さ よねさんが観た文化財 佐陀川開削水路 だ がわかいさく 佐陀川開削 宍道湖浜佐陀~日本海恵曇(えとも) 延長 8km 幅36m 恵曇 浜佐陀 宍道湖(しんじこ)南側の高速道路を走り、嫁が島を左手に見て、松江市内に入る。 嫁が島は学生時代に松江の同級生を訪ねたときに、この島にボートで渡り、ここで泳い だことを懐かしく思い出す。松江は広島から遠いが、松江城、神魂神社(かもすじんじ ゃ)などをよく訪ねた。しかし、宍道湖から日本海へ通じる運河があることは知らなか った。このたびの歴史探訪で、佐太神社を訪ねた際に、バスの車窓から佐陀川水路を眺 め、佐太神社で降りて、佐陀川の傍に行ったので、佐陀川開削についての経緯、歴史を 紐どいてみたい。 時は天明5年(1785)、松江藩普請方(藩直轄の土木事業を担当する役)であっ た清原太兵衛(きよはらたへい)は、松江藩7代藩主松平治郷(まつだいらはるさと、 号は不味〈ふまい〉)にやっと願いが聞き入れられ、工事に着手し、足かけ3年をかけ て、天明7年に完成した。 この開削事業によって、宍道湖の浜佐陀から日本海の恵曇(えとも)までの延長8k m、川幅36m、水深2mの人工河川、佐陀川が誕生した。 1 佐太神社近くの佐陀川(日本海方向を見る) 佐太神社近くの橋から佐陀川を眺めると、ゆっくりと日本海に向けて流れていた。宍 道湖の水位と日本海の水位の差が小さいからであろう。流れの方向は、宍道湖と日本海 の水位の高低によって、日本海へ流れる北流、宍道湖方向に流れる南流とに変わるとい う。 佐陀川開削事業の背景は、堀尾氏、京極氏のあと、松江藩主に赴任した松平直政時代 の寛永12年(1635)の大洪水を契機に、それまで神戸水湖(かんどすいこ、現在 の神西湖)を通じて、日本海に注いでいた斐伊川(ひいかわ)を人工的に東へ流路変更 し、宍道湖に流れるようにした。このため、宍道湖の水は松江の大橋川しか排水河川が なかったため、城下町松江はたびたび水害に見舞われた。この対策として、佐陀川開削 事業が進められたのである。 その効果として、三つあげられる。 ① 洪水対策 宍道湖の洪水の一部を日本海に放流し、城下町松江を主とする洪水緩和が期待された。 しかし、一級河川斐伊川の洪水が宍道湖に流れてくるので、小さな佐陀川では対処でき なかった。そもそも江戸初期に斐伊川を東流させたのは、洪水対策としては失敗だった のではなかろうか。しかし、新田開発、水運交易が進み、松江藩は財政立て直しができ、 時の藩主の不味公は茶道にふけっていった。 ② 新田開発 宍道湖畔の潟の内などの湿地帯の水位が低下することによって、200haの新田開 発が進み、周辺農民を潤すことができた。 ③ 水運交易 宍道湖と日本海を結んで、米や海産物の取引が盛んとなり、経済効果をもたらした。 また、幕末から明治にかけて、佐陀川航路は全盛期を迎え、大正時代からは汽船の定期 2 便が昭和33年まで就航した。現在は、レジャボートが多く時代を感じる。 広大な新田開発に早苗が並ぶ(バス車窓から) 現在は佐陀川に通じるところに、レジャボート基地がある(日本海寄り) 3
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