9 第一章 「先住民」の存在と「漢人」の渡台―外来諸勢力による統治 本章

第一章 「先住民」の存在と「漢人」の渡台―外来諸勢力による統治
本章では、オランダ植民統治期から日本統治期以前の外来勢力による統治期を扱い、
「先
住民」の存在と漢人の渡台背景に触れ、漢人が多く渡台した清朝期の「台湾意識」に注目
する。
第1節 オランダ植民統治期―初の外来勢力による統治1
台湾史における最初の外来勢力による統治としてオランダ統治期を扱い、この時期に台
湾島に移住した漢人との関連を見ていく。
この頃のスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスなどの西欧各国は大航海時代に突
入しており、貿易と布教のために東方へ航路を拡張していた。日本は徳川幕府が初期を迎
えており、封建藩主に対する支配がおこなわれていた。この中で「鎖国」が施行され、外
界との貿易と情報を幕府が一手に握っていた。中国は明朝の後期で中央集権体制の終焉を
迎えており、
「海禁」が施行され、門戸を閉ざして国を守っていた。
一方、台湾島はと言うと、大部分がうっそうとした原始林に覆われ、海岸まで樹林が及
び、猿、蛇、鹿が山野の至る所に生息していた。この自然豊かな様子に、16 世紀に台湾島
を通過したポルトガル船乗組員は「Ilha Formosa」
(なんと美しい島だ)と叫び、それ以降
台湾島を「Formosa」と呼ぶようになった。17 世紀にオランダ東インド会社はポルトガル、
スペインなどと東アジア進出を競い合っており、中国・日本と南洋・ヨーロッパとの中継
貿易基地確保のために台湾島に上陸したと考えられる2。
オランダ勢力の台湾島上陸
1622 年にオランダの艦船7隻が膨湖島に上陸し、中国領域の膨湖諸島で防御工事の建設
を開始した。オランダは領域侵入とみなされ、明から攻撃を受け、膨湖諸島へ撤退した。
1624 年には台湾南部(現在の台南市安平)に貿易と統治のためのゼーランディア城、砲台、
ゼーランジャ市街、プロビンシア城、プロビンシア市街などの施設(資料2)を 1624 年
資料2(左)プロンビンシア城(右)ゼーランディア城
から 1662 年にかけて築いた。
1625 年に漢人勢力の首領であった顔思斉が病没すると、台湾島へ漂流した漢人集団の注
目株であった鄭芝龍が指導者になり、オランダ人と協力しつつ共存する方針を立てた。翌
1626 年には台湾北部淡水や鶏籠(後の基隆)をスペインが日本と中国を対象にした貿易や
布教を目的に占領したが、1642 年にオランダに駆逐され、フィリピンへ移動した。1652
年には郭懐一を領袖とする漢人系移民の大規模な反乱が発生し、1661 年に「反清復明」の
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旗印を掲げた鄭成功が渡台し、1662 年にはでゼーランディア城が陥落したことで、オラン
ダによる統治は進出開始から 37 年目で終焉を迎えた。
「先住民」について
本論に入る前に、
「先住民」という表記について、ここで一言触れておく。台湾の「先住
民」は、台湾に昔から住んでいたという意味で自らを中国語で「原住民」と呼び、中国語
での「先住民」は「すでに滅んでしまった民族」を指すため、この表記は使われていない。
一方、日本語では「原住民」は差別的な意味合いをもつことや先行文献も「先住民」
「先住
民族」と表記しているため本稿では「先住民」の表記を用いることにする。
オランダは 1635 年に大員付近での先住民討伐を開始した。オランダ人が作成した「番社
戸籍表」によると、1647 年にオランダ統治下にあった先住民集落は合計 246 社あり、人口
は 6 万 2849 人、1650 年には 315 社、6 万 8657 人であった。推計では、この人口は全台湾
先住民人口の、およそ 40%〜50%を占めるという。つまりオランダ人はおよそ 4〜5 割の
先住民を統治していたことになる。漢人は、最も多い時で 3〜5 万人が台湾島に居住してい
た。これらの人口の勢力割拠について見ると、台南付近にはオランダ人、東北海岸にはス
ペイン人、嘉義・雲林一帯には漢人が居住しており、台中の大甲には先住民の王国があっ
た。
その統治政策
オランダは先住民に対しては西方の植民地主義に則り「一方の手に剣を、もう一方の手
に聖書を掲げていた」という様に、軍事力を以て攻め従え、布教(カルヴァン派キリスト
教)活動を行った。布教活動を行う傍ら、先住民にローマ字表記の文字(新港語)を用い
た教育も実施した。
「新港語」は聖書の他に辞書や教義書の編纂に使用され、
「番仔契」と
言われる土地契約文書に至るまで多岐に亘って使用された(資料3)
。オランダ人が作り
資料3(左)
(右)新港語を使った文書
だした「新港語」は、先住民を無文字社会から文字社会へ発達を幇助した。
一方、
漢人に対しては彼らを収める組織を広げることを目的として統治が行われていた。
組織化のために、結首(組長)制が採用された。結首(組長)制とは会社側が土地、農機
具、資金、種子を漢人農民に与え、一方の漢人農民は数十人を一「結」として集団で開墾
を行った。この「結」ごとに「小結首」
(班長)を一人おき、小結首数十人の中から「大結
首」
(団長)を一人おいて会社に対する責任を負わせた。こうして農作業従事者全員を会社
の人事網に編成しようとして開墾に力を入れた結果、気候と土壌を活かしたサトウキビ栽
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培が盛んになり、精製された砂糖は日本とペルシャで需要が多い商品となり、台湾を代表
する特産品となった。他にも先住民から漢人商人が集めた鹿の皮は、江戸時代の武士から
珍重され、1638 年には 15 万枚を輸出している。以上、オランダ統治期に始まった砂糖や
鹿の皮を特産品とする台湾独自の輸出形態が台湾に商品経済の雛形をつくる機会を与え、
輸出産業を発展させたことが分かる。
以上、
オランダ勢力による統治は、
台湾史において最初の外来勢力による統治となった。
この統治期には、既に「先住民」と漂流した漢人が台湾島に居住していたが、オランダ勢
力は「対人政策」を行わなかったため、
「先住民」と漢人は「移民初期状態」を保っていた。
第2節 鄭氏政権統治期―中国史との結びつき3
本節では、オランダ統治期にオランダ人との共存を選択した漢人勢力が、台湾での政権
を獲得する過程を見る。
鄭氏勢力の台湾島領有
鄭芝龍の台湾での主な動きは、1621 年に雲林県と嘉義県の境界に彼を含む漢人 26 人が
北港渓河口付近に漂着したことから始まる。鄭芝龍は福建省泉州の出身で、父親は福建泉
州府の下級官吏であった。18 歳で父親から勘当された後、マカオへ移動し、そこでポルト
ガル語を覚えキリスト教徒になった。その後商船に乗り日本へ渡り、長崎で田川マツと結
婚し、幕府への謀反に失敗し、台湾へ漂着したのであった。
漂着後は、北港の海辺に住居を構え、勢力拡大の為に郷里の貧乏人らを呼び寄せた。次
第にその数は三千人以上になり、十程の集落をつくり勢力を蓄えた。そして、1625 年に漢
人らの首領、顔思斉が病没すると、漢人たちは鄭芝龍を指導者に据え、彼はオランダ人と
協力しつつ共存する方針を選択した。鄭芝龍はポルトガル語が堪能であったため、オラン
ダ人と漢人との通訳をつとめた。オランダ統治中期になると、鄭芝龍の部下をオランダ東
インド会社で伏兵として働かせた。一方、先住民とも、ある程度のつきあいがあり、よく
鹿の皮や鹿の肉を持ってきて漢人の塩、布、首飾りなどと交換した。
鄭芝龍は、故郷である福建に戻るために漢人部隊の再編成に取りかかった。軍事に関す
る制度を整え、旗や幟を作成し、元々は民間の遊民層でしかなかった部下を先鉾、左軍、
右軍に分け、正規軍の様な姿に仕立てあげた。1626 年に金門・厦門・広東を攻め、後に占
拠した。占拠地で規律の整った軍隊は民心をつかんだ。1628 年に明政府は鄭芝龍に「守備」
(大尉に相当する軍官)の役職を付与し、鄭芝龍を利用して海賊を根絶やしにしようとし
た。役職を付与された鄭芝龍は金門や厦門などで流民を集め手兵に加えていき、中国近海
の両勢力(台湾・福建)を握った。また、オランダと通商互恵条約を結び、交流を続けた。
1630 年には、平戸からマツと6才の息子(後の鄭成功)を故郷である安平鎮に呼び寄せる。
この頃は福建一帯が凶作に見舞われたが、官船に数万の貧しい農民を従えて台湾に連れて
行き、荒れ地を開墾させた。オランダ人は先住民では農業が不得手で農機具もないため能
率を期待できなかったことから、農耕に適した漢人を歓迎した。
その統治政策
中国大陸は 1644 年に明王朝から清王朝への交代に直面していた。「反清復明」を旗印と
して掲げた鄭成功は清との戦いに備えて一族が熟知する台湾に拠点をおくことを考えた。
1661 年に明王朝が完全に滅亡すると、鄭氏の集団や鄭氏の軍人兵士のみならず、福建周
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辺の文人官僚も渡台した。鄭成功は、翌 1662 年には台湾島に住む漢人の協力を得てオラン
ダを駆逐し、台湾全島を「東都」と命名し、現在の台南市周辺を根拠地に台湾開発に乗り
出した。しかし台湾滞在わずか 13 ヶ月で鄭成功は死去し、息子の鄭経が跡を継いで統治し
た。鄭経は承天府及び東都を廃止し、東寧王国と改号した。明代の制度に倣って三年に一
度科挙の試験も実施し、先住民に対しては、教会を全部取り壊し、学校では四書五経や漢
語の作文を教えるように改めた。1674 年になると、鄭経軍の大陸進攻が始まるが、1683
年に清朝の攻撃を受けて降伏し、鄭氏による統治は 23 年間で終了した。鄭氏による統治は
台湾が中国史の軌道に引き込まれるきっかけとなった。
その統治の特色
鄭氏政権期の台湾の人口分布は、
先住民が約 12 万人で漢人が約 10 数万人居住していた。
増加の背景には、オランダ統治期の 1630 年代に福建、広東から大規模な漢人の移民が始ま
り農業に従事するようになると、1650 年代には、台湾島で漁業、貿易、耕作などを主な職
業として生計を立てられるようになり、移民者総人口は約 10 万人となった。
鄭氏政権と共に渡台した役人は屯田制を実施し、屯田兵として駐屯地での開拓を始め、
その開拓地を私有財産にした。文人官僚は中国王朝に似せた政府と地方行政機関を設置し
た。
以上、1621 年に台湾島に漂着した鄭芝龍を含む漢人たちは、初期「本省人」と言え、台
湾漢人 300 年の歴史の始まりを表している。そして、1630 年代に大陸の凶作に伴い、台湾
へ多くの漢人が渡ったことで、台湾島において本格的に漢人社会が形成された。
大陸へ渡った後も勢力を増やした鄭氏一族であったが、明朝の滅亡から大陸で政権を失
い、一族が軍人や文官と共に台湾島へ渡った。この際に成立した鄭氏政権は、台湾史にお
ける最初の亡命政権だと言える。そして、鄭氏政権が台湾島で統治を始めたことで、大陸
の南端に位置していた島が中国史と関連をもつようになり、一族と共に渡台した役人が、
中国大陸同様の政治や文化、文明を台湾島にも取り入れ、
「先住民」と漢人をとりまく「初
期移民社会」としての台湾島の姿が出来上がった。
第3節 清朝政府統治期―中国王朝による初の統治4
本節では、鄭氏政権を滅ぼした清朝政府の台湾島での統治を概観する。
1)清朝政府の台湾統治
清朝政府の台湾島領有
清朝は、台湾島を遠く離れた海中の孤島に過ぎず、古来より海賊や逃亡犯、脱走兵など
の無放者の巣窟であるとして、領有に消極的であった。しかし、鄭氏政権の存続を認める
ことはできず、1683 年に鄭氏政権を滅すため台湾に進攻、第三代藩主鄭克塽の降伏をもっ
て台湾島を占領した。再び外来勢力による統治を招くことを防ぐため、康煕帝は 1684 年 5
月 24 日に台湾島に台湾府を置いて福建省に所属させ、台湾、鳳山、諸羅三県を設けること
を記した台湾領有の詔勅を降した。
清朝の台湾統治の基本姿勢は、台湾島を反清勢力の温床としないこと、台湾島を王朝の
面倒の種としないことであった。そのため清朝は王朝に服属する地域の慣習や制度につい
ては秩序が攪乱される場合にのみ干渉するが、そうでなければ「化外之地」として放任す
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る姿勢をとった。
しかし、1874 年の日本の台湾出兵を受け、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上
の観点から台湾島の重要性を認識するようになり、防衛強化の必要性から 75 年に台北府を
設置し、1885 年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。台湾省設置後は、それま
での消極的な台湾統治から積極的な統治へ一変し、省都や台北府で近代都市化が行われ、
電気や電灯、電信が整備された。また、1887 年には基隆と台北間に鉄道などの近代的社会
基盤を整備し、本土から商人資本を呼び寄せ、興市公司を設立した。
しかし、1894 年に始まった日清戦争の敗戦と下関条約に伴い、1895 年に台湾島は大日本
帝国に割譲される。
以上、清朝政府は、反清復明を国是とする鄭氏政権を倒すために台湾島に渡った。しか
し討伐の為に渡台したため、基本的な統治姿勢は「化外之地」として放任した。やがて、
近代になり、アメリカや日本が台湾島へ接近すると、再び外来勢力による統治を招くこと
を防ぐために領有し、台湾省を設置した。
その統治政策
清朝政府は先住民のことを「番人」と呼び、その中でも「生番」
「熟番」と区別した。
「生
番」とは中国文明を全く受容していないもので、積極的な統治は行われなかった。その居
住地は多くが山地であったことから「高山番」と呼ばれた。
「熟番」は、中国文明をある程
度受容し漢人に近いと考えられたもので、徭役・納税(番餉)義務を負担し、清朝の法律
が適用された。また、漢人姓を名乗ることを許可され、その居住地は西部平地であったこ
とから「平埔番」とも呼ばれた。また、
「生番」と「熟番」の中間段階にあるものを「化番」
と呼んだ。
清朝は各族群を相互に牽制させて統治する目的で先住民に対して隔離政策を行った。
「生
番を内側に(より中央山脈に)
、漢族の民を外側に(より平地側に)、熟番をその間に」則
り行われた。1722(康熙 61)年に「番界5」が制定され、漢人はこれを越えて進入・開墾
してはならないと法律で禁じられた(資料4)
。 資料4 台湾の番界が書かれた地図
番界制では、台湾先住民の生活域と漢人の生活域を分けた。台湾先住民に対しては、化
外の「野蕃」として放置し、漢人に対しては、番界に土地を借り開拓を続けさせた。この
制度で先住民の生活域は圧迫され、再策定された。資料3上の赤い線は旧境界線を表し、
青い線は新しい境界線を表しており、境界線が山地へと移動しているのがわかる。
これは、
清末の開山撫番政策までに番界が、漢人が越境し、先住民の土地を借り、もしくは強奪し
て開墾を行った結果、数回にわたって再画定されたためである。その結果、番界は漸次東
へと移動し、番界の西側で熟番は漢人と雑居し、漢人と通婚を重ねていった。そのため、
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先住民の地権を認め、漢人の開墾を阻止した政策「漢番」を実施し、漢人が「番地」に入
ることを禁止した。
一方、漢人に対して清朝政府は厳格な三年交代制を実施した。現地勢力側につかないよ
うに家族は人質同様に扱われ、家族帯同の赴任を禁止した。また、渡航制度も「移民三禁」
とよばれ、以下の三点、本籍地官吏と台湾府の官吏の許可が無い者の渡航禁止、家族帯同
の禁止、家族呼び寄せの禁止、広東省人民の台湾渡航禁止、の禁止政策を実施し、漢人の
赴任の際に、人質となる家族のいない者や犯罪記録のある者は渡台を認めなかった。
その統治の特色
この時期の人口は、
平埔族を除く先住民が約 11 万人、
漢人は約 290 万人が居住していた。
台湾の沃野に新たな生存・発展の機会を見出した対岸地域住民の意欲の前には清朝の海禁
令も意味がなく、多くの移民が渡った(資料5)。彼らは台南地方から下淡水河流域、中
部彰化平野、台北盆地、北東部宜蘭平野を開拓し、台南付近から始まった台湾島開発のフ
ロンティア前線は約 2 世紀をかけて徐々に北上し、19 世紀に入ると台北付近が本格的に開
発された。
資料5
台湾漢人移民の故郷
2)清朝統治期のアイデンティティ
居住地による地方意識の形成
漢人の大陸からの居住地は、台湾南部の客家と閩南人を例に見ると、閩人は平原の肥沃
な土地に住み、粤人は山野部に住み、客家人は下淡水流域や彰化以北の淡水山岳地帯に住
み、原籍別に集住した。このように、原籍を対象に分類され集住したことで「地方意識」
が発展し、漢人は「台湾意識」を持たなかった。
また、使用する言語をアイデンティティの基準として集落を形成したことで、言語群ア
イデンティティも誕生した。1903 年に行われた日本植民政府による漳、泉、客家、その他
の漢語系人口の統計を調査した戸口調査では、漳州語使用者は 120 万人、泉州語使用者は
110 万人、客家語使用者は 50 万人、その他漢語使用者は 4 万人という結果が出た。この言
語の相違、同一言語による相互扶助は清朝統治期台湾の「地方意識」形成の原因になり、
「地方意識」形成の具体化の背景として集団械闘と宗教信仰において表面化したと考える
ことができる。この表面化の背景としては、閩粤6両省から台湾に移り住んだ居住地分布が
異なること、そして言語の違いによって各地に集住し、言語群アイデンティティを形成し
たことが考えられる。
集団械闘7と地方意識
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次に、集団械闘と地方意識を彰州人と泉州人の例から見る。
「興彰滅泉」
(彰州を興して泉州を滅ぼす)など集団械闘の際のスローガンは、まさに本
籍を分類の指標としたものである。初期の移民は見知らぬ者に対しては姓名を訪ねず、本
籍を問うた。これは、地方意識が個人意識よりも強かったことを示している。以上から、
清朝期において初期「本省人」には「台湾人」という集団意識はなかったと言える。
本章では、オランダ植民統治期から清朝政府統治期までの外来諸勢力による統治の中で
「先住民」の存在と漢人の渡台背景を見た。オランダ勢力による統治期には、既に「先住
民」と台湾島に漂着した漢人が居住していたが、オランダ勢力は台湾島を貿易の「中継地」
として利用する目的であったため、
「先住民」と漢人に対して「対人政策」を行わなかった。
そのため、
「先住民」と漢人は「移民初期状態」を保っていた。
オランダ勢力が台湾島へ上陸する前に台湾島に漂着した鄭芝龍を含む漢人たちは、初期
「本省人」と言え、台湾漢人 300 年の歴史の始まりを表している。大陸へ渡った後も勢力
を増やした鄭氏一族であったが、明朝の滅亡から大陸で政権を失い、一族は明朝の一部亡
命軍人や文官と共に台湾島へ渡った。台湾で鄭氏政権として統治を始めたことは、台湾史
における最初の亡命政権だと言える。そして、台湾島は鄭氏政権が統治を始めたことで中
国史と関連をもつようになった。更に、一族と共に渡台した役人たちが、中国大陸の政治
や文化、文明を持ち込み、
「先住民」と漢人をとりまく「初期移民社会」としての台湾島の
姿が出来上がった。
清朝政府は「反清復明」を国是とする鄭氏政権を倒すために台湾島へ上陸し、討伐が完
了すると、台湾島を「化外之地」として放任した。しかし、近代になり、アメリカや日本
が台湾島へ接近すると、外来勢力による統治を再び招くことを防ぐために領有し、台湾省
を設置した。
鄭氏政権時に多くの漢人が移住してきたが、彼らは原籍や言語に基づき集住したため、
「台湾意識」は形成されず、
「地方意識」のままであった。そして、台湾は清朝統治下から
移民開墾社会で、初期は中国大陸の伝統社会の連続あるいは延長であったが、次第に土着
化が進み、
本籍観念を持った移植型宗族になり、
渡台開拓者を源とした新宗族が誕生した。
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以下、第1節「オランダ植民統治期―初の外来勢力による統治」については、伊藤潔、文献表(6)、29
頁〜49 頁、及び若林正丈、文献表(12)、21 頁〜25 頁要約。
殷允芃編、文献表(7)、29 頁〜33 頁要約。
以下、第2節「鄭氏政権統治期―中国史との結びつき」については、殷允芃編、文献表(7)、54 頁〜76
頁を要約。
以下、第3節「清朝政府統治期―中国王朝による初の統治」については、殷允芃編、文献表(7)、77 頁
〜98 頁を要約。
番界(ばんかい)
:漢人・生番間の居住空間を東西に区画した境界線
閩(びん)
:現在の福建省/粤(えつ)
:現在の広東省
械闘(かいとう)
:部落間・宗族間の利害対立から武装して行った闘争のこと。
《資料出典》
資料1:周婉窈『図説台湾の歴史』濱島敦俊、石川豪、中西美貴訳、平凡社、2007 年、25 頁
資料2:伊藤潔『台湾―四百年の歴史と展望』中央公論社、1993 年、12〜13 頁
資料3:周婉窈『図説台湾の歴史』濱島敦俊、石川豪、中西美貴訳、平凡社、2007 年、60 頁
資料4:「歴史文物陳列館」
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http://www.ihp.sinica.edu.te/museum/jp/artfacts_detail.php?dc_id=75&class_plan=131、2015 年 1
月 10 日現在
資料5:周婉窈『図説台湾の歴史』濱島敦俊、石川豪、中西美貴訳、平凡社、2007 年、64 頁
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