土方久功日記 第 31 冊 1942 年 7 月 14 日∼ 11 月 30 日(昭和 17 年) 解 説 この第 31 冊には,昭和 17 年( 1942 )7 月 14 日から 11 月 30 日までが収められている。 4 か月半しか収められていないのは,この第 31 冊が,89 頁までしかなく,他の半分の分 量しかないためである。しかし,この短い間,久功の身には,実に様々なことが起こり, 振り回されることも多かった。 南洋から内地へ帰り,4 か月たった。7 月 13 日は,久功の 42 回目の誕生日であった。久 功には何か期することがあったのであろうか,その翌日の 14 日から,日記を新らしい「大 学ノート」に改め,また,毎日のように近くにある柴山家に行って,書き物をすることに した。 『パラオの神話伝説』 , 『流木』の原稿をまとめるためであった。 21 日には,南洋庁の出張所に行き,退職願を提出した。それを受け,8 月 5 日,パラオ の商工課長より電報が届いた。内容は,パラオを去る前に話のあった, 「退職ニ際シ無給 嘱託ノ件」であった。久功は,翌日,電報を打ち,無給嘱託となることを受諾した。 6 日,土方玉子の百箇日の法要から帰ったら,留守中に太平洋協会の清野謙次博士が訪 れたとのこと。用件は,陸軍の司政官になってボルネオに行ってほしい。それで翌日 10 時に太平洋協会に承諾の返事を持ってきてほしい,と言い置いていったとのこと。あまり に突然の話である。 ボルネオ行は,その日のうちに決めねばならない,とのことなので,翌日の早朝,豪徳 寺の川名敬子のところへ行き,ボルネオ行の話があるが,断って来る,と言い,10 時に 太平洋協会へ行った。そこには,清野,平野両名が待構えていた。久功は,病気を理由に ボルネオ行を断った。しかし,清野等は,断られては困る,今度の北ボルネオの司政官人 選は太平洋協会から全部揃えることになっていて,しかも日数も切迫している。兎も角, 一応受諾してボルネオへ行ってもらいたい。体が悪くて堪えられないならば,行って直ぐ 帰って来てもよい,という。随分強引で無茶な話だが,断る術がない。そして久功は,遂 に履歴書をその場で書かされた。 その帰り,再び豪徳寺の川名敬子を訪れ,ボルネオ行を断れなかったことを伝えた。家 へ帰り,ボルネオ行を妹,弟に話したら,祝われたり,惜しまれたりされた。でも,久功 は,こうなったら,ボルネオへ行くしかない,と覚悟した。 ボルネオ行の問題を抱えながら,久功は 8 月 8 日から 25 日まで,柴山昌生と綾子,道 隆と 4 人で,長野の戸隠へ行った。凉しい戸隠で,森の中の散歩を楽しみ,手紙を書き, 書き物をし,戦中とは思えぬほど,長閑で,楽しい,充実した日々を過ごした。16 日に は,宝光社の祭礼を見た。 戸隠から戻った久功は,27 日,太平洋協会へ行った。平野,清野両名に面談し,ボル ネオ行は 10 月中旬になるだろう,と聞いた。9 月 3 日も,太平洋協会に行き,マレー語 の講習を受け,その後,近くのホテルでボルネオへ調査へ行く人達との顔合わせがあった。 509 遠くの人 4 人程が欠席したが,協会側と合わせて 20 人程が集まった。 戸隠へ行く前,8 月 5 日,久功は中島敦を訪ねた。この日の『日記』には, 中島ノ所ニ原稿ヲモッテ行キ,十四時一緒ニ渋谷ニ出テ来ル。 と記されている。訪ねた時間が『日記』には書かれていないが,久功の 8 月 1 日付の手 紙には,訪問の時間が「朝ノウチ」とあるので,午後 2 時まで,かなり長い時間,敦のと ころに居たことになる。 ところで,久功の 8 月 1 日付の書簡が, 『中島敦全集』第 3 巻に収載されているが,そ こには,次のように書かれている。 八日ニ信州ニ行クコトニシテ居ルノデ其ノ前ニオ会ヒシタイノデス, (中略) 五日 カ六日カ七日ノ朝ノウチニオ訪ネスルコトニシマス, 実ハ「南風」ガアンマリ「南風」デナクナッテハシマッタノデスガ,既ニ二百六七十 枚書ケテ居ルノデ,君ニ見テ頂キ度イノデス。 9 月 6 日の日曜日,戸隠から帰ってきた久功は中島敦を訪ねた。この日の『日記』には, 次のように書かれている。 九時半頃家ヲ出テ,敦チャンヲ訪ネル。敦チャンハ寝テ居タガ,別段悪イノデハナ カッタノデ直グ起キタ。原稿ハ全部目ヲ通シテオイテクレタノデ,一通リ見テ貰ッテ 帰ッテクル。十四時。 ここにある「原稿」とは,もちろん,戸隠へ行く前に敦に預けていた,翌年 3 月に『流 木』と題されて刊行される「サトワル生活記録」である。9 月 1 日の戸隠に滞在していた ときの『日記』に, 「昼マデデ,ヤット『サトワル生活記録』ノ最後ノ章ヲカタヅケル。 」 と書かれているので,完成した最終章「拾遺」の原稿も持って行ったのであろう。 後年,久功はこのことを次のように書いている( 「トン」 , 『著作集』第 6 巻所収) 。 私に『流木』を出させたのは「トン」だったと言える。そして『流木』が出たのは 「トン」が亡くなって半年もの後だった。しかし, 「トン」が『流木』の原稿だけでも 見てくれた事で私は満足しなければならない。 この時,敦が「原稿」について何を言ったかわからないが,久功が 9 時半に家を出て, 14 時に帰宅したのならば,久功は 3 時間余,敦のところに居たと考えられるので,かな り細かなことまでも話したであろう。 『サトワル生活記録』 ,ついで『南風』となっていた 著書の題名を, 『流木』にしたのは,敦の助言によるものではなかろうか。 510 土方久功日記Ⅴ 第31冊 1 週間後の 13 日,久功と川名敬子は,九段下の軍人会館で結婚式を挙げた。出席者 37 人の内輪だけのささやかな結婚式であった。前日の『日記』には, 「明日来ル人達」の名 が記されている。 柴山昌生夫妻,道隆,昭子,妙子,三沢寛夫妻,中島敦,山口歌子,久俊,英子, 久顕,土方梅子,与平,道子,忠久,忠直,忠光,忠義,玄昧,後藤夫妻,九 亀田豊次朗夫妻,加藤節子,宮寺嘉一, 千葉宗八夫妻,稲葉真理子,峯慎平夫妻, 伊藤千代人,寺田綾子,川名なか,英光,嵩久, 11 時に式が行われ,12 時半から会食となった。 ところが,久功・敬子の敦・令夫人宛の 9 月 5 日付の招待状(県立神奈川近代文学館所 蔵。なお, 「パラオ ― 二人の人生」展図録< 2007 年,世田谷美術館> 189 頁に招待状の 図版が掲載されている)は,次のようである。 拝啓 お暑さの折柄,御壮健のほどお喜申上げます。 扨て此の度 私ども後藤禎二氏御夫妻の御媒酌を得て結婚いたしました。就きまし ては,今後とも御懇情,御指導賜はり度く,甚だ畧儀乍ら書中を以て御挨拶申上ま す。 追て披露の儀は,時局柄差控へさせて戴きましたが,実は近々ボルネオに参ること になって居りますので,お別れ旁々御一緒ニ御食事でも致し度いと存じますから,お 暑い折柄恐れ入りますが,来る九月十三日正午,九段下軍人会館までおいでいたゞき 度く,右御案内申上げます。 敬具 九月五日 土方久功 敬子 中島 敦様 仝 令夫人 追而,御諾否のほど一応伺ひ度く存じます。猶当日ハ必ず御畧装ニて,お気軽ニお 出向きいたゞき度く存じます。 この招待状を読む限り,久功と敬子は既に結婚式を挙げていて,当日行われるのは,単 なるお別れの「会食」となっている。前日の『日記』には,先に掲げた出席予定者のリス トがあり,中島敦の名も見える。ところが, 「パラオ ― 二人の人生」展を担当された世 田谷美術館学芸員の橋本善八氏,野田尚稔氏が結婚式当日の「芳名帳」を調査したとこ ろ,そこには中島敦の名前が無かった。中島敦は出席の予定ではあったが,当日は欠席し たのであろう,とお教えいただいた。敦は久功の結婚式に出席しなかったのだ。当時,原 511 稿の注文に追われて多忙を極め,健康もすぐれなかった敦は,結婚式なら多少無理をして でも出席したであろうが,お別れの「会食」だと思って欠席したのではないだろうか。 それにしても,久功は,どうしてそのような招待状を書いたのだろうか。ひとつ考えら れるのは,久功の中島敦への心遣いである。敦は,当時,南洋庁を辞めて給料が入らなく なり,経済的に余裕がなかった。結婚式の披露宴となれば,しかるべき祝儀を包まねばな らないであろう。それで,招待状では披露宴でなく「食事会」としたのではないか。招待 状の最後に書かれた「必ず御畧装ニて,お気軽ニお出向きいたゞき度く存じます。 」とい う言葉にも,敦への気遣いがうかがわれる。 結婚式の後,久功と敬子は東京駅 15 時 5 分発の汽車で,箱根へ新婚旅行に向かった。 強羅ホテルに 3 泊,箱根ホテルに 2 泊し,18 日には熱海の大野屋に宿泊し,19 日東京へ 帰り,16 時に新居へ入った。 新婚旅行の様子は,箱根の風景,ホテルの食事・おやつの批評,従業員の接客態度ま で,こと細かく『日記』に書かれ,泊まったホテルの部屋の配置図も描かれている。 久功はこの新婚旅行へ, 『パラオの神話伝説』の校正刷を持参し,旅行中に校正を済ま せた。また,スケッチ・ブックに,気に入った風景をスケッチした。 敬子夫人は,この新婚旅行の時のことを,後年次のように書いている(前掲,「思い 出」 ) 。 新婚旅行に箱根から熱海に行きましたが,山道を散歩していても路傍の花を見つけ てはこれは何と云う花かと聞いたり,この木の名を知っているかと聞き,鳥がないて 〔ママ〕 いるとある鳥は何かと,次から次へと聞き乍らしゃべり乍ら歩くので,何も知らない 私は参ってしまいました。 私の方は景色を眺めて陶然としている方が好きで,只気持よくそぞろ歩いている方 の性質でした。芦の湖のほとりで夕暮の山々を見ている内に,もの悲しくなって涙が 出て来ました。 新婚生活が始まって落着く間もなく,ボルネオ行きの準備は進んだ。 9 月 25 日,28 日,南方班の集まりに行った。 10 月 7 日,敬子の腹痛が癒えないので,盲腸の手術をすることになった。昼食後,自 動車を頼んで,弟・久顕の所へ連れて行き,15 時に手術した。経過は良好で,15 日には 退院し,帰宅した。 11 月 1 日,大和書店から刊行された『パラオの神話伝説』が送られてきた。待望の著 書である。 11 月 5 日,久功はボルネオ調査団の「留守団長」に指名された。11 月末に,長官等が 先発として飛行機でボルネオへ行くことになったためで,午後だけではあったが,毎日, 512 土方久功日記Ⅴ 第31冊 太平洋協会へ出勤することになった。 11 月 18 日,突然,26 日に出発する馬奈木参謀長の飛行機に座席があるので,出来たら 先発しろ,と言われた。それで,翌日の夜,敬子と馬奈木少将の所を訪ねたら,飛行機に は乗れそうだが, 「可及的速カニ回答スル由」と言われる。久功は,8 月の初めからボル ネオの件ではここまで引き摺られてきて,早く決着を付けたかったので,先発で行くこと にした。 20 日は,朝から大忙しであった。敬子に自転車で三沢寛の所へ行ってもらい,夜に来 てもらうようにし,昼前には,敬子と一緒に久顕を訪ね,22 日に久顕の所で皆に集まっ てもらうようにし,次に,英子の所へ行き,中沢佑の判を借りて帰って,敬子に区役所へ 行ってもらうことにし,久功は太平洋協会へ行った。いよいよ,飛行機で行く先発が確定 した。上原も一緒に行くことになった。但し,辞令交付はまたまた延びて,出発の前日に なるとのこと。ぎりぎりいっぱいで何ともやりきれない,と嘆いた。 出発日も決まり,21 日には,ボルネオ調査団の結成式があり,引続き夜には,太平洋 協会の壮行会が行われることになった。ところが思わぬことが起き,混乱が起こった。久 功が午後 1 時に太平洋協会に行ったら,陸軍省から朝電話があり,いよいよ上奏の手続き をとったが,久功の官等が,またまた一等おとして司政官に任官させるようにした,とい う。久功はそれを聞き,怒り,最後になってまで「インチキ」なことをするのならボルネ オへ行かないから止めにしてくれ。嘱託にしてくれ,と言ったら,太平洋協会の関嘉彦が 電話で任官取下げを依頼した。陸軍では,既に書類を出したからもう駄目だと言い,さら に,久功の任官取下げをすれば,皆の辞令が全部遅れる,と変な脅しのようなことを言わ れた。兎も角,取り替えるよう努力しよう,とのことだった。 そのあとすぐに浅草・草津亭に馬奈木参謀長のボルネオ懇談会へ行った。4 時になって 馬奈木少将が来たので,久功は,辞令の交付が遅れるから,26 日出発の飛行機には乗れ ない旨を言い,中途で席を立った。太平洋協会の壮行会へも出ず,柴山昌生叔父から華族 会館へ呼ばれていたので,真直ぐ華族会館へ行った。久功の立腹の様子がわかるというも のだ。もうボルネオ行は止めるつもりでいた。昌生・梅子夫妻のほか,中沢夫妻,久顕, 本田英昌がいて,夕食の後,2 時間ほど雑談した。 翌 22 日は日曜日だったので,太平洋協会の平野義太郎を自宅に訪ねたら留守だったの で,夫人に,もうこれ以上ぐずぐずするなら,ボルネオ行は断る旨を告げて帰ってきた。 夕方,久顕のところへ行った。久功のお別れの会の筈だったが,前日の「ヒックリカヘ リ」で,ボルネオ行は止めになったので,会の趣旨はぼけてしまったが,久々で兄弟全部 が集り,柴山昌生夫妻,久功の兄弟夫婦,それに子供達も加わり,快い大懇親会になっ た。 23 日は,ボルネオ行は止めにしたので,お別れの挨拶廻りもなくなり,一日炬燵に入 っていたら,長閑な休日気分になった。翌日 24 日,昼前に太平洋協会に行って平野義太 郎に,もうこれ以上ごてごてと長引くならば,ボルネオ行は止めたい旨話をした。しか し,昼食に出て太平洋協会へ戻ってくると,陸軍省からの電話で,嘱託に変更できたの 513 で,翌朝 9 時に,先発の人々と一緒に判を持って出頭せよ,と言われた。これで,ボルネ オ行きを止める理由はなくなり,再び久功は,ボルネオへ行くことにした。 翌日も,久功は一日中走りまわされた。9 時に陸軍省へ行ったら,10 人程が寒い部屋で 1 時間半も待たされた後,係員が 5,6 種の書類を持ってきた。昼の弁当の後,服装の衣 料切符を渡されたが,旅費がどうしても出ない。今日明日出発する人達は待ちきれず,偕 行社に行って品物を整えるため帰ってしまい,久功と上原だけが 4 時半まで待たされ,皆 の旅費をもらって太平洋協会へ行った。そこへ間もなく白井少佐から電話があり,久功と 上原は,当初の予定通り,27 日発の馬奈木参謀長の飛行機に乗せてもらうことにしたか ら,連絡をとってくれと言ってきた。久功は再び引きずり回されることになった。 翌 26 日の早朝,敬子は馬奈木参謀長の所へ行き,翌日の飛行機の出発時間,場所を聞 きに行ったら,やはり,飛行機に乗る人は既に決まっていて,久功の席はない,何かの間 違いである,と言われた。太平洋協会へ電話しても,やはり駄目だった。実に目まぐるし い。 この日の『日記』には, 斯ウ毎日ノ様ニ,飛行機ニ乗レ,イヤ降リロデハ,アハテテミタリ,気ガ抜ケテシ マッタリデヤリキレナイ。ソレモ自分バカリデハナク,一方上原君ノ方デモ仝様ダラ ウガ,家ノ者マデ皆ガ仝ジ縄ニヒキズラレテ,ノメッタリ引止メラレタリスルザマ ハ,意志ノアル人間ニハチトヤリキレナイ図ダ。マルデ犬ノ様ニ頸ニ縄ヲカケラレテ 居テ, “ソレ走レ!”デ全速力デ走リ出スト,イキナリ“止レ!”ト仝時ニ,グット 縄ヲ引張ラレル。コレデハ喉ガツマッテシマフ。ソレヲジュズツナギデヤラレテ居ル 様ナ図ダ。 と書かれている。 出発の日は決まっていなかったものの,ボルネオ行は確定したので,29 日に,久顕,英 子,柴山家へ別れの挨拶に行った。夜は,後藤禎二から夕食に招かれた。 30 日の昼前,中島敦を訪ねたら,16 日にひどい発作を起こして入院し,その後,11 本 も注射を打ち,殆ど危なかったと聞かされた。入院先は近くの岡田病院(現・世田谷中央 病院)だったので,直ぐに行ってみた。パラオにいた時と同じように,何枚も布団を積み 上げた所に凭りかかって,苦しそうな様子だったが,思ったよりは元気で,一時間ばかり 話して,昼過ぎに帰ってきた。これが,久功が中島敦に会った最後であった。 514 土方久功日記Ⅴ 第31冊 〔表紙〕 [ 31 一九四二・七・一四ヨリ 一九四二・一一・三〇マデ 久 昭和十七年 ⃝ HISAKATSU・H・] 七月 十四日 火 曇,霞, 今日カラ柴山サンニ行ッテ書キ物ヲスルコトニシ,朝九時カラ行ッテ午後五時過ギニ 帰ッテクル。帰ル頃ニナッテ,百合チャン夫婦ガ赤ン坊ヲツレテ来ル。 シナケレバナラナイコトガ沢山アリ過ギテ,ソレガチットモハカドラナイデ,本バカ リ読ミタクテ駄目ナノダガ。モルスノ「日本ソノ日ソノ日」石川千代松訳ヲ一番ヒマナ 時 ― ト云フヨリ,一寸シタ時間ノ合間ダケ読ムコトニシテ,半分バカリ読ンデ居ルガ, 実ニ面白イ。モルスノ観察ノ多方面デ,シカモ何ヲデモ一ツノ見方ヲシテ居ルノモ興味 〔ママ〕 深イガ,自分達ノ聞イテダケ知ッテ居タリ,マルデ知ラナカッタリスル年代ノコトドモ デアリ,其ノ過渡期ノ姿ガ目ニ見エル様ニ描カレテ居ルノモ実ニ興味深イ。驚キガコレ ホドマデ細々ト物ヲ観察サセタノデハアラウガ,驚カナイデモ此ノ位ヒノ,ト云フノハ 自分ノタヅサハラナイ部分ニ気ヲクバッテ見ルコトハ出来ル筈デアリ,若シソノ様ニシ テ,此ノ様ニコマゴマト書キ綴ッテオイタナラバ,五十年,百年後ニソレヲ読ムモノハ キット仝ジ面白サヲ感ズルニチガヒナイ。 受信 中島敦, 発信 中島敦,阿刀田研二, 十五日 水 曇,日暮カラ小サナ雨アリ。 イツモ五郎チャンニアフ度ニ,新井氏ガ一度逢ヒタイト云ッテ居ルト云フノデ,ソシ テ一昨日モ柴山サンデ会ッタ時,明日ハ何ウダ,明後日ハ何ウダト云フノデ,今日行ク コトニシテオイタ。ソレデ,午後三時過ギニ慈恵医大マデ行ッテ新井氏ヲ訪ネタガ,別 段ノ用モナカッタ。夕方帰ッテクルト小サナ雨ガ降リ,グット凉シクナル。 十六日 木 終日ドンヨリト曇リ,時々小サナ小サナ雨ガ降リ,終日ヒヨヒヨト寒イ。 朝九時カラ夕方五時マデ柴山サンデ書物。綾子ガ又気分ガ悪クデ寝テシマフ。 静子サンモ一昨日ノ晩カラ又熱ヲ出シテ寝タキリ。 十七日 金 曇,後晴, 日ガ照ッテ空気ガ冷タクテ,珍ラシ□ク気持ノヨイ日。 夕方柴山サンカラ帰ッテ来ルト,中沢サンノ所ニ佑サンガ帰ッテ来テ居ルト云フノデ 515 寄ッタラ,兄上モ来テ居タノデ一時間バカリ上ッテ,兄上ト一緒ニ帰ッテクル。兄上一 寸寄ラレタガ,久顕ノ手ガスカナイノデ,帰ッテ行カレル。 発信 倉橋弥一,川名敬子, 十八日 土 晴,□風ガアッテ気持ノイイ天気, 柴山サンデ一日。 受信 中島敦,西尾善積, 十九日 日曜日 晴,暑ケレド風アリ, 朝九時半過ギ,川名サンニ行ク。十一時,敬サント二人デ後藤ノ所ニ行ク。 五時過ギ,川名サンノ所ニ行ク。嵩チャンモ帰ッテ来テ居テ,夕食ヲ馳走ニナッテ, 終ッタ頃,英光サンガ帰ッテ来ル。九時半帰宅。 受信 中川善之助, 二十日 月 晴,暑ケレド午後ハ風アリ。 柴山サンデ一日。 〔欄外に記す〕 [千一夜物語] 先日ウチカラ電車ノ中ノ読物トシテ「千一夜物語」 (二) (□岩波文庫)ヲポケットニ 子 入レテ居タガ,昨日読了シタ。 (一)ヲ読ンデ居ナイノダガ,ソシテ昔昔読ンダ小□供ノ 本トシテノ「アラビヤンナイト」ハモウスッカリ忘レテシマッテ居ルシ,殆ド別物ヲ読 ムヤウナ気ガスル。不思議ナ神秘主義,運命主義,アノダンセニー□ノ「サムーン」ノ 廻 ノ 方 ハ □回教ニモ見エルガ矛盾的ナ残虐 ― 「サムーン」□□□デハソレガ企図的デアルガ, ココニアルソレハ気マグレデ,寧ロソレガ目的デハナクテ,話ヲ引出ス為ノ道具トシテ 思ヒツカレテ居ル程度ダガ,ソレヨリモ何テ童話ジミタ,シカシ大人ガ読ンデモ美シイ 文章ダラウ。近頃ノ現実的ナクドクドシイ,毒毒シイ実感的ナモノ ― ソンナモノヨリ 更ニ目□前ノセチガライ現実ニ,否応ナシニ直面シナケレバナラナイ人間ニ,ナントコ レハ スガスガシイ タンサン水デアラウ。ソシテ更ニ屡々出テクル美シイ詩ハ,ソレコ ソハ古代アラビヤノ回教前カラ積ミ上ゲ積ミアゲラレタ「詩」ノ「詩想」ノ「詩語」ノ 磨カレタ美シサダラウ。 受信 中川善之助,倉橋弥一, 中川氏カラハ明日丸ビルデ逢ヒ度イト,昨日ノ速達デ云ッテ来タノヲ,都合ガ悪クテ 出京出来ナカッタカラト取消シテ来ル。 倉橋君カラノハ,都合ヨケレバ明日ノ午後銀座デ□会ハウト。 516 土方久功日記Ⅴ 第31冊 二十一日 火 晴,風出デシモ暑シ, 受信 民族学会(5.00) 発信 中川善之助,古野清人,榊田幸太郎(退職願) 朝,文子姉上ガ来ル。 十一時ニ家ヲ出テ南洋庁ノ出張所ニ行ク。退職願ヲ持ッテ行ッタノダガ,丁度文協ノ 前ニ吉本君ニ呼ビトメラレ,出張所長ガ来テ居ナイコトガワカッタノデ,吉本君ニ渡シ テ来ル。 一時ニ銀座ノコロンバンデ倉橋君ニ会フコトニナッテ居タノデ,銀座ニ出タガ,三十 分モ早イノデ三越ニ入リ,ヨイ頃ニコロンバンニ行ッタガ,倉橋君ガ来タノハソレカラ 三十分モタッタ後ダッタ。倉橋君ト話シ話シ,松坂屋ノ「南洋美術協会」ノ展覧会ニ行 ク。西尾君(善積)ニ会ヒ永イコト話シテ,三時頃ニ山□崎泰雄君ガ浜松町デ出版所ヲ 出シテ居ルト云フノデ一緒ニ行ク。平木二六君ト古谷綱武君ニ紹介サレル。皆デブラブ ラ銀座マデ出テ,千疋屋デオ茶ヲノンデ五時半頃分レル。 二十二日 水 晴,暑, 昨日家入君ノ処カラ電話ガアッタト云フノデ,朝一寸英子サンノ所ニヨッタラ,又今 日電話スルカラトノ返事ダッタ由ダッタノデ,暫ク佑サント話シテ,若シ電話ガ来タラ 柴山サンニ電話シテ貰フ様ニタノンデ柴山サンニ行ッタガ,電話ガ来ナイノデ,ソノマ マ夕方祐天寺ニ行キ,夕食ヲ馳走ニナッテ,トレシングペーパーヲ貰ッテ九時過ギニ帰 ッテ来タラ,留守ニ家入君ガ訪ネテクレタ由。 受信 太平洋協会(講演通知) 二十三日 木 晴,午前中ヒドク蒸々シタガ,午後ハ風ガ出ル。 夕方柴山サンカラ帰ッタラ,兄上ガ来テ居タ。 二十四日 金 晴,暑,午後風アリ, 柴山サン。十一時,竹下君ト野口君ニ電話シテ,二時半ニ銀座デ会フコトニシ,午後 出カケ二人ニ会ッテ二人ヲ紹介スル。オ茶ヲノンデ四時マデ話シテ,夕方帰ッテクル。 夕食後,久顕サンハ允久ヲ葉山ニツレテ行ク。 受信 三沢露子,甘露寺方房, 発信 三沢寛・露子 二十五日 土 晴,暑, 一日柴山サン。 夕食後,三沢ヲ訪ネ十一時ニ帰ル。 517 留守ニ文理大ノ渡辺君ト辻君トガ来テクレタ由。博物学雑誌 ― 南洋旅行報告号ヲモ ッテ来テクレル。 二十六日 日曜日 晴,酷暑, 一日柴山サン。 夕食後,敬子サンガ来ル。久顕ハ逗子ニ行ッテ居ナカッタシ。二人デ一寸中沢サンヲ 訪ネ,ソレカラ柴山サンニ行キ,□庭ノ芝生デ九時半頃マデ。月ガ実ニイイ。 発信 三沢寛,辻忠二郎,甘露寺方房, 二十七日 月 晴,酷暑, 一日柴山サン。 久顕,夜葉山ニ行ク。 二十八日 火 晴, 一日柴山サン。夕食後,綾子ト銀座ニ出ルツモリダッタ処,百合チャン夫婦ガ来,叔 父様ガ遅カッタノデ,康明サンノ相手ヲシテ遅クナッテシマフ。浅野サンガ見エテ,叔 父様ガ帰ッテ来ラレテ,十一時過ギマデ。 二十九日 水 晴,暑, 一日柴山サンデ書物。 午後三時頃,百合チャンガ来テ,夕方洋子チャンヲ連レテ帰ル。 久顕,斎藤ヲツレテ葉山ニ行ク。 三十日 木 晴,暑,夜ニ入ッテ暫ク雨アリテ凉シクナル。 朝髪床ニ行ッテカラ柴山サンニ行クト,間モナク三沢ガ訪ネテクレタ由電話アリ,帰 ル。三沢ハ夕方マデユックリシテ行ク。 三十一日 金 晴,風凉シ。 一日柴山サンニ居テ,夕方帰ラウトシテ居タラ,電話デ人ガ来テ居ルト知ラセテ来タ ノデ直グニ帰ッタラ,田沼サント高崎サントガ来テ居ル。高崎サンガ帰ッテ来テ,田沼 サンニ速達デ知ラセタノデ,田沼サンハ今朝出テ来タ由,野菜ヲ持ッテ来テクレル。一 時間半程南洋ノ話,国々ノ話シ。明日佐藤サント三人デ会フ由ダッタノデ,ソレニ加ハ ルコトニスル。 夜,中沢サンニオヨバレ,久顕サント,兄上一家ト。 518 土方久功日記Ⅴ 第31冊 〔1 頁白紙〕 八月 一日 土 晴,暑, 朝ノウチ柴山サン,午食前ニ出テ,数寄屋橋デ田沼,高□崎,佐藤君等トアヒ,夕方 マデ方々ブラツイテ別レル。 留守ニ敦チャンガ来テクレタ由。 受信 東久世通忠,阿刀田研二, 発信 中島敦 344),竹下源之介, 古野清人著「原始文化ノ探求」 ,読了。 二日 日曜日 晴,暑, 十一時半ニ虎ノ門ノ晩翠軒ニ行ク。仰陽会ノ集リ。賀陽宮殿下ヲハジメ集ッタモノ, 岡俊二,佐々木六郎,高橋茂雄,本多正震,大木喜福,甘露寺方房,北大路信明,松方 義雄,徳川宗敬。 三時頃散会,帰リ,本多ノ家ニ行キ,夕方豪徳寺ニマハッテ敬子サンノ所デ九時半頃 マデ。 受信 竹下源之介, 「山信」 (竹下源之介ヨリ) 三日 月 晴,暑,日暮レテ雷雨暫ク。 一日柴山サン。昼前五郎チャンガ来,十五時頃,百合チャンガ洋子チャンヲツレテ一 寸来ル。 受信 中島敦, 四日 火 晴,風アリテ稍凉シ,日暮頃ヨリ雷雨。 一日柴山サン。 五日 水 晴,風アリテ凉シ。 (未明ヒドキ雨アリ) 中島ノ所ニ原稿ヲモッテ行キ 345),十四時一緒ニ渋谷ニ出テ来ル。夕方,道子来,夕食 ヲタベテ行ク。二十時前,道子ヲ送ッテ祐天寺マデ行ッテクル。 受信 商工課長ヨリ電報(退職ニ際シ無給嘱託ノ件) 519 六日 木 曇,小雨二三回, 発信 商工課長ヘ電報(無給嘱託受諾ノ件) オ玉様ノ百ケ日ノ法要ガアルノデ,英子サント早昼デ一時ニオ寺ニ行ク。兄上ト四郎 サント,矢野定一サンガ来テ居タガ,一時ニナッテモ肝心ノ忠チャン達来ズ,殆ド一時 間モシテ,忠チャン,信チャン,ヨシ子サン,オクワサン,オイクサン,ヤチコチャン, 綾様見エ,三時頃式ヲ終リ,忠チャン□達三人ト綾様,四郎サン,古井サント七人デ, 東京駅ヲ四時過ギノ汽車デ茅ヶ崎ヘオ墓マヰリ。六時五十六分ノ汽車デ帰ッテクル。 八時頃家ニカヘルト,兄上ガ来テ居テ久顕ト酒ヲ飲ンデ居タガ,留守ニ,清野博士ガ 来ラレタ由。何デモ陸軍ノ司政官ニナッテボルネオニ行ッテホシイ由,明日十時ニ太平 洋協会ニ,承諾ノ返事ヲモッテ来テホシイ由ヲ言ヒ置イテ行カレタ由。 十一時過ギテ兄上ハ帰ッテ行カレル。 七日 金 曇。 ボルネオ行キハ何デモ今日中ニ決定シナ□ケレバナラナイト云フノデ,而シテ明日ハ 戸隠ヘ行クコトニナッテ居ルノデ,今日ハ早朝豪徳寺ニ行キ,ボルネオ行キノ話ヲシ, 何デモ断ッテ来ルト云フコトニシテ,十時ニ太平洋協会ニ行ク。清野氏,平野氏,待チ カマヘテ居ラレ,病気 ― 神経痛,胃液過多デ,今南洋庁ニ辞表ヲ出シタ所デモアリ, 此 ノ 暫ク休ミ度イ旨ヲ以テ一応ボルネオ行キヲ断ッタガ,□□今度ノボルネオ(北ボルネオ) ノ司政官人撰ハ全ク太平洋協会カラ全部揃ヘルコトニナッテ居リ,且ツ日数ハ切迫シテ 居ルノデ断ラレテハ困ル,ドンナ条件ガアッテモヨイカラ兎モ角,一応受諾シテ行ッテ 貰ヒ度イトノ事デ,体ガ悪クテ堪エラレナイナラバ,行ッテ直グ帰ッテ来テモヨイシ, 其ノ旨ハ□皆ニモ話シテオクカラ,行クダケ行クト云ッテクレト云フ訳デ,何トモ断ル 術ガナイ。遂ニ履歴書ヲ其ノ場デカカサレル。 清野氏ト昼食ニ出,後ワカレテ直グニ再ビ豪徳寺ニマハリ,遂ニボルネオ行キガ断リ キレナカッタ由ヲ伝ヘテ四時頃ニ帰ッテクル。英子サンガ丁度来テ居リ,久顕モ居テ, ボルネオ行キガ中途半パニ祝ハレタリ惜シマレタリスル。自分トシテモヤット落着クコ トニキメタ所ナノデ,ボルネオモイイ,仕事モイイノニ,何カ中途半パナ気ハスルガ, 一方キマッテシマッタノデ,結局ハ他ノ総ベテノ事ヲ事情ニ歩ミヨセルヨリ外ナクナッ タ。明日ハ戸隠ニ立ツノデ,久顕ガオ別レトオ祝トヲシテクレ,十時前ニ荷物ヲカバン ニツメコンデ柴山サンニ行キ,宿ル。 明朝ハ八時ノ準急デ行ク筈ダッタ所,十時ノニノバシタ由。 八日 土 晴,午後曇,後小雨降ッタリ止ンダリ。 昌生叔父様ト綾子ト道隆ト四人デ,八時ニハ家ヲ出,皆両手ニ荷物ヲサゲテ,九時ニ 520 土方久功日記Ⅴ 第31冊 ハ上野ノ駅ニ着ク。大変ナ人々。大変ナ人々ノ行列。ソシテ十時四十五ノ私達ノ□汽車 ノ為ノ行列ガ九時二十分ニハモウ並ビ出スト云フ始末。ソレデモ私達ハ前カラ二十番目 位ニハ入ルコトガ出来タガ,見ル見ルウチニ行列ハ長ク長ク後ニ延ビテ ― 私達ハ行列 途 ヲ作ッタママデ,一時□間ノ□余モ立チツクサネバナラナカッタ。ヤット四人一緒ノ席 ガトレタガ,二等車□□デモ立チ続ケノ人ガ相当居タ。□汽車ハ暑カッタ。沢山ノトン ネルヲヌケテ熊ノ平ニ来ルト,急ニ風ガヒンヤリシタ。軽井沢ニ着クト,戸田サンノオ 父サント康明サントガプラット・ホームニ出テ居ラレテ,オヤツニト新ジャガ芋ノフカ シタノ□ヲ持ッテ来テ下サッタ。ソコデ汽車ハヤットスイタ。 長野ニ着イタノガ五時過ギ,歩キ出シタラ又雨ニナッタノデ,宿ノ者ガ迎ヘニ来テク レテ,自動車ヲタノンデクレタノデ,ソレデツタヤ旅館(本陣)ニ入ル。大本願 346)カ 母 ラ丸茂氏ガ来ラレ,オ叔□父様ヲ訪ネテミエテ,西瓜ト桃トヲモッテ来テ下サル。 永々ト湯ニ入リ,夜ガ寒イヤウニツメタイ。雨ハ降ッタリ止ンダリデ晴レサウニナイ。 九日 日曜日 曇,小雨午前中,又夜, 雨ガ降ッタリ止ンダリスル中ヲ,大本願ニ一寸ユキ,案内ノ人ニ連レラレテ善光寺ニ オ詣リ,忠霊殿ニモオ詣シテ門前デ案内ノ人ニ別レテ町ヲブラツイテ宿ニカヘルト,大 本願ノ中村氏ガ見エル。十一時,大本願カラ差シムケラレタ自動車デ戸隠ヘ。一時間半 ノ後十二時半ニ中社ニ入リ,武井氏ノ所ニオチツキ,□昼食ニハ早速名物ノオソバ。曇 リガ深ク小サナ雨ガ来テハ止ムノデ,プラプラト近所ヲ歩イタ程デ,アトハオ昼寝。 夜モマタ早々ト寝テシマフ。手紙カキ。 十日 月 曇,時々小雨。 朝食前,昼食前,夕食前ノ散歩ト午後ノ昼寝,手紙カキ。 発信 土方愛子,土方静子,野村貢,榊田幸太郎,本多正震,川名敬子,小口よし子, 小口刀子,久保田公平,大平辰秋, 十一日 火 晴,ト云ッテモ秋ノヨウニ冷エ冷エスル, 中川善之助様 次ニ御尋ネノ件,オ答ヘシマス。 ◌ 婚約。サトワル島ニハ婚約ト云フ言葉モ事実モナイ様ニ思ヒマスガ,ディッティヌ ナップ物語ノ中ニハ,一緒ニ生レタ子供同志ヲ親達ガ将来夫婦ニサセル約束ヲシテ,遂 ニ二人ガ大キクナッテ夫婦ニナッタト云フノガアリマシテ ― 他ニモ婚約サセル話ガア リマス ― 其ノ様ナ観念ガ全クナイトハ云ヘナイトモ見ラレマス。パラオニ於テハ稍婚 約ト見ラレル例ガアリマシテ,云ハバ許婚ト云フ様ナ言葉ガ二ツバカリアリマシタガ, (結ブ)ト云フ語ノ一形ヲ用ヰタ言葉ダッタ事ダケ 一寸忘レマシタ。一ツハ「レングヅ」 521 オボエテ居マス。又旧□□ンヘミリヤンガル部落ノガラメルトガラリックルナル両部ノ ― ツマリ村ノビッタントビッタンノ首長家ノ間ニ於テハ,互ニ息子息女ヲ小サイ時ニ 夫婦約束シテ,其ノ様ニ実行スルノガ例デアッタトモ伝ヘラレテ居リマス。 色々ナ場合ガアリマスガ,ノートガナイノデ確カナ例ヲ挙ゲルコトガ出来マセンガ, 一般的ナ「約束ト婚姻トノ間」ハサトワル島ナドニ於テハ,数日ヲ越エナイ如クデアリ マスガ,パラオニ於テハ稍長イ例ガアルヤウデス。殊ニルバクノタオル(喪)等ノ為ニ 約束カラ婚姻マデニ,或ル日月ヲ待タネバナラナイヤウナ例ハ有リ得タコトデセウ。併 シパラオノ婚姻ヲドコニ定メルカハ,別問題ニナリマス。例ヘバ「ブス」ヲ贈ッテ男ガ 女ノ家ニ入ッタ時ニ ― 実際ノ婚姻ガ成立スル訳デハアリマスガ ― 僅カニ其ノ様ナ事 実ノ後ニ二人ガ別レタ場合,ソレヲモ彼等ノ間ニ於テ「既ニ結婚シタモノガ離婚シタ」 モノト認メルカドウカトナルト,疑ハシイモノダト思ハレマス。併シソノ様ナコトハ法 学 □□律学ノ上デドノ様ニ取扱ハレルモノカ知リマセンノデ,深クハ触レラレマセン。サ トワル島ニ於ケル例ハ,其ノ長イ方ヲ示ス例ガナク(コレハナカナカワカラナイノデス) , 反対ニ即日婚姻スル等ノ例ハイクラデモ挙ゲラレルノデス。是レニ就イテハ私ハ「サト ワル島ノ結婚ト離婚」ト云フ文ヲ書イテ居リマシテ,七年間ノ結婚離婚ノ全例ヲ挙ゲテ 居リマスカラ,他日御覧ニ入レル機会ガアリマセウ。 ◌ 一夫多妻ハ私ノ知ッテ居ル範囲デハ,一般ニハナイ様デアリマスガ,昔カラパラオニ 於テハ酋長ハ本妻ノ外ニ妾ヲ持ッタ例ガアリ,現ニウギワルノ村長アクヲンハ公然ト二 人ノ妻ヲ持ッテ居リ,コロールノオルクリールガ,長年妾ヲ持ッテ居ルコトモ皆ガ知ッ テ居ル様ナ例モアリマス。 サトワルニ於テモ,公然タルモノデハ勿論アリマセンガ,其ノ様ナ私カナ事実ハ稀ニ ハアル如クデ「アルヲウアル」 (彼ノ第二ノモノ)ナドト云フ言葉デカラカッタリシテ居 ルコトガアリマス。情人ノ(独身者仝志デナイ所ノ)稍永続的ナモノ位□ノトコロデセ ウ。 ◌ プイプイハ御説ノ通リデ,プイプイト云フ語ハ広義ナ場合ニ□普通ニ用ヒラレルノデ アリマシテ,例ヘバ血縁的ナ関係以外ニ,特ニ親シイ者等ガプイプイノ約束ヲスルコト サヘアルノデアリマス。デスカラ正シクハメゲヤギー間ノ間デ情事ガ禁ゼラレルト云フ ノガ本当ナノデスガ,其ノ様ナ情事以外ノ親愛礼節ニカタイ者ヲ「エ クックネイ プ イプイ」 (兄弟 ― 兄妹ニ通ジテ ― 関係ニ堪能)デアルト云フ言葉ヲ普通ニ用ヒテ,寧 ロ「エ クックネイ メゲヤギー」ナドト云フ言葉ヲ使フト却テ露骨トナリ,滑稽トナ ル如クナノデアリマス。 其ノ意味デ,義プイプイノ如キ関係ガ異性間ニ成立スルト云フコトハ滑稽ナ,有リ得 ナイコトデアリマス。但シソレハ「赤ノ他人仝志ノ間ニ於テ」デアリマシテ,縁戚関係 ヲタドッテ異性プイプイ儀礼禁忌ヲ守ルコトハ,随分広イ範囲ニマデ及ブコトガアリ, 仝時ニ反対ニ当然義プイプイ(異性)ヲ結ブベキモノデ,是レヲ放棄シテ居ルモノモア 522 土方久功日記Ⅴ 第31冊 ルノデアリマス。私ハ此ノ方ノモノヲ義プイプイニ対シテ,準プイプイト呼ンデヨイト 思ヒマス。 デスカラ注意スベキコトハ,厳密ナル意味ニ於テハメゲヤギー関係ノ間ニ相互ノ儀礼 (我ガ異性同胞ナル故ニ)ト云フヨリモ, 禁忌ガアルノデスガ, 「ボヌノ メゲヤ□イ」 (我ガ同胞ナル故ニ)ト云フ言葉ノ方ガ普通ニ用ヒラレ,猶,更ニメ 「ボヌノ プイイ」 ゲヤギーナル語ハ,場合ニヨッテハ却テ露骨過ギテ礼ニ添ハナカッタリ,滑稽ニナッタ リスルコトガアルコトデス。 以上,要ヲツクサナイ恐レガアリマスガ,オ答マデ。 発信 中川善之助,中島幹夫,阿刀田研二, 朝食前ニ皆デ国民角力道場ノ方マデ散歩シテ来ル。道々何処デデモ鶯ノ声。鶯バカリ デハナク,他ノ鳥ノ声モ遠近デキコエルケレド,ドレガ何鳥ノ声カワカラナイノデ,只々 声 ヲ 可愛ラシク□□聞クダケデアル。 叔父様十時過ギニ迎ヘノ自動車デ帰ッテユカレル。 戸隠ハ寒イトコロ,昼寝ヲスルニ障子ヲ閉メキル。ソレハマタ馬虻ガ多イカラデモア ルガ,日中雨モ降ラナクテモ障子ヲシメテ居テ丁度ヨク,ソレドコロカ布団ヲ敷キ,夜 具ヲカケテモ暑クナイ。却ッテ畳ノ上ニ只転ガッテハ冷々トスル。虻ガ居ルカハリニハ 蚊ガ居ナイノデ,夜モ蚊遣香ヲトモスコトモナク,蚊帳ヲツルコトモナイ。 米ガ出来ナイ所デハアルガ,三度ノ飯ハ純綿ノ白米デ,口ノ中デ忽チ餅ニナッテユク ノハ,近来楽シイコトデアル。 名物ノソバハ名物ニタガハズウマイ。 ヂコボト云フキノコガ毎日ノヤウニ出ル。 鶏ヲ此ノ辺リノ農家ニ一羽モ見ナイ。鶏ニ食ハセル米モ□□麦モ出来ナイカラダト云 フ。馬ダケハ居ルガ,豚ノヤウナ家畜モナイ,山羊ヲ二頭見タ。 小サナ子供マデガ皆モンペヲハイテ居ルガ,ココノモンペハ下ノ方ガパッチノヤウニ 細クシマッテ居テ,如何ニモ軽サウニ見エル。若イ,マダ□背丈バカリ伸ビテ肉ノツカ ナイヤウナ娘達ノ此ノモンペ姿ハ実ニスマートデ,キュロットデモハイテ居ルヤウダ。 十二日 水 ヨク晴レテ寒イ,午後稍暖カクナル。 朝食前ト夕食前ト散歩。 〔ママ〕 朝ハ以前ニ自然放送ノアッタ「小鳥ノ森」ノ方ヘ,午後ハ下ノ方ノ雑木林の中ヲ。 夜ハ警戒警報ガ出タサウデ,早ク戸ヲ閉メ,電気モ暗クサレル。 何 小鳥ノ森ノ朝日ハ気持ヨク,鶯ガアッチデモコッチデモノベツニ鳴キ,其ノ中ニ□名 523 モ知ラヌ小鳥ガ鳴ク。何ト云フ蝉カ,ジージー蝉トアブラ蝉トノ間ノヤウナ声デナク蝉 ガ居ル。散歩ニハ三人トモスケッチ・ブックヲモッテ出テ,一枚ヅツ風景ヲスケッチシ テ来ルコトニシテ居ル。 十三日 木 晴, 昨日ハ早朝カラ,カラリト晴レテヒドク寒カッタガ,今日ハ朝ノウチドンヨリシテ暖 カカッタ。朝ノオ茶ヲ入レテ来タ女中ガ,コノ辺デハ,コノ様ニ朝少シ雲ガアッテ暖カ イ方ガ,オ天気□ワヨロシイノデスト云ッタガ,マッタク間モナク晴レテ,終日少シモ 風ガ吹カズ暖カデアッタ。朝ノ散歩ハ昨日ノ雑木林ニ行ッテスケッチシ,夕方ノ散歩ハ 奥社道ヲ下リ坂ノアタリマデモ行ッテクル。食ガススム。 夕方,方々ノ家デオ盆ノ迎ヘ火ヲタイテ居タ。此辺デハ白樺ヲ用ヰル由。 十四日 金 晴, 今日十四日ガ中社ノオ祭リデ,明十五日ガ奥社ノ祭,翌十六日ガ宝光社ノオ祭ナサウ デアルガ,中社ハ焼ケテシマッタノデ,今日ノ神楽ハ宝光社デヤッテ居ル由。宿ノ女中 ニ云ハセルト,中社ノオ祭ハ最モ盛ナモノデアッタガ,火事ト共ニ,巫舞ヲハジメ,三 劔舞,弓矢舞,岩戸開ノ舞,吉備楽舞等ノ面,衣装等全部消失シテシマッタノデ,今年 ハ何一ツ出スコトガ出来ナイデ,大変ニサビシイトノコト,ソレヲ思フト胸ガツマル思 ヒガスルト云ッテ居タ。ソレデモ八月十三日ニ夜通シ踊ルト云フ地蔵盆ノ踊デモアルノ カ,夜ニナッテ ピーピー トントコトントコト オソクマデ囃ノ音ガシテ居ル。 十五日 土 晴, 今日ハ奥社ノ祭礼デ,十時頃カラ□式ガアルト云フノデ,道隆ト二人デ八時半頃カラ 〔居〕 出カケル。昨日□朝ノ散歩ニ,綾子ガ行カナカッタノデ,道隆ト二人デ奥社ノ一鳥井マ 〔居〕 デ行ッテ来タノデ,大概ノ道ノリハ察シテ居タノダガ,鳥井カラ奥ハ案外長ク,其上山 門 ― 神社ニ山門モ変ダガ,此処ハ昔カラ神仏混合デ長イコトアッタ様ナ関係カ,朱塗 リノ〔随神門〕山門風ノモノガアッテ,其処ニ左大臣,右大臣風ノ木像ガ,仁王様ノ様 ニ両側ニ並ンデ居ル ― ノ中ハ古イ大キナ杉ノ並木道ニツヅイテ,急ナ坂道ガ戸隠山ノ 中腹マデ上ッテ居ルノデ,案外大変ダッタ。グヅグヅ登ッタノデ,社ニ着イタノハ十時 〔神〕 ヲ一寸マハッテ居タ。参詣ノ人々モ旅ノ人達バカリダシ,神楽殿モナク,官主サン達ハ 社務所ニ何人カ居タガ,オ祭ラシイ気分モナイノデ,暫ク上デ休ンデオリテ来テシマフ。 帰リ道デ大分村人ラシイ男女ノ群ニ行キアッタガ,其ノママ十一時半前ニ帰ッテ来テシ マフ。 丁度オ祭時ニ来アハセテ居ナガラ,何モ見ラレナイノハ残念ナ気ガスルガ。 524 土方久功日記Ⅴ 第31冊 夕方前三人デ散歩ニ出タガ,今日ハイツモノ散歩ノツモリデ帽子モカブラズニ出テ, 日中ノ強イ日ノ下ヲ永イコト照ラサレタセイカ,何ダカ頭ガ重イ。 十六日 日曜日 晴,午後三時前スバラシイ驟雨アリ,日暮ヨリ雨ニナル。 〔礼〕 宝光社ノ祭例ヲ見ニ,十時頃カラ綾子ト順坊ヲツレテ宝光社ニ行ク。行ッタラ,モウ 降神ノ舞ガハジマッテ居タ。続イテ身滌ノ舞ガアリ,巫舞ガアリ,御返幣舞ガアリ,弓 矢ノ舞ガアリ,最後ニ岩戸開ノ舞ガアッテ十二時前ニ終ッタ。衣装ガスッカリ焼ケテシ マッタトキイテ居タガ,ソレデモ何処カラ集メラレタノカ,一応衣装モ整ッテ居タ。楽 人モ少イシ,見物人モ堂ニ一並ビ座ッタ程度デ百人ソコソコ位ダッタラウカ。戸隠社ノ 祭トシテハ淋シイモノダッタ。殊ニ吉備楽舞ヤ倭舞ガ全然見ラレナカッタノハ残念ダッ タ。 大本願ノ中村氏カラ,珍シクモカステラトユカリヲ届ケテクダサル。宿ノオヤツハ奥 社ノ供物ノソバラクガンダッタ。 十七日 月 終日雨降ッタリ止ンダリ。 終日降リ□コメラレテシマフ。寒イ。 日暮,綾子ノ友達ノモモエサンノ義弟〔山井忠サン〕ト云フ若イ軍人サンガ来ル。 十八日 火 終日雨。 〔メ〕 降リコレラレテ一日室ニ閉ヂコモッテ居ル。 発信 後藤禎二,土方道子,土方久顕・貞久・允久,中沢英子,川名敬子,山口歌子, 中島敦 347),竹下源之介,甘露寺方房,三沢寛,西尾善積,羽根田弥太, 十九日 水 降リモシナカッタガ,終日ドンヨリトシテ,ヒヨヒヨト底冷エガスル。 夕方小雨。 夕 食 朝,綾子ノ友達ノ Dongtang[原母初子嬢]ト云フ人ガ突然来ル。□□午後ノ散歩ニ 〔ママ〕 Dongtang ト弟サントヲ誘ッテ皆デ,小鳥の森ノズット向フマデ散歩。 午,Dongtang トオ母サント来テ日暮マデ話シテ行ク。 朝食前ノ散歩ハ,日ノ御子社カラ旧道ヲ,杉並木□ノ切レル所マデ,橋供養塔マデ行 ッテクル。 二十日 木 晴。 忠チャント Dongtang ノ弟ト四人デ朝食前,奥社旧道カラ角力道場ノ一方ヲヒトマハ リ。午後オ風呂ノアト Dongtang ガ来ル。夕方,雄チャンモ来テ,夕食前ニ又日ノ御子 社カラ向ヲ一マハリ。 525 夜又,Dongtang 姉弟ガ来テ十時マデ大ゲサニ遊ンデ行ク。 書キモノハ,アト一章ト云フ所マデ漕ギツケル。 発信 中沢英子, 二十一日 金 朝カラスバラシイ晴, 朝,宝光社カラ七時ノバスデ Dongtang トオ母サントガ帰ルト云フノデ,皆デ送ッテ 行ク。夕方ノ散歩ハ上水保安林ノ奥ヘ。順チャンノ姉サンモ誘ッテ。 受信 竹下源之介, 二十二日 土 晴,昨日ヨリ稍暖イ, 朝夕ノ散歩,一点ノ雲モナイ秋ノ空,瑠璃ノ空,昨日モ今日モ,昼前ニ一人デ,山ヲ 林ヲドコデモカマハズ歩キマハル。 受信 土方愛子,柴山昌生, 世田谷ト諏訪□カラ手紙ガアッタノヲ知ラナイデ,返送シテシマッタ由。 二十三日 日曜日 晴,夜雲多ク月カクル。 朝ハ綾子ト二人ダケデ,裏山カラ道場ノ方ヲ一マハリ。小包造リ。 夜ハ宝光社デ地蔵盆ノ踊ガアルト云フノデ,九時頃カラヨシササント静子サント三人 デ行ッテ見ル。ソレデモ早過ギテ,十一時ニナッテヤット招魂社ノ下デ獅子神楽ガハジ マリ,ソレガ役ノ行者祠デマタ舞ハレテカラ,十二時半頃ニナッテ盆踊ガハジマッタガ □,戸隠甚句デハナクテ,瑞穂音頭ダッタノデ,二三十分見テ一時半頃ニ帰ッテクル。 受信 中島敦,大本願, 青クルミ(旋頭歌) 㾎村ノ子ガ 道ニウヅクマリ 石モテクダケル 青キ実ノ キタナキタナラシ 問ヘバクルミノ実 㾎青クルミ 石モテクダキ クダキテハ食フ 村ノ子ノ 手サヘ口サヘ 黄色ニ染ミテ 㾎村ノ子ガ 拾ヒ来テクレシ 青クルミノ実 子ラニナラヒ 石モテクダキ 食ヘバゾウマキ 二十四日 月 晴, 明日帰ルコトニシタノデ,小包五ツモッテ,静子サンニモ来テ貰ッテ,十時ノバスデ 526 土方久功日記Ⅴ 第31冊 宝光社マデ行ッテ小包ヲ出シテクル。朝バスマデノ時間ヲ綾子ト中社ニオ詣リニ行ク。 隣リノ五斎神社ノ小社ニモ行ッテミルト,其ノ隣リニハ又,菅公様ガアリ,其ノ又向フ ニ宣澄社ガアッテ,宣澄像ノ古ビタ石像ガアリ,其ノ又横一段高イ所ニ飯縄様ガ,コレ ハ祠ハナクテ石ノ浮彫 ― 一面六臂像ガ二基ト,何トモワカラナイ羽ノアル神像ガ二 綱 基,只其ノ前ニ小サナ白旗ニ飯□縄神社トアルノデ,ソレト知レル。 〔ママ〕 中社ノ石段ノ日ニハ,モ一ツ小サナ日吉社ガアル。ドレモコレモ社トハ云ヘナイ,小 屋ガケノ様ナモノデアル。 綾子ハ又風邪ギミデ,午後ハ本式ニ寝コンデシマフ。夕方ノ散歩ハ一人デキッチリ 四十五分間,山ノ中ヲ スタスタト 歩イテ来ル。 夜,雄チャンガ来ル。 受信 中沢英子 □旋頭歌 ト短歌ト 㾎戸隠ノ 森ノ朝道 朝日スガシミ 行ケバカモ ココダモ聞コユ ヲチコチ鶯 㾎戸隠ノ 山ノ高ミユ 裏ニ表ニ 見ハルカス 朝日イッパイノ 連山カシコ 㾎飯縄ト瑪□瑙,怪典ト 並ビ立チ,瑪瑙ノ嶺ニ 雲ノオホヘリ 㾎今日ハ晴レテ小鳥ノ森ニ,鶯ノ声ヲナミシテ蝉鳴キサワグ 㾎登リ登リ汗バム頃ヲ 国有林ノ樅ノ木立ニ 鳴キ交フ山鳩 㾎戸隠ハ水清キトコロ,泉水ノ□□小瀧ニ岩魚住ミ 馴レニケリ 㾎ココラアタリ貧シキ農家ノ家毎ニ 花草植ヱテ小鳥飼ヒ居リ, コガラ 㾎賎ケ家ノ軒ニ籠垂レ頬赤ヤ小雀,ヒワ,コマヤ飼ヒ馴ラシタリ, 㾎朝露ノ道行キケレバ 日ヲヌクミカ,熊笹ノ上ニキリギリス鳴ク 4 4 4 4 㾎キリギリス ハンケチノ中ニ捕ヘラレ 恐レモセズテ 鳴キ鳴キ居ルモ 㾎畑道ヲソゾロニ行ケバ サルモモヒキノ 色白キ 乙女逢ヒケリ 籠ニミョウガ子 527 㾎戸隠ノ村ニハ多キ トウスモモノ木 猿ノ如 子ラガ登リテ 青キ実ヲ食ヘリ 㾎カラマツノ林ト文ニ 歌ニ聞キケル カラマツノ林アリケリ 戸隠ニシテ 㾎右ノ手ノ 越後路ニサシカカリケレバモ 原ヒラケ 松蟲草ノ 咲キアフレケル 㾎朝ナユフナ 晴レ間曇リ間 ソゾロアルキニ 見ル山々 昨日ハ遠ク 今日ハマノア タリ 㾎戸隠ノ 手打チソバウマシ膳ノ上ニ 岩□魚ノ大キトヂコボウニ味噌ト 㾎苅リ込ミノ 庭ノ樅ノ木 ヨシトミレバ ハツハツニ 朱色□ツツマシキ シガ実カ ナシモ 長歌 㾎カラマツノ林ハアレド,モミノ木ノ森ハアレドモ,御社ノ 古杉ノ森ハ カシコカリケ リ 返歌 戸隠ニ多キモノ,社 杉木立,古杉ノ森ハ カシコキモノゾ 月 二十五日 □火 晴, 十時ノバスデ山ヲ下リ,〇時十三分ノ汽車デ東京ニカヘル。六時半上野着,八時前柴 山サンニ帰リ ― 百合チャンガ来テ居ル ― 夕食,風呂,十二時マデ叔父様ト話シテ, 宿ル。十五夜ノ月ヨシ。 火 二十六日 □水 晴,夜雲多シ。 早朝,英子サンノ所ニ行キ ― 忠久,大学ニ入レル ― 久顕サンノ所ニカヘッテ朝食。 祐天寺姉上,丸林サンノ息子ガ入院シテ居ル。 夕方カラ豪徳寺ニ行キ,八時頃敬子サント二人デ後藤ノ所ニ行キ,十時頃辞シテ帰ッ テクル。 受信 貞久ガ葉山カラ絵葉書,忠光ガ千葉カラ絵葉書,高崎ヤス, 「太平洋」 , 「民族学研究」穢屋,抜刷, 水 二十七日 □木 晴,朝一度,午後二度,驟雨。 午後,太平洋協会ニ行ク。平野氏,清野氏ニ面談,ボルネオ行キハ十月中旬ラシ。笠 528 土方久功日記Ⅴ 第31冊 間氏ニ紹介サル。其他若イ人々ニモ。 カヘリ綱町ニ行キ,夕食ヲ馳走ニナッテ九時半頃帰ッテ来ル。 二十八日 金 晴,朝カラ何度モ驟雨,風ニ乗ッテクル。 昨日夕方,ラヂオデ今日嵐ガ来ルコトヲ報ゼラレテ居タガ,ソシテ雲ガ多ク,時々変 ナ時化メイタ風ト雨トガ来テハ過ギタガ,ソノママ夕方ニハオサマッテシマ□フ。外出 ヲ見合ハセ,朝カラ午後マデ,英子サンノ所ト柴山サンデ過ゴシテシマフ。夜,兄上ガ 来ラレ,八時頃カ後藤ガ来テクレテ,一緒ニ英子サンノ所ニ行ク。 〔禎〕 受信 後藤貞二,羽根田弥太(戸隠ヨリ廻送) 二十九日 土 スバラシイ晴。暑。 一日家ニ居テ机ニツイテ居タガ,暑クテ,サワガシクテ,仕事ハアマリハカドラナイ。 三十日 日曜日 曇,午後雨ニナリテ止マズ。 綾様,フク子,ヤチ子,フクチャンノ次女。 敬子サン,晩,久顕サント三人デ渋谷ニ飯ヲ食ヒニ出ル。 発信 高崎ヤス 三十一日 月 曇後晴レシモ雲速ク,風強シ。 終日家ニ居テ,書物アマリハカドラズ。 受信 竹下源之介 戸隠山ニテ 㾎今日ハヨク晴レテ遠山山ニ靄色カカレル 㾎今日ハカラリト晴レテ 近キ杉ノ森,遠キ樅ノ森,カラマツノ森 雑木(ザウキ)ノ森トカサナリツヅケリ 㾎戸隠ハ寒々キトコロ八月ナカバ 昼寝スト 虻追ヒ出シテ障子ヲ引クモ 㾎戸隠ノ此ノ山ノ家ニヤサシキ小田巻 シヅヤシヅ 小田巻草ノ花ハナケレド 㾎随神門ヲ這入レバ大キ杉木立ナリ 古杉ノ 529 九月 一日 火 スバラシイ晴レ日ニナリ,天高ク雲モナクナリシガ,風ハゲシ。夕方風凪 イデヒドク暑シ。 昼マデデ,ヤット「サトワル生活記録」ノ最後ノ章ヲカタヅケル。 午後,東横ニ出デ後藤ノ処ニ行ク。 塚野サンノオバアサンヨリオ祝物。 二日 水 晴,暑,無風, 朝カラ買物ニ出テ昼ニ帰リ,一寸昼寝シテ十五時ニ太平洋協会ヘ行ク。皆集ッテ居リ, タワオ産業ノ伊藤義助氏ノ話。 夜,久顕ト英子サンノ所,柴山サン。二十四時ニ帰ッテクル。 受信 山井忠,原母雄次郎, 「太平洋」 , 発信 山井忠,原母雄次郎, 三日 木 晴,無風,暑, 朝,柴山サンニ行キ,綾子ニ手伝ッテ貰ッテ十三日ノ招待状書キ,書キキレナイ分ヲ 綾子ニ引受ケテ貰ッテ,昼食ヲタベテ帰ッテ来,一寸昼寝シテ□□十五時半ニ太平洋協 会ニ行キ,マレイ語ノ講習ヲキキ,終ッテ皆デ十八時頃鉄道ホテルニ行ク。今度ボルネ オニ行ク連中ノ顔ツナギト,打合ハセノ集リ,四人程遠イ人達ガ欠席シタダケデ,協会 側トアハセテ二十人ホド集ル。二十二時前ニ帰ッテ来ル。 受信 阿刀田研二。 四日 金 曇,ヒヨヒヨト凉シク,午後ハ小雨降リ且ツ止ム。 朝,綾子ガ一寸来ル。午後,綾子ノ所ニ頼ンダ招待状ヲ取リニ行ク。十四時ニ帰ッテ 来ルト,間モナク綾子ト昭子ト来ル。二人ガ帰ルト後藤ガ来テクレル。招待状ノ上書ヲ 書イテシマヒ,十六時頃カラ二人デ軍人会館ニ行ッテ,十三日ノコトヲ大体キメテ来ル。 夜,英子サンガ来テクレル。 㾎今夜雨ハヤミシモ秋ノ如 寒クシヅケク 家ノ中ニ高々トシゲシゲトコホロギガ鳴ク 㾎九月ニナッテ此ノ庭ノ朝顔ノ咲キノサカリカ 柘 □石榴ノ木ニ 銀杏ノ木ニ 高々トカラミツキ 朝毎ニ何十ト云フアカイ花,空色ノ花 530 土方久功日記Ⅴ 第31冊 㾎雨ガナカッタ夏ノ間 焦ゲツクヤウニ咲キホコッタ日廻ノ花 此ノ頃ノ秋メク雨ニ首タレテ スクナ 花ビラモ少クヨゴレタ ヒマハリ 五日 土 終日ドンヨリトシテ ヒヨヒヨト寒ク,糠ノヤウナ雨ガ降ッタリ止ンダリ, 英子サンガ来テクレル。 十四時頃思ヒキッテ出カケ,三沢ノ処ヲ訪ネル。二十二時二十分帰宅。 発信 土方梅子,三沢寛,中島敦,山口昇,土方玄昧,山井忠,竹下源之介, 受信 「南□島巡航記」大和書店ヨリ。山口岩夫(パラオ) ,□山井忠。 近所近辺ノドコノ家カデ,朝カラ晩マデ大キナ音デラヂオガ鳴リツヅケテ居ル。私ラ シイ夜位ヒ,ラヂオ放送ヲ止メレバイイ。コホロギノ声ノ方ガ余程イイ。 六日 日曜日 曇,昼前暫ク小雨アリ。 九時半頃家ヲ出テ,敦チャンヲ訪ネル 348)。敦チャンハ寝テ居タガ,別段悪イノデハナ カッタノデ直グ起キタ。原稿ハ全部□目ヲ通シテオイテクレタノデ,一通リ見テ貰ッテ 帰ッテクル。十四時。 昨日英子サンガ来テ,百合チャンカラ柴山ノオヂサマ,オバサマト一緒ニ招待サレテ 居ル由ヲ言ヒ置イテ行ッタノデ,一寸英子サンノ所マデ行ッタラ,早メニ行クカラトノ コトダッタ由ナノデ,十五時半頃柴山サンニ行ク。川上ノカヅ子サンガ来テ居タシ,洋 子チャンヲアヅカッテ居テ,ユック□リ行カウト云フ。十八時近クナッテ出テ行ク。百 合チャンノ帯ノ祝ダッタノダッタ。 二十四時前ニ帰ッテ来ル。 受信 久保田□公平,家入満洲雄, 七日 月 曇,後晴, 出ヨウ出ヨウト思ヒナガラ,一日グヅグヅシテシマフ。 夜,後藤ノ所ニ行ク。スグアトカラ園チャント敬子サント帰ッテクル。パーマネント ヲカケニ行ッテ,一日カカッタ由。 八日 火 晴,ヒドク暑イ。 十一時過ギ,放送局ニ久保田君ヲ訪ネタガ,居ナイノデ本郷ニ出テ食事シテ大学ニ行 ク。人類教室ニ杉浦君ヲ訪ネタノダガ,相憎国ニカヘッタトテ,八幡君ダケ居ル。オ茶 ノ□水カラ神田ニ出テ十六時半頃帰ル。十九時前竹下君ガ少シバカリ校正ヲモッテ来テ クレ,二十時頃マデ話シテ帰ッテユク。 531 九日 水 晴,暑, 家ニ居テ荷物ノ片ヅケ。夜,柴山サンニ行ク。 十日 木 晴,暑, 家ニ居テ荷物カタヅケ。 午後三時過ギガ,梅サンガ祝物ヲ持ッテ来テクレ,仝時ニ久保田君ガ尋ネテクレ,一 寸オクレテ敬子サンガ来ル。 夜,久顕サンガオ別レノ酒盛ヲシテクレ,丁度祐天寺ノ兄モ来テ居テ,キッチリ二十四 時前マデ。 受信 高松邑行, 十一日 金 晴,暑, 朝,後藤ノ所ニ行ク。宴席ノ件,後藤モ弟サンノ件デ軍人会館ニ行クト云フノデ一緒 ニ夕方行クコトトシ,昼前ニ川名サンノ所ニ行ッテ来ル。敬子サント一緒ニ後藤ノ所ニ 引カヘシ ― 敬子サンハ御□飯ノ焚キ方試験 ― 夕方,後藤夫婦ト一緒ニ軍人会館ニ行 キ,銀座ニマハッテ二十一時ニ別レテ帰ッテ来ル。 柴山サンカラオ祝品。 受信 山井忠,大和書店(校正) 十二日 土 晴,暑, 朝,床屋,午後,東横ニ印刷物ヲトリニ行ク。 明日来ル人達, 柴山昌生夫妻,道隆,昭子,妙子,三沢寛夫妻,中島敦,山口歌子,久俊,英子,久 顕,土方梅子,与平,道子,忠久,忠直,忠光,忠義,玄昧,後藤夫妻,九 亀田豊治朗夫妻,加藤節子,宮寺嘉一, 千葉□宗八夫妻,稲葉真理子,峰慎平夫妻,伊 藤千代人,寺田綾子,川名なか,英光,嵩久, 十三日 日曜日 晴,雲多ク,暑シ, 九時前ニ久顕サント英子サンノ処ニ行クト,スグニ兄上モ見エ,九時過ギテ後藤ガ来 ル。 九時半ニ皆デ一緒ニ□軍人会館ニ行ク。川名側ノ人達ハ早クカラ皆来揃ッテ居リ,予 定通リ,十一時ニ式,十二時過ギニハオ客サン達モ集リ,十二時半会食。 十五時五分ノ汽車デ立ツ。後藤夫妻ト英サント嵩チャンガ東京駅マデ送ッテクレル。 小田原カラ登山電車ニ乗リカヘ,丁度十八時ニ強羅ホテルニ入ル。 夜,雲ガ多ク嵐メイタ風ガ吹ク。 532 土方久功日記Ⅴ 第31冊 十四日 月 曇,晴。雲ガ非常ニ多ク,終日間ヲオイテハ嵐ノヤウナ西風ガ吹ク。夜 ニ入ッテ暫ラク雨アリ。 朝食前,強羅公園ノ方ヲ散歩シテミタガ,裏ノ早雲山ガ近々ト不思議□ナ形ヲシテ居 ル外ニハ,一ツモ眺メガナクテツマラナイ。春カ秋デデモアッタラ,モ少シ気持ガイイ ノダラウガ。ソレニシテモ強羅,強羅ト,ドコガソンナニイイノカ,チットモヨクナイ。 昼前原稿校正。午後昼寝。四時ニオ茶ヲ飲ンデ,夕方ノ散歩ニ出ヤウトシタガ,雲ハ マスマス低ク風ガヒドイノデトリヤメ。 曇 十五日 火 朝カラ□雲ガ多カッタガ,昼前カラマルデ一面雲ノ中ニ入ッテシマヒ, ソノウチニ風マデ吹キ出シテ,雲ノ雨ガ横ニ降リ上ニ吹キ上ゲタガ,遂ニ本物ノ雨ニナ ッテシマフ。終日,前後ノ山ハ勿論,ホンノ目ノ下ノ森モ町モ何モ見エズ,夜マデ雲ノ 中デ暮シテ居ル。 朝ノ散歩ガ出来タダケガトリエダッタガ,オ蔭デ校正ハ夜マデカカッテ,スッカリヤ ッテシマフ。明日ハ元箱根マデ出ル予定ナノデ,何トカシテ雨ダケ降ッテクレナイヨウ ニト思フ。 ホテルデハ朝ノ日本食ノマ□ヅサ,ト云フヨリ米ノ悪サ。ソノカハリ,昼ト夜ノ洋食 ハ,ウマクテ量ガアッテ ― 但シ,スープダケハ仝ジモノバカリ出ル。ソレニシテモ材 〔料〕 量ハ相当デ,オックス・テイルガアリ,小牛ノ肋ノチョップガアリ,チキンノ大切レガ アリ,肉トハムノかまぼこ?ガアリ,鮮魚ノジャンボールト云フ,シャレタモノマデ出 テ来ル。ソシテ其ノ上,十五時過ギノオ茶ガマタ,ケーキトトーストデ,ケーキハ上物, トーストハ上手□ナ焼キ方デ,若シモ今少シバタガヨカッタラ,スバラシイト云ヘヤウ。 紅茶ガカップノ半分位シカナクテ,砂糖ヲムコウデ入レテ来ルノガ,甘クテベタツク様 ナノニハ閉口ダガ,ソレデモ此ノオヤツハ楽シイ。紅茶ノ量ガアマリ少イノデ,オカハ リヲタヅネタラ駄目ダト云フ。ケチクサイトコロダ。食□堂ボーイモ女バカリ,室ノ世 〔嬌〕 話モ女中サンガスル。女中サンハ出テ来ル時ハナカナカ愛驕ガアリ,気持ヨク物ヲキク ガ,引込ンダラ最後,一向ヨケイナコトハシテクレナイ。 十六日 水 曇後晴,雲多シ。 昨日ノ続キノ雲ガ,朝カラ山々ヲカクシ,空ヲカクシ,雨ハ降ラナイケレド,ガスノ ヤウニタレコメテ居ル。ソンナ雲ガダンダンニ切レタリ,マタ現ハレタリスルノデ,今 日ハケーブル・カーデ早雲山ヲ登リ,バスデ湖尻ニ出テ,ブラブラシテカラ遊覧船デ箱 根ニ夕方前ニ入ル心算ダッタノヲ,予定ヲカヘテ九時前ニホテルヲ出テ電車デ宮ノ下ニ 出テ,ソコカラバスデ十時半過ギニ箱根ニ出テ来テ,箱根ホテルニ入ル。 昼食後,敬子ト元箱根ニ出,箱根権現様マデ行ッテクル。十五時ニホテルニカヘリ, オ茶。ホテルハ昨日マデ修善寺カラ移ッテ来タ独逸人デ満員ダッタノガ,昨日皆引上ゲ 533 タ所ダトテ非常ニスイテ居リ,私達ノ□室ハ別館階下ノ一番ハジノ湖水ノスグソバデ, ソレハ靜カデ,目ノ前ニ湖ト向フノ山々ガ横タワッテ居ル。強羅デハ雲ノ中ニ包マレテ シマッテモ,一向寒クナイドコロカ,夜ナドハ暑クテ毛布モカブラズニ寝タノニ,ココ ニ来ルト,真昼ト云フノニシンシント寒クテ,長袖ノシャツヲ着込ンダガ,ソレデモ夕 方マデ上着ヲヌグ気サヘシナイ。 客モ少イノダガ ― 向フノ方ニハ外人ノ若イ男達ノ二十人程ノ群ガ居タガ ― 実ニ静 カデ,未ダ紅葉ノ色ハ全然ナイガ,眺メハ何カ秋メイテ,ジット湖水ヲ,山々ヲ見テ居 ルト,悲シイヤウニサビシイ。セキレイ(鶺鴒)ガ二羽三羽鳴イテハ,アチコチト飛ン デ居ル。時々静カナ湖ノ水ヲ静カニユサブッテ,客モナイ遊覧船ガヤッテ来テハ,空ッ ポノママ帰ッテユク。 夕方,雲ガ多イノデ早クカラ暗クナッタ水ニ,一艘二艘ボートヲ乗リ出シテ,ボンヤ リ釣ヲシテ居ルモノガアル。 元箱根ニ出ルマデノ昔ノ杉並木道ハ実ニヨク,其ノ所々カラ眺メル湖水ト山々トハ仝 ジヤウニ気持ガヨイガ,元箱根ノ町ニ入ルト,ココハマタ俗ッポクオ土産屋ガ軒ヲナラ ベ,雑多ナ人々ガ多ク,料理屋ゴトニ食事ヲサソヒ,道々少シ行クトハ大道写真屋ガ写 真ヲ撮ラセテクレト出テクル。権現様モ何時建テ直サレタノガ,新ラシヤカナ朱塗ガ一 向サビテモ居ズ,杉並木トハチガッテ,少シモ床シクナイ。 一個二十八銭ト云フ二十世紀梨ヲ四ツ買ッテ帰ッテ,トーストト紅茶トミルクノオ茶 ヲ持ッテ来テ貰ッテ,二人デ差シ向ッテ居ルト,敬子ハボンヤリ前ノ湖水ト山トヲ見ツ メテ,スッカリセンチメンタルニナッテシマッテ,何ヲ云ッテモ,話シテモ,何カカニ カ答ヘナガラ,笑ヒナガラ,ソレデ居テ涙ヲボロボロトコボシテ居タガ,ソノウチニ□ 寝台ニモグリコンデ,顔マデ毛布ヲカブッテ寝テシマフ。 十七日 木 曇,後晴レシモ雲多シ。 朝食後 ― 朝食ハトースト・パントオートミールト茹卵トホット・ケーキトコーヒー デ,□頗ル御機嫌ガイイノデアル。ココノコーヒーハアマリウマクハナイガ,強羅ノイ ンチキコーヒートチガッテ,兎モ角モ本物デアリ,ソノ上ココデハ不思議ニミルクガ豊 富ナノデ,アフターヌーン・ティーノ時モ惜シゲナクミルクヲクレルノデアル。 ― 九 時十分ノ遊覧船デ湖尻ニ出,九時四十分ノバスデ大涌谷入口マデ行ッテ,ソコカラ実ニ 〔ママ〕 気持ノイイ,人一人居ナイ大キナ補装道路ヲ歩イテ登ル。朝ノウチ降リ出スカト思ハレ タ雲ガダンダン薄クナッテ,ソノ頃ニハ実ニ気持ノヨイ秋ノ朝トナッテ居タ。 十時半ニモナラウトシテ居ルノダカラ,朝ト云ッテモモウ日ハ高イノダガ,ソレニモ 拘ラズ,秋ノ朝早ノヤウナ空気デアリ,日差シデアリ,坂ヲ登ッテモ汗バミモセズ,寧 534 土方久功日記Ⅴ 第31冊 ロ日ニアタルノガココロヨイノデアッタ。ブラブラ歩イタガ,二十五分程デ大□涌谷ノ 頂上ニツイタガ,ソコマデ行クト反対ニ早雲山ノ方カラ登ッテ来タ人々ガ,大変ナ数ナ ノデ驚イテシマフ。ソコカラ見下ス芦ノ湖ノ□眺メハ大変美シク ― スケッチ・ブック ヲ出シテ大ザッパニスケッチスル。ソレカラ右手ニアタッテ長尾峠,乙女峠ノ向フニ, 丁度雲ガ切レテ高々ト藍色ノ富士山ガ現ハレタノガ,マタ実ニ美シカッタ。ソレカラモ 富士山ハ雲ニカクレタリ現ハレタリシタ。 前登ッテ来タ道ヲ ― 大涌谷ニ来タ沢山ノ人々ハ不思議ニコッチニハ来ナイデ,向フ ヘ下リテシマッタノデ,コッチノ道ハマタ一人ノ人ニモ逢ハナイ,静カナ晴々シイ□秋 ノ道デアル ― オリテ来ルト,丁度湖尻ニ行ク空バスガ来タノデ待ツコトモナク,十二 時十五分前ニ湖尻ニカヘリツク。ソコカラ元箱根マデヲ山腹ヲ走ルバスヲ利用シテ,見 下ス芦ノ湖ノ眺メヲ満喫スルツモリダッタノガ,アヒニク元箱根行キノバスガ出ナイサ ウデ,一方ハマタウマイ事ニ十二時ニ□出ル遊覧船ガトマッテ居タノデ,再ビ遊覧船デ 元箱根ニカヘリ,ソレカラ歩イテホテルニカヘルト,昨日カラノ寒サガ,ヤット上着ヲ ヌギタイ暖カサニナル。十三時デアル。ホテルノ昼食ガウマイ。食□後一時間程寝テ, 十五時半ニ昨日ト仝ジオ茶ヲイレテ貰ッテ,夕食前ニハ又,今度ハ箱根峠道ヲ三十分程 モ登ッテミル。夕暮ガ静カデ,ネムッテ行クヤウナ鞍掛山カラ屏風山,二子山,駒ケ岳, 神山ノ連山ニカコマレテ,下ノ方ニ淋シイ芦ノ湖ノ眺メ。夕食ノ黒ビールノウマサ。 535 明ルイ青イ感ジノ部屋, 真前ニ低ク赤□屋根ガ大キク横タワッテ居リ,其ノ後ガ明星岳,左ニツヅイテ明神岳, 明星岳ノ右手ハ谷ニナッテ,遠ク相模灘ガ見エ,其ノ右ニハ鷹巣山ノ袖カ,迫リ出テ谷 ヲハサンデ居ル。 東 ⃝ 湖水ノ石垣ニ立ツト,正面稍右ヨリニ大キク駒ケ岳,ソノ左ニ続イテ神山ガ稍低ク見 エル。 正面稍左手ヨリニハ,対岸ノ三国山,湖尻□峠,長尾峠ノ向フニ高山ト富士ガ見エル。 右手ハ二子山ガ殆ド屏風山ニカクレ,屏風山カラ裏ニマハルト鞍掛山ダガ,室カラハ 其処マデ見エナイ。 十八日 金 雨,後止ミシモ曇リシママ。 昨日,ホテルカラ元箱根ニ電話シテ貰ッテ,バスガコミアフヤウナラバ,八時ノ小田 原行キデ元箱根マデ出ルツモリダッタガ,バスハ必ズ席ガアルカラ,ユックリ ココカラ 乗ッテ行ケバヨイトノ事ダッタノデ ― 朝カラ雲ガ低クテ,筋ヲヒイタヤウニ山ト云フ 山々ガ頭ヲ切ラレテ居タノガ,間モナクトウトウ雨ニナッテ,ソノ山々モマルデ見エナ 〔ママ〕 クナッテシマフ ― 八時半を少シ過ギテバスガ来ルト,満員デヤット乗ッタガ,ギュー 536 土方久功日記Ⅴ 第31冊 ギューニオシコマレテ立ッテ居ル始末。其ノ上天井ガ低イノデ,真直グ立ツコトガ出来 ナイママデ熱海マデ出テクル。雲霧ノ中ヲ ブンブン 走ルダケデ,一向眺メハナク,マ ルデ静カナ大河ノヘリヲ走リツヅケテ居ルヤウ。バスノ女車掌ガ途々何カカニカ遊覧バ スラシク,朗読調デ説明ス□ルガ,何ニモ見エナイ。 霧 ソレデモ十国峠マデ□来ルト急ニ雲ガウスレテ,□霞ンデハ居ルガ,遠ク遠ク下ノ方 ニ関東平野ガヒラケテ見オロサレ,ソシテ熱海峠ヲ越スト,ソノ霧モナクナッテ,初島 カラ,コノ下ノ海岸マデノ間ガハッキリト右ニ左ニ姿ヲカヘテ現ハレル。 バスノ女車掌ニ訪ネタラ,大野屋ニ行クナラ,駅マデオリナイ方ガ近イト云フノデ途 中デオロサレタガ,ソコカラ タラタラト オリテ海岸通リマデ出テ,殆ド熱海ノ右ノ端 ニアル大野屋マデハ大変ニ遠ク,二人デ一ツヅツカバンヲサゲテ,ブーツク云ヒナガラ 十時頃大野屋ニ入ル。寿ノ三十二番ト云フ三階ノ一番端ノヨイ室ガアッテ,浴衣ニキカ ヘ風呂ヲ浴ビテ,一休ミスルト中食,中食後□一時間程昼寝。熱海ニオリテ来ルト,海 ハ近ク,曇ッテ居ルノニ結構暑ク,浴衣一枚デ昼寝シテモ,凉シイトモ思ハナイ。 熱海ノ町ハチットモイイトコロガナイ。大野屋ト云フノハ実ニ大キナ建物デ,部屋ナ ドモ綺麗ニシテハ居ルガ,女中ダマリノ騒々シサ,女中達ノ行儀ナサ,短評ヲ加ヘルナ ラバ,建物ハ,少クトモ其ノ大キサニ於テハ稍一流,料理ハ品数モアリ,一応ヨイガ今 一息デ,コレモ料理屋デナク,宿屋トシテモ先ヅ二流,客アシラヒハ,玄関ノ洋服ノ男 達ハシッカリシタホテルノヤウダガ,室々ノ女中達ハ皆落第デ,品格トシテハ第三流ト 云フトコロ。 □十六時過ギ散歩ニ出ル。魚見崎ノ下観魚洞ヲヌケテ,錦ケ浦ニ出,一本松ノサキノ 方,曽我浦ノ手前,網代ノ町ヲ真前ニ見ルアタリマデ歩イテ引返ス。初島ハ案外遠クノ 方ニハナレテ浮イテ居ル。熱海ヨリハコノ方ガ余□程イイ。夕方ノ静カナ海ハ,イツ見 タッテイイコトハ書カナイデモイイ。一面ニ雲ノ多イ,ソレデモドウヤラ青空ラシクナ ッテ来タ夕方ノ天ニ,半分バカリノ月ガマダ光ラナイデ,黄色クカカッテ居ル。 熱海ト云フ所ハ,トンデモナクゲスデ騒々シイ処ダ。夜遅クマデローマ式円形大浴場 トヤラデ,大ノ男ガ大キナ声デ寝言ノヤウナ演舌ヲシテ居ルカト思ヘバ,向フノ方デハ, 親不孝ラシイ大キナ声デナニワブシヲウナッテ居リ,時ヲオイテハ ブーブー トハイヤ ーガ玄関ニノシコンデ来ル。 海岸ハコンクリートデカタメラレ,町ハ空地モ庭モナクゴセゴセト家ガコミアッテ居 ル。今頃,貫一サント,オ宮サントヲ探シテ来テ見セタラ,昔ヲ振リ返ルヨスガモナク, 只々 キョトキョト スルニチガヒナイ。 十九日 土 朝カラ怪シゲニ曇ッテ居タガヂキニ雨ニナリ,終日雨,マスマスヒドク 夜ハ風サヘ強イ。 九時ニ宿ヲ出,ハイヤーデ駅ニ出テ,十時二分ノ汽車デ帰京。東京駅デ中食,十四時 537 ニ豪徳□寺ニツキ,暫ク休ンデ,十六時ニ新居ニ移ル。大変ナ雨風デ濡レテ来タノデ, 夕食ハ後藤ノ所デ食ベサ□セテ貰フ。 二十日 日曜日 雨,後晴,風稍強, 後藤夫婦ガ来テオ茶ヲ飲ンデ話シテ行キ,後ニマタ後藤ガ兄サンヲツレテ来ル。 英チャンガ色ンナモノヲ運ンデ来テクレル。一緒ニ昼食,オ母サンガ来ル。十四時頃 カラ,二人デ,祐天寺ニ行キ,後,府立高等ニ行キ,柴山サン,中沢サン,久顕サンノ 所ニ行キ,久顕サンノ所デ夕食ヲ馳走ニナッテ,二十二時頃帰ッテクル。 受信 太平洋協会(四通) ,野口正章,杉浦健一,大和書店(校正四通) 留守中タマッテ居タモノ, 二十一日 月 晴,十四時頃ヨリ,時化,雨時々ヒドク来,嵐メイタ風吹キ続ク。 十一時ニ太平洋協会ニ行ク。十四時頃,清□野氏ト一緒ニ帰ッテ来ルト,渋谷マデ出 タ時,大変ナ雨風トナッタノデ,府立高等マデ行クツモリダッタノヲヤメテ,真直グ帰 ッテクル。 夜,久顕ヲ呼ンデアッタノガ,止メルト云ッテ来タノデ,後藤夫婦ヲ呼ンデ,一緒ニ 賑カニ食事。 二十二日 火 朝ノウチドウヤラ天気ガオサマッタ様ニモ見エタガ,雲ガ多ク,風ガ 気マグレデ,午後終ニ又ヒドイ雨ガ降ッタリ止ンダリスル。 午前中,東横ニ寄ッテ刷物ヲトッテ,府立高等ニ出,久顕サンノ所ニ行キ,町会ニ往 復シテ移動申告証書ヲトリ,午後荷物ヲマトメテ,天気ガヨクナッタラ持タセテ貰フコ トトシ,英子サンノ所ニ行ク。 夕方帰リニ,久顕ト忠久ヲ誘ッテ,一緒ニ連レテ来ル。 受信 竹下源之介, 二十三日 水 曇,小雨,午後晴,夜寒, 大和書店ニ行キ,竹下君ニ会ヒ,校正済ミノ分ヲ渡シテ,大学ニマハリ,杉浦君ニ会 ッテクル。 二十四日 木 朝一寸ノ間曇ッテ居タガ,晴レテ一日ヨイ天気,晩モ十五夜ノ月ガ明 ルカッタガ,遅ク雲ガ出テ,少シ雨ガアル。 終日家ニ居ル。夕方,川名サンヘ一寸行ッテ来ル。 夜ハ,後藤夫婦ガ来テ居タトコロヘ,英サンモ来テ,二十三時過ギマデ話。 538 土方久功日記Ⅴ 第31冊 二十五日 金 快晴, 十五時ヨリ太平洋協会デ南方斑ノ集リ。 二十六日 土 曇,十時頃ヨリ晴レ,十五時頃ヨリ再ビ曇リ,日暮ヨリ雨。 十時頃府立高等ニ荷物ヲ催促シニ行カウト思ッテ居タラ,車屋ガ荷物ヲ届ケテ来タノ デ,出カケルノヲ止メテ,一日家ニ居ル。 発信 結婚通知ニ添ヘテ二十五通。 二十七日 日曜日 晴, 午後,軍人会館ニ写真ヲトリニ行キ,府立高等ニマハリ,久顕ノ所ヘ行キ ― 久顕留 守 ― 柴山サンニ行キ,夕食ヲ馳走ニナリ,英子ノ所ニ行ッテクル。 発信 辻忠二郎, 二十八日 月 晴,午後雲多シ。 十五時,太平洋協会ノ集。夕方,太平洋協会ニ久保田君訪ネテ来,一緒ニ新橋デ食事。 二十九日 火 晴,午後雲多シ。 十時頃,田辺ノ英サン夫婦ガ来テクレル。中食後皆デ一緒ニ出,新宿デ別レテ自分達 ハ駒込マデ出テ,青田サンノ所ニ挨拶ニ行ッタガオ留守デ,末子サンダケ居ル。引返シ テ恵比寿ニ出テ,綱町マデ行クト,向フカラ叔母様ト三木君ト出テ来ルノニ道デ逢ッテ, 道デ挨拶シテ ― 梅サンモ那須野ニ行ッタ由 ― 別レテ新橋ニ出,帰リ豪徳寺ニ出テ, 近所ノ二三家ニ挨拶シテ帰ッテ来ル。 受信 辻忠二郎,倉橋弥一,竹下源之介, 発信 竹□下源之介,長谷部言人, 三十日 水 曇,後晴, 移動申告書ヲ持ッテ区役所マデ行カナケレバナラナカッタノデ,敬子ヲ連レテ出,区 役所ヲ済マセテカラ中島君(敦)ノ所ニ行ク。 十一時頃帰ッテクルト,警戒警報ガ出タノデ,午後ハ出ナイコトニスル。 嵩チャンガラヂオヲ作ッテ行ッテクレル。嵩チャンニ黒幕紙ヤ電燈ノ被ヒヲ買ッテ来 テ貰ッテ,管制設備ヲスル。 受信 榊田聖子,山井忠,青田幸吾, 㾎芦ノ湖ノ今日ハサミシモ 九月半バヲ 雲低ク 湖面ハ揺レズ 鶺鴒啼キテ。 㾎大涌谷ヨリ タラタラト アスファルトノバス道ヲ 敬子ト二人 オリ来レバ 真正 539 面ニ 長尾峠ノアタリニ 一線ノ白雲カカリ 其ノ棚雲ノ上ニ大キク高ク ソソリ立 ツ 藤紫ノ富士ノ山カモ 㾎雨雲ノ魚見ノ崎ユ 振返ル 熱海ノ町ノ 家ナミノ 此処ニカシコニ 白煙 イ立チ 昇レル 秋来ムユフベ。 㾎日暮ノ郊外ニ帰ッテ来テ 僅カナ畑道ニ差シカカルト 秋ノ靄ガ静カニオリテ 風モ ナイ冷タサガ近々ト煙ッテ居ル。 十月 一日 木 曇,夜小雨, 十五時,太平洋協会。野口君ヨリ電話デ,月曜日,赤松俊子君ト三人デ逢ハウト。 五時半,文理大ノ学生達カラ□茗溪会館ニ招カレテ居タノデ行ク。オ客ハ田山利三郎 氏ト,遅レテ高橋敬三君ガ来ル。食事後長イコト話。□田山サンハニューギニアニ海軍 嘱託デ年々調査団ヲツレテ出ル由,高橋君ハ陸軍司政官デマニラニ出ル由デ,パラオ以 来ノ知人ノニュース,南方ノ話デ賑ハフ。 二日 金 曇,晴,稍暑, 午後,敬子ト府立高等ヘ行ク。久顕ノ所ト英子ノ所,久顕ノ所デ夕食,二十一時過ギ ニ帰ッテ来ル。 〔介〕 受信 竹下源之助, (校正ト二通) 三日 土 快晴, スッカリ秋ラシク,天ガ高ク日ガ強クテ,風ガカラットシテ凉シイ。 朝,三沢夫婦ガ至チャンヲツレテ来テクレル。 午後ハ太平洋協会ニ話ガアッタノダガ,行カナイデシマフ。 受信 三沢露子, 発信 竹下源之介, (校正ト二通) 夜,嵩チャンガ来テ居ルト,英子サンガ忠光ト忠義トヲツレテ来ル。 四日 日曜日 曇,薄日。 〔山口〕 午後,敬子ヲツレテ昇サンノ所ト,三沢ノ所ニ行ク。 五日 月 晴。 敬子ト銀座ニ出テ買物。正午,日比谷ノミマツデ野口君,赤松君ト逢フ約束ダッタノ 540 土方久功日記Ⅴ 第31冊 デミマツニ行ッテ待テド待テド来ズ,三十五分過ギテ敬子ニ拓務省ニ電話ヲカケサセタ ガ,野口君ハ居ナイト云フノデ,諦ラメテ下ノ食堂ニデモ行カウト,奥ノ方ニ入ッタラ, 野口君ト赤松君ト居ル。赤松君ハ菊屋ギャレリーデ自分達ノ展覧会ノ飾付ケヲシテ居ル ノデ,時間ガナイカラトテ帰ッテシマフ。野口君ト支那料理屋ニ行ッテ中食。後,菊屋 ギャレリーニ行ク。赤松君ト夫君トデ絵ヲ並ベテ居タガ,十五時カラ自分ハ太平洋協会 デ話ヲシナケレバナラナイノデ,三十分バカリ前ニ別レ,敬子ニハ九段ノ軍人会館ニ行 ッテ貰ヒ,自分ハ太平洋協会ニ行ク。 六日 火 晴, 終日家ニ居ル。敬子ハ小児体力検査デ,□午後出テ行ク。 此ノ頃一日一日ト秋ガ深クナッテ行ク感ジ。十四年目ノ日本ノ秋デアル。□葡萄モ食 ッタ。柿モ食ッタ。栗モ食ッタ。サンマモ食ッタ。松茸ハマダ。 受信 羽根田弥太,甘露寺方房, 七日 水 晴,風荒シ。 敬子腹痛癒エズ,オ母サンニ来テ貰ッテ,盲腸ヲ手術スルコトニスル。園チャンガ府 立高等ニ行クト云フノデ,久顕ニ伝言ヲタノンデ,昼食後,自動車ヲ頼ンデ久顕ノ所ニ ツレテ行ク。十五時手術。其ノ間ニ英子サンノ所ニ行キシモ留守,柴山サンニ行キシモ, 綾子トタンチャンダケ居ル。二時間程シテ帰ルト,手術モ済ンデ居ル。久顕ノ所デ夕食, 二十一時半帰宅。朝,敦チャンガ来テクレル。 受信 竹下源之介, 八日 木 晴,夕方カラ曇ル。 早昼デ府立高等ニ行キ,十五時太平洋協会,野口君訪ネテ来ル。坂上君ノ所ヘ届ケタ 本ノ企画届ノ件。太平洋協会ノ帰リ府立高等ニマハリ,柴山サンデ夕食ヲ馳走ニナッテ 後,敬子ノ所ニマハル。 発信 竹下源之介,長谷部言人,山井忠, 九日 金 曇,午後十三時頃ヨリ一時間程小雨アリ,夜又雨ニナル。 早昼デ府立高等ヘ行ク途中祐天寺ニヨル。十八時頃帰リ,後藤ノ処デ夕食ヲ呼バレル。 十日 土 昨夜ヨリノ雨止マズ,朝カラシキリテ雨,午後止ミテ薄日セレド,夜又雨 トナル。 午後,府立高等,英子サンノ所デ夕食,帰後,後藤ノ所デ二十三時過ギ迄喋ッテ居ル。 〔介〕 受信 辻二郎,竹下源之助, 541 十一日 日曜日 快晴, 美シイ秋ノ日。天高ク青ク,日輝カシ。タッタ一ツカ二ツノ白イ雲ガマブシイ程ニ白 ク光ル。 〔後〕 五藤夫婦ト府立高等マデ プラプラ 歩イテ行ク。自分ハサキニ英子サンノ所ニ寄ッテ 甘露寺ノ所ニ電話シ,十七時半ニ訪ネル様ニシテ,病院ニ行ク。十七時ニ三人デ渋谷ニ 出,二□人ト別レテ初台ニ甘露寺ヲ訪ネル。二人デ新宿ニ出テ食事,二十一時ニ帰宅。 朝,嵩チャンガ梨ヲ持ッテ来テクレル。 発信 竹下源之介。辻忠二郎, 十二日 月 曇,夜雨ニナル。 昼前,英サンガ来ル。午後,太平洋協会,帰リ府立高等ニマハリ,久顕ノ所デ夕食。 ペストノ予防注射。雨ガ降ッテ止マナイノデ宿ル。 発信 三沢寛,中島敦,羽根田弥太, 十三日 火 曇,昼前少シノ間晴レシモ,後再ビ曇リ,夜雷雨アリ。 英子ノ所,柴山サンニ行□キ,昼頃帰ッテ来ル。夜ハ後藤ノ所デ馳走ニナリ,二十三 時半迄モ駄弁ッテシマフ。 敬子ハ経過ヨク,今日ハモウ立ッテ歩ケル。 十四日 水 晴,夜一寸雨, 午後,府立高等,夜柴山サンデ夕食,宿ル。 十五日 木 快晴, 〔ママ〕 九時半頃,綾子ト英子サンノ処ニ行キ,一時頃程シテ病院ニ行ク。敬子ガ今日退院ス ルト云フノデ,自動車ヲタノンデ貰ヒ,昼家ニ帰ル。 夜,後藤ノ兄サン達ガ来テ居タノデ,夕食後,後藤ノ処ヘ行ッテ□二十一時過ギマデ 話シテ居ル。 受信 三沢寛, 十六日 金 晴,後曇。 十時頃カラ後藤ト一寸軍人会館ニヨリ,上野ニ出テ文展ヲ見ル。彫刻ト洋画ダケ見テ 出,銀座ニ出テ片山氏ノ個展ヲ見テ,五時頃帰ッテクル。 〔欄外に記す〕 [文展] 少クトモ十五六年振リデ文展ヲ見タノダガ,ソシテ数ノ多イノト人ノ多イノトデ,真 カラユックリ見ナカッタノデハアルガ,ソシテ真面目デ長々ト批評ヲスル根気モナイノ 542 土方久功日記Ⅴ 第31冊 デアルガ,極メテ全体的ニ云フト,第一ニ高イインテリヂェンスヲ示シテ居ルモノガ殆 ド見当ラナイノハ,何ト云ッテモ一番腹ダタシイ。反対ニシツコク臭ッテ来ルノハ,殆 ド無ニ等シイ内容ニコケオドシノ形容詞,形容詞,形容詞ヲツミ上ゲ積ミアゲタ,虚勢 的ナ形容詞ノアラベスクデアルコト,ドレモコレモ大キサバカリガンバッタ ― ホテル ノ階段ノ上ニカケラレ,上リ下リスル人ノイチベツヲダケ喜ンデ受ケルニ価ヒスル ― ソレダケノ様ナ絵デアル。知識人ノ,思想人ノ私室ニ掲ゲラレ,日々,年々シミジミト 眺メラレ慰マレル様ナ作品ハ無ニ等シイ。 コレハ大概彫刻ト洋画ヲ見テノ感想ダケレド,ソシテ日本画ハホンノ二三室素通リシ タノダガ,日本画ニナルト更ニドレモコレモ制限内ノ最大幅デ,ソノ大キナ画面ノ中ニ, 引伸バシタ様ナ大キナモノガ大ザッパニ描カレテ居ルモノガ多イノニハ驚キ呆レタ。全 ク極度ノ引伸バシノ様ニ間ガヌケテ居リ,イヤニ薄色バカリデ,一年モ置イタラ消エテ ナクナル様ナゴフンデ伸バシ伸バシ,絵具ヲ□倹約シタ様ナ ― 色マデ引伸バシノ様ナ 絵ガ多イ。ソレカラモット呆レルノハ,無鑑査ノ多イコトダ。コレデ無鑑査出品者ハ一 年オキト云フノダカラ,無鑑査出品者ガ全部出シタラ,応募者ハ一人モ入選スル場所ガ ナイニキマッテ居ル。イッソ文□展馴レ合ヒ同人展覧会ニシテシマッタ方ガイイ。老大 家連ガヨクモ□耻□知ラズニ熱ノナイ絵ヲ出シテ居ルノニモ,何トカ罰シ度イ気ガシテ ナラナイ。中村不折氏ノ裸体画,有島生馬氏ノ天女ミタイナモノナド,モウ引込マナケ レバシカタノナイモノダシ,大野隆徳ナドト云フ,昔一応描ケタ人ガ,モウ□□落サレ ル道モナク,見トモナイ□絵ヲ出シテ居ルノナドモ悲惨ナコトデアル。コンナ展覧会ニ ムキニナッテ出品スル人達ガ居ルノダカラ,所詮ハ売名自己広告意識ノ結果カ,無定見, 無自覚,無自信ノ結果カデナケレバナラナイ。文展モココラデヤメテシマッタ方ガ世ノ 人々□ニ妙ナモノヲ強ヒナイコトニナルダケヨイ。 十七日 土 曇,十時頃カラ冷タイ雨ニナリ,□終日止マウトモシナイ。寒クテアヂ キナイ一日,火鉢ヲ入レテ何ニモシナイ。 夜,久顕ガ来ル。 十八日 日曜日 曇,夕方ニナッテ僅カニ晴レル。 一日家ニ居ル。夕方,敬子ト三四十分豪徳寺ノ方カラ畑道ヲ散歩シ,夜向フノ家ニ風 呂ヲアビニ行ク。 発信 坂上真一郎, 受信 羽根田弥太, 十九日 月 快晴,秋ラシク気持ヨシ。 午後,大和書店ニ竹下君ヲ訪ネ,検票ヲ渡シテ,太平洋協会ニ行ク。羽根田君ニ逢フ。 543 受信 竹下源之介, 二十日 火 快晴,風モナクテ快適ナリ。 朝カラ,敬子ヲツレテ鎌倉ニ行キ,秋庭サント,島村サント,ソレカラ名越ノ緒方大 佐ノ所ヘ行ク。 海岸ヲ長谷マデ歩イテ江ノ島ニ出,江ノ島デ夕食シテ二十一時帰宅。 受信 太平洋協会学術委員会。田辺綾子。 二十一日 水 快晴, 昨日久顕ノ所カラ電話デ,学士院カラ校正ガ来テ居ルト云フノデ,府立高等ニ出カケ ル。久顕ノ所ニ丁度英子ガ来合ハセテ居タノデ,一緒ニ綾様ヲ見□舞ヒ,英子ト一緒ニ 中沢サンニ行ッテ中食,後柴山サンニ百合子ガ来テ居ルト云フノデ行ッタラ,百合子ハ 居ナクテ,洋子チャンガ預ケラレテ居タ。十五時半頃帰宅。 発信 和田清治,野口正章, 二十二日 木 晴, 朝,保険屋ト保険医。 午後,太平洋□協会。久保田君カラ電話デ紹介スル人ガアルカラト云フノデ,十七時 前ニ放送協会ニ行ク。南江治郎君 349)ニ紹介サレ,三人デ銀座裏ノレストーランヘ行ッ テ食事。二十時帰宅。 協会ニ小山書店ノ西山君訪ネテクル。月曜日ニ又来ル由。 受信 緒方夫人, 二十三日 金 曇晴, 十時,敬子ト園チャント三人デ,ブラブラト春秋園ニ行ク。後藤モ其ノ頃行ク筈ダッ タノガ来ナイノデ,園チャント別レテ中島(敦)ノ所ニ行ク。一緒ニノボルチャンヲツ レテ本屋ニ行キ,青葉高女ノ方ヲ一マハリシテワカレ,十二時過ギ帰宅。 午後敬子,亡兄ノ十年祭デ家ニ行ク。 夜,嵩チャンガオ寿司ヲ持ッテ来テクレタノデ,一緒ニオ酒ヲツケテ御飯。 二十四日 土 曇,午後雨ニナリテ夜マデ止マズ。急ニ寒シ。 昼前,上町ノ塚野サンニ行ッテクル。 午後,神田ニ出,三省堂ニ「民族学研究」ニ出ル原稿ノ校正ヲ届ケ,歩イテ大学ニ行 ク。丁度学会ダッタガ,八幡君ニ会ヘタノデ,建設社カラ出ル本ノ序文ノコト其他ヲタ ノンデ,帰リニ府立高等ニマハリ,柴山サンニ行ク。洋子ガ具合ガ悪クテ,敬子ガ呼バ 544 土方久功日記Ⅴ 第31冊 レテ居タノデアル。二人デ夕食ヲ馳走ニナッテ後,英子サンノ所ニヨリ,久顕サンノ所 ニ行ッタガ,留守ラシクテシマッテ居タノデ帰ッテクル。二十二時半。 受信 坂上真一郎,大和書店, 二十五日 日曜日 快晴, 夜,久顕,忠久,忠直ト嵩チャント来テ大賑ハヒ。 遅ク,後藤ガ保科君ト云フ人ヲツレテ来ル。 〔次〕 発信 清野謙二。 二十六日 月 快晴, 太平洋協会ニテ清野氏ニ会ヒ,小山□書店ノ西山氏ニ会フ。西山氏ヘ企画届。 協会デ安場保国ニ逢フ。 発信 和田清治,坂上真一郎, 受信 嶌村環,和田清治, 二十七日 火 快晴, 太平洋協会カラ電報ガ来テ居タノデ,朝,判ヲ持ッテ行ッテクル。十時半ニ帰ルト, 三沢ガ来テ居ル。 皆デ中食後渋谷ニ出ルト,間モナク三沢ノ奥サンガ来ル。東横ニ行ッテ後,三沢夫妻 ト別レ,五反田ニ出テ,田辺ノ英サンノ所ヲ訪ネ,十七時過ギ帰宅。 夜九時,ラヂオハ南太平洋海戦ト其ノ戦果ヲ発表シタ。 二十八日 水 快晴, 午後,明大前ノ戸田(康明)サンノ所ヲ訪ネタガ留守デ,桜上水ニ出テ三沢ノ所ヲ訪 ネ,夕食後,二十一時帰宅。 発信 島村環, 二十九日 木 快晴, 朝,警察署マデ。 午後,敬子ト中野ノ亀田サンマデ挨拶ニ行キ,敬子トワカレテ太平洋協会ヘ。大橋少 佐ノ話。後,大橋少佐他一少佐ヲ招待シテ築地ノ芳蘭亭デ夕食。太平洋協会ノ平野,大 迫,山田,沢田四氏ト関君 350)ト。 泉井久之助君ガ京都カラ出テ来タトカデ,協会ニ訪ネテクル。仏印ヘ行ク由。 545 三十日 金 晴,稍霞メク。 午後,敬子ガ警察署マデ行クト云フノデ,散歩ナガラ一緒ニ出テ,若林マデ行キ,別 レテ渋谷ニ出テ本屋ヲ見テクル。 三十一日 土 晴,夕方ヨリ稍雲多シ。 終日家ニ居ル。敬子,朝ノウチ百合子ノ所ニ行ク。 受信 島村環,竹下源之介,八幡一郎, 㾎栗 栗ト云ヒテ喰ラヒシ 昨日ノ栗モ 栗トハ云ハズ 今日ノコノ栗シ食ヒテバ。 (南洋ヨリ帰リシ我ニ,カヘリミレバ十四年目ノ内地ノ秋ナリ。 ) 㾎南洋ヨリ帰リテ十四年目ニテ 内地ノ秋ニ親シム我 葡萄,柿,栗,サンマモ食ヒヌ 松□茸ハマダ。 㾎朝ノ陽(ヒ)ヲイッパイニ受ケタ 生垣ノカナメノ赤イ秋芽ガ美シイ。 㾎カナメ垣ノ赤イ秋芽ガ出揃ッテ 風モナイ朝陽ヲ浴ビタ美シサ。 㾎スズカケノ枝ヲスッカリ払ッタラ 今日ハ朝カラ小春ノ光ガ 硝子戸ニサンサント照ッテ暖カイ。 㾎瓶ニイケシダリヤノ花々 ウケクモ シボミオヘケリ 小春メク 秋深キ昼ナカ。 十一月 一日 日曜日 終日雨。 午後,十四時半ニ東京駅デ待ツ由,環サンカラ端書ガアッタノデ行ッテ会ッテクル。 環ハ十五時四十分ノ汽車デ名古屋ニ帰ッテ行ク。 夜,余分ナ肉ガ入ッタノデ,後藤一家ヲ呼ンデ賑カニ夕食。 受信 「パラオノ神話伝説」大和書店ヨリ。 546 土方久功日記Ⅴ 第31冊 二日 月 晴。 午後,太平洋協会ニ行キ,十五時半頃大学ニ行ク。誰モ居ズ三十分程モ待ツウチニ杉 浦君ガ帰ッテ来ル。 協会デ清野氏ノ所ヲ訪ネテ来タ「日本女性」ノ記者ニツカマリ,原稿ヲオシツケラレ ル。 三日 火 晴, 敬子ト自転車デ府立高等ヘ出カケ,久顕サンノトコロ,英子サンノ所,柴山サンヘ行 ッテクル。 受信 赤松俊子,岩崎命吉, 四日 水 終日曇ッテヒヨヒヨト寒イ。 終日家ニ居テ何カカニカチグチグシテ居タツモリガ,結局何一ツシナカッタラシイ。 受信 和田清治, 発信 岩崎命吉,家入満洲雄。坂上真一郎,八幡一郎。 五日 木 朝薄日ガ差シタリ昃ッタリシテ居タガ,後遂ニ曇ッテシマフ。 午後,太平洋協会。月末近ク長官ト関君等ガ先発トシテ飛行機デ飛ブコトニナッタノ デ,留守団長ニ指命サレ,明日カラ毎日半日ヅツ協会ニ行クコト。 十六時,和田(清治)君ト羽根田君トガ協会ニ訪ネテクレル。一緒ニ□銀座ニ出,オ 茶ヲ□飲ミ,オ寿司ヲ食ヒ,ビールヲ飲ンデ話シテ話シテ別レル。 受信 亀田豊治郎,前川武夫(日本女性編輯部) , 太平洋協会ニ行ク前ニ,大和書店ニ行ク。 六日 金 終日ドンヨリトシグレテシマッテ,風モナイノニヒヨヒヨト寒イ。 午後,太平洋協会。農林省ノ水産係ノ人ノ漁業□状況ニ就イテノ話アリ。 後,関君トタイピストヲ一人ツレテ,陸軍省ノ補任課ニ行ク。司政官連中ノ履歴書全 部書直シノ件。 受信 佐伯タマ子(端書及ビ写真) ,家入満洲雄。 七日 土 晴, 法制局ノ山本理事官ノ所ヘ,著書ヲ提出スル様トノ事ダッタノデ,朝,久顕ノ所ヘ取 リニ行ク。久顕,勤労奉仕デ留守,英子サンノ所ヘ行ク。佑サンガ帰ルノデ,迎ヘニ行 ッタ由デ誰モ居ズ。柴山サンニ行ク。百合チャンガ急性腸カタルデ入院スル由デ,叔母 様モ居ズ,綾子一人居ル。昼食ヲ貰ッテ,太平洋協会ニ行ク。上原君ト調査要領作成打 547 合ハセ。 八日 日曜日 快晴, 府立高等,祐天寺ノ子供達ヲ呼ンデアッタノダガ,祐天寺カラモ中沢カラモ断リガ来 テ,柴山サンノ子供達ダケガ来ルコトニナッテ居タノガ,ナカナカ来ズ,十二時ヲ一寸 マハッタ頃ニナッテ,綾子ト昭子ト二人ダケヤッテ来ル。遅イ昼食,後皆デ豪徳寺カラ 青葉公園ノ所ヲヌケテ青葉女学校ノ方ヲ散歩,帰ッテオ茶ヲイレテ十六時半頃子供達ヲ カヘス。 夜,英サンガ来テ,亀田サンガ来テ居テ,オ嬢サンガオ嫁ニ行クコトニナッタガ,オ 婿サンガスグニバタビヤニ行クコトニナッテ居ルノデ,南洋ノコトヲキキ度イトノ事ダ ッタノデ,敬子ト向フノ家ニ行ク。 百合チャンハ入院ガ間ニアハズ,流産シテシマッタ由,可哀サウニ。 受信 荒居徳亮, 九日 月 晴, 此ノ頃メキメキト朝晩ガ寒クナッテ来タガ,今日ハマタ急ニ朝ガヒドク冷タク,晩モ 亦シンシント寒イ。マダ風ガナイノデ,昼間ハ日サヘアレバカナリ暖カイガ,是レデ北 風デモ吹キ出シタラ,ヤリキレマイト思フ。 午後,太平洋協会。清野氏ガ来テ居ラレ,杉浦君ガ来,帰ル前ニ,商大カラ出ル南方 調査団ノ部長ノ赤松氏ト,小田橋氏ガ見エル。 受信 江崎政行,中沢佑, 十日 火 晴, 午後,協会。清野氏,上原君等ト丸善ニ本ヲ見ニ行ク約束ダッタガ,皆ガ先キニ行ッ テシマッタノデ後カラ行ク。 発信 前川武夫(日本女性原稿) , 十一日 水 晴, 午後,太平洋協会。 〔介〕 受信 竹下源之助(端書及地理学研究) ,高崎ヤス子。 十二日 木 晴, 午後,協会。 548 土方久功日記Ⅴ 第31冊 十三日 金 メキメキト寒ク,二三日前カラ朝毎ニ霜ガ置ク。 午後,協会。 十四日 土 朝カラドンヨリ曇ッテ妙ニ暖カカッタガ,午後カラ終ニ雨ガ降リ出シ, 夜迄降ッタリ止ンダリシテ居ル。 午後,協会。 受信 羽根田弥太,前川武夫,中沢佑, 十五日 日曜日 朝晴レテ居タガ,又次第ニ曇ッテシマヒ,終日暗クテ寒イ。 午後,敬子ト二人デ祐天寺ニ行ク。天気ガ悪イノデ珍ラシク皆家ニ居タノデ暫ク上リ コミ,十五時頃ニ府立高等ニ出,柴山サンニ行キ,一時間バカリシテ中沢サンニ行ク。 佑サン帰ッテ来テ居テ,夕食ヲ馳走ニナッテ,二十一時頃帰宅。永イコト後藤ノ所デ話 シテ居ル。 〔介〕 発信 竹下源之助,佐伯タマ子,一瀬直行 十六日 月 曇,午後雨降ッタリ止ンダリ,風強シ。 昨夜半地震アリ。 午後,協会。 〔ママ〕 受信 竹下源之介,大和書店(パラオの神話伝説八冊) ,中井良三郎, 十七日 火 朝カラ終日雨デ寒イ。 協会ニモ出ズ,今日ハハジメテ切炬燵ニ火ヲ入レテ,一日座リコンデ居ル。 チブスノ予防注射。 受信 一瀬直行。 十八日 水 晴, 午後,協会,夜,星ヶ岡茶寮ニ陸□軍関係者招待。先日ノ大橋少佐等ト今一人小林少 佐,コチラハ金井清氏,鶴見□□氏 351),大迫氏,平野氏,笠間氏,関氏ト常見氏。 ◌ 二十六日ニ馬奈木(ボルネオ)参謀長ノ飛行機ニ座席ガアル由デ,出来タラ先発シロ トノ由, ◌ 協会ニ羽根田君,加藤(源治)君,久保田君,訪ネテ来ル。 十九日 木 晴, 午後,敬子ト麹町区役所ヘ行ク心算デ行ッタガ,代書ダケデ印ガトトノハズ,別レテ 協会ニ行ク。 549 夜,敬子ト馬奈木少将ノ処ヲ訪ネル。飛行機ハドウヤライイラシイガ,可及的速カニ 回答スル由。 メキメキト一日一日寒クナッテ来ル。ガ此ノ位ガアタリマヘナノダロウ。此ノ秋ハ天 気ガヨカッタシ,風ガチットモ吹カナカッタノデ,例年ヨリハ大分寒サガ遅カッタノダ ラウ。 ソレニシテモ,八月ハジメカラボルネオ,ボルネオデココマデモ引摺ラレテ来タノダ ガ,モウ出シテクレナクテハヤリキレナイ。 二十日 金 晴,稍雲多シ。 急ニ日ガナクナッテシマッタノデ,朝ノウチニ敬子ニ自転車デ三沢ノ処ニ行ッテ貰ヒ, 晩ニ家ニ来テ貰フコトニスル。 昼一寸前,敬子ト一緒ニ府立高等ニ行キ久顕ノ所ニ行ッテ,二十二日ニ久顕ノ処デ皆 〔沢脱〕 〔借〕 ニ集マッテ貰フコトニシ,英子ノ所ニ行キ,中佑サンノ判ヲ仮リテ帰リ,区役所ヘハ敬 子ニ行ッテ貰フコトニシテ渋谷デ別レ,太平洋協会ニ行ク。学術委員会デ杉浦君達モ来 テ居タガ,ヌケテ帰ッテクル。 倉橋ガ原稿ヲ□全部持ッテ来テクレル。□イヨイヨ飛行機ノ先発ガ確定,上原君モ一 緒ニ行クコトニナル。但シ,辞令ハ又々延ビテ二十五日ニ出ス由,ギリギリイッパイデ 何トモヤリキレナイ。 晩ハ三沢夫妻ガ来テクレ,皆デユックリ夕食。後,後藤夫婦モ来テ,二十三時過ギマ デ賑カナ話。 受信 倉橋弥一, 三沢寛。 二十一日 土 晴,霞ンデ居ル。 〔介〕 発信 竹下源之助,久保田公平,西山健児,野口正章,金子九平次, 今日ハボルネオ調査団ノ結成□式ガアリ,引続イテ夜ハ太平洋協会ガ壮行会ヲシテク 〔ママ〕 レル筈ダッタガ,自分ハ馬奈木参謀長ノボルネオ懇談会ニ出席スル様ニ云ハレテ居居タ ノデ,十三時前ニ一寸協会ニ寄ッタラ,陸軍省カラ朝電話デ,イヨイヨ上奏ノ手続ヲト ッタ由ノ所,自分ノ官等ヲ又々一等オトシテ司政官ニ任官サセル様ニシタト云フノデ, ソンナ最後ニナッテマデインチキナコトヲスルノナラ行カナイカラ,止メニシテ貰フ。 嘱託ノ話ノヤウニヤリナホシテクレト云ッテヤッタノデ,関君ガ電話デ任官取下ゲ方ヲ 依頼シタガ,既ニ書類ヲ出シタカラモウ駄目ダト云フ。笠間氏ガ更ニ電話ニ出ルト,自 分ノ任官取下ゲヲスレバ,皆一緒ノ書類デ出テ居ルノデ,皆ノ辞令ガ全部オクレルガト 〔マ〕 云フ変ナオドシダッタガ,兎モ角□取変ヘル様ニ努力シヨウトノ事デ,ソノマハ自分ハ 急イデ十四時ニ浅草ノ草津亭ニ行ク。十六時ニナッテヤット馬奈木氏ガヤッテ来テ,直 チニ各代表者ニ一々応答シタガ,自分ハ辞令ガオクレルカラ飛行機ハ棄権スルヨリ外ナ 550 土方久功日記Ⅴ 第31冊 イ由ト,上原君モオロシテクレテヨイ旨ヲ答ヘテ,中途デ座ヲ立ッテ出タ。十八時ニ昌 生叔父様カラ華族会館ニ呼バレテ居タカラダガ,面白クナイノデ延寿春ノ壮行会ノ方ニ ハ断リモ云ハナイデ,真直グニ華族会館ニ行ク。昌生叔父様,梅子叔母様,中沢夫妻, 久顕,ソレニ一寸中□根町ニ遊ビニ来テ居タ由デ,英昌 352)モ来テ居テ,皆デユックリ 夕食ヲ馳走ニナリ,二時間バカリモ雑談。 英昌ニハ十五六年ブリニ逢ッタ訳デ,最後ニ見タノガ□初等科ノ生徒ダッタノガ,今 大学ヲ出テ,海軍技術官ニナッテ居ルノダカラ,逢ッテ見レバ幼顔ハソックリ残ッテハ 居ルガ,二人ダケデ会ッタトテ互ニワカリヨウモナイ。 断 敬子ノコトニツイテハ,馬奈木氏ガ自分デ陸軍省ニ行ッテ掛合ッタガ,陸軍省デハ□ 何ウシテモ受付ケナイノデ,自分デ云ヒ出シテ自分ノ方デ引込メルノハ変ダガ,此ノ話 ハアヅカッテ貰ヒタイトノ由。 陸軍省トノ交渉ハ随分ナガクナッタガ,羽根田君アタリノ話ヲキイテモ同ジコト,実 ニインチキヲ押通シテ居ル。コンナ事デハ誰モ本当ニ仕事ノ出来ル者ハ南方ニ出ナクナ ッテシマフダラウ。五ケ月モノ間仕事モ出来ズダラダラト引パラレテハ,ヤリキレナイ。 第一ニ総ベテガ戦時体制ニナッテ居ルノニ,人事ダケガ旧体制ノママデアルコトガ,総 ベテノ交渉ヲグヅグヅト滑ラカニ運バセズ,人々ヲ逃ガシテシマフノダ。例ヘバ南方デ ハ土着民ニ日本語ヲ教ヘテ貰ヒ度イトアセッテ居ル。中央デモ□充分ソノ意向ガアル, ソレニモカカハラズ,人撰トナルト教員免状ガドウノカウノト云フ。内地デサヘ教員ガ 不足シテ困ッテ居ルノニ,資格ヲ云々シテ居タラ,多量ナ人ガトトナフ訳ガナシ,土人 ニ日本語ヲ教ヘルノニ,教員免状ノ資格ナンカ要ル訳ガナイ。軍属ナドニシテモ,加俸 ヲヤル加俸ヲヤルト云フガ,加俸ナドヨリモ本俸ガ大事ナノダ,待遇ガ大事ナノダ。大 尉ト□仝ジ収入ニシテヤルカラ伍長ニナレト云フ様ナコトデ,人ガ集マル訳ガナイ。南 ニ行ク人ガナイノデハナイ,有リスギル程アルノダガ,身柄ヲオトシテマデ収入サヘ仝 ジナライイト思フ程,小供ッポイ人ガ居ナイ□ノダ。 最モイイ例ガ南洋庁ダ。領有以来三十年ニモナルノニ,終始一貫十割加俸ノ一手ダ。 十割加俸,十割加俸デ官等ヲ値切ルカラ,一度南洋庁ニ足ヲツッコンダ者ハ,内地ニカ ヘッタラガタ落チニ落チナケレバナラナイ。ソンナ所ニ人材ガ進ンデ行ク訳ガナイ。イ ンチキ加俸制度ヲヤメル時ダ。 (恩給制度ニツイテモ仝ジ問題ガアルノダガ)ソレヨリモ 優遇制度ヲ樹立スルガイイ。例ヘバ外地ニ出ルモノハ,二三階段高ク採用スルコト,ソ ノカハリ内地ニカヘッタラ又一二階段オトセバヨイノダ。 二十二日 日曜日 晴,稍暖, 〔義太郎〕 昼,久顕ノ処ニ酒ヲ届ケテ置イテ,平野氏ノ処ヲ訪ネル。留守ダッタノデ奥サンニ会 551 ッテ,モウ,コレ以上グヅグヅスル様ナラバ,ボルネオ行キハオ断リスル由ヲ告ゲテ帰ル。 柴山サンニ行ッテ暫ク時ヲ過ゴシ ― 綾子ハ又々熱ヲ出シテ寝コンデ居ル ― 夕方, 久顕ノ処ヘ行ク。会食,自分ノオ別レノ会ノ筈ダッタ処,昨日ノヒックリカヘリデ,意 味ガボケテシマッタガ,久々デ一人モカケズニ兄弟達ガ集リ,快イ大懇親会ガ出来タ。 柴山ノ叔父様夫妻ト,我々兄弟四夫婦,英子ノ処ノ子供達四人,祐天寺ノ道子,ソレニ 久顕ノ処ノ二人。 二十三日 月 曇,終日ヒヨヒヨト寒シ。 終日アチコチヲ訪問シ,オ別レニマハル予定ダッタノヲ,話ガヒックリカヘッテシマ ッタノデ,総ベテ抛擲シテ一日家ニクスブッテ炬燵ヲ入レテボンヤリスゴシタラ,誠ニ 閑カナ休日気分ニナッタ。 朝,平野氏カラ電話ダッタノデ,九時半頃豪徳寺ニ出カケテ電話ヲカケタガ,既ニ出 テシマッタ由,ソノママ。 発信 竹下源之介,野口正章,西山健児,久保田公平。 二十四日 火 晴, 昼前ニ太平洋協会ニ行ッテ,平野氏ニ,モウコレ以上ゴテゴテトナガビクナラバ,ボ 〔旦〕 ルネオ行キハ止メ度イ旨ヲ話シタガ,昼食ニ出テ,赤松君ノ丹那サンガ菊屋ギャレリー デ展覧会ヲシテ居ルノヲ見ニ行キ,赤松君ト別レテ協会ニ帰ッテ来ルト,陸軍省カラ電 話デ,嘱託ニ変更デキタ由,明朝九時ニ先発ノ人々ト一緒ニ判ヲモッテ出頭スル由ダッ タノデ,遂ニ行クコトニシテ帰ッテクル。 二十五日 水 晴。ヒドイ風ニナリ,凍ルヤウニ寒クナル。 九時ニ陸軍省ヘ行ク。笠間氏,黒沢氏,山本氏,上原氏ト五人,東亜研究所ノ井上氏 等四人モ来テ居タガ,ハジメカラ大キナ寒イ部屋デ待タサレハジメ,十時半頃ニナッテ 〔ママ〕 ヤット係ノ人ガ五六種ノ書類ヲ持ッテ来ル。誓文,留守宅手当受取人ノ示定,等デアル。 〔ママ〕 昼ニナリ皆ニ弁当ガ出タガ,ソレカラヤット服装ノ衣量切符 ― 購入品目ノ指定並許可 ヲ兼ネタモノヲクレタガ,旅費ガ何ウシテモ出ナイ。今日明日出発スル人達ハ□待チキ レナイデ,偕行社 353)ニ行ッテ品物ヲ整ヘル為ニ帰ッテシマヒ,自分ト上原君トガ遂々 十六時半マデモ待タサレテ,ヤット皆ノ旅費ヲ貰ッテ,偕行社ハ他日ニスルコトニシテ, 車ヲヒロッテ協会ニ行クト,間モナク白井少佐カラ電話デ,自分ト上原君トハ又,二十七 日ノ馬奈木参謀長ノ飛行機ニ乗セテ貰フコトニシタカラ,連絡ヲトッテクレト云ッテク ル。デ,又□々急ニ上原君ト車ヲ拾ッテ偕行社ニ駈ケツケ,ヤット辷リ込ンデ服装其他 ヲ取揃ヘルト,偕行社ハシマッテシマフ。ソレカラ馬奈木少将ハ毎日偕行社ニ出テ居ル ト云フノデ面会ニ行ッタガ,丁度皆帰ラレタアトデ会ヘズ,連絡ヲ取ッテ貰フ様ニ書キ 552 土方久功日記Ⅴ 第31冊 置イテ,上原君ト別レテ帰ル。二十時ニナッテシマフ。 ソレカラ夕食ヲスマセ,敬子ニ軍服ノ徽章等ヲ縫ヒツケサセ,後藤ノ所デ風呂ヲ貰ッ テ来ルト,二十四時ヲ過ギテシマフ。最後ノチブスノ注射ヲシテ寝ル。 受信 野口正章, 二十六日 木 曇,晴,寒, 早朝,敬子ヲ馬奈木サンノ所ニヤリ,明日ノ飛行機ノ出発時間,場所ヲ聞カセニヤッ タ所,ヤハリ飛行機ニハ乗ル人ガ既ニアッテ,自分達ノ為ノ席ハナイ由デ,何カノ間違 デアルトノ事。蚊帖ハ秀子ヲ呼ンデ馬力ヲカケサセルガ,ナカナカ出来ズ,イライラシ テ敬子ニ再ビ協会ニ電話ヲカケサセルト,ヤハリ駄目ダッタ由,笠間司政長官ガ三時ニ 東京駅ヲ立ツト云フノデ,敬子ト一緒ニ昼食後外出,新橋デ別レテ敬子ニハ日本銀行ニ 行ッテ貰ヒ,金ヲ軍票ニ換ヘサセル。自分ハ協会ニ行キ,笠間氏ヲ送ッテ東京駅ニ行ク。 〔欄外に記す〕 ] [書クコトハ不平バカリナリ冬ニ入ル。 今日ハ日鉄カラ,内南洋ノ島民働力事情ニ就イテ話ヲスル様ニ呼バレテ居タノダガ, 昨夕白井少佐カラ電話デ又飛行機ニ乗レトノ事ダッタノデ,今日ハ到底行ッテ居ラレナ イト思ヒ,関君ニ日鉄ノ方ヲ断ハッテ置イテ貰フ様タノンデオイタノガ,通ジテナカッ タノデ,日鉄カラ迎ヘニ行クト電話ガアッタ由。ソレデ,経理部ニ行ク筈ダッタノヲ止 メテ日鉄ニ行キ,四時カラ一時間バカリ話シテクル。 夜ハ,豪徳寺ノオ母サント嵩チャント来テ賑カニ食事,オ母サンガオ赤飯ヲタイテ来 テクレタノデアル。 斯ウ毎日ノ様ニ,飛行機ニ乗レ,イヤ降リロデハ,アハテテミタリ,気ガ抜ケテシマ ッタリデヤリキレナイ。ソレモ自分バカリデハナク,一方上原君ノ方デモ仝様ダラウガ, 家ノ者マデ皆ガ仝ジ縄ニヒキズラレテ,ノメッタリ引止メラレタリスルザマハ,意志ノ アル人間ニハチトヤリキレナイ図ダ。マルデ犬ノ様ニ頸ニ縄ヲカケラレテ居テ, “ソレ走 レ!”デ全速力デ走リ出スト,イキナリ“止レ!”ト仝時ニ,グット縄ヲ引張ラレル。 コレデハ喉ガツマッテシマフ。ソレヲジュズツナギデヤラレテ居ル様ナ図ダ。 二十七日 金 朝カラドンヨリシグレテ居タガ,九時頃ニハ冷タイ雨ニナリ,ソレモ 大分ヒドク降ッタガ,昼前ニハ止ンデ,ナサケナイ薄日ガサス,併シ十六時頃ニハ再ビ 一面雲ニオホハレテシマッテ,シンシント寒イ。 朝ノ霜ハ一面真白デ,本当ニ冬ガ来タト思ハセル。 十時頃カラ雨ノ中ヲ太平洋協会マデ船ニ積ンデ貰フ荷物ヲ届ケ,午後,東京経理部ニ 行ッテ志賀少尉ニ会ッテ旅費ヲ直シテ貰ッテクル。 十五時帰宅,荷物ハ出シテシマッタ。飛行機ハマダイツニナルヤラキマラナイデ,ポ カントスル。 553 二十八日 土 晴,雲多ク,薄日ガ照ッテハ曇ッテシマヒ,終日ナサケナク寒イ。 終日家ニトヂコモリ,午後ハツヰニ炬燵ニモグリコム。 二十九日 日曜日 珍ラシク気持ヨク晴レル。但シ朝ノ霜ハ益々深イ, 昼前,敬子ト□東横ニ出テ写真ヲトリ,□府立高等ニ行ッテ久顕ノ所,英子ノ所ヘ一 寸,ソレカラ柴山サンニ行ッテ夕方カヘッテ来ル。夕食ハ後藤ノ処デヨバレ,風呂マデ ヨバレル。 受信 甘露寺方房, 「家」中川善之助, 三十日 月 ヨク日ガアタリ,風ナクテ気持ノヨイ日, 昼前,中島(敦)ノ処ヲ訪ネタラ,十六日ノ日ニヒドイ発作デ入院シ,其後ハ十一本 カラ注射ヲ打ッテ,殆ド危カッタ由,病院 354)ハ近イト云フノデ直グニ尋ネテユク。相 変ラズ,何枚モ布団ヲ積ミ上ゲタ所ニ凭リカカッテ,苦シサウナ形デ居タガ,思ッタヨ リハ元気デ,一時間バカリモ話シテ昼過ギニ帰ッテ来ル。 午後,英サンガ写真ヲ取リニ来テクレタノデ,色々写シテ貰フ。後藤ノ処ニ保科君ガ 来テ居テ,ソノママ家ニ来テ永イコト話シテ居ル。入レ交リニ夕方ミスズサントカ云フ オ嬢サンガ指ヲ切ッテ貰ヒニ来テ,コレモ永イコト話シテ行ク。ミスズサンガ帰ルトス グニ英サンガ来テ,一緒ニ夕御飯ヲ食ベテユク。 受信 中島敦,緒方□勉, 554 土方久功日記Ⅴ 註 註 【第 25 冊】 1 )Ngarmid =ガルミズ。アルミズとも記す。コロールの町からおよそ 4 ㎞離れた,コロール島 の東側突出部にある,海に面した村落。久功はしばしばこの村落を訪れ,その時のことを,詩 や随筆に書いている。昭和 10 年時の人口 102 人( 『昭和 10 年南洋群島島勢調査書』 ,南洋庁 刊。以下,人口については, 『島勢調査書』による) 。 ◌ 2 )コ レヨル=コロール。パラオ諸島中部の島で,面積 8 ㎢。当時,南洋庁などが置かれ,南洋 群島施政の中心となり,昭和 10 年時,日本人人口が 5 千人余に達し,島民人口千 2 百人余を はるかに上回っていた。 ◌ 3 )ドショケ ル=ドセケルとも記す。コロールの市街地の西方にある村落。 4 )アケヅ=ア・ケヅとも記す。赭土の禿山。パラオの一番特徴のある風景の一つで,これを久功 はこよなく愛していた。 5 )野元氏=野元辰美。コロールの公学校の校長。 6 )Ngelūūl =ディランゲルール。久功が昭和 4 年( 1929 )パラオに住み始めた時,隣家にいた 娘。 『土方久功日記』 (国立民族学博物館調査報告,以下, 『日記』と略す)Ⅲ,註 23 参照。 7 )Ngarakasoaol =アラカサオル。ガラカソアオルとも記す。コロール島の南岸にある村落。昭 和 10 年時の人口,127 人。 8 )Narakabesang =アラカベサン島。コロール島の西にある小さな島。当時,珊瑚礁の一部を埋 め立てた土手道で,コロール島と結ばれていた。昭和 10 年時の人口 679 人。 『日記』Ⅱ,註 222 参照。 9 )堂本内務部長=堂本貞一。昭和 11 年( 1936 )に赴任。短歌や俳句を作り,絵も描く文人で, 後, 「南洋画壇」の会長をつとめる(岡谷公二氏『南洋漂蕩』 ,130・131 頁) 。 10 )a Ibedūūl 葬儀=このア・イベヅールの葬儀の様子は, 「パラオの重要断片的地方誌」 〈 『土方 久功著作集』 (以下, 『著作集』と略す)第 1 巻〉302 ∼ 306 頁に記されている。 11 )Bilas =ビナス。小さな機械船。 12 )アンガウル= Ngeyaūr。パラオ諸島南端に位置する隆起珊瑚礁の島。面積 8k ㎡。南洋庁の官 営事業として,後に南洋拓殖株式会社によって,リン鉱採掘がおこなわれた。昭和 10 年時の 人口 1,200 人。 『日記』Ⅳ,註 41 参照。 13 )a Dūbūsūh =ほら貝。 14 )boks =馳走膳。 15 )Kölloi =挽歌。 16 )odosongngl =家の前の石畳。 17 )a Keyūkl =ア・ケユックル。イベヅールの一族のもので,マリュル,ギラケヅの後を受けて イベヅール職に就きうる資格者。 18 ) 「レンゲ」牧師=ドイツから来た新教の宣教師。パラオ本島のオギワルを拠点にしてパラオで キリスト教の布教活動を行いながら,国から持ってきた大量の薬を島民に施して,着々と島民 間に評判を得ていた( 「鶏」 , 『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』 〈 『著作集』第 6 巻〉73 頁) 。 19 )Ūmang =ウマン。第 2 イケラオの出で,死んだイベヅールに育てられた。ドイツ時代には巡 警長を務め,ドイツ系の混血児で古くからキリスト教に帰依し,新派の大将株であった。 20 )Ngiraked =ギラケヅ。イディヅの一族で,当時ギリヨウ・イディヅ職。イベヅールの次位職 にあり,役所から村長職を命ぜられていた。 21 )Kisaūl =キサオル。イディヅ一族の女で,女子青年組合長をしていた。久功と親しかった。当 555 時,32 歳。終戦後,日本を訪れ,久功と会った。 22 )Blūks =ブルックス。墓石。 23 ) 「オイカワサン」=マルキョクの前北部大酋長ルクライの息子で,当時役所の巡警長をしてい た。 24 )tiyakkl =ヤシの芽を結んだもの。 25 )meyolt =ヤシノ新芽。 26 )嘱託ノ話=久功は 3 月 9 日付で南洋庁の地方課の嘱託となり,後,昭和 16 年(1941)5 月 15 日から物産陳列所勤務となる(商工課・地方課兼務) 。 27 )ヤップ ヨリ遺書来ル=ナムチョック(ラモトレク)島で起きた山田事件に関する遺書のこと。 倉橋弥一著『孤島の日本人大工』には,次のように書かれている。 ナムチョック島に住んでいたコプラ仲買人の山田がヤシの木から落ちて死んだというが, 山田の死因に疑問を抱いた久功は,ナムチョック島へ杉浦佐助を調べに行かせた。佐助は, 山田の妻である島民を呼んだら,妻は泣きながら,山田の遺書を佐助に見せた。遺書は,ノ ートに書かれてあり,遺産の分配について細目を記してあった。妻に訊ねたが要領を得な かったので,佐助はこの遺書を預かってサタワル島に帰った。久功は遺書を見たが,以前 山田からもらった手紙と字が違っていた。遺書は偽物で,山田はナムチック島の住民に殺 されたのだと,久功は考えた。山田の 27 年の間に貯蓄した多額の金が,島民の何者かのも のになってしまったのでは,山田の妻が可哀そうだ,と久功は思った。それでサタワル島 を去るにさいし,佐助はカバンに山田の遺書を持っていった。パラオで久功は佐助を連れ て役所へ行って,山田の遺書を見せ,死因についていろいろ陳述した。 細部については, 『日記』の記述と若干異なるところはあるが,大筋ではその通りであろ う。なお,昭和 10 年時,ナムチョック島の人口は 177 人(うち日本人は 1 人)だった。 28 )Peliliyoū =ペリリュー島。パラオ諸島南部に位置する隆起サンゴ礁の島で,アンガウル島と ともに,燐鉱石の産地であった。昭和 10 年時の人口 939 人。 29 )大工サン=杉浦佐助。久功の彫刻の弟子。 『日記』Ⅱ,註 221 参照。 30 )Hadūs =アヅス。石積み道。 31 )セムシノ Tokai =パラオ本島北部の村ガラルドに住み,モデクゲイの指導的地位にあった。久 功はしばしばトカイの家に泊まった。久功の民族調査,遺跡調査に協力し,同行することもあ った。なお,杉浦佐助の木彫の初期作品に,トカイをモデルにした作品「トカイ像」が現存し ている(岡谷氏『南海漂蕩』38・39 頁) 。 32 )ūdoūd =ウドウド。パラオ珠貨。 『日記』Ⅱ,註 234 参照。 33 )Ilamms =イラムス。コロールの町の東はずれにある家。ゲルール,クコン,サカビツ等が住 み,久功はしばしばこの家を訪れた。 34 )Obak-rūbïl =オバック・ルビール。久功が初めにパラオのコロールに住んでいた時,隣家に いた娘。 『日記』Ⅲ,註 23 参照。 35 )Namottzok 事件=ナムチョック島に住んでいた,コプラ仲買人,山田の横死事件。 36 )公学校=島民の子供達が通う修業年限 3 年の小学校。 『日記』Ⅱ,註 218 頁参照。 37 )亡クナッタ Ibedūūl ノ家ニ盛ナ「ボックス」ガ運バレタ=この馳走と離縁金等については, 「パ ラオノ重要断片的地方誌」 ( 『著作集』第 1 巻)306 ∼ 310 頁に記されている。 38 )Pūlatong =プラトン。瀬戸引き皿。 39 )Tolūk =トルク。鼈甲皿。 40 )Eltūlong ト a Yoboh ガヤッテ来タ=エルトロンとアヨボホの話は, 「変わりゆく一面 ― 土 地」として, 『著作集』第 1 巻,291・292 頁に記されている。 556 土方久功日記Ⅴ 註 41 )原則的ナ所ヲ覚エニ書イテ置クニ止メル=この土地に関する原則的なところは, 「変りゆく一 面 ― 土地」 ( 『著作集』第 1 巻)293 ∼ 298 頁に記されている。 42 )Idid =イディヅ。コロールの第一長老 Ibedūūl を出す,第一 Keblïl 氏族。 43 )Ngarakabesang ノ Hobak =アラカベサンのホバック。Hobak ra Iwong。Ibedūūl の第二継 承者。 44 )Kloū blai =クロウ・ブライ。母屋,主人家族住居。 45 )ūm =ウム。厨屋,末派下男等住居。 46 )ulöngang =ウロガン。家神の祠。 47 )Olbed =オルベヅ。前庭石畳で墓場でもある。 48 )a Bai =ア・バイ。会所,公衆屋,集会所。 『日記』Ⅱ,註 211 参照。 49 )a Diangngal =ディヤンガル。舟庫。 50 )a taoh =タオフ。船着場。 51 )a Ibedūūl ノ離縁金ニ就イテ=このア・イベヅールの離縁金については, 「ア・イベヅールの 葬儀」 ( 『著作集』第 1 巻)307 ∼ 310 頁に記されている。 52 )南貿=南洋貿易株式会社。 『日記』Ⅱ,註 214 参照。 53 )住友,松野君=住友至,松野祐保。南洋拓殖株式会社の技術者。 54 )中村=アンガウル島内にある村落。昭和 10 年時の人口 85 人。 55 )新村=アンガウル島内にある村落。昭和 10 年時の人口 239 人。 56 )マトマトン=ドイツ領時代後半以降盛んになった行進踊。行進の動作や「レープ,ロイ」など の掛け声を伴い, (日本的)西洋音楽風のメロディやしばしば日本語混じりの歌詞からなる歌 をメドレーでつないだものに合わせて踊るもので,ミクロネシアに広く分布する。パラオで は,行進踊りはアンガウルでチューク(トラック)の人たちが広めたといわれる(小西潤子氏 「芸能にみるパラオのアイデンティティの多層性」 , 『静岡大学教育学部研究報告,人文・社会 科学編』2008 年) 。 57 )Rūbak =ルバク。酋長,長者,長老。 58 )Kesekes =ケセケス。パラオにおける信仰的新結社モデクゲイの賛歌。 『日記』Ⅲ,註 134 参 照。 59 )南興=南洋興発株式会社。 『日記』Ⅱ,註 204 参照。 60 )Ngasiyas =ガシヤス。アシヤスとも記す。ペリリュウ島中央にある村落。昭和 10 年時の人口 226 人。 61 )Ngardololoh =ガルドロルク。ガルヅロロゴ,ガルブロロホ,ガルドロロホ,ガルドロロゴ とも記す。ペリリュウ島東部にある村落。昭和 10 年時の人口 122 人。 62 )Ngarohol =ガルコル。ガルゴル,ガルホルとも記す。ペリリュウ島北部にある村落。昭和 10 年時の人口 178 人。 63 )Ngarkeyūkkl =ゲルケユックル。ガルキョックルとも記す。ペリリュウ島西部にある村落。昭 和 10 年時の人口 138 人。 64 )a Pkūl a belūū =ア・プクル・ア・ベルー。フクラブルーとも記す。ペリリュウ島西部にあ る村落。 65 )玉枝=日本で洋裁を勉強をするために,久功等とともに日本へ渡航する島民の娘。 66 )文化協会=南洋群島文化協会。南洋庁長官を会長とし,月刊誌『南洋群島』の発行,書籍の出 版,展覧会や講演会の開催など,文化活動をする南洋庁の外郭団体。昭和 14 年 4 月に東京か らパラオへ移り, 『南洋群島』がパラオで編集,刊行されるようになった。 67 )野口氏=野口正章。南洋群島文化協会嘱託で, 『南洋群島』の発行人兼編集人となった。昭和 557 16 年 2 月,病気で内地に帰り,代って中島幹夫が発行人兼編集人になった。 68 )パラオノ昔ノ宇宙観=パラオ島民の宇宙観・自然観については, 「パラオ島民の自然観」 ( 『著 作集』第 2 巻,282 ∼ 285 頁)に記されている。 69 )サトワル事件=久功等がサタワルに住み始めた半年前に起きた,黄(岩崎)永三変死事件。 70 )倶楽部=昌南倶楽部。 『日記』Ⅱ,註 216 参照。 『日記』Ⅱ,註 202 参照。 71 )tziliyang, 島=テニアン島。ティニアン,チュニアンとも記す。 72 )兄上夫妻=土方久俊・文子夫妻。 73 )英子=中沢英子。久功の妹,中沢佑の妻。 『日記』Ⅰ,註 20 参照。 74 )久顕=久功の弟。明治 34 年(1901)生まれ。慶応義塾大学医学部卒。 『日記』Ⅰ,註 33 参照。 75 )小山=小山直彦。学習院初中等科の同窓生。後,大蔵省財務局長を務め,学習院の常務理事と なった。 76 )府立高等=現・東急東横線都立大学駅のこと。 77 )梅子叔母様=柴山梅子。柴山昌生の妻。園田実徳の六女。明治 27 年(1804)生まれ。 78 )昌道=柴山昌道。久功の叔父柴山昌生の長男。大正 4 年(1915)生まれ。 79 )百合子=柴山百合子。柴山昌生・梅子の長女。 80 )譲二叔父様=本田譲二。柴山矢八の二男。昌生の弟,直矢の兄。東京帝大在学中に,母の実家 の弟家の名籍を継いで本田姓となる。 『日記』Ⅰ,註 143 参照。 81 )昌生叔父様=柴山昌生。久功の祖父・柴山矢八(男爵)の長男。 『日記』Ⅰ,註 67 参照。 82 )綾子=小倉綾子。柴山昌生・梅子の次女。大正 11 年(1922)生まれ。鹿児島の小倉家を継い だ。 83 )昭子=柴山昭子。昌生・梅子の三女。昭和 2 年(1927)生まれ。 84 )妙子=柴山妙子。昌生・梅子の四女。 85 )長四郎=皿井長四郎。皿井立三郎(医学博士)と清江(久功の祖母・琴子の妹)の四男。 86 )五郎=皿井五郎。長四郎の弟。 87 )甘露寺方房=義長(伯爵)の次男。学習院初中等科の同窓生。明治 33 年(1900)生まれ。 88 )倉橋弥一=高千穂高等商業学校卒業後,10 年間中学校教員をした後,著述生活をする。 『炬火』 の旧同人。昭和 18 年(1943)に『孤島の日本大工 ― 杉浦佐助 南洋綺譚』を刊行した。昭 和 20 年(1945)池袋駅で鉄道事故により死去。 89 )川路氏=川路柳虹。詩人,美術評論家。明治 21 年(1988)東京生まれ。 『日記』Ⅰ,註 249 参 照。 90 )静子サン=久功の弟・久顕の妻。昭和 19 年(1944)4 月死去。 91 )川上ノオヂサマ=川上親恒。 『日記』Ⅰ,註 222 参照。 『日記』Ⅰ,註 60 参照。 92 )佑サン=中沢佑。久功の妹,英子の夫。 93 )青田幸吾=『日記』Ⅰ,註 122 参照。 94 )三沢=三沢寛。東京美術学校彫刻科の同級生。 95 )青山師範駅=現・東急東横線学芸大学駅。 96 )上原サン=久功の祖母・琴子の妹・小菊の夫。勝雄は次男,春子は四女。 97 )笹塚=『日記』Ⅰ,註 9 参照。 98 )宇多チャン=山口宇多子。山口昇の妻。中井文治郎,良三郎の妹,惣之助の姉。 『日記』Ⅰ, 註 115 参照。 99 )昇氏=山口昇。土木学者。明治 24 年( 1891 )静岡県生まれ。当時,東京帝大教授。 『日記』 Ⅰ,註 116 参照。 100 )大田和夫婦=大田和とよ(旧姓水村)夫妻。水村君子,園子の姉。 558 土方久功日記Ⅴ 註 101 )八千代サン=上原八千代。伸次郎,小菊の三女。 102 )松岡正雄=松岡太和。洋画家,彩漆画家。明治 27 年( 1894 ) ,奈良県に生まれる。東京美術 学校図画師範科に進学。在学中に二科展に出品,二科賞を受賞。後,彫刻科に入り,久功と同 級となる。漆工芸技術を学び,漆絵を描く。昭和 4 年(1929) ,府立高等学校創立と共に教職 に就く。 103 )愛子オバサマ=土方愛子。与志の母。 『日記』Ⅰ,註 144 参照。 104 )オ玉様=土方玉子。 『日記』Ⅰ,註 94 参照。 105 )大山柏侯=陸軍軍人,考古学者,公爵,貴族院議員。明治 22 年(1889) ,東京に生まれる。父 は,明治の元老,陸軍大将・大山厳。はじめ,軍人の道を歩んだが,ヨーロッパ留学を機に考 古学の知見を深め,帰国後には自邸内に「史前研究室」を設立し,史前研究会を組織した。 106 )湯地=湯地孝。学習院初中等科の同窓生。後,日本近代文学者となる。 107 )中洲=中央区日本橋地域の南東に位置し,隅田川の西岸にあり,清洲橋が架されている。当 時,日本橋区中洲。現・中央区日本橋中洲。 108 )高村光太郎氏=詩人,美術家。明治 16 年( 1883 ) ,東京に生まれる。光雲の長男。東京美術 学校彫刻科卒業後,欧米に遊学。大正 3 年(1914) ,智恵子と結婚。昭和 4 年(1914) ,智恵 子の実家が破産し,この頃から智恵子の健康状態が悪くなり,昭和 13 年(1938)に智恵子と 死別。その後,戦意高揚のための詩を多く発表した。 109 )長田恒雄氏=詩人,作詞家。明治 35 年(1902) ,静岡県に生まれる。 110 )山崎泰雄=詩人。学習院初中等科の同窓生。明治 32 年(1899)に生まれる。 111 ) 「ラグーザオ玉夫人」=画家。夫はイタリア人彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ。1861 年, 江戸に生まれる。若い頃から,日本画,西洋画を学んだ。工部美術学校で教鞭をとっていたイ タリア人彫刻家ラグーザと出会い,西洋画の指導を受け,モデルもつとめた。1880 年,ラグ ーザと結婚。 112 )佐伯米子氏=洋画家。明治 30 年(1897)東京に生まれる。大正 9 年(1920) ,佐伯祐三と結 婚。大正 12 年(1923) ,夫とともにフランスへ渡る。1926 年帰国し,27 年再び渡仏。夫,娘 弥智子が相次いで死去し,28 年帰国。 113 )圀チャン(千田是也)=『日記』Ⅱ,註 11 参照。 114 ) 「キツネ」=『日記』Ⅱ,註 39 参照。 115 )丸山定夫=俳優。明治 34 年(1901) ,愛媛県に生まれる。大正 6 年(1917) ,広島を拠点に全 国を巡業する「青い鳥歌劇団」に入団し,俳優としてのスタートを切る。大正 13 年( 1924 ) 上京し,築地小劇場研究生となる。昭和 20 年(1945)8 月,中国地方巡回公演に備えていた 広島で桜隊メンバーとともに被爆し死去。 116 )薄田研二=俳優。 『日記』Ⅱ,註 77 参照。 117 )岸輝子=女優。明治 38 年(1905) ,北海道に生まれる。大正 14 年(1925) ,築地小劇場研究 生となる。昭和 17 年(1942) ,千田是也と結婚。 118 )山本安英=女優。 『日記』Ⅰ,註 323 参照。 119 )波多野サン=波多野敬直。 『日記』Ⅰ,註 86 参照。 120 )環サン=島村環。島村久と,久功の祖母・琴子の妹,米子との次男。 121 )光子サン=向山光子。島村久,米子の三女。向山均(海軍中将・男爵)の妻。 122 )八幡一郎氏=考古学者。明治 35 年(1902)生まれ。東京国立博物館考古課長,東京教育大学 教授等を務める。当時,東京帝大人類学科講師。 123 )長谷部言人氏=人類学者,解剖学者。明治 15 年(1882)生まれ。大正 4 年(1915) ,ミクロ ネシア文部省調査に隊員として参加。昭和 8 年(1933)∼ 10 年(1935) ,東京帝大医学部長, 559 昭和 14 年(1939) ,人類学科主任教授となる。 124 )杉浦健一氏=文化人類学者。明治 38 年(1905)生まれ。昭和 12 年(1937)から,南洋庁嘱 託としてミクロネシアの現地調査をする。当時,東京帝大人類学科副手。 125 )実吉サンノ御老人=島村環の妻・ぬい子の父,実吉純郎(子爵) 。 126 )染木煦 =美術家,民族学研究家。 『日記』Ⅳ,註 64 参照。 127 )高橋文太郎氏=民俗研究家。明治 36 年( 1903 )東京保谷に生まれる。明治大学政経学部卒。 武蔵野鉄道(現・西武鉄道)退職後,民俗研究に打ち込み,昭和 14 年( 1939 ) ,私財をつぎ 込み,生地の保谷の広大な土地を提供し,渋谷敬三と共に,日本民族学会附属民族学博物館を 設立しアチックミュージアム所蔵の民具等を移し展示した。 128 )敦チャン=久功の初恋の人(岡谷氏『南海漂泊』54 ∼ 58 頁) 。 129 )増子チャン=小城斉・たか の六女。文子の妹。 130 )元チャン=小城斉・たか の七女。文子,増子の妹。 131 )南洋庁=『日記』Ⅱ,註 210 参照。 132 )野村益三子爵=明治 8 年(1875) ,東京生まれ。東京帝大農科大学卒。明治 43 年(1910)ド イツ留学。44 年(1911) ,貴族院議員に就任し,昭和 21 年(1946)まで在任。南洋水産会長, 産業組合中央金庫,大日本育英会各評議員,国語審議会委員等を歴任。 133 )水産講習所=明治 30 年(1897) ,農商務省が設置。戦後,東京水産大学となり,2003 年,東 京商船大学と統合し,東京海洋大学となる。 134 )園田サンノ清彦オヂサン=園田清彦。柴山昌生の妻・梅子の兄。畜産業を営み,東京競馬倶楽 部,日本レース倶楽部理事を務めた。 135 )妙本寺ノモトノ家=妙本寺に接して建っていた久功の祖父,柴山矢八の別荘。矢八は退役後, ここに住み,後,長男・昌生の一家も移り住んだ。久功は,パラオへ行くまで,一時この家 で,昌生の家族と同居していた。 136 )焼キステラレタ パラオ ノ文様土器=久功はパラオから大量の文様土器を鎌倉の叔父・柴山昌 生のところに送ったが,ある箱から白蟻が見つかったので,箱ごと全部焼いてしまった。土器 片などはその程度の火では何ともないと思い,跡片付をした出入りの植木屋の吉五郎を,材木 座の家まで訪ねて聞いたが,とうとうわからずじまいだった( 「パラオ文様土器片探集記」 〈 『著 作集』第 2 巻〉321 頁) 。 137 )秋庭サン=『日記』Ⅰ,註 32 参照。 138 )島村サン=『日記』Ⅰ,註 202 参照。 139 )山内賢洲=パラオのコロールに本店を置き,ヤップ島,テニアン島に支店を持つ山内百貨店の 店主。 140 )井関院長=井関鼎。パラオ病院長。 141 )羽根田弥太氏=パラオ熱帯生物研究所員。 『日記』Ⅳ,註 87 参照。 142 )展覧会=「南洋彫刻家 杉浦佐助作品展覧会」 。銀座八丁目の三昧堂ギャラリーで,6 月 21 日 から 24 日まで開かれた。出品作品は,丸彫 15 点,浮彫 3 点,面 14 点の合計 32 点。ほかに素 描若干と久功が浮彫数点を賛助出品し,島の写真,腰巻,ステッキ,お盆などの製作品を展示 した。美術雑誌,新聞等で取り上げられ,美術界に衝撃を与えた(岡谷氏『南海漂蕩』80 ∼ 87 頁) 。 143 )金子九平次君=彫刻家。 『日記』Ⅱ,註 125 参照。 144 )綾サン=土方綾子。土方与志の義理の姉。 『日記』Ⅰ,註 40 参照。 145 )平櫛田中氏=彫刻家。明治 5 年(1872) ,岡山県に生まれる。明治 26 年(1893) ,大阪の人形 師,中谷省古に弟子入りし木彫の修行をしたのち,明治 31 年(1898)上京し,高村光雲の門 560 土方久功日記Ⅴ 註 下生となる。大正 3 年(1914) ,再興院展に出品し,同人に推挙される。昭和 12 年(1937) , 帝国芸術院会員,19 年,東京美術学校教授となる。 146 )伊原氏=伊原清吉。小城斉・たかの五女・澄子(文子の妹)の夫。 147 )吉田芳明氏=彫刻家。明治 8 年(1875) ,東京に生まれる。島村俊明に牙彫,木彫を学ぶ。東 京彫工会,日本美術協会などに出品。大正 13 年(1924) ,帝展審査員となる。 148 )中井ノ惣チャン=中井惣之助。 『日記』Ⅰ,註 2 参照。 149 )文化協会ノ方ノ展覧会=土方久功氏蒐集南洋土俗品展。6 月 24・25 日の両日,京橋の南洋群 島文化協会東京出張所で開催。神像,彫刻,仮面,日用品,土器等 300 余点を展示。その後, 7 月 8 日に東京帝大の人類学教室でも展示され,終了後,展示された資料は,東京帝大の所蔵 資料となった。 150 )朝日新聞ノ飯沢氏=飯沢匡。劇作家,演出家,小説家。本名,伊沢紀。明治 42 年(1909)生 まれ。伊沢多喜男の次男。文化学院美術科卒業後,東京朝日新聞社に入社。1932 年,劇「藤 原閣下の燕尾服」で劇作家デビュー。この展覧会を「東京朝日新聞」が,7 月 1 日から 3 日に わたり, 「南洋土俗風俗」と題して紹介した。 151 )松田粂太郎=劇団制作家。築地小劇場創立時,浅利鶴雄とともに経営部に属し,名マネージャ ーと言われた。 152 )本多正震=学習院初中等科の同窓生。明治 33 年(1900)生まれ。子爵・正復の長男。十五銀 行に入る。 153 )金田一京助氏=言語学者,民族学者。明治 15 年(1882)生まれ。ユーカラの研究で帝国学士 院賞受賞。久功の著書『サテワヌ島民話』 (昭和 28 年刊)の序文を書いている。 154 )捷チャン=島村捷三郎。久功の祖母・琴子の甥。 『日記』Ⅰ,註 66 参照。 155 )松元(中北泰彦)=学習院初中等科の同窓生。 156 )木下孝則氏=洋画家。明治 27 年( 1894 ) ,東京に生まれる。京都帝大,東京帝大中退。大正 10 年(1921) ,第 8 回二科展に初入選。渡仏。大正 12 年帰国。昭和元年(1926) ,前田寛治, 佐伯祐三等と「一九三〇年協会」設立。昭和 3 年 1928)渡仏。昭和 10 年(1935)帰国。翌年 「一水会」の創立に参加。 157 )高勇吉=チェロ奏者。明治 34 年(1901)東京生まれ。東京音楽学校卒業後,ドイツのライプ チヒ音楽学校でグレンゲルに学ぶ。帰国後は,独奏およびダスコー三重奏で活躍する。 158 )中西氏=中西悟堂。野鳥研究家で歌人・詩人。明治 28 年( 1895 ) ,石川県に生まれる。明治 40 年(1907) ,養父と祖父母とともに神代村の祇園寺に移住。明治 44 年(1911) ,深大寺にて 僧籍につく。この頃より歌を始め,詩人と交わる。 昭和元年(1926) ,千歳烏山に移り住み,田園生活に入る。質素な生活とともに,昆虫や野 鳥の観察を始める。昭和 9 年(1934) ,内田清之介,黒田長礼,鷹司信輔,山階芳磨,柳田国 男,荒木十畝らの文化人の後援を得て,日本野鳥の会を創立,雑誌『野鳥』を創刊した。 159 ) 「美ノ国」=月刊美術雑誌『美之国』 。8 月号で特集が組まれ,5 ページに及ぶ杉浦佐助の彫刻 の写真,佐助の「私ノ手記」 ,今井繁三郎と江川和彦のエッセー等が掲載されている(岡谷氏 『南海漂泊』142 頁) 。 【第 26 冊】 160 )宮ケ丘=目黒区の町名。現・南 1 ∼ 3 丁目・碑文谷 3 丁目。 161 )吉田謙吉=舞台美術家。 『日記』Ⅰ,註 198 参照。 162 )東久世ノ信サン=東久世通信。通敏(伯爵)と玉子との次男。 163 )吉五郎=柴山家に出入りしていた材木座の植木屋。パラオから送られたパラオ文様土器の後片 561 付けをした( 「パラオ文様土器片探集記」 〈 『著作集』第 2 巻〉321 頁) 。 164 )慈恵医大ノ新井正治氏=人類学者。明治 32 年( 1899 ) ,長野県に生まれる。東京慈恵会医科 大学を卒業し,解剖学教室の助手に就任。昭和 8 年(1933)助教授に,昭和 18 年(1943)に 教授になる。 165 )太平洋協会=昭和 13 年(1938)に設立された国策調査研究機関。副会長を松岡洋右,理事を 鶴見祐輔とし,鶴見が協会の運営を取り仕切った。所員には,平野義太郎,関嘉彦らがいた。 機関誌『太平洋』をはじめ,数多くの出版物を刊行し,戦前,戦中の太平洋諸島研究に一つの 役割を果たした。 166 )平野義太郎氏=法学者。明治 30 年(1897)生まれ。東京帝大法学部助教授時代,フランクフ ルト大学に留学してマルクス主義を研究する。昭和 5 年(1930) ,帰国後,治安維持法違反で 検挙され,免官処分,執行猶予付きの有罪判決を受けた。昭和 12 年(1937) ,留置中に転向。 167 )三吉朋十氏=探検家,研究者。明治 15 年( 1982 ) ,北海道生まれ。札幌農学校卒。マニラに 渡航し,昆虫採集。三井物産香港駐在員等を経,第 1 次大戦中は,インド,ビルマを旅行。ジ ャワ島ニラバヤ市に 4 年居住。昭和 7 年(1932) ,台湾総督嘱託としてチモール方面,ジャワ, バリ,昭和 12 年(1937) ,ルソン,バラワン島に旅行。 168 )オヂサマ=皿井立三郎。医学博士。妻・清江は,久功の祖母・琴子の妹。 169 )オ慶チャン=皿井慶子。立三郎,清江の長女。昭和 19 年(1944)死去。 170 )隼チャン=皿井隼之介。立三郎,清江の次男。 171 )中川善之助氏=法学者。明治 30 年(1897)生まれ。当時,東北帝国大学教授。民法学の権威 で,家族法で優れた業績を残した。 172 )原田淑人博士=東洋考古学者。明治 18 年( 1885 ) ,東京生まれ。白鳥庫吉の下で東洋史を学 ぶ。東京帝大教授となり,文学部に考古学講座を創設。東洋考古学の開拓者と言われる。 173 )伊藤熹作=舞台美術家。 『日記』Ⅰ,註 16 参照。 174 )綱町=三田綱町。明治 5 年∼昭和 42 年の地名。現在の港区三田 2 丁目 1 ∼ 3,17 ∼ 21。 175 )Ořarebūr =オジャラブル。サタワル島出身で,アンガウル島の燐鉱採掘のための人夫として 連れてこられたが,交代の時期が来てもサタワル島へ戻らず,10 年以上もパラオに留まって いた。久功はカヤンガル島で出会い,サタワル島へ帰りたいが旅費がなくて帰れないと訴えて いたオジャラブルを,通訳兼人夫として,サタワル島へ一緒に連れてゆくことにした( 「流木」 〈 『著作集』第 7 巻〉16・17 頁) 。 176 )熱帯生物研究所=パラオ熱帯生物研究所。昭和 9 年(1934) ,東北大学の生物学教授・畑井新 喜司の奔走で生まれた文部省管轄の研究機関。昭和 10 年(1935)3 月,コロール島アラバケ ツに実験所が完成すると,畑井が初代所長となって赴任した。実験所のほか,別棟の図書室と 宿舎からなり,数艘の採集船も持っていた。専任の研究員は置かず,内地の無給助手や大学院 生を中心とする若手研究員 27 名を委嘱し,半年,一年と期限を切って滞在させるシステムを とった。久功は,ここの研究員と親しくしていた(岡谷氏『南洋漂蕩』183 頁) 。 ( 『土方久功詩集 青 177 )Kūkong =クコン。ゲルールの義妹。当時 20 歳位。散文詩「ガルミヅ行」 蜥蜴の夢』所収,後, 『著作集』第 6 巻)などにその名が見られる。 178 )Sahalbid =サカビヅ。ゲルールの妹。当時 23 歳。久功に「サカビヅ」と題された詩がある ( 『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』所収,後, 『著作集』第 6 巻収載) 。 179 )南洋松島=コロール島からパラオ諸島の南端に近いペリリュー島にかけて連なっている大小無 数の島々のこと。パラオ語では,Heleb ahab(ヘレバハブ)という。パラオ松島とも呼ばれ たほど美しい景観をなしている。今は,ロックアイランドと呼ばれている。 180 )高松ト云フ人=高松一雄。元来は指物師であったと考えられる。島民の中にまじって住み,家 562 土方久功日記Ⅴ 註 具製作のかたわら,あちこちの半端仕事を手伝って,暮らしを立てていた。久功の推薦で,昭 和 16 年(1941)12 月 1 日,嘱託として物産陳列所に入り,その仕事を手伝った。その直前, 11 月 28 日に久功が独立官舎に移ると,間もなく,その屋根裏部屋に住んだ。中島敦が来島す ると,高松と親しくなった(岡谷氏『南海漂蕩』185 ∼ 188 頁) 。 181 )Maria =マリヤ。コロール島第一の名家の出身で,イギリス人と島民の混血児で島の有名人た るウィリアム・ギボンの養女で,内地の女学校に数年留学したのち,戻って結婚し,娘 Gres をもうけるが,嫉妬深い夫を追い出してしまう。マリヤはしばしば久功のところを訪れ, 「パ ラオ地方の古譚詩」の邦訳を手伝っていた。中島敦の『南島譚』の中に, 「マリヤン」として 出てくる(岡谷氏『南洋漂蕩』 ,143・144 頁) 。当時 24 歳。長女 Gres は 4 歳だった。 182 )Heldebehel ニ就イテ非常ナ間違ヒヲシテ居タ=『日記』原本第 15 冊 96 頁は, 『土方久功日 記』Ⅲ,234・235 頁にあたり,そこに Heldebehel( Kaldbekel )について記されている。 183 )大谷光瑞氏=宗教家,探検家,浄土真宗本願寺派第 22 世法主。伯爵。明治 9 年( 1876 ) ,第 21 世法主大谷光尊の長男として生まれる。大正天皇の従兄弟。1902 年以来,教団活動の一環 として西域探検のため,中央アジアに渡り,仏蹟の発掘調査等にあたった。 184 )食堂ノボーイ Odoriyong ト Badehesang ガ=この随筆は, 「南洋の鳥景」と題し, 『野鳥』第 7 巻 2 号(1940 年 2 月)に掲載されている(後, 『著作集』第 6 巻に収載) 。 185 )南方離島記=この 9 月 29 日から 9 日間にわたる離島旅行記は,書き改められ, 「南方離島記」 と題され, 『著作集』第 6 巻 266 ∼ 292 頁に収載されている。ただし,10 月 6 日の後半部分 ( 『日記』原文 152 ∼ 157 頁)に書かれている,①国光丸船長に対する批判,②南洋拓殖株式会 社に対する批判,③スペイン人布教師に対する批判は, 『著作集』には収められていない。 186 )サンパン=沿岸や河川で用いる木造の小船。甲板のない寄木船で,一般に帆がなく,喫水が浅 く,平底である。 187 )ヤップ=カロリン諸島西部にある島。北緯 9° 30 ,東経 138° 10 に位置し,環太平洋造山帯上に ある陸島で,大小 4 つの島からなる。陸地総面積 101㎢。石貨で有名である。昭和 10 年時の 人口 3,867 人。 188 )コプラ=成熟したヤシの果実の脂肪層をはぎ取って乾燥したもの。工業的な脂肪原料として重 要で,マーガリン,石鹸,蝋燭,ダイナマイトなどを作る原料となる。島の重要な現金収入源 となっていた。 189 )昨夜ハ夜中迄流シテ=この 10 月 2 日の記は,書き改められ, 「ナポレオン」と題され, 『土方 久功詩集 青蜥蜴の夢』175 ∼ 181 頁に収載されている(後, 「南方離島記」 〈 『著作集』第 6 巻〉275 ∼ 280 頁,収載) 。 190 )Melekeok =マルキョク。パラオ本島中央部,東海岸にある村落。昭和 10 年時の人口 138 人。 191 )ソノ向フニ,小サナ小サナ「ヘレン」ノ島ガ見エル=ヘレン島滞在中のことは, 「ヘレン島」 と題され, 『野鳥』第 7 巻第 5 号(昭和 15 年 5 月)に掲載されている。 192 )例ノ「バイ」ノ模型=金に困っていた高松一雄が,長い時間をかけて作ったア・バイの精巧な 模型を新聞社(南洋新報)の山本耕三に捨て値で売ろうとしたのを,久功が間に入って,結局 物陳の所属する商工課が買い取ることになった(岡谷氏『南海漂蕩』185 ∼ 186 頁) 。 193 )田山氏=田山利三郎。珊瑚礁の研究者。当時,東北帝国大学講師。 『土方久功日記』Ⅳ,註 63 参照。 194 )デング=デング熱。 『日記』Ⅲ,註 31 参照。 195 )甲谷陀丸=カルカッタ丸。大正 6 年( 1917 )竣工。総トン数 5,226 トン。三菱長崎造船所で 造られた貨物船。昭和 16 年(1941)7 月,陸軍に徴用される。 196 )和田君=和田清治。パラオ熱帯生物研究所研究員。 563 197 )加藤君=加藤源治。同上。メダカの研究者。戦後,錦鯉の餌の開発に成功して財を成した(岡 谷氏『南海漂蕩』184 頁) 。 198 )阿加田君=阿刀田研二のこと。パラオ熱帯生物研究所研究員。 「サカビヅ」と題され, 『土方久功詩 199 )Sahabid ト Ngerehesoaol ニ行ク=大幅に書き改められ, 集 青蜥蜴の夢』 (後, 『著作集』第 6 巻)に収載されている。 【第 27 冊】 200 )マガンラン= Mangallang。パラオ本島北端のアルコロン村の西海岸にある村落。昭和 10 年 時の人口 88 人。 201 )Ngheangngal =カヤンガル。パラオ本島の北 32 キロの海上にある島。昭和 10 年時の人口 93 人。 202 )Ngerhelong =アルコロン。ガルコロンとも記す。パラオ本島北端にある村。昭和 10 年時の 人口 627 人。 203 )Okotol =オコトル波止場。アルコロン村の西海岸にある波止場。 204 )コンレイ= Hollei。Holley とも記す。アルコロン村の西海岸にある村落。昭和 10 年時の人口 94 人。 205 )Ngerbao =ガルバオ,ガラバオ。パラオ本島北端にあるアルコロン村の東海岸にある村落。昭 和 10 年時の人口 56 人。 206 )昼前,飛行機ガ来=昭和 14 年 4 月 1 日,大日本航空株式会社の経営で内地― パラオ間の定期 航空が開始された。 207 )Ngardmao =ガラスマオ,ガルヅマオ。パラオ本島北西部にある村。昭和 10 年時の人口 125 人。 208 )古イボロボロノ人骨=「ノート」7 の 157 頁に貼付されている久功に宛てた羽根田弥太の 5 月 16 日付の手紙によれば,この人骨は,羽根田により慈恵医大助教授・新井正治のところに持 ち込まれ,老人女性のものであろうと判定された。 209 )Ngarald =ガラルド。ガラルヅとも記す。パラオ本島北部にある村。昭和 10 年時の人口 682 人。 210 )Ngabūkd =ガブクヅ。ガブクド,カボクヅとも記す。ガラルド村の中央西岸にある村落。昭 和 10 年時の人口 140 人。 211 )Ngatmel =ガツメル。アルコロン村の東北端にある村落。昭和 10 年時の人口 55 人。 212 )Ngūrūbosang =ウルボサン。グルボサンとも記す。マルキョク村の東南端にある村落。昭和 10 年時の人口 68 人。 ,大阪に生まれる。京都帝大卒。1936 213 )京都大学ノ泉井久之助氏=言語学者。明治 38 年(1905) 年,同大助教授。1938 年以降,三回に渡り南洋群島へ調査。専門の印欧語のみならず,世界 の古今東西の言語にも通じていた。マライ=ポリネシア諸語のうち,ミクロネシア諸語を,音 韻対応と文法現象を根拠に系統関係を解明した。 214 )赤松俊子ト云フ女流画家=丸木俊。洋画家。大正元年(1912) ,北海道に生まれる。女子美術 専門学校を卒業し,二科展に出品。昭和 16 年( 1941 ) ,丸木位里と結婚。被爆直後の広島で 救援活動を行い,夫とともにその惨状を目撃し,以後二人で原爆の絵を描き続けた。昭和 42 年(1967) ,原爆の図丸木美術館を開設。平成 12 年(2000) ,逝去。 215 )Ngatkip =ガツキップ。ガキツプ,Ngetkib,Ngkatkip とも記す。パラオ本島アイライ村の 西南端にある村落。昭和 10 年時の人口 42 人。 216 )Almettengngel =アルマテンゲル。アルメッテンガルとも記す。アルモノグイ村の西岸にあ 564 土方久功日記Ⅴ 註 る村落。昭和 10 年時の人口 92 人。 217 )Imilïk =アイミリーキ。イミリーキとも記す。パラオ本島西岸にある村。昭和 10 年時の人口 208 人。 218 )a Imeyong =アイミヨン。ア・イメヨンとも記す。アルモノグイ村の中央西部にある村落。昭 和 10 年時の人口 98 人。 219 )藤井病院長=藤井保。医師,医学博士。明治 26 年( 1893 ) ,秋田県生まれ。東京慈恵会医科 大学卒。大正 4 年(1915)慈恵大学講師。昭和 4 年(1929) ,ヤップ島の人口減少問題調査の ため,南洋庁勅任高等官としてヤップ島病院長に着任。医療行為をしながら,解剖により死因 の究明に努める一方,島民と親しく交流しながら,島民の生活習慣を調査し,人口減少の原因 を明らかにした。その後,サイパン島,ポナペ島(現ポンペイ) ,パラオ島の病院長を歴任し た。昭和 19 年(1944) ,戦局の悪化により帰国。昭和 24 年(1949)より北品川に藤井医院を 開業した。南洋群島滞在中および帰国後も久功と親しく交流した。昭和 63 年(1988)逝去。 220 )丸山晩霞老=水彩画家。慶応 3 年(1867) ,長野県生まれ。明治 34 年(1901) ,太平洋画会創 立に参加。南洋興発株式会社の依頼を受け,南洋の風物を主題とする献上画の下絵写生のた め,3 月 3 日入港のサイパン丸で,夫人とともに来島した。 221 )真珠養殖場ノ佐伯氏=佐伯清。アラカベサンに鰹鮪漁業および鰹節の製造販売を行う,本社・ 工場をもつ紀美水産合資会社を兄巌と経営していた。また,兄巌が社長を務め,真珠貝の採取 ならびに養殖,船舶の所有および貸借その他水産業を行うパラオ水産株式会社の取締役であっ た。芸術を愛好し,彼の家には多くの人が集まった。大の音楽好きで,青年時代には,日比谷 公会堂の音楽会は欠かさず聴いた。久功はしばしばアラカベサンを訪れ,料理好きの夫人の手 料理のもてなしを受け,泊まることもあった。しまいには,毎週末訪れ,佐伯家内の空地で泊 りがけで彫刻の制作を行った。高松一雄の仕事場もあった(岡谷氏『南海漂蕩』189 頁) 。な お戦中,久功との交流は一時途絶えたが,佐伯は戦後内地に引上げて,水産業を再興し,久功 との交流も復活した。 222 )八木隆一郎氏=脚本家。明治 39 年(1906) ,秋田県生まれ。幼い頃,母とともに函館に渡る。 函館商事学校卒業。文学を志して上京。国民新聞の懸賞小説に「新三稜鏡」が入選。新築地劇 場に所属し, 「蟷螂」を上演,好評を博した。映画の脚本,ラジオ・ドラマの脚本等も書いた。 223 )ミユンス=アミヨンスとも記す。アラカベサン島中央北岸にある村落。昭和 10 年時の人口 125 人(うち島民 63 人) 。 224 )Ngeriyūngs =ゲリユンス。ガリヨーンスとも記す。カヤンガル島の南にある島。島は,珊瑚 礁で囲まれている。 225 )鞠窮如=鞠躬如。キッキュウジョ。体をかがめ,恐れつつしむさま。 226 )画ニ添ヘテ( 『南洋群島』ヘ)=これら 4 編の詩は, 「昼」と題され,スケッチとともに『南洋 群島』第 6 巻第 5 号(1940 年 5 月)に掲載されている。 227 )バリーノ鳥ト蛇ノ三ツ組ノ彫刻=この彫刻については, 「バリー島の土人の玩具」 ( 『野鳥』第 8 号第 5 号,昭和 16 年 5 月)にスケッチとともに掲載されている。 228 )睦男サン=中村睦郎。佐伯清とともに,パラオ水産株式会社の取締役を務める。 229 )ガラガサン=ガラカサンとも記す。パラオ本島中央部東岸のカイシャル村にある村落。昭和 10 年時の人口 75 人。 230 )ガラカソウ= Ngerekesou。ガラカソルとも記す。カイシャル村にある村落。昭和 10 年時の 人口 20 人。 231 )Nghesar =カイシャル。カイサルとも記す。カイシャル村にある村落。昭和 10 年時の人口 62 人。 565 232 )Ngersūūl =ガツショール。ガルスールとも記す。カイシャル村にある村落。昭和 10 年時の人 口 78 人。 233 )Ngarangasang =ガラカサン。ガラガサンとも記す。カイシャル村にある村落。昭和 10 年時 の人口 75 人。 234 )西尾善積君ト云フ画家=洋画家。明治 45 年(1912)京都市に生まれる。東京美術学校洋画科 卒。在学中の昭和 13 年(1938) ,文展に初入選。昭和 18 年(1943) ,第 30 回光風会展で光風 会賞を受賞。 235 )武田氏ト云フ画家=武田範芳。洋画家。大正 2 年(1913) ,北海道旭川で生まれる。北海道庁 永山農業学校卒業後,昭和 9 年( 1934 )上京し,本郷と目白の絵画研究所に学ぶ。ゴーギャ ンの『ノア・ノア』を読み南洋への憧れを募らせ,昭和 14 年( 1939 )10 月,南洋群島ヘ渡 る。サイパン,パラオ,ヤップ離島のフララブ島を取材。昭和 16 年(1941)に帰国。戦後は, フランスを拠点に活動。平成元年(1989)死去。 236 )軍艦島=コロールの北西約 8 km の海上にある無人島。島の形が軍艦に似ているのでその名が ある。 237 )巌サン=佐伯巌。清の兄。紀美水産合資会社の代表社員,パラオ水産株式会社社長を務め,南 洋群島水産組合連合会の専務理事でもあった。 238 )近藤新長官着任=近藤俊介。南洋庁長官。明治 23 年( 1890 ) ,長崎県に生まれる。大正 5 年 (1916)内務省に入り,警視庁警部となる。福井県・長野県・石川県・熊本県の各知事を歴任 した。4 月,南洋庁長官に就任し,昭和 18 年(1943)11 月まで在任。 239 )清水村=パラオ本島南東部,カイシャル近くにある植民村。 240 )朝日村=パラオ本島中央部にある植民村。ガルミスカン植民地ともいう。 241 )ガツパン湾=ガスパンともいう。パラオ本島の西南部,アイミリーキの北,ガスパンの西にあ る大きな湾。 242 )ガルミシカン=ガルミスカンとも記す。パラオ本島の中央西部にあるアルモノグイ村にある村 落。昭和 10 年時の人口 192 人。 243 )大和村=朝日村の南西部にある植民村。 244 )アウロン=ア・ウロンとも記す。ガラルヅ村の西岸にある波止場。 245 )ガベイ= Ngabei。アルコロン村東岸にある村落。昭和 10 年時の人口 61 人。 246 )Ngesang =ゲサン。ガイサンとも記す。パラオ本島北部ガラルド村の中央,東岸にある村落。 昭和 10 年時の人口 19 人。 247 )Halap =ハラップ。アカラップとも記す。ゲサンの北にある村落。昭和 10 年時の人口 149 人。 248 )Ulimang =ウリマン。ガラルド村の南部東岸,ゲサンの南にある村落。昭和 10 年時の人口 98 人。 249 )Ngkeklao =ガクラオ。ガラルド村の南部東岸,ウリマンの南にある村落。昭和 10 年時の人 口 126 人。 250 )Ungiwal =ウギワル。オギワルとも記す。パラオ本島中央,東海岸にある村。昭和 10 年時の 人口 252 人。 251 )野村大将=野村吉三郎。海軍軍人,外交官,政治家。明治 10 年( 1877 ) ,和歌山県に生まれ る。明治 31 年(1898) ,海軍兵学校卒業。明治 33 年(1900) ,海軍少尉に任ぜられる。明治 41 年(1908) ,オーストリア駐在。明治 43 年(1910) ,ドイツ駐在。大正 3 年(1914) ,在米 大使館付武官となる。昭和 8 年(1933) ,海軍大将となる。昭和 12 年(1937) ,予備役に編入 され,学習院院長となる。阿部内閣で外務大臣をつとめ,第 2 次近衛内閣の時駐米大使に任ぜ られた。 566 土方久功日記Ⅴ 註 252 )十年ブリニ Ngardok ノ湖ニ来タリ=ガルドック湖は,パラオ随一の湖。久功が,10 年前にこ の湖へ行ったときのことは「ガルドック湖」 ( 『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』 〈後, 『著作集』第 6 巻〉に収載,60 ∼ 64 頁)に記されている。 253 )学校ノ坂口サン=坂口与三吉。瑞穂小学校校長。 254 )矢崎牧広君ト云フ画家=洋画家。明治 38 年(1905) ,長野県に生まれる。大正 13 年(1924) 上京し,林武に師事。昭和 5 年(1930 年) ,独立美術協会展に出品。昭和 16 年(1941) ,独立 美術協会展に「南国の家」を出品。第 5 回海洋美術展に「バラバット島民集会所」 「パラオ」 を出品。 255 )上條氏=上條深志。海軍大佐。昭和 13 年(1938)6 月から 16 年 1 月まで,南洋拓殖株式会社 の調査課長を務める。昭和 18 年(1943)12 月,サイパン島沖で戦死。著書に『パラオ島誌』 (昭和 13 年 12 月刊)がある( 『復刻版 パラオ島誌』 ) 。 256 )前田利為侯=陸軍軍人,侯爵。旧加賀藩主前田家第 16 代当主。明治 18 年(1885) ,七日市藩 前田利昭の五男に生まれる。明治 33 年(1900) ,前田家第 15 代当主前田利嗣の養嗣子となり, 家督を相続する。明治 44 年(1911) ,陸軍士官学校卒業。大正 2 年(1913) ,ドイツへ留学。 貴族院議員となる。昭和 17 年(1942)9 月,ボルネオ沖で飛行機事故で死亡。 257 )溝口直亮伯=陸軍軍人,政治家,貴族院議員。伯爵。明治 11 年( 1878 ) ,旧新発田藩主・溝 口直正の長男として生まれる。明治 31 年(1998) ,陸軍士官学校卒業。明治 37 年(1904) ,日 露戦争に出征。明治 41 年(1908) ,陸軍大学校を優等で卒業。 【第 28 冊】 258 )マラカル= Malakal。ゲマラカルとも記す。コロール島の西にある小さな島。昭和 10 年時, 1,388 人の日本人が住んでいた。 259 )アルモノグイ= Ngeremlengui。ガルムルグイとも記す。パラオ本島中央部西側にある村。昭 和 10 年時の人口 422 人。 260 )御用船=国事に使用するため,官が雇い入れた民間の船。 261 )Ngarahesoaol =アラカサオ。アラカサオル,ガラカソアオルとも記す。コロール島,中心部 コロールの東にある村落。昭和 10 年時の人口 133 人(うち日本人 83 人) 。 262 )マダライ= Medalai。マダライイとも記す。コロール島西端,アラカベサン島と接する地にあ る村落。昭和 10 年時の人口 364 人(うち日本人 360 人) 。 263 ) 「大阪パップ」=「大阪パック」 。明治 39 年( 1906 )11 月から昭和 25 年( 1950 )3 月まで刊 行されていた漫画雑誌。月 2 回刊。久功は,第 35 巻第 12 号( 1940 年 12 月)に, 「南洋の伝 説・小ウヘリヤッングヅ」を寄稿した。 264 )栗山君=栗山一夫。南洋群島文化協会職員。月刊誌『南洋群島』の編集に係わる。 265 )アラバケツ= Ngerbeched。コロール島西南端にある村。マラカル島に接している。 266 )山本新聞人=山本耕三。南洋新報編集長。 267 )既ニ前ニ一寸書イタヤウニ=『日記』第 28 冊,昭和 15 年 12 月 5 日参照。 郡 268 ) 「南洋□群島」ニモ意見ヲ書イテ置イタ=久功は, 「代用食是々非々」 ( 『南洋群島』第 6 巻第 3 号,1940 年 3 月)で,代用食について書いている。 269 )紀美水産=佐伯巌を代表社員とする合資会社。鰹鮪漁業及び鰹節の製造販売をし,アラカベサ ン島に本社及び工場があった。 「セ 270 )Sebelongngl =セベロングル。セベロングルの名は,長編詩「青蜥蜴の夢」に見え,また, ベロングル」と題された肖像画(1970 年制作,世田谷美術館所蔵)がある。 271 )絵ト文)= Bari 彫=この時送った絵と文は, 「バリー島の土人の玩具」と題され『野鳥』第 8 567 巻 5 号( 1941 年 5 月)に掲載されている。なお,この文は『日記』第 27 冊,昭和 15 年 4 月 27 日に記されている。 272 )十時前パラオ丸ニ乗リコム=この 2 月 1 日から 5 月 10 日までの,3 か月にわたる中央カロリ ンから東カロリンへの調査旅行記のうち,3 月 6 日までの分は,要約されて「僕のミクロネシ ア」 ( 『著作集』第 6 巻)246 ∼ 250 頁に収められている。 273 )トラック=トラック諸島。正しくはチューク。カロリン諸島に位置する火山島群。直径 65 km の大環礁内の約 50 の島よりなり,面積 95㎢。当時 4,000 人の日本人が居住し,西部太平洋に おける連合艦隊の中核基地だった。 274 )偶然結婚披露ノ Kamatep アリシナリ=このカマテックの祝いでは,カブー酒といわれる麻薬 的な飲料がふるまわれる。ポリネシアでは普遍しているが,ミクロネシアでは,ここにしか入 っていないという。シャカウという大きな草の根を,三尺ほどもある大きな石の平臼の上で, 4 4 4 手ごろな大きさの石で搗きつぶし,一方いちいの一種の若枝の樹皮をはぎさいたものをならべ て,その上に,さきに搗きつぶしたシャカウの根をおいて巻きくるみ,両手で両端を握って, 手拭を絞るように絞ると,泥水色の,少しねっとりした汁が垂れる。その汁を椰子殻の椀に受 けて飲む。祝儀,不祝儀のさい,誰でも通りあわせたものが行けばふるまわれる( 「僕のミク ロネシア」 〈 『著作集』第 6 巻〉246・247 頁) 。 275 )lelo 島=レロ島。レレ島とも記す。クサイ島の東北にある小島。昭和 10 年時の人口 465 人。 276 )ジャボール=ヤルート島東岸にある村落。昭和 10 年時の人口 556 人。 277 )ヤルート=ラリック諸島の南端にある環礁島。面積 8㎢であるが,50 余の小礁からなり,内部 に広いラグーンを有する。土地は平坦で低く,標高 2m を超えない。昭和 10 年時の人口 1,537 人。 278 )Jokaaj 島=ジョカージ島。この島のまわりに,ポナペ離島の者たちが宿舎にしている,言わ ば離島村が次々に並んでいた,という( 「僕のミクロネシア」 ,前掲書,248 頁) 。 279 )モートロック=モートロック諸島。チューク諸島(トラック諸島)の南東にある諸島。ミクロ ネシア連邦チューク州に属す。 280 )ドンニー=サイパン島の東村にある村落。昭和 10 年時,日本人のみで 373 人が住んでいた。 281 )ロタ=テニアン島の南 100km にある島。面積約 85㎢,最高標高 495m。昭和 10 年時の人口 5,613 人。 282 )八時ニ彩天丸ガ来ルト云フノデ=『日記』4 月 19 日,21 日∼ 23 日の記は,書き改められ, 「ロ タ日記」と題し, 『著作集』第 6 巻,294 ∼ 318 頁に収載されている。なお,4 月 22 日の記は, 『同時代』34 号(1979 年 8 月)に, 「ロタ日記(抄) 」として収められている。 283 )アグイガン=アギガン島。アグリガン島とも記す。テニアンの南西 8km に位置する,珊瑚礁 に囲まれた小島。面積約 7㎢。昭和 10 年時の人口 84 人。 284 )タッタッチョノ島民部落=タタッチョ,タタチョとも記す。昭和 10 年時の人口 859 人。 285 )笹鹿 彪氏=明治 34 年(1901)鳥取県に生まれる。銀行に勤務しながら絵画を独習し,洋画家 になることを熱望する。大正 9 年( 1920 )上京し,本郷絵画研究所に学ぶ。翌年帝展に初入 選。昭和 12 年( 1937 ) ,サイパン,ロタ,ヤップ,パラオなどを巡遊,同年の第 1 回文展に 「セニョーリータ・イスラ」を出品,昭和 15 年,南洋美術協会結成に参加。2008 年に町田市 立国際版画美術館等で開催された「美術家たちの南洋群島」で紹介された。 286 )ソンソン=ロタ島で最も大きい日本人の住む村落。昭和 10 年時の人口 1,969 人(うち島民 10 人) 。 287 )シナパール=日本人の植民村。昭和 10 年時の人口 564 人。 288 )タルガ=日本人の植民村。昭和 10 年時の人口 267 人。 568 土方久功日記Ⅴ 註 289 )サバナ=日本人の植民村。昭和 10 年時の人口 181 人。 290 )終日室ニ居テ一歩モ出ナイ= 24 日・26 日の記の小鳥についての記述は,一部書き改め, 「チ チリカ」と題され, 「野鳥」第 25 巻 2 号( 1960 年 5 月)に収載(後『著作集』第 6 巻 392 ∼ 395 頁に収載)されている。 【第 29 冊】 291 )日本画家ノ某氏[榊原弘]=京都の日本画家。 『京都市美術展覧会陳列目録』によれば,日本 画部門第 1 回(昭和 10 年) 「犬」 ,第 2 回(昭和 12 年) 「田舎の祭」 ,第 3 回(昭和 13 年)に 「烏骨鶏」を出品。榊原紫峰,苔山,始更等の弟(京都市総合資料館提供,レファレンス協会 同データベース) 。昭和 16 年( 1941 )以前から,本島マルキョクを拠点に創作活動をしてい た。昭和 23 年(1948)6 月,肺病により,京都で死去。 292 )小サナカレータニ子供マデギッチリ乗セテ=この詩は, 「サイパンにて」と題され, 『土方久功 詩集 青蜥蜴の夢』に収められている(後, 『著作集』第 6 巻,70 頁に収載) 。 293 )ウルトラ・マリーンノ=この詩は, 「アギーガン島」と題され, 『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』 に収められている(後, 『著作集』第 6 巻,69 頁に収載) 。 294 )ドチラガ,ドチラダッタノカハ知ラナイガ=この詩は, 「ポナペ」と題され, 『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』に収められている(後, 『著作集』第 6 巻,65・66 頁に収載) 。 295 )ジョカーチノ残虐ナ叛乱=ドイツ統治時代の 1910 年にポーンペイ島ジョカージ地区の住民が ドイツ政庁に対して起こした反乱。ドイツ政庁の土地改革提案に対し,ジョカージの住民は反 対した。そのためドイツ政庁は弾圧し,道路工事に強制就労させられたジョカージ住民が,こ とごとに鞭打たれる事件が起こった。この事件をきっかけに,1910 年 10 月,ジョカージの住 民は武装蜂起し,知事や道路工事技師たちを殺害した。ドイツ側は,軍艦やメラネシア人から 成る討伐隊を派遣し,鎮圧作戦を行った。翌 11 年 2 月,作戦は終了し,首謀者 15 人が銃殺さ れ,その後,住民の大部分のヤップ島やパラオ島への強制移住・強制労働という措置がとられ た(野畑健太郎氏「ジョカージの反乱」 『オセアニアを知る事典』1990 年,平凡社) 。 296 )海上三尺カ五尺ノ=この詩は, 「ヤルート」と題され, 『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』に収めら れている(後, 『著作集』第 6 巻,67 頁に収載) 。 297 ) 「南洋群島」=南洋群島文化協会が編集・刊行した月刊雑誌。昭和 10 年( 1935 )創刊し,当 初は東京で編集・刊行されたが,昭和 14 年(1939)4 月からパラオで編集・刊行された。 298 )石川達三氏=小説家。明治 38 年(1905) ,秋田県に生まれる。昭和 5 年(1930) ,移民の監督 者としてブラジルに渡り,数か月後に帰国。ブラジルの農場での体験を元にした『蒼氓』で, 昭和 10 年(1935)に第 1 回芥川賞を受賞。社会批判をテーマにした小説を書くが,昭和 13 年 ( 1938 ) 『生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分になり,禁固 4 カ月,執行猶予 3 年 の判決を受ける。戦後は,日本ペンクラブ会長,日本芸術院会員となる。パラオ滞在中の体験 を記したものに, 『赤虫島日誌』 (1943 年)がある。 ,青森県に生まれる。明治 32 年(1899) 299 )畑井先生=畑井新喜司。動物学者。明治 9 年(1876) 渡米,シカゴ大学で学び,博士号を取得。後に,ペンシルベニア大学教授となる。大正 10 年 (1921)帰国,東北帝大教授となり,生物学教室を開設した。昭和 9 年(1934) ,コロールに パラオ熱帯生物研究所が設立されると,初代所長に就任した。 300 )アラカマエ= Ngerechemai。ガラガマエ,ガラハマエとも記す。コロールの町の東北,コロ ール島の北岸にある島民のみが住む村落。昭和 10 年時の人口 91 人。 301 )イブクル= Iebukel。アイボクルとも記す。コロールの町の東に接している島民のみが住む村 落。アラカマエの西に位置する。昭和 10 年時の人口 182 人。 569 302 )午後 Ngarmid ニ行ク=この日のガルミズ(アルミヅ)行きの事は,中島敦「日記」 ( 『中島敦 全集』第 3 巻)9 月 10 日に記されている。 303 )Hades = Hadus とも記す。アヅス。石積み道,石畳道。 304 )ア・イライ=パラオ本島南端にある,コロール島に最も近い村。昭和 10 年時の人口 629 人。 305 )今日出港,中島敦君東ヘ= 9 月 15 日から 11 月 5 日までの中島敦の東方の島を訪れた出張につ いては,中島,前掲「日記」9 月 15 日以下に記されている。 306 )並河亮氏=なみかわ・りょう。翻訳家,放送作家,評論家。明治 38 年( 1905 ) ,島根県生ま れ。NHK 国際部,毎日放送に勤務。後,日大教授となる。並河萬理の父。 . . . . . 307 )ソノナンデモナイヒト時=この詩は「そのなんでもない. 」と題され, 『土方久功詩集 青 蜥蜴の夢』に収載されている(後, 『著作集』第 6 巻に収録) 。 308 ) 「パラオ島民ノ暦」原稿=『南洋群島』第 8 巻第 1 号(昭和 17 年 1 月)収載(後, 『著作集』 第 1 巻に収録) 。 309 )中島(敦)君ガサイパンカラ鎌倉丸デ帰ッテ来=中島敦は,出張で,11 月 17 日から,ヤップ, ロタ,サイパン,テニアンの諸島を訪れ,12 月 14 日,コロールへ戻ってきた(中島,前掲, 「日記」 ) 。 310 )十九日=この日夜,中島敦は久功の家を訪れ, 「南方離島記」の草稿を読んだ。敦は,その日 記に「面白し」と記し,草稿の一部を日記に書き写している(中島敦,前掲, 「日記」 ) 。 311 )賑ヤカナ此ノ饗宴=この饗宴については,中島敦,前掲「日記」12 月 21 日の項に記されてい る。 312 )中島(敦)君ガ来=この日の夜,敦は土方宅を訪れ,マルキョク・ガラルド辺のボラ捕りの 話,リーフの縁辺での大シャコ貝捕りの話,海亀の脂が天下の珍味であること,マングローブ 貝,亀の卵,島民の鶏のしめ方の乱暴な話を,大変興味深くきいた(中島敦,前掲, 「日記」 ) 。 313 )敦チャンモ来,飲ミ了ッテ皆デ散歩スル=この大晦日の年越しの会については,中島敦,前 掲, 「日記」12 月 31 日の項に書かれている。 314 )敦チャン,高松君トアラカベサンニ行ク=アラカベサンの佐伯氏宅での元日の御馳走について は,中島敦,前掲, 「日記」1 月 1 日の項に記されている。 315 )午後,中島(幹)君等オシルコヲ作リニ来ル=この日,鍋三杯のしるこを作り,餅も充分にあ り,皆腹一杯食べた(中島敦,前掲, 「日記」 ,1 月 2 日の項) 。 316 )敦チャン,ペリリョウカラオミヤゲヲモッテ帰ッテクル=中島敦の 2 月 5 ∼ 7 日のペリリュー 島への出張については,中島,前掲, 「日記」に記されている。 317 )メナード=メナド( Menado ) 。インドネシアのほぼ中央,セレベス島(スラウエシ島)の北 端に突出するミナハサ半島第一の港。 『日記』Ⅱ,註 226 参照。 【第 30 冊】 318 )一月十七日= 1 月 17 日から 31 日までの,久功と中島敦の二人でのパラオ本島への出張旅行 は, 「トンちゃんとの旅」と題され, 『著作集』第 6 巻,334 ∼ 383 頁に収載されている。但し, この『日記』には,1 月 22 日の半ばまでしか書かれていない。また,中島敦,前掲, 「日記」 に,この出張旅行のことが記されている。なお, 『同時代』34 号(1979 年 8 月)に,この旅行 記の抄文「敦ちゃんとの旅(抄) 」が収められている。 319 )ゲラウスノ部落=ガラウスとも記す。カイシャル村にある村落。昭和 10 年時の人口 71 人。 320 )ウリマン=ガラルド村にある村落。昭和 10 年時の人口 98 人。 321 )ア・ホール村=アコールとも記す。ガラルド村北部にある村落。昭和 10 年時の人口 141 人。 322 )カムセヅ部落=カムセツとも記す。アルモノグイ村の西南海岸にある村落。昭和 10 年時の人 570 土方久功日記Ⅴ 註 口 40 人。 323 )彼等ノ儀式=カヤンガル南村におけるモデクゲイの儀式については, 「パラオに於ける信仰的 新結社に就いて」 ( 「過去に於けるパラオ人の宗教と信仰」 『南洋群島』 ,昭和 15 年 8 月,後『著 作集』第 2 巻 251 ∼ 254 頁)に記されている。 324 )与志チャン=土方与志(久敬) 。演出家。久功の片従兄弟。 『日記』Ⅰ,註 46 参照。 325 )梅サン=土方梅子。与志の妻。 『日記』Ⅰ,註 19 参照。 326 )与平チャン=土方与志,梅子の二男。昭和 2 年(1927)生まれ。 327 )丸木位里ト云フ日本画家=明治 34 年(1901) ,広島で生まれる。長じて上京し,田中頼璋,川 端龍子に師事。日本南画院,青竜社に参加。昭和 20 年(1945)8 月,広島に原爆が投下され ると,妻・俊子とともに広島に赴き,救援活動に従事した。この体験をもとに,翌年俊と協働 で『原爆の図』を発表した。以後,原爆の絵を描き続けた。 328 )東久世ノ忠チャン=東久世通敏(伯爵)と玉子の長男。 329 )ヨシ子サン = 東久世禧子。通忠,通信の妹。 330 )武サン=土方久武。久功の従兄弟。 『日記』Ⅰ,註 203 参照。 旦 331 )マス子サンノ丹那サント云フ人=川瀬伊三郎。増子の夫。増子は小城斉・たかの六女,文子の 妹。 332 )敬太=土方敬太。与志,梅子の長男。 ぜんしょうあん 333 )全生菴=台東区谷中 5 丁目にある臨済宗の寺。通称鉄舟寺。幕末∼明治前期の剣客・政治家, 山岡鉄舟が明治 16 年(1883) ,維新の際国事に殉じた人々の菩提を弔うために建立した寺で, 鉄舟墓,現代落語の創始者三遊亭円朝墓,および日本画家松岡楓湖,教育家棚橋絢子の墓があ り,また幽霊画 50 幅,西郷隆盛の書など寺宝も多い。 334 ) 発信 中島敦=この時発送したハガキは,県立神奈川近代文学館に所蔵されている。なお,こ のハガキの図版が, 「パラオ ― 二人の人生展」 (2007 年,世田谷美術館)図録 2003 頁に掲載 されている。 335 )道子=土方道子。久功の兄・久俊と文子との長女。 336 )本郷夫人=本郷温子。夫は彫刻家の本郷新。 337 )近所ノ彫刻家ノ佐藤君=佐藤忠良。明治 45 年(1912) ,宮城県に生まれる。昭和 14 年(1939) , 東京美術学校彫刻科卒業,新制作彫刻部を創設。昭和 15 年( 1940 ) ,吉田照と結婚し,世田 谷区世田谷(現・梅丘)の後藤禎二の向かいの家に転居。昭和 19 年(1944)7 月応召。 338 ) 発信 中島敦=この日久功が発送した絵葉書は, 『中島敦全集』第 3 巻に収載されている。 339 )十時頃カ中島敦チャンガ来ル=久功は,7 月 6 日付の絵葉書に,水・木・金・土のうち,午前 中に来訪するようにと書いた。 340 ) 「パラオノ石神並ニ石製遺物」=この原稿は,この時は刊行されず,戦後になって「パラオ石 神並に石製遺物報告」と題し, 『民族学研究』第 20 巻 3 4 号( 1956 年 12 月)に掲載された (後, 『著作集』第 2 巻に収載) 。 341 )バルサノ大木=この詩は,一部書き改められ, 「トンちゃんとの旅」の中, ( 『著作集』第 6 巻 380 頁)に収められている。 342 )アイミリーキノ林業試験地ニ=この詩は,一部書き改められ, 「トンちゃんとの旅」の中( 『著 作集』第 6 巻 381 頁)に収められている。 343 )若イクセニ喘息モチノ敦チャント=この詩は,一部書き改められ, 「トンちゃんとの旅」の中 ( 『著作集』第 6 巻 380・381 頁)に収められている。 344 ) 発信 中島敦=このとき久功が発信した書簡は,県立神奈川近代文学館に所蔵されている。ま た, 『中島敦全集』第 3 巻に収載されている。 571 345 )中島ノ所ニ原稿ヲモッテ行キ=久功は「サトワル生活記録」 (後, 『流木』と改め,1943 年 3 月,小山書店より刊行)の原稿を中島敦のところへ持って行き読んでもらった。 346 )大本願=天台宗の大勧進とともに,善光寺を管理する浄土宗の尼寺。 347 ) 発信 ……中島敦=この日久功が発送した絵葉書は,県立近代文学館に所蔵されている。 348 )敦チャンヲ訪ネル= 9 月 5 日付,土方久功・敬子の中島敦・令夫人宛「結婚披露宴招待状」が 県立神奈川近代文学館に所蔵されているが,この招待状は,この時持参したものと考えられ る。なお, 「パラオ ― ふたりの人生展」 ( 2007 年,世田谷美術館)図録 231 頁に招待状の図 版が掲載されている。 349 )南江治郎君=詩人。明治 35 年(1902) ,京都に生まれる。坪内逍遥,小山内薫らに師事。 「新 詩潮」を主宰する。昭和 5 年(1930) ,人形劇専門誌, 「 MARIONETTE 」を刊行し,新人形 劇運動と伝統人形劇の保護を進めた。 350 )関君=関嘉彦。社会思想史家,政治家。大正元年(1912) ,福岡県に生まれる。東京帝大経済 学部に入学し,河合栄治郎に師事する。昭和 15 年( 1940 ) ,太平洋協会研究員となる。昭和 17 年(1942) ,久功とともに,陸軍軍属として太平洋協会より北ボルネオへ派遣され,笠間杲 雄調査部長(司政長官)のもと司政官(調査部員)となった。戦後は,社会思想研究会を設 立。昭和 24 年(1949) ,東京都立大学助教授,のち教授となるが,昭和 44 年(1969)辞職す る。 351 )鶴見氏=鶴見祐輔。官僚,政治家。明治 18 年(1885) ,群馬県に生まれる。東京帝大卒業後, 鉄道院に入る。大正 13 年(1924)に退官し,昭和 3 年(1928)の総選挙で岡山 1 区から衆議 院議員に当選。米内内閣で内務政務次官に就任。太平洋協会理事として,運営の中心となっ た。 352 )英昌=本田英昌。久功の叔父(昌生の弟) ,本田譲二の長男。 353 )偕行社=将校,准士官を対象とする各種軍装品,軍服,軍帽,軍靴等の製作・販売を行う機 関。明治 10 年( 1887 ) ,陸軍将校の集会所・社交場,一種の迎賓館として九段に東京偕行社 が設立されたことに始まる。 354 )病院=岡田病院。現・世田谷中央病院(世田谷区世田谷 1 丁目) 。 572
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