趣旨説明 1980 年代以降,ニホンジカは急激に増加し

●趣旨説明
1980 年代以降,ニホンジカは急激に増加し,当初は農業被害が問題とされたが,今や
北海道から九州まで日本各地の自然植生に大きな影響を与えるようになった。植生学会(2011)
によると,日本の約 50%の植生にシカの影響 が生じている。シカ問題の背景には人工林化や奥
山へのアクセス整備といった「オーバーユース」,農林水産物などの生物資源を利用しなくな
った 「アンダーユース」といった社会情勢,さらには天敵のオオカミ不在,地球温暖化,狩猟
者の高齢化など,複合的要因が関与している。生業としてのシカ狩り,あるいは生物資源とし
てのシカ活用が消滅しつつ ある現代,適正なシカの個体数管理は重要な課題である。
一方,植物群落を維持する「シカの生態的役割」やわれわれが想像し得ないような不可逆 的
な変化をもたらす「シカの脅威」について,われわれはまだ十分に理解していないともいえ
る。そこで森林生態系とシカの関係性を理解することによって,森林とシカと人間の暮らしに
関する現状を俯瞰しつつ、三者の持続的共存に向けて議論したい。
スピーカーには,植物生態学および動物生態学の研究者,そして狩猟者としてシカと森林に
向き合っている方々を招いた。フロアとの活発な議論を期待している。
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春日山照葉樹林におけるニホンジカの影響と生態系保全の視点
前迫ゆり(大阪産業大学大学院人間環境学研究科)
過剰なシカの採食は農林業被害のみならず,生態系攪乱を引き起こしているが,とくに 1990
年代以降,シカ個体群による森林生態系への影響は,日本はもとより世界的にも多く報告されて
いる(Gill 1992 ほか)。環境省の自然環境保全基礎調査によると, 1978 年から 2004 年の 25
年間にシカの分布域は約 1.7 倍に拡大し,シカは国土の約 40%に生息する。植生学会(2011)の
アンケート調査から,日本の約半分の植生にシカの影響が生じていることが明らかにされた
が,なかでも近畿地方におけるシカの植生への影響は甚大である。
植生保全のための管理手法としてシカ柵は各地で設置されているが,生物多様性の維持・増
大を目的として,植生と動物の相互作用のもとに成立している生態系をいかに維持しながら,
植生を回復するのかという命題の解決には至っていない。
春日野一帯で人間との関わりの中で生きてきた「奈良のシカ」は,1950 年代からリタ-(落ち
葉)食いが確認されており,成木はみられるが,稚樹はきわめて少なく,森林更新阻害が顕著に
みられる。不嗜好植物であるクリンソウやイズセンリョウなどへの採食も近年顕著であり,多
様性劣化は着実に進行している。文化的シンボルのシカと世界遺産春日山原始林の共生は可能
だろうか。森林の再生プロセス検証のために「シカ柵」を 2007 年と 2011 年に設置した。その
植生動態からニホンジカの植生への影響と今後の生態系保全について考えたい。
1
紀伊山地の森におけるシカの採食影響
松井 淳(奈良教育大学生物学教室)
紀伊山地の天然林では森林更新が停滞している。更新環境の確保と森林生態系の保全・再生
は、緊急に取り組むべき課題である。
大台ヶ原では 1980 年代からシカが増え、2000 年代初めには、推定生息密度は 40 頭/km2(局
所的に 100 頭/km2)をこえる超高密であった。環境省の自然再生事業による捕獲で、2014 年ま
でに 5~9 頭/km2 まで低下した。大峯山脈では最近までデータがなく、2008 年に下北山村前鬼の
針広混交林で 11~24 頭/km2 という数字が出された。貴重なシラビソ林のある弥山では 2009 年
に 50~60 頭/km2、その後捕獲実施下でも大きく乱高下しつつ 2014 年は 10~30 頭/km2 となっ
た。各地とも採食による生態系の改変が進行する密度レベルである。
どの地域でも絶滅危惧植物の減少、林床植生の衰退、剥皮による成木枯死と疎林化、ササ類
の消失と土壌流出、斜面崩壊などの問題が起こった。緊急対策として大規模な柵設置による植
生保護などが行われてきたが、森林更新の視点からは、林冠の空いた明るいギャップで成長し
て次世代を担う稚樹個体群の蓄積が必須である。柵内外の植生動態を比較する野外実験によ
り、ギャップに小規模柵を設置することで、稚樹の確保に一定の成果が期待できる見通しが得
られた。しかしその柵がいつ取り外せるかは、まだ先の課題である。
大阪府におけるシカの昔と今~保護対象から管理対象へ~
幸田良介(大阪府立環境農林水産総合研究所)
大阪府は全国でも有数の大都会というイメージばかりを持たれがちであるが、周辺部を森林
で囲われており、北部には多くのシカが生息する山間地域を有している。そして、全国と同様
に大阪府でも、シカによる農林業被害や森林植生への影響が大きな課題となっている。都市と
森林が非常に近接しているという特徴を有する大阪において、シカと人の関係はどのように変
化してきたのだろうか。その歴史を紐解くと、かつて大阪府のシカはその個体数を大きく減少
させ、1974 年からは全面的に捕獲が禁止されるなど「保護対象」として扱われてきたことが見
えてくる。その後 1980 年頃からはシカによる農林業被害が増加し始め、1994 年には本格的に狩
猟が再開された。しかしながら、その後もシカの個体数や分布域は徐々に増加・拡大し、近年
では毎年 1,000 頭前後のシカが捕獲されるに至っている。現在、大阪府では「大阪府シカ保護
管理計画」による対策が進められており、シカはかつての「保護対象」から一転して「管理対
象」として扱われるに至っている。
発表では大阪府域におけるシカを取り巻く状況の変遷について過去の文献情報を基に紹介す
るとともに、近年の森林植生への影響を含むシカ生息状況のモニタリング結果について報告
し、これからのシカと森と人のあるべき関係について考えたい。
2
シカ個体群の歴史から自然生態系保全を考える
揚妻直樹(北海道大学 FSC 和歌山研究林)
「この 40-50 年の間に、かつてないほどシカが異常増加し、日本の自然生態系を破壊してい
る。しかも、その破壊は不可逆的であり、二度と元の状態に戻らない可能性がある。この異常
増加の主な原因はオオカミ絶滅・地球温暖化・狩猟者減少などである。従って、人間が責任を
もってシカを本来の自然生態系にふさわしいレベル“適正密度”に管理する必要がある。」こ
れが多くの研究者や行政官そして、この問題に関心のある人々の共通認識であろう。しかし、
自然生態系の保全を考える場合には、長期的な視野が不可欠である。従って、今から 40-50 年
間だけでなく、もっと前の状況も踏まえておく必要がある。
そこで、私はもう少しだけ時代を遡って、日本各地のシカの生息状況を調べてみた。する
と、北海道から鹿児島までの多くの地域で、シカは本来かなり多く生息していたことが明らか
となった。この事実は、先に挙げたシカ異常増加の主原因には妥当性が乏しいことを示してい
る。さらに、日本本来の自然生態系、日本固有の生物多様性を維持するためには、多くのシカ
が生息している状態を前提に考える必要がでてきてしまった。本講演では自然生態系や生物多
様性を保全するためには、この過去の事実から、どんなことが考えられるか検討する。
屋久島におけるヤクシカの増加と森の変化
辻野 亮(奈良教育大学自然環境教育センター)
屋久島では多様な環境条件と豊かな降水によって類稀な森林生態系が形成され,固有種・絶
滅危惧種を含むさまざまな植物種が生育している.一方,屋久島に生息するヤクシカは,1940
年代頃には 1 万頭以上いたらしいが,1960 年前後は減少傾向にあり,1970 年代にはその絶滅が
危惧されるほど減少した.その後しばらくして,1990 年代頃から現在に至るまで増加傾向にあ
り,農林業被害や森林植生,絶滅危惧植物や固有植物種への影響などが問題視されている.最
も高密度で生息する屋久島西部の常緑樹林では推定生息密度は 100 頭/km2 を超え,植生に対し
て影響を及ぼしている.しかし,西部の常緑樹林における成木の森林構造はそれほど変化して
いないし,稚樹植生もそれなりに存在する.これには,体の小さいヤクシカ 1 頭が植生に与え
る影響は比較的少ないことと,主にリターに頼って生息していることが効いているのかもしれ
ない.
ヤクシカ増加の原因は,森林伐採や狩猟圧の歴史的な変遷によると推測されるものの,ヤク
シカの個体群動態と植生への影響が今後どうなるかは不確実である.屋久島の特徴である多様
な植物を守るための方策を検討してゆく必要があるだろう.
3
シカと食と人をつなぐ
手塚沙織・中野譲二(ジビエ本宮)
聞き手:渡邊三津子(奈良女子大学共生科学センター)
ジビエとは、狩猟によって獲られる野生鳥獣の食肉を指すフランス語であり、フランス料理
の定番食材として認知されてきた。我が国でも、古くから「もみじ鍋(シカ肉)」や「ボタン
鍋(イノシシ肉)」など、野生獣肉を使った料理が食卓に上ってきた。しかし、野生鳥獣と
人々の暮らしの距離は変化してきた。近年、狩猟者数の減少と比例するように、全国的にシカ
やイノシシなどの野生鳥獣が増加し、農作物などの被害が多く報告されるようになった。和歌
山県でも、平成 25 年の鳥獣被害総額は 3 億 3 千万円に上っている。また、野生鳥獣に田や畑を
荒らされてしまうため、特に高齢者の多い山間部では、営農意欲の減退や耕作放棄地の増加な
ど、金額には表れない影響も生じている。
田畑を荒らす野生鳥獣は獲らなくてはならないが、一方でジレンマもある。ただ命を奪うので
はなく食肉として活用できないか? 平成 23 年に、市の補助金制度を使って立ち上げられた和
歌山県田辺市の「ジビエ本宮」は、捕獲鳥獣の解体、精肉、加工処理から、獣肉販売・普及活
動を手掛けている。獣肉を野山に廃棄するのではなく、食肉として活用することで、農作物の
被害軽減と同時に、ジビエを通して地域振興につなげようという狙いもある。
「命あるものは丁寧に食べたい」――本報告の演者である手塚沙織さん(ジビエ本宮)の言
葉である。「食」と「いのち」のつながりに関する意識が希薄になって久しいが、本報告を通
して、あらためて人と野生動物との関係について考えてみたい。
第 18 回 紀伊半島研究会シンポジウム
「森林とシカと人の暮らしを考える」 要旨
編集発行
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奈良女子大学内
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発
行
2015 年 2 月 28 日
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