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「家」を買うということは、一生にそう何度もない大きな買い物です。「住まい」は「暮らしの入れ物」。「暮らしにあっ
た入れ物」がベストだけれど、残念ながら「入れ物にあわせた暮らし」をせざるを得ない場合もけっこう多いもの。そ
んな中、自分たちのこだわりを大切にしながら家探しをしている、30代のご夫婦を見つけました。実は彼らは「住ま
い研」メンバーY さんの娘夫婦。子守で「家探し」に協力してきた彼女に、娘さんが言った。「わたしたち、100軒見た
よ・・・。」 それはすごい!とさっそく、その思いを語っていただきたいと原稿を依頼したところ、快くうけてくれまし
た。
『 家探し
家探 し 』 に 想 う
<夫>・・・・建売住宅
・・・・建売住宅の
建売住宅の質・・・・ 家を本格的に探し出したのは、確か長男が1歳になり、よちよち歩きをしだした
りなどして、団地住まいが急に手狭に感じ出した頃からだから、今年で家探しも3年目に突入したということになる。
この間、かなりの数の物件を見てまわったが、今のところ私たちに踏ん切りをつけさせるような物件とは残念ながら
出会えていない。
その理由として考えられることのひとつに「建物(内)」と「環境(外)」、この住環境を構成する重要な二大要素の両
方で「◎」がつけられる物件はなかなかない、という事があげられる。
どちらか一方のみ、特に“内”が◎という物件には割と遭遇することができる。私たちが希望しているような自然素
材を利用し、かつ間取りやセンスが私たち好みの家を建てている工務店やハウスメーカーは、少ないながらも存在
している。で、それらが売り出している分譲地を見に行くのだが、家は確かに及第点であったとしても、その家が建
てられている場所が、まるで切り立つ崖の上であったり、車通りの多い道に面していたり、煙突からモクモクと白い
煙が出ている工場が近くにあったりと、周辺環境や立地に何かしらの不安要素があることが多い。
我が家には小さな子どもがいるので、周辺環境も重要な要素であり、安易に妥協
できるはずもなく、結局は「家はいいんだけどなあ。 。 。」とうなだれて去ることにな
る。
この逆のケースも、数こそ少ないがあった。“外”が◎という物件である。
周辺に自然はあるし、建て込んでもいない。面する通りも分譲地の住人以外が通
るようなことはなく、バス停や駅までそう遠くない、等。 。 。と、このように、めずらし
く環境面で及第点のケースに出会うことができ、早速その分譲地のモデルハウスを見学してみるのだが、足を踏み
入れた途端「ああ、またこんなのか。 。 。」と幻滅させられる場合が多い。「今は基準が厳しくなっていますので、安
全なものしか使っていません。」と業者は言うが、化学薬品臭さが鼻につき、木のにおいなど微塵もしない。一昔前
のデザイン、面白みの無い間取り、合板やビニールクロスで作られた床や壁等々。
なんというか「こだわっていない」「こんなもので十分やろ」という作り手の意識のなさにがっかりさせられる“どうで
もいい家”である。確かに、周辺環境はいい。でも、このような家ではあまりに面白くなく、ワクワクすることもない。
子どもたちも素足で木の感触に触れられるわけでもなく、ましてや汚染されていない空気の中で寝られるのかどう
かさえ疑わしいような家では、子どもたちの情操にも影響を与えそうだ。「環境は最高なのに。どうしてこんな業者が
(この土地を)買っちゃったんだろう。 。」とこれまたうなだれて去ることになる。
「土地は土地で探して、そこにお気に入りの工務店やメーカーで満足のいく家を建てる」・・・俗にいう注文住宅とい
う形態をとれば、上記のような“内も外も”といった要望を叶えられる可能性は十分でてくるとは思う。ただ、世の中
そう簡単にいくはずもなく、まず注文建築の場合、建売に比べ高額になるというデメリットがある。これは建売の場
合、その分譲地の数十棟をある程度まとめて着工する為、部材の一括仕入れによるコスト減や人件費の抑制をお
こなうことが可能だからである。以前、ある新規分譲地の一画が気に入り「土地だけ売って欲しい」と交渉してみた
所「可能だが、当社で家も建ててもらうことと比較すると、かなり割高になりますよ。」と言われた事がある。土地だ
けを売る場合、業者が取得した価格のまま客に売っていては利益がでない為、利益分をのせることは当然なのだ
が、そのときは担当者から先に取得価格も聞いていた為、その後に聞いた「土地だけで売る場合の価格」が随分割
高に感じ、また実際にその場合予算がかなりオーバーしたことを記憶している。その業者に建物も依頼していれば、
無事予算内に収まるのではあったが、だからといってその業者の「どうでもいい家」にはどうしても住む気になれず、
その一画も断念した。
土地だろうが、建物だろうが、たとえ割高になってもよい!と宣言できるほどの余力があるわけではない。