歩兵第107 連隊の波跡 1 歩兵第107 連隊 中部大平洋方面 2 1 仏領印度支那方面 ・昭和18年11月にギルバード島に米軍来襲。 ・同11月21日タラワ島とマキン島に米軍上陸。 ・甲支隊は当初の予定通り、海上機動兵団として ギルバートへの逆上陸を敢行することになり、 マーシャル諸島のクェゼリン環礁に進出した。 ・タラワ島とマキン島の玉砕。 ・甲支隊は南洋各島の守備に分散することになる。 2 昭和18年9月2日 第52師団に動員が下令された 第1梯団 師団指令部を含む 12月16日 兵器勤務隊 経理勤務部 第2梯団 翌年1月21日 通信隊 第52師団指令部 金沢 戦車隊 歩兵第69連隊 富山 歩兵第107連隊 金沢 トラック島へ 向う 歩兵第150連隊 松本 第52師団 山砲兵第16連隊 金沢 工兵第52連隊 金沢 軽重兵第52連隊 金沢 1 歩兵第107連隊 (柏第4655部隊) 歩兵7基本(金沢の歩兵第7 連隊の留守部隊?) + 山砲1ヶ大隊 これら連隊は歩兵連隊に分割併合された 軍支隊の名称の元 連合 艦隊の指揮下に入る (甲支隊) 18年9月10日 編成完結 工兵1ヶ中隊 山砲兵第16連隊第3大隊 工兵第52連隊第2中隊 第1次進出部隊 9月11日から逐次編成地金沢 を出発して宇品に集結 第2次進出部隊 10月7日から金沢を出発し 宇品に集結した 3 T1号輸送作戦 ・連隊本部(支隊本部) ・第一大隊 主力 ・第二大隊 主力 ・第三大隊 一部 海上機動兵団 (甲支隊) 連合艦隊輸送 ポナペ島まで T3号輸送作戦 ・支隊本部 残部 ・第二大隊 半部 ・第三大隊 4 連合艦隊指令部付第1派遣通信隊 第一梯団(甲) 波船団 護衛艦 浦風 第二梯団 第3206船団 輸送船 松江丸 護衛艦 輸送船 藤波 暁天丸 夏島 辰羽丸 御影丸 濱波 日昌丸 天草 第一梯団(乙) 波船団 波勝 朝雲 第3吉田丸 長野丸 夕映丸 瑞海丸 隆興丸 第31号駆潜艇 新京丸 4 連合艦隊 丁1号輸送作戦 軽巡洋艦「木曽・多摩」 特設巡洋艦「栗田丸」駆逐艦「大波」 駆逐艦「谷風」 空母「隼鷹」 第1次輸送 9月15日 宇品出港 第2次輸送 9月18日 宇品出港 23日待機 ト ラ ッ ク 島 ポナペ島 9月22日 ∼27日 到着 第3次輸送9月19日 岩国出港 10月1日 待機 28日待機 丁3号輸送作戦 陸兵や機材は戦艦「山城・伊勢」 十一水戦「龍田」 三十二駆の「早波・涼波・藤波」で護衛 24日待機 第2次輸送10月13日 宇品出港 同10月14日 宇品出港 出港 27日待機 ト ラ ッ ク 島 28日待機 ポナペ島 10月23日到着 26日到着 27日到着 3回次に分れる 5 第14戦隊 連合艦隊長官は、ギルバート方面の急迫を考え、 18年11月22日電令作第826号をもって、クエゼ リン進出を下令した。 軽巡洋艦「那河」「五十鈴」「長良」 駆逐艦「藤波」「能代」 1部 甲支隊 3コ大隊 砲兵1コ中隊 工兵1コ中隊 ポ ナ ペ 島 に 集 結 長良 24日発 響 26日発 主力 ク エ ゼ リ ン 環 礁 11月25日 11月26日 集 結 玉砕 タ ラ ワ 増 援 の 為 待 機 マ キ ン 島 23 日 タ ラ ワ 島 25 日 連 逆 の 合 上 所 艦 陸 信 隊 待 に は 機 一 26 を 任 日 解 し ク き た エ 同 ゼ 隊 リ 爾 ン 後 に の 進 運 出 用 し は て 南 い 洋 る 方 甲 面 支 部 隊 隊 主 指 力 揮 の 官 6 甲 ど 支 の 隊 守 は 備 そ 隊 の と 後 し カ て ロ 配 リ 備 ン さ 諸 れ 島 る な 玉砕 ク エ ゼ リ ン 19 年 2 月 ・暁天丸 歩兵150連隊本部 同第1大隊 砲兵大隊 工兵中隊 補給中隊(1部) 第52師団衛生隊 同病馬厰 同兵器 勤務隊 同防疫給水部 歩兵69連隊 第6中隊 第52師団司令部(1部) ・辰羽丸 歩兵69連隊 第2大隊主力 歩兵150 連隊 第2大隊 師団戦車隊 同輕重隊 同経理勤務部 同兵器勤務隊(1部) 同野戦病院 ・新京丸 歩兵69連隊第2大隊長 近藤久一 大尉及び師団直轄部隊等 歩兵150連隊 第3大隊 第一梯団 第一梯団(甲) 波船団 護衛艦 第二梯団 第3206船団 輸送船 護衛艦 松江丸 浦風 藤波 輸送船 暁天丸 沈没 辰羽丸 沈没 瑞海丸 沈没 御影丸 濱波 日昌丸 第一梯団(乙) 波船団 波勝 第3吉田丸 夏島 天草 隆興丸 第31号駆潜艇 新京丸 長野丸 朝雲 夕映丸 トラック島着 19・1・4∼7 トラック大空襲 19・2・17∼18 7 内地で陸兵や物資を満載した 「武蔵」はパラオへ向う。 19年2月24日 トラック潰滅後の連合 艦隊前進根拠地はバラオ になる。 第二梯団 トラック島 内地に向け航行中の戦艦 (武蔵を中核とした6隻)は 途中第2梯団とすれちがっ ている。 19・2・14 「トラック」に於ける海軍の迎撃体制は真剣さにかくもので あって、完全に敵の奇襲を許し、初日に於いて所有していた 航空戦力は潰滅し翌18日に集結していた輸送船は米軍機の なすがままに撃沈された。この2日間の米機の攻撃により我が 航空機300 艦艇9 輸送船24 を失い艦艇9 が大破し、又倉庫 建物の外2000屯に及ぶ食糧、17000屯の燃料が炎上し陸上 だけで約600名の死傷者を生じた。為にトラック基地の機能 は完全に低減し無力化されてしまった。 「連隊史より」 8 クサイ島 歩兵第107連隊 柏4655部隊 連隊本部 連隊長 少将 山中萬次郎 第1大隊本部 大隊長 少佐 斉藤 知 本部中隊 通信中隊 歩兵4コ中隊 仮編成歩兵1コ中隊を含む 曲射砲中隊 作業中隊軽迫撃機関砲 歩兵砲各小隊 山砲兵第16連隊第3大隊第7中隊1コ小隊 工兵第52連隊第2中隊第1小隊 ポナペ島 歩兵第107連隊 第2大隊本部 大隊長 少佐 伊藤 皓 歩兵4コ中隊 仮編成歩兵1コ中隊を含む 砲兵第2中隊 迫撃砲第2中隊 戦車中隊 衛生隊第3中隊 迫撃砲第1中隊 迫撃砲第3中隊 機関砲中隊 ミレ島 歩兵第107連隊 第3大隊本部 大隊長 少佐 宝田長次郎 歩兵4コ中隊 仮編成歩兵1コ中隊を含む 第3機関銃中隊 第3大隊砲小隊 山砲兵第16連隊第3大隊本部 中尾乙吉 少佐 上同 2コ中隊 1コ小隊欠 高橋文治大尉 工兵第52連隊第2中隊1コ小隊欠 高橋文治大尉 終戦のころ 図-1 中部太平洋方面 トラック島 クサイ島 ポナペ島 ミレ島 クェゼリン岩礁 マキン島 パラオ諸島 タラワ島 1 昭和18年8月17日 金沢 臨時召集 第52師団 歩兵第107連隊 補充隊第3機関銃 中隊編入 輜重兵第52連隊 第2中隊編入 昭和18年9月12日 動員完結 昭和18年9月14日 動員完結 同9月21日 金沢発 同9月21日 金沢発 同9月21日 大阪港出帆 同9月22日 大阪港出帆 大阪港出帆 2 2 2 昭和18年10月13日 仏領印度支那 サイゴン上陸 同10月20日 東京州北江省 コーロ着 東京州 バクニン着 同地を警備 歩兵第83連隊に 転属 輜重兵第21連隊 に転属 第8中隊に編入 第4中隊に編入 3 歩兵第八十三連隊 ・連隊本部 金沢 ・第一大隊 富山 ・第二大隊 敦賀 ・第三大隊 鯖江 ・歩兵砲隊 金沢 ・通信隊 金沢 第九師団管区に於て昭和13年4月 編成され支那へ派遣 3 青島港 北 部 印 度 支 那 対 支 国 境 附 近 警 備 歩兵第83連隊 討第4236部隊 第21師団指令部 討第4231部隊 昭和17年2月4日 仏領印度支那 ハイフォン上陸 昭和17年2月3日 仏領印度支那 ハイフォン上陸 2月13日 東京州 アランチョン着 連隊本部 2月21日 東京州 バクニン着 昭和18年4月18日 東京州 コーロに移駐 昭和19年11月24日 コーロ出発 4 北 部 印 度 支 那 警 察 指 令 部 と し て 北 部 地 区 警 備 2月10日 仏領印度支那 ハノイ着 天長節記念撮影 (昭和19年4月29日) 第21歩兵団 ・第21歩兵団指令部 ・歩兵第62連隊(富山) ・歩兵第82連隊(富山) ・歩兵第83連隊(金沢) 5 4 南寧 支那派遣軍 19年11月21日 1号策応作戦 一宮支隊 ラ ン ソ ン 支隊の編成を解く 20年1月19日 コーロ着 2月4日 安南州 ヴィンに転進 南方派遣軍 ロ ク ピ ン 中部印度支那海岸線縦貫鉄道警備 泰仏印国境の警備 昭和20年1月11日からの大空襲は アメリカ仏印上陸近しという感じを 与えた。この空襲で南支那海の船舶 殆どを失い、サイゴンの航空・埠頭 施設にも損害を与えた。 3月9日∼5月1 5日 明(あきら)号作戦 連合軍からの攻撃に対し インドシナ防衛には仏印 軍の武力処理を必要とし た 作戦 5月20日 安南州 タンホア着 8月14日停戦 東京州南定に集結 ナムデン 21年4月14日 ハイフォン港 5 龍州 支那派遣軍 南方派遣軍 1号策応作戦 ド ン ダ ン 19年11月21日∼20年1月17日 第21師団指令部 (討第4231部隊) 3月9日∼5月1 5日 明(あきら)号作戦 8月14日停戦 21年4月1日 海防市集結 ハイフォン 21年4月16日 ハイフォン港 2 6 1 歩兵八十三連隊 2 第1大隊 第2大隊 第3大隊 中(小)隊 中(小)隊 中(小)隊 3 4 1MG 5 6 7 8 2MG 9 10 11 12 3MG 歩 兵 砲 隊 通 信 隊 乗 馬 小 隊 iA iTL iK 第二十二師団 独立混成第七十旅団 七月第二十二師団の要員をもって 一大隊の編成を命じられた。 独立歩兵第四三〇大隊は 歩兵第十六連隊 歩兵八十三連隊よりの転属者を基幹として要員の 大部分は豪北方面への輸送中海没事故のため引き 返した者、ビルマ方面への補充不能となった者、 その他地域への転出が船舶その他の事由により不 可能となりサイゴンに於いて待機せしめられてい た兵員等であった。従って幹部が不足していたの で十二月にわが連隊より下士官が多く転属してい った。明号作戦時はサンジャックに駐留し三月九 日はサンジャック要塞の攻撃を命ぜられ、これを 攻略した。 「歩兵第八十二連隊史」 明号作戦実施にあたって交趾支那の 「ツドウモ」「ロクニン」の処理に あたった第二大隊(辻田大隊)は戦況 により連隊の復帰は不能となりその まま第二師団の歩兵第十六連隊に転 属(八月九日)になり第三大隊となった。 「追想 歩兵八十三連隊史」 独立混成第七十旅団は明号作戦後中部、マライ半島に転進を命ぜられる。 図-1 仏領印度支那図 ベ ト ナ ム ラ オ ス カ ン ボ ジ ア 図-2 北部仏印の図 ハノイ コーロ アーランチョ バクニン ランソン ロクビン タンホア ビン ハイフォン ドーソン ドンダン 図-3 南部仏印の図 サイゴン ロクニン ツドウモ サンジヤック 図-4 歩兵第83連隊位置 昭和20年8月15日 本部 タンホア Ⅰチーネ Ⅱフリー Ⅲビエンチャン Ⅲルアンプラバン 図-5 仏印ハノイ地図 総督府 シタデル兵営 憲兵隊 軍参謀部 ラネッサン病院 パストゥール研究所 軍指令部 1 第38南方第4陸軍 病院部隊 (信10307) 大本営は印度支那駐屯軍及び 泰国駐屯軍の戦闘序列を令 し、且つ指令部を強化した 昭和17年9月5日 サイゴン出発 同9月12日 ハイフォン 独立混成第21旅団 野戦病院ドーソン 患者療養所 継承 南方第4陸軍病院 本院 南方第4陸軍病院 ドーソン分室を開設 1部をハイフォンに残置 移駐 昭和18年10月15日 本院 敵空襲 1部をドーソンに残置 昭和19年11月10日 移駐 本院 1部 ハイフォンで分病室を開設 2 3 2 昭和20年2月27日 河内(ハノイ) 南方第4陸軍病院 同年3月8日 河内(ハノイ) 明 号 作 戦 に 備 え た 開設 本院 移駐 第1分室 第2分室 ・昭和20年5月25日 南方第四陸軍病院編成改正下令、同日印度支那河内に於いて編成業務に着手 ・同31日 編成改正完結 旧第1分室 終戦 中国進駐軍に引 継き 移駐 本院 部隊は中国進駐軍に病院を 引継ぎ移駐して行くのだが 患者1116名の足跡はこの 略歴からは伺えない。戦病 死した兵隊など遺骨もなく 状況も定かではない。扶助 関係書類を恩給の為の資料 としか扱わない、国や自治 体はそれを破棄していて確 認を困難にしている。 ・事実証明書・死亡証書 ・病歴書 ・戦時名簿 本院 旧第2分室 移駐 旧本院跡を 第1分室に 改称 本院 昭和21年2月14日 一部の人員でハノイ 分院を開設 主力 中国進駐軍 閉鎖 3 ハイフォン 分病室 移駐 昭和20年6月16日 ビン 開設 ビン 分室 終戦 同年9月13日 ハイフォン 移駐 閉鎖 分病室 移駐 開設 昭和21年2月16日 ドーソン 本院 主力 分病室 移駐 患者数1075名 同年3月22日 ハイフォン集結 4 南方第四陸軍病院 ―昭和33年4月17日の国会で辻政信(元陸軍大佐)委員が述べた中で― 南方陸軍病院に所属しておりました軍医中尉油井誠一という人がおります。 この人は、昭和19年7月15日中支において悪性マラリアにかかっています。 そして、それが南方に転送されて、20年6月20日から終戦まで南方の第四陸 軍病院、ハノイで療養を受けておる。そうして終戦を迎えましたが… ―明号作戦― 戦闘終了後のある日、時間的余裕が出来てから、フランス軍関係の病院をみて まわりましたが兎に角フランス側の物量の豊富なのには全く驚かされました。 歩兵第八十二連隊史 軍医(談) ―第38軍状況報告(北部仏印)― 終戦時の1116名の患者は全部南方第四陸軍病院に収容シアリ ―河内(ハノイ)病院― ラネッサン(陸軍病院) ・ パストゥール研究所(細菌) 因に昭和21年9月頃の南方第三陸軍病院は藁葺の掘立て小屋であったという 昭和16年12月8日朝、日本軍司令官はドゥク-海軍大将に真珠湾攻撃と日本の 参戦を伝えインドシナ共同防衛協定の継続に即刻同意するよう要求した。 ベトナム人はフランス植民地政策の崩壊と祖国の解放を望んだが、真珠湾攻撃 により再び幻滅を感じ、日本の政策に疑惑の目を向けるようになった。 「在ベトナム日本大使館報告」 ビルマ急援 昭和19年5月14日 西貢軍指令部よりの至急電報を受領した。これ は第21師団将校以下二千名をビルマ方面に転属させる命令であった。(略)これに 基づく連隊の派遣人員が伝達され15夕には各中隊に伝わった、連隊は約600名 しかも緊急を要した。 「追想歩兵第八十三連隊史」 (ビルマ行きは死をも意味するもので人選の苦悩があったとされる) その年、昭和20年、仏印の稲作は不作が甚だしく、特に北部の江河デルタ地帯 は凶作で、南部のサイゴン米は鉄道寸断のために輸送が全く不能であった。加え て印度支那に対する米軍の上陸作戦を予期して陣地構築が開始され、軍は糧秣と して米の集積に万全を期すべく安南政府に対して大量の拠出を要求したので、農 民をはじめ一般人の食糧は極度に不足をきたした。食を求めてハノイに辿り来る 者陸続として列をなし力つきて路上に斃れ、その死体累々たる有様であった。 「歩兵第八十二連隊史」 参考資料 ・大本営海軍部 連合艦隊 ・中部大平洋方面海軍作戦 ・シッタン 明号作戦 ・第52師団(柏)中部大平洋 歩兵第107連隊幹部職員表 ・歩兵第107連隊部隊略歴 ・歩兵第82連隊史 ・追想歩兵第83連隊史 ・歩兵第83連隊部隊略歴 ・第38南方第四陸軍病院部隊略歴 ・第21師団指令部部隊略歴 ・藤波【Fujinami】 ・一人ひとりの戦記 柏四六五六部隊 ベトナム ホン川(紅河) ホアンキエム湖 プチラック 1951(辛卯) 静に眠っている お花、お線香を 工事中でした ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 ハノイ市内 玉山祠 玉山祠 玉山祠 玉山祠 玉山祠 玉山祠 玉山祠 玉山祠 玉山祠 ホアンキエム湖 プチラック
© Copyright 2024 ExpyDoc