”バウハウス” 標準化の時代 産業化に伴う生産システムの変容の過程で、、製品の形態も単純化・簡素化され、従来の装飾的要素は排除されて いった。みずからの個性や感性を表出させる芸術家としてではなく、近代的な生産システムの特徴を生かしながら、大 量生産品の原型や定型を造形する、デザイナーという職業の萌芽をここに見い出すことができる。 (例) ■ペーター・ベーレンスの AEG コーポレートデザイン ■デッサウにあるテルテン団地 バウハウスが低所得労働者のために作った集合住宅。プレハブ住宅の先駆け ■フランクフルト・キッチン 1920 年代に設計された住宅建築において画期的な発明となった台所。 ■51C 第二次大戦後の日本の住まいのあり方を方向づけた、日本住宅公団(現・都市基盤整備公団)による 2DK の標準型平面図。 バウハウス年表 1919 年:グロピウスを校長としてワイマール国立バウハウスが開校する 1920 年:ゲオルク・ムッヘ (画家)オスカー・シュレンマー、パウル・クレー が形態のマイステルになる。 1921 年:ロタール・シュライヤーが舞台部門の形態マイステルになる。 1922 年:ワシリー・カンディンスキーが形態マイステルになる。。 1923 年:イッテンが去る。彼シュライヤーも去り、シュレンマーが舞台部門の中心となる。ハンガリーの構成主義 者ラズロ・モホリ=ナギが形態マイステルとなる。 1924 年:右翼的政府がチュリンギア州に成立し、バウハウスヘの援助が打切りになる。 1925 年:グロピウスはデッサウにバウハウスを移した。 1926 年:グロピウスの設計した新しい校舎に移る。『バウハウス雑誌』(年 4 回)が創刊された。マイステルはプロ フェッサーと呼ばれるととになった。 1927 年:スイスの建築家ハンネス・マイヤーが建築部門で教えることになる。 1928 年:グロピウスが校長を時任し、ペルリンに移る。パイヤー、プロイアー、モホリ=ナギがやめる。ハンネ ス・マイヤーが校長となる。クレーとカンディンスキーが自由画のクラスを聞く。 1929 年:建築家ルドウィヒ・ヒルベルザイマー、アントン・プレナーがプロフェッサーとなる。 1930 年:ミース・ファンデルローエが校長となる。 1932 年:デッサウの議会は、国家社会主義に占められ、バウハウスは閉鎖される。ミースは私的な学校として、ベル リンにバウハウスを移す。 1933 年:ヒトラーが政権につき、バウハウスは警官によって襲撃され、生徒は逮捕される。ミースはバウハウスを 閉じる。 デザイン史概説 #07 バウハウス バウハウスでは、形態のマイステルと工房のマイステルというこ種の教師がいた。招かれた三人は形態のマイステ ルで理論を教え、工房のマイステルは技術を教えた。また、色彩論や構成学という理論的芸術論を確立し、近代デザイ ンにおける美術教育のあり方を定義付けた。 バウハウスの講師陣 ■ヴァルター・グロピウス 近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の 一人とされる。世界的に知られた教育機関(学校)である「バウハウス」の創立者であり、1919 年から 1928 年まで初 代校長を務めた。 有名な言葉として、バウハウスの開校時の宣言、「完全なる建築は、視覚芸術の最終目的である。それらの高貴な 目標はかつて建築の装飾であった。今日、それらは互いに孤立している。 すべての工芸家の意識的な協同作業によって のみ、そこから脱することができる。建築家、画家、彫刻家は、あらためて、建物の本質としての定全な性格を認識し なければならない。」 ■ヨハネス・イッテン スイスの芸術家、理論家、教育者。スイスのベルンに生まれる。イッテンは、バウハウスや自身の学校において独 自の造形論および色彩論を主張し、展開した。 ■パウル・クレー パウル・クレーは 20 世紀のスイスの画家、美術理論家。ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを 結成し、バウハウスでも教鞭をとった。 クレーの言葉として有名なものに、「芸術とは目に見えるものを再現することではない」がある。 ■ワシリー・カンディンスキー ロシア出身の画家であり、美術理論家。一般に、抽象絵画の創始者とされる。著作「芸術における精神的なるもの について」で、ある色彩がどのような性格を持ち、どのような形態で効果を上げるか、といった問題に取り組んだ。 ■オスカー・シュレンマー 920 年より 9 年間バウハウスの教員としてつとめ、主要なメンバーの一人として影響を与えた。彼の『トリアディッ ク・バレエ』は、演劇、舞踊、デザインを総合する実験となった。 ■モホリ=ナギ バウハウスに来たのは1923年。フォトグラムの実験にとりくんでいたところをヴァルター・グロピウスが目 をつけ、バウハウスに引っ張られた。デザイナーであり、写真家であり、タイポグラファーであり、有能な編集者でも 合った。 ■マルセル・ブロイアー 1920 年代、ブロイヤーはバウハウスで学び、後に同校の教官(マイスター)となった。彼は芸術とテクノロジーの 融合を説き、やがて木工工房を任されるまでになった。後に、彼はベルリンで開業し、住宅や商業施設のデザインをし た。ブロイヤーの最も知られている作品は初めて曲げた金属パイプを使用した『ワシリー・チェア』。 デザイン史概説 #07 バウハウス
© Copyright 2024 ExpyDoc