フランスからの技術移転(PDF: 1.18MB)

日本の近代化とフランス
幕末・明治期の日仏文化交流について
フランスからの技術移転
La modernisation du Japon et la France
Sur les échanges culturels franco-japonais dans les
dernières années du Bakufu et à l’époque de Meiji
Transfert de technologie de France
au Japon
日本の近代化とフランス
フランスからの技術移転
横須賀製鉄所
1865
横浜製鉄所
1865
生野鉱山
1868
別子鉱山
1874 ,ラロック招聘
顧問
山ヶ野金山
1877-1878
富岡製糸場
1872
フランスの技術移転は教育との組み合わせで
効果を最大に
横須賀製鉄所黌舎(Collège de l’Arsenal,1870)
生野鉱山学校(Ecole des Mines,1868)
富岡製糸場工女余暇学校(Ecole de jeunes
fileuses ,1878)
「技術移転は場所から場所への単なる移動ではない,人材の育成が不可欠である」
横須賀製鉄所(Arsenal de Yokosuka)
小栗上野介忠順
• 勘定奉行(chef de
l’administration des
Finances)
栗本瀬兵衛
目付(inspecteur du
gouvernement shogounal)
製鉄所委員
(membres du comité
pour fonder l’Arsenal)
小栗三沙氏所蔵
浅野美作守
外国奉行(chef de
l’administration des Affaires
étrangères)
仏大使館所蔵
レオン・ロッシュ
フランス公使
Léon Roches ,ministre de France
幕府(gouvernement shogounal)から製鉄所建設の相談を受けたレオン・ロッシュ仏公使
は,先ず小規模な製鉄所をつくり,そこで大規模な製鉄所に必要な設備を製造し,技術
者を育成することを進言した.こうして1865年に横浜製鉄所がつくられ,同年に横須賀
製鉄所が起工した.後に首長となるフランス海軍技師ヴェルニーは4年間で240万ドルと
で見積もった.
横浜製鉄所(慶応元年)
Atelier de Yokohama(1865)
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
横須賀製鉄所
Arsenal de Yokosuka
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
横須賀製鉄所仏人技師
Ingénieurs français à l’Arsenal de Yokosuka
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
二列目左から3番目
バスチアン
首長ヴェルニー
ヴェルニー家所蔵
製鉄所の首長にフランソア・レオンス・ヴェルニー
François Léonce Verny,directeur de l’Arsenal
• ロッシュ公使は,幕府からの製鉄所建設の要請を受け,まず
東洋艦隊司令官(chef de l’escadre orientale)のジョレス(Jaurès)
提督にそれを伝えた.ジョレス提督は,製鉄所の首長としてエ
コール・ポリテクニック出身でフランス海軍技師ヴェルニーを推
薦した.ヴェルニーはジョレス提督の命を受け中国の寧波(ニン
ポウ)でフランスの小型艦船の建造を終えたところであった.18
65年にヴェルニーは横須賀に日本の海軍工廠(arsenal
naval)建設のために家族と共に来日した.
ネット検索
ジョレス提督Amiral Jaurès
建設中の1号ドック
1er bassin de radoub
鋳物工場と製缶工場
Fonderie et chaudronnerie
木工場 Atelier à bois
組立工場Atelier de l’ajustage
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
横浜丸,1869年進水
Le Yokohama-maru,lancé en 1869
『清輝』,1875年進水
Le Seiki,lancé en 1875
出典:横須賀海軍船廠史
『天城』艦』,明治10年進水
L’Amagi,lancé en 1877
『横須賀丸』1870
Le Yokosuka-maru en 1870
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
観音埼灯台(明治2年)・野島埼灯台(明治3年)
城ヶ島灯台(明治3年)・品川灯台(明治3年)
Phare de Kannonzaki,allumé en 1869
Phare de Nojimazaki,allumé en 1870
Phare de Jogashima,allumé en 1870
Phare de Shinagawa,allumé en 1870
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
撮影
横須賀製鉄所黌舎(学校)
Écoles de l’Arsenal de Yokosuka
横須賀製鉄所は技術者養成学校(Collège)と職人養成学校(Ecole de maistrance)を
持ち,技術者養成学校では代数(l’algèbre),幾何(la géométrie),解析(l’analyse),
造船学(la construction navale),フランス語などを教えた.黌舎は多くの優秀な人材
を輩出し,なかでもフランスへ留学した辰巳一,櫻井省三,黒川勇熊,山口辰弥の
4人は,後に工学博士号(Docteur en technologie)を取得した.
辰巳芳子氏所蔵
辰巳一
熊谷孝一氏所蔵
櫻井省三
熊谷孝一氏所蔵
山口辰弥
熊谷孝一氏所蔵
黒川勇熊
職人黌舎生徒永瀬牛五郎の卒業証書(1875)
Certificat de Ushigoro Nagase,élève de l’Ecole de maistrance
学科目は幾何(Géométrie),デッサン(Dessin),フランス語
(Langue française)であった.
横須賀村農
長瀬牛五郎 弐十弐年
右当処職人職人黌舎学課卒業候也
明治八年九月廿五日造船処
L.Verny
長浜亜夫氏提供
富岡製糸場(Filature de Tomioka)
1872年創業(fondée en 1872)
•
伊藤博文
大蔵省
渋沢栄一
民部省
Haut fonctionnaire du
Ministère des Finances
クレットマン家所蔵
Haut fonctionnaire du Ministère du
Commerce et de l’Agriculture
アルベール・シャルル・デュ・ブスケ
Albert Charles du Bousquet
フランス公使館通訳
Interprète de la Légation de France
ガイゼンハイマー Geisenheimer
エクト・リリアンタルー商会横浜支店長
Directeur du succursale de Yokohama de Hect Lilienthal et Cie
川島瑞枝氏所蔵
ガイゼンハイマーは生糸検査人ブリュナを推薦する.ブリュナは1870
年に雇用契約を結ぶ.
Geisenheimer recommande Brunat,inspecteur de soie à la Filature de
Tomioka.La Filature de Tomioka passe un contrat avec Brunat en 1870.
富岡製糸場のフランス人
Français à la Filature de Tomioka
首長ブリュナ
Brunat
富岡市所蔵
製糸場建設地としてブリュナは何故富岡を選んだか
Pourquoi est-ce que Brunat a choisi Tomioka pour fonder
une filature?
製糸場を建設するには,少なくとも多量の水,石
炭,木材の確保が必要であった.それらの条件
を満たす富岡は製糸場建設の最適地の一つで
あった.
Il fallait beaucoup d’eau,de charbon et de bois
pour fonder une filature. Tomioka a pu remplir
ces conditions au minimum. Tomioka était un
des lieux les plus favorables à la construction
d’une filature.
富岡製糸場建設に横須賀製鉄所・横浜製鉄所が大きな役割を果たした.
L’Arsenal de Yokosuka et l’Atelier de Yokohama
ont joué un grand rôle à la construction de la Filature de Tomioka.
• 富岡製糸場の工場は,横須賀製鉄所から出向したバス
チアン(Edmond Auguste Bastien)が設計,建設された.
• また横浜製鉄所は富岡製糸場の鉄水槽(réservoir
d’eau)を製作した.そのほか富岡製糸場の繭倉庫建設
等に横須賀製鉄所製のレンガが使用された.
• 富岡製糸場の通訳として横須賀製鉄所の製図工で
あった川島忠之助と横浜フランス語学所出身の森澄徳
総が活躍した.
川島瑞枝氏所蔵
首長フランソア・ポール・ブリュナ
François Paul Brunat(1840-1908),Diecteur de
la Filature de Tomioka
ブリュナは1840年にフランスのドローム(Drôme)県のブール・ド・ペアージュ
(Bourg de Péage)に生まれた. 1866年(慶応2)に来日したブリュナ
は横浜のエクト・リリアンタル(Hect Lilienthal et Cie)商会に勤めた. 18
70年(明治3)に富岡製糸場と契約をした.1871年に北関東の養
蚕地帯を調査した結果,ブリュナは富岡を製糸場建設の最適地と決
定した.契約期間は1871年1月から5年間で,給料は月600ドル
であった.フランス式製糸法をただ日本にもって来るのではなく湿気
が多い日本の気候に適合した操糸方式(小枠再繰式)を考案し
た.多くの製糸場がこの方式を採用するなどブリュナの功績は大きか
った.1873年にウイーンで開催された博覧会で2等賞に輝き,富岡
製糸場の生糸の品質はヨーロッパでも認められた.
富岡製糸場は,伝習工場であり,模範工場であった.伝習を終え
た工女は日本各地で富岡式製糸をひろめた.
日本の生糸産業に大きな足跡を残したブリュナは1876年(明治2
に契約が終了し,家族とともに帰国した.1906年(明治39)に富
岡を再訪し,富岡製糸場が格段に進歩していることに驚き,賞賛し
た.1907年に日本の養糸界の殊勲者としてブリュナは養蚕会総
会で表彰された.日本の生糸産業の発展に大きな貢献をしたブリ
ュナは1908年にパリで死去,享年68歳であった.ブリュナはパリの
ペール・ラシェーズ(Cimetière de Père Lachaise)墓地に眠っている.
東繭倉庫Mgasin de l’Est de Ccocons
西繭倉庫Magasin de l’Ouest de cocons
撮影
横須賀製鉄所技師であったバスチアン(Bastien)が富岡製糸場の工場を設計した.
Bastien,ingénieur à l’Arsenal de Yokosuka a dessiné les ateliers de la Filature de
Tomioka
操糸場と製糸工女
Atelier à filage et Fileuses japonaises
レジス・ド・モンゴルフィエ氏所蔵
操糸場Atelier à filage
仏人技師宿舎Habitation
des ingénieurs français
ブリュナ館Habitation de Brunat
地下倉庫Cave
撮影
横浜製鉄所製の鉄水槽
Réservoir d’eau fabriqué par l’Atelier de Yokohama
撮影
製糸工女
• 1873年8月2日に富岡製糸場を訪問した司法省法
律顧問のジョルジュ・ブスケ(Georges Bousquet)は
製糸工女について次のように語っている.
• 「500人の工女が日本人及びヨーロッパ人の教婦
(女性指導者,gouvernantes)の指導のもとに働いて
いる.これらは極めて知的な若い娘達で,器用で繊
細な指をもち,蜘蛛の巣をこわさずに,糸を紡ぐこと
が出来るかも知れない」
出典:『Le Japon de nos jours』
クリスチーヌ・レオン=ラベ氏所蔵
Georges Bousquet,jurisconsulte du Ministère de la
Justice a visité la Filature le 2 août 1873.
Voici ses impressions sur les fileuses..
• 500 ouvrières y sont occupées sous la
direction de gouvernantes tant japonaises
qu’européennes.
• Ce sont des jeunes filles très intelligentes,
• pourvues de petits doigts agiles et menus qui
• fileraient un fil d’araignée sans le casser.
富岡製糸場が世界遺産に
1872年(明治5)に創業した富岡製糸場は,18
93年(明治26)に三井家に払い下げられ,つい
で1902年(明治35)に原合資会社(Hara en
Société en commandite )に譲渡された.最終的
には1938年(昭和13)に片倉工業に経営が任
され,1939年(昭和14)に片倉富岡製糸所と
なった.1987(昭和62)に片倉工業富岡工場
は創業を停止し,2005年(平成17)に製糸場
は富岡市に寄贈された.輝かしい歴史をもつ富
岡製糸場は2014年(平成26)6月26日に世界
遺産に登録された.富岡製糸場はフランスから
の技術移転の最大の成果の一つであった.