Free and CA - Contemporary Art Studies

Free and C. A.
フリーとコンテンポラリー・アート
surface is the Between - Anna Kato
フリーの経済圏 - Jun Ernesto Okumura
とっても自由なプレゼント - 緑川雄太郎
Free and C.A.
- surface in the betweenAnna Kato
ルソーがフランス絶対王制からの人民の解放を目指し「人間は生まれながらにして自由である」と唱え『社会契約論』を
公にしたのが 250 年前。そして、中江兆民によるその翻訳、『民約訳解』が日本で刊行されたのが 130 年前。それは遠い
昔のこと。限定的にとはいえ、自分の意志によって人生設計ができるようになった、あるいは、できると思い込んでいる今、
「自由」は私たちにとって何を意味するのでしょうか。
伊東計劃が 2007 年に発表した SF 小説『虐殺器官』では、主人公、クラヴィス・シェパードは「自由」について次のように
述べています。
自由はバランスの問題だ。純粋な、それ自体独立して存在する自由などありはしない。
その意味で、自由は愛に似ているかもしれない。愛もまたそれ自体として存在せず、
ぼくら人間の関係性のなかにしか居場所がない。
伊東が描く架空の先進社会は個人情報認証による徹底的な管理体制が敷かれている世界です。人々は認証し続ける
ことによって国家から保護され、安全な生活を営むことができるのです。その中で主人公が発見した自由とは、愛のよう
に人間の「間」で変動するもの、あるいは変動することでした。
その「自由」を支えるのが何かと何かの間に存在性を見る「間の思考」。アートにおいてはフランスの美術評論家であり
キュレーターであるニコラ・ブリオーが 1998 年『関係性の美学』を発表しました。それは、作品と鑑賞者の持つ積極的な
「繋がり」という視点で論じられたものです。また日本の戦後の美術界を駆け抜けた井田照一(1941-2006)は、自身の版
画のコンセプトとして、版が紙に当たる表面である「surface」は物質的であるが、その版と刷られた紙の「the between」は
非物質的だとし、「この両者の緊張をはらんだ関係において、作品が成り立っている」と主張しました。
『虐殺器官』の主人公や井田照一の思考に借りれば、CA の一つの作品自体で起点と終点、矛盾する出来事さえもはら
める「間」を表現し、それはまた「自由」を語るものといえるのではないでしょうか。二項対立的な価値観に執着すればする
ほど「自由」はどんどんとわたしたちから離れていきます。「それ自体独立して存在する自由などありはしない」のです。し
かし、CA で見たり感じたりすることができるように、その豊かな「間」、そして「自由」はけっして遠い存在ではありません。
井田の代表作の題名は私たちにこの世界への好奇心を駆り立てます。彼が一貫して追求した「Surface is the
Between」。それをあえて意訳すると、こう言うこともできるでしょう。「間はそこにある」と。
Free and C.A.
- フリーの経済圏 Jun Ernesto Okumura
「フリー」という単語の意味は歴史を通じて変わってきた。現在主に「自由」と「無料」という二つの言葉で使われるこの言葉は、ラテン語起源
の言語では別々の単語であったが、英語では同一の由来を持つと言われている。
具体的に見てみよう。ラテン語ではもともと「liber」という単語が「自由」に対応し、「無料」の方は「gratis(感謝の気持ち、転じて「お返しなし」)」
を起源にもっている。一方で英語圏ではこれらの意味が別の単語として区別されてこなかったのだ。語源学者のダグラス・ハーバーは、両者
の起源が古英語の fregon, freogan(自由、愛)にあると考え、後になって「費用からの自由」として「無料」の意味を含むようになったと見ている。
「無料」という意味が生まれたのは 1585 年のことである。
私たちはこの「フリー」という言葉を使って例えば自由について論じる事が出来るであろう。カントやロールズを持ち出して、自由意志とは何か
アートの文脈で語ってもいい。あるいは抑圧と解放の二元論で制作をとらえ直す事が出来るかもしれない。だが私はこの文章で、様々な広が
りをもってしまった「フリー」を「無料としてのフリー」に固定したいと思う。というのもこのテキストでは、アートについて回る「評価」について考え
たいからである。
■アートワールドに出現した「フリー」
私たちは様々な作品を何らかの形で評価する。その中でも一番イメージしやすいのはやはり金銭による評価かもしれない。430 万ドルの値
がついたアンドレアス・グルスキーの『Rhein II』を始め、アート作品の(異常とも言える)高価な売買が話題になる事が多いが、貨幣経済として
のアートマーケットは、基本的には普通の経済活動と同じ原理で動いている。クリティーク達によって経済的な価値が作り上げられ、それを需
要する買い手によって取引が成立するという構造は、(仮に経済感覚が私たちと異なっていたとしても)需要供給分析の射程内だ。株式のよう
に、アートという経済商品に資産を移転するトレンドが成立しているのも不思議ではないだろう。
一方で、評価が必ずしも価格と直結しないアート作品もある。例えば「アーティビズム」(アート+アクティビズムを意味する造語)と呼ばれる一
連のムーブメントがそれだ。アノニマスに代表されるような「ハクティビズム」(ハック+アクティビズム)同様、社会に働きかけるための「手段とし
てのアート」が近年増えて来ている。貧困層やマイノリティの顔写真を拡大して街中にとけ込ませるフランス人アーティストの JR(ジェイアール)、
管理社会下のロシアで体制側と衝突しながら自由な空気を獲得しようとする Voina など、彼らはアートによって社会を試し、啓発してきた。これ
らの作品は基本的にストリートで発表されるものの、一方で美術館やネット上でも展開されるという意味でアート文脈の延長線上にある奇妙な
存在だ。さらに特殊な例をあげれば、ニューヨーク・セントラル駅で 200 人が同時に止まるというパフォーマンスを見せた Improv Everywhere は、
「いたずら」としか思えないような方法で社会に介入している。
JR や Voina、Improv Everywhere が展開するパフォーマンスは、もはや値段をつけるような物ではなく「心意気を買う」「理念に共感する」と
いった漠然とした経済圏にある。しかもそれらは「フリー」であることが一つの特徴となっている(ここでいう「フリー」は完全無料ということではな
く「理念さえあれば誰にでも出来るほど経済的敷居が低い」といった程度の意味で使っている)。フリーという敷居の低さが動員を後押しし、社
会を変える原動力になっているのだ。「フリー」なメディアである Youtube や SNS によってその影響力が最大化されるというのも注目すべき特
徴だろう。
一般的に非貨幣経済を代表する経済活動として「評価経済」という言葉が挙げられることが多い。これは「評判」とか「信頼」といった定量化し
にくい、しかし確実に存在する「評価」が、経済圏として出現していること、それがさらに実際の貨幣経済とも混じりつつあることを示している。
アートも、既存のマーケットを離れ、現在まさにこうした非貨幣経済圏に侵入してきているのだろう。
■広がる「フリー」
少し脇道にそれるが、クリス・アンダーソンは著書『フリー』の中で、マズローの欲求段階に従った非貨幣経済の分析を展開している。マズ
ローは「欲求」を 1.生理的欲求、2.安全欲求、3.社会性欲求、4.尊敬欲求、5.自己実現欲求の各段階に分け、人はこの順番に従って欲求を満た
そうとするという「欲求段階説」を唱えた。彼の理論を使ってアンダーソンが分析対象にしたのは、報酬をもらわないユーザーが無償で労力と
知識を提供するネット空間上のコンテンツ群だ。ネット空間では「情報」が限界費用ゼロの商品(つまり入手や複製にかかるコストが限りなくゼ
ロに近いもの)として扱われるため、大量の情報が無料で流通することになる。Wikipedia やクックパッド、ブログなどを想像すれば分かりやす
いが、人は無料の情報の洪水の中で基本的な知識や娯楽の欲求が満たされると、無料の情報を消費するだけの立場から能動的な作り手へ
と変化していこうとする、というのがアンダーソンの見立てである。こうした精神的な報酬のための労働は、無料にも関わらず大きな経済圏を作
ることが多い(例えばクックパッドの時価総額は 300 億円近いと言われている)。フリーを巡る具体例を挙げればキリがないが、無料で商品を
提供して一部のユーザーから課金するという「フリーミアム」など、現実の経済活動はもはやタダという価格設定が必要不可欠のものになって
きている。
資本主義に馴染んだ社会で「フリー」という言葉がここまで重要な価値を持ち始めたのは興味深い。利益を最大化するための「フリー」、多く
の人を動員するための「フリー」、今後これら新経済圏を舞台にした表現はより多くの人を巻き込み、社会の変化を加速させていくだろう。恐ら
くここで大切なキーワードは「共感」。不可視で、定量化しにくい貨幣だ。こうした評価の仕組みは、経済学の枠組みを超えて生物学、ネット
ワーク理論などで語る必要があるが、その中では「アート」のもつ意味や役割も広がり、様々な分野を横断していくのだと思う。
―樫だけが樹ではない。バラだけが花ではない。多くのつつましい冨が私たちのこの世を豊かにしているのだ。―
ジェイムズ・レイ・ハント
Free and C.A.
- とっても自由なプレゼント 緑川雄太郎
たとえば誰かに贈り物をするとき、あなたは何を贈るでしょう。ギフトカード、花束、それともブレスレットでしょうか?あ
るいは肩たたき券、直筆の手紙、時計や車、得意料理や愛読書なんかもあるでしょう。贈り物はなんでもありです。どんな
何を贈っても、その思いはその思いの分だけ、そこに詰まっています。
なんでもありですがしかし、それが適切かどうかはまた別です。甥っ子の小学校入学祝いを香典に包んで贈るのは不
謹慎です。見知らぬ人の誕生日にボルボを贈るのは不可解です。初対面の若者に娘を贈るのは、娘だけでなく若者に
とっても不条理です。プレゼントは実はなんでもありではないように、C. A.もなんでもありではありません。
現代アートはなんでもありだからねと、揶揄の対象になることがしばしばあります。はたしてそうでしょうか。アートや現代
アートと呼ばれるものは、そうなる場合が少なくないかもしれませんがしかし、C. A.は違います(内容と形式の問題に気を
つけて以下述べます)。C. A.は確かに、形式はなんでもありですが、内容はなんでもありではありません。構造やルール
やコンセプトや文脈、あるいは魂を設定した上で、それに見合ったあらゆる形式を採用します。要は贈り物と同じです。ポ
イントは、どんな思いがそこにあるのか、その思いはどれだけそこに結実できているのか、この2点です。プレゼントを受
け取るように、C. A.をみればいいのです。プレゼントを渡すように、C. A.を用意すればいいのです。
一般的に人は、アートに自由を求める向きがあります。それはどういった自由でしょうか。なんでもありの世界は基本、
許しの世界です。人がアートに自由を求めるとき、許されたいという欲求が隠れています。こんなぼくだけど、こんなわた
しだけど、いいですか?いいですよ。もちろん許されるべきアートもあります。ただ、C. A.は違います。大まかであれ厳密
であれ、そこには制限があります。制限を忌み嫌う向きもありますが、制限されない世界を知っている人はそんなことはで
きません。制約のないところに自由はありません。永遠の命と若さを得たとしたら、誰が自賠責保険に入るでしょうか。誰
が受験勉強をするでしょうか。人間はまず、死ぬという制約のなかにあります。あたりまえですが(あたりまえですか?)、
誰もが死を迎えます。
C. A.は死と向き合ってきました。古代エジプトの『チュウヤの棺』、ダミアン・ハーストの『ダイアモンド・スカル』、孫原+彭
禹の『ハニー』、栗山斉の『∴0=1 トレース・オブ・ライト』など、生と死をテーマにした作品は枚挙に暇がありません。内容
は生と死ですが、形式は実にさまざまです。死ぬという制約の中で、生きている間にその問題と向き合う態度が、その作
品に圧縮されています。生は死によって束縛され、逆説的に自由を得ます。生と死によって引き裂かれ、衝突したC. A.は、
更なるエネルギーを得て時空を超え、ただならぬ自由の在り様を私たちに伝えています。それは内容と形式の輝かしい
一致です。ほかでは味わえない、至極のひとときです。そしてその一瞬は、永遠になります。いつでもいつまでも、その一
瞬は忘れ去られることなく保存されていきます。永遠の一瞬たちが束ねられたその場所こそが、自由の棲家です。その棲
家こそ、C. A.の場所です。だからこそ人はまた、C. A.にアクセスするのです。クリックするのです。ほかには付いて回って
も、おそらくそのフォルダにだけは制約はないでしょう。
プレゼントの内容としてあるいは、現実と非現実はどうでしょう。シュールレアリスムやベルトルト・ブレヒトの『異化効果』、
1998年のシドニービエンナーレ『エブリデイ』などからもわかるように、これもまたC. A.の得意分野です。具体的な形式とし
ては、ガブリエル・オロスコの『ヨーグルトカップ』、ピエール・ユイグの『タイムキーパー』、ロバート・ゴーバーの『プリズン・
ウィンドウ』、シール・フロイヤーの『ガービッジ・バッグ』、ヨナタン・モンクの『ウェイティング・フォー・フェイマス・ピープル』
などが挙げられるでしょう。ここでもC.A.は現実と非現実に引き裂かれ、衝突し、そこに不思議な磁場が生まれ、わたした
ちはそれにより、自由の扉を開くことができます。これが現実とおもっていた現実が現実ではなくなること。あるいはこれこ
そが現実であると暴露、表明、開示すること。C. A.はそこに自由の意味を置いています。内容と形式が一致したC. A.は、
これ以上ないとっても自由なプレゼントです。
デビット・フィンチャーの作品に、『ファイトクラブ』という映画作品があります。そこでは現実がすり抜けていきます。この
世は現実の足場が崩れうるすごい世界です。細田守の作品に『時をかける少女』というアニメーション作品があります。そ
こでは影がありません。この世は奥行きのないのっぺりしたすごい世界です。アンドレアス・グルスキーの作品に『99セン
ト』という写真作品があります。そこではなんでも99セントで売っています。この世はあらゆるものごとが等価で並んだすご
い世界です。そんなすごい世界でこれから誰と会い、何をし、どんな時をすごすのでしょう。そしてたとえば大切な誰かと
巡り会えた時、あなたはその人に何を贈るでしょう。
[ 参考 ]
surface in the between - Anna Kato
伊藤計劃『虐殺器官』 早川書房 2007
JJ ルソー『社会計画論』 岩波文庫 1954
フリーの経済圏 - Jun Ernesto Okumura
Chim↑Pom『芸術実行犯』朝日出版社 2012
クリス・アンダーソン『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』日本放送出版協会 2009
とっても自由なプレゼント – 緑川雄太郎
ミミ・レーダー『ペイフォワード』 ワーナー・ブラザーズ 2000
ジェームス・トルソン『ポトラッチ』 竹下文庫 1965 (原書:1729)