ルカ福音書注解 - 日本キリスト教団出版局

日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ルカ福音書 嶺重淑(2015.1.28 公開)
3:1-20 注解(1-2)
NTJ ホームページ掲載 見本原稿
ルカ福音書注解
嶺重 淑
3. 注解
1-2 節
冒頭部分ではまず、成人したヨハネが現われた状況について、ギリシ
ア・ローマの史料編纂の慣習を反映する年代的記述を用いて述べられてお
り(トゥキュディデス『歴史』2:2; ポリュビオス『歴史』1:3; ヨセフス『古代誌』
18:106 他参照)、ルカはそのように歴史的背景から書き始めることによって、
福音書の記述を当時の世界史的文脈に位置づけようとしている(1:5; 2:1-2 参
照)
。因みに、マタイの並行箇所では「そのころ」(evn de. tai/j h`me,raij evkei,naij)
と漠然とした表現で記され(マタ 3:1)、マルコにおいては年代設定について
洗礼者ヨハネの宣教(3:1-20)
は全く触れられていない。また、マルコがただ単に荒れ野におけるヨハネの
宣教活動についてのみ述べているのに対し(マコ 1:4)、ルカは「神の言葉が
荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」と記すことにより召命の場面をつく
りあげ、ヨハネの活動の背後における神の介入を印象づけている。事実、こ
の「神の言葉が……に臨んだ」という表現は、預言者の召命に際してしばし
ば用いられる旧約の定型表現であり(エレ 1:2,4,11; エゼ 1:3; ホセ 1:1; ヨエ 1:1;
ヨナ 1:1; ミカ 1:1 他)、ヨハネを「至高者の預言者」
(1:76)と見なすルカの理
1. 翻訳
2. 形態/構造/背景 はすでに公開済み
解に対応している。また、「荒れ野」(e;rhmoj)は、シナイにおける神の啓示
以来、神の啓示の場と見なされている(1:80 参照)。
1 節における支配者の列挙は、正確な年代を表示するというよりも、当時
のパレスチナの歴史的・政治的状況を指し示す機能を果たしている。年代算
定に関しては、冒頭の「ティベリウス治世の第十五年」が最も貴重な情報を
提供している。ティベリウス帝の治世は紀元 14 ∼ 37 年であり、ルカがティ
ベリウスの治世をどの年を起点として数えたかによって(即位の年を算入し
たかどうかによって)第十五年の時期設定に若干のずれが生じるが、紀元 27
∼ 28(29) 年頃と考えられる。後のイエスの裁判において大きな役割を果
たすことになるポンティオ・ピラトは五代目のユダヤ総督あった(26-36 A.D.
在位)
。ガリラヤの四分領主ヘロデとは、ヘロデ大王(1:5 参照)の息子のヘ
ロデ・アンティパスのことで(4 B.C.-39 A.D. 在位)、ガリラヤの他、ヨルダ
ンの東岸地方のペレアも支配していたが、このヘロデが後にヨハネを投獄し
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3:1-20 注解(1-3)
(3:19-20)
、イエスの死の直前に彼を尋問する(23:7 以下)。また同時期に彼
3:1-20 注解(4-5)
ルマン 1965:32)
。
の異母兄弟ヘロデ・フィリポがパレスチナ北部のイトラヤとトラコンを(4
悔い改めの洗礼の宣教の意味内容については、後続の旧約引用及びヨハネ
B.C.-34 A.D. 在位)
、またリサニア(37 A.D. 没)がダマスコ北西、ヘルモン山
の説教において示されるが、ここでは洗礼行為そのものは特に強調されてい
の傾斜地帯であるアビレネを支配していた。
ない。また注目すべきことに、マルコやマタイとは異なり、ルカにおいては、
これらの政治的支配者に続いて、さらにアンナスとカイアファの二人の
ヨハネの奇異な服装や生活スタイル(1:15; 7:33 のみ参照)、人々の罪の告白
「大祭司」(単数形) の名が挙げられる(2 節)。実際にはカイアファ(マタ
と受洗については触れられていない(マコ 1:5-6 // マタ 3:4-6)。
26:57 以下 ; ヨハ 11:49 参照)のみがこの時期に大祭司の地位にあったが(18-36
A.D.)
、彼の舅のアンナス(6-15 A.D. 在位)はその職をカイファに譲った後も
4節
強大な権力を持ち続け、
「大祭司」と呼ばれていた(ヨハ 18:13-14, 19-24; 使
このヨハネ登場の記述の直後にイザヤ書の引用が続くが、その意味でも、
4:6; ヨセフス『古代誌』20:9:1 参照)
。
ヨハネの出現はイザヤの預言の成就として捉えられている。マルコにおいて
以上の記述はヨハネ登場の時期に関しては大よその年代を提示するに過ぎ
は旧約引用句の後にヨハネ出現に関する説明が続いているのに対し、マタイ
ないが、イエスの活動に関わる最初の出来事を当時の世界史的枠組みに組み
と同様ルカにおいては、ヨハネ登場の報告の後に引用句が続いている。ま
入れる機能を果たしている(使 26:26 参照)。この新しい始まりは、元来のル
ず、
「主の道を備え、彼の小道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫ぶ者の声に
カ福音書がここから始まっていたことを証明するものではないが、それでも、
ついて言及されるが、イエスはここで「主」と見なされ、その主の到来に対
このヨハネの登場の記述によって「私たちの間で実現した〔様々な〕事柄」
して民に準備させていたという意味で、ヨハネは主の道を備える者(1:17, 76
(1:1) に関する記述が本来の意味で始まることを示している(使 1:22; 10:37
参照)
。
参照)と見なされている。事実、いずれの共観福音書記者も、七十人訳聖書
イザヤ書 40 章 3 節の「われらの神の小道」(ta.j tri,bouj tou/ qeou/ h`mw/n)を「彼
(=主)の小道」
(ta.j tri,bouj auvtou/)に置き換えることにより、ヨハネが備え
3節
る「主の道」をイエスの道と解している。
荒れ野で神の言葉を受けたヨハネはヨルダン川沿いの地域に赴いて、罪の
赦し(1:77 参照)に至る悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。マルコやマタイにお
5節
いては、ユダヤやエルサレムから人々が荒れ野にいたヨハネのもとにやって
ルカのみがさらに続けてイザヤ書 40 章 4, 5 節 b を引用している。ここで
来たと記されているのに対し(マコ 1:5 // マタ 3:5)、ルカにおいては、ヨハネ
は、
「すべての谷は埋められ、すべての山と丘は低くされる」、「曲がったと
自らが荒れ野から(1:80 参照)ヨルダン川流域に赴いて宣教したと記されて
ころはまっすぐになり、険しい道は平らになる」という二重の並行句によっ
おり(ヨハ 1:28; 3:22-23 参照)、ヨハネは一種の巡回説教者として描かれてい
て、イエスの先駆者としてその道を整えるヨハネの使命が示されている。そ
る(コンツェルマン 1965:31)。このようにルカは、(3:4; 7:24 にも拘わらず)ヨ
れとともにここでは、社会的不均衡の是正、すなわち、高ぶる者が低くされ、
ハネの召命の場所としての荒れ野と宣教の場所としてのヨルダン川流域(ソ
へりくだる者が高められる状況が示唆されており(Schweizer 1982:46; さらに
ドムとゴモラの暗示?[創 13:10 参照])を区別しているが、それと同時に、総
1:51-53; 18:9-14 他参照)
、ヨハネの宣教の倫理的側面が強調されている(10-14
じてイエスとヨハネの活動領域も区別し、ヨハネを専らヨルダン川に結びつ
節参照)
。
け、ヨハネに関わる箇所ではエルサレムやユダヤを削除している(コンツェ
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3:1-20 注解(8-11)
6節
ルカに特有の、「すべての者」(pa/sa sa.rx)は神の救いを見るという神の普
8節
遍的救済を示唆する引用句は、シメオンの言葉(2:30-32)に表出されていた
ヨハネは、単に悔い改めることだけではなく、それにふさわしい実を結ぶ
ルカの普遍的救済思想(24:47; 使 28:28)がすでにヨハネの宣教に暗示されて
ように人々に要求している(8 節/マタ 3:8; さらに使 26:20 も参照)。ルカはマ
いることを示している。その意味でも、ルカはヨハネを神の救いの宣教者
タイとは異なり「実」を複数形で表現しているが(D, W 他の一部の写本では
(6 節 b)として描こうとしている。
単数形)、それによって様々な倫理的な「良い業」(10-14 節参照)が意図され
ているのであろう(Hoffmann 1972:17-18; Fitzmyer 1983:468; Wolter 2008:159)。こ
7節
の要求に続いて、神は石ころからでもアブラハムの子を造り出せると述べ
ヨハネは彼のもとにやって来た人々に語り始める。マルコにおいては「ユ
られることにより、非ユダヤ人(異邦人) からでもアブラハムの子を造り
ダヤとエルサレムの住民」(マコ 1:5)、マタイにおいてはファリサイ派やサ
出せる神の権威が強調され、審判からの救いの保証を血統上アブラハムの
ドカイ派(マタ 3:7) がヨハネの説教の対象になっているのに対し、ルカに
子孫(ヨハ 8:33, 37, 39 参照)であることに求めようとする態度が非難される
おいては「群衆」(o;cloi)、そして「民」(lao,j)が対象になっている。さらに
が(Strack & Billerbeck 1922:116-121 参照)、ここには普遍的救済の視点が認め
マルコと同様マタイにおいても、彼らがユダヤやエルサレム地域から来たと
られる。なお、この箇所については、アブラハムを岩になぞらえるイザヤ書
明言されているのに対し(マコ 1:4 // マタ 3:5)、ルカにおいてはそのような限
51 章 1-2 節への暗示やアラム語の言葉遊び(岩[複数]= aynba;、息子たち=
定はなく、ヨハネの説教はより広い対象に向けられている。
aynb)がしばしば指摘される。
これらの人々はヨハネから洗礼を受けるためにやって来たが、マルコやマ
タイが、ヨハネが人々に洗礼を授けたことについて早々に報告しているのに
9節
対し(マコ 1:5 // マタ 3:6 参照)、ルカにおいては暗示されるにとどまっており、
すでに木の根元に置かれている斧の像は、明らかに間近な審判を示してい
16 節において初めてヨハネが人々に洗礼を授けていた事実に言及されてい
る(17 節も参照)。この斧は実を結ぶ木とそうでない木とを区別し(13:6-9; マ
る。その意味でも、ルカはヨハネを洗礼者としてよりも説教者として描い
タ 7:15-20 参照)
、実を結ばなかった者は火の中へ、すなわち破滅の審判の中
ている。ここで人々は、ヨハネから「蝮の子ら」(マタ 12:34; 23:33 参照) と
へと投げ込まれる(イザ 10:33-34; マラ 3:19 参照)。ルカはこの警告を直接彼
極めて厳しい口調で呼びかけられ、来たるべき神の怒り(裁き)に関して警
の時代の読者に向けていたのかもしれない(Bovon 1989:171)。
告を受ける。
「誰が……教えたのか」という修辞的疑問文による問いかけは、
後続の裁きのテーマを導入するとともに裁きから逃れるために慌てて洗礼を
10-11 節
受けようとする群衆の姿を暗示している。ここでは、審判の威嚇によって洗
10-14 節の段落は、前段(7-9 節) と oi` o;cloi(7 節/ 10 節)、baptiqh/nai(7
礼が勧められているというよりも、来たるべき審判からの救いを安易に確信
節/ 12 節)、poiei/n(8, 9 節/ 10, 12, 14 節)を共有していることからも明らか
しようとする洗礼志願者の態度に対して警告が発せられており、洗礼そのも
なように、その内容を受けて、悔い改めにふさわしい実(8 節)の具体的内
のの意義はやや相対化されている。事実、ヨハネの将来の働きについて述べ
容を示そうとしている。この箇所は、ヨハネと三種の人間集団(群衆、徴税
られた誕生物語の記述(1:15-17; 76-77)においても洗礼については全く触れ
人、兵士) との三重の対話から成り、それぞれの対話は、
「私たちは何をす
られていない。
ればよいのですか」(ti, poih,swmen)という問いとそれへの答えから構成され
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ている。注目すべきことに、彼らに要求されているのは、犠牲奉献や祈り
や断食等のユダヤ教の伝統的な悔い改めの業ではなく(マタ 6:1 以下 ; ルカ
14 節
18:12 参照)
、いずれも財産に関わる倫理的行為である。その意味でも、ルカ
兵士もまた同様の問いを発するが、それに対してヨハネは、人から金をゆ
はここで、伝承における悔い改めの終末論的意味及びその洗礼との関係性を
すり取ったり、騙し取ったりせずに、自分の給料で満足するように要求して
保持しながらも、悔い改めを倫理的行為の視点から捉え直している(Sahlin
いる(ヨセフス『自伝』244;『ユダヤ戦記』2:581 参照)。比較的多くの研究者は、
1948:57)。因みに、ヨセフス『古代誌』18:116-119 も、洗礼者ヨハネを人々
ここに出てくる兵士を徴税人の従者と見なしているが(Marshall 1978:143;
に倫理的行為を要求した人物として描いている。
Nolland 1989:150; カルペパー 2002:98 他)
、必ずしもそのように解する必要は
最初の要求は群衆に向けられ、ヨハネの厳しい言葉を聴いた彼らは、自
なく(Herrenbrück 1990:252)、彼らはローマの軍隊ではなく、ヘロデ・アン
分たちが何をなすべきかとヨハネに尋ねる。これに対してヨハネは、下着
ティパスの軍隊であったと考えられる(Zahn 1920:194 に反対)。エレミアス
を二枚持っている者は一枚も持たない者に分け与え(6:29 及びヤコ 2:15-17 参
は、彼らはユダヤ人であったと断定しているが(1978:96-97 n, 19; さらに Klein
照)
、食べ物についても同様にするように要求する(ヨブ 31:16-20; イザ 58:7;
2006:166 も同様)
、ヘロデ・アンティパスの軍隊には、彼の父ヘロデの軍隊と
エゼ 18:7, 16; トビ 1:17; 4:16 参照)
。二枚目の下着は夜の寒さをしのぐためのも
同様(ヨセフス『古代誌』17:198 参照)非ユダヤ人も含まれていたと考えられ
のか、着替え用のものと考えられる(9:3; マコ 6:9 参照)。注目すべきことに、
る。あるいはルカは、将来の異邦人教会の観点から、ここではローマ人の軍
これらの要求は富裕者に対してではなく、一般の群衆、すなわち貧しい庶民
隊のことを想定していたのかもしれない(Bovon 1989:174 n. 39)。
に対して向けられており、その意味では「極貧の者たち相互の間での連帯」
注目すべきことに、徴税人と兵士に対しては、職業の放棄ではなく報酬の
(ショットロフ/シュテーゲマン 1989:225)がここでは問題になっている。なお、
正当な獲得が求められており、そこでは貪欲を抑制する態度(節制)が問題
この「分ける」(metadi,dwmi)というモチーフは、使徒行伝における原始キリ
になっている。その意味でも、三者に対する要求は、いずれも財産に関わっ
スト教団の財産共有の記述(使 2:44-45; 4:32-37; 5:1-10) によってさらに展開
ている点で共通している。さらに興味深いのは、ここで特に徴税人と兵士が
されることになる。
言及されている理由である。両者に対する要求内容からも明らかなように、
彼らはその貪欲故の不正行為のためにユダヤの民衆からは忌み嫌われてい
12-13 節
たと想定されるが、ルカにおいては、徴税人(5:27-29; 7:29; 15:1; 18:9-14; 19:1-
第二、第三の要求はそれぞれ徴税人と兵士に向けられる(12-14 節)。こ
10)も兵士(7:1-10; 23:47; 使 10:1 以下 ; 16:25 以下)も総じて肯定的に描かれて
の徴税人や兵士を群衆に含める研究者も多いが(Marshall 1978:143; Schneider
いる。その意味でも、おそらくルカは、彼らのように周囲の人々から嫌われ
1984:87 他)
、12 節の kai, 及び三度にわたる同一の問いかけは、三者が相互
ていた者たちが(その意味で、異邦人も含んだあらゆる者が)、ヨハネの教えを
に区別されていることを示している。徴税人も洗礼を受けるためにヨハネ
受け入れたことを強調し、それとともに、悔い改めと貪欲の放棄との関係を
のもとにやって来て、ヨハネに「先生」(dida,skale) と呼びかけ、群衆と同
明らかにするために両者を選んだのであろう。あるいは、国家組織に組み入
様、自分たちは何をなすべきかと尋ねている。それに対してヨハネは、規定
れられていた徴税人や兵士に対してキリスト教会が受容的であることを示す
以上の税金を取り立てないように要求するが、このことは、彼らがしばしば
ことによって、支配層に対する教会の忠誠を印象づけようとするルカの護教
職権を濫用してユダヤの民衆から不当に税を徴収していたことを示している
的視点が背景にあるのかもしれない(Petzke 1990:70-71)。なお、ここには徴
(19:1-10 参照)
。
16
税人や兵士が属していたルカの時代のキリスト教会の状況が反映されている
17
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3:1-20 注解(14-16)
3:1-20 注解(16-17)
という見解も見られるが(Horn 1983:95)、当時の教会に徴税人が属していた
第二に、ヨハネが水で洗礼を授けるのに対し、その方は「聖霊と火で」(evn
可能性は否定できないまでも、キリスト者の兵士の存在が確認できるのは紀
pneu,mati a`gi,w| kai. puri,)洗礼を授けるという点が挙げられる。このようにマタ
元二世紀以降であることからも、その点は明らかではない。
イと同様ルカは、マルコとは異なり、聖霊のみならず火にも言及しているが、
「聖霊による洗礼」が聖霊を分かち与える洗礼として理解されるのに対し、
15 節
「火」は旧約において裁きの象徴であり、その意味で「火による洗礼」は元
15 節以下ではヨハネのキリスト論的な宣教内容に言及されているが、ル
来、終末の審判を意味していたのであろう。それに加えて、前出の 9 節及び
カは主に Q 資料から採られた説教部分(16-17 節)を自らの編集句(15, 18 節)
直後の 17 節でも「火」が裁きの文脈で用いられていることから、悔い改め
で枠付けている。ここからヨハネの説教の聴衆は「群衆」(o;cloi:7, 10 節)
る者には「聖霊」が与えられ、悔い改めない者に「火」の裁きが下される
から「民」(lao,j:15, 18 節)に移行しており、おそらくこの語はルカの編集
という理解も可能ではあり(Schürmann 1990:174-175; Schweizer 1982:49)、事実
句と考えられる。ルカにおいて lao,j は、神の言葉を受け入れ、救いを待ち
マタイにおいては、
「火による洗礼」は最後の審判との関連で捉えられてい
望む存在として、総じて肯定的に捉えられている(1:10, 17, 68, 77; 2:10, 31-32)。
る(ルツ 1990:206-207)。しかし、ルカにおいてはその観点は特に強調されて
また、彼らのキリスト待望に関する 15 節の記述(7:19; 使 13:25; ヨハ 1:19 以
おらず、むしろここでは聖霊注ぎのイメージで捉えられていると考えられる
下 ; 3:28; ゼカ 9:9 参照) は主題を再び将来の事柄に向けさせるが、ここでは
(使 2:3 以下参照)。その一方で、使徒行伝 1 章 5 節及び 11 章 6 節では、マル
神の裁きよりもキリストの到来について語られている。すべての民が、ヨハ
コ福音書 1 章 8 節と同様、聖霊による洗礼についてのみ記されており、火に
ネこそ待ち望んでいたキリストではないかと考えていたというルカに特有の
よる洗礼についての記述はない。因みにこの 16 節全体は、(a)ヨハネの水
記述(ヨハ 1:19-23 参照)は、先行する 10-14 節のヨハネの説教の内容にそぐ
による洗礼、(b)ヨハネ以上に強い方の到来、(c)その方の靴の紐を解く値
わないが、これにより、来たるべきキリストであるイエスの到来がより効果
打もないヨハネ、(d)その方による聖霊による洗礼、というようにキアスム
的に描き出される。
ス的に構成されている(a.d / b.c)。
16 節
17 節
民のこのような考えに対して、ヨハネは 16-17 節の部分で、来たるべきキ
そして第三に、その来たるべき方は神の判別の裁きを実行する裁判官とし
リスト(メシア)とその偉大さについて三重の仕方で指し示している(7:18-
て表現されるが、それは、手に箕を持って脱穀場を徹底的にきれいにし、麦
20 も参照)。第一に、その来たるべき方はヨハネよりも強く、ヨハネはその
を不必要な殻からより分けることによって集め、殻を火で焼き払う農夫のイ
方の履物の紐をほどく値打ちもないと述べられる(マコ 1:7)。
「私よりも強
メージで描かれている。9 節の像とは異なり、ここでは二段階の判別の裁き
い方」(o` ivscuro,tero,j mou)は、元来の文脈ではおそらく神を指しており、また、
が描かれており、破滅のみならず収穫物の収集も同時に表現されている。農
「履物の紐をほどく値打ちもない」という表現は、ヨハネとキリストの関係
夫がすでに箕を持っているということは、判別の時期が間近に迫っているこ
が、主人と奴隷の関係に対応することを示している。なお、ルカがマルコ福
とを暗示しているが、ルカはこの言葉を間近な終末の意味で理解したのでは
音書 1 章 7 節の ovpi,sw mou(私の後から)を省略したのだとすれば、それはイ
なく、イエスラエルの分裂のことを考えていたのであろう(2:34 参照)。
エスをヨハネの後継者のように位置づけられることへの抵抗からかもしれな
い(もっとも使 13:25 を参照)。
18
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3:1-20 注解(18-20)
3:1-20 解説
18 節
ここで、7 節以降のヨハネの宣教活動に関する記述が締め括られる。ここ
には、ヨハネが「ほかにも多くのことを勧告し、民に福音を告げ知らせた
4. 解説
(euvaggeli,zomai)
」とあり、その意味でもルカは、ヨハネの活動を一概に古い
他の福音書記者と同様、ルカにおいても、イエスの最初期の宣教活動の記
律法と預言者の時代に限定しているわけではなく(コンツェルマン 1965:38-40
述の直前に洗礼者ヨハネの宣教活動について述べられているが、ルカはヨハ
に反対)、イエスの宣教との関連においてイエスの先駆者として捉えている。
ネの授洗活動については直接言及せず、暗示するに留まっている(3:3, 7, 12,
しかしその一方で、神の国の福音は、ヨハネによってはまだ告知されず(マ
16, 21 参照)
、事実、ここではヨハネの洗礼については具体的に記述されず、
タ 3:2 参照)、それゆえヨハネは、新しい時代へと向う流れの途上に位置づけ
ヨハネは洗礼者というよりも悔い改めの洗礼を宣べ伝えた説教者(宣教者)
られている(16:16 参照)。
として描かれている。そのような意味でも、ルカはヨハネを、来たるべき救
いと裁きを預言する預言者、そしてまた倫理的勧告を述べる説教者として描
19-20 節
いており、洗礼そのものの意義はやや相対化されている(3:7 参照)。ヨハネ
洗礼者ヨハネの宣教に関する段落は、ヨハネの投獄の記述によって結ばれ
における裁きの警告と救いの預言との間の緊張は、イエスの先駆者としての
る。ヨハネの投獄をイエスの受洗の前に位置づける点で、ルカの記述は他の
彼の役割から説明される。すでに誕生物語において、ルカはヨハネをイエス
福音書と異なっているが、ヨハネの投獄がイエス出現の誘引になったとい
の先駆者として描いていたが、このヨハネ宣教の記事においてその点がより
うことは歴史的事実であったかもしれない(マコ 1:14 参照)。ここでルカは、
一層明らかになる。事実ルカにおいては、この段落の末尾でヨハネの投獄が
ヘロデ・アンティパス(3:1 参照) はヘロディアのことや彼自身の悪事のこ
報告されることにより、ヨハネの活動が終わったことが明らかに示されてお
とでヨハネに責められたために彼を投獄したとのみ記しており、ヘロデが異
り、それ以降はイエスとその活動に焦点が当てられていくことになる。
母兄弟の妻ヘロディアを奪って結婚したという具体的な罪(マコ 6:17-18; レ
ビ 20:21 参照)については触れていない(ヨセフス『古代誌』18:109-110 参照)。
さらにルカは、おそらく、ヨハネが二人の弟子をイエスのもとに遣わした
という後出の 7 章 18 節以下のエピソードとの不整合を避けるために、その
後ヨハネがヘロデによって首をはねられ、殺害されたという点については
触れておらず(マコ 6:19-29 参照)、後になってその殺害の事実を提示してい
る(9:7-9 参照)。この箇所から、コンツェルマン(1965:34) が指摘するよう
に、ルカがイエスの活動の時期をヨハネの活動の時期から明確に区別しよう
としたと結論づけられるかどうかは明らかではないが(16:16 参照)、いずれ
にせよルカは、ヨハネの活動について語り終えてから、受洗に始まる一連の
イエスの物語を語り始めようとしている。なおヨセフスの報告によると、ヨ
ハネは死海近くの要塞マケルスに連行され、その地で処刑された(『古代誌』
18:116-119 参照)
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日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ルカ福音書 嶺重淑(2015.1.28 公開)
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