|1 演習「田邊元を読む」資料 2015 年版 林晋 2015/05/07 1. 田辺元という人 Wikipeida, 日本哲学史専修の思想家案内、京都学派アーカイブなどに簡単な説明がある。 Wikipedia 記事は林も編集しており概ね正確。また、昨年度の後期特殊講義の資料 http://www.shayashi.jp/courses/2014/sui5kouki/20150114.html にも、年譜と伝記的解説などがある。また、この資料の後の方にも年譜と伝記的解説を行 う。 2. 田辺元研究へのスタイルについて ある人物の歴史学的研究を行う時、その人物が哲学者、特に日本の哲学者である場合、さ らに言えば京都学派の哲学者である場合、ある厄介な歴史的経緯がある。京都学派の哲学 はヨーロッパなどでは哲学から峻別されることが多い、宗教の立場が入っているとされる ことが多い。そして、それは実際ある程度は正しい。しかも、その宗教の立場は、東洋的 なもの、特に「修行」という概念と結びついている所があるように見える。京大文学研究 科に日本哲学史専修という研究室があり、その創設にかかわったのが藤田正勝教授である が、この人には、そういう点が見当たらないが、この人以前は違った、西田、田辺直系の お弟子さんたちが、あたかも高僧の思想の伝統を受け継ぐかの様に京都学派の哲学を「独 占」し、それが客観的に歴史上の思想として、たとえばカントトヘーゲル、ハイデッガー の哲学の様に扱うことは難しかったが、藤田教授の力で、それが可能となったと言うのが 大方の意見で林もそう思っている。 この藤田教授以前と以後での違いは簡単には説明できるものでは、勿論ないのだが、た とえば、ある明白な指標のようなものがある。京都学派の哲学を、あたかも禅の宗派のよ うに語る人たちは、 「…哲学の到達点」というような表現することがあり、 「晩年になるほ ど、哲学者の思索は深まる。その到達点を理解したい自らもそれに近づきたい」という風 に行動する傾向がある。これは禅僧に接する態度としてはおそらく正しい。しかし、これ が哲学者に対する態度としては、どうであろうか。たとえば、カントと言えば純粋理性批 判である。また、ハイデガーといえば「存在と時間」である。しかし、この両著作とも、 これら二人の哲学者が、その独自の世界を確立していった期間の最初に現れたものなので ある。この二人の哲学者は、それぞれの哲学を、これらの作品を出発点に展開していった。 そして、ハイデガーの場合では、 「後期ハイデガー」という言葉があるように、大きな展開、 人によっては 180 度の方向転換があったと理解されている。しかし、ハイデガー哲学と言 えば「存在と時間」なのである。これが最もハイデガーという哲学者の性格を表すもので あり、また、その思想史上の重要性、特に「影響の重要性」を考えれば、これ以上にハイ デガーの代表作として挙げ得るものはないのである。 |2 一方で、たとえば、西田幾多郎の場合、一般には彼の独自の思想の「デビュー作」とい える「善の研究」が有名であるが、その哲学の内容を検討してゆけば、明らかに晩年にい たるまで、同じテーマを粘り強く洗練していく過程が見えてくる。この様な場合には、確 かに「西田哲学の到達点」ということを語ることができる。これは、西田、田辺の直系の 弟子で、段々と、 「京都学派第 3 の哲学者」という評価が、特に海外から高まりつつある西 谷啓治にもあてはまる。彼の思想は、ある意味で晩年には若いころの鋭利さを失っていく が、それは、むしろ禅僧の思想の洗練、東アジア系の芸術における晩年の洗練の概念を思 い起こさせるものであった。つまり、この場合も「西谷哲学の到達点」を語ることは自然 であり、意味を持つ。 一方で、本演習で対象とする田辺元については事情が大きくことなる。ハイデガーから の影響が強く、ただし、田辺の言葉を使えば「ハイデガーとの対決」という意味での影響 をハイデガーから強く受けた田辺の場合、また、ナチスの思想運動、大日本帝国末期の軍 国主義との実際的関係があった、この二つの思想を語るとき、第三帝国と大日本帝国の敗 戦と崩壊という歴史的現実を抜きにしては語ることができないのである。もし、この両国 家が敗戦することがなかったら、これら二人の哲学の思想の行方は大きく異なったものに なったはずである。というのは、この二人の思想がハイデガーの場合には見えにくいもの の、当時の社会に、また政治・経済などの日常的社会活動の背景としてあるものとしての 文化・思想に強くコミットするものとして組み立てられていた、つまり、たとえばワイマ ール共和国憲法の背景に新カント派の哲学思想があると言われるように、彼らの思想は、 それを背景とした政治体制、社会体制を築き得る様なものだったのである。 そして、田辺の主要哲学と言える「種の論理」という哲学理論は、殊更、その性格が強 かったのである。実は、これはドイツ語圏の思想の中に、また、それに影響したフランス 語圏の哲学に見られる「社会・総体から出発する哲学」の一つであり、日本における代表 的なものと言えるからである(ヨーロッパの「本家」のものとしては、ベルグソン、レヴ ィ・ブリュール、ユクスキュル、シェーラー、そして意外かもしれないがカッシーラーな どの思想がそれにあたる) 。 以上のような立場にたつと、田辺元という哲学者を世界思想史のパースペクティブに置 いたとき、そのどこに注目すべきかが明らかになる。もちろん、彼が深くコミットしてし まった大日本帝国とその共栄圏の思想の崩壊後の、その対処にも非常に重要なものはある ものの、彼自身が「種の論理の弁証法」前書きで書いているように、この現実的な崩壊は、 実は彼の哲学の核心部分、特に社会存在論的部分には、あまり大きな変化をもたらしてい ないのである。 「ハイデガーの哲学の核心は「存在と時間」である」というような立場、つ まり、ある哲学者の思想が、その時代に置いて、最も特徴を発揮している部分に注目する 立場から言えば、田辺元の哲学の核心は「種の論理」なのである。 本演習では、この様な立場に立って、田辺哲学のルーツをもとめて、つまり、なぜ、そ して、何を求めて、それは生まれてきたのかを理解するために、 「種の論理」が生まれ出た |3 昭和 9 年の講義準備資料を分析するのである。 ちなみに、昭和5年の論文「西田先生の教を仰ぐ」により始まった西田・田辺論争は大変 有名である。これは、おそらく直系の御弟子さんたちには「シコリ」と感じられていたは ずのものであり、西田・田辺論争を解消するために、晩年にいたるに従い、西田哲学に近 いものが見られるようになる田辺哲学の変遷を利用して、 「田辺先生も最後には西田先生と 同じ到達点の高みに近づいて行った」という話を、最晩年の田辺が群馬大附属病院入院中 に語ったとされる言葉を使って、 「構成」しようとする人もいた。つまり、 「…哲学の到達 点」という言葉の枠を利用して、西田哲学に中に田辺哲学を解消しようとする試みである。 この様な傾向は、先に述べた藤田正勝氏の研究以前は、広く横行していたとさえいえる が、現在ではもうそういう方向性は、少なくとも藤田世代以後のアカデミックな哲学者の 間では、完全に消えつつあることを指摘しておきたい。現代では、西田の晩年の思想が、 どの様な意味で田辺哲学から影響を受けていたのか、それが綿密に語りえる様になってい るのである。ただ、これが出来るようになったのは、藤田教授などの努力の後であり、比 較的最近なのである。そのために西田・田辺についてのテキストを探すと、それ以前のス タンスのものが、しかも権威ある人たちのものとして見つかる。こういうものは学問の進 歩により、すでに乗り越えられている。田辺哲学を理解しようとする際には、そのことを 留意しておいて欲しい。 3. 田辺元研究用資料 この演習で、その一部を読む田辺元史料について説明する。 田辺は1945年(昭和20年) 、京都帝国大学を定年退官し、長年住んだ京都を離れ、 夏の別荘として使っていた、群馬県北軽井沢大学村の山荘(以下、山荘)に居を移した。 これには疎開の意味もあったようである。この際、優に万を超えたと思われる蔵書の一部 は処分したようだが、その後も晩年まで旺盛な著作活動を続けたことで分かるように、多 くの書籍は山荘に移された。また、北軽井沢時代にも多くの書籍を購入したようである。 北軽井沢は夏には快適であるが、冬には現在もマイナス 20 度を下回ることもあるという、 現在の北海道の平野部を上回る厳寒の地である。当時の北軽井沢大学村の建築群は夏の山 荘として設計されており、この様な厳寒を全く考慮していなかった。しかし、田辺は戦争 後も、その夏の山荘に住み続け、昭和 25 年の文化勲章叙勲の際にも下山しようとしなかっ た。田辺の没年は昭和 37 年であるが、昭和 30 年代の日本は全国的に豪雪と寒冷に見舞わ れた。その厳冬の辛さは想像に余りある。それより 10 年ほど前、田辺の昭和 21 年の日記 には、「万年筆握る手凍えインキ凍る今朝の寒さよ物書くは辛き(一月三十日)」という詩 とも散文ともつかない文章がある。昭和 30 年代には、さらに辛い状況にあったであろう。 そうまでして下山しなかったのには、日本国家、また、京大文学部哲学を崩壊の危機に導 いた、自らの責任への贖罪の意味があったともいう。 山荘の書籍は、昭和36年1月に脳軟化症の診断を受け群馬大学附属病院に入院し翌年 4月に死去するまでの間に、弟子達との相談の上で群馬大学附属図書館と京都大学文学部 |4 図書館に二分して寄贈されることとなった([1]参照、注1)。 両図書館は、寄贈された書籍等を、それぞれ「田辺文庫」として公開したため、現在二 つの「田辺文庫」が存在している。以下、これらをそれぞれ、京大田辺文庫、群馬大田辺 文庫、あるいは、京大文庫、群馬大文庫などと呼び、二つを合わせて呼ぶ場合には両文庫、 両田辺文庫などと呼ぶことにする。 二つの田辺文庫への書籍の分配は「京都大学に蔵書がないものは京大に寄贈し、それ以 外は群馬大学に寄贈する」という方針であったので([1]参照)、二つの文庫への書籍等の帰属 はランダムであるともいえる。したがって、田辺の旧蔵書の調査を通しての研究では、ど ちらか一つの文庫のみを調査するのでは不十分であり、必ず両方の調査が必要である。 一方で、群馬大学田辺文庫には、田辺の蔵書以外に、講義ノート、アイデアなどを書き とめた手帳、草稿などの田辺の手稿が多数保存されているが、京大田辺文庫には、これに 該当する田辺の手稿にあたるものは無い(注2)。これらの貴重な手稿類は、研究者に公開さ れているだけでなく、京都学派アーカイブや群馬大学による群馬県地域共同リポジトリ AKAGI(旧 GAIR)より、WEB 上で閲覧したり、史料を請求したりすることができる。 また、これら2文庫ではないが、下村寅太郎が保管していた数千通におよぶ、田辺宛の 書簡の原本が現在、京大文学研究科図書館に、下村が残した貴重文書、下村文書の一部と して保管されている。これの研究は、過去、断片的に発表されているものの、研究は、ま だまだ少ない。また、田辺が書き送った書簡としては、纏まって確認されているものとし ては、書簡集として出版されている唐木順三、野上弥生子の二人との書簡集がある[12, 13]。 また、これらの他に、鹿野治助宛ての書簡が研究者により、また、谷川徹三宛ての書簡が 岩波書店により所有されている。 ただし、後者は岩波書店が持っていた谷川徹三の遺稿集の一部である。この遺稿集は、 著作権所有者である谷川俊太郎氏のサポートを得て常滑市のアマチュア研究者の団体「谷 川徹三を勉強する会」が岩波書店より資料一式を借り受け翻刻、自費出版などの研究活動 を精力的に行っている。この研究会の成果は、アマチュアとしては破格に高いレベルであ り、一部の大学教員の研究を遥かに凌駕するレベルに達していることは特記に値する。 以下、京大田辺文庫、群馬大田辺文庫の概要と、それらを田辺研究の資料として使用す るために役立つ情報を説明する。 4. 書き込みと手稿 田辺は極めて几帳面な性格であったことが知られ、それは田辺文庫からも窺われる。両 田辺文庫では田辺による書き込みがある書籍を貴重書として別架扱いとしているが、これ らの書籍には、余白への書き込み以外に、本文に定規で引いたような綺麗な下線が引かれ ており、また、それに二重丸、丸、三角などの記号がつけられている。これらはそれら書 籍に対応する田辺の著作の記述からして、田辺が読書の際に重要箇所をマークアップした ものと考えられる。この下線等は、田辺が何をどのように読んだか、あるいは読まなかっ たかを知る、極めて大きな手がかりとなるのである。 |5 また、貴重書の余白には、田辺の著作の記述と整合的な書き込みが見出されることが少な くない。例えば、京大田辺文庫の貴重書 Arcnd Hcyting の 1934 年(昭和 9 年)刊の直観主義と 証明論の解説本 MATHEMATISCHE GRUNDLAGENFORSCHUNG INTUITIONISMUS BEWEISTHEORIE には、プラウワーの実数論を解説した部分に、個に外延を、種に 内包を対応させている書き込みがある。 昭和 9 年は種の論理の論文が公表され始めた年であり、同年の手帳に他の多くの書籍と ともに、この書籍から、この本をかなり早い時期に手に入れている可能性が高いこともあり、 後年の種の論理論文で注意されていた「種の論理の研究にブラウワーの直観主義が導き手 となった」という記述の持つ意味の重要性と、また、それがどういう影響であったかさえも 推測できるのである。 5. 群馬大学田辺文庫 群馬大学田辺文庫の目録は和漢書編と洋書編の2巻からなる[1], [2」。これらの目録に は、群馬大に寄付された田辺の蔵書がリストされているが、その書き込み量により、*, **, *** などの記号が付されているのが特徴である。 群馬大学田辺文庫には、講義ノート、手帳、草稿などが収蔵され、また、電子化されて オンラインで公開されている。これら文書は文書ごとにPDFファイルとなっており AKAGI(旧群馬大学学術情報リポジトリ GAIR )のホームページからダウンロード可能 であり、田辺研究には大変便利である。ただし、講義ノートは含まれていないが、それら の一部は林により電子化され京都学派アーカイブで公開されている。旧 GAIR の使い方な ど、京都学派アーカイブに説明があるので、これを参考にしてほしい。 6. 書籍等 岩波文庫に、田辺哲学選 I-IV の4冊があり、その哲学の概要を、これで読むことができ る。しかし、田辺研究において、最も重要な書籍と言えば、当然ながら田辺元全集全 15 巻 (筑摩書房)であろう。一般にも根強い人気を持つ西田に比較すると、残念ながら田辺は 半ば忘れ去られており全集も絶版となっている。文学研究科には3セットほど収蔵されて いる。古本市場では9万円台で買うことができる。 種の論理関連の論文は、主に第6、7巻に収録されているが、他の巻にも関連する文書 は多い。また、最終巻には年譜と全著作目録があり、田辺についての歴史学的・文献学的 研究を行う際には役立つ。これらはスキャンして PDF 化してあるので希望者には配布する。 Adobe Acrobat を使ってコード化してあるので、文字認識の誤りが多いものの、一応は検 索ができる。 (ただし、copyright の問題があるので、取り扱いには注意して欲しい。本特 演習だけでの使用に限定すること。ちなみに、今までの演習では希望者は、ほぼなかった。 自分で田辺哲学を理解して翻刻するより、いままでの翻刻をもとに古文献として翻刻する 方が楽なのだろう。 ) 田辺哲学をテーマとする学術書はすくない。主なものとしては、文献表の[3-9]がある。 この他に、筑摩書房の「近代日本思想体系」と「現代日本思想体系」の田辺についての巻 |6 の解説(それぞれ、中埜肇、辻村公一による)がある。ただし、学術的なスタイルで書か れているから信用できるわけでないので注意が必要である。林の私見だが、[6]には様々な 点で違和感が残る。[8]は林の田辺研究の初期を導いた書籍であるが、数学・物理学の田辺 哲学への影響を正しく認識しながら、その世界に踏み込めなかった点が残念な研究である。 西田幾多郎、田辺元ともに、数学に深く関わった哲学者であり、この「数学」というフ ァクターを除いては、この二人、特に田辺の思想を理解することは難しい。これは、この 二人が生きた時代に、数学や自然科学と哲学を結び付けようそういう雰囲気が充満してい たからである。しかし、その後に、その「空気」が忌避すべきものとなり、所謂、大陸哲 学と分析哲学に分離しつつ、新たな哲学象が形成されていく。 京都学派の哲学は、大日本帝国が第一次世界大戦に完全にはコミットしなかった故に、 悪い意味でも良い意味でも「周回遅れ」の側面がある(これは京都学派が常に哲学の発展 において後れを取っていた、という主張ではない。現実には、むしろ世界のフロンティア を走っていた感がある) 。 また、学術書ではないが、田辺哲学を、その主題にした書籍として、[10,11]がある。ど ちらも著者はマスコミ志向が強い学者で、特に[10]は文芸賞を得るなど社会的評価が高い。 しかし、林が[13]で明らかにしたように、全編を通して数多い数学への言及の殆どが誤解 であるなど、杜撰な議論が目立ち、また、ドイツ観念論的な自由論に関連して田辺哲学論 としての本質的欠陥がある。そのため、この著書は学術的議論をする際には参照すべきで はない文献である。林が[13]を書いたのは、それを参照することにより、アカデミックな スタンスを取る著者が、その論文・書籍などで、[10]を考慮すべき文献から外す根拠を与 えるためだった。 一方、[11]の著者の合田は、この[10]を評価しているが、数学に関する議論を控えてお り[10]のようには杜撰ではないし、全体として田辺哲学の性格を良くとらえている。また、 この著者が、田辺が完全に忘れ去れていた時期に、長らく田辺哲学の重要性を主張し続け た点は正しく評価されるべきかもしれない。合田氏は、同様に[10]の著者中沢氏が田辺へ の関心を喚起したと考えており、その点を評価しているようだ。これはマスコミの世界で は正しいと思うが、上に書いたような理由で間違えた認識を広めてしまった負の面の方が 強い。しかも、例えば林の田辺研究や、林の周りの研究者においても、中沢や合田の仕事 が契機で行われた形跡は見えない。林は、その田辺研究を始める前に、数学史の研究に関 連して、友人から勧められて[10]を読んでいたが、振り返ってみると、この[10]からは何 の影響も受けていない様に思える。その他にも特に京大文学部を中心とするアカデミック な田辺研究についての誤解がある様に思える。いずれにせよ、[11]は学術的研究の入門と しては必ずしも適当ではないが、[10]より慎重であり、多くの歴史的な情報も含むため、 学術的な書籍と併せて読むと、良い情報が得られることがある書籍である。 7. 田辺の生涯 以下に主に全集の年譜に従って田辺の生涯を見る。 |7 年譜 明治十八年(一八八五)二月三日、田辺新之助の長男として東京に生まれる。 明治四十一年(一九〇八) 二十三歳七月、東京帝国大学文科大学哲学科卒業。大学では初 めは数学科に席をおいていたが、数学の演習が出来ず、数学の才能がないことを悟り、 直ぐに哲学科に転じている。この当時かhら生涯、日本発の世界的数学者高木貞治を 深く尊敬し、ある種の憧れをもっていたと思われる。田辺の「数学への偏愛」の原点 といるのではないだろうか。 同月,同大学大草院人学。母校城北中学校(後の四中)にて英語の教鞭をとる。この当時、 ドイツ語能力の高さで有名だったようだ。 明治四十三年ころから母校東京帝国大学の「哲学雑誌」に哲学論文を発表し始める。 特に明治四十五年ころから、「相対論の問題」、「カントと自然科学」など数理哲学 関係の研究を行う。 大正二年(一九一三) 二十八歳。八月東北帝国大学埋学部講師に就任。「科挙概論」を講 ずるかたわらドイツ語初歩を教える。 大正四年(一九一五) 三十歳。『最近の自然科学』を岩波書店より出版。 大正五年(一九一六) 三十 1 歳。結婚 大正七年(一九一八) 三十三歳。『科学概論』を岩波書店より出版 大正八年(一九一九) 三十四歳八月。西田幾多郎の招きにより京都帝国大草文学部助教 授に就任。 大正十一年(一九二二) 三十七歳 文部省在外研究員としてヨーロッパに留学。フッサ ールに学びハイデッガー、オスカー・ベッカーなどと交はる。 大正十三年(一九二四) 三十九歳 帰国。 昭和五年(一九三〇) 四十五歳「所謂『科学の階級性』に就いて」を『改造』に発表。「西 田先生の教を仰ぐ」を『哲学研究』に発表。 昭和七年(一九三二) 四十七歳『ヘーゲル哲学と弁証法』を岩波書店より出版。 昭和八年(一九三三) 四十八歳、『哲学通論』を岩波書店より出版。 昭和九年(一九三四) 四十九歳 文部省主催日本文化教官研究講習合に於て「歴史の意 味」を講演。このころから、文部省主催の講演会での講演を良く行う。「社会存在の論 理」(上)を『哲学研究』に発表。((下)は翌年。) 昭和十年(一九三五) 五十歳 「種の論理と世界図式」を『哲学研究』に発表。「科学政 策の矛盾」を『改造』に発表。「論理の社会存在論的構造」を『哲学研究』に発表。 昭和十二年(一九三七) 五十二歳四月 「蓑田氏及び松田氏の批判に答ふ」を『原理日 本』に発表。『種の論理』に封する批評に答ふ」を『思想』発表。「種の論理の意味を 明にす」を『哲学研究』に発表。『哲学と科学との間』を岩波書店より出版。 昭和十四年(一九三九) 五十四歳『正法眼蔵の哲学私観』を岩波書店より出版。「国家 的存在の論理」を『哲学研究』に発表。 |8 昭和十九年(一九四四) 五十九歳 〔特殊講義〕「懺悔道」 昭和二十年(一九四五) 六十歳 定年退官。以後群馬県北軽井滞大学村に居住。 昭和二十一年(一九四六) 六十一歳、『懺悔道としての哲学』を岩波書店より出版。『政 治哲撃の急務』を筑摩書房より出版。 昭和二十二年二九四七) 六十二歳五月、学士院会員。「キリスト教とマルクシズムと日 本仏教」を『展望』に発表。『種の論理の弁証法』を秋田屋より出版。『実存と愛と実 践』を筑摩書房より出版。 昭和二十三年(一九四八) 六十三歳、『キ-スト教の弁証序論』を筑摩書房より出版。 昭和二十四年(一九四九) 六十四歳『哲学入門- 哲学の根本間題』を筑摩書房より出版。 昭和二十五年(一九五〇) 六十五歳、文化動章受賞。「哲学と科学と宗教」を筑摩書房よ り出版。 昭和二十六年(一九五一) 六十六歳『ヴァレリイの芸術哲学』を筑摩書房より出版。妻 ちよ死亡。 昭和二十九年(一九五四) 六十九歳『数理の歴史主義展開』を筑摩書房より出版。 昭和三十年(一九五五) 七十歳 『理論物理学新方法論提説』を筑摩書房より出版。『相 封性理論の弁証法』を筑摩書房より出版。 昭和三十三年(一九五八) 七十三歳 、「メメントモリ」を『信濃教育』に発表。 昭和三十六年(一九六一) 七十六歳、脳軟化症発病。群馬大病院に入院。『マラルメ覚書』 を筑摩書房より出版。 昭和三十七年(一九六二) 七十七歳 四月二十九日午後七時四十六分逝去。遺言により、 蔵書八千八百三十七冊中、和漢書六百五冊、洋書八百七冊は京都大学へ、他の蔵書及び 宅地(約千三百平方メートル)と建物は群馬大学に遺贈。「生の存在学か死の弁証法か」 を『哲学研究』に発表。 8. 田辺哲学の変遷 田辺は様々な哲学の分野に関わっている。田辺哲学を宗教哲学の観点から研究した氷見は、 その著[1] pp.14-15で、変遷する田辺哲学を次の4期に分割している: 第1期:認識批判の時期(1910-22) 第2期:弁証法受容の時期(1922-34) 第3期: 「種の論理」の時期(1934-43) 第4期:他力随順的宗教哲学の時期(1944-62) 氷見は([6],p.14)、 「この時代区分は便宜的なもので、他の研究者は他の区分を採用して おり、その妥当性はそれぞれの立場で異なる、自身の区分もその目的である「宗教哲学の 観点からの田辺哲学理解」に便利な区分に過ぎない」という意味のことを書いている。 ただし、氷見によれば、この区分は高坂正顕、武内義範の区分と一致するというこれら4 期の間の3つの境界での田辺の変化は極めて明瞭であり、それは彼の実生活の変化とも連動 |9 している。例えば、第1期と第2期の間にはドイツ留学があり、第3期と第4期の間には敗戦 と定年退官がある 1。そういう意味で、この4区分は多くの賛同を得られる自然なものである し、林が数理哲学を元にした田辺哲学の解釈を提案するまでは、ほぼ唯一の田辺哲学の変 遷の理解だったといえる。 しかし、この見方は、おそらく個人的にも、学問的にも、田辺に最も近く、田辺を深く 理解していたと思われる西谷啓治の田辺哲学評価「徹頭徹尾数理から生まれた哲学」とそ ぐわない。実際に、第2期を除き、田辺のテキストには、常に数学・物理学、特に数学へ の言及が溢れている。氷見や、従来の田辺理解では、それらを「語りえぬもの」として、 捨て去るしかなくなる。しかし、これは一人の歴史上の思想家を理解するためには正しい ことではない。田辺は、その数理への言及ごと理解されなくてはならない。それが、林の 「数理哲学としての田辺哲学」の見方である。この見方は、最初、林の2011年西田・田辺 記念講演で種の論理にたいして提案され、その後、2012年の「思想」の論文「田辺元の『数 理哲学』 」で体系化された。この資料を配布する。 9. 田辺哲学の数理哲学的視点による理解 氷見は宗教哲学の立場から田辺哲学を眺めたが、我々は「数理哲学」の立場から眺める。 「数理哲学」から見た田辺哲学の4期は次のようになる。 第1期:数理・科学哲学と新カント派の時代(1910-22) 第2期:弁証法受容の時代(1922-34) 第3期:社会哲学「種の論理」の時代(1934-43) 第4期:統合と宗教哲学の時代(1944-62) 第4期が「統合と宗教哲学の時代」となっていることに注意して欲しい。この名称の下線 部分以外は、従来の田辺研究者のものと大きくは違わない。第1期を氷見のように「カント 批判主義」の時代とせず、 「数理哲学」と、新カント派の時代としたのは、新カント派 Marburg 学派を代表する哲学者 Hermann Cohen の「微分の哲学」が田辺に与えた影響の大きさを考 慮し、また、これが田辺哲学における「数理哲学」の源泉となったと考えるからである(注 2) 。しかし、これは第2期がカント哲学を継承する批判主義の時代であるという点で氷見 の分類名と本質的には変らない。また、第2期、第3期についても同様である。 しかし、第4期のみは、氷見の意見と些か異なる。この時期は、第2回資料でも説明した ように、数少ない田辺哲学についての研究書が主に扱う宗教哲学や文学論の時代であるが、 同時にそれは第1期に比肩するような「数理哲学」 「科学哲学」の時代なのである。 その代表が「数理の歴史主義的展開」であり、これにより田辺哲学の「種の論理」の「種」 以外のもうひとつの特徴「絶対媒介の弁証法」が彼の「数理哲学」と統合される。そして、 理論的基礎付けを得た田辺は1955年(昭和30年)には、彼の弁証法的「数理哲学」に基づ き、新物理学の提案である『理論物理学新方法論提説』『相封性理論の弁証法』を発表す 1正確に言えば「懺悔道」という第4期の哲学は、敗戦と退官の直前に始まっている。 | 10 る。これらは「数理の歴史主義的展開」とともに、田辺哲学のなかでも、最も科学者・数 学者の「同情を得られなかった」ものであり、 「数理の歴史主義的展開」とともに、最も「合 理化」が困難あるいは不可能な著作である。しかし、それだけに逆に田辺が何を「欲して いたか」が強く現れており、その数学理解や哲学的内容の妥当性を無視すれば、西谷が言 うとおり田辺の思考方法を理解するには重要な資料となるのである。 この時代は彼の宗教的哲学や文学論の時代でもあるが、「数理哲学」・「科学哲学」の 視点からみれば、この時代は田辺の絶対弁証法がついに数理と完全に統合され新物理学へ も応用される「統合」の時代である。そのため「統合と宗教哲学の時代」としたのである。 ただし、正確には宗教にも括弧をつけて「宗教哲学」とするべきかもしれない。 「種の論理の意味を明にす」で、田辺はこの「統合」をすでに種の論理の初期に試みた と書いている(注3)。しかし、その記述からは、その当時彼がそれに成功したと考えたか どうかが明瞭でない。「数理の歴史主義的展開」の記述からすると、物理は別として、数 理については、田辺が満足できる理論は、種の論理の時代には構築できなかったと考える べきだろう。 以上のような視点からは、田辺哲学の発展は以下のように図示できる。 数理・科学哲学と 弁証法受容 社会哲学「種の 統合と宗教哲 新カント派の時代 の時代 論理」の時代 学の時代 「数理哲学」 Reference [1] 田邊文庫目録/京都大学文学部図書室編.京都大学文学部図書室,1964, NCID:BN01722913。 [2] 田邊文庫目録/群馬大学付属図書館学芸学部分館編.1 洋書篇,2 和漢 書篇.--群馬大学付属図書館学芸学部分館, 1965. NCID: BN0172301X [3] 武内義範他編:田辺元思想と回想, 1991 筑摩書房 [4] 家永三郎:田辺元の思想史的研究、1974 法政大学出版局 [5] 西谷啓治他:田辺哲学とは、1991、燈影撰書 [6] 氷見潔:田辺哲学研究、1990 北樹出版 [7] 伊藤益:愛と死の哲学 -田辺元-、2005、北樹出版 [8] 細野昌志:田辺哲学と京都学派―認識と生、2008、昭和堂 [9] 田辺元の思想‐没後 50 年を迎えて、2012 年 1 月号「思想」 、岩波書店 [10] 中沢新一著、フィロソフィア・ヤポニカ, 集英社 2001, 講談社学術文庫, 2011 [11] 合田正人著、田辺元とハイデガー:封印された哲学(PHP新書)2013 [12] 田辺元・唐木順三往復書簡、筑摩書房、2004. | 11 [13] 田辺元・野上弥生子往復書簡、岩波書店、2002. [14] 林晋、 「数理哲学」としての種の論理 -田辺哲学テキスト生成研究の試み(一)-, 京都 大学文学研究科、日本哲学史研究室紀要「日本哲学史研究」第7号、2010 年 9 月、pp.40-75 , 林晋ブログ、2010 年 11 月 10 日の投稿、論文『「数理哲学」としての種の論理』 、で公開中。 [15] 林晋、2011 年度 西田・田辺記念講演「種の論理再考―数理思想史の観点から」 、林晋 ブログ、2011 年 07 月 28 日の投稿、西田・田辺記念講演会2011「種の論理再考―数理 思想史の観点から」レジュメ、で公開中。 [16] 林晋、田辺元の「数理哲学」、林晋ブログ 2012 年 8 月 30 日投稿、田辺元の「数理哲 学」 、にて公開中。 [17] 林晋、資料紹介 情報の宝庫 二つの田辺文庫、林晋ブログ 2012 年 8 月 30 日投稿、 情報の宝庫 二つの田辺文庫、にて公開中。 [18] 林晋「澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について―田辺哲学テキスト生成研究の試み (二)―」京都大学大学院文学研究科日本哲学史専修紀要「日本哲学史研究」9 号、2012 年 10 月、pp.23-74、林晋ブログ 2013 年 2 月 2 日投稿、完全版「澤口昭聿・中沢新一の多 様体哲学について―田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)―」 、にて公開中。 注 注1.田辺には子供がなかった。また、夫人はすでに死去していた。 注2.京大に蔵書がないという分配条件からすれば、これは京大田辺文庫に寄贈されるべ きであり、何故、群馬大田辺文庫にこれが収蔵されたかは分からない。田辺の山荘は群馬 大学に寄贈されたため、蔵書として認識されず、山荘に置かれていたこれらの文書が田辺 の没後に田辺文庫に追加された可能性もありそうである。また、京大文学部図書館には田 辺の書簡が数点収蔵されているが、これらは日本哲学史専修、情報・史料学専修が後に購 入したものである。
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