越中国の南北朝時代(暫定最終稿,201511.22更新…ミス修正)

越中国の南北朝時代
| 大田保の戦いをめぐって |
中島 信之
1
はじめに
を占めていた。…(中略)…。南北朝時代,越中守護
に補任された桃井直常ただつねは当地を拠点とし,勢力
このたび,五十嵐俊子さんからご下問:
を扶植した。50 年(観応 1),いわゆる〈観応の擾乱〉
「今、私の関心は、永和 3 年の大田保の戦いです。
が起こると,足利直義党であった直常は越中の武士を
守護は、在京で、将種1 が国人と戦ったのですね。
・
・
・。
率いて幕府軍と戦う。しかし直義は毒殺され,その後
大田保は管領細川氏の領地。そこに桃井与党が組み
も直常は激しく幕府に抵抗したが,69 年(応安 2)の
込む。
・
・」
放棄を最後に消息を絶ってしまう。直常に従って戦っ
があった。このところ室町時代について調べていたの
た武士たちの所領はことごとく没収され,幕府の御料
で,事のついでにちょっとながめるのも悪くないな,
所・禅院領・あるいは奉公衆の所領に充てられた。大
と思った次第。
田保もその例外でなく,管領家の一つであった細川氏
の所領として戦国時代まで伝えられていく。
(『富山大
2
百科事典』,上,北日本新聞社.1994,p.282)。
大田保の戦い
大田保の戦いついてもっとも詳しく知りえたのは『誰
永和 3(西暦 1377)年とは
3
でも読める日本中世史年表』[3] であった。すなわち
以上のような次第で,大田保の戦いそのものについ
6 月 越中守護斯波義将の守護代、国人と合戦し、
ては,これ以上の情報は得られそうにない。
国人が逃げこんだ細川頼之所領を焼き払う。
そこで,永和 3(西暦 1377)年ころの全国の様子,
8 月 8 日 越中の合戦により,守護斯波義将2 と頼
之が対立し,洛中騒然。
越中国の様子を見て,大田保の戦いの背景を知ること
にしよう。
とある。カッコして『後愚昧記』と出典を引く。これ
は三条公忠3 が表した日記で延文 6(1361)年から永徳
3.1
3(1383)年までの | 一部欠けるが | かなりの部分
が伝存している(とのことである)。
時代背景
大田保の戦いがあった永和 3(西暦 1377)年は,鎌
興味深いのは,書き手・公忠が自分で見聞した 8 月
倉幕府(北条政権)が倒れて(元弘 3(1333)年)か
の事件は 8 日と日付が記されているが,伝聞にすぎな
ら 44 年,尊氏が(北朝天皇による)征夷大将軍宣下
い越中の事件は 6 月と日付がないことである。
を受けて((北朝年号で)暦応元(1338)年)からで
これとほぼおなじ(だが少し簡略な)記載が新田 [2]
も僅々39 年にすぎない。
の年表(p.335)にあった。本文(p.255)はもっと詳
足利の政権は尊氏・直義兄弟の二頭政治として始まっ
しい。とくに,年表には守護代としかないが,本文で
た。すなわち,
「尊氏は主従的支配権を握り,直義ただ
は守護代の名を,義将の弟の斯波義種としている(ど
よしは統治権を握った」
(佐藤
こで見つけてきたのだろうか?)。
権限の使い分けは 2 人の性格には合っていたようだ
これら 2 つの記事を見るに,事件を記した資料はほ
が,やはり無理だったらしく,やがて 2 人のあいだは,
かにはなさそうである。
不協和音に始まり,不和,そして対立にと進んでいっ
た。この幕府のというか,足利家の内訌を観応の擾乱
大田保おおたのほ
(1351{3 年)とよぶ。
現富山市太田を中心とする広大な庄園。……。越中
擾乱は尊氏・直義兄弟の直接対決でなく,尊氏の執
のほぼ中央にあり,軍事・交通などの面で重要な位置
事高師直とのあいだで始まった(代理戦争である)。
1 斯波義将の弟の義種のことかも。
2 よしゆき
または
[1],p.175)。こういう
直義は観応元(1350)年 10 月,
(危険を察知して)
「京
よしまさ。
都をのがれて大和に走り,ついで……河内の石川城に
3 1324{84
1
入った。直義の……呼びかけに応じて,細川顕氏・石
元(1362){66)。清氏は謀反の疑いを受けて失脚した
塔頼房・桃井直常ら、もとからの直義党が続々と兵を
([1],p.369)。謀反が事実だったかどうかははっきり
挙げた。」([1],p.270)これに「観応 2 年正月……越
しないが,佐藤 [1] は,この時期もっとも力をもって
中から攻め上った桃井は…」とつづく。2 月に師直兄
いた佐々木導誉(近江北半の守護)の謀略であったか
弟をはじめ高一族は討たれ前半戦は終わった。いよい
もしれない,と書く(p.368)。
よ尊氏と直義との対決は不可避となった。
義 将 は 就 位 時 に は 13 歳 で ,父 高 経 が 後 見 し た
擾乱の後半は観応 2 年 7 月,直義は尊氏とその嫡子・
(p.370)。執事が管領とよばれるようになったのはお
義詮の挟み撃ちを避けて,京都を出奔した。「このと
およそこのころからである。貞治 5 年,高経の失政に
き,直義と行をともにしたのは,桃井・斯波・畠山・山
より義将(親子)は管領の職を追われた(同,p.380)。
名など,……直義党の武将は全部、……」
(p.284)。そ
の後,
「直義は敦賀をたって北陸を通って関東に入り、
1 年以上空位がつづいたのち貞治 6(1367)年,細川
頼之が管領に任じられた(1379 年まで,同,p.384)。
11 月 15 日、……鎌倉に達した。」(p.287)
頼之は清之4 の従兄弟である。かれが管領職に就き,義
翌文和元(1352)年正月,尊氏も鎌倉に入り直義は
満が将軍になって 1 月たらずのうちに義詮が没した。
降伏した。2 月直義は死亡した(尊氏に毒殺されたと
頼之が事実上の幕府の最高責任者になった。かれは管
も)。幕府は尊氏を頂点とする体制で一応決着した。
領就任と同時に反斯波人事をおこない,斯波派排斥を
試みた…(同,p.436)。
だが,
「直義の養子直冬を直義の後継者と仰ぐ直義党
は健在で」
(同,p.289)あり,まだ統一した体制には
「…一時越前に逼塞していた斯波義将は,貞治 6
ほど遠かった。
(1367)年 7 月に京都に復帰し,管領として幕政を主導
する細川頼之に対して,隠然たる対抗勢力を形づくって
地方,とくに越中は?
いた。両者の対立が表面化したのは永和 3(西暦 1377)
(文和年間 1352{55)「北陸では尊氏を敵視するこ
年の大田保の事件であった(新田 [2],pp.253{55)。
ともっとも激しい越中の桃井、直義が股肱と頼んだ越
この一件を通じて,
「義将に対する期待は、頼之の
後の上杉が依然健在であり……。」([1],p.355)
執政に対する不満を吸収するかたちで次第に増幅さ
(貞治 5(1366)年,斯波が失脚すると)斯波の守
れていったようである。……反頼之派の武将たち公然
護職は越前・若狭・越中三国とも没収されて,越前に
と頼之の排斥を唱え、……。義満は彼らの要求を退け
は…畠山義深,若狭には…一色光範,越中には…桃井
て……大和在陣の諸将に帰京を命じたが、義将は召還
直常の弟直信がそれぞれ任命された。高経の病死後,
に従わず、義満は義将の越中守護職を罷免した。しか
義将の帰参を許して,越前の守護を義将に返した([1],
し、」義将をはじめ諸将が帰京すると、義満は彼らを
p.383)。その後,越中の桃井直信は 1 年余のちの応安
元(1368)年 2 月失脚,越中守護は斯波義将が返り咲
赦免した。「諸将は義満邸を包囲して頼之の罷免を迫
いた。康暦元(1379)年に畠山基国に交代するまで。
の結果、頼之は分国の四国に下り、管領には斯波義将
(『富山大百科事典』上,1994,北日本新聞社,p.221)
が任じられた。これを康暦の政変(康暦元(1379)年
り、閏四月、義満はついに頼之罷免の断を下した。こ
と呼ぶ。(同,p.255)
3.2
1377 年前後の管領を一覧表にすると,以下のとお
りである。
政権を担ったのは
以下はおもに佐藤 [1] による。
管領の年表
1359 細川清之
1362 斯波義将
〔天皇〕 南朝天皇は,96 代後醍醐- 97 代後村上
を承けて 98 代長慶天皇が 1368 年 3 月に践祚(1383
年まで)。北朝は北朝 4 代後光厳を承けて北朝 5 代後
1367
1379
細川頼之
細川頼元
に譲る 1394 年まで),同時に細川頼之を管領に任じ
1391
1393
た。そして,義詮は 12 月に死去した。
1398
畠山基国
円融天皇が 1371 年に践祚(1383 年まで)。
〔将軍〕
2 代将軍義詮は,応安元(1368)年 11
月に,10 歳の 3 代将軍義満に位を譲り(4 代将軍義持
斯波義将
斯波義将
義満は,反目し合う斯波氏と細川氏を交互に管領の座
管領職をめぐる政争
に就け,対立をあおったのだという。
管領はもと執事とよばれていた。執事の最後が細川
清氏(1358{61)で,斯波義将がこれを継いだ(貞治
4 清之は細川氏の嫡流である。
2
3.3
越中国と桃井一族
尊氏になったのは,延元 2(1337)年,奈良般若坂で
北畠顕家を破るが,尊氏に賞されなかったから(『富
「室町幕府の守護配置は,……,畿内近国は、足利
山百科大事典』,下,p.965)という。〕
一門と根本被官および早くから尊氏と行動を共にした
1369・応安 2・正平 24:4 月 28 日 桃井直常,越
中に挙兵し能登に侵入(得田文庫)。
佐々木・赤松・土岐・山名らの少数の外様で固めたとい
われる。越中は畿内近国方の守護配置に属した。」
(『富
1371・応安 4・建徳 2:7 月 18 日 越中守護斯波義
将の兵,桃井直常を破る(祇園執行日記)。飛騨へ撤
山大百科事典』上,p.221)。越中国の守護は 1363{66
年が斯波義将,67{68 年が桃井直信,68{79 年がふた
兵,消息不明となる(Wikipedia)。桃井一族の勢力
たび斯波義将であった。
は,少なくとも越中国からは,完全に一掃された。
1369 年から 71 年にかけては,以下の Wikipedia の
桃井直常・直信の消息
記事7 が参考になった。
〔Wikipedia 桃井直常の項〕桃井氏は下野の足利氏
の支族で,上野群馬郡桃井を苗字とする。直常の生年
やがて正平 22 年(1367 年)に父が失意の中没する
は不詳。足利尊氏に従い、延元元(建武 3・1336)年
と、まもなく義将は幕府より赦免され、再び越中守護
頃に下野・常陸で北畠顕家と合戦したことが資料上の
に補任された。越中守護に再任した義将は、長年にわ
初見である。直常の没年は 1376 年か?弟直信の生没
たって同国に勢力を張る桃井直常・直信(前越中守護)
年は不明。
兄弟の討伐を推し進めていく事になる。桃井兄弟は建
以下『誰でも読める日本中世史年表』[3] による。そ
武年間から活躍する武将であり、特に兄の直常は足利
れ以外のものはその旨を記す。年号は西暦,北朝,南
直義・直冬の強力な与党として、幾度となく幕府を苦し
朝の順とする。
めた猛将と知られていた。これに対して義将は越中・能
1351・観応 2・正平 6:1 月 15・16
登等の北陸勢を率いて桃井軍に挑み、正平 24 年(1369
桃井直常,入
年)10 月には直常の篭る松倉城を攻略した。落ち延
京し,足利尊氏・義詮を播磨に逐う(園太暦5 )。
びた直常ら桃井一族は、翌建徳元年(1370 年)に婦負
5 月には桃井直常が直義を訪ねた帰路に襲撃される
事件が起きている(新田 [2],p.164)。
郡長沢において決戦を挑んだが、この合戦で義将は直
常の子直和を敗死させるなど大勝利を手にした。敗れ
…直義は,8 月 1 日未明に京を脱出し,若狭を経て
た桃井一族は、南朝勢力や飛騨の姉小路氏の支援を受
越前国に入った。直義に従った者は,斯波高経・上杉朝
けてなおも抵抗を試みるものの、建徳 2 年(1371 年)
定・桃井直常・……かねてより直義派の武士たち……
の五位荘の合戦で吉見氏などに敗れた以降は斯波氏に
(同,p.165)。
駆逐され、ここに越中は幕府軍に完全に制圧された。
(直義は翌年 2 月 26 日急死)…・桃井直常・…ら
困難と思われた越中平定と桃井追討を成し遂げた義
は南朝方に転じて,なおしばらくにわたって尊氏・義
将は諸侯中でもその名声を高め、その後は義詮正室で
詮の悩みの種となりつづける(同,167)。
同族でもある渋川幸子に接近してこれと結ぶなど幕府
1354・文和 3・正平 9:12 月 24 日 直冬,桃井直
常らが京都に迫り,尊氏,後光厳天皇を奉じて近江武
内での基盤を着実に固めていく。この頃、幕政を主導
していたのは若い 3 代将軍足利義満を補佐していた細
佐寺に逃れる(柳原家記録)。
川頼之であったが、義将は守護国である越中や、越前
1355・文和 4・正平 10:1 月 16 日,22 日 桃井直
常ついで足利直冬ら入京(園太暦)。
国内の所領において国人と守護代との騒動などから頼
之と対立することもあり、貞治の変以来の因縁もあっ
1362・貞治元・正平 17:5 月 22 日 幕府,桃井直
常討伐中の越中守斯波氏らの軍に兵を増派(前田家所
たために反頼之派の旗頭となっていく。この勢力には
道誉の没後に頼之と不和になった京極高秀(道誉の子)
蔵文書・太6 )
も加わり、次第にその勢力を拡大させていった。
1366・貞治 5・正平 21:
(斯波高経・義将親子失脚)斯
波氏の守護職は没収され,越中には……桃井直常の弟
『祇園執行日記』によれば,直信は応安 5・文中元・
直信が…任命された。/桃井兄弟は文和 4 年(1355)
1372 年に,六角室町に宿所をかまえ在京していた,と
に帰国したのちも天下三分の再現をねらって,機を見
いう。
ては兵を起こして,幕府を悩ましてきた,あなどりが
◎永和 3(1377)年,桃井兄弟は,兄直常はすでに
たい存在であった(佐藤 [1],p.383)。
〔桃井兄弟が反
死亡,弟直信は数年前には京に住んでおり,の大田保
5 太政大臣洞院公賢の日記。公賢が中園太政大臣といわれたこと
からくる。延慶 2(1309)年少し前から延文 4(1359)年少しあと
まで。
6 『太平記』の略。
の事件とは関わりをもったとは思えない。
7 この記事の出典は不明である。
3
参考文献
[1] 佐藤進一,日本の歴史 9,南北朝の動乱,中央公論新
社,1974
[2] 新田一郎,太平記の時代,日本の歴史 11,講談社学術
文庫,2009
[3] 吉川弘文館編集部,
『誰でも読める日本中世史年表』,
2007,吉川弘文館
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