132 133 134 135 136 137 ● JAPANESE ALPINE NEWS 2007 TATSUO 尾上 昇 (TIM) INOUE 執念のローツェ南壁冬季初登攀 2006 The First Ascent of Lopchin Feng Autumn 2009日本山岳会東海支部の快挙—田辺治君を偲ぶ Expedition to the Kangri Garpo East Mountains, Tibet 「日本山岳会東海支部の冬期ローツェ南壁登山隊は、三度目の正直でローツェ南壁の冬期 初完登に成功した。 ローツェ南壁は、世界第四位の高峰ローツェに直接突き上げる標高差 3300m の巨大岸壁 である。この壁は雪崩と落石が多く、取り付くだけで非常な危険にさらされ、また標高の 高い所で難しい登攀を強いられる。そしてメスナーやククチカ、プロフィといった世界の 強豪が挑んでは敗れ、過去 25 回の試みのうち成功したのは 1990 年のチェセンと旧ソ連隊 のみである。その後チェセンの成功は疑惑とされてしまったため、確実に登ったのは旧ソ 連隊のみだ。この難関を気象条件の尤も厳しい冬に挑もうというのである。冬は 1989 年、 プロフィとルカスのペアが試みたが、もちろん成功していない。 冬期登攀の問題点は、強風、低温、落石、落氷である。しかしその一方、雪が安定する ため雪崩の危険が少なく、登攀スピードも上がる。天候が安定するプレウィンターを使って、 短期速攻の極地法で登れば、成功の可能性はあると考えた。ルートは 8000m まで 1981 年 のユーゴスラビア・ルートをたどり、ここからチェセンが登ったとされる岩壁を右に大き く巻き、頂上の左肩に突き上げるクーロアールを予定した。春と秋のノーマルシーズンで は雪崩の通り路となるクーロアールを、プレウィンターを利用して突破しようというので ある。」(田辺 治) 「K2 の次どうする。」と田辺に声を掛けている自分にいささか呆れるのである。それに答 Map-1 Climbing route to Lopchin Feng えて「はあ、考えます。」とにやりと田辺が笑う。K2 の次だから、当然次も 8000m 峰のバ リエーションである。 しばらくして、田辺からかなりインパクトの強い計画が持ち出された。冬のローツェ南 壁である。早速、支部の常務委員会に諮られたが、直ちに賛同を得るという訳にはいかな かった。いうまでもない。冬のローツェのしかも南壁の登攀の可能性についてへの疑問の 声である。当然のことであろう。 ローツェ南壁は、過去 2 回登られた記録がある。1990 年秋の旧ソ連隊と 1990 年春のトモ・ チェセンの単独登攀である。その後、チェセンの記録は、疑惑の登攀とされ、その登頂が 疑問視されている。冬の記録は 1990 年 1 月、プロフィが 7300m に達したのみである。 常務委員会の田辺へのヒヤリングが度々行われた。むしろ冬の方が安全であると有利性 を説く田辺のタクティクスには、説得力があった。いつしか、誰もが何とかやれそうだと いう雰囲気になる。計画を 2001 年の 12 月と定めた。この年は、丁度、支部の設立 40 周年 の年に当たることから、支部設立 40 周年記念事業と冠を付けた。この時点では、まさか以 138 JAPANESE ALPINE NEWS 2007 ● 後 2003 年、2006 年と 3 回も登山隊をローツェに送るなどということは、夢想だにしなかっ TATSUO (TIM) INOUE た。 The First Ascent of Lopchin Feng 2001 年の隊は、結果的に全ての点で力不足といえた。隊員の実力不足というより、世界 Autumn 2009 Expedition to the Kangri Garpo East Mountains, Tibet 最大級の壁、しかも冬という特殊な条件下での対応への力量が不足していたのである。壁 の 7600m 地点で断念という結果に終わったが、これは次へという闘志と、次は登れるとい う確信を田辺を含めて隊員達に植え付けさせた。このことは、帰路、田辺からのカトマン ズからの私宛の電話で「余った装備は、次に備えてカトマンズにデポしておきます。」の一 言で充分窺い知れた。 それでも、使い果たした電池への充電期間は必要である。1 年をまたいで 2003 年に再挑 戦を決めた。やはり一度経験していることは強い。余裕を持って事に望むことが出来るの である。事実準備も登攀もスムーズに事は運んだ。なのに結果は、頂上まで 250m 余りを 残す 8250m 地点で敗退してしまった。結果論になるが、余りにも順調過ぎたのである。好 事魔多しという。余裕という魔がタイミングを狂わせてしまったのである。あと僅かで届 かなかった。 計画の最終段階では、焦りが重なり、幾度か危険な目に会っている。落石と凍傷の恐怖、 冬のヒマラヤの 8000m を越える壁の中での苛酷な登攀。ぎりぎりの際どい撤退劇と、ロー ツェ南壁は、その鋭い牙を最後に剥いたのである。 帰路のカトマンズからの田辺の私への電話である。 「余った装備売っ払います。」であった。 私としては、フラストレーションがたまる一方である。僅か 250m を残してローツェ南壁 を止めるのは、何としても悔しい。帰国早々の田辺をつかまえて、「次はどうするんだ。」 の私のこの問いに、田辺の答えは冷たかった。「3 回目は絶対死人が出ますよ。これ迄、1 人もやられなかったのが奇跡です。」であった。 Map-1 Climbing route to Lopchin Feng 私には、これ以上言葉を繋げることは、出来なかった。私が登るわけではないからである。 山は、やりたい山に、やりたい奴が行くのである。私には、待つことしか出来なかった。 田辺は、いつか必ず、首をもたげてくると。 田辺の心境が変化したのは、そんなに後ではなかった。ナンガパルバットのディアミー ル壁をすっきり登れた事がきっかけである。私の思惑より 1 年遅れたが、2006 年の 3 度目 の挑戦が決まった。私の立場からいえば、3 度目というのは、正直想像以上に厳しかった。 資金、隊員、物資どれをとっても準備の段階から苦労した。その変わりというわけではな いが、隊員としては、3 次が一番まとまっていた。そして 3 度目で、もう後は無いという不 退転の気持ちが、最終の粘りに通じたのであろう。やっと 3 度目の挑戦で冬のローツェ南 壁の初完登を果たしてくれた。終わってみれば、長いような短いような 6 年間であった。 死人はおろか、大した怪我人も一人も出さずに無事終えることが出来たことが、何にも 勝る勝利の勝鬨だといえよう。(数年後、世界的に屈指のヒマラヤン・クライマー、田辺治 はダウラギリで雪崩に遭遇、不帰の人となった。ご冥福をお祈りする。) 139
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