金子みすず(みすゞ)(童謡詩人 1903

金子みすず(みすゞ)(童謡詩人
1903-1930)
◆本名は金子テル。山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。山口県立深川高等女学校(現・山
口県立大津高等学校)卒業。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であ
るが、幼くして上山家に養子に出されている。テルの実父の死後、正祐(雅輔)の養父とテル(みす
ゞ)の母が再婚するため、二人は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係でもある。
大正末期から昭和初期にかけて、26 歳の若さでこの世を去るまでに 512 編もの詩を綴ったとされる。
1923 年(大正 12 年)9 月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の 4 誌に一斉に詩が掲載さ
れ、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。
1926 年(昭和元年)、義父の経営する書店の番頭・宮本啓喜と結婚し、娘を 1 人もうける。しかし
夫は中央誌への詩の投稿を禁じたばかりでなく女遊びに明け暮れ、更にはみすゞに淋病を感染させる
などした事から 1930 年(昭和 5 年)2 月に正式な離婚が決まったが(手続き上は未完)、離婚合意へ
の必須条件として娘の親権を強硬に要求する夫への抵抗心から同年 3 月 10 日、みすゞは服毒自殺。
代表作に、
『わたしと小鳥とすずと』、
『大漁』などがある。 (『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
<わたしと小鳥と鈴と>
わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
< こころ >
おかあさまは
おとなで大きいけれど
お母様の おこころは小さい
飛べる小鳥はわたしのように
地べたを早くは走れない
だってお母様はいいました
小さい私でいっぱいだって
わたしが体をゆすっても
きれいな音は出ないけれど
私は子供で
小さい心の
あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ
小さいけれど
私は大きい
だって大きいお母様で
まだいっぱいにならないで
いろんなことを思うから
鈴と小鳥と それからわたし
みんな違って みんないい
(小学校「国語」の教科書に掲載)
<大 漁>
< つもった雪 >
上の雪、さむかろな。
つめたい月がさしていて。
朝焼け小焼けだ大漁だ
大羽(オオバ)鰮(いわし)の大漁だ
下の雪、重かろな。
何百人ものせていて。
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう
中の雪、さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
-1-
<星とタンポポ>
<みんなをすきに>
青いお空のそこ深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ
私は好きになりたいな
何でもかんでもみいんな
ねぎもトマトもお魚も
のこらず好きになりたいな
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
うちのおかずはみいんな
かあさまがお作りになったもの
散ってすがれたタンポポの
川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる
強いその根は目に見えぬ
私は好きになりたいな
だれでもかれでもみいんな
お医者さんでもカラスでも
残らず好きになりたいな
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
世界のものはみいんな
神様がお作りになったもの
< 土 >
<花のたましい>
こッつん こッつん
ぶたれる土は
よいはたけになって
よい麦生むよ。
散ったお花のたましいは、
み仏さまの花ぞのに、
ひとつ残らず生まれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にゃ匂いをみなくれて、
朝からばんまで
ふまれる土は
よいみちになって
車を通すよ。
ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの
御飯になってくれるから
いえいえそれは
名のない草の
おやどをするよ。
-2-
<かなりや>
唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす
-3-