人を裁くな

うした当時の背景があったようなのです。
先週講壇
Ⅲ.大きな落とし穴
人を裁くな
2015年 11 月 15 日
松本雅弘牧師
レビ記19章13~18節
マタイによる福音書7章1~6節
Ⅰ.裁いてはならない?
今日の聖書の箇所は、
「山上の説教」の中でも
特に有名なイエスさまの教えです。
「人を裁いて
はいけません。あなたがたも裁かれないようにす
るためです」という言葉が出て来ますが、これは
ある意味で日常生活の中で、私たち自身が経験的
に習得している知恵をズバリと語っている言葉
のように思います。
ただ、ここに出てくるイエスさまの教えは、単
に人から批判されないために、人を批判しないよ
うにという意味なのでしょうか。そのようなこと
を心に留めながら今日の聖書の言葉に耳を傾け
ていきたいと思います。
Ⅱ.
「裁くな」と教えられた背景
「人を裁くな」という言葉は、当時、常に人々
を評価し、なおかつ、裁く立場に立たされていた
ファリサイ派や律法学者に向けて語られた言葉
だと言われています。ファリサイ派や律法学者の
人たちとは当時の支配者層です。律法や規則に精
通していましたし、また自分たちも精進した暮ら
し方をしていました。やるべきことはしっかりと
やる。それこそ、人から後ろ指を指されることな
どないように、真面目に、また人々の模範となる
生活をしていました。
ですから、ものの本によれば、イエスさまから
は目の敵のようにされていたファリサイ派の
人々ですが、当時の民衆からは、深い信頼を寄せ
られていたそうです。
しかし、問題は自分に厳しいだけではなくて、
同時に他の人々にも、とても厳しい人たちだった
のです。そうした人々にとって、他の人がのんき
にしているのを見ると、腹が立ってくるというこ
とがあるでしょう。つまり、彼らは自分たちが一
生懸命やっている分、周囲の人たちにもそれを要
求していたのです。いい加減に見える人、のんき
に見える人を許せない思いで見ていたのです。
ここでいう「人を裁くな」という教えには、こ
人を裁き、人の悪い所を指摘する時、私たちが
してしまうことと言えば、ちょうど、
「あなたの
目からおが屑を取らせてください」と言っている
ようなものだと、イエスさまは言われます。しか
も、
「このおが屑さえなければ、この人は幸せに
なれるのだから」と言った、あくまでも善意や親
切心、相手を思いやる気持ちから、
「取らせてく
ださい」と真面目に言っているわけです。これは、
言い換えれば人のことをとやかく言うというこ
とでもあるのです。
考えてみれば「おが屑」とは本当に小さな物で
す。仮に、そうした「おが屑」が目の中に入って
しまったら、本人はゴロゴロして痛いはず、涙も
止まらない。両手でまぶたを開いて鏡の前に近づ
けて見る。違和感はあるのですが、どこに「ちり」
があるのか、本人にも見つけることが出来ない。
それが「おが屑」です。
ところが、本人でさえ見えない「おが屑」を、
しっかりと見つけ、どういう種類の「おが屑」で
あるのかも言い当てることが出来るほどの確信
をもって「あなたの目からおが屑を取らせてくだ
さい」と言ってのけてしまうというのです。
イエスさまは、このように自信と確信をもって
言ってのける人に対して「偽善者よ、まず自分の
目から丸太を取り除け」と言われます。他人が問
題なのではなく自分が問題なのだ、人のことをと
やかく言う前に自分の課題と取り組むようにと
言われるのです。
先週もご紹介したあるセミナーの講師、青木仁
志さんがおっしゃっていました。
「過去の出来事
がその人をダメにするのではなく、過去の解釈が
人をダメにする。
」そして、
「人間は過去の産物で
はあるが、自ら選択しなければ、過去の犠牲者と
はならない。
」大事な言葉です。
カウンセリングの教えで、「変えることのでき
ないものが2つある」と言われます。1つは「他
人」
、そしてもう1つは「自分の過去」
。しかし、
同じくカウンセリングの場面で「変えることので
きるものも2つある」というのです。それは「自
分」と「過去の意味/解釈」です。
自分自身を理解するように、自分の丸太に気づ
くように、そして、それを取り除くようにと、こ
こでイエスさまは勧めています。
カウンセリングの言葉を使うならば、自分の課
題に気づき、それと取り組み始めるようにという
ことです。そうすると不思議なことに相手が変わ
ってくるのです。つまり、両者が変わってくる、
ということを約束しておられます。
ある夫婦が問題を抱えていて、二人の話を聞く
と、結局、互いを責め合っているのです。しかし、
第三者である私が双方の主張を聞いてみると、そ
れぞれに課題があることを知らされます。そして、
確かなことは、そのように互いを責め合っている
間は、何も起こらないということなのです。
多くの場合、私たちは自分の課題を自分の責任
として受けとめず、環境を責め、特に他人を責め
るのです。両親を責め、相手を責め、子どもを責め
ます。そして、これは誰もが経験することですが、
そうした場合、いっこうに事柄は良い方向には動
きません。
けれでも、ほんとうに不思議なのですが、片方
が、自分の丸太に気づき始めると、そこに変化が
起こってきます。私の方の出方が変わることで、
いつもの会話のパターンや喧嘩のパターンが崩
れ、そこには必ず変化が起こるからです。
そして、もう1つお話ししたいと思います。イ
エスさまは、たとえ明らかに相手に問題がある場
合にも、相手を裁く前に自分自身を振り返るよう
にと教えています。
私たちの日常生活の中には「敵」のように思え
る人もいるかもしれません。相手の人が明らかに
難しい人である場合もあるのです。そうした私た
ちに対してイエスさまは、「敵を愛しなさい」と
も言われます。
これについてある方がこんなことを語ってい
ました。人間をレタスに置き換えて考えてごらん
なさいと。例えば、レタス栽培をして、一生懸命
に肥料をやって、雑草を抜き、そして水をやって
育てるのですが、なかなかうまく育たなかった。
収穫はしたが、あまり出来の良いレタスではなか
った時に、あなたはどうするか考えてご覧なさい
というのです。
そのような時、そのレタスに向かって「何でう
まく育たなかったのか!」と言って責めるでしょ
うか? あるいは「何でお前は出来そこないな
の?」と言って裁くでしょうか。
そんなことはしないですね。むしろ、そのレタ
スを理解しようとします。「なぜ、こうなったの
だろうか」と理解しようとしますね。「私に出来
ることは何だろうか?」と、レタスを問題にする
代わりに、その為に私自身が出来ることを見つけ
ようとします。つまり、課題のある人を迎えた時
に、それを指摘するのではなく、理解するのです。
ちょうどレタスを見る時のように、相手を責めて
も仕方がないので、むしろ、その人が育った背景、
受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとす
る。すると、不思議なのですが、今まで難しいと
思ったその人に対しての見方が変わるというこ
とが起こり、そして、その人に対して優しくなれ
るのです。
Ⅳ.祝福された人間関係の秘訣―十字架の赦しの
前に生かされる
今日の説教に「人を裁くな」という題を付けま
したが、違った表現を使えば「祝福された人間関
係の秘訣」とでも言えるものです。
今までお話したことを一言でまとめるとする
ならば、まず私たちがすべきこと、それは、自分
を理解する、ということ。そして相手を理解する、
ということです。神さまの前に自分の丸太に気づ
かせていただくということです。
相手を変えることはできません。自分の過去も
動かないかもしれない。でも、自分を理解し、丸
太を取り除けることを始めると、日常の人間関係
のパターンに変化が起こる。すると、不思議なこ
とに相手の出方も変わってくるのです。
何よりも大切なことは、神さまがこの私をどの
ように見ていてくださるのか。それと同じように、
神さまが、私の隣人をどのように思っていてくだ
さるのかを知る、ということです。
教会に来ると必ず目にするものがあります。そ
れは十字架です。この十字架は人を処刑する時の
道具でした。でもクリスチャンは、この十字架を
キリスト教のシンボルとして本当に大切にして
きました。このことを一言で表した言葉がヨハネ
福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお
与えになったほどに、世を愛された。独り子を信
じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため
である。
」
つまり、私たちは赦され生かされている者同士
です。私たちが神さまからそれほどまでに愛され、
赦されている者であることを知ると、周囲を見る
私の見方が変わってくるのです。
私も赦され、私も愛されている者として生かさ
れているのだから、という優しい見方が与えられ
ます。そうした中で、本当の意味での豊かな人間
関係が与えられていくのです。お祈りいたします。