国学院久我山高校ラグビー部現役時代の想い出・今 遠く五拾年前に想い

国学院久我山高校ラグビー部現役時代の想い出・今
昭和40年の出来事
「オロナミンC発売される」「ベトナム戦争勃発」「チリ地震津波で大被害」
「朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞・平和賞は国際児童基金」「国産旅客機YS11 が就航」
「3C(カ―・クーラー・カラーテレビ)時代ピークへ」「アイビールック(VAN ルック・JUN ルック)が流行」
「ヒット歌謡曲~君といつまでも・涙の連絡船・赤いグラス・兄弟仁義・涙君さようなら~等々」
遠く五拾年前に想いをはせてみましょう
先ずは、繁華街の様子をご覧ください
さすがに数は少なくなってきましたが
三輪貨物がまだ頑張って走っています
新橋・銀座の目抜き通りは都電が主役
庶民の重要な足として活躍中です。
陽が傾いて暗くなってきました。それでは久我山高校のグラウンドを覗いてみましょう
とっぷりと暮れた.堅い、あるいはぬかるんだ土のグラウンド.
スクラムを組む若者.意地をともなった湯気のかたまりが湧き上がり、
裸電球に照らし出された光の中を流れゆく汗と、涙と、友情、そして悩み
まるで青春ドラマのようですが、本当でしょうか?事実を探りに中にもぐり込むことにします
【 バックス! ポロポロこぼすなー!折角苦労して取ったボールだぞ!!】
【 何言ってんだ!押されて、こぼれ出た様なボール攻めようがネーダロー!!】
オヤオヤ。個々では頑張っている様ですが、チームとして、まだのようですネ!
おまけにムサクルシイ連中ばかりで、青春ドラマとは程遠い世界です。
中村 誠先生の怒鳴り声が聞こえます。もう少しこの時代を観てみましょう
昭和40年・回顧
17 期 3 年生・18 期 2 年生・19 期 1 年生
国体都予選、シード後の日比谷高戦を皮切りに成城高・青山学院・昭和一工を撃破
久我山高初の東京決勝進出を決め、9 月 23 日保善高と対戦するも0-24と大敗。
前年の関東大会初出場に続き、この年も水戸での関
東大会に出場、高萩高に勝利し(14-5)
地力の向上を感じられた中村誠先生は念願の全国
大会出場に向けて夏に鍛える事が必須と、例年1度
の夏合宿を 3 度行う事にして1次合宿を7月 29 日
から 8 月 2 日迄菅平高原で
(この年から菅平を利用)
菅平高原にて、行きは良い良い・・
前列は 18 期の面々・・左から
井
上
岡
崎
香
坂
西
尾
荻
原
2 次合宿を 8 月 9 日から 18 日迄富士見高原で、その
後練馬自衛隊で3次合宿の体験入隊と予定を組んだ。
3次合宿は自衛隊の都合で中止となったが、初めて日体大の胸を借りに行ったりと、
質,量ともに今迄になく厳しい練習で力強いチームが出来上がりつつあった。
又、
この合宿に掛かる費用は中村誠先生
がOBの方々に寄付のお願いに回り
苦労の上工面されたものである。
一
年
生
(
十
九
期
)
左
か
後
方
は
夏
合
宿
初
体
験
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も
う
・
・
ヨ
レ
ヨ
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一次合宿での集合写真
(この年から、ここ菅平高原での合宿が開始される)
ら
高 若
橋 林
村 鈴
野 木
国体予選は前述通りの敗戦を喫したが選手達は数字程の開きは感じられず逆に
手ごたえを胸に全国大会初出場を目指し東京予選を迎えたのだが・・・・・・
この続きは当時のメンバーに語ってもらうことにしましょう
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次回をお楽しみに
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