越中国の南北朝時代 | 大田保の戦いをめぐって | 中島 信之 1 はじめに を占めていた。…(中略)…。南北朝時代,越中守護 に補任された桃井直常ただつねは当地を拠点とし,勢力 このたび,五十嵐俊子さんからご下問: を扶植した。50 年(観応 1),いわゆる〈観応の擾乱〉 「今、私の関心は、永和 3 年の大田保の戦いです。 が起こると,足利直義党であった直常は越中の武士を 守護は、在京で、将種1 が国人と戦ったのですね。 ・ ・ ・。 率いて幕府軍と戦う。しかし直義は毒殺され,その後 大田保は管領細川氏の領地。そこに桃井与党が組み も直常は激しく幕府に抵抗したが,69 年(応安 2)の 込む。 ・ ・」 放棄を最後に消息を絶ってしまう。直常に従って戦っ があった。このところ室町時代について調べていたの た武士たちの所領はことごとく没収され,幕府の御料 で,事のついでにちょっとながめるのも悪くないな, 所・禅院領・あるいは奉公衆の所領に充てられた。大 と思った次第。 田保もその例外でなく,管領家の一つであった細川氏 の所領として戦国時代まで伝えられていく。 (『富山大 2 百科事典』,上,北日本新聞社.1994,p.282)。 大田保の戦い 大田保の戦いついてもっとも詳しく知りえたのは『誰 永和 3(西暦 1377)年とは 3 でも読める日本中世史年表』[3] であった。すなわち 以上のような次第で,大田保の戦いそのものについ 6 月 越中守護斯波義将の守護代、国人と合戦し、 ては,これ以上の情報は得られそうにない。 国人が逃げこんだ細川頼之所領を焼き払う。 そこで,永和 3(西暦 1377)年ころの全国の様子, 8 月 8 日 越中の合戦により,守護斯波義将2 と頼 之が対立し,洛中騒然。 越中国の様子を見て,大田保の戦いの背景を知ること にしよう。 とある。カッコして『後愚昧記』と出典を引く。これ は三条公忠3 が表した日記で延文 6(1361)年から永徳 3.1 3(1383)年までの | 一部欠けるが | かなりの部分 が伝存している(とのことである)。 時代背景 大田保の戦いがあった永和 3(西暦 1377)年は,鎌 興味深いのは,書き手・公忠が自分で見聞した 8 月 倉幕府(北条政権)が倒れて(元弘 3(1333)年)か の事件は 8 日と日付が記されているが,伝聞にすぎな ら 44 年,尊氏が(北朝天皇による)征夷大将軍宣下 い越中の事件は 6 月と日付がないことである。 を受けて((北朝年号で)暦応元(1338)年)からで これとほぼおなじ(だが少し簡略な)記載が新田 [2] も僅々39 年にすぎない。 の年表(p.335)にあった。本文(p.255)はもっと詳 足利の政権は尊氏・直義兄弟の二頭政治として始まっ しい。とくに,年表には守護代としかないが,本文で た。すなわち, 「尊氏は主従的支配権を握り,直義ただ は守護代の名を,義将の弟の斯波義種としている(ど よしは統治権を握った」 (佐藤 こで見つけてきたのだろうか?)。 権限の使い分けは 2 人の性格には合っていたようだ これら 2 つの記事を見るに,事件を記した資料はほ が,やはり無理だったらしく,やがて 2 人のあいだは, かにはなさそうである。 不協和音に始まり,不和,そして対立にと進んでいっ た。この幕府のというか,足利家の内訌を観応の擾乱 大田保おおたのほ (1351{3 年)とよぶ。 現富山市太田を中心とする広大な庄園。……。越中 擾乱は尊氏・直義兄弟の直接対決でなく,尊氏の執 のほぼ中央にあり,軍事・交通などの面で重要な位置 事高師直とのあいだで始まった(代理戦争である)。 1 斯波義将の弟の義種のことかも。 2 よしゆき または [1],p.175)。こういう 直義は観応元(1350)年 10 月, (危険を察知して) 「京 よしまさ。 都をのがれて大和に走り,ついで……河内の石川城に 3 1324{84 1 入った。直義の……呼びかけに応じて,細川顕氏・石 元(1362){66)。清氏は謀反の疑いを受けて失脚した 塔頼房・桃井直常ら、もとからの直義党が続々と兵を ([1],p.369)。謀反が事実だったかどうかははっきり 挙げた。」([1],p.270)これに「観応 2 年正月……越 しないが,佐藤 [1] は,この時期もっとも力をもって 中から攻め上った桃井は…」とつづく。2 月に師直兄 いた佐々木導誉(近江北半の守護)の謀略であったか 弟をはじめ高一族は討たれ前半戦は終わった。いよい もしれない,と書く(p.368)。 よ尊氏と直義との対決は不可避となった。 義 将 は 就 位 時 に は 13 歳 で ,父 高 経 が 後 見 し た 擾乱の後半は観応 2 年 7 月,直義は尊氏とその嫡子・ (p.370)。執事が管領とよばれるようになったのはお 義詮の挟み撃ちを避けて,京都を出奔した。「このと およそこのころからである。貞治 5 年,高経の失政に き,直義と行をともにしたのは,桃井・斯波・畠山・山 より義将(親子)は管領の職を追われた(同,p.380)。 名など,……直義党の武将は全部、……」 (p.284)。そ の後, 「直義は敦賀をたって北陸を通って関東に入り、 1 年以上空位がつづいたのち貞治 6(1367)年,細川 頼之が管領に任じられた(1379 年まで,同,p.384)。 11 月 15 日、……鎌倉に達した。」(p.287) 頼之は清之4 の従兄弟である。かれが管領職に就き,義 翌文和元(1352)年正月,尊氏も鎌倉に入り直義は 満が将軍になって 1 月たらずのうちに義詮が没した。 降伏した。2 月直義は死亡した(尊氏に毒殺されたと 頼之が事実上の幕府の最高責任者になった。かれは管 も)。幕府は尊氏を頂点とする体制で一応決着した。 領就任と同時に反斯波人事をおこない,斯波派排斥を 試みた…(同,p.436)。 だが, 「直義の養子直冬を直義の後継者と仰ぐ直義党 は健在で」 (同,p.289)あり,まだ統一した体制には 「…一時越前に逼塞していた斯波義将は,貞治 6 ほど遠かった。 (1367)年 7 月に京都に復帰し,管領として幕政を主導 する細川頼之に対して,隠然たる対抗勢力を形づくって 地方,とくに越中は? いた。両者の対立が表面化したのは永和 3(西暦 1377) (文和年間 1352{55)「北陸では尊氏を敵視するこ 年の大田保の事件であった(新田 [2],pp.253{55)。 ともっとも激しい越中の桃井、直義が股肱と頼んだ越 この一件を通じて, 「義将に対する期待は、頼之の 後の上杉が依然健在であり……。」([1],p.355) 執政に対する不満を吸収するかたちで次第に増幅さ (貞治 5(1366)年,斯波が失脚すると)斯波の守 れていったようである。……反頼之派の武将たち公然 護職は越前・若狭・越中三国とも没収されて,越前に と頼之の排斥を唱え、……。義満は彼らの要求を退け は…畠山義深,若狭には…一色光範,越中には…桃井 て……大和在陣の諸将に帰京を命じたが、義将は召還 直常の弟直信がそれぞれ任命された。高経の病死後, に従わず、義満は義将の越中守護職を罷免した。しか 義将の帰参を許して,越前の守護を義将に返した([1], し、」義将をはじめ諸将が帰京すると、義満は彼らを p.383)。その後,越中の桃井直信は 1 年余のちの応安 元(1368)年 2 月失脚,越中守護は斯波義将が返り咲 赦免した。「諸将は義満邸を包囲して頼之の罷免を迫 いた。康暦元(1379)年に畠山基国に交代するまで。 の結果、頼之は分国の四国に下り、管領には斯波義将 (『富山大百科事典』上,1994,北日本新聞社,p.221) が任じられた。これを康暦の政変(康暦元(1379)年 り、閏四月、義満はついに頼之罷免の断を下した。こ と呼ぶ。(同,p.255) 3.2 1377 年前後の管領を一覧表にすると,以下のとお りである。 政権を担ったのは 以下はおもに佐藤 [1] による。 管領の年表 1359 細川清之 1362 斯波義将 〔天皇〕 南朝天皇は,96 代後醍醐- 97 代後村上 を承けて 98 代長慶天皇が 1368 年 3 月に践祚(1383 年まで)。北朝は北朝 4 代後光厳を承けて北朝 5 代後 1367 1379 細川頼之 細川頼元 に譲る 1394 年まで),同時に細川頼之を管領に任じ 1391 1393 た。そして,義詮は 12 月に死去した。 1398 畠山基国 円融天皇が 1371 年に践祚(1383 年まで)。 〔将軍〕 2 代将軍義詮は,応安元(1368)年 11 月に,10 歳の 3 代将軍義満に位を譲り(4 代将軍義持 斯波義将 斯波義将 義満は,反目し合う斯波氏と細川氏を交互に管領の座 管領職をめぐる政争 に就け,対立をあおったのだという。 管領はもと執事とよばれていた。執事の最後が細川 清氏(1358{61)で,斯波義将がこれを継いだ(貞治 4 清之は細川氏の嫡流である。 2 3.3 越中国と桃井一族 尊氏になったのは,延元 2(1337)年,奈良般若坂で 北畠顕家を破るが,尊氏に賞されなかったから(『富 「室町幕府の守護配置は,……,畿内近国は、足利 山百科大事典』,下,p.965)という。〕 一門と根本被官および早くから尊氏と行動を共にした 1369・応安 2・正平 24:4 月 28 日 桃井直常,越 中に挙兵し能登に侵入(得田文庫)。 佐々木・赤松・土岐・山名らの少数の外様で固めたとい われる。越中は畿内近国方の守護配置に属した。」 (『富 1371・応安 4・建徳 2:7 月 18 日 越中守護斯波義 将の兵,桃井直常を破る(祇園執行日記)。飛騨へ撤 山大百科事典』上,p.221)。越中国の守護は 1363{66 年が斯波義将,67{68 年が桃井直信,68{79 年がふた 兵,消息不明となる(Wikipedia)。桃井一族の勢力 たび斯波義将であった。 は,少なくとも越中国からは,完全に一掃された。 1369 年から 71 年にかけては,以下の Wikipedia の 桃井直常・直信の消息 記事7 が参考になった。 〔Wikipedia 桃井直常の項〕桃井氏は下野の足利氏 の支族で,上野群馬郡桃井を苗字とする。直常の生年 やがて正平 22 年(1367 年)に父が失意の中没する は不詳。足利尊氏に従い、延元元(建武 3・1336)年 と、まもなく義将は幕府より赦免され、再び越中守護 頃に下野・常陸で北畠顕家と合戦したことが資料上の に補任された。越中守護に再任した義将は、長年にわ 初見である。直常の没年は 1376 年か?弟直信の生没 たって同国に勢力を張る桃井直常・直信(前越中守護) 年は不明。 兄弟の討伐を推し進めていく事になる。桃井兄弟は建 以下『誰でも読める日本中世史年表』[3] による。そ 武年間から活躍する武将であり、特に兄の直常は足利 れ以外のものはその旨を記す。年号は西暦,北朝,南 直義・直冬の強力な与党として、幾度となく幕府を苦し 朝の順とする。 めた猛将と知られていた。これに対して義将は越中・能 1351・観応 2・正平 6:1 月 15・16 登等の北陸勢を率いて桃井軍に挑み、正平 24 年(1369 桃井直常,入 年)10 月には直常の篭る松倉城を攻略した。落ち延 京し,足利尊氏・義詮を播磨に逐う(園太暦5 )。 びた直常ら桃井一族は、翌建徳元年(1370 年)に婦負 5 月には桃井直常が直義を訪ねた帰路に襲撃される 事件が起きている(新田 [2],p.164)。 郡長沢において決戦を挑んだが、この合戦で義将は直 常の子直和を敗死させるなど大勝利を手にした。敗れ …直義は,8 月 1 日未明に京を脱出し,若狭を経て た桃井一族は、南朝勢力や飛騨の姉小路氏の支援を受 越前国に入った。直義に従った者は,斯波高経・上杉朝 けてなおも抵抗を試みるものの、建徳 2 年(1371 年) 定・桃井直常・……かねてより直義派の武士たち…… の五位荘の合戦で吉見氏などに敗れた以降は斯波氏に (同,p.165)。 駆逐され、ここに越中は幕府軍に完全に制圧された。 (直義は翌年 2 月 26 日急死)…・桃井直常・…ら 困難と思われた越中平定と桃井追討を成し遂げた義 は南朝方に転じて,なおしばらくにわたって尊氏・義 将は諸侯中でもその名声を高め、その後は義詮正室で 詮の悩みの種となりつづける(同,167)。 同族でもある渋川幸子に接近してこれと結ぶなど幕府 1354・文和 3・正平 9:12 月 24 日 直冬,桃井直 常らが京都に迫り,尊氏,後光厳天皇を奉じて近江武 内での基盤を着実に固めていく。この頃、幕政を主導 していたのは若い 3 代将軍足利義満を補佐していた細 佐寺に逃れる(柳原家記録)。 川頼之であったが、義将は守護国である越中や、越前 1355・文和 4・正平 10:1 月 16 日,22 日 桃井直 常ついで足利直冬ら入京(園太暦)。 国内の所領において国人と守護代との騒動などから頼 之と対立することもあり、貞治の変以来の因縁もあっ 1362・貞治元・正平 17:5 月 22 日 幕府,桃井直 常討伐中の越中守斯波氏らの軍に兵を増派(前田家所 たために反頼之派の旗頭となっていく。この勢力には 道誉の没後に頼之と不和になった京極高秀(道誉の子) 蔵文書・太6 ) も加わり、次第にその勢力を拡大させていった。 1366・貞治 5・正平 21: (斯波高経・義将親子失脚)斯 波氏の守護職は没収され,越中には……桃井直常の弟 『祇園執行日記』によれば,直信は応安 5・文中元・ 直信が…任命された。/桃井兄弟は文和 4 年(1355) 1372 年に,六角室町に宿所をかまえ在京していた,と に帰国したのちも天下三分の再現をねらって,機を見 いう。 ては兵を起こして,幕府を悩ましてきた,あなどりが ◎永和 3(1377)年,桃井兄弟は,兄直常はすでに たい存在であった(佐藤 [1],p.383)。 〔桃井兄弟が反 死亡,弟直信は数年前には京に住んでおり,の大田保 5 太政大臣洞院公賢の日記。公賢が中園太政大臣といわれたこと からくる。延慶 2(1309)年少し前から延文 4(1359)年少しあと まで。 6 『太平記』の略。 の事件とは関わりをもったとは思えない。 7 この記事の出典は不明である。 3 参考文献 [1] 佐藤進一,日本の歴史 9,南北朝の動乱,中央公論新 社,1974 [2] 新田一郎,太平記の時代,日本の歴史 11,講談社学術 文庫,2009 [3] 吉川弘文館編集部, 『誰でも読める日本中世史年表』, 2007,吉川弘文館 4
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