、日本全土に米軍のB−29による爆撃が行われていたが、B
−29は硫黄島を攻略・整備するまで函館、青森に爆撃に向かうこ
とが出来ず、本格的な空襲は行われていなかったが、日本近海に空
母が接近しても危険が無くなってきた為、艦載機による青函航路壊
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滅作戦が行われた。
この空襲によって、12隻のうち10隻が撃沈・大破。破損した
が、要修理で生き残った2隻を残して全滅した。
戦後、日本統治から独立した朝鮮︵後の韓国︶やソ連に占領され
たサハリンを航行していた連絡船やGHQ︵進駐軍。主に米軍︶よ
り貸与された上陸用舟艇等、青函航路に回され使用されたが、鉄道
を運ぶ青函航路の為に設計された船でないと岸壁設備が使えず、﹁
やはり専用の青函連絡船があった方が良い﹂という話になり、あら
ゆる工業が禁止されていた敗戦の占領下で、1946年7月、GH
Qにより異例の青函連絡船の新規建造が許可され、早速作られたの
が﹁洞爺丸﹂であった。
﹁洞爺丸﹂は戦後初の貨客青函連絡船であり、GHQにより工業
禁止を通達され、沈んでいた景気の中で大ニュースとなり、請け負
った三菱重工神戸造船所は暇潰しに細々と残った資材で、やかん、
鍋を作っていた技術者達を呼集し、彼らは腕を振るって食事にも困
るような状態にも関わらず日夜奮起し建造を行った。
造船所は空襲により多大な損害を受けており、廃墟だったが、設
備を使えるように応急に修繕し、足りない資材は闇市を駆け回り入
手した。
そして翌年の1947年11月。
資材不足と設備破壊、食糧難という最悪な状況にも関わらず、た
った1年程で青函連絡船﹁洞爺丸﹂が誕生した。
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洞爺丸︵1/100模型。函館市・メモリアルシップ摩周丸にて︶
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3898総トンの堂々たる風格の大型客船。白と黒のツートンカ
ラーのその姿は美しく堂々とした風格を漂わせ、内装はモダンで凝
った造りをしており、とても敗戦直後に誕生した船には見えなかっ
た。
そして、その姿は敗戦で脱力感を抱いて帰国してきた日本人達の
気持ちを励ました。
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進水式直前の洞爺丸
洞爺丸台風 遭難通信関係記録︵日本鉄道技術協会︶より
その直後、同型船﹁羊蹄丸﹂﹁大雪丸﹂が次々と同じ生まれ故郷
の三菱重工・神戸造船所で建造され、戦前、青函連絡船建造を請け
負っていた浦賀船渠で﹁摩周丸﹂が建造され1948年11月に全
4隻が完成、津軽海峡にその美しい姿を飾ったのである。
・洞爺丸型貨客船
洞爺丸︵3898総トン︶就航1947年11月21日 三菱重
工神戸製
羊蹄丸︵3896総トン︶就航1948年5月1日 三菱重工神
戸製
摩周丸︵3782総トン︶就航1948年8月27日 浦賀船渠製
大雪丸︵3885総トン︶就航1948年11月27日 三菱重
工神戸製
その構造は、モダンな4人部屋の1等客室、2人部屋の豪華な特
別室、畳式の大部屋の2等客室、そして、その下に貨物鉄道車を1
8両を搭載し、それを挟むように、両舷に3等椅子席、さらにその
下に畳式の大部屋の3等客室があった。
3等客室は喫水線に近く、天井は低く配管類が天井を武骨に這い
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回り、鉄道を乗せる際は頭上で軌道の音が﹁ゴロゴロ﹂響き渡り、
快適とは言えなかった。
しかし、4時間半の航海で苦痛を訴える乗客は少なく、修学旅行
の小学生達は配管にぶら下がり遊びまわり、喫水線がギリギリの窓
の外を眺めて間近に迫るイルカを見てワイワイ騒ぐ光景が見られた
ものであったという。
後継の連絡船では差別的だと3等客室は廃止されたが、これも一
種の風情として見られていた。 そして就航から7年経った1954年8月7日。
北海道で国民体育大会が行われ、来道する昭和天皇のお召船に選
ばれ、函館桟橋で待ち構えていた報道陣のカメラのフラッシュを浴
びた。
しかし、このわずか1か月半後、この美しい﹁彼女﹂が醜い残骸
の塊と化してしまうことを誰が想像いたであろう。 9
第2章 昭和29年台風15号
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★彼女の名前は﹁マリー﹂
台風は日本で現在は﹁平成OO台風OO号﹂と表記されるが、当
時は米軍占領時代にアメリカ式に台風に女性の名前を付けてきた風
習が、1952年以降の占領終焉後も残っており、この﹁洞爺丸台
風﹂も当時は﹁マリー﹂と名付けられていた。
このアメリカ式の名前の彼女は、1954年9月18日カロリン
諸島生まれで、最初は只の熱帯低気圧で、そのまま台湾南部で消滅
するかと思いきや、21日に勢力を強め、26日夜明け前に風力4
0mの力で鹿児島県に上陸した。
そして、普段台風は上陸後に速度を落とすが、この﹁マリー﹂は
速度を時速70km/hから100km/hに加速し、九州、四国、
山陰を縦断、朝に日本海を突破し、一路、北海道を目指した。
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11時5分。
函館第一桟橋に青森から6時30分発下り第3便の洞爺丸が到着
した。
台風の影響で波が高く風も強かったが、まだ航行は可能な状況だ
った。 船長の近藤平市氏は定年間近のベテランで、仇名は﹁天気図﹂と
呼ばれる程の天気予報マニアで、船舶気象無線通報︵JMC︶より
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も早く正確な情報を自ら獲得するのを誇りにしていた。
この日も次の上り第4便14時40分の便の出航前にラジオの天
気予報を聞きながら一人船長室で天気図を書き込んでいた。
﹁さて、マリーさんは、どう来るつもりかな?﹂
彼は洞爺丸の専属ではなかった。
予備船長と呼ばれる職種で、船は同型でも細部が異なるので、そ
の船を熟知した船長が専属で勤務する。
しかし、同じ短い航路を1日何便をこなす青函連絡船は絶えず専
属という訳にもいかないので、専属船長が休みの時は予備船長が乗
務する。
だが、予備船長こそ大変で、4隻全ての連絡船を熟知しなければ
務まらないので、ベテランが勤務する。
近藤船長は16年のベテランで、しかも温厚でもの静かな性格で、
丁寧な操船は評判が良く、事故も無い船長で、最も同僚から信頼さ
れていた。
﹁今度の台風は手強い強力な奴だが、夕方には日本海から東北上陸
で勢力が弱まり太平洋に出て消えるだろう。最も、その余韻で午後
の航海は難儀しそうだがな。﹂
★乗船
この日は函館は小雨が朝から降りそそぎ、11時頃には雨混じり
の、やや強めの風が吹き始め、強風波浪警報が発令されていた。
北海道学芸大学︵現在の北海道教育大学︶函館分校4年の淵上助
教授率いる古美術研究旅行グループ9名が、京都へ向かう為に函館
桟橋で待ち合わせていた。
その中の1人、生徒として田辺康夫氏がいた。
友人の秋林氏と会話を交わす。
﹁こんな台風じゃ船出ねぇんじゃねぇかい?ラジオじゃ、家出る時
は若侠湾だから遠いけど、がっつり速ぇって言ってたっけよぉ。﹂
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﹁まぁ、とりあえず皆と乗船手続きすんべよ。台風なんかどうせ北
海道なんかに来ないべ。少し待てば消えるさ。﹂
﹁うん、そうかもな。﹂
そこで淵上助教授は、
﹁この分じゃ、青森着いて、急行列車に乗って三沢を通る頃に台風
と逢って汽車ごとブッ飛ばされるかもな?﹂
と、冗談を言って乗船手続きに向かった。
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乗船受付名簿︵船の科学館︶
その頃、青森桟橋では、羊蹄丸が下り第9便の出航準備中だった
が、丁度16時30分に予定通り出航すると、予報では津軽海峡上
で台風にはち合う可能性があった為、出航か欠航か様子を見ていた。
﹁嵐の前の静けさ﹂という言葉がピッタリな位に静まり返った津軽
海峡を船長は睨んだ。
﹁函館から向かう時より静かなんて⋮﹂
船長は気圧計の変動を警戒した。
出航見合わせや欠航は、他の接続ダイヤを狂わせる。その決断は
船長に委ねられていたが、もし、欠航するほどの嵐にならなかった
場合は、現在よりはるかに責任追求が激しい時代。
船長達は追い詰められる気分だったろう。
その頃、マリーは勢力を保ちながら100km/h近くの台風ら
しからぬ高速で新潟沖彼方をばく進し、函館のある北海道南部を目
指していた。
当時は観測所も少なく、勿論衛星による監視なんか無い時代だっ
たので、海上沖深い所を進む台風は文字通り﹁予測﹂しか出来なか
12
った。
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第3章 手こずる出航
★テケミ
近藤船長は、天気図を見て﹁出港可能﹂と判断を下し、定時の1
4時40分に出港を決定した。
その根拠は台風の影響が津軽海峡に強く出るのが16時半以降と
推定され、その頃なら仮に台風に遭っても青森側の陸奥湾に逃げれ
ば台風被害から逃れられる為、出港するなら定時がチャンスだった
からである。
洞爺丸は、14時40分の出港を前に、毎回恒例のボーイによる
銅鑼の出港合図と、乗客と桟橋で見送る人々を繋ぐ紙テープによる
﹁お別れの儀式﹂が始まった。
︵因みにこの﹁儀式﹂は1964年に修学旅行の女子生徒1名が連
絡船と桟橋の間に転落して死亡する事故が発生してしまったので、
1988年の青函連絡船廃止の際の出港まで禁止された。︶
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見送りのテープ︵船の科学館︶
すると、突如、青函連絡船の運航を管理する青函局・運航管理室
から洞爺丸に﹁出港中止﹂の指示が出された。
理由は、同じ頃に津軽海峡の中心を青森に向けて航行していた貨
物専用連絡船﹁渡島丸﹂からの通報で、﹁東25m、波8、うねり
6、横揺22度、進路南東で難航中﹂という通報を聞いた貨物連絡
船・第十一青函丸が、函館湾を出る直前に青森行きを断念し、函館
桟橋に戻って米軍用列車2両及び米兵及び家族及び日本人一般客全
員を洞爺丸にお願いしたいという事だった。
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貨物連絡船・第十一青函丸は、当時の青函連絡船の中では造りが
悪く、第二次大戦の際に簡易建造された﹁W型戦時標準船﹂と言わ
れた船で、建造中に終戦を迎え、放置されていたものを、青函航路
戦災復興の為に建造再開、さらに貨車搭載専用船として設計されて
いるのも関わらず、第11青函丸をはじめ、第12青函丸、石狩丸
と3隻の貨車専用船に旅客運搬を行おうと強引に前部甲板の車両甲
板上にプレハブ小屋のような貧弱な客席を設けた﹁デッキハウス船﹂
と呼ばれた船で、アメリカ占領時代は米軍専用だったが、1952
年の占領終了後は空きがあれば一般人も乗れるようにダイヤに組ま
れていた。
同じ時期に建造された洞爺丸とは雲泥の差の戦時簡易設計の船だ
った。
その為、唯でさえ耐久性が低い上に重心が悪く、嵐の中を航行す
る自信が無いためだった。
そして、わざわざ洞爺丸の乗客を待たせても第十一青函丸の乗客
と搭載車両を移したかったのは、北海道在日米軍・陸軍第一騎兵師
団の兵とその家族、そしてその米軍専用の列車を搭載していたから
だった。
乗っていた理由は任期満了で本国へ帰るため、羽田空港に向かう
為だった。
現在は緊急でもないのに、そんな理由で在日米兵を優先すれば大
顰蹙を買うが、当時は日米講和条約が発効して間もない敗戦の占領
下時代が終わったばかりの時代。
まだ﹁アメリカ様﹂の時代だったので仕方が無かった。
近藤船長は止む無く、搭載貨車2両の入れ替えと米兵とその家族
57名、他、空席に乗っていた日本人121名の移乗を許可した。
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一方で青森から函館に向かっていた、洞爺丸の同型船・大雪丸と、
続いて貸車専用船・石狩丸は難なく函館港に着いた。
これは青森に向かっていた渡島丸とは風向きが逆だった為であっ
た。
しかし、2隻は渡島丸の﹁波8﹂の連絡は聞いており、次の青森
行きに就くことに不安を覚えた。
何しろ﹁波8﹂とは大雑把に言うと波の高さ8mと言う意味で、
連絡船史上かつてない大波だったからだ。
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第十一青函丸︵第6∼12青函丸と同型︶
洞爺丸台風 遭難通信関係記録︵日本鉄道技術協会︶より
田辺氏は、出港中止となり、皆でゾロゾロと3等客室に戻って行
った。
3等客室の大部屋でそれぞれの乗客がゴロ寝をしたり、思い思い
の格好でくつろいでいると、スピーカーから大相撲のラジオ中継が
流され始めた。
すると、上から﹁ゴロゴロ﹂と積載貨車の移動する音が響く。
第十一青函丸と積載貨車の交換作業が始まった。
そして、入り口の階段から、﹁かつぎ屋さん﹂が下りてきて、大
部屋が込み入ってきた。
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かつぎ屋さん︵船の科学館︶
車両甲板両脇に設置されたシートは、当時、主に﹁かつぎ屋﹂と
呼ばれる人々の為に、三等通路甲板に設けられた座席で、函館と青
森の市場を往復し、函館からは海産物、青森からリンゴや米等の穀
物を背中一杯に運搬し、主に女性が多かった仕事で、連絡船の名物
16
のひとつだった。
大部屋のような雑魚寝席より、洋風な彼ら米兵はシート席の方が
良かろうと、かつぎ屋さんに大部屋に移って貰った為だった。
その後を続くように一般の日本人客も降りてきた。
隣接する函館駅に到着した列車から連絡船に乗り継いだ人々だっ
た。
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15時。
桟橋の作業終了の合図が無く、再度確認すると、暴風による停電
で桟橋が動かなくなり、船と桟橋を切り離せず停電復旧まで何も出
来ないとの事だった。
しかし、そんな事態が起こる位、天候が悪化した事に見切りをつ
けた近藤船長は、ついに﹁テケミ﹂︵運航見合わせの業界用語︶を
決定する。
その後たった3分で可動橋は復旧したが、テケミと言った直後の
手前、船長は苦虫を噛んだような顔をして、海を睨むきりで何も言
わなかった。
16時2分。
一般貨車のみとなり、﹁台風が過ぎるまで沖出せよ﹂を指示され、
桟橋から第十一青函丸が桟橋から出て行った。
﹁沖出し﹂とは、岸壁を離れ、港内若しくは湾内で停泊することで
ある。
入れ替わりに、第2桟橋で貨客を降ろした大雪丸が着岸、乗客と
積載貨車を降ろし始めたこの頃、函館港で騒ぎが起こり始めた。
イタリアの貨物船アーネスト号︵7341総トン︶が、南米から
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室蘭港に入港しようとして座礁して破損し、函館ドックで修理しよ
うとしたが、函館港で廃棄が決まり港内にて停泊していた。
しかし、この嵐でブイに繋いでいた係留綱が暴風で切れて、港内
で漂流を始めたのである。
アーネスト号には、廃棄手続きの為に残った船員しかおらず、対
策は﹁本船走錨中危険近寄るな﹂の記号旗を出す事しか出来ず、為
す術が無いまま漂流し始めた。
一方、洞爺丸では船内にラジオが中断され船内放送が流れた。
﹁お客様に申し上げます。本船は海上シケの為、出港を見合わせに
なります。今の所、出港時間は未定となります。お客様は船内でお
待ちください。﹂
17時頃。
一旦船の揺れが収まったので、田辺氏が舷窓から外を覗くと、さ
っきまでの荒波が嘘のように静かになり、分厚い雲から日が差し込
んで、幻想的な風景になっていた。
田辺氏は友人4人と共にデッキに出ると、普段あまり見られない
ような三重の雲が付近の低空を覆い、西の空が茜色に染まり、東の
カラー
空はドス黒い雲に覆われていた。
﹁う∼ん、天然色写真で撮れば、さぞかし美しいだろうな。﹂
﹁しかし、なんだな、雲の動き早ェよな、やっぱ。﹂
この時雲は、高度300m位で、ぶ厚い三層になっていたという。
この光景は、当時函館に居た台風経験者が誰もが証言する風景だ
った。
そして、洞爺丸のブリッジでこの光景を見た近藤船長は﹁台風の
目﹂と判断した。
予報では台風﹁マリー﹂は新潟沖から東北を抜け、太平洋に抜け
て消えると思われていた。台風は地球の自転の関係で時計回りであ
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り、北海道に近づく頃には必然的に弱まり、東に追いやられ、太平
洋に消える。
それが台風の﹁常識﹂であったが、予想よりずれて函館上空に台
風が現れた。
そして、先程、函館市内に停電をもたらし、函館港内で青函連絡船
の2倍もある貨物船を振り回した強風は、この台風のせいだったの
だろう。
誰もがそう思ったという。
中央気象台や海上保安庁巡視船﹁りしり﹂の船長も、そう判断し
たという。
そうであれば話は早い。
あと1時間位で台風一過となると判断した近藤船長は予定より4
時間近く遅い18時30分出港と決定した。
それを3等客室に来たボーイから聞いた田辺氏は﹁ようやく青森
に行ける﹂とホッとしたという。
一方で、大雪丸は、空荷になった後17時20分、桟橋を離れ﹁
沖出し﹂を決定した。
洞爺丸も﹁乗客・貨物車を下ろし、沖出しせよ﹂と指示が来たが
近藤船長は断ったという。
理由は大雪丸と違い、これから青森に行こうとする乗客千人近く
を船から下ろしたら、どうなるかである。
待合室は溢れ、通路にまで人が溢れ、台風の中、外で待ちぼうけ
を喰らう乗客も居るだろう。
しかも、近藤船長の読みでは、予報では台風は速度110km/
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hだから、出航予定までに通り過ぎてるから心配無い。それなら乗
客が気の毒だから出航しても問題ない。
そんな考えだったと言われいる。
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第4章
不安よぎる出航
17時40分。
港内で漂流していた大型貨物船アーネスト号が止まり、風も落ち
着いた。
港内にて青森行き30便を行う為、天候落ち着き次第、有川桟橋
に接岸しようと待機していた第十二青函丸は、港内で漂流していた
アーネスト号の船尾が錨の上に来てしまい、その場から動けなくな
っていた。
第十二青函丸のブリッジから、アーネスト号の大きなお尻が至近
距離に居座るのが見える。
第十二青函丸は、逃げたくても逃げれず、恐怖を感じていた。
空が段々黒い雲に覆われ始め。不気味な静かさに包まれる。
洞爺丸は一応天気予報を確認したが、天気予報も近藤船長の考え
と一致する。
﹁よし、予定通りだ。﹂
18時。
洞爺丸は﹁出航スタンバイ﹂の汽笛を2度鳴らす。
3等客室は、第11青函丸の米兵に場所を譲った乗客や、本来乗
る予定では無かった後の列車から乗った乗客も乗り合わせ、混み合
い蒸していた。
本来ならもう青森の筈が、4時間近く船に閉じ込められて、スト
レスが溜まり、ボーイに食ってかかる乗客も出てきた。
中には見切りを付けて乗務員タラップからコッソリ出て行った者
も居たという。
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当時の乗り込み口タラップ︵船の科学館︶
18時20分。
洞爺丸出航前に貸車専用連絡船・石狩丸が第2桟橋に着岸しよう
とした。
しかし、通常3隻のタグボートで接岸しようとしたが、風が強く
なり着岸出来ない。
やむなく函館桟橋の5隻全てのタグボートで強引に桟橋に押し付
けた。
石炭焚エンジンをフルパワーにしても徐々にしか動かない。
タグボートは船尾を沈ませ、フルパワーで回るスクリューに巻か
れた水飛沫が飛ぶ。
煙突から黒煙がバンバン吹き出し、先端のクッションの古タイヤ
が完全に潰れ、押される石狩丸の外板がミシミシ言っている。
5隻のタグボートで押し付けて、ようやく接岸出来る位の暴風の
中、本当に洞爺丸は無事航海出来るのか?
近藤船長は、予測では台風は今は過ぎて、もう100km先の長
万部付近にあるから、今は只の余韻。吹き返しって奴だ。
防波堤を出て函館湾に出る頃には落ち着くから問題ない。と考え
てたという。
そして、もし読みが外れてたら?
簡単だ。
本来﹁沖泊﹂を指示されていた。
だったら危険と思えば遠慮無く沖留めする。
沖泊なら乗客も勝手に降りないから、乗客名簿も狂わない。
しかも、アーネスト号も止まった。
沖泊なら誰も危険じゃない。
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乗客だって嵐の中の函館に当てもなく放り出されるより、揺れる
が設備の充実した洞爺丸の中で待ってたほうがいいに決まってる。
18時35分。
出航の銅鑼が客室甲板に鳴り響く。
田辺氏は、3等大部屋に寝転がりながら呟いた。
﹁何だ、銅鑼は二回目だろ。ずいぶん気前がいいな。﹂
そう言って友人達と笑った。
近藤船長が、桟橋接岸を難儀しながら、ようやく接岸した石狩丸
go
Shuarline!“︵ロープ外せ!︶
を確認し、号令をかけた。
”Let's
桟橋と船を繋ぐロープ﹁もやい綱﹂所謂、係留綱が外された。
all
clear
clear
sir!”︵船尾異常なし︶
sir!”︵船首異常なし︶
ブリッジ︵船橋︶に慌ただしくクルーの声が響く。
“a
all
bow
“stern
石狩丸の接岸が終わったタグボート2隻が、洞爺丸の出航サポー
トに回った。
現存する連絡船は出航は自力で出来たが、洞爺丸型はまだ岸壁か
go
tugboat!”
ら離れる際に補助が必要だった。
“lets
岸壁から船首をタグボートが引き出し、後ろでもう1隻のタグボ
ートが、押して洞爺丸を右に回頭させる。
自力航行可能の位置に移動すると、タグボートが離れ、洞爺丸は
ようやく単独で動ける。
<i123917<ruby><rb>8907>
23
﹁長声</rb><rp>︵</rp><rt>ちょうせい</r
t><rp>︶</rp></ruby>一発!﹂
ブリッジの汽笛レバーが引かれた。
﹁ボーッ!﹂
ahead
board!”︵左舷エンジン微速前進
と、青函連絡船独特の太い汽笛が港内に響いた。 “srow
!︶
テレグラフを操作する音がガチャガチャンとブリッジに響く。
テレグラフとはコンピューター制御が無い当時、ブリッジからエ
board
sir!”
ンジン室に操作指示を出すものである。
ahead
3等航海士が、了解の確認をした。
“srow
starboard!”︵面舵一杯!︶
船長が続けざまに指示する。
“hard
函館では桟橋に左から接岸しているので、右に離れる。
two
engine!”︵両舷エンジ
面舵は﹁右﹂取舵は﹁左﹂である。
ahead
航路入口に船首が向いた。
“harf
ン、半速前進!︶
機関室の隣のボイラー室では、火夫達が上半身裸で釜に石炭をく
べ続ける。
当時は、まだ客船は蒸気タービンが主流だった。ディーゼルエン
ジンは、振動と音に難があり、振動が少ない蒸気タービンの方が客
船向きだと考えられていたのと、北海道は石炭が豊富だった為もあ
る。
4本のオレンジ色の煙突から連絡船名物だった黒煙をバンバン吐
いて、洞爺丸は出航した。
24
その黒煙を強風にたなびかせながら⋮
25
第5章 戻ってきた﹁マリー﹂
モールス
函館港では18時22分に再びアーネスト号がゆっくり動き始め
た。
第十二青函丸から離れ始め船舶無電にて﹁イタリー船、走錨しつ
つあり、各船に報告ヨロ﹂と打電し始める。
﹁走錨﹂とは錨が海底に食い込まず、錨を引きずったまま漂流する
事である。
18時45分
函館港は、連絡船・大雪丸に、第六青函丸、第八青函丸、第12
青函丸、日高丸の他、台風から逃れる為に大小多々の民間貨物船、
岸壁から避難したイカ釣り船に、漁船、それらを監視する巡視船﹁
りしり﹂と、只でさえ狭い港を埋め尽くしていた。
貨車専用桟橋の有川桟橋から退避した、北見丸と、函館港で待機
していた第11青函丸は、混みいった函館港を嫌がり、函館港防波
堤外に出て待機していた。 青森から向かっていた十勝丸は、函館港に入るのは困難と判断し、
函館湾入口で仮泊待機していた。
その光景を当時、小学校6年だった村山勝男氏が、函館山の麓の
自宅から見ていた。
ラジオでは、これから函館は風が強まると言っているのに、連絡
船が港から出て行くのが気になった。
﹁父ちゃん、連絡船が出て行くよ。﹂
国鉄職員の父は、窓を見て答えた。
﹁あぁ、桟橋さぁ居ると強風で船が、岸壁さぁぶつ︵当たる︶から、
沖さ逃げてるんだよ。﹂
すると、風が急に強まり、窓がギシギシ言い始めた。
26
今まで見たことも無い恐ろしさを抱く強風が外を走っている。
電線が激しく踊り、電柱の看板はビビビと音を立て始め、父は勝
男氏に窓から離れて布団を被ってるように指示した。
外から家に何か当たる音が何度も続き、家全体が軋み始めた。
天井に近い神棚から飾り物が次から次に落ちて、畳を転がる。
やがて天井の板の隙間から埃が降ってきた。
すると﹁バーン!﹂という音と共に明かりが消え、ラジオは止ま
り、風がもたらす轟音だけが不気味に響き、勝男氏と家族は身を寄
せ合った。
漂流し函館港を暴走するアーネスト号の動きが激しくなってきた。
それに気が付いた周囲の船が驚き一斉に逃げ始めた。
港内に居た連絡船5隻は、直ちにサーチライトで、アーネスト号
を照らす。 サーチライトには、逃げ惑う船舶と、連絡船の二倍の図体のアー
ネスト号が右に行ったり左に行ったりしながら船の混み合う中を迫
ってくる。
一方、洞爺丸は、防波堤を過ぎた途端、強風に遭遇した。
﹁馬鹿な?台風が戻って来たのか?﹂
すると急に洞爺丸の汽笛が鳴り始め、鳴ったまま混乱する函館港
を去っていく。
汽笛は弁で塞がれ操作しないと鳴らないようになっていたが強風
で汽笛の操作ワイヤーが煽られ勝手に鳴りっ放しになったのだ。
間もなく根元のメンテナンス用の弁が閉じられ汽笛は止んだが、
不気味に響いた汽笛は恐怖心を煽るに十分だった。
危険を感じた近藤船長は直ちに運航中止を決め、その場に錨を下
ろし、風に向けて船首を向けて、台風をやり過ごす決断をした。
<i125334|8907>
昭和29年台風15号進路図
27
洞爺丸海難史︵国鉄︶より
19時1分。
錨を下ろす音が3等室に響き渡った。
田辺氏は起き上がった。
﹁何だ!何の音だ!﹂
﹁錨を落としたんじゃないか?﹂
すると船内放送が流れた。
﹁海峡は波風が強くなった為、本船は港内で仮泊致します。なお、
出航の見通しは立ちません。﹂
西防波堤灯台から方位300度、1574m地点で、洞爺丸は運
航を断念した。
出航してたった22分で状況が急変したのだ。
船酔いしても、死ぬ事は無い。早く内地に渡りたい。
そう考えていた田辺氏達は、停泊になった事にがっかりした。
しかし、友人の一人が言った。
﹁なあに、仕方がないさぁ。こんな、海の真ん中に居るなんて、滅
多にない経験だ。楽しもうじゃないか。﹂
そう聞いた田辺氏は、遊歩甲板へ外を見に行った。
確かに、この状況を楽しむ気じゃなければ、狭い船内で息が詰ま
るからだ。
外に出ると、恐ろしい位の黒い波がうねっていた。
恐らく錨で船が固定されているから、そんなに揺れないのでは?
と思ったという。
街は、あちこちで、電線がスパークする光が上がり始め、やがて
真っ暗になり、赤く光る灯台も消えた。
真っ暗な中、港ではサーチライトの光りが、あちこちを向いて綺
麗だった。
しかし、波風が強くなり、顔に飛沫が絶えず飛ぶようになり、中
28
に戻ろうとするが、強風で扉が開かず、やっとの思いで皆の所に戻
ると、先生も含めて皆が面白半分で外を見に行ってしまった。
そこでは、第11青函丸から乗った米兵達が、港の光景を見なが
らはしゃいでいたという。
<i125335|8907>
当時の青函連絡船の運行記録図
洞爺丸台風遭難通信関係記録より 29
第6章 混乱する函館港
<i125337|8907>
当時の函館港
洞爺丸台風海難史︵青函船舶鉄道管理局︶より
★浸水
19時2分。
アーネスト号が大雪丸に向かってきた。
大雪丸は、これ以上の函館港内泊は危険と判断し、慎重に他の船
を交わしながら港外へ向かった。
無電発信。
﹁港内狭い為、港外に転錨予定。﹂
防波堤外で青森行きを断念し停泊していた貨車専用船・北見丸が
大雪丸に様子を窺う無電を発した。
<i125346|8907>
北見丸︵日高丸と同型︶
洞爺丸台風 遭難通信関係記録︵日本鉄道技術協会︶より 一方、アーネスト号は、次は第六青函丸に向かい始め、ランチ︵
タグボート︶の依頼を行ったが、只でさえ大型船舶が翻弄されてい
る中でランチは出せないと拒否された。
19時20分。
大雪丸が防波堤外出口にさしかかったところ、第六青函丸が進路
に流されてきた。
左舷に第六青函丸の船体が迫る。
30
“hard
starboard!”
︵面舵一杯!︶
ブリッジは迫る第六青函丸を見ながら拳を握る。
﹁全員、衝撃体制を取れ!﹂ 大雪丸は波に押され、第六青函丸の左舷中央部に船首をぶつけ、
船内に﹁ゴゴゴ∼!﹂と音が響いたが、何とか食い込まずに離れた。
19時30分頃。
函館桟橋・第2岸に停泊待機していた石狩丸は、突風で船体が外
に押され続け、ついに係留綱が切れ始める。
タグボート3隻が石狩丸を岸壁に押さえつけようとするが、石狩
丸に搭載された救命ボートが吹き飛ばされる位の強風に、ついに係
留綱が全て切れて岸壁から離れ、漂流し始めた。
石狩丸は、自力で辛うじて船を操ったが、それ以上沖に出ないよ
うにするので精一杯だった。
一方、函館湾近くの沖に停泊していた北見丸の機関室に浸水が始
まった。
連絡船は当時、後部の貨車積み込み口に扉は無く、車両甲板は吹
きさらしだったが、冬の嵐の津軽海峡を渡航しても、多少の波飛沫
が入っても、車両甲板に波が流入た例は無かった。
車両甲板に波が入ると、その下の機関室やボイラー室に、換気口
等あちこちから雨のように海水が降り注ぐ。
当時の連絡船は石炭釜焚による動力源だったので、石炭が濡れる
と、釜焚が出来ない。
釜焚が出来なくなれば、エンジンが止まって強風や大波を避ける
事が出来ずに、転覆する。
この時、防波堤の外に居た連絡船全てが同じ状況になり、各船の
車両甲板で漏水との戦いが始まっていた。 31
何とか防水処置をしようとしても、容赦なく次々と波が入ってく
る。
やがて、外の波の動きで車両甲板に溜まった水が前後に波に合わ
せて暴れ始める。
そして、強風に押されながら、踏ん張り続けた洞爺丸も、漏水が
はじまった。
<i123914|8907>
3等客室で本を読んでいた田辺氏。
揺れが段々激しくなり、気持ち悪くなって本を閉じると、頭に冷
たい感触があり、思わず声を上げた。
﹁うひゃあ∼!﹂
寝ていた友人が、しかめっ面で起きた。
﹁何だば!田辺、うるせぇな。﹂
﹁何か頭に⋮﹂
田辺氏は、頭上を見上げると、換気ダクトから水がしたたり落ち
ていた。
舐めると機械の匂いがして、しょっぱい。
ボーイを呼び寄せた。
﹁ちょい!ボーイさん、この水何です?﹂
﹁⋮あぁ、たまに雨水が、船の隅に溜まった雨水が垂れて来ること
があるんです。﹂
すると、それを聞いていた男性が言い返した。
﹁何はんかくせぇ︵いい加減︶な事言ってんだぁ?俺な、何度も時
化の時も連絡船乗ってっけど、こんな水垂れるなんて事、一度も無
がったぁ。呑気な事言ってねぇで、水漏るとこさぁツッペかえば︵
穴を塞ぐ︶いいべや!おめぇ、終まいにゃ座るとこ、ビッシャにな
32
ってまって、あずましく︵落ち着いて︶してられねっけよ!﹂
周囲がざわついて、ボーイは、唖然とする。
すると、大きく揺れると共に、上の三等通路から悲鳴と様々な物
が落ちて来る音が響き、三等客室では、荷物と座ってた人々が転が
り、悲鳴があがる。
そして、ボーイの後ろの階段から、水道を撒いたように、水がバ
シャバシャ落ちてきた。
ボーイは青ざめた顔で三等通路を見に行った。
あちこちから水が揺れる度に降ってくるようになる。
乗客達は不安な表情を隠せなくなってきた。
その頃、七重浜がある上磯町久根別。
暴風吹き荒れる長屋の一角に、当時小学校3年だった秋坂勇治氏
がいた。
真っ暗な停電の中、ガタガタと家のあちこちが軋み、1本の蝋燭
の火だけが室内を灯していた。
父が呟いた。
﹁どうせ、この分じゃ停電は治らん。もう寝てしまえ。﹂
秋坂氏は、父の言う通り寝床に付いた。
家のガタガタ音しか聞こえない。
怖くて秋坂少年は布団に潜って、外が見えないようにした。
そう怯えているうちに、いつの間にか寝てしまった。
★国際救難信号“SOS”
20時1分。
ついにSOSを発信した船が現れた。
33
アメリカ海軍の大型揚陸艇、LST546号である。
︵運航は日本の会社委託の日本人︶
アメリカ海軍の中では小型の船だか、戦車を敵地海岸に揚陸させ
る為の船で2316総トンもあり、青函連絡船の貨物船と同じ位の
大きさがある。
洞爺丸出航直前に函館港を出航したが、あとは洞爺丸同様、防波
函館登支北方30度、1.5マイル強風
堤を過ぎてから危険を感じ、仮泊していたが、走錨が始まってしま
ったのである。
LST546
・LST546
﹁SOS
の為危険﹂
・JNI︵海上保安部︶
﹁遭難状況詳細知らせ﹂
・LST546
﹁18時20分函館発塩釜へ向けたところ風波強く船体危険。45
名の米兵及びトラック積載、近くに座礁したく思う﹂
<i124418|8907>
画像・LST
海上保安庁第一管区・函館海上保安部は、LST546を救援出
来る船を呼び掛けたが、答えたのは﹁洞爺丸﹂だけで、﹁こちらも
難航中﹂と答えただけだった。
誰も助けに来る余裕は無いと悟ったLST546は、エンジン全
開で荒波の中、函館湾を強引に突っ切り、対岸の葛登支浜に強行座
礁し、難を乗り切り、SOSを取り消した。
弾雨飛び交う敵地に強行揚陸するのが任務の軍艦らしい自己解決
だった。
34
同じ頃、もう1隻、台風﹁マリー﹂との戦いを終えた船がいた。
第十一青函丸である。
深い波の中、船体を3つに分裂させ轟沈した。
乗組員90名全員が亡くなり、沈没した経緯は、あまり知られず
に函館港の防波堤外に消えた。
<i125332|8907>
35
第7章 おさまらぬ嵐
20時15分。
三等客室の浸水と揺れは益々ひどくなっていく。
床が本格的に濡れて船の揺れで踊っている。
船酔いで苦しむ乗客も出てきた。
三等客室に突然中年女性が下りてきて叫んだ。
﹁誰か!誰か、お医者さん、いませんか?﹂
誰も答えない。 洞爺丸の船内放送が、船内乗客にお医者さんが居ないか名乗り出
て欲しい旨を伝えた。
田辺氏が呟いた。
﹁なんだよ、こんな大きな船に医者居ないのかよ。﹂
﹁航路が4時間半で短いから必要ないんだろうよ。﹂
﹁でもさぁ、今日はどうすんだよ、もう6時間船にいるんだぜェ。﹂
﹁だからよォ、知らねェよ、そんなん!﹂
上の客室でガラスが割れて飛んできたガラスが刺さった人がいる
という。
上はどうなってるんだろうか。我々は水責めで参ってきていた。
水が降らない上が羨ましいと思ったのだが、上は暴風で危険なの
だろうか。
これから、益々酷くなっていくのだろうか。
この嵐は、終わりが見えてこない。
近藤船長も、﹁信じられない﹂気持ちに包まれていた。
錨を引きずりながら、徐々に海岸の方へ流されていく。
36
右に左に船尾が振り回され、その度にエンジン出力加減で、かろ
うじて船をコントロールしていた。
夕方17時に見た台風の目。
その1時間半後には、天候は落ち着く筈だった。
なのに、何だ、この無惨な光景は!
気圧計は980ミリバールのまま出港時から変化が無い。
風圧計は最大50mスケールだが、振り切っている。
壊れてると思いたいが、この4000t近い洞爺丸を振り回す力
を持つこの嵐、数値は間違っていないのだろう。
一体、何が起こっているのか解らない。
JMC台風情報は4時間遅れで役に立たなかった。
だから、自分で予測していたのだが⋮。
実は、この時、台風は予測と逆方向の北海道南部、日本海50k
m沖にあった。
しかも、100km/hで通り過ぎる筈が、出力を保ったまま北
海道に達したとたんに50km/hに減速、北海道南部を長時間攻
撃し続けたのである。
こんな台風は前例が無く、後に気象庁がこの台風を解析したが、
結論を出すのになんと2年もかかった。
では、誰もが﹁台風の目﹂と思った夕方17時の空の光景は何だ
ったのか。
実は台風ではなかった。 台風の目が現れる前にあった嵐は、台風ではなく、温暖低気圧と
寒冷低気圧が偶然その時、函館上空で衝突し、悪天候になったもの
だった。
その後、天候が一時落ち着いたのは、台風が温暖低気圧と寒冷低
気圧を押しのけて向かって来たからだった。
まんまとこの時、皆、天気の悪戯に騙されたのであった。
37
しかし、台風﹁マリー﹂の悪戯は、﹁悪戯﹂というには、あまり
に残酷だった。
20時19分。
大雪丸がようやく防波堤外に脱出すると、予想以上の大波に驚か
される。
その光景を左手に見つけた洞爺丸から無線電話が入った。
・洞爺丸
﹁本船の前方を今港外に出るのは貴船ですか?﹂
・大雪丸
﹁そうです。﹂
・洞爺丸
﹁本船は今非常に難航しているから注意望む﹂
・大雪丸
﹁本船も同じように難航している。お互いに頑張りましょう。﹂
洞爺丸はどんな気持ちで大雪丸と通信を行ったのだろう。
もし、どちらかが転覆するようなことがあれば、お互い助け合お
うと考えたのではないだろうか。
乗客、貨物が乗っていない大雪丸は、どうせ錨を降ろしても走錨
する為、停泊は諦め、とにかく踟?︵チチュウ・風に向けて船首を
向け、ゆっくり前進していく航法︶しながら嵐をしのぐ方法に出た。
木の葉のごとく煽られながら、函館港を出て行った。
同じ頃、青森市。
青森桟橋で出港見合わせのまま、待機していた羊蹄丸の乗客は、
揺れる息苦しい船内に永らく閉じ込められ、イライラを募らせ、船
38
酔いで気持ち悪くなる乗客が増える一方で、船員が用意した桶は嘔
吐物でいっぱいになり、その臭いで余計船酔い者が増えていった。
3等客室ではついに我慢できなくなった乗客の罵声が響いていた。
﹁函館は出港したらしいぞ!﹂
﹁青森は何故出港しないんだ!船長の臆病者!﹂
﹁出港しないなら船から降ろせよおい!﹂
この光景を、長野から北海道の帯広へ仕事で向かっていた、白田
弘行氏が見ていた。
白田氏は、父の経営する長野市の重量運搬会社で勤め始めたばか
りで、社長であり、親方の父と職人達と、帯広の北海道電力の発電
所の建設工事で80トンのトランスの運搬と、設置を依頼されてい
た。
当時はこのような重量物運搬業者は少なく、白田組は戦前から軍
の払い下げの車両を改造して重量物運搬を行っていた老舗で、当時
は在日米軍から軍用車両を多数払い下げ購入し、それらを独自で改
造し営業していた。
北海道にはこのような重量物の仕事を行う業者がおらず、白田組
に指名がかかったのであった。
<i126080|8907>
白田氏と払い下げ米軍車両改造の重量物運搬車
因みに、当時は大事故を請け負うレッカー会社も存在しない時代、
白田組は長野県警の依頼で事故レッカーを行う事も多くなり、その
縁で1972年の﹁あさま山荘事件﹂の有名な鉄球作戦も請け負っ
たのである。
白田弘行氏は、その運転を行った。
貨物鉄道で搬送したトランスと作業車両を送った後、現場に届く
39
前に、特急で函館に渡る前に羊蹄丸で足止めを食らっていた。
父は騒ぎをゴロ寝しながら寝ぼけ眼で舌打ちをしながら小声で呟
いた。
﹁うるせえな。台風だから仕方ないだろうよ。﹂
職人達は騒ぎを無視して花札をやって盛り上がっていた。
昔から機械好きの白田氏は、ボーイにお願いし、ブリッジや機関
室等の見学をさせてもらった。
白田組作業員は、それなりに﹁出港見合わせ﹂を楽しんでした。
40
第8章 船の死
★陸地の被害
21時。函館市郊外・上磯町東浜
ついに高波が沿岸近くの民家を脅かし始めた。
その中に、對馬きくゑさんの家もあった。
對馬家は、秋田の豪農から枝分かれし北海道に渡ってきた移民の
末裔だった。
對馬一家は、国道228号線を挟んだ陸側の久根別の親戚の家に
向かおうと家を出て国道を渡り切ったとたん、轟音と共に家が大波
に叩き潰されて、斜めに崩れていく。
きくゑさんは﹁ああ⋮。﹂とおもわず口に両手を当てた。
貧しく苦しかった子供の頃から住み慣れた家を失うその瞬間、シ
ョックを隠せず、泣き崩れる。
主人と4人の子供達に支えられ、大風に耐えながら、親戚の家へ
向かった。
この頃、北海道南部を中心に強風や高波による家屋倒壊が発生し
続けていた。
もっとも被害が大きかったのは岩内町で、20時15分頃、台風
で避難したアパートの1部屋で消し忘れた火鉢からの飛び火が引火。
風速40mの中、消火活動もおぼつかずに、漁港の燃料貯蔵庫に
引火し大爆発を起こし、町内の80パーセントを焼き尽くし、死者
35名、行方不明3名を出す惨事となった。
<i125333|8907>
41
★エンジンを守れ
21時。
函館港内で停泊していた第十二青函丸が流され始めた。
どんどん有川桟橋に迫っていく。
海岸と違い、勢いよく桟橋に激突すれば、たちまち大破し轟沈し
てしまう。
第十二青函丸もついに函館港外へ脱出を決意し防波堤を目指そう
とする。
しかし錨が、停泊の際に流されたせいで両舷の錨のチェーンが絡
み合って収納できない。
やむなく錨を海底に引きずりながら函館港脱出を決意する。
防波堤の灯台も停電で消え、レーダーも高波が反応し、ブリップ
︵焦点︶が沢山ブラウン管に浮かんで殆ど役に立たない。
かろうじて防波堤外に出た第十二青函丸も、大雪丸と同様にエン
ジン出力で風に正面から逆らいながら函館港外に出て行った。
21時15分
洞爺丸の車両甲板は既にすっかり水に浸かり、波で揺れるたびに
車両甲板下へ流れていく。
車両甲板下の三等客室は、畳が浮き上がるので立てかけて、全員
立ってるしかなくなった。
船員が一生懸命バケツリレーで水を掻き出すが、入ってくる水の
量の方が多い。
すると、田辺氏の服を下から引っ張る人がいた。
客室の仕切りの角に老婆が座っていた。
﹁あの、すみません、そこの柱にこの紐縛ってくれないかね?﹂
﹁⋮ああ、いいですよ。﹂
田辺氏は、言われたように柱に紐を結びつけた。
﹁こんなのどうするんです?﹂
42
﹁船がかっぱがった︵転覆した︶時につかまるだ。﹂
田辺氏は絶句した。
すると、さっきボーイに怒鳴っていた男が今度は老婆に叱咤した。
﹁はんかくせえこと言ってんじゃねえ!こんなデカイ船が、かっぱ
がる訳ねェだろ!落ち着けこのババァ!﹂
田辺氏は、しかめっ面をして男を睨んだ。
﹁あのォ⋮お年寄りには、もっと優しく接してやってくれませんか
ね?﹂
﹁だぁ?このボンボンのクソガキが偉そうに。﹂
田辺氏は男に食ってかかろうとしたが、友人2人が止めに入った。
すると、老婆が泣き出した。
﹁もういい⋮こんな婆ァなんか、どうせこの嵐の中じゃ、助からね
ェべさ、もうお迎え来たと思っで諦めるべェ、ごめんね、ごめんね
⋮。﹂
それを見た男は、舌打ちした後、田辺氏を睨んで三等室の隅に行
って煙草を吸いだした。
この騒ぎで周囲が静まり返った。
﹁船内の皆様に申し上げます!﹂
突然、沈黙に船内放送が割り込み田辺氏は﹁ビクッ﹂とした。
全員が無言でスピーカーに顔を向けた。
﹁風もだいぶ衰えてまいりました。只今の風速は30mで、徐々に
衰えております。もう少しの辛抱です、頑張ってください。﹂
田辺氏は驚いた。
﹁今が30mったら、さっきまで何mあったのよ。がっつ︵凄い︶
やべぇぞ。﹂
﹁まぁ、衰えてるっつーで。もう楽になるべ。﹂
﹁別の意味で楽にならなきゃいいがな。﹂
﹁あのよぉ、おめェ、ほんずけねェ︵くだらない︶事言ってんじゃ
ねェよ⋮⋮。﹂
43
<i125331|8907>
一方、その下のボイラー室では、火夫総出で死闘が続いていた。
絶えず波に対抗する為、石炭が絶えずスコップでボイラーの窯に
放り投げられる。
もう誰もが無言で全身びしょ濡れになりながら、雨のように天井
からしたたる海水の中、焚き続ける。
あちこちで﹁ジュージュー﹂と海水がボイラーに当たり、蒸発す
る音が聞こえる。
すると、スコップを石炭取り出し口に刺したその瞬間、﹁ドバァ
ー﹂と音を立てて海水混じりの石炭が流れ出した。
﹁バンカーが流れたぞぉ!﹂︵石炭庫流出︶
その直後、次から次へ6台あるボイラーの焚き込み口の前を泥と
化した石炭が走り抜け、火夫達を足からすくい倒す。
焼けた窯に当たった海水が蒸発し、ボイラー室が湯気に包まれた。
暫くの沈黙の後、若い火夫が、突然、悪魔のような笑い声を高ら
かにあげた。
恐怖と過労で、ついに気が触れてしまったのだ。
﹁誰かコイツを休憩室に連れて行け!﹂
二人で泥から、高らかに笑う火夫を救いだし、出口に向かおうと
するが、そこに流れてきた海水が襲いかかり、三人とも倒れる。
火夫長が叫んだ。
﹁貴様ら!船を沈める気かァ!死にたくなければ戦え!どんどん焚
くんだ!﹂
﹁しかし、もうこんな海水混じりの石炭なんか⋮。﹂
﹁いいから何でもかんでも焚いてしまえ!焚くんだ!﹂
火夫長ががむしゃらにスコップを振い、窯に放り投げる。
﹁俺一人でもやるぞぉ!死ぬまで焚いてやる!﹂
それを見た火夫達は奮い立ち、火夫長に続き、勢いよくスコップ
44
を振い始めた。
しかし、無情にも窯の中は海水臭い蒸気が充満し、赤い炎はどん
どん小さくなり、蒸気圧も下がっていった。 隣の機関室でも浸水したビルジ︵溜水︶が足元をさらいながら必
死のエンジン操作が続いていた。
各メーター出力がどんどん落ちていくのを見て機関士が焦る。
テレグラフがブリッジからの指示を﹁ジリリン、ジリリン﹂とベ
ルを鳴らして伝え続けるが、もうそれらの指示に答えられなくなる
時も間もなくだろう。
すると、扉の隙間から、黒い石炭の粉混じりの水が流れてきた。
それを見た機関士達は、ボイラー室が﹁終わった﹂事を察し、愕
然とした。
あとは、船体上部にある補助ディーゼルエンジンで電力を維持し、
通信と明かりを維持し、救援が来るまでの時間稼ぎをするだけ。
もうそれしか洞爺丸は無かった。
21時25分
洞爺丸より国鉄海岸通信局︵JRG︶へ打電
・洞爺丸
﹁エンジン、ダイナモ︵発電機︶止まりつつあり。突風55m。﹂
・JRG
﹁こちらも非常配置でwatch︵監視︶中。貴船も頑張れ。﹂
ブリッジにまで高波が襲い、窓の隙間から海水が吹き出し、ブリ
ッジの中もすっかり水浸しだった。
すると、伝声管から悲痛な機関室の声が響いた。
﹁左ダイナモ故障!左エンジン故障∼!﹂
ボイラー室の排水ポンプは石炭が詰まり、もう排水出来ない。
45
排水ポンプ入り口付け根が圧力で裂けて黒い水を噴出する。
左舷動力が効かなくなると、ふんばりが効かなくなった船は右舷
に大きく揺れ、次は右舷に溜まったビルジが集中し、ついに右舷も
停止した。
22時7分打電。
・洞爺丸 ﹁両エンジン使用不能となる。﹂
一方、その頃、沖に出た大雪丸も舵機室が浸水、舵が効かなくな
り、エンジン出力だけで船位を保ちながら函館湾を出ようとしてい
たが、他の連絡船同様に浸水との戦いが続いていた。
46
第9章 命取りになった座礁
22時17分。
函館港内に居た日高丸も、第十二青函丸に続いて脱出したが、防
波堤外に出るのに普段なら15分で出るのが1時間もかかった。
22時37分に錨を降ろした。
ボイラー
すると、防波堤外で台風と戦っていた十勝丸から無線電話が入っ
た。
・十勝丸
﹁本船浸水甚だしくなり、缶焚けず、電気も消え沈没寸前にあり。
本船に近寄るな﹂
<i125340|8907>
十勝丸︵渡島丸、石狩丸と同型︶画像は事故後サルベージし改修し
た後
洞爺丸台風遭難通信関係記録より
この時、十勝丸は完全に機関が停止、只、波任せの漂流状態に陥
っていた。
レーダーで十勝丸を探してみるが、レーダー画面は大波のブリッ
プだらけで非常に見にくい。おまけに大揺れのブリッジ内である。
必死にレーダーを見つめていると、大きめの物体のブリップが点
いたり消えたりする。
すると、サーチライトにチラリと三角の物体が照らされ、黒波に
出たり隠れたりしているのが見えた。
﹁船長!何か大きいのが左舷に浮かんでます!約80m!十勝丸か
も知れません!﹂
47
”hold
on
anchor!”︵錨伸ばせ︶
錨が3節︵1節約25m︶から10節に一気に伸ばされる。
FULL
ASTERN!”︵全速後退︶
船首のアンカー・ウインチが﹁ゴー﹂と唸りをあげる。
”
漏水が床を踊るブリッジにテレグラフの音が鳴り響く。
黒い物体は波に消えたかと思うと、突如船首の至近距離に勢いよ
く海面から飛び出してくる。
ブリッジに怒号があがる。
﹁うおおお!下がれぇ!﹂
半速前進だったエンジンが機関室操作にて全速後進に切り替えら
れ、タービンエンジンの甲高い唸りが響き渡り、後進を始めた。
日高丸は黒い物体から徐々に遠ざかり、何とか回避に成功した。
ブリッジの船員達は冷や汗まみれに力を落とした。
﹁今のは⋮浮標じゃないです!﹂
﹁あぁ⋮沈船のようだな⋮。﹂
不気味な沈黙がブリッジを包む。
﹁くそぉ!あんな風になってたまるか!皆!頑張るぞ!﹂
一方、日高丸の機関室では怒号が飛び交っていた。
防波堤外に出てから他の連絡船同様に後部車両甲板入口から浸水
が始まり、防水対策を始めた直後に全速後退し、大量の海水が侵入
し、機関室、ボイラー室に大量の海水の雨を降らせたのだ。
分電盤に防水カンバスを被せようとしたところで頭から水が大量
に降り注ぎ、水浸しの機関室で機関士達が立ち尽くす。
﹁馬鹿野郎!何で後退なんかさせやがんだぁ!﹂
機関長が、怒る機関士達をなだめる。
﹁ブリッジだって判ってる!何かあったんだ!やむを得んだろ!早
く防水処置を再開しろ!﹂
この時、日高丸が目撃したのは、時間と場所的に、第11青函丸
の船首と思われる。
48
第11青函丸の船首は、丁度空気が残ってずっと漂流していたの
だった。 日高丸は、もう何処にも安全な場所が無い事を悟った。
22時20分。
洞爺丸船長は、ついに決断した。
いや、もう残された手段はただ一つだけだった。
﹁船内放送をかけてくれ!本船は座礁する!全員、救命胴衣着用の
事!﹂
座礁事故は、沈まないまでも大変な事だ。
砂浜の海岸に座礁する分には、危険は非常に少なくなる。
大型船の船底は平らで、砂の海底に座礁すれば船が固定されて、
もう漂流する心配はない。あとは天候が落ち着くまで救援を待つだ
けだ。
最も、後処理が大変だが、もう仕方がない。
船乗りにとって、ましてや日本の自慢の優秀船・洞爺丸を座礁さ
せてしまうとは、定年直前の近藤船長にとって最悪の屈辱だった。
しかし、もう手段はない。
何時まで経っても天候は回復しない。
近藤船長は、﹁マリー﹂に負けた。
強く握られた拳には、最初の予報や自分で調べた予報と全く異な
る19時現在の天気情報の電報が握られていた。
船内放送が流れた。
﹁本船は機関部に水が入り、航行不能に陥りましたので、これより
七重浜へ座礁します。お客様は救命具の着用をお願い致します。﹂
客室全てが騒然となった。
放送が終わらないうちに既に救命具入れの扉に人々が飛びついた。
田辺氏も群衆に紛れて救命胴衣を3個手に握り、友人に手渡した。
49
群衆の隙間から丸まったままの救命胴衣が転がり、右舷の壁にぶ
つかり、溜まった水に乗客の荷物と共に浮いていた。
ボーイが叫ぶ。
﹁落ち着いてください!救命胴衣の数は十分にあります!救命胴衣
着用は念の為です!浜に座礁すればもう危険はありません!﹂
もう、そんな言葉なんか誰も聞いてはいなかった。
渕上先生がその光景を黙って見ていた。
﹁先生!はやく救命胴衣を!﹂
﹁私はいいから、君達は早く上に避難したまえ。﹂
先生は落ち着いていた。
すると、﹁ガシャーン﹂と音が響いた。
なかなか開かない救命胴衣の扉を無理やり壊して開けていた。
右下の方から﹁ズズズ﹂と鈍い音が二度、三度響いて船は止まっ
た。
びしょ濡れのブリッジで船員達が座礁して安堵の表情を浮かべる。
その中で、唯ひとり、近藤船長だけが呆然と立ち尽くし、歯を食
いしばっていた。
静かに船長が呟いた。
﹁レーダーで座礁位置確認し、直ちに打電せよ。﹂
22時27分
・洞爺丸
﹁防波堤青灯より267度8ケーブル、風速18m、突風28m、
波8︵m︶。﹂
22時28分
・洞爺丸
﹁2226︵22時26分︶座礁せり。﹂
・国鉄函館海岸局
﹁最後まで頑張ってください。﹂
50
あとは、嵐が去って救援が来るまでゆっくりできる。
無線士3人が安堵の溜息をついて笑顔を浮かべたその時だった。
﹁ズドドーン!﹂と大きな振動が船体を揺るがし、一気に45度右
に傾いた。
座っていた椅子ごと右舷に落ちそうになったので椅子から離れる
と椅子が勢いよく右舷の壁に叩きつけられた。
少し間をおいて、さらに大きな振動で船体が軋み、傾きが増し始
める。
﹁何なんだ!一体!﹂
<i125357|8907>
実は、座礁したのは七重浜海岸沖の遠浅ではなかった。
海岸沖からさらに離れた普段は水深12mの場所だった。
物理的に、喫水4.9mの洞爺丸が座礁する筈がない場所で座礁
したのだ。
実は、台風の荒波に撹拌されて海底に溜まってただけの砂の山に
座礁したのだ。
絞まった浅瀬の砂に座礁すれば、もう簡単に船は動かない。
だが、単純に溜まってるだけの絞まりの無い砂山なんか、エンジ
ンが動けば自力で脱出できる位の柔らかい代物なのだ。
そんな場所で8mの高波が押し寄せる海に座礁すれば、いとも簡
単に転覆してしまうのだ。
白いしぶきを立て大きなうねりを伴った黒い大波は、完全に動け
なくなった洞爺丸を執拗に押し倒し始めた。
51
函館市は大昔はその土地そのものが存在しなかった。
渡島半島と函館山は大昔は離れており、函館山は﹁島﹂だった。
永年に渡り、渡島半島の周囲の川が流した砂と、駒ケ岳の昔の火
山灰の粉が混じった細かい砂の地質であり、函館市内を掘ると黒っ
ぽい砂と穴ぼこだらけの軽石と貝殻が出てくる。
そんな細かいものが堆積しているのが函館湾の海底だった。
位置を聞いた函館海岸局は、不自然な位置の座礁に驚いたが、そ
んな理由で座礁したという事が判明したのは後日のことだった。
もう洞爺丸が大惨事を起こすのは時間の問題だった。
52
第10章 転覆
22時30分。
ボーイが二段上の三等座席に乗客を誘導し始めた。
左舷階段に人々が溢れかえり、大人二名が並んで一杯の幅の階段
で、しかも右舷に45度も傾き登り難く、なかなか進まなかった。
田辺氏は、隣の秋林氏がカメラを持ってるのを思いだす。
﹁なぁ、おめぇのキャメラでさ、この遭難記録、撮影しとこうぜ。﹂
﹁おう、そうだな。﹂
秋林氏は、フィルムがある限り撮影した。
あと一枚残ったところで、田辺氏にカメラを手渡す。
﹁ちょんび︵田辺氏の仇名︶も撮るか?﹂
田辺氏も一枚撮影した。
田辺氏は、万が一亡くなった時を考え、身分証を出そうとボスト
ンバックを漁ったが、出てこない。
とりあえず研修旅行手帳を上着のポケットにねじ込んだ。
田辺氏達9人は、乗客が皆居なくなってから渕上先生を先頭に避
難を始めた。
避難する乗客の中で最後尾で、田辺氏が一番後ろにいた。
手摺がミシミシ言ってる。
斜めに大勢が捕まってるから負荷が普段より大きいせいだ。
田辺氏が最後の段差を登ろうとしたその時。
階段の手摺がバリッと音を立ててもげた。
田辺氏の眼下に、水没した三等室が見える。
53
無人の三等室に畳や荷物がプカプカ浮き、半分以上水没した右舷
階段から、水がジャバジャバ漏れていた。
﹁やばい⋮落ちる⋮。﹂
右手で取れてブラブラになった手摺を掴み、左手にボストンバッ
クを握り、右手が滑り始めた。
﹁ちょんび!﹂
秋林氏が後ろに居ない田辺氏に気が付き戻ってきて、田辺氏のY
シャツの襟首を掴んで引き上げてくれた。
﹁悪ィ。秋林。﹂
﹁危ねかったなぁ。﹂
すると、秋林氏の目に田辺氏のボストンバックが目に留まった。
﹁何だよ、おめぇ!ボストンバック持って来やがってよぉ!だから
落ちるんだって!ちゃっかりしてっけよ!俺も持ってくる。﹂
﹁止めれ!もう部屋は水没してんだぞ!﹂
﹁キャメラが入ってんだよ!高かったんだぜ!﹂
﹁駄目だって!止めれ!諦めちまえ!﹂
後日、結局撮影したカメラは発見されず、写真記録は残らなかっ
た。
22時40分。
台風﹁マリー﹂の暴風圏は既に過ぎ、風は弱まった。
しかし、マリーは、しっかり置き土産を置いていった。
日本海で大暴れしたマリーが起こした波が津軽海峡を流れ、函館
湾に流れ込み、狭い湾内で反響し、高波を誘発していた。
なかなか静まらない波に、ついに座礁待機を断念した洞爺丸はS
OSを発信した。
通信士は机にしがみつきながら打電した。
22時40分。海上保安部に国際救難信号。
54
・洞爺丸
﹁sos洞爺丸函館港外青灯より267度8ケーブル地点に座礁せ
り。﹂
︵1ケーブルは1マイルの1/10。約185m。︶
しかし、海上保安部から応答が無かった。
海上保安部のアンテナは強風で破損し、修理中だったのだ。
22時42分。国鉄函館海岸局に打電。
・洞爺丸
﹁本船500キロサイクルにてsosよろしく。﹂
︵海上保安部が応答しないから、そちらから連絡してほしい︶
・国鉄函館海岸局
﹁sos,ok﹂
<i125356|8907>
その直後、ブリッジの窓が一斉に割れ、大量の海水が流れ込んだ。
そして、車両甲板の車両固定が限界に達し、全ての搭載貨車が右
舷に倒れ、一気に90度に転覆した。
ブリッジをはじめ、上部構造物が破壊され、煙突が倒れ、一等、
2等客室が潰され、ここに居た殆どの人々が亡くなったと推定され
る。
なお、三等に居た人々や機関室やボイラー室の職員は左舷の三等
座席室に閉じ込められた。
<i125355|8907>
上部構造物が破壊されと同時に、非常電源用ディーゼルエンジン
も破壊され、人の集まる三等座席室は暗闇に包まれ、乗客の悲鳴や
泣き声が響く。
55
田辺氏達は、﹁天井﹂と化した窓を見た。
波防止の板が開き、窓の外を海水が泡を立てて踊っている。
容赦なく襲う高波は、横転した洞爺丸をさらに押し、徐々に天地
が逆となる。
上下逆になった窓の外に様々な物が流れ、﹁洞爺丸 東京﹂と書
かれた救命筏が窓にガツンとぶつかってきた。
そして、湯気を出しながら赤い小さい光が沢山浮かんでいる。
破壊された煙突から流れ出たガラ︵石炭の燃えカス︶だった。
すると石炭ストーブを消したような油の焼けるような臭いが充満
し、息が苦しくなってきた。
誰かが叫んだ。
﹁皆吸うなぁ!死ぬぞ!窓を開けろぉ!﹂
上になったボイラー室から流れ出た不完全燃焼で発生した可燃性
ガスだ。
騒然となって、一斉にあちこちで窓を開け始めた。
﹁どけぇ!破るぞ!﹂
怒鳴り声と同時に斧を持った男性のシルエットが窓を叩き壊した
その時。
破れた窓から大波が彼を襲った。
﹁ぐわぁ!痛ぇ!ぐわあああ!﹂
そして男の声を掻き消しながら室内が海水で満たされ始め、あっ
というまに腰まで浸かった。
腰に誰かしがみついた。
子供らしき人間が、ガボガボ言いながら掴まってる。
溺れてる!と察した田辺氏は、ボストンバックを棄て、子供らし
き人間を抱き上げる。
がむしゃらに手探りで窓を開けた。
外の様子を見る為に窓枠に乗り掴まると、人々がぶつかってきた。
56
﹁ああ!﹂と背中の子供が悲鳴をあげ、肩にあった手が離れ軽くな
る。
﹁はっ!﹂と後ろを見たら、真っ暗な中、人々が溢れ、さっきの子
供らしき人間が何処に行ったかサッパリ分からない。
悲鳴と泣き声と水を掻く音が暗闇に響きわたる。
田辺氏が﹁あの!﹂と、声をあげた瞬間、大波か彼に襲いかかり、
外に放り出された。
57
第11章 漂流
★第六真盛丸
22時50分。
函館港防波堤外に仮泊めしていた大阪の民間貨物船・第六真盛丸
︵2209総トン︶は、やはり他の船同様に走錨に陥り、船首を函
館港側に向けた状態で20時37分に七重浜に座礁していた。
座礁場所は海岸に極めて近い場所で、しっかりと締まった砂の海
底に食い込み、右舷に10度程傾いたが、危険はないと判断し、嵐
が過ぎるのを待っていた。
斜め右舷に大きな客船らしき船が泊まったのを確認していたが、
﹁お互い大変ですね。﹂としか考えていなかった。
ところが、徐々に客船の灯りが傾いたかと思うと、20分位で姿
を消した。
﹁なあ、さっき前に居た大きい客船どない行った?沖に出て行った
んか?﹂
﹁いや、さっきまで居ましたが?﹂
﹁あんな大きいのが沖に出たなら、こんなすぐ見えなくなる訳ない
ねん。﹂
﹁⋮⋮。﹂
﹁とりあえず、その辺見てみい。﹂
サーチライトが海を照らした。
すると、何も無い。
うねりが深い波だけが黒く蠢くだけだ。
﹁客船どないした?﹂
﹁見えません。﹂
﹁⋮とりあえず監視を続けよう。停電したかもなぁ。あんなのが、
こっちに流されてきたら、うちらがお釈迦になってまうさかい。﹂
58
すると、伝声管から報告がきた。
﹁ブリッジ!1時︵方向︶に漂流物多数あり!﹂
航海士が、サーチライトを当てた方向を双眼鏡で確認した。
無人の救命筏が照らされた。
﹁船長!筏です!まさか!﹂
﹁何言うてんねん、あんな大型の客船がそう簡単に、お釈迦になる
かいな。﹂
船長が双眼鏡で確認した。
救命筏の向こうに青白い光が多数漂っていた。
救命胴衣に付属する小型電球の光だった。
サーチライトに大の字になって浮かぶ人間が数人見えた。
﹁⋮今すぐ右舷にロープ下ろせ!全てのサーチライトで周囲を照ら
せ!急げ!﹂
その頃、田辺氏はその漂流者のひとりだった。
高波に呑まれ溺れても、救命胴衣のおかげで浮く事が出来る。
プハッと顔を海面から出して息をすると、また高波に呑まれる。
その繰り返しが果てしなく続く。
すると、サーチライトが顔を照らし、船が見えた。
第六真盛丸だった。
﹁救助船だ!﹂
船に向かって手を振ろうとしても、波が邪魔をする。
何かがぶつかってきたので、必死に掴む。
すると、柔らかい。
サーチライトが当たり、掴んだものを見たら遺体だった。
生気が無い顔と対面し、慌てて手を放し、また波に呑まれて、顔
をあげたら真っ暗闇だった。
さっきの船が見えない。
今度は硬いものがぶつかってきて、抱きつくと平たく小さい。
59
今度は遺体じゃないと安心して掴まり続けた。
﹁もう駄目だ。﹂
田辺氏は目を閉じ、波に漂いながら意識が遠のき、気持ち良くな
り寝てしまった。
その頃、国鉄函館海岸局。
打電しても返答が無い洞爺丸に対しタグボート4隻を救助に派遣。
洞爺丸に対し2度確認の打電をするが、返答がない。
22時57分。3度目の打電。
ans﹂︵no
answer・返
﹁船内状況、浸水なるやウナヘ︵至急返答せよ︶﹂
無線士の打電記録に﹁no
答なし︶の文字が続いた。
人は、洞爺丸の転覆の際に甲板で非常用エンジンを操作中に
第六真盛丸は2人を救助に成功した。
1
投げ出された川上二等機関士だった。
デッキから船員達が身を乗り出し波飛沫を被りながら叫ぶ。
﹁ロープにしっかり掴まれ!死んでも離すなぁ!﹂
﹁船に足をかけろぉ!突っ張れ!﹂
やっとの思いで甲板に引き揚げられ、船内に案内された。
洞爺丸の乗組員が救助された事を知った船長は、無線士に打電を
するよう伝えたが、いつまでもモールスを打ち、沈黙し、それを繰
り返す。
﹁どないや!海保︵函館海上保安部︶は応答は何や!何て言っとん
ね!﹂
無線士が答えた。
﹁送受信不能です!﹂
第六真盛丸のアンテナは、嵐で海水にまみれ、塩だらけとなり、
絶縁不良になっていた。
60
61
第12章 救助
・乱れ飛ぶ無電
第六真盛丸船長は、直ちに無線アンテナの修理を命じた。
風はだいぶ治まってはいたものの、まだ風速20m程の風が吹き
荒れ、船を叩きつける高波の振動と、波飛沫によって足元が滑りや
すく、しかも暗闇で危険な作業だった。
すると、海の方の右舷から、数人の遭難者が流れてきた。
船員達は直ちに救難準備にかかるが、そこで壮絶なものを目撃し
てしまった。
高波に押された遭難者達が右舷に勢いよく叩きつけられたのだ。
﹁おーい!ロープを掴め!﹂と叫んで、ライトを当てると、さっき
までアップアップしていた人々が、目を白くして力なく波任せに浮
かんでいた。
﹁まずいぞ!右舷は危険だ!左舷はどうだ!﹂
船員達が左舷を見ると、丁度座礁した第六真盛丸が防波堤となっ
て、左舷に流された遭難者が自力で海岸に這い上がっているのを見
た。
﹁何とか、左舷に誘導しろ!﹂
サーチライトを左舷に向け、船員達が遭難達を叫んで誘導を試み
た。
﹁おーい!こっちに行けェ!﹂
﹁そっちは危ないぞお!﹂
しかし、波に呑まれて右舷の方へ消えていく遭難者が次から次に
見える。
波任せに漂流を続けていた田辺氏は抱いていた板を離してしまい、
62
溺れて目が覚めた。
必死にもがいて掴まるものを探す。
すると、何か触れたので必死に掴ると旅行用トランクだった。
ふと見ると、さっきの救難船が近くにいた。
眩しい光のなか、黒い船のシルエットが浮かび、白い船の構造物
が見えた。
何か船員達が叫んでいるようだった。
サーチライトが光る方へ泳いでみたが、波に弄ばれ、うまくいか
ない。
また力尽きて漂っていると、足に何かが触れて揺れが止まった。
海岸の浅瀬だった。
背中にサーチライトを浴びながら、残された力いっぱいに立ち上
がり、砂浜へ走った。
打ち上げられたボートによしかかり、生還したことを噛みしめる。
﹁た、助かったぁ⋮。﹂
しかし、後ろに﹁ドドーン﹂と力強い波の音を聞いた途端、自然
に足が動く。
﹁う、うぅ、し、死ぬ、殺される!﹂
田辺氏は再びボートを乗り越え、陸地に向かって這っていく。
しかし、残骸と砂に足を取られてつまずき、ここで立ち上がる気
力を失った。
23時11分。
海上保安庁第一管区・函館海上保安部所属の、れぶん型450t
巡視船﹁おくしり﹂︵PM10︶をSOSを送信した洞爺丸に、機
関停止により漂流中と連絡してきた十勝丸に対し、同型巡視船﹁り
しり﹂︵PM12︶を救難に向かわせるよう指示を行った。
しかし、﹁りしり﹂もまた七重浜近くで荒波と暴風に揉まれてお
り、自身を守るだけで精一杯で、﹁おくしり﹂が唯一港内停泊中で
無事だったが、大型船が難航する位の海で、495総トンの船がす
63
んなり行ける訳はなく、非常に難航しながらの出動となった。
そして、先に救援に向かっていた連絡船用タグボート4隻も、あ
まりの荒波に引き返してきた。
なかなか誰も救助に向かえない中、また1隻が音信不通となった。
函館港防波堤外へ避難していた日高丸であった。 23時32分海上保安部受信。
・日高丸
﹁SOS de JQLY︵日高丸の無線局名︶函館防波堤灯台よ
りW︵西︶9ケーブル︵約1665m︶の位置にて、そう⋮﹂
モールスが途中で消えた。
無電を受けた海上保安部の無線手は、﹁JQLY、SOS発信後
無電中断!﹂
please
の略︶﹂ と上官に報告しながら、打電するが、返事は二度と帰って来なかっ
た。
23時33分打電
・JNI︵海保︶
﹁JQLY、PSE︵
空しく送受信記録に、﹁NO ANS︵応答なし﹂と記入せざる
を得なかった。
後日、生存者の証言で、SOS発信前に船は操作不能に陥ってお
り、総員退船の指示が出て船を放棄せざるを得ない状態だった。浸
水は船首を海面に没する位まで達し、この数分後の23時40分頃、
60度に傾いて搭載貨車が一気に倒れ、その勢いで転覆・轟沈した。
乗客なし、乗員56名死亡・生存20名。
64
23時36分国鉄函館海岸局受信。
・十勝丸
﹁浸水だいぶ治まりアンカー︵錨︶に異常無き限り安全の模様、付
近に沈船漂流中。S︵南︶15∼20m︵風速の事︶未だ衰えず、
うねり︵波︶SW︵南西︶7︵m︶動揺右20度。全員意気軒昂。﹂
・函館海岸局
﹁頑張ってください。﹂
この時、十勝丸が見た﹁沈船﹂とは時間的に第11青函丸と思わ
れる。
だが、この無電を打った後、十勝丸も行方不明になってしまった。
23時44分。海保受信。
・第六真盛丸
﹁SOS de JKJC︵第六真盛丸︶20時37分七重浜海岸
に座礁した、なお今の所、転覆の状況なき模様、watch頼む。
なお⋮。﹂
今度は中断では無かった。海保の無電がまた突風で吹き上がる塩
で壊れてしまった。
かろうじて受信は出来ていたが、聞き取りにくく、送信が出来な
かった。
第六真盛丸の無線室に、アンテナを修理した船員が集まり、見守
っていた。
﹁どないや!通じたかいな!﹂
﹁⋮帰ってこない。﹂
﹁阿呆な!海保さん寝てるんかいな!﹂
﹁いやいや、違う。多分、あっちもアンテナが塩でやられてるんで
65
しょ。返答くるまで打ってやりますよ。﹂
23時46分。海保受信。
・第六真盛丸
﹁JNI de JKJC SOS QRK?︵そちら感度どうか
?︶﹂
23時49分。海保受信。
﹁SOS de JKJC。本船、七重浜付近において⋮なお、本
船付近、漂流者多数流れてつつあり、至急救助頼む。﹂
だが、第六真盛丸の無電室に一向に返答はなく、電信音だけが響
き渡っていた。
﹁また、もしかして、うちらのアンテナがあかんのちゃうか。﹂
﹁いや、計器は動作しています。大丈夫な筈です。﹂
船員達が黙って手に汗を握り、打電を見守り続けた。
66
67
第13章 生還
翌日。9月27日0時02分。
SOSを何度も送信し続ける、第六真盛丸の打電を読んでいた函
館港内に停泊中の石狩丸の無線士、坂本幸四郎氏が海保に代わって
答えた。
本来は受信した船舶は直ちに答えることが義務づけられていたが、
付近の連絡船のみならず、海保の巡視船ですら救助に向かえる状況
ではなく、誰も答えることはしなかった。
しかし、必死に何度も送信を続ける無線士が気の毒になり、答え
たという。
なお、通信はモールスだが、翻訳して文章にせず、モールスの打
電信号のみで会話を行った。
この方法は﹁ヒアリング﹂と呼ばれるもので、モールス信号を熟
知したベテラン通信士だからこそ出来る会話であった。
︵坂本幸四郎氏著書・わが青春の青函連絡船・光人社︶
<i125614|8907>
無電を固唾を呑んで見守っていた、第六真盛丸船員達は無線士の
﹁答えた!﹂との言葉に一斉に歓声を上げた。
﹁やかましいわ!聞こえへんねん、静かにせんかいっ!﹂
再び静まった無電室に打電音だけが静かに響く。
﹁国鉄の石狩丸だ。﹂
・石狩丸
﹁SOS OK JNIの送信不良ですが受信は良いと思われます
から貴船のSOS、QSL︵受信はしても答えられない︶と思われ
68
る。こちら連絡船・石狩丸は今、函館港内です。﹂
・第六真盛丸
﹁本船は今の所、砂浜に横になって約10度右舷に傾いているが、
転覆の危険は無いがwatch頼む。付近多数の漂流者が海岸に助
けを求めているから最寄に連絡方法ありや︵連絡できるならしてほ
しい︶本船も2名救助した。﹂
一度途絶えて再度、第六真盛丸よりヒアリング打電が始まる。
0時12分石狩丸受電
・第六真盛丸
﹁貴船を通じて救助方連絡頼む。なお、本船付近に多数の漂流者あ
り。何らかの方法により、至急救助頼む。本船も2名救助せり。﹂
石狩丸は早速、函館桟橋の国鉄函館海岸局へ連絡した。
この通信で、洞爺丸が沈没したことが初めて送信された。
函館海岸局は、大雪丸、及び十勝丸に洞爺丸生存者救助を要請し
たが、二隻とも答えなかった。
この時大雪丸は、大嵐に打ち勝ち、木古内港沖で停泊していたが、
エンジンやボイラーは海水まみれとなり、舵も効かず、船体はあち
こちにぶつけ、唯、命からがら浮いているだけだったという。
大雪丸は生き残ったものの、修理が必要で暫くドック入りをやむ
なくされた。
同じ頃。七重浜海岸。
田辺氏は、周囲の声で目が覚めた。
﹁おーい!﹂
﹁大丈夫かぁ!﹂
誰かが叫んでいる。
助けが来たんだ。
69
立ち上がろうとするが、体が動かない。
声も出なかった。
寒さと打撲で体が硬直している。
砂浜を何とか手で掻いて、足で掻いて、少しづつ声のする方へ向
かう。
すると、段々動きが軽くなってきた。
恐らく、一生懸命動こうと、もがいたせいで血の巡りが良くなっ
たのかもしれない。
起き上がると、頭がもうろうとし、目が霞む。
とりあえず、光と声の方に向かう。
助けて!と言いたくても﹁ああうう。﹂としか声が出ない。
やがて、車のエンジン音が聞こえてきた。
その車のライトへ向かって走り始めると、一台が動き出した。
﹁あ、あ、か、⋮!った!。﹂
徐々に声になってきた。
﹁おーい!助けてくれェ!﹂
2台のトラックがいた。
<i125358|8907>
前を動き始めるトラックの運転席のドアを歩きながら必死で叩く。
﹁の、乗せてくれェ!﹂
﹁もう、一杯なんだ!乗れないよ!済まねェ!済まねェ!﹂
田辺氏はトラックが動いた拍子で転んで、トラックの後輪が走っ
ていくのを、うつろに地べたから眺めた。
﹁ああ⋮行ってしまった⋮。﹂
すると、寝ころんだ体に、もう1台のトラックのヘッドライトが
当たった。
誰かが、自分の腕を掴み、抱き上げ、トラックの方へ連れていっ
てくれる。
70
﹁しっかりしろ!死ぬな!﹂
﹁頑張れ!ほら!もう助かったんだ!﹂
田辺氏は、荷台ではなく、トラックのキャビンに乗せられた。
助手席で、ヘッドライトに浮かぶ、壊れた﹁七重浜海水浴場﹂の
看板が目に付いた。
暗闇の国道228号線に出る。
対向車が、けたたましいサイレンを鳴らして通り過ぎる。
当時の緊急車両は、今のような回転灯ではなく、点滅する赤色灯
のみで、何かの緊急車両なのだろうとは分かったが、消防車なのか
救急車なのか覚えていない。
当時はサイレンも皆同じで、機械的な﹁ウ∼。﹂だった。
どこまで走っても停電のせいで明かりが見えなかった。
トラックの揺れと暗闇が心地よく、いつの間にか寝てしまったの
か、気が付いたら、遠藤病院のベッドの上だった。
七重浜沿岸、上磯町久根別。
当時、七重浜に北海道航空航路を設けるために函館飛行場があっ
た。
北海道や路線になる地方都市が出資しあい北日本航空が設立され、
ハワイアン航空のダグラスDC−3旅客機の中古機購入を契約した
ばかりであり、旅客機そのものがまだ無く、営業はセスナ機が観光
シーズンに丘珠から回送され、周遊観光で飛ぶだけだったという。
飛行場は国道沿いの海岸側にあり、砂利で固めただけで、更地同
然の飛行場で地元でも知る人は少ない飛行場だった。
後に洞爺丸台風の被害で、飛行場に不向きと判断されたせいか取
りやめ、逆方向の太平洋岸の高台にある函館市高松町に現在の函館
空港の建設が行われる。
この結局、定期便空港になる事が無いまま終わった飛行場の滑走
路にも多数の洞爺丸生存者が上陸した。
71
對馬きくゑさんが、台風から避難してきた久根別の親戚の家の扉
が、深夜にガタガタ鳴った。
消防団の台風警戒から帰ってきたばかりの親戚の主人が扉を開け
ると、蝋燭の光に浮かび上がったのは、全身びしょ濡れの男で、震
えながら入ってきて、玄関に倒れた。
服は波に揉まれたせいでボロボロで、小声で﹁助けて⋮。﹂と呟
く。
﹁なんだ一体!どうした!﹂
すると、次から次へ、暗闇の中から幽霊のごとく力なく人々が歩
いてくる。
玄関に着いて座り込んだ中年男性が話した。
﹁洞爺丸に乗っていたら、七重浜に乗り上げてかっぱがった。︵ひ
っくり返った︶﹂
親戚の主人は家族や、對馬さんを起こして、避難者を介護するよ
うに頼むと、自転車で出て行った。
消防団を再び呼集して回り、消防団の消防ポンプ車に乗り込んだ
が1台しかない。
﹁源さん叩き起こしてバタバタ出させるか!﹂
バタバタとは、オート三輪車の事だ。
源さんの家の玄関を怒鳴りながら叩いた。
すると、玄関が﹁バシーン!﹂と音を立てて勢いよく開いた。
﹁う、ばか、眩しい!﹂
懐中電灯を源さんの顔に当てながら話そうとしてしまった。
懐中電灯を下すと、源さんは消防団達を見て驚いた。
﹁⋮うるせえなあ、おめーら、何だ!何があっただ!﹂
﹁源さん、大変だ!洞爺丸が七重浜さ、かっぱがっちまってさぁ、
人が沢山流されたっつーだよ!﹂
﹁馬鹿おめー、あんなデッケェ船、かっぱがる訳ねェべや!何寝ぼ
けてんだぁ、おめーはさぁ、全く。﹂
源さんが目を擦りながら部屋に戻っていく。
72
﹁いいから!ホントかどうか、ともかく早ェくバタバタ出してけれ
って!﹂
消防団を先頭に集められた住民が手分けして七重浜海岸に急行し
た。
暗闇の海岸で、サーチライトが海岸から照らされ、いきなり﹁ボ
ー!﹂という汽笛が響き渡って驚いた。
第六真盛丸だった。
実は、現場に来る1時間程前から汽笛を聞いていたが、まさか、
陸地にこの海岸におびただしく散らばる遭難者の事を教えてるとは
思っていなかった。
サーチライトが消防団めがけて点滅し、合図を送ってくる。
何か、通信しているようだったが、意味は分からなかった。
だが、サーチライトに照らされる七重浜を見ると、その意味はよ
く判った。
手分けして転がる遭難者の頬を叩き、生存者を探し続けた。
73
第14章 長い夜
<i125615|8907>
当時のタグボート︵メモリアルシップ摩周丸︶
0時40分、函館桟橋。
国鉄のタグボート4隻が、再度救助に出動した。 おいわけ丸、かつとし丸、第五、第六鐵榮丸は、二隻に別れて、
十勝丸及び日高丸と、洞爺丸の救援に向かった。
<i126083|8907>
450トン型巡視艇︵函館市立図書館︶
海上保安部の巡視船﹁りしり﹂は、洞爺丸の近くに居たが台風と
の戦いでエンジンは水没、無電も使えず、動いている巡視船は﹁お
くしり﹂だけだった。
1時。
唯一、防波堤外に居た連絡船で無事が確認された第十二青函丸は、
近くで行方不明になった十勝丸と日高丸に救援に向かおうと考えた
が、まだ波が高く、その場で踏ん張ってるのが精一杯だった。
国鉄函館海岸局に焦りとイラつきがつのる。
1時40分頃。
洞爺丸を目指してようやく赤灯台付近に辿り着いた﹁おくしり﹂
は、サーチライトに照らされる多数の遭難者を見つけた。
74
しかし、洞爺丸の十分の一の大きさの﹁おくしり﹂だけではとて
も救出が追いつかない。
﹁おくしり﹂は救難信号SOSを使って応援を呼んだ。
1時45分。
・おくしり
﹁sos、人が多数漂流中、救助たのむ、本船洞爺丸の救助に向か
っている。﹂
国鉄函館海岸局が了解した。
﹁おくしり﹂は、遭難者が巻き込まれないように、スクリューを止
めて投錨し、救助を行い始めた。
<i125618|8907>
1時57分。
・おくしり
﹁SOS、赤灯台に多数流れてるから。上げた人は大分衰弱してる。
﹂
・国鉄函館海岸局
﹁函館桟橋より、おいわけ丸、かつとし丸の二隻を洞爺丸現場に向
かわせた。0時50分にやった。﹂
・おくしり
﹁ランチ二隻だけでは足りない。﹂
﹁おくしり﹂の甲板は修羅場となった。
遭難者は皆、十勝丸と日高丸の乗組員だった。
港内まで流されてきていた。
あまりの人数で、とりあえず生きて動ける者を優先して引き揚げ
ているが、甲板に寝転がって二度と起きない者も多数いた。
75
甲板は、瞬く間に寒さで震える遭難者と遺体で溢れた。
﹁国鉄の応援まだかぁ!﹂
﹁おくしり﹂の遭難者発見により、残り3隻の、えさし丸、第八鐵
榮丸、七重丸も相次いで出動した。
2時14分。
・おくしり
﹁大変な人ですから早くたのむ﹂
・国鉄函館海岸局
﹁Ok﹂
・おくしり
﹁本船は赤灯台の内側500m位です。﹂
﹁おくしり﹂の隊員達に焦りの色が隠せない。
何故なら海保にとって本音は、国鉄職員よりも洞爺丸の一般乗客
の救出を優先したい。
だが、目の前にいる国鉄職員を放置する訳にもいかず、なかなか
洞爺丸へ向かえなかったのだ。
一方、タグボート・おいわけ丸は、防波堤近くで3名を救助した。
その生存者達は十勝丸の乗務員で、これで十勝丸の沈没が確定し
た。
十勝丸は23時43分頃、搭載貸車が倒壊し、転覆した。
函館港西防波堤外253度1800m。
乗客なし、死者59名、生存者17名。
2時49分。
76
港内に停泊中だった第六青函丸の後部車両甲板から日高丸乗組員
5名を救助した。
第六青函丸は生存者達の為、医師を船に呼ぶよう手配したが、タ
グボートを派遣し、函館桟橋に下ろした。
生存者達は、﹁気持ち悪いから揺らさないでくれ。﹂と言う。
長く激しく船に揺られ、さらに3時間近く波に揺られ、感覚が麻
痺し、揺れていない地上が揺れて感じるのだ。
3時を回り、長らく連絡が無い第11青函丸と北見丸が行方不明
だと気が付いた国鉄函館海岸局は、は、比較的被害が殆ど無い、第
八青函丸に二隻が停泊していた筈の防波堤外に確認に向かわせた。
この時、波の高さは4m、風は20m位とまだ強いが、突風は無
くなった。
ans︵返答なし︶﹂しか記録されない。
無電で何度も北見丸、第十一青函丸を呼び出すが
無電記録には﹁no
本来、函館桟橋から見える筈の街灯は無く、灯台も光らない。
陸地に輝くのは、第六真盛丸のサーチライトと車のライトと緊急
車両の赤色灯に懐中電池。
すると、海岸局の無電室の扉がいきなり開いて、全身びしょ濡れ
の船舶無線士が現れた。
ようやく生きて帰り、青白い顔に目は殺気立ち、凄みさえ覚える
姿に部屋中が沈黙した。
﹁⋮十勝丸の無線士、佐藤です。十勝丸がSOSを発信出来なかっ
た経緯を説明したく⋮。﹂
皆で彼を座らせ、毛布と着替えと温かいお茶を用意した。
彼はSOSを出そうとモールスに指を置いた際に貨車を固定する
ワイヤが切れる音が響き、無線長に脱出を促され、慌てて部屋から
出た途端に転覆し、船から投げ出され、三時間近くも海を漂流し、
77
タグボートに助けられた後、十勝丸の仲間の為に、何としても沈没
の報告をしたいと、止めるタグボートの乗組員達の制止を振り切り、
海岸局に報告に来たのだった。
報告した後、落ち着いたのか泣きくずれた。
78
第15章 夜明け
3時頃。
電気も電話も不通の函館市内を国鉄をはじめとする各部署が走り
回っていた。
警察、消防、創立されたばかりの自衛隊、北電、電電公社⋮。
しかし、市街地の道路は崩壊した家の残骸や街路樹、電柱、電線、
あらゆるものが転がり、簡単に車が走れる状態ではなかった。
国鉄では五稜郭機関区・車両基地で総出で早速棺桶が作られてい
た。
函館市の麓にある村山勝男氏の自宅の扉が﹁ドンドン﹂と鳴った。
彼の父も国鉄職員で函館駅の改札係だった。
この日は非番だったが、トラックで同僚が迎えに来た。
眠気眼で布団から茶の間を見ると、父が蝋燭の光の中、着替えて、
慌てて出ていくのが見えた。
父は棺桶作りの為に五稜郭車両基地へ向かった。
国鉄は、各病院を手配し、遺族用のバスやタクシー、遺体運搬用
のトラックがかき集められた。
七重浜駅には臨時列車で呼集された職員が集まり、暗闇の七重浜
海岸に向かって駅から徒歩20分の道のりを歩いた。
国鉄職員達が七重浜海岸に着くと、既に警察や消防が車両のサー
チライトを使って砂浜で生存者捜索を行っていた。
遺体は折り重なって夜の浜に果てしなく流れ着いていた。
﹁一体⋮何人が死んだんだ⋮。﹂
5時半頃。
波風が完全に静まり、函館が夜明けで白んできた。
79
海上保安部から、国鉄函館海岸局に洞爺丸、日高丸の無電呼び出
しを中止すべきと提案があがった。
既に沈没したのが判ってるからだ。
第十二青函丸は、函館港に戻り始めた。
すると、沈没船を発見した。
薄明るい中、船首だけのシルエットが黒く海面から突き出してい
る。
恐らく、この付近で仮伯めしていた北見丸だと思い、函館桟橋に
報告し、救命ボートを降ろして調査を始める。
船名が水没していて判らない。
何も出来ずに救命ボートを収容していると、船長は気が付いた。
﹁⋮⋮第11青函丸だな。﹂
第11青函丸は、戦時中になるべく資材をケチって設計された船
であり、安全性が犠牲になっている造りだったので、安全性を高め
るために、この年に函館ドッグで二重底にする改修を行ったばかり
で、朱色の船底のペンキが新しく、日の出にキラキラ輝いていた。
5時49分、国鉄函館海岸局受信
・第十二青函丸
﹁キミマ︵北見丸︶トイセマ︵第11青函丸︶の投錨地点に転覆し、
船首の船底を海面に露出せる連絡船あり、なお付近捜査中、底極め
て新しき故、トイセマと思われる。﹂
一方、北見丸はなかなか見つからなかった。
走錨したまま踟?︵風に向けて船首を向け、ゆっくり前進してい
く航法︶したので、最初の投錨地点から、かなり離れたところで沈
没したせいだった。
生存者の証言で、沈没推定時刻は22時20分、洞爺丸が座礁し
た頃だった。
80
乗客なし、乗組員70名死亡、6名生存救助。
6時44分。
・海上保安庁第一管区函館海上保安部
﹁27日0637青函連絡船・洞爺丸及び日高丸 QUM︵遭難信
号解除︶﹂
なお、この晩、7隻のタグボートは28名を救助、25名の遺体
を回収した。
その頃、上磯町久根別。
秋坂勇治氏が同級生と合流し、上磯小学校に通学する途中、新久
根別川にかかる橋にさしかかると、消防団と近所の人が集まってい
た。
見ると、川に白い救命胴衣を着けた遺体が沢山流れ着いていた。
﹁可哀想に、ナンマンダブ、ナンマンダブ⋮。﹂
唖然としていると、周囲の大人に怒られた。
﹁ホレホレェ、ワラシ︵子供︶が見るもんじゃねェ、とっとと学校
さ行け!﹂
同級生が怒鳴った。
﹁うっせんだぁ!ドケチのクソオヤジ!わーい!﹂
﹁なんだ、なんだ、いっちょまえに︵一人前に︶、このナマっこが
ぁ︵生意気な子︶コラァ!﹂
私は同級生と笑いながら必死で逃げた。
同級生と顔を見合す。
﹁どっから流れてきたんだ?あの人たち。﹂
﹁⋮何だろうね。﹂
﹁本当に死んでるんかなぁ?﹂
﹁さあ?﹂
通学中の国道228号は、白い警察のジープや消防車やトラック
81
が走っている。
米軍のジープが途中で止まっていて、せわしなく兵士が無線のや
りとりをしている横にサングラスをかけ、葉巻を吹かした偉そうな
兵士が、私達を睨み、慌てて目線をそらした。
空から、飛行機のエンジン音が響く。 一体何の騒ぎなのか気になったが、家でも停電でラジオは使えず、
新聞も印刷出来なかったのか届いておらず、何も情報が無かった。
1時間かかって上磯小学校に着くと、体育館の屋根が完全に剥が
れて、残骸が校庭に飛び散っていた。
外で集会が始まり、校長先生の話が始まった。
ここで、青函連絡船・洞爺丸が七重浜で沈没し、大勢の人が亡く
なった事を知った。
そして学校も体育館だけではなく、校舎も被害があり使えないの
で休校となってしまった。
帰り、まっすぐ家に帰れと先生に言われていたが、洞爺丸の事が
気になって皆で七重浜海岸に行ってみようという事になった。
七重浜海岸には多数の車が停まっていた。
そして、野次馬だろうか、乗っていた人達の家族だろうか、ロー
プが張られて海岸に入れない。
人垣から海岸を見ると、警察や消防、自衛隊の人達が遺体と思わ
れるものを海岸で集め、陸上自衛隊・函館駐屯地の第2新隊員教育
隊のトラックに載せていた。
<i126097|8907>
その向こうの海岸に朱色の船みたいのが見えた。
後にそれが洞爺丸の船底だった事を知った。
82
その朱色の船みたいなものの周りに、小さな船が沢山集まってい
たのが見えた。
青森から、羊蹄丸が来た。
左舷にニュースを聞いた乗客が沈没した洞爺丸を見る為に、集ま
った。
その中に白田弘行青年も居た。
転覆し、紅色の船腹を晒し、その上で作業をしている人達がいた。
船腹から穴を開けて入るつもりなのだろうか。
隣の乗客が話していた。
﹁な∼んだ、まあまあ、どえれぇ事さなっちまったべさぁ、可哀想
になぁ。﹂
﹁俺達も、あん時さ、無理に出てたら、こうなっちまったんさべさ。
﹂
﹁全ぐ、こんの船の船長さぁ、無理して出ねんでぐれたせいで、死
ななんで済んだぁ、最初は頭さ来て悪ぐ言ったけんども、全ぐ神様
みてぇな船長だべよぉ。﹂
﹁んだ、んだ∼⋮。﹂
周りの人達が頷いた。
何か人間って勝手なものだなと思ってしまった。
遺体は、乗客が降りない貨物専用の有川桟橋に引き揚げられた。
陸路で陸上自衛隊・函館駐屯地のトラックが遺体を次々に運んで
くる。
急遽徹夜で作った棺桶に、遺体が入れられたが硬直していて、な
かなかうまく入らない。
遺体は全身打撲だらけのものが多く、中には骨折しているものも
あった。
有川桟橋には、棺桶に入った遺体が並び、国鉄のトラックで遺体
83
安置場になった大森町の函館大火慰霊堂に運ばれた。
有川桟橋の片隅は、取り外した救命胴衣が山になっていた。
白い救命胴衣は遺体の血や体液が浸みてドス黒く染まっていた。
国鉄に依頼された漁船や、小型船舶が、昨日の嵐が嘘のように静
かになった函館港を走り周っていた。
回収されるのは、もう遺体だけだった。
遺体は冷たく、青白くなり硬直していた。
地元のサルベージ会社や、造船所にいるダイバーが洞爺丸に閉じ
込めれた人達を救助する為、現場に向かって行った。
海上保安庁は、函館海上保安局の﹁りしり﹂﹁おくしり﹂2隻だ
けでは、とても対応出来ないと判断し、第二管区の宮城県の塩釜を
始め、各管区からも巡視船を呼び寄せ、12隻が函館湾に向かって
行き、昨年採用されたばかりのベル47Gヘリコプターも派遣させ
た。
<i127848|8907>
ベル47G2型ヘリ。画像は警視庁のもの。︵佐久市立図書館︶
14時17分。
国会で、昨夜発生した洞爺丸事故について審議が早速行われた。
たった一晩で大型の青函連絡船5隻が消滅した上に、うち1隻の
日本が誇る、昭和天皇お召船にまで指定された﹁洞爺丸﹂が100
0人以上を乗せたまま嵐の海で転覆し、犠牲者が大勢出た事に騒然
となり、東京の関係省庁、国鉄、気象庁、海上保安庁の代表が呼び
出され、国会議員に対し説明を求められた。
84
<i125351|8907>
沈没
・第十一青函丸︵客室空、貨車搭載︶死者行方不明90名 沈没2
0時15分
・北見丸︵貨車搭載︶死者行方不明70名 生存者6名 沈没22
時20分
・洞爺丸︵客船・乗客及び貨車搭載[在日米兵含む]︶ 死者行方不明1155名 生存者159名 沈没22時46分 ・日高丸︵貨車搭載︶死者行方不明56名 生存者20名 沈没2
3時40分
・十勝丸︵貨車搭載︶死者行方不明59名 生存者17名 沈没2
3時43分
破損
・第六青函丸︵空︶左舷中央中破︵大雪丸激突︶
・第八青函丸︵空︶海中にて両舷錨絡束
・第十二青函丸︵客室あり空︶海中にて両舷錨絡束、機関浸水
・石狩丸︵客室あり空︶ 救命艇破損
・大雪丸︵客船空︶船首小破︵第六青函丸に激突︶機関、舵機浸水
函館湾外
・羊蹄丸︵客船︶乗客及び貨車搭載のまま青森桟橋に待機
・渡島丸 貨車搭載のまま青森桟橋に待機
・摩周丸︵客船︶神奈川県浦賀にて定期点検中
・第七青函丸 函館どっぐにて定期点検中 85
86
第16章 遺体
<i127842|8907>
函館大火慰霊堂︵撮影・秋坂勇治︶
9月30日、函館市 函館大火慰霊堂。
1934年に発生し、2千人以上が犠牲になった大火の慰霊の為
に造られた建物で内部は広く、復興を期待し、普段は青少年ホール
として使われ、室内で卓球や広場で野球などで未来の函館の若者が
楽しめるようにした施設である。
田辺氏は行方不明の同期生5人を探しに同期生の家族と共に遺体
を探しに来た。
外のテントには、持ち主不明の漂流していた持ち物や服が並べて
あったが、殆ど見てる人はいなかった。
物よりまず知り合いの遺体を見つけ出して、弔ってやるのが先だ。
堂内に棺桶がズラリと並び、入りきらない棺桶は、身元が判明し
て出て行く棺桶と入れ替えられていた。
堂内は、お線香と海水と死臭が交じり、ハンカチで鼻と口を押さ
えながら見回った。
最初は目を背けたくなり、吐きそうになるが、あまりの数に、徐
々に慣れてきた。
遺体は殆どが目を閉じていたが、服は当時そのままの物で海水が
乾いてガビガビになっている。
毛布で包まれた遺体もあった。
当時は着物姿の女性も珍しくなく、着物は波に洗われると脱げ易
いそうだ。
私の服も波に洗われ、あちこちが破けていた。
87
まだ幼い少女の遺体を見てしまった。
手はギュッと握り締めたまま固まっている。
もしかして、私の背中に掴まって、落ちてはぐれた子かも知れな
い。
心の中で﹁助けられなくて、ごめんなさい。﹂と呟き、思わず涙
が零れた。
すると、入口から怒鳴り声が聞こえた。
﹁だぁ?オメエの亭主はぁ!あんな家が飛ぶ位ぇの台風の中さぁ、
出てってからに、かっぱがるに決まってるじゃねぇかよぉ!この、
はんかくせぇ者があ!﹂
怒鳴られていたのは洞爺丸の船長の妻だった。
毎日ここに来て遺体が見つかった家族に謝って歩いてるという。
怒鳴った遺族は老人の男性で、肩を落としてバタバタに棺桶を載
せて去って行った。
船長の妻は、ハンカチで顔を押さえ、報道記者に囲まれていた。
この日友人が1人見つかった。
しかし、函館はおろか、函館周辺の火葬場も一杯で、七重浜の現
在、慰霊碑が立つ場所に臨時の火葬場が設けられ、そこで友人の遺
体が火葬されることになった。
ドラム缶を半分に切って並べ、ブロックで囲い、そこに重油を入
れて、棺桶を乗せ、周囲を薪で覆って、焼いた。
私の友人以外にも大勢が此処で荼毘に付された。
<i127841|8907>
洞爺丸慰霊碑︵撮影・秋坂勇治︶
<i127845|8907>
<i127846|8907>
慰霊碑から海岸に向けて沈没した5隻の位置が示されている︵撮影・
秋坂勇治︶
88
遺体が腐ってどうにもならなくなる前に、何とか見つけて貰おう
と、遺体の顔写真を撮影し、写真を貼り、整理番号と特徴を記載し
た紙が青函局に貼り出さた。
その写真を使って1ページ25体位のA4サイズの遺体写真集が
作られ、遺体が見つからないご遺族に配られた。
しかし、37名が無縁仏となってしまった。
田辺氏が乗船していた洞爺丸は淵上先生、田辺氏や友人2名を含
む159名が生存し、1155名が死亡、行方不明となった。
行方不明の中には友人2名も居た。
だが、この死者・行方不明1155名というのは実は不正確だと
いう。
偽名で乗船したものや、出港待機時に出て行った者もおり、大体
であって完全に正確ではないそうだ。
だが、途中で降りたものや、偽名の乗船者なんか、調べようが無
い。 救命胴衣を付けていなかったり、外れたりした人の遺体は海底に
沈み、腐食してガスが体内に溜まるまで揚がって来ない。
漁船や海上自衛隊の掃海艇が連日海の底をさらった。
<i126082|8907>
10月3日、洞爺丸船長が見つかったと話題になった。
近藤船長は救命胴衣を着けず、双眼鏡を左手に握ったままだった
という。
船長は、救命胴衣着用を命じた際、部下に手渡されたが、﹁あり
がとう。﹂と言ったまま、受け取らずに嵐の海を睨んでいたという。
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田辺氏はこのニュースを知った時、我々をこんな目に遭わせたの
は、この船長のせいか否か判らなかった。
では、誰のせいなのか。
この事がハッキリ言えるようになったのは2年も経ってからだっ
た。
この日の天候は非常に異例な天候で、気象庁が分析に2年もかか
り、船長も、この﹁マリー﹂に振り回された一人だったと後で知っ
た。
この事故に対し、事故1か月前にお召船としてご乗船なされた昭
和天皇より御歌と、お見舞金が賜れた。
日本の友好国各国から弔文が届き、在日米軍は十分な支援を行う
事を宣言した。
★洞爺丸裁判 翌年1955年2月15日9時、函館市元町・海難審判庁。
ここで、1912年4月15日に1513名の犠牲者を出したタ
イタニック号沈没に次ぐ、世界第2位の海難事故となった、洞爺丸
をはじめとする5隻の連絡船事故について審判が行われた。
第一審は、事故発生から約1年が経った9月22日に洞爺丸船長
に対する審判が言い渡された。
﹁本件遭難は洞爺丸船長の運航に関する職務上の過失が原因。﹂
12月21日に他4隻に対し判決が出た。
﹁十勝丸、北見丸、日高丸は船長の運航に関する職務上の過失が原
因、なお第十一青函丸は発生原因が明らかでない。﹂
90
この審判に対し国鉄側は、﹁前代未聞の天候で予測不能で避けよ
うが無い事故だった。﹂と不当請求を起こし、裁判は81回、19
59年2月29日まで行われたが、判決は覆らなかった。
その後、高等海難審判庁、東京最高裁判所と1961年4月20
日迄審判が行われたが、結局、判決は同じだった。
91
第17章 事故後の青函連絡船
★事故検証 この事故の直後、何故この事故が起こったのか検証実験が行われ
た。
まず、注目されたのは函館港で沈没した大型船舶はいずれも青函
連絡船のみだった事。
そして、沈没しなかった連絡船もいずれも後部車両甲板入り口か
ら浸水があった事。
<i125613|8907>
洞爺丸の車両甲板入り口︵メモリアルシップ摩周丸︶
つまり、他の船には無い車両入口があったせいで沈没に至ったの
では?との事。
しかし、この日以外に浸水したことは一度もなく、何故この日だ
け?となった。
模型で実験したところ、なかなか後部車両入口の浸水は起こらな
かった。
当時の波6に合わせても浸水しない。
ところが、9秒おきに波を送ると、たちまち浸水が始まり、車両
甲板の中で水が踊るようになった。
計算すると、9秒おきに波を送ると、洞爺丸より長い波となり、
水が浸入してくることが判明した。
そして、洞爺丸型よりも車両甲板入り口が二倍もある貨物専用船
は、なおさら水の浸入が激しい。
そこで車両を搭載していた船舶のみがやられているのが目に付い
た。
92
車両搭載中は車両が邪魔をして防水処理が完全に出来ない上に、
重く、余計浸水が増す。
しかし無事だった第十二青函丸、大雪丸は空荷だったので、邪魔
が無いので防水処理が容易で、しかも軽いので浸水量も少なかった
のである。
だが、まだ事故のメカニズムが解明された訳ではない。
洞爺丸が何故座礁後に転覆したかだ。
模型実験で洞爺丸の浸水は確認できても、ズッシリと座礁し、転
覆はしなかった。
そこで、当時と同じ海底の流砂を再現しようとバスタオルを水槽
に敷き詰めて、同じように洞爺丸の模型を波にさらすと、右舷のビ
ルジキール︵揺れを抑える翼︶がバスタオルに絡み、次の波で転覆
したのだった。
この実験と生存者の証言を踏まえ、残存船舶全てに対策が施され
ることになった。
洞爺丸型客船は三等座席室の割れやすい各窓を全て頑丈な丸窓に
変更、後部に扉を設け、車両甲板入り口を完全防水にする事等が検
討され、1961年までに全ての青函連絡船に対策改造が施された。
そして、これまで乗客輸送力を増そうと貨車連絡船に造られた不
細工な客室が、船の復元バランスを悪くした一因だったので、貨車
連絡船には乗客は禁止され、客室は全て撤去された。
その際、第11青函丸にから下ろされ、洞爺丸に載せ替えられ被
災した米軍専用寝台車も廃止され、大勢の米兵が連絡船に乗ること
は無くなった。
さらに燃料の石炭庫に浸水したのが原因でエンジン稼動不可にな
った事を受け、石炭は廃止、重油焚きとなり、重労働だった火夫の
負担が大幅に改善された。
93
ほぼ戦力が半分以下となった青函航路は、第二次大戦で外地に取
り残された日本人の引揚船として使われていた徳寿丸︵3617総
トン︶、宗谷丸︵3594総トン︶が広島から応援に来たが、戦前
生まれのボロ船で、しかも鉄道貨車を搭載出来ない所謂普通の船な
ので、桟橋に渡航出来ない貨物車が堆積し、新造貨車連絡船2隻が
至急発注され、事故1年後の1955年9月に檜山丸︵3393総
トン︶、空知丸︵3429総トン︶が新たに就航した。
急遽造られたとは言っても当時の最新鋭装備が惜しげなく注ぎ込
まれ、船体も洞爺丸台風を教訓とし、後部扉を設けたが、檜山丸に
はさらに、万が一車両甲板に水が侵入しても溜まらないように、2
0箇所に排水ポンプが装備された。
さらにエンジンは大型の新型船舶用ディーゼルエンジンとされ、
上半身裸で汗まみれに釜を焚く火夫の姿は無くなった。
そして、洞爺丸の後継として﹁洞爺丸と同じ状況に陥っても絶対
沈まない船﹂を大至急新造を行った。
1957年10月1日。
十和田丸︵6148総トン︶が就航した。
この船は、洞爺丸の代替の為に造られたので、1隻のみだったが、
完璧安全な鉄壁の青函連絡船の考えを立証する目的もあり、いわば、
次世代の連絡船の試作とも言える船だった。
大きさは洞爺丸型の1・5倍、塗装はアイボリーとライトグリー
ンに塗られ、爽やかな新世代をアピールし、随時残った洞爺丸型も
同じ塗装に塗り替え、悲劇の洞爺丸事故のイメージを変えようとし
た。
後部扉に車両甲板排水ポンプ、そして、車両甲板下の三等客室は
廃止された。
しかし、檜山丸、空知丸に引き続き採用されたディーゼルエンジ
ンは、乗客には不評だった。
これまで蒸気タービン船で静かで快適だったのが、振動とガラガ
94
ラ音が煩いと嫌がられ、さらに安全性重視で急造されたので、客室
は殺風景で、趣がある洞爺丸型が相変わらず好まれたのであった。
<i125616|8907>
初代十和田丸︵メモリアルシップ摩周丸︶
★引き揚げ 1954年11月。
沈没した連絡船の引き揚げ作業が始まった。
サルベージ作業は2年がかりで徹底して行われ、1年で5隻とも
浮揚し、あと1年は海底に残った残骸や積載物の回収に費やされた。
函館湾出口付近53mに水没していた北見丸が最も難航し、正確
な沈没場所が判明するまで事故から17日もかかっている。
洞爺丸は左舷135度も回転していた。
三等座席の窓は殆どが破壊されていたので、遺体回収用に開けた
穴と共に鉄板で塞がれ、まず、正位置にウインチでゆっくり引き出
された。
船体に取り付け金具を溶接し、一定の角度まで引き上げたら、再
び取り付け金具を溶接し、その繰り返しで1955年7月に転覆か
ら戻った。
しかし、その姿は、かつての美しい姿はなく、三等座席室の甲板
から上は全て千切れ、海底に残されていた。
さらに後部舵機室がもぎ取られ、面影を残しているのは船首だけ
だった。
<i125620|8907>
十勝丸、日高丸、北見丸は、いずれも海底で転覆した状態で車両
95
甲板から上は潰れ、引き揚げの際は3隻共、車両甲板のみという状
態だった。
第十一青函丸は3分割状態で、船首だけはずっと浮いていた。
<i125619|8907>
5隻は順番に函館ドックへ曳航されたが、十勝丸、日高丸、北見
丸は船底の損傷が少なく、再利用可能と判断され、十勝丸は函館ド
ック、日高丸は京都府舞鶴の日立造船所まで曳航され、破壊された
部分を新たに新造し、翌年1956年に航路に復帰したが、北見丸
はやはり修理不能と判断され廃棄された。
洞爺丸、第十一青函丸は損傷が非常に激しく、廃棄処分された。
なお廃棄された洞爺丸、第十一青函丸の船首の名板及び、北見丸
の鉄板の一部は、石碑に埋め込まれ、函館山麓の青函連絡船空襲戦
没者慰霊碑の横に﹁洞爺丸台風乗組員慰霊碑﹂として建立され、現
在に至る。
<i127844|8907>
洞爺丸乗組員慰霊碑。裏に第十一青函丸の名板が埋め込んである。
下の四角は北見丸の船底の一部︵撮影・秋坂勇治︶
96
第18章 洞爺丸型からの刷新
<i125927|8907>
津軽丸?型︵羊蹄丸 船の科学館・2006年撮影︶
★海の新幹線
1964年5月10日。
日本が東京オリンピックで湧く中、最新鋭連絡船・津軽丸?型の
第1船、津軽丸?型がデビューした。
大きさは洞爺丸型に比べ2倍となり、エンジンは十和田丸で不評
だったディーゼルエンジン仕様ながら船体そのものが改良され、不
快と言われた振動と音は無くなり、さらに階級制を無くそうと、3
等客室が廃止され、1等、2等の差も殆ど無いように作られた。
そして、経済発展に伴い、客数、貨物数が共に増加したのに対応
する為、4隻だった客船型連絡船は6隻に増やされた。 1960年より始まった﹁戦後型連絡船更新計画﹂は様々な最新
技術を惜しげもなく導入する事から日本を代表する各造船会社に注
目され、各社に振り分けられたが、地元の函館どっぐ︵株︶も3番
船・松前丸を受注し業界に注目され、函館の経済成長に繋がった。
一方で、洞爺丸の代替だった十和田丸は、わずか7年で、これら
新世代船の試作としての役目を終え、1965年に函館どっくで貨
車専用船﹁石狩丸?﹂に改造され、表舞台から去った。
1番 津軽丸?︵8278総トン︶ 浦賀重工場︵株︶製
2番 八甲田丸︵8313総トン︶ 三菱重工神戸︵株︶製
3番 松前丸?︵8313総トン︶ 函館ドック︵株︶製
4番 大雪丸?︵8298総トン︶ 三菱重工横浜︵株︶製
97
5番 摩周丸?︵8327総トン︶ 三菱重工神戸︵株︶製
6番 羊蹄丸?︵8311総トン︶ 日立造船︵株︶桜島 製
︵?とは2代目の事。︶
船舶制御の自動化が施され、ガチャガチャとブリッジから機関室
へ制御指示を伝達するテレグラフは姿を消し、機関室も空調完備の
制御室で管理するものになり、後部スクリューは可変ピッチ仕様と
なりブリッジで操作するだけとなった。
このハイテク化で職場環境は大幅に改善され、安全性も高まった。
<i125929|8907>
津軽丸?型のブリッジ︵羊蹄丸・船の科学館︶
<i125946|8907>
津軽丸?型のコントロール装置︵メモリアルシップ摩周丸︶
さらに船首にバウ・スラスターという小型スクリューが設けられ、
タグボートを使わずに自力での離岸が可能となった。
<i125947|8907>
船首の青い矢印が示す穴がバウ・スラスター。
左右に貫通しており、内部のスクリューで船の向きを操作する。
そして形状も高速化を狙った設計で、大きくなったにも関わらず、
航行時間4時間半を3時間50分で運航可能となり、実に40分も
短縮した。
<i125948|8907>
羊蹄丸のカットモデル︵メモリアルシップ摩周丸︶
救難ボートは、従来の吊り下げ式をやめ、海に落下させると自動
98
で窒素ガスにより展開するカプセル式ゴムボートを装備し、さらに
旅客機にあるような世界初の窒素ガス展開式スライダーを非常口に
装備し、脱出を迅速にした。
なお、洞爺丸台風で錨が暴風で海底から抜けて引きずる﹁走錨﹂
が問題視されていたので数年かけて従来の食い込み角度60度から
左右両方に爪を伸ばして90度食い込む錨を開発、津軽丸?型から
装備した。
業界では﹁JNR︵国鉄︶アンカー﹂と呼ばれた。
現在、この錨は函館市の函館桟橋跡でメモリアルシップ摩周丸と
共に津軽丸、大雪丸のものがモニュメントとして見ることが出来る。
この津軽丸?型は大変好評で、1966年に1隻が追加で導入さ
れた。
7番 十和田丸?︵8325総トン︶ 浦賀重工業︵株︶製
こうして、たった1年で青函連絡船は更新され、洞爺丸型は3隻、
大雪丸、摩周丸、羊蹄丸は引退し、売却され津軽海峡を去って行っ
た。
さらに貨物部門も連絡船の刷新・強化が行われ、1969年10
月1日、地元・函館どっく製の渡島丸?型1号船、渡島丸?︵40
75総トン︶が就航。
津軽丸?型と同等の高速自動化船で、貨車を従来の43両から5
5両搭載に増え、さらに上甲板に将来鉄道コンテナ50台を搭載す
る計画で強化されていた。
<i125997|8907>
渡島丸?型・空知丸︵廃止当時の函館桟橋で購入したプロマイド︶
99
だが、この大幅な設備投資が、後に自分達の首を絞める結果にな
るとは誰も想像せず、明るい未来を想像をしていたのであった。
国鉄及び運輸省︵現在の国土交通省︶に﹁海の新幹線﹂と大いに
期待された新世代連絡船は、20年後の1985年にはこのままの
高度経済成長が続けば需要は2倍に増えると見積もっていた。
しかし、この青函連絡船の存続を脅かす存在の、青函トンネルも
また、津軽丸?就航と同時に始められたのである。
1960年代中盤、好景気に設備投資をしていたのは国鉄だけで
は無かった。
自動車保有は当たり前になり、道路が大幅に整備され、大型トラ
ックが大量に普及し、民間カーフェリーの需要が増え、さらに19
73年のオイルショックによる不景気を迎える。
そして、津軽丸?型が就航して間もなくの1966年、アメリカ
で旅客機の革命となった巨大旅客機、ボーイング747が登場。
乗客を従来の4倍の400名余りをいっぺんに輸送可能になり、
最初はあまりの大きさに﹁エアープレイン﹂︵空気を運ぶ無駄に大
きな飛行機︶と馬鹿にされていたが、乗客一人当たりのコストが下
がり、一般客の需要が急激に増え、世界中の航空会社が採用し、あ
っと言う間に旅客機の代表になった。
その747をベースに1973年に日本国内専用仕様のSR型が
日本航空によって導入され、北海道便が就航すると、わざわざ遠い
函館に来て青森からまたのんびり行く人は激減し、コスト度外視で
刷新された青函連絡船は、1973年より刷新からわずか9年で必
需だった国鉄青函航路は重要性が無くなり、利用実績が急降下に追
い詰められてしまったのである。
一方で航空会社は、全日空が日本航空に対抗して翌年1974年
に300席クラスのワイドボディの最新鋭、ロッキード・トライス
ターを導入し、さらに1979
100
年には、ライバルと同じ747ながら、500席に増やした﹁スー
パージャンボ﹂を導入。
函館から300キロ離れた千歳空港で熾烈なシェア争いがくり広
げられ、もはや青函連絡船はこの争いの外となってしまった。
<i77119|8907>
日本航空ボーイング747SR46。︵筆者所有・日航商事製︶ 101
第19章 青函連絡船の終わり
1976年、貨物部門が低迷し初めて間もなく、洞爺丸台風によ
って失われた船舶に替わって就航していた初代十和田丸時代の貨物
船、桧山丸、空知丸、石狩丸?が耐用年数を過ぎた為、渡島丸?型
3隻、空知丸?、桧山丸?、翌年1977年に石狩丸?が新たに新
造追加された。
だが、これら新造船が就航してすぐ1978年に渡島丸?、19
80年日高丸?の運航を休止せざるを得なくなる程に需要低迷が続
き、積みきれない長距離トラックを満載し大忙しで函館港を出航し
ていく民間フェリーを指を加えて見てるしか無くなった。
鉄道ならではの重量物である北海道産の鉱物も、安い海外の物に
需要が流れてしまった。
そして、貨物部門に見切りを付けた国鉄は、1982年に老朽化
した津軽丸?型の初期型の津軽丸?、松前丸?を北朝鮮に売却し、
替わりに貨物専用の中でも新しい桧山丸?、石狩丸?を客船に改造
し、1984年1月、ついに貨物専用の有川桟橋を閉鎖し、渡島丸
?型の初期型3隻渡島丸?、日高丸?、十勝丸?を引退させ、6隻
で組織された新世代貨物専用路線は15年で空知丸1隻を残して消
滅したのであった。
貨客船に改造された桧山丸?、石狩丸?は津軽丸に比べ定員を6
50名に減らした代わりにカーフェリーに対抗して、津軽丸?型の
露天で12台の乗用車積載から20台の船内格納にされた。
<i126079|8907>
客船改造後の桧山丸︵国鉄発行の船長サインカードより︶
102
しかし、対抗とは言っても青函トンネルが開通すれば青函連絡船
は廃止の運命。
もはや残りの津軽丸?型も耐用年数が近いにも関わらず後継は造
られず、廃止を待つだけだった。
一方で旅客部門は﹁名物の観光船﹂として継続しようと努力して
いた。
1977年、国鉄青函航路70周年を機に﹁イルカ﹂をあしらっ
たキャラクターが制定された。
<i125992|8907>
摩周丸のマーク︵?JR北海道︶
イルカは津軽海峡に生息し、春になると甲板から連絡船に付いて
来るイルカの群れが人気があり、飛行機ではイルカは見れない旨を
強調した。
そしてブリッジで行う船長立ち会いの洋上結婚式は有名で、結婚
式の需要は﹁ロマンチック﹂だと人気が高かった。
子供達には、連絡船の写真付のサインカードが配られ、運良く船
長が暇な時にサインを貰えるという特典があり、連絡船好きの子供
にとって自慢の種となった。
<i125993|8907>
当時の青函連絡船サインカード︵作者保有︶
1979年8月、北海道教育委員会と提携し、ダイヤから十和田
丸を外して﹁北海道こどもの船﹂として、夏休みに児童を乗せて北
海道の各港に航行する事もあった。
その後も児童達を乗せて貸切で青函航路外を航海するイベントは
毎年数回おこなわれた。
103
洋上カラオケ大会や北海道一周ツアー、初日の出を見る﹁連絡船
でおめでとうツアー﹂等、輸送力が高いからこそ他では真似できな
い企画を続ける事が出来、イベントは毎回大盛況だった。
最も大盛況だったのは、地元演歌歌手の大物、北島三郎氏が十和
田丸を使って行った﹁けっぱれ︵頑張れ︶北海道・さぶちゃん丸﹂
という企画で、石炭炭坑閉鎖や、韓国に需要が流れた造船業界など、
低迷する北海道経済を元気付けようと企画したものだった。
さらに低迷した貨物も、国鉄コンテナなら安く﹁戸口から戸口へ﹂
と、1971年から導入されたISO︵国際規格︶のC20型5t
コンテナで貨物駅からトラックでご希望の場所まで行ける事をアピ
ールした。
1985年8月12日。日本中が驚愕する事故が発生した。
青函連絡船を追い詰めた張本人の日航ジャンボ機の国内線、羽田
∼伊丹123便が墜落した。
<i77179|8907>
提供・今井靖恵︵元・群馬県上野村消防団︶
死者行方不明520名、単独機として史上最悪の事故になったこ
の事故は、大量輸送時代の歪みとして大々的に報じられ、ライバル
の航空会社も需要が低迷、青函連絡船が再び見直されるか?と思わ
れた。
この事故後、﹁のんびり旅を楽しむ﹂傾向になった観光客は、津
軽海峡で名物のイルカを見て、船上からはしゃぐ姿が多くなった。
しかし、その津軽海峡の船は民間フェリーであり、自家用車やバ
イクで北海道に旅行に来る人々が増えただけで、青函連絡船も渡航
104
待ちの自家用車が駐車場に溢れたものの、12台∼20台しか積め
なければ、とてもマイカー、バイクの顧客を民間フェリーから奪う
には至る訳が無かった。
もう青函連絡船は大量輸送時代の競争とは全く関係無かった。
青函トンネルは1976年に掘削中に大量の海水が吹き出し、一
時は中止の声が上がったが、新技術の土を凍らせて掘り進める技術
が開発され、1979年の開通予定に遅れる事6年の1985年3
月10日に開通。
東京の首相官邸で中曽根総理が発破ボタンを押し、トンネルの中
心が爆破され、歓声が響いた。
史上最長の難工事は見事達成され、世界中に注目された。
これに対し、青函連絡船を生き残らせる活動が連絡船ファンや青
函連絡船乗組員OBによって行われたが、ただでさえ国鉄全体に大
赤字が続き、国会で批判され、分割民営化を推進された中で、赤字
の青函連絡船をトンネルと共に運航するのは不可能だった。
<i125994|8907>
連絡船を守る会の広報ステッカー︵作者保有︶
105
第20章 廃止後の木枯らし
1988年3月13日夜。
田辺氏は函館山麓の元町から函館港を眺めた。
函館港には、最後の運航を終えた連絡船全てが創業して80年の
歴史で初めて集結した日でもあった。
2ヶ月前に定期検査期限が切れて引退し、荒れ果てた有川桟橋に
係留された大雪丸と、使い道が無く函館どっくに寂しく係留された
空知丸以外は元気に函館港で煌々と明かりを灯し、最初で最後の同
窓会を行っていた。
友人五名を函館港に葬り、自分自身も水責めで苦しませた青函連
絡船。
しかし、教師となってから児童の引率で、何度も世話になった。
毎回出航する際に恐怖の舞台の七重浜を見て、あの時の事を思い
出し、甲板通路から慰霊碑に手を合わせるが、児童達のはしゃぎ声
で悲しみは吹き飛び、笑顔で海岸を見て﹁俺は元気にやってるから
な。﹂と亡くなった仲間五名に囁く。
そんな日がもう二度と無い事を寂しく思った。
あの最悪の日から、二度と大事故を起こさず役目を終えた連絡船
達を見つめ続けた。
﹁ありがとう、ご苦労様でした。﹂
田辺氏は愛車の日産セドリックに乗り込み、自宅へ帰路についた。
その後、函館と青森で青函トンネル運航開始記念に﹁青函博覧会﹂
が開かれ盛り上がったが、博覧会後は、青函トンネルや連絡船に関
106
わった人達が殆ど函館を去り、街を吹き抜ける木枯らしが寂しく静
かに思えた。
<i125995|8907>
<i126046|8907>
青函博覧会︵函館側︶の記念品等。︵作者保有︶
青森には、八甲田丸が青森市に引き取られ、永久保管される事が
決まり、函館港には最後に売れ残った摩周丸と、空知丸が寂しく静
かに係留されていた。
摩周丸は函館の企業が引き取り、バブル全盛期を迎えて観光の目
玉﹁シーポートプラザ﹂となり、旧函館桟橋に係留されたが、すぐ
バブルが崩壊し、一時は廃墟になりかけたが、現在は函館市が保管
整備し2011年10月に青森市の八甲田丸と共に﹁機械遺産﹂に
登録され、現在に至る。
︵東京の羊蹄丸は、残念ながら機械遺産認定前に廃棄が決定し、2
012年に解体されてしまった。︶
<i127843|8907>
現在のメモリアルシップ摩周丸︵撮影・秋坂勇治︶
★洞爺丸型の最後の生き残り
青函連絡船廃止で日本中が話題になる中、中東で、イスラエルの
特殊工作員モサドが、敵が乗るカーフェリー、﹁ソル・ファイネ号﹂
を爆破したニュースが流れたが、そんな遠くの話が盛り上がった理
由は、なんと、この船は1964年8月に津軽丸?型と交代し、津
軽海峡を去っていった洞爺丸型のひとつ、大雪丸だと言うのだ。
大雪丸は、洞爺丸台風当時、洞爺丸型4隻のひとつとして、函館
107
におり、青森で待機していた羊蹄丸や定期検索で浦賀に居た摩周丸
と違い、洞爺丸同様に函館湾で台風に被災し、傷だらけで命からが
ら木古内港まで逃げて助かった船だった。
田辺氏は、テレビを目を丸くして見た。
姉妹船で、同じ函館湾で台風と戦った洞爺丸は、わずか6年で七
重浜に消えた一方で、大雪丸は、あれから34年生き続けていたの
だ。
しかも、その後修理して、また現役復帰するという。
まるで私と亡くなった友人のようだと思って苦笑いしたという。
その後1991年、アドリア海で火災事故になり、海に没し43
年の生涯を閉じたのを、古希を迎えてから知り、寂しく思った。
﹁もうすぐ、私も連中の所へ逝く、長生きさせて貰ったもんだよ、
楽しい人生だった。﹂
田辺氏は、洞爺丸慰霊碑の前で10年ぶりに私と対面し、慰霊碑
を見つめながら、そう話した。
田辺康夫氏は、21世紀を迎えた頃、静かに眠るように人生の幕
を閉じたとお聞きした。
田辺氏は友人達に逢えたのだろうか。
<i126105|8907>
SOS洞爺丸 終
108
あとがき
<i126089|8907>
★今回の小説について
この作品は、中学の時の1990年に書いてから、この20年の
間に4回書き直しています。
うち3回は劇画として書いたのですが、どうも思ったような物が
描けなかった上に、絵にすると内容が絵に集中しがちで内容が薄く
なり、今回小説化してみましたが、小説化する事により文章のみな
ので内容を濃くした結果、今まで気が付いてなかった事も多々あり、
勉強になりました。
2006年に函館に新婚旅行で戻った際に、作品の主人公である
田辺康夫氏に再会しようと向かった所、既に亡くなっておられたの
は残念でなりませんでした。
函館に戻った際に再取材を行いましたが、洞爺丸の当事者である
国鉄の資料は沢山ありましたが、この事故に関わった警察、消防、
海上保安庁、自衛隊の記録が殆ど残っていなかったのには参りまし
た。
当時は自衛隊が創立してまだ2か月で、海上自衛隊も第二次大戦
中に大日本帝国海軍が造った掃海艇等の戦時型小型船舶しか保有し
ていなかった時代だったせいか、活動記録が無いのです。
この辺は当時の地元の住民の方々の証言で何とか纏めました。
★資料を調べる
ストーリーのベースになったのは、図書館で読ませて頂いた﹁洞
爺丸台風海難史﹂︵青函船舶鉄道管理局︶で、既に貴重な本だった
109
ので貸出禁止書物に指定され、ジックリ見ることが出来なかったの
ですが、1992年に函館市内の古書店︵歴史書専門︶で見つけ︵
結構高かった。︶ジックリ隅から隅まで読んで、二度目の作品を書
きました。
それを見た当時の恩師、秋坂勇治氏が教え子から頂いたという﹁
洞爺丸台風遭難通信関係記録﹂︵日本鉄道技術協会︶を貸して頂き、
内容は、まさに当時の生の声の記録であり、衝撃を覚え、三作目に
かかりました。
しかし、今回改めて小説化する際に気が付いたのですが、無電記
録は当時、事件の真っただ中で打たれた物を忠実に記録しているせ
いか、幾つか史実と違う部分もあり、今回改めて史実と比較し公正
に苦労しました。
最初のこの小説の取材で最も衝撃的だったのは、ご遺族に見せて
頂いた本で、当時ご遺族に渡された﹁遺体写真集﹂で、最初は事故
報告書だと思いページを開くと、犠牲者のご冥福を祈る言葉と花の
イラストが描いてあったと記憶している。
次のページから、まるで卒業文集のように顔写真が並び、﹁事故
に関わった人達か?﹂と思いきや、写真の顔は全て生気が無く、寝
てるような顔ばかりで、それが50ページはあっただろうか。全て
が顔写真で、整理番号と遺体の特徴が書いてあることでようやく遺
体写真集と気が付き、ショックだった。
だが、数字で﹁1155人が亡くなったんだよ﹂と言われても実
感が湧かないが、この写真集が後世に無言で﹁これだけの人が亡く
なった﹂と語り、重みを実感したのは貴重な体験だったと思う。
★七重浜
七重浜の函館飛行場の存在は地元の私も聞いたことが無く、JR
北海道さんが発行した非売品﹁青函連絡船 栄光の航跡﹂に日高丸
110
の生存者が上陸した話が記載されており、驚いて調べてみたが判ら
なかったので困った。
当時から地元にお住いの秋坂勇治氏も知らず、また地元の記録に
も残っておらず、調べるのに苦労した。
後日、秋坂氏がご近所の方に尋ねると、確かに小さい砂利の飛行
場があったことが確認されてホっとした。
他にはエピソードとして、よく聞く怖い話で﹁深夜タクシーにず
ぶ濡れの女性を乗せて走っていたら、その女性客が消えてシートが
濡れていた。﹂という有名な話があるが、その話は洞爺丸台風直後、
七重浜沿岸の上磯町久根別︵現在の北斗市︶が発祥だと聞いて驚い
た。
今のタクシーのような時代ではなく、戦前に購入した車や、アメ
リカ兵が自家用車をわざわざ日本に持ってきて置いていったのをア
メリカ軍の厳しい審査の元、ようやく買って大事に細々と使ってた
時代の話だ。
当時は洞爺丸台風に纏わる怖い噂話が沢山広まっていたという。
しかし、1975年生まれの地元の私でも七重浜の怖い話は既に
風化し、タクシーの話も東京の話だと思っていた。
ただ、子供の頃にお盆の墓参りの後、暑いから七重浜に海水浴へ
行こうと親戚を誘ったら、大人達に﹁お盆に海水浴に行くんじゃな
い!﹂と怒られたことがあったが、理由は聞いてなかった。
秋坂氏の話では、洞爺丸事故後は、七重浜海水浴場にお盆になる
と洞爺丸台風の犠牲者の御霊が戻って来るという噂が流れ、秋坂氏
の世代では怖くて行かなかったという。
そんな事も知らずに私達は夜に七重浜で花火をよくやったものだ。
ただ、海水浴場から少し離れた場所にある慰霊碑にはさすがに雰
囲気が怖く、誰も近づかなかった。
111
★レイズ・ザ・タイタニック
洞爺丸事故を知ったのは父が見ていたNHK特集の洞爺丸台風の
話だった。
当時はまだ私は小学校低学年で、洞爺丸は七重浜に今も沈んでる
と思っていた。
たまたま直後にテレビで映画﹁レイズ・ザ・タイタニック﹂︵1
980年アメリカ︶をやっており、その映画は60年前に沈んだタ
イタニックを引き揚げようという架空のプロジェクトの話で、様々
な苦労の末、最後のシーンで錆びだらけのタイタニック号がニュー
ヨークに60数年ぶりに入港するのを見てショックを覚え、父に﹁
洞爺丸もこうやって引き揚げたら面白いね﹂と言って、﹁何が面白
いだ、このはんかくせェモノよぉ!﹂と、湯呑茶碗をぶつけられ、
蹴飛ばされた記憶がある。
父も、洞爺丸事故はリアルな世代で、何も知らない世代の子が、
そう簡単に言ったのが不快だったのだろう。︵でも、子供に怒鳴る
か普通⋮。︶
<i126090|8907>
レイズ・ザ・タイタニック︵?東宝東和1981年︶
後に中学生の時にタイタニック号ははとても引き揚げられるよう
な状態では無く、映画のように船の形はしておらず、真っ二つに千
切れ、沈んだ衝撃で海底深くにメリ込み、とても引き揚げられる状
態じゃない事を知り、映画ていいかげんだなと思った。
そして、洞爺丸も田辺先生がきっかけで調べてみると、事故直後
に引き揚げられていたのを知り、今は函館湾に沈んでるのは細かい
もの以外何も無い。
それは、深い海に沈んだタイタニック号と違い、狭く浅い湾内で
沈んだ船は他の船の航行の邪魔なので二次災害防止で直ちに撤去す
112
る必要があったからだと聞いた。
1941年の真珠湾攻撃で多数の軍艦が沈んだハワイのパールハ
ーバーも、爆発で真っ二つに千切れ沈んだ戦艦アリゾナ以外は引き
揚げ可能ということで2年がかりで引き揚げている。
しかし、こうして過去の大事故を研究するのは、非常に価値があ
るものだと思う。
結構生活に役に立つ教訓を得ることも多々ある。
恩師の田辺康夫氏にお見せできなかったのが残念で、もっと早く
小説化すれば良かったと思う。
しかし、この前に日航ジャンボ機墜落事故の話を時間をかけてた
っぷり書いた経験のおかげで、洞爺丸台風の話もより一層深く書け
るようになったと思う。
今回は再度、20年ぶりに恩師の秋坂勇治氏にご協力をお願いし、
さらに船の事に関して専門的で判らない部分は東京の船の科学館や
名古屋港海洋博物館を訪ねたり、電話で聞いたりして勉強してみた。
この場をお借りしてご協力して頂いた皆様にお礼を申し上げたい
と思います。
ありがとうございました。
113
114
資料・洞爺丸台風通信記録 17時∼19時 15号台風来襲直前∼直後︵前書
﹁SOS洞爺丸﹂をより深くご理解頂きたく思い、通信記録を公開
資料として付けることにしました。
かなり読みにくいと思いますが、頑張って読んでみてください。
洞爺丸台風遭難通信関係記録︵社 日本鉄道技術協会刊 より
地上局1
JNI︵海上保安庁・第一管区・函館海上保安部海岸局︶
JRG若しくは﹁ハコ﹂︵国鉄函館海岸局︶
★ハコ︵函館桟橋︶
アワ︵有川桟橋︶
アホ︵青森桟橋︶
JHK︵電電公社・今のNTT︶
・海上局 青函連絡船︵ローマ字は局名︶
トウマ︵洞爺丸︶JBEA
タセマ︵大雪丸︶JTBP
ロセマ︵第六青函丸︶JWNT
ハセマ︵第八青函丸︶JECA
トイセマ︵第十一青函丸︶JLLW
トニセマ︵第十二青函丸︶JWEZ
イシマ︵石狩丸︶JWSZ
キミマ︵北見丸︶JQGY
トカマ︵十勝丸︶JGUD
オシマ︵渡島丸︶JDZQ
ヒタマ︵日高丸︶JQLY
115
・海岸局︵その他︶
第六真盛丸︵JKJC︶
LST546号︵NEHE︶
巡視船おくしり︵JPOE︶
・用語
SOS︵緊急遭難信号︶
ハイツ︵抜錨︶錨を上げる事
チミコ︵着予定時刻︶
タナ︵電報番号︶
CP︵連絡船各局呼び出し︶
テコナ︵港内模様︶
ヨロ︵宜しく︶
QRT︵送信停止︶
QSL︵受信証︶
QRX︵後刻呼び出し︶
QSW︵変波︶
テケミ︵天候見合わせ︶
R︵了解︶
QRU︵通報なし︶
AS︵待て︶
QRN︵空電あり︶
QUM︵遭難信号解除︶
コセ︵故障︶
ムセデワ︵無線電話︶
ウナヘ若しくはウナヘマ︵返答待つ︶
どうぞ
NO ANS︵応答なし︶
PSE
116
資料・洞爺丸台風通信記録 17時∼19時 15号台風来襲直前∼直後
1954年9月26日 函館港
17時
10 ハコ⇒イシマ 大雪丸は1720︵時間︶頃沖出する。
28 アワ⇒ヒタマ 着岸の件
28⇒30ハコ⇒イシマ タナ432︵号︶天候見合わせ停泊船位置ロセマ・トイセマ・キミ
マ・トウマ・ヒタマ
30 アワ⇒ヒタマ 着岸の件
30 ハコ⇒イシマ 貴船は2岸に着岸客貨陸揚げの上1900沖出し予定
33⇒34ハコ⇒イシマ タナ434・そのまま2岸に着岸されたし︵風速︶S︵南︶10m
C 1900沖出し予定
40 ハコ⇒ヒタマ 着岸の件
49⇒50イシマ⇒ハコ ハイツ1745 チミコ1825 54 アワ⇒トカマ 各船位置の件
18時
05⇒06ハコ⇒トニセマ タナ435 函館︵港︶北口青灯竿1750消灯せり
08 ハコ⇒トニセマ 30便就航について着岸予定知らせ
12⇒14トニセマ⇒ハコ イタリー船が本船の錨の上にある模様、本船揚錨不能
117
14⇒15ハコ⇒イシマ テコナS15∼18m突風時々20∼25m
22⇒24ハコ⇔トニセマ イタリー船走錨しつつあり各船に連絡方ヨロ、貴船30便未決定、
決定次第知らす。
23 トウマ⇔アワ テコナ知らせ SSW20∼25m突風32m
51 ヒタマ⇒アワ ランチ︵タグボート︶派遣の件 19時
00⇒00トウマ⇒ハコ 遅れ4便トウマ1839発
00⇒03ロセマ⇒アワ イタリー船走錨ブイひけて本船に接触の恐れあり善処タム 01⇒02ハコ⇒トウマ CALLするもNO ANS 02⇒04タセマ⇒ハコ 港内狭いので港外に転錨予定
07⇒09キミマ⇒タセマ 貴船動向知らせ⇒本船港内狭いので港外に転錨予定 13⇒14ハコ⇒トカマ 1850投錨。葛豊支灯台より62度3.3マイル
19 アワ⇔ヒタマ ランチ派遣の件
19 アワ⇔タセマ ランチ派遣の件
19 アワ⇔ヒタマ ランチ派遣の件
19 トウマ⇒アワ 1901灯台より300度8.5ケーブルに投錨
23⇒24ハコ⇒トカマ タナ20 石炭要求 25⇒26ヒタマ⇒アワ 118
イタリア船走錨接近す、ランチ頼む
28 ロセマ⇒アワ イタリア船走錨接近す、ランチ頼む
29 ロセマ⇔アワ ランチはどうした?⇒ハコより手配中
30 ハコ 53便トカマ遅れ4便トウマ、テケミ投錨位置の件︵CP︶
32 トニセマ⇔アワ イタリア船の件
37⇒38ハコ⇔トイセマ QRX
38 アワ⇒ロセマ 強風の為ランチ派遣出来ずヨロ 39 アワ⇒ヒタマ 強風の為ランチ派遣出来ずヨロ 43 キミマ⇔タセマ 貴船の模様知らせ⇒NO ANS 44⇒45ハコ⇒ロセマ QSW 49⇒50ハコ?ハセマ 1910S防波堤灯台より50度1100m投錨テケミ
49⇒50ハコ⇔トイセマ トイセマ応答途中にて感度なし
53⇒54ハコ⇒トカマ 53便トカマ葛豊支灯台より真方位62度3.3カイリ投錨テケミ、
オクレ4便トウマ1901函館防波堤灯台より300度、8.5ケ
ーブルに投錨テケミ念
56⇒57ハコ⇒タセマ 同上
56⇒57ハコ⇔トイセマ タナ438QSL?⇒停電に付後で受ける。︵第十一青函丸最後の
通信︶
119
120
洞爺丸台風通信記録2 20時∼22時 マリーとの戦い
20時
SOS遭難状況詳細知らせ
LST546函館葛登支北方30度1・5マイル強風の為
01⇒03LST546 SOS
危険
RRR
06 JNI⇒546 NEHEdeJNI
⇒1820函館港外発塩釜向けた所風波強く船体危険なり乗組45
名米兵トラック積あり近くに座礁したく思います。
SOS
CQCQCQdeJNI
⇒それでは今から遭難通信を再放送します。
QRT
10 JNI⇒港内全域
CQCQCQdeJNI
NEHE報26 2003JST函館葛登支沖北方30度1・5マ
イルにて危険に瀕す付近航行船舶応答あれ 函海保
R此方も函館港外で強風の為自由を
13⇒14キミマ⇔ハコ QRU?⇒QRU
SOS
13 トウマ⇔JNI
JNIdeJBEA
JBEAdeJNIそれでは貴船は救助に行けぬか?
失い難航中
⇒SOS
⇒今聞きますから。
14⇒15イシマ⇒ハコ ランチ1頼む
18⇒21トウマ⇔JNI
事故の模様は?
当船も事故起きた模様注意頼む
⇒R
19⇒20ハコ⇒イシマ ランチ出れぬ
19⇔20トウマ⇔タセマ
本船の前方を今港外に出るのは貴船ですか?
⇒そうです。
121
⇒本船は今非常に難航している、注意頼む
⇒本船も同じく難航中 お互い頑張りましょう。
22⇒23ハコ⇒トウマ AS
22⇒25JNI LST546遭難情報再放送
R
本船函館港外にて台風避難中動けない
26⇒28トカマ⇒JNI
JNIdeJGUD
27⇒29ハコ⇒トウマ 貴船模様知らせ。
31⇒35LST546⇔JNI
JNIdeNEHE葛登支浜に全速で座礁しつつあり、人命無事に
付SOSを打ち切るK
⇒R QSLでは2034でQUMにしますか?
⇒R Okあと500kc︵緊急遭難周波数︶でワッチ頼む
⇒R では打ち切り後の通信は此方472kcですが其方は?
⇒此方480kc
NEHE2034QUM
⇒R それでは解除放送を行います。
CQCQCQdeJNI
35⇒37JNI
SOS
葛登支砂浜に全力で座礁しつつあり人命に異常なき模様に付遭難通
信解除します 函館海保
Ans︶
Ans︶
36⇒41ハコ⇒トカマ ︵2回︶
貴船模様知らせ︵No
42 タセマ⇒トカマ︵No
47⇒48ハコ⇒トカマ 貴船模様知らせ
48 ヒタマ⇔タセマ︵情報交換︶
55⇒57トニセマ⇒ハコ
2050現在本船港内にて機関使用走錨中。
55⇒58トウマ⇒ハコ
業務報2通、本船も今の所異常なきも厳重ワッチ頼む。
58 トニセマ⇔ヒタマ イタリー船について
59⇒00トカマ⇒ハコ
122
チチュウ
2042現在葛登支灯台よりN62度E4・2マイルSW30∼3
5m突風40m動揺R40L28半速前進中。
21時
02⇒04タセマ⇒ハコ
2100現在葛登支灯台より40度2・8マイル地点にて踟?中。
11⇒12ハコ⇔イシマ 無線電話にかかれ⇒停電不能
16番錨地に投錨全員配置につき厳戒中、桟橋にても注
22 イシマ⇒ハコ
2025
意頼む。︵タナ21︶
1201便函館桟橋2岸係留中2015強風の為係留索切断係留不
能に陥りタグボート3隻にて風下より押し付けたるも自然離岸航行
不能且つ係船不能よって16番錨地に走錨泊、全員配置厳戒中。
2045現在異常なし突風40m以上︵タナ22︶
25⇒26トウマ⇔ハコ
エンジン、ダイナモ︵発電機︶止まりつつあり突風55m
⇒此方も非常配置でワッチ中貴船も頑張れ。
⇒Ok
31⇒32ハコ⇒トウマ 発電機エンジン模様知らせ。
37⇒38トウマ⇒ハコ
QRU 左舷発電機コセ左舷エンジン不良ビルジひき困難
40 ハコ⇒全連絡船 CP
チチュウ
41⇒42トニセマ⇒ハコ
2135港外にて沖出し踟?中、厳戒中異常なし。
49⇒51ハコ⇒トウマ
先電の件、発生時原因、エンジン発電機不良箇所、動揺ボイラー焚
火可能なるやウナヘマ
50⇒51ハコ⇔ヒタマ 中波は500kcですか⇒No
123
54 タセマ⇒ハコ
2150舵機室浸水の為、航行不能エンジンにて操船中。船長マナベ
124
洞爺丸台風通信記録3 22時∼23時 転覆
22時
01⇒02トウマ⇒ハコ
辛うじて船位を保ちつつあり詳細あと。
07⇒08トウマ⇒ハコ 主エンジン不能となる。
12⇒13トウマ⇒ハコ
両エンジン不良の為漂流中
15⇒16ハコ⇒トウマ
貴船位置風向・風速・突風知らせ
19⇒20タセマ⇒ハコ
厳重ワッチタム
19⇒21ハコ⇒トカマ
貴船の動向知らせ。
22⇒24トニセマ⇒ハコ
2210南口灯台より250度1・5マイルにチチュウSW25m
突風35波7うねり5舵機エンジン共異常なし。
24⇒25トカマ⇒ハコ
缶場浸水︵ボイラー室︶エンジン不良、このまま風治まるまで待つ
船尾より浸水甚大ワッチタム。
27⇒29トウマ⇔ハコ
防波堤灯台より26度8ケーブル風速18m突風28m波8、22
26座礁せり⇒最後まで頑張ってください。
32⇒33トウマ⇔ハコ
位置ウナヘマ、ムセデワ頼む⇒停電不能
34⇒35トカマ⇒ハコ
エンジン浸水の為船内消灯スルスドア︵防水扉︶閉め凪︵風が吹か
ない状態︶を待つ。
125
38 トニセマ⇔ヒタマ
ハコ、アワ停電、使用不能なり︵?︶
洞爺丸、函港外青灯より267度8ケーブル
39⇒41トウマ︵国際遭難通信︶
SOSdeJBEA
の地点に座礁せり。
41⇒42トウマ⇔ハコ
Ok︵洞爺丸最後の交信︶
SOS
SOS JBEA報2
Ans︶
SOS詳細なる状況知らせ。
本船500kcにてSOSヨロ⇒SOS
43⇒45JNI⇒トウマ
RRR
Ans︶
JBEAdeJNI
︵送信2回No
44⇒45ハコ⇒トウマ
船内状況浸水なるやウナヘ ︵No
SOS
45⇒48JNI︵函館港近隣全域︶
CQCQCQdeJNI
239JST函港外青灯より267度8ケーブルの地点座礁、付近
船舶注意あれ 函館海保︵一般船舶応答なし︶
47⇒48トカマ⇒ハコ
Ans
Ans︶
呼びだすがNoA
船内消灯エンジン浸水の為不能、全員にて防水作業中。
48⇒50JNI⇒トウマ No
49⇒50ハコ⇒トウマ 船内状況浸水なるやウナヘ ︵No
50⇒53ハコ⇒JNI
JBEA・JGUDの救助の手配ヨロタム
ok
JBEAは応答ない ⇒R
ヨロ救助タムPSE
JBEA、JGUD
⇒R
53⇒55JNI
ns
55⇒57ハコ⇒トウマ
2250ランチ4隻貴船に向かえり︵NoAns︶
55⇒58JNI⇒おくしり
126
今連絡船JBEAが港外青灯より267度8ケーブルの地点で座礁
浸水あり客室1500名程いる模様貴船は直ちに現場向け救助にあ
たれ。
⇒R ok QSW3・2MC
58⇒00ハコ⇒トウマ
船内状況浸水なるやウナヘ2250ランチ4隻貴船に向かえり︵N
oAns︶
23時
03⇒06JNI JBEA、JGUD呼び出すがNoAns
04⇒05ハコ⇒トウマ NoAns
05 トニセマ⇒ハコ
2300南口灯台より230度1・7マイルにてチチュウSW25
突風35m波7うねり6舵機エンジン共異常なし。
08⇒09JNI JBEA、JGUD 再三NoAns
11⇒14JNI︵函館港近隣全域︶
当保安部より洞爺丸には﹁おくしり﹂十勝丸に﹁りしり﹂を向かわ
せた。函館海保
18 ヒタマ⇔トニセマ
現在10度傾斜中ボイラー2缶使用中本船健在
19⇒20ハコ︵函館港近隣全域︶
ランチ派遣せるも引き返えせり
19⇒21タセマ⇒ハコ
2300葛登支灯台より190度5・3マイルにてチチュウ中WS
W30m波7∼8m突風40m 船長マナベ
20⇒22NEHE⇒JNI
今会社宛て状態電したいがJHK︵電電公社、今のNTT︶返事が
ない。電話でも連絡してくれませんか?
22⇒23ヒタマ⇒ハコ 本船危険手配乞う。
24⇒25ハコ⇒トカマ 貴船模様知らせ。
127
25⇒27ハコ⇔JNI 日高丸も救助タム⇒Ok
26⇒27ハコ⇒ヒタマ 状況ウナ知らせ。
32⇒33イシマ⇒ハコ
2300現在W20突風27R全員警戒継続中尚突風56m強風の
為1・2・6号救命艇甲板上に吹き飛ばされ外板損傷により使用不
能、前部調理室煙突根元より折損、その他異常なし。
32⇒33ヒタマ︵国際遭難通信︶
SOSdeJQLY函館防波堤灯台よりW9ケーブルの位置にてそ
う⋮︵以下中絶。日高丸最後の通信︶
33⇒36JNI⇒ヒタマ 呼び出すがNoAns
36⇒41トカマ⇔ハコ
浸水だいぶおさまり錨に異常なき限り安全な模様、付近に沈船漂流
中。︵第十一青函丸?︶S15∼20m未だ衰えず、うねりSW7
動揺右20全員意気健康⇒頑張ってください。︵十勝丸最後の通信︶
36⇒40JNI⇒ヒタマ 呼び出すがNoAns
42⇒43ハコ⇒トウマ 呼び出すがNoAns
44⇒46JKJC︵国際遭難通信︶
SOSdeJKJC第六真盛丸2037分七重浜海岸座礁した尚今
の所転覆の状況なき模様ワッチ頼む尚⋮
︵この時函館海保、国際遭難通信返答不能になる︶
46⇒47JKJC︵国際遭難通信︶
JNIdeJKJC SOS QRK?
49⇒52JKJC︵国際遭難通信︶
SOSdeJKJC本船七重浜海岸付近に於いて⋮︵聞き取れない︶
⋮尚本船付近漂流者多数流れつつあり、すぐ救助タム。
49⇒50トニセマ⇒ヒタマ 呼び出すがNoAns
49⇒51ハコ⇒︵函館港近隣全域︶
ランチ派遣せるも引き返せり、トウマ船内状況ウナヘ︵NoAns︶
53⇒55JKJC︵国際遭難通信︶
2037七重浜付近に座礁した傾斜10度位、なお本船付近漂流者
128
多数あり救助タム。
50⇒53ハコ⇒ヒタマ
正確なる位置知らせ。︵2回送るがNoAns︶
55⇒59ハコ⇒トニセマ
トウマ乗船者らしきもの、漂流者について連絡
59⇒00JKJC︵国際遭難通信︶
SOSdeJKJC2037七重浜付近に座礁した傾斜10度位、
本船付近に漂流者多数あり救助タム。
129
洞爺丸台風通信記録4 翌27日0時∼2時 救難派遣難航
翌27日0時
02⇒06JKJC⇔イシマ
SOS Ok JNIの送信不良ですが、受信は良いと思われます
から貴船のSOS、QSLと思われる。
此方連絡船石狩丸、今函港内です。
⇒本船は今の所砂浜に横になって約10度右舷傾いているが、転覆
の危険は無いがワッチ頼む。付近多数の漂流者が海岸に助けを求め
ているから最寄に連絡方法ありや。本船も2名救助した。
08⇒12トニセマ⇒ハコ
2400南防波堤灯台より230度1・7マイルの地点にてチチュ
ウSW20m突風30m涙6うねり6動揺左右15度最大25度各
部異常なし。
13⇒18JKJC⇒イシマ
貴船を通じ救助連絡頼む 尚本船付近に多数の漂流者あり何らかの
方法により至急救助頼む。本船も2名救助せり。
18⇒20イシマ⇒ハコ
2305︵0005の間違い︶第六真盛丸のSOSに接し応答せる
ところ七重浜海岸に座礁救助を求め尚同船の通知によれば付近に多
数の漂流者救助を求めつつあり同船も約20名︵2名の間違い︶救
助した至急救助方依頼ありたるに報告す。漂流者洞爺丸と判明。
22⇒23JKJC⇒イシマ
現在2名救助したが、多数は海岸に上陸している。
救助の2名は1人は二等機関士、1人は船客︵t.aさん︶
28⇒30タセマ⇒ハコ
0010葛登支灯台より222度10・2マイルに投錨せりW18
m波3雨エンジンその他詳細後報告す。
30⇒32イシマ⇔JKJC
130
貴船より洞爺丸の様子が判りますか?
⇒海岸に座礁後横倒しとなり、その後電灯は消えた。それから船内
に残ってる人がいるらしいとの話です、よく判りませんとの事。
35⇒37ハコ⇒トカマ 呼び出すがNoAns
39⇒40JKJC⇒イシマ
洞爺丸の正確な位置判りません。本船のSWに座礁したのは分かっ
てますが視界悪く距離不明。
49⇒58JNI⇔ハコ
当局不良中のところ応急修理完了。
今迄に貴局で判明した連絡船動静頼む。
⇒洞爺丸七重浜付近に座礁横倒しとなり転覆、乗客乗務員は海岸に
多数上がったようだ。十勝丸、日高丸宜しく頼む。
57⇒59ハコ⇒タセマ 呼び出すがNoAns
59⇒00ハコ⇒トカマ 呼び出すがNoAns
1時
07⇒09トニセマ⇒ハコ
0100南防波堤灯台より230度2・1浬の地点でチチュウ。S
W18m突風25m波5うねり5動揺左右15度最大20度各部異
常なし。
なお遭難現場向かいたくも波高く変針不能 船長アリカワ
33⇒37タセマ⇒ハコ
26日1920函港内にて避難中第六青函丸左舷中央部と本船船首
接触ロセマ被害ある見込み本船損傷なし。船長マナベ
揚錨機故障原因目下調査中、操舵機室浸水甚だしくジャンネーポン
プキャプスタン濡れ損の為使用不能、船体機関その他異常なし。
操舵機室排水作業中 船長マナベ
45⇒48おくしり⇔ハコ
SOS人が多数漂流中救助頼む。
本船作業中洞爺の救助に向かっている。
131
⇒Ok
57⇒59おくしり⇔ハコ
SOS 赤灯台に多数流れているから上げた人はだいぶ衰弱してい
る。
⇒函館桟橋より﹁おいわけ丸﹂﹁かつとし丸﹂の二隻を洞爺丸現場
に向かわしたから0050にやった。
2時
01⇒03おくしり⇔ハコ
ランチ二隻では足りぬ。
⇒Ok連絡する。
07⇒08トニセマ⇒ハコ
0200南防波堤灯台より230度2・1浬の地点にてチチュウ中。
SW15m突風25m波5うねり4動揺左右13最大18度各部異
常なし。 船長アリカワ
10⇒11ハセマ⇒ハコ
おいわけ丸にて十勝丸乗組員3名救助す。十勝丸、茂辺地沖で沈没
す。
14⇒15おくしり⇔ハコ
大変な人だから早く⇒Ok
16⇒19おくしり⇔ハコ
本船は赤灯台の内側500m位です。⇒Ok
19⇔25JNI⇔ハコ
十勝丸の人は乗組員ばかりか?⇒YES
日高丸の状況判るか?⇒此方も知りたい。
連絡取れないか⇒はい。
十勝丸の救助は手配済み⇒Ok
37⇒38ハコ⇒ハセマ 貴船位置知らせ。
49⇒50ロセマ⇒ハコ
沈没せるヒタマ乗組員5名救助至急医者手配乞う。
132
51⇒57おくしり⇒ハコ
本船に救助した人は日高丸十勝丸の乗組員で、それによれば係りが
中の人ばかりで何処で転覆したかよく判らぬが多分有川桟橋付近だ
ろうとの事。
133
洞爺丸台風通信記録5 3時∼6時 長い夜∼夜明け
3時
02⇒03ハセマ⇒ハコ 0040南防波堤灯台より72度650m
10⇒11ハコ⇒トイセマ 呼び出すもNoAns
11⇒12ハコ⇒キミマ 呼び出すもNoAns
12⇒13ハコ⇒ロセマ
タセマと接触せる時の状況知らせ及びヒタマ乗組員救助せる由詳細
知らせ。
14⇒15トニセマ⇒ハコ
0300南防波堤灯台より230度2.1浬の地点ににてチチュウ
SW15突風20m波4うねり3
18⇒19ハコ⇒キミマ 呼び出すもNoAns
18⇒19ハコ⇒トイセマ 呼び出すもNoAns
19⇒20ハコ⇒ロセマ 医者行けぬランチ送る
20⇒21ハコ⇒トイセマ 呼び出すもNoAns
21⇒22ハコ⇒キミマ 呼び出すもNoAns
22⇒23ハコ⇒タセマ 北見丸との通信は?
26⇒27ハコ⇒イシマ 呼び出すもNoAns
29⇒30ハコ⇒ハセマ キミマ・トイセマの船影なきや
30⇒31ロセマ⇔タセマ 接触事故の件について
41⇒44JKJC︵国際緊急遭難通信︶
第六真盛丸 QUM 27日0340
53⇒54ハコ⇒ハセマ キミマ・トイセマ見えたか?
58⇒59ハコ⇔トニセマ
キミマ・トイセマの状況判るか?⇒判らぬ
134
59⇒00ハコ⇒ロセマ キミマ・トイセマ見えたか?
4時
04⇒05ハコ⇒タセマ 2度呼び出すもNoAns
07⇒08トニセマ⇒ハコ
0400南防波堤灯台より241度2.3浬の地点ににてチチュウ
W10波3うねり5度各部異常なし
08⇒09ハコ⇒タセマ キミマ・トイセマの動向頼む
18⇒19ハコ⇒アホ︵青森桟橋︶呼び出すもNoAns
35⇒36ハコ⇒トニセマ
夜明けと同時にトイセマ、キミマの動向調べウナ返事頼む。
51⇒53ロセマ⇒ハコ
救助せるヒタマ乗組員の氏名水手H,O、S、I火手O全員蘇生意
識回復す。
55⇒56トニセマ⇒ハコ
0450トイセマ、キミマその他遭難船捜索に向かう
58⇒59ハセマ⇒ハコ
本船沖出し後走錨泊中振れ廻りの為錨鎖絡みたる為天候回復次第調
査予定
5時
06⇒09JNI⇒ハコ
だいぶ明るくなったから洞爺・日高の遭難通信を一応解除しては如
何?
⇒少し様子見る。
21⇒22トニセマ⇒ハコ
南口灯台より西1.2浬にキミマと思われる転覆船あり。
22⇒23イシマ⇒ハコ
135
本船運航可能の状態にあり現在位置航路筋、転錨するにつき貨車如
何するか?
25⇒27ハコ⇔JNI
南口灯台より西1.2浬に北見丸と思われる転覆船ありとの事。救
助頼む⇒OK
31⇒32トニセマ⇒ハコ
0520連絡船員死体1名収容す、尚七重浜に連絡船ボート等漂流中
35⇒36トニセマ⇒ハコ
キミマらしき船の遭難現場にてボート下し捜索中 AS
41⇒43トニセマ⇒ハコ
七重浜沖に赤腹を出した鉄船あり確認に行く、なお該沈船塗料新し
い船名不明
45⇒46ハコ⇒タセマ
現在位置及び状況トイセマ見当たらぬかウナ返事待つ
49⇒50トニセマ⇒ハコ
キミマ、トイセマの投錨地点に転覆し船首の船底を海面に露出せる
連絡船あり、なお付近捜索中、底極めて新しき故トイセマと思われる
57⇒59ハコ⇔JNI
十一青函丸、北見丸沈没したらしき為救助乞う、十一青函丸の位置
函灯台より245度2浬、北見丸の位置函灯台より257度1.2
浬の地点ヨロタム⇒Ok
6時
01⇒02トニセマ⇒ハコ
本船捜査打ち切り港内に向かう
04⇒05イシマ⇒ハコ
本船位置精測の結果左の通り北防波堤より134度1.1浬
22⇒23トニセマ⇒ハコ
0613港内22番錨地に投錨
44⇒47JNI︵国際緊急遭難通信︶
136
27日0637青函連絡船洞爺丸及び日高丸QUM
昨夜函館港付近で座礁転覆人員漂流目下鋭意捜索中、函館海保
終わり
137
洞爺丸台風通信記録5 3時∼6時 長い夜∼夜明け︵後書き︶
改めて、自分自身で通信記録を打っていると、一層深く理解出来
ました。段々自分自身が通信士になった気分になり、あの日に溶け
込んでいくようでした。
日航123便のように音声ではなく、モールスなので、伝達が遅
く文も短く、専門用語が多いですが、当時の空気は十二分に伝わる
と思います。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9338cg/
SOS洞爺丸 ∼昭和29年洞爺丸台風・日本史上最悪の海難事故∼
2016年2月19日12時06分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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