第 9 回 オキナワを歩く

~歩く速さでいのちをみつめる~
第9回
オキナワを歩く
沖縄戦没者慰霊巡礼の旅
~旅のしおり~
平成 27 年 2 月 23 日~28 日
広島経済大学
岡本ゼミナール
はじめに
なんのために“オキナワを歩く”を行うのか
まず当たり前ですが「戦争」「死」について真剣に考えるということです。修学旅行
の平和学習や、ただの「しんどい体験」というわけではありません。今回お世話になる
講師の方は戦争を実際に体験された方でご高齢です。長時間の活動が難しく、次の世代
へ伝えることが出来なくなっています。つまり私たちの体験は、二度と再現することが
出来ません。このことは大前提として覚えておいてください。
沖縄を歩く際、常に考え、学びながら歩いてください。当時そこで何があったのかを
本や資料で学ぶことはどこでもできますが、実際にその場所に足を運ぶことでしか感じ
たり、考えたりできないことが必ずあります。当時の状況をイメージしながら、徒歩で
の巡礼を通していのちをみつめるという今回のテーマ“歩く速さでいのちをみつめる”
を意識して行動するようにしてください。
私たちより幼かった学徒隊は爆弾がいつ落ちてくるかわからない中、おびただしい死
体で足場がないような道を歩いていました。中には「もし砲弾があたるなら痛みなくバ
ラバラに死ねる直撃がいい」という気持ちの方もいらっしゃったそうです。
学徒隊の主な仕事は看護活動や飯上げです。病院となっている壕の中には手足がなく
なった患者さんや、大火傷をおい、水を飲みたくても飲めない患者さんであふれかえり、
体がガスでパンパンになりウジ虫が湧いている遺体が転がっていたそうです。撤退命令
が出た際には、動けない患者さんに手榴弾や青酸カリなどを手渡していました。逃げる
際には倒れている友達を乗り越えて進むこともあったそうです。
私たちはそんな患者さんの気持ちや学徒隊の人々の声なき声を真剣に聞き取らなけ
ればなりません。
ゼミのモットーである、やるときはやる、という精神を忘れなければ“オキナワを歩
く”は必ず成功します。
皆さん「声なき声を聴ける」よう、真剣に沖縄戦の歴史を受け継ぎましょう。
2
諸注意
① 沖縄巡礼を行うに当たり、巡礼する場所、またそこで何が起きたのかを確認
しておいて下さい。また、今回の意義をよく理解し節度ある行動をお願いし
ます。
② 食事は三日間、カロリーメイトとポカリスエット・クリスタルガイザーだけ
で行動します。大変な行程になると予想されますので、事前に体調管理を整
えておきましょう。
※カロリーメイトとポカリスエット・クリスタルガイザーは随時支給します。
③ 巡礼中、体調が悪くなったら、班長に伝えてその場で待機し、後ろの救護班
の指示に従ってください。
④ 自由行動以外はピアスやネックレスなどの金属類のアクセサリーは外すよ
うにしてください。
⑤ 一般の方もいらっしゃるので、団体で行動していることを常に意識して下さ
い。
※巡礼中は一般道を歩くので歩行者や車などに気を使って行動して下さい。
基本 2 列縦隊で、前後があきすぎないよう間隔に気を払い、機敏に歩き、何
故ここを歩くかを忘れないようにしてください。
持参物





保険証のコピー、常備薬(個人的に必要な人)
筆記用具・ノート
洗面用具・タオル(シャンプー・石鹸等がない宿泊施設があります)
私服・動きやすい服装(スウェット不可)・着替え(6 泊 7 日)
雨具(雨合羽・レインウェア)・防寒具 ほぼまちがいなく雨が降ります
 上下あったほうが良い・傘不可 集団で歩くので危険です






帽子(暑さ寒さ対策)
リュック・ウエストポーチ(最低でもペットボトル 6 本入る大きさ)
ゴミ袋、軍手(巡礼中、清掃を行うため持参して下さい)
ドライヤー(必要な人)
自由行動の費用
その他必要な物(湿布、絆創膏等)
※傘は集団で歩く際に危険なため禁止します。雨が降った場合はレインウェア
での巡礼となります。
3
行程表 ※変更の可能性があります
2 月 23 日(月)
時間
集
場所
10 時頃
広島空港
発
11 時 40 分
広島空港
着
13 時 35 分
那覇空港
14 時 15 分
那覇空港
合
出
発
↓
着
14 時 50 分
発
15 時 20 分
↓
着
16 時 00 分
発
17 時 00 分
↓
着
17 時 40 分
発
18 時 10 分
↓
着
19 時 40 分
内容
約 15.1 キロ 35 分(バス)
東風平中学校
(東風平国民学校跡)
慰霊、講話①(30 分)
約 3.6 キロ 40 分
八重瀬岳
慰霊、講話②(60 分)
約 3.5 キロ 40 分
真栄平
講話③(30 分)
約 6 キロ 1 時間 30 分(休憩 10 分)
沖縄県立糸満青少年の家
備考
・真栄平の後、代表者数名が徒歩組本隊とは別行動で渡辺敞子さんと一緒に車で歩兵第 89 連
隊玉砕終焉之地へ行く
4
2 月 24 日(火)
時間
集
合
発
6 時 30 分
沖縄県立糸満青少年の家
7 時 00 分
沖縄県立糸満青少年の家
↓
着
8 時 10 分
発
8 時 50 分
↓
着
9 時 10 分
発
9 時 40 分
↓
着
10 時 10 分
発
10 時 30 分
↓
着
11 時 10 分
発
12 時 10 分
↓
着
12 時 30 分
発
13 時 00 分
↓
着
14 時 00 分
発
14 時 20 分
↓
着
14 時 30 分
発
16 時 00 分
↓
着
場所
17 時 40 分
内容
約 5 キロ 1 時間 10 分(休憩 10 分)
白梅の塔
慰霊、講話①(40 分)
約 1.4 キロ 20 分
糸満市真壁 萬華の塔
講話②(30 分)
約 2.5 キロ 30 分
ひめゆりの塔、梯梧之塔
慰霊
約 3.6 キロ 40 分
摩文仁の丘、平和祈念公園
慰霊
約 1.8 キロ 20 分
ギーザバンタ
慰霊、講話③(30 分)
約 4.3 キロ 1時間(休憩 10 分)
ヌヌマチガマ
見学(20 分)
約 500 メートル 5分
ガラビガマ近く具志頭運動公園駐車場
講話➃(60 分)+α
約 6.4 キロ 1時間 40 分(休憩 10 分)
沖縄県立玉城青少年の家
備考
・梯梧之塔慰霊の後、代表者数名が徒歩組本隊とは別行動で車でずゐせんの塔とひろしまの塔
へ行き、慰霊
5
2 月 25 日(水)
時間
集
合
発
8 時 35 分
場所
内容
沖縄県立玉城青少年の家
9 時 00 分
↓
着 10 時 10 分
発 11 時 10 分
↓
着 11 時 40 分
発 12 時 10 分
約 5.5 キロ 1 時間 10 分
沖縄県南城市大里大城・小谷あたり
講話①(60 分)
約 2.1 キロ 30 分
沖縄県南城市大里西原あたり
講話②(30 分)
約 2.2 キロ 45 分(最初昼食休憩 15 分)
着 12 時 55 分
発 13 時 05 分
↓
着 13 時 10 分
発 14 時 40 分
↓
着 15 時 40 分
発 16 時 30 分
沖縄県南城市佐敷新里
見学
420 メートル 5分
沖縄県南城市佐敷新里
約 39 キロ 約 1 時間(バス)
うるま市立石川歴史民俗資料館
↓
約 3.6 キロ 約 15 分(バス)
着 16 時 45 分
沖縄県立石川青少年の家
6
休憩および講話③(60 分)
2 月 26 日(木)
時間
集
合
発
8 時 00 分
内容
沖縄県立石川青少年の家
8 時 30 分
↓
着
9 時 00 分
発
9 時 30 分
↓
着
10 時 00 分
発
12 時 30 分
↓
着
13 時 00 分
発
14 時 00 分
↓
着
場所
14 時半頃
約 18.4 キロ 約 30 分(バス)
沖縄市戦後文化資料展示室ヒストリート
施設見学
約 16.8 キロ 約 30 分(バス)
嘉数高台公園
活動見学
約 9.7 キロ 約 30 分(バス)
沖縄県立第二高等女学校跡地
見学、慰霊
10 分~15 分程度
沖縄オリエンタルホテル
全日程終了
集
合
開
始
18 時 30 分
打ち上げ
19 時 00 分
2 月 27 日(金)
自由研修日
2 月 28 日(土)
時間
場所
集合
12 時 30 分
那覇空港
発
13 時 45 分
那覇空港
着
15 時 25 分
広島空港
16 時頃
広島空港
解散
7
内容
班編成表
班
21期
1班(先導)
2班(女性陣)
3班(カメラ)
4班(伝令等)
5班
6班
7班(救護)
8班(車班)
9班(教員等)
10班(講師の車)
小坂
稲田
田村
上田
三浦
古江
西川
奥田
岡本
檜垣
22期
河野
村中
松井
児玉
勝部
古城
武安
松浦 船田
上田
田中 平田
椋田
砂田
吉次
丸橋
真鍋
篠崎 松井
金子 井上
門脇 加藤
前田
山本 中西
児玉
山内 市川
豊村
松田
大田
林
橋谷
後迫
岡本
竹林
講師の方々
班
1班(先導)
2班(女性陣)
3班(カメラ)
4班(伝令等)
5班
6班
7班(救護)
8班(車班)
9班(教員等)
10班(講師の車)
泉
23期
外部
渡辺さん
我那覇
齊藤
岸本
我謝
内間
鹿内
渡辺
宇都宮
落合
西原
久田
伊藤先生 山本さん 青柳さん 田中さん 津波さん
8
岡林
井上 知念 安里
各所解説
白梅(しらうめ)学徒隊
白梅学徒隊とは沖縄戦で従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖
縄県立第二高等女学校の四年生たちによって編成された部隊の名前であり、「白梅隊」「白
梅看護隊」と呼ばれることもあります。
「白梅学徒看護隊之壕」とは、八重瀬町富盛地区の
八重瀬岳にあります。標高 163 メートルの八重瀬岳に「白梅学徒看護隊之壕」の石碑があ
り、当時多くの女子学徒がこの場所で看護にあたっていたことを刻んでいる碑です。この
壕は陸軍の野戦病院として造られ、500 人の負傷兵が収容されたともいわれます。
解散命令が出る 6 月 4 日まで白梅学徒隊は看護を続けました。動員された 56 人のうち 22
人が犠牲になりました。
二高女跡地(沖縄県立第二高等女学校)
沖縄県立第二高等女学校(通称二高女)の前身は、1905 年(明治 38 年)
、那覇市に設立
された女子講習会(同年に私立那覇女子技芸学校となった)で、当初は那覇市在住の女子
を対象に和洋裁、家事などの技芸教育を目的とした学校でした。
沖縄県立第二高等女学校の生徒たちによって編成された学徒隊は、校章の白梅にちなん
で、のちに「白梅学徒隊」と呼ばれるようになりました。
東風平(こちんだ) 国民学校跡
積徳高女生とともに、東風平国民学校に寄宿し、第二十四師団野戦病院による看護教育
が行われました。
第 24 師団第一野戦病院跡
第 24 師団第一野戦病院は、八重瀬町富(と)盛(もり)の八重瀬岳中腹にある壕で、上の壕と
下の壕と呼ばれる 2 つの壕があります。当時、上の壕は主に手術室として用いられました。
また下の壕は第一野戦病院の本部が置かれ、約 500 人の患者が収容可能だったといわれて
います。
第一野戦病院には、軍医・衛生兵・看護婦など約 200 人が配属されていました。さらに
二高女の白梅学徒隊 46 人も動員され、手術の手伝いや看護、排せつ物の処理、死体埋葬な
どにあたっていました。
4 月下旬には、負傷兵の増加により新城(あらぐすく)分院と東風平分院が新たに開設され
ました。しかし、日本軍の撤退に伴い野戦病院も医療行為を打ち切って移動することにな
り、6 月 3 日に各分院は閉鎖されました。翌 4 日、富盛において学徒隊の解散が告げられ、
二高女の生徒たちは戦場に放置されることになりました。その後、八重瀬一帯には日本軍
の防衛線がしかれ、米軍との激しい戦闘がおこりました。
9
白梅の塔
沖縄県立第二高等女学校の職員・生徒・同窓生合わせて 149 名が祀られています。二高
女の 4 年生 56 人は昭和 20 年 3 月 6 日、東風平国民学校の第 24 師団第一野戦病院衛生看
護教育隊に入隊し、集中教育を受け始めました。米軍の艦砲射撃が始まると、東風平村の
八重瀬岳にある山部隊第一野戦病院へ配属されました。戦況が悪化した 6 月 4 日、軍の解
散命令を受け地上戦の中をさまよい、22 人が戦死しました。この地に撤退した病院に合流
した学徒から 10 人の犠牲者が出ています。
真壁(糸満)
真壁村(まかべそん)はかつて沖縄県島尻郡にあった村で現在の糸満市にあたります。
1908 年の島嶼町村制で真壁村となりました。1946 年に摩文仁村・喜屋武村と合併し三和村
となり消滅しました。村役場は引き続き三和村役所となりました。その後三和村は 1961 年
10 月 1 日に(旧)糸満町(現在の糸満市字糸満)
・高嶺村・兼城村と合併し(新)糸満町と
なり僅か 15 年で消滅したことから村役場は真壁に置かれていました。
米須(糸満)
もともと米須は摩文仁間切で、1896 年の郡区制で島尻郡に編入しました。1908 年 4 月 1
日には島嶼町村制で摩文仁村となりました。
このことにより、当時の沖縄戦では摩文仁が最後の激戦地となり、村民だけでも犠牲者数
は約 1200 人近くと村人口の約半数にもなりました。このため人口は半減し、このまま村独
自では復興が難しいことから、1946 年 4 月 1 日に隣接する真壁村と喜屋武村と合併、三和
村となり摩文仁村は消滅したことから村役場は米須に置かれていました。
平和記念公園
摩文仁の丘
平和祈念公園は本島南部にあります。公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉
地です。公園整備は琉球政府時代に着手、1972 年(昭和 47 年)の本土復帰に伴い、国定
公園に指定され、都市公園として整備されました。
平和の礎(平和の火)
1995 年に除幕した「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全
戦没者 24 万人余の氏名が刻まれています。また、
「平和の礎」内にある広場の中央には「平
和の火」が灯されています。
沖縄戦などで亡くなられた国内外20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰
めるとともに、今日平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈
念しています。
10
国立沖縄戦没者墓苑
沖縄県内の戦没者の遺骨は、戦後、生活の復興と同時に、住民の手によって収骨され、
各地に納骨所、慰霊塔が建立されました。昭和 54 年、これらの戦没者を永く追悼するため、
摩文仁の丘に新たに造られた国立沖縄戦没者墓苑に遺骨が移されました。
納骨堂には約 18 万余柱の遺骨が納められています。
ギーザバンタ(慶座絶壁)
ギーザバンタとは、本島南部の南端に位置する喜屋武(きゃん)岬にあり、この一帯は岩は
だの険しい、高さ数十メートルの絶壁が目の前に迫り、大岩がごろごろ海岸線に続いてい
る場所のことです。
沖縄戦当時は南部戦線から追い詰められた多くの住民や日本兵らの「死の終着駅」とな
りました。陸からは米軍の機銃が、海上には米小型艦がおり、挟み撃ちの中で悲惨な状況
が繰り広げられた場所です。
第一野戦病院 新城分院
八重瀬町新城にあり、全長500m。東西に貫通し、西側をヌヌマチガマ、東側をガラ
ビガマといいます。ギーゼバンタから北上した時、新城のガラビガマ(大きなガマの東側
の名称)入口が、風葬墓だったため、そこにしばらく隠れていました。第一野戦病院の分
室となっていたヌヌマチガマ(西側)と、ガマの中がつながっていたと知ったのは戦後の
ことです。
ヌヌマチガマ
このガマは沖縄戦当時、第32軍の第24師団(通称山部隊)第一野戦病院の分院の一
つでした。地名の新城(あらぐすく)から「新城分院」と呼ばれていたが、現在は地元の
呼称で「ヌヌマチガマ」と称しています。
ガラビガマ
民間人が逃げてきた場所であり、戦争当時は風葬墓でした。
11
宿 泊 先住 所 ・ 電 話 番 号
沖縄県立糸満青少年の家
〒901-0313
沖縄県糸満市字賀数 347 番地
TEL
098-994-6342
沖縄県立玉城青少年の家
〒901-0604
沖縄県南城市玉城字玉城 420 番
TEL
098-948-1513
沖縄県立石川青少年の家
〒904-1106
沖縄県うるま市石川 3491-2
TEL
098-964-3263
沖縄オリエンタルホテル
〒900-0016
沖縄県那覇市前島 3-13-16
TEL
098-868-0883
仲原漢方クリニック
〒900-0013
沖縄県那覇市牧志 2-18-27-1F
TEL
098-868-2367
緊急連絡先
TEL:090-7975-4465
TEL:090-1010-5921
TEL:080-1908-5282
TEL:090-9779-4046
TEL:090-1334-6220
岡本 貞雄
竹林 栄治
21 期(4年) 小坂 泰隆(ゼミ長)
21 期(4年) 田村 仁八(会計)
22 期(3年) 砂田 崇之(ゼミ長)
12
メモ
13