二 代 伊 藤 忠 兵 衛 ( 精 一 ) の イ ギ リ ス 滞 在 に か か る 「 本 部 旬 報

二代伊藤忠兵衛 精(一 の)イギリス滞在にかかる「本部旬報」記事
宇 佐美 英機
こ こ に翻 刻す る 資料 は、 明治 四 二年 一
( 九〇 九 五
) 月 から 翌 年九 月の 間、 ア メリ カ・ イ ギ
(1
)
リス に滞 在し な がら 商取 引 や学 業に 精励 し た二 代伊 藤 忠兵 衛 一
( 八 八六 ー一 九 七三 の
) 、イ
ギリ ス滞 在 時に おけ る 消息 を記 した も ので ある 。 出典 は、 伊藤 忠 兵衛 本部 が 発行 して いた
『本 部 旬報 』に 掲 載さ れた 、主 に 「当 主の 消 息」 欄で ある 。
こ の「 当主 の 消息 」欄 には 、 アメ リカ 滞 在時 の情 報は ま った く記 さ れて おら ず、 欧 米滞
(2
)
(3
)
在 の全 容 を把 握で きる も ので はな い 。し かし 、こ れ まで 二代 忠 兵衛 のこ の時 の 欧米 滞在 に
(4
関 す る 情報 は 、『 伊 藤忠 兵 衛 翁回 想 録 』 や「 私 の 履歴 書 」 など で 本 人が 述 べ て いる こと 以
)
外に 拠 る べき も の がな か っ た。 「 私 の 履歴 書 」 のな か で 彼は 、「私 の 一生 を 支 配し たも の
の一 つに 、 外国 行、 こ とに 英国 留学 が ある 三
( 六二 頁 」
) と 述べ て いる 。す なわ ち 、こ のイ
ギリ ス に滞 在し た 際の 経験 は、 そ の後 の経 営者 の 立場 にと っ ても 、一 個人 に とっ ても 、 き
わ めて 重要 な意 義 があ った と 思わ れる 。
し かも 、前 述 の両 書は 、 彼の 晩年 の記 憶 に基 づい て おり 、す べて が 正確 であ る かど うか
は 定か で はな い。 博 覧強 記で あり 、 きわ めて 記 憶力 のあ る人 物 であ った こ とは 、行 間か ら
(5
)
窺 い 知る こと が でき るが 、そ の こと を裏 付 ける ため には 、 他の 資料 と 付き 合わ せる 必 要が
ある だろ う 。こ のこ とは 、 歴史 学の 基 本的 な作 法で も ある 。
本稿 は 、こ の二 代忠 兵 衛の イギ リ ス滞 在時 の動 向 を記 した 「 本部 旬報 」の 記 事は 、ま さ
に 彼の イギ リス 滞 在時 と同 時 的に 記録 され て いる こと に 鑑み 、上 記の 二 書に 記さ れ た記 憶
の 正誤 を正 す ため にも 、 また 今後 、二 代 忠兵 衛に よ る事 業経 営の 実 態を 解明 する う えで も
貴 重な 資 料と 考え ら れる ため 、記 事 を翻 刻し 江湖 に 紹介 する も ので ある 。
本文中には 、イギリス・ドイツなどに滞在していた時に伊藤忠兵衛本部へ送った「通信 」
(6
)
が引 用さ れて い るが 、現 在 、こ れら 欧米 か ら発 信さ れ た通 信・ 書簡 は 、一 通も 残 され てい
ない 。そ れ ゆえ 、原 本 の一 字一 句を 正 確に 引用 し てい るか どう か を確 かめ る 術は ない 。
それ は とも あれ 、 本資 料中 に登 場 する 地名 ・ 人名 など の解 説 ・解 題を 付 した なら ば、 よ
り 理解 を深 め るこ とが でき る のは 言う ま でも ない が、 か なり の紙 幅 を必 要と する う えに 、
い まだ 詳 細な 履歴 が判 明 しな い人 名 や判 然と しな い 事項 も少 な くな いこ とか ら 、今 回は 割
愛 す るこ とに した 。
いず れに せよ 、 資料 を通 読 すれ ば二 三歳 の 若者 がイ ギ リス に滞 在し つ つ欧 州大 陸を 巡 り
なが ら、 次 第に 若き 当 主と して の自 我 に目 覚め てい く 様子 を垣 間 見る こと がで き るが 、そ
れぞ れ の関 心で ご一 読 いた だけ る なら ば幸 いで あ る。
注
1
( ) 『 本 部旬 報 』 につ い て は、 拙 稿 「 伊藤 『 本 部旬 報 』 につ い て 」 滋
( 賀 大学 経済 学 部
附属 史 料館 『研 究紀 要 』第 四六 号 、二 〇一 三年 を
) 参照 さ れた い。
-1-
2
(
、日 本経 済 新聞 社、 一九 八 〇年 。
) 日本 経済 新 聞社 編『 私の 履 歴書 経 済 人1 』
) 上 記 の 二 冊の 書 物 以外 に も 「西 店 ヲ 語ル 座 談 会 」 丸
( 紅 飯 田 株式 会 社社 史編 纂室 、
) 伊 藤 忠兵 衛 翁 回想 録 編 集事 務 局 編『 伊 藤 忠 兵衛 翁 回 想録 』、伊 藤忠 商事 株式 会社 、
一九 七四 年 。
冊中 央 公 論
経 営 問題
める も ので ある 。
『伊 藤忠 商 事
) 二代 忠兵 衛 のイ ギリ ス留 学 につ いて は 、
年』 伊
( 藤忠 商 事株 式会 社 、
留学の概要を知るには最も要を得たものといえる 「商社・紡績の二筋に生きる 」『(別
(
冬 季 号 』、中 央 公論 社 、 一九 六 五 年 ))
。 一 読さ れる こと を薦
ま た、 内 田勝 敏氏 と の対 談で も留 学 につ いて 述 べて おり 、こ こ での 語り は イギ リス
開 に供 する こ とは でき な い。
さ れて いる 丸紅 株 式会 社史 資 料に 存在 する が 、当 該史 資 料は まだ 整理 中 のた め一 般 公
て紹 介 した いと 考え て いる 。な お 、こ の小 冊子 は 滋賀 大学 経 済学 部附 属史 料 館に 寄託
され てい る が、 非売 品で あ るた めこ れ まで 知ら れて は いな い。 い ずれ 別の 機会 に 改め
英 中 の行 動に つ いて 語っ た記 事 が収 めら れ てい る。 他の 資 料に は見 ら れな い情 報が 記
一 九 六五 年 な
) る 小 冊子 が あ る。 こ の 座 談会 は 、 伊藤 西 店 ラ
( シャ店 の
) 歴史 を 振り 返
っ た もの で、 一九 六 四年 一〇 月二 八 日に 開催 さ れた 。こ こに も 、二 代伊 藤 忠兵 衛の 滞
3
(
4
(
5
(
一 九 六九 年 や
) 『丸紅 前史』 丸
( 紅株 式 会 社 、一 九 七 七年 の
) 両 社 史に も触 れら れて
い るが 、 おそ らく は本 人 から の聞 き 取り に拠 った の であ ろう 。 その 内容 は、 回 想録 な
ど で 記さ れて いる こ とと 一致 す る要 約で ある 。
6
( ) 欧 米か ら 発信 され た 書簡 類が 現存 し ない のは 、 おそ らく 忠兵 衛 が帰 国の 船 上に あっ
た明 治四 三 年九 月二 三 日の 夜半 、伊 藤 本店 が全 焼 した から だと 思 われ る。 忠 兵衛 の書
簡類 は 本部 宛に 送 られ てき たが 、 本部 は伊 藤 本店 内に あっ た こと から 、 この 時に 一緒
に 罹災 ・焼 失 した ので はな い だろ うか 。
凡例
一 、原 本は 謄 写刷 りで あ るた め、 不鮮 明 な文 字が 少 なか らず ある 。 たと えば 、 文字 が滲 ん
で しま い 「ン ・シ ・ レ」 のい ずれ な のか 判読 し がた いも のが あ る。 これ ら は、 一部 推測
を 交 えな がら 翻 刻し た。
一、 判読 不 能な 文字 は、 ■ で示 した 。
一、 原文 で は欧 州の 地 名 カ
( タカ ナ 表記 の
) ほと ん どに は傍 線が 付 され てい る が、 翻刻 に際
して は 、こ れを 割 愛し た。
一 、原 文に 付 され てい るル ビ は、 その ま ま翻 刻し た。
一 、明 ら かな 誤字 ・文 意 不明 な箇 所 は、 その 字の 右 側に マ
(マ と
) 注 記し た。
-2-
100
【 明 治四 二年 一
( 九 〇九 】
)
● 当 主の 消 息
「
( 本 部旬 報」 一 号、 九月 一 〇日 )
当 主は 、 七月 二十 日 、紐 育よ り瓜 生 中将 と同 舩 にて 無事 倫敦 に 着さ れし 以来 、 益々 健勝
に 渡 らせ られ 、 クラ スゴ ーに 於 て西 店取 引先 な るフ ィン ド レー 氏の 優遇 を 受け 、蘇 国 の古
色に 接し て、 い たく 英国 人 の奥 ゆか しき 保 守に 心を 動 され 、低 佪去 る に忍 びず 、 漸く 此程
倫敦 へ帰 ら れ、 不日 大 陸へ 旅行 せら る ゝ予 定な り 。而 して 当主 書 信中 、特 に 英国 にて 感じ
.実
.の
.温
.情
.」
たりとて申越されたる中に 、英国人が如何なる人 、如何なる物に対しても 、
「真
を 以て 接す る を見 て深 く感 激 せら れ、 是 非広 く店 員諸 君 に告 げ、 其 心掛 ある 様と の 懇切 な
る 注意 あ りた り。 心す べ き事 にこ そ 。
● 当主 の 消息
「
( 本部 旬報 」 二号 、九 月 二〇 日 )
目下 英 京倫 敦に 御 滞在 中な る当 主 精一 様に は、 其 後益 々御 健 勝に 渡ら せら れ 、毎 日の 日
課 と して 午 前 はタ イ ム ス、 フ ィ ナン シ ャ ル ニ ュー ス 中
( 外商業流 を
) 閲 読 せら れ、 午後 は
訪 問 若く は 日 本 の書 籍 を 耽読 し 、 専ら 御 研 究中 に て 、今 月 二 十 日頃 よ り 独乙 の 西 君 西
(彦
氏令息 を
) 訪ね 、 約 一 ケ月 半 を 以て 独 乙 の全 部 と 仏の 一 部 、 瑞、 墺 、 匈、 白 、 和を 御 視察
の 上 、余 日あ れ ば西 、葡 をも 御 巡遊 、再 び 英京 へ引 返さ る 御予 定の 由 。尚 ほ斯 く御 多 忙な
るに も拘 ら ず、 店及 店員 に 関し ては 深 く御 懸念 遊さ れ 、毎 書信 中 或は 営業 の状 態 に就 き種
々御 下 問せ られ 、或 は 有益 なる 事 項は 詳細 御報 導 下さ るゝ 等 、実 に感 激措 く 能は さる 処 な
り 。然 る に 店 員諸 子 、 殊に 幹 部 及び 上 級 商務 役 諸 氏 の通 信 甚 だ少 な き 由 店
( 務多 忙 の為 な
らんも に
) 付、 爾 今 余暇 を 見 計ら ひ 各 其立 場 よ り見 聞 考 慮 した る 事 項は 、 続 々通 信 せら れ
た し。
○通 達
各店 幹部
一 在
(
) 英主 人精 一 様ヘ 貸借 対照 表 、毎 月二 回 本
( 店 ハ三 回 、
) 及其 店ノ 状 況ヲ 定メ 御発 送
相 成度 候
幹部員又ハ仕入販売ノ諸氏ハ、各自己ノ立場ヨリ見聞考慮シルモノ、又ハ面白キ
事 ハ 時々 御発 信相 成 度候
二
( 精
) 一 様ニ ハ 当分 左ノ ケ 所ニ 御寄 宿中 ニ 候
c/o. Lady Wil Kinson
83. Portsdown Road. Maida Vale London
● 当 主 の消 息
「
( 本 部旬 報 」三 号、 九 月三 〇日 )
洋 行 中の 当主 精 一殿 より 九月 九 日御 認め の 書信 迄到 着せ り 。書 中既 報 の如 く、 愈々 廿 日
頃よ り 御 出発 。 最 初白 、 和 を 見て 伯 林 へ赴 か れ 、西 氏 と 会し て 共 に 独、 墺 、 匈、 瑞 、 出
(
来 得れ ば 西 、葡 を
) 巡 り 、 帰途 仏 国 を経 て 、 十一 月 天 長節 前 後 に 御帰 英 の 予定 に て 、書 信
-3-
)
は前 号所 載の 倫 敦の 下宿 へ 宛て 出状 すべ き 旨附 記せ ら る。
● 彙報
「
( 本 部旬 報 」五 号、 一 〇月 二〇 日
○ 高木 貞 衞氏 の帰 朝
同 氏 は市 内に 於て 広 告取 次業 を以 て 有名 なる 萬 年社 の主 人な る が、 予て 広 告業 及び 之が
経 営 法を 視察 の 為め 洋行 中の 処 、本 月上 旬 帰朝 され 、去 る 十四 日、 当 主精 一殿 の紹 介 状を
持参 、本 部 へ来 訪せ られ た るが 、同 氏 の談 に依 れは 倫 敦に て始 め て精 一殿 に面 接 し、 同地
滞在 中 は各 宿所 を異 に した るも 互 に相 往復 し、 相 共に 大使 舘 に陸 奥伯 爵を 訪 問し たる 事 も
あ り、 或時 は当 主 の案 内に て 市中 の見 物に 出 掛け 、電 車 の停 留場 を間 違 ひ下 車し て 途に 迷
ひ たる が如 き 滑稽 もあ り しと かに て、 其 後同 氏帰 朝 の際 は、 当主 は 欧大 陸旅 行 の途 にあ り
し も、 折 好く 独乙 に て面 会し 別れ を 告げ られ た る由 なり 。
尚 、 精一 殿の 彼 地に 於け る御 近 状を 聞く に 、英 国に ては 紹 介先 の上 流 社会 のみ なる を 以
て、 其交 際 広く 非常 に評 判 宜し き由 に て、 陸奥 伯の 如 きは 当主 の偉 大 なる 決心 と 研究 心の
強く 、 且つ 意思 の剛 毅 なる には いた く 賞讃 せら れ しと 。尚 、独 乙 に於 ては 専 ら織 物に 就て
御研 究 中の 由に 見 受け たる との 事 なり 。
因 に高 木氏 は 資性 温厚 にし て 、而 かも 真 摯な る真 に英 国 的の 紳士 な りと 。
● 当主 の消 息
「
( 本部 旬報 」六 号 、一 〇月 三 一日 )
当主 精一 殿 には 引続 き 西氏 と共 に欧 大 陸御 巡遊 中 なる が、 近着 の 絵葉 書通 信 に依 れば 、
本月 上 旬を 以て 独 逸東 部の 視察 を 終へ 、九 日 オー グス ブル ク より 瑞西 に 入り 、世 界の 公 園
を 以て 目せ ら るゝ 瑞西 の風 光 も、 先急 ぐ 御旅 行と て其 真 美を 探ぐ るの 暇 なく 、殆 ん ど素 通
り にて 十 一日 午後 一時 三 十分 、瑞 独の 国 境バ ーセ ル を越 へて 独逸 に 入り 、彼 の 仏国 より 割
譲 の地 た るア ルサ ス ロー レン ヌ洲 の スト ラス ブ ルク を通 過せ ら れ、 十三 日 フラ ンク フォ ー
ト 御 到着 の報 迄 接手 せり 。
フラ ンク フ ーォ ト御 通信 の 一節 に、
着早 々 、名 誉領 事を 訪 ね申 候。 当 地は 詩人 ゲー テ 、シ ルレ ル 両星 を出 し、 金 傑ロ スチ ヤ
イ ルド 、並 に現 首 相ベ ート マ ン、 ホル ベツ ク ビ
( ユ ル ト公 の後 任 を
) 出 し たる 地に 有 之候 。
本 日ゲ ーテ の 生家 、初 年 時代 育た れた る 処を 見物 致 し候 。其 時代 の 机、 椅子 、 器具 一切
は 勿論 、 台所 道具 等 も整 然と 保存 さ れ居 申候 。 軒続 きが ゲー テ の遺 物博 覧 舘有 之申 候。 肖
像 の 彫刻 、油 絵 は云 ふ迄 もな く 、両 親家 族 の油 絵、 原稿 、 其他 恋人 との 往 復手 紙の 微 迄残
り居 申候 。
西君 はゲ ー テの 事に 関 して 取調 られ た 事多 く、 豊 富の 物語 を今 パ ルマ ー公 園 の会 堂で ナ
イフ 片 手に 聞き つ ゝあ り。
ゲ ーテ 一
( 七五 〇年 頃の 出 生 は
) 拾 七歳 に して ライ プチ ッ ヒ 西
( 君 の処 に
) 出で 、大 学 の三
年に入り再び帰りて大に研究し、欧州を遍歴して名作を出したる由 。晩年ワイマー聯邦 其
(
当 時 は王 国 に
) 招 聘さ れて 大 臣迄 なっ た傑 物 に候 。 下
(略 )
当地 ス
( ト ラ ック ブル ク で
) 友人 の医 学士 に 健康 診断 を 願っ たら 、不 相 変異 状な し との 事
也。
-4-
● 当 主の 消息
「
( 本部 旬 報」 七号 、 一一 月一 〇日 )
前 報後 引続 き 独逸 を御 視察 中 にて 「ラ イ プチ ヒ通 信」 迄 到着 した る が、 昨今 気候 変 化の
折 柄、 別 に御 異状 もな く 至極 健全 に 御行 動の 由拝 察 せら れ、 伊藤 家 の為 め、 帝 国実 業界 の
為 め 益々 自重 あら ん 事を 祈る 。
● 当 主の 消息
「
( 本部 旬 報」 八号 、一 一 月二 〇日 )
当 主は 尚引 続き て 欧州 大陸 に 巡遊 にて 、十 月 下旬 一と 先 独逸 伯林 に安 着 。そ れよ り ハン
ブ ルグ に向 は せら れた り 。伯 林よ りこ の 地ま では 荒 漠た る曠 野を 縫 ふて 繞れ る 汽車 にて 約
四 時 間 を要 す と いふ 。 而 も其 御 通 信 の一 節 に 曰く 、「 ハ ンブ ル グ は流 石 に 新興 の 土地 にし
て到る処活気発動せるは 、夜目にもそれと見受けた 。流石の海港地なる丈け英語通じ居り 、
英国 に類 似 の処 が多 い。 英 国へ 帰っ た 様な 気で 楽だ 」 と。
日数 が 経つ につ れて 、 更に 〳〵 勝れ 給 へる 当主 の 健康 を祝 す。
● 当 主 の消 息
「
( 本 部旬 報 」一 〇号 、一 二 月一 〇日 )
去 月 末、 独逸 より 仏 国巴 里に 向 はれ たる 当主 に は、 其後 仏 国を 御巡 遊せ ら れ、 十一 月 下
旬、 英 京 倫敦 に 帰 られ た り 。「商 港 とし て の ハン ブ ル グ」 て ふ 題 目の 下 に 詳細 な る通 信を
寄せ られ た り。 此の 有 益に して 趣味 あ る御 観察 記 は次 号の 旬報 、 若し くは 他 の適 当な る方
法を 以 て諸 子に 配 付せ んこ とを 期 す。
健 康に 佳な ら ざる 北欧 の風 物 も幸 いに 当 主の 尊体 には 障 らざ りし を喜 び 、更 に殊 に 寒き
英 京の 今 冬中 の御 滞在 の 益々 御健 勝を 祈 る。
● 当主 の 消息
「
( 本部 旬報 」 一二 号、 一二 月 三一 日 )
幸に し て当 主精 一殿 は 益々 御壮 健 にて 英京 に御 滞 在中 なり し が、 去廿 五日 の クリ スマ ス
を 終へ 、伊 太利 の 方面 へ向 け 御出 発せ らる る 筈に て、 近 着の 書翰 中に 今 後の 予定 を 示さ れ
て、
「 前略 」 一月 十二 日 ロン ドン を発 し 、十 五日 巴 里通 過、 南独 逸 を縫 ふて 墺 の主 都ウ イン
ナ に 入り 、セ ル ヴイ アの 主府 ベ ルグ ラド よ りブ ルガ リヤ の 主府 ソッ フィ ヤ を経 て、 土 耳古
のコ ン ス タン チ ノ ープ ル へ 達 し、 同 所 を見 物 し て黒 海 を 渉り て コ ン スタ ン ザ 日
( 本新 聞に
て は度 々 コ ンス ン タ とあ り に
) 上 陸 して 、 ル ーマ ニ ヤ の主 府 ブ カレ ス ト に 入り 、 バ ルカ ン
の最 近 勃興 国を 見 て 実
( 際勃 興 の機 運に 逢 着 、
) 例 の近 東問 題 とし て有 名 なる ボス ニヤ 、 ヘ
ル ッゴ ビナ 両 国を 左に 取っ て 匈加 利の ブ タペ スト に引 返 して 、歩 を 南に 採り て奥 伊 の海 岸
アドリアチック海に出で 、トリエスト、ユーメ 、ポーラ等の商・軍港を見て伊太利に入り 、
アドリヤチック海岸のヴェニスよりフロレンスに入り、ローマに達してネープルスに辿り、
引返 して ハゼ ノ アに 赴き 此
( 処よ り松 村 少佐 と離 る 、
) ミラ ン地 方の 織 物地 を見 て チュ ラン
より 南仏 に 入り 、有 名 なる 盛り 場の モ ンテ ガイ ロ 小王 国よ りニ ー スを 見て ツ ーロ ン軍 港を
-5-
見物 し、 マル セ イユ ーよ り ピオ ー会 社の 船 は弐 月廿 五 日投 じて 、再 び ネー プル ス へ寄 港し
ナイ ル 河筋 を汽 車 にて ルク ソー 、 アス ワン に 埃及 の古 代の 遺 跡
て、 地震 で 有名 なる メ ッシ ナ海 峡を 船 より 眺め て 、月 末に ポー ト セッ トに 上 陸、 汽車 にて
カイ ロ に着 し、 ソ レヨ リ
を 探り 、帰 途 はナ イル 河に 通 ふク ック 社 の遊 船に 投じ て 下り 、再 び カイ ロよ りア レ キサ ン
ド ラ等 に 約一 週間 足を 止 めて 、ポ ー トセ ット より 乗 船、 伊太 利ゼ ノ アに 着し 、 冬の 瑞西 の
通達
雄 図 を 訪ね て 巴 里に 帰 り 、 三月 下 旬 か四 月 上 旬、 英 国 に帰 ら ん とす る の 予 定に 有 之 候 下
(
略 。
)
○
主 人精 一様 へ御 出 状ノ 向ハ 、 一月 二十 五日 迄 伊太 利国 羅 馬日 本大 使舘 ニ 御滞 在ニ 付 、右
日 限ハ 仝舘 へ 宛テ 差出 サ ルベ シ
本部
但 シ、 各 個人 ノ賀 状 ハ御 断リ ノ旨 来 信有 之候 ニ 付、 各店 員中 ヨ リ代 表者 一 名ヲ 定メ 出状
セ ラ レ度 、此 段 為念 申添 候也
十二 月三 十 一日
-6-
【 明 治四 三年 一
( 九 一〇 】
)
● 当 主の 消 息
「
( 本 部旬 報」 一 三号 、一 月 一〇 日 )
前 報后 未 だ何 等の 御 通信 に接 せざ る も、 御予 定 の如 くん ば明 后 十二 日倫 敦を 御 出発 、仏
国 に 渡ら せら れ 、次 いで 南欧 を 視察 せら れた る 後、 阿弗 利 加の 古跡 をも 探 らる ゝ筈 也 。到
る処 の風 物は 尊 体の 上に い やが 上に も佳 な るべ く、 切 望の 至に 堪え ず 。旧 臘末 当 主よ りの
御通 信、 独 逸雑 感は 両 三日 中謄 写に 附 し各 店員 へ 配付 すべ し。
● 当 主 の近 状
「
( 本 部旬 報 」一 五号 、一 月 三一 日 )
予 報 の如 く当 主に は 、目 下南 欧 地方 御巡 遊中 な るが 、最 近 ロン ドン 発の 御 通信 を抜 粋 す
れバ 、
「其 後ク リ スマ ス、 正 月の 準備 、之 れ とて 旅の 身 の何 の用 もな さ そう なも のゝ 、 又何 か
と用 で もな き様 の 事を 仕出 かし て 、ソ レプ レセ ン トを する 、 ソレ 何と 、世 の 中は どこ に 身
を 置く も人 生の 煩 累か ら脱 す るこ とは 出来 な いも の。 ソ レか あら ぬか 在 留日 本人 間 のク リ
ス マス …… ク ルシ ミマ ス …… コマ リマ ス …… 、な ん て新 熟語 を作 っ て盛 んに 平 素の 決済 に
苦 しむ 連 中も ある 。
何 が さて 諸事 簡 潔を 旨と する 西 欧諸 国の 、 物の 贈答 、虚 礼 の応 酬な ど のあ らる 筈を 思 っ
てお った の に、 思ひ きや こ のク リス マ スの みは 何の 因 果か 世の 中 の諸 事万 端の 決 済期 、丁
度日 本 の盆 ・お 正月 ・ 祭り の一 時 に来 た様 なも の 。こ のク リ スマ スの 政治 、 経済 、社 会 の
全 般に 大影 響あ る こと は想 外 で、 実は 昨今 好 んで 用事 を 作っ て忙 がし が って る余 の 身は 、
此 機会 を利 用 して 此の 如 き際 の人 心、 社 会の 機微 を 穿つ べく 、否 多 少で もそ れを 窺 知し た
い ので 、 度々 世の 尻 馬に 附い て幕 の 風に さ迷 はさ れ た次 第で あ る。 併し なが ら 其当 日ク リ
ス マ スの それ は案 外 にも 案外 な もの 、十 二月 二 十五 日の 当 日は 堀越 善十 郎 氏を 見送 る べく
午前 を費 やし 、 午後 は静 か な曇 りに て読 書 や閑 談に 時 を費 やし 、只 僅 かな 夜の 正 餐に 例の
七面 鳥と ロ ース ビフ な るク リス マス 常 礼の 祝ひ 物 を食 べて 賑か に 食事 を終 り 、食 後ホ ール
に音 楽 を聞 くか カ ルタ 遊び 位い が 愉快 の頂 上 。元 来が 宗教 的 の祭 日と は いへ 、最 早今 日 基
督 教国 民の 欧 米全 土は 国際 的 ・国 民的 の 大祝 日に も拘 ら ず、 交通 殆 んど 休止 し、 芝 居其 他
の 歓楽 の 僅か に場 末か ク リス マス の パン テマ ム 子
( 供 を楽 し ます もの にて 、 他の 説明 は 跡 )
の二三時芝居位が関の山であるから、勢ひ人心新たならんとするも能はざるといふ塩梅で 、
日本 のク リス マ スに 代る 新 年の 人民 三日 間 業を 休み 、 長幼 とな く貧 富 とな く餅 の雑 煮 にお
祝ひ し、 七 五三 飾り し て嬉 々と し而 楽 しみ 、呉 越も 手 を携 へて 献 酬す る其 当日 の 心根 を見
るに 至 って は、 確か に 国家 をし て 平和 に天 下泰 平 の瑞 相満 ち て、 長き 人生 を 年毎 に区 画 し
て 粛正 の気 養は し むる 永き 習 慣は 、我 大和 民 族の 優美 超 越な 国民 性の 然 らし むる 所 かと 、
我 大和 民族 の 造つ た瑞 穂 の国 の難 有さ を しみ 〳〵 と 感じ てお る。 即 ちこ れ等 の いゝ 習慣 は
い つ〳 〵 まで も保 持 し度 く、 又所 謂 紋日 なる 正 月其 他の 祝日 に 於け る心 身 の休 養日 には 、
楽 ん で乱 れな い 程度 に於 て十 分 の愉 快を 尽 され んこ とを 右 店員 に祈 る 。
中
(略 )
クリ ス マス 後の 此の 地 は、 お正 月 後の 日本 の様 な もの 。只 ダ ンス 丈け は今 後 は季 節で 日
-7-
本人 中に もな か 〳〵 流行 し てお って 、若 い 娘対 手に 踊 る連 中も 尠な く はな い。 余 は優 にや
さし き技 は 真似 られ そ うで もな く、 時 々ロ ータ ー スケ ーチ ング と て小 車附 き の靴 で辷 る面
白い 運 動で 、米 国 人の 頗る 軽快 な 技も 流行 っ てお るの にか ぶ れて やっ て おる が、 これ は 中
々 運動 にな っ て優 美に 欠け 、 常に 時間 に 乏し い余 等の 身 には 、ダ ン スを 避け て、 常 にこ の
ス ケー チ ング に出 掛け て おる 。初 め はよ く辷 って 転 がっ たこ とも あ るが 、近 頃 は大 分成 功
し か けて 来た 。ダ ン スは 是非 上流 の 交際 には 必 要で 、冬 期の 交 際社 会に は 知ら ねば なら ぬ
も の たが 、ど う もこ れを 試む る 勇気 がな い 、云 々」 と。
けふ 此頃 は ブル ガリ ア辺 り か、 それ と も土 府か 黒海 沿 岸に 愉快 な る御 旅行 を続 け らる ゝ
こと と 信ず 。
● 当 主 の消 息
「
( 本 部旬 報 」一 六号 、 二月 一〇 日 )
一 月 中旬 英国 出 発、 南欧 漫遊 の 首途 に就 か せら れた る当 主 には 、ゆ く りな くも 仏国 巴 里
の逆 旅に て 軽症 に罹 られ 臥 蓐中 の由 、 在巴 里菊 池幽 芳 代筆 来状 あり 。 即左 に記 さ んに 、
拝啓 仕 候。 兼て 申 上候 如く 、松 村 海軍 少佐 と 土耳 古、 伊太 利 等の 旅行 を 共に する ため 、
十 二日 当地 に まゐ り候 処、 兼 て風 邪な り しを 無理 し来 れ る故 か、 当 地着 と共 に大 い に発 熱
仕 り、 イ ンフ ルエ ンザ と 相成 、尚 ホ テル に臥 蓐す る 次第 と相 成 申候 。
右 の 次第 にて 松村 氏 とは その 行 を共 にす るこ と 能は ず甚 だ 遺憾 に候 も、 ヴ ェニ スに て 同
氏と 会合 し、 せ めて イタ リ ー丈 は行 を共 に する 心算 に 候。 尚、 小生 の 病気 御心 配 の事 かと
存じ 候も 、 大久 保医 学 士、 小林 力弥 氏 夫婦 、そ の 他諸 氏の 親切 な る介 抱を 受 け、 全く 快方
に向 ひ 、此 上は 只 疲労 の恢 復を 得 ば全 癒な る まで の運 びと 相 成候 間、 必 ず御 心配 下さ る ま
じ く候 。猶 、 来る 二十 二、 三 日ご ろま で 当地 にあ り、 そ れよ り病 後静 養 の為 めニ ー スに 赴
き 、来 月 五、 六日 ニー ス 出発 、伊 太利 に 向ふ 心算 に 有之 、郵 便物 は 悉皆 ロン ド ンへ 宛て 御
発 送願 度 、埃 及へ も 無論 まゐ らず 候 まゝ 、万 一 埃及 へ宛 て御 発 送の 郵便 物 あら ば、 倫敦 へ
転 送 の事 を先 方 へ通 知被 下度 候 。
忠 兵衛
右、 菊 池幽芳 代筆
」
取敢 へず 右 御通 知旁 々申 候 。尚 、小 生 の病 気決 して 御 心配 下さ れ まじ く候 。
一月 十 八日
伊 藤本 部御 中
)
「 最早 大 丈夫 に有 之 候間 、決 して 御 心配 無之 様 願上 候
精一
こ
( の 一句 、当 主の 御自 筆也
● 当 主の 消 息
「
( 本 部旬 報」 一 七号 、二 月二 〇 日 )
既 報の 如 く、 当主 には 南 欧巡 遊の 途 、仏 京巴 里に お いて 病に 罹 られ 、大 久保 医 学士 の診
察 を 受け られ たる 処 、発 熱甚 だ しく 病も かな り 亢進 せる 由 なり しも 、幸 に 同学 士の 投 薬効
を奏 した ると 、 菊池 幽芳 氏 、森 山海 軍大 佐 、鉄 道院 の 正野 学士 等の 厚 情に より 、 幸に 英国
人の 看護 婦 を得 られ 、 これ 等の 方々 の 心尽 しに よ り発 病後 一週 間 日位 より 、 追々 と食 物を
-8-
摂取 する まで に 回復 せら れ 、一 月二 十三 日 に到 り同 医 学士 の許 可を 得 て同 氏と 同 行、 南仏
の勝 地モ ン トレ に転 地 せら れた るが 、 同地 に約 二 週間 御静 養の 後 、ヴ ェニ ス に於 て松 村少
佐と 相 合し て伊 太 利地 方を 旅行 せ らる ゝ由 。
我 等店 員一 同 は、 風暖 かに 水 清く 白鴎 飛 ぶ、 この 南仏 の 風光 の当 主 が健 康に 幸せ ん こと
「通 達」
御中
伊 藤精 一
英国 倫 敦
明治 四十 三 年正 月元 旦
を 信じ 、 且つ 祈る こと 切 也。
○
伊 藤本 部
各店
各 出 張所
謹賀 新年
希望 多 き四 十三 年元 旦 午前 一時 、珍 ら しく も一 天 晴れ 、十 三夜 の 月清 き朝 、 遙か に東 天
に向 ふ て本 部各 店 各位 の健 康を 祝 し、 其福 寿 を祈 る。 二に 、 小生 幸に 異 境に 在り て紀 念
謹言 。
す べき 当り 年 の新 春を 迎へ 、 旧に より て 益々 頑健 、邦 家 の為 め我 が 一家 の為 め光 輝 赫々
た る欧 大 陸の 天地 に介 在 して 大に 活 躍せ んこ とを 期 す。
こ こ に新 春に 際し 祝 詞を 述べ 、 併せ て自 己の 希 望を 表す 。
● 当 主の 御近 状
「
( 本 部 旬報 」一 八 号、 二月 二八 日 )
最 近到 着の 御 通信 によ れば 、 御病 気御 全 快せ られ たる 当 主に は、 二月 六 日朝 十時 五 十五
分 、南 仏 マン トレ 出発 汽 車に より 約三 十 分に して 仏 伊国 境ベ ンチ ミ グリ ヤを 通 過せ らる ゝ
に 際し 、 音に 聞き し 苛酷 の税 関も 案 外に 寛大 に 済ま せら れ、 到 る処 の自 然 の優 雅に あこ か
れ つ ゝ予 定の 六 時二 十分 、伊 国 商港 ゼノ ア に着 。一 時間 余 の休 憩を と らせ られ 、七 時 廿分
ゼノ アを 発 し、 其夜 十時 半 、名 高き ミ ラン のバ ラス ホ テル に到 着 せら れた り。 而 して 当主
は、 翌 七日 ミラ ンを 発 しヴ ェニ ス に向 て更 に楽 し き御 旅行 を 続け らる ゝ御 予 定な りと 。
ゼ ノア 、ミ ラン は 商工 業の 中 心に て御 調査 の 必要 を認 め られ なれ ば、 帰 英の 途十 分 に視
察 を遂 げ給 ふ べき 筈也 と 。
● 当主 の 消息
「
( 本部 旬報 」 一九 号、 三月 一 〇日 )
予定 の如 く 二月 八日 、 ヴェ ニス に着 。 同地 サン マ ルク 寺院 の建 築 の様 式が 希 臘の クラ シ
ック 式 にビ サン チ ン式 を加 味し た るも のを 無 限の 趣味 を以 て 見、 バビ ロ ン 詩
(人 に
)よりて
歌 はれ たる 有 名の 歎息 の橋 を 見て 共感 を 深く せら れ、 十 日建 築美 術 彫刻 に就 きて は 、ロ ー
マ と相 対 峙す るフ ロー レ ンス に入 ら れた りし が、 十 三日 は松 村 少佐 と共 に午 後 此地 を出 で
立 ち 、 汽車 に よ りて 同 夕 刻 ロー マ に 着、 ホ テ ル マ ジス チ ッ クに 投 ぜ られ た り 。其 翌 、伏
見若 宮、 同妃 両 殿下 の御 入 京を 歓迎 し、 咫 尺し て御 挨 拶せ らる ゝ御 光 栄に 接し 給 へり と。
建国 三千 年 のこ のロ ー マの 興亡 の跡 を 探り 、美 術 建築 を見 、風 俗 習慣 を観 察 せら れた る
-9-
後、 十五 日の 一 番列 車に て ネー プル スに 向 け御 旅行 の 筈也 。
● 当 主の 御 近状
「
( 本部 旬報 」 二〇 号、 三月 二 〇日 )
予 定の 如 く二 月十 五日 朝 、ロ ーマ 出 発。 其の 正午 ネ ープ ルス に着 せ られ 、二 日 御滞 在の
上 、 更に 十七 日同 地 発、 ロー マに 引 返さ れ、 直 ちに ゼノ ア着 に 向は れ、 ゼ ノア を御 視察 の
「
( 本部 旬報 」 二一 号、 三 月三 一日
)
后 、 一日 コモ 湖 水の 秀麗 を愛 で させ られ 、 伊国 の北 部ミ ラ ンに 着せ ら れた り。 ミラ ン を視
当 主の 御 近状
察さ れた る 上、 仏国 に向 は る筈 。
●
当 主に は 、前 報后 仏 国マ ント ンを 経 由、 翌日 森
( 山海 軍大 佐 と共 に ツ
) ー ロ ン港 に着 せら
れ た り。 ツー ロ ンは 地中 海の モ ルタ 、ジ ブ ラル ター 等と 相 対峙 する 仏 の要 港に して 、 今は
昔 、西班牙対抗時代の策源地 、英仏連合軍の黒海 、魯の要害セバストポールを攻撃の際は 、
其本 拠 とし 、一 時ナ ポ レオ ン時 代、 英 の海 軍に よ りて 占領 され た る古 き歴 史 を有 する 軍港
なる が 、今 は稍 々 衰微 して 古の 面 影を 留め ざ るは 惜し むべ き 事な り。 因 に我 が松 島、 厳 島
の 両艦 は、 此 軍港 の建 造に 係 るも のな り 。
● 当主 の御 消 息
「
( 本 部旬 報」 二 二号 、四 月 一〇 日 )
其後 の 御 通 信に よ れ ば、 当 主 には 仏 国 ツー ロ ン 軍 港を 視 察 せら れ た る後 、 岩 倉氏 故
(宮
相 の令 弟 及
) 西 村 清氏 と 共 に汽 車 に より 瑞 西 に入 り 、 三 月十 八 日 瑞西 ル ツ セル ン に 着。 湖
畔 のホ テル に 雪景 色を 眺め 、 故国 の風 光 を偲 はれ 低佪 名 残を 惜ん で翌 日 出発 。積 雪 の山 又
山 を廻 り てイ ンタ ラケ ン に到 り、 名物 の ライ ン酒 に 元気 を附 け、 暫 時間 市内 を 視察 せら れ
た り。 イ ンタ ラケ ン には 登山 鉄道 中 腹ま であ れ ど、 冬期 は積 雪 の為 め中 止 され たり と。 而
し て 此地 方の 民 は剛 健の 気自 ら 備り 、而 も 性質 敦厚 にし て 四方 の風 光 に感 化さ るゝ か 、自
然に 物和 か なり とぞ 。
イ ンタ ラ ケ ンよ り 首 府ベ ル ン を経 、 ゼ ネ バ湖 を 横 ぎり て ロ ーザ ン に 着せ ら れ た り 三
(月
二 十一 日 。
) 此 夕 、愈 瑞 西 の愛 す べ き 風光 に 別 れを 告 げ 、仏 京 巴 里に 向 は る ゝ筈 也 。幸 に
日 に増 し御 健 勝に 渡ら る とい ふ。 慶賀 の 至り 也。
● 当主 の 御近 状
「
( 本 部旬 報 」二 三号 、四 月 二〇 日 )
当主 には 瑞 西を 経て 三 月二 十三 日、 花 の巴 里に 到 着せ られ しが 、 翌日 は菊 池 幽芳 氏と 共
に郊 外 数十 哩ヴ ェ ルサ イユ に散 策 せら れた り とぞ 。因 に、 こ の地 には 広 き森 林に 彼の ル イ
十 四世 によ り て建 てら れた る 宮殿 あり 、 其結 構譬 ふる に もの なく 、 且つ ここ は独 乙 帝フ リ
ー ドリ ッ ヒ一 世に より て 普仏 戦争 の 凱旋 式を 挙げ ら れた る歴 史 ある 地な りと い ふ。
四 月 朔日 には 当主 が 御全 快の 祝 宴を 巴里 のプ ル ニエ ーに 開 き、 御病 中厚 志 を以 て看 護 せ
られ たる 大久 保 医学 士を 始 め、 其他 数氏 を 招待 せら れ たり と。 席上 、 紀念 の枝 折 にと て諸
氏の 揮毫 あ り、 其二 、 三を 摘記 せん に 、
- 10 -
○あ ゝ楽 しき 今 宵よ
菊 池幽 芳
○人 の身 の 病は 快癒 し 得べ けれ ど
松村 菊 男
心の 病 はと みに な ほり 難し 、心 す べき こと に こそ
○ ハバ ナ薫 り 電灯 まば ゆく ブ リユ ニエ ー の
大栄
大
( 栄 は大 久保 医 学士 の雅 号
サ ロン を せば みデ ーモ ン つど ふ
而 し て、 当主 に は不 日御 帰英 の 筈。
)
● 当 主御 消息
「
( 本 部旬 報」 二四 号 、四 月三 〇 日 )
最 近の 御通 信 によ れば 、 当主 には 本月 五 日、 岩倉 男 爵、 松村 海軍 少 佐等 に見 送 られ て巴
里 出発 、 帰英 の途 に 就か れた りと 。
● 当 主の 御消 息
「
( 本 部 旬報 」二 五号 、 五月 一〇 日 )
当主には 、四月十一日よりブラッドフォード 、マンチェスター 、リバプール等の工業地 、
商 港を 視察 せ られ つゝ ある が 、遠 から ず ロン ドン に御 帰 りの 筈。 因 に四 月十 六日 附 御通 信
の 一節 を 左に 摘記 すれ ば 、
「 横 浜を 辞し て早 や 満一 年、 顧 みて 多少 の感 想 なき に非 ず 。此 の感 想に し て真 の土 産 と
すべ きも のな ら め。 兎に 角 此紀 念す べき 日 を光 輝あ る 大英 国の 工業 の 中心 たる 、 又関 係漸
く多 から ん とす るオ ー メン 前
(兆 た
) ら ずや と、 本 日同 胞山 辺君 大
( 紡山 辺 丈夫 氏の 息 、
)中
島大 紡 技師 、川 口 高商 教授 、村 山 実業 練習 生 等を 招待 し、 心 計り の盃 を あげ 、盛 に談 ず 」
と。
● 当主 の御 近 状
「
( 本 部旬 報」 二 六号 、五 月二 〇 日 )
当主 には 前 号所 載の 如く 、 英内 地御 旅 行中 なる が、 曩 之ロ ンド ン 御発 途に 際し 御 認め 之
書に し て、 マン チェ ス ター にて 御 投函 之分 を得 た り。 今其 一 節を 左に 記さ ん 。
「
日 英博 の一 瞥
ブ ッ シ ュ の 会 場 へ 出 掛け た 。 総 事 務 局 へ 先 づ 第一
愈 来月 か ら始 まる 博 覧会 も、 日本 部 は中 々完 成 した との 事を 大 阪出 品協 会 の進 藤氏 に聞
き て 、 出 発 前 の 十 一 日 シ ェ フワ ー ド
に と ア ジソ ン ロ ー ド でチ ュ ー ブを 下 り て事 務 局 に 入れ ば 、 幸ひ 旧 知 山脇 春 樹 氏並 び に友
人の 岸氏 等が 居 られ 、万 事 好都 合で 和田 事 務官 長に 面会 し てパ ッス を 貰ふ て出 掛け た 。
処が 未だ涃 沌た るも の、 漱 石先 生の 句 を借 れば 、紛 然 、雑 然、 混 然、 騒然 たる も の。 併
し出 品 物だ けは 全部 来 た様 子で 、 舘内 は大 小の 荷 物や 棚で ゴ チャ 返し であ る が、 其内 に 例
に よつ て目 に立 つ は、 京都 府 の古 風の 建築 、 ○高 の奈 良 式の もの 、三 井 、郵 舩の 高 襟つ た
も の。 郵舩 は 桜花 で取 巻 き、 今造 花の 取 附け 中で 、 其隣 りが 何県 か の和 風の 坐 敷で 、建 仁
寺 垣に 花 、恥 かし き 娘さ んの 取合 せ 。一 寸日 本 村へ 帰っ た様 だ 。矢 張り 日 本の 春は 善い も
の で ある 。大 阪 市は 山中 商会 と 山中 清助 氏 の仏 檀の サロ ン は、 中々 振 った もの 。モ ス リン
- 11 -
組合 と岡 島の が 一寸 場所 が 宜し く立 派ら し い。
英国 部は 未 だ殆 んど 手 が附 かず 、早 く て五 月一 杯 だら うと の事 。 何時 も律 儀 な国 に不 似
ブー ルの 英 職工 がノ ソ 〳〵 やっ てる 中 に半
合な 事 で後 れる と は、 矢張 りこ ん なお 祭り 騒 きは 英人 は下 手 だ。
外 国の ペン キ 塗り 銕材 の取 附 け等 、ジ ョ ン
ズ ボン に 鳥打 やイ ナセ な 印半 纏の 兄 哥が セッ セと や って るが 、矢 張 り黄 色い の は劣 るし 、
ト ン ト兄 哥連 も見 栄 へが せぬ 。
噺 は 前後 する が 、大 阪か らの 代 表者 進藤 、 藪、 瀬戸 氏等 を 知っ てる の で色 々頼 んだ が 、
既に 大通 り は全 部塞 いで 各 府県 の割 当 が済 んで 致し 方 がな いが 、 何と か甘 い処 の 陳列 を願
ふ積 り だ。 京都 府の 代 表者 にも 会 って 頼ん で置 い た。 何れ 帰 京の 上手 づめ に 押し 掛け る 積
り だ… …云 々」 と 。
日 増し に健 康 勝れ させ 給 ふ当 主の 御祝 福 を喜 び、 且 つ祈 る事 、切 也 。
● 当主 の 御近 状
「
( 本 部旬 報 」二 七号 、五 月 三一 日 )
最近 の 御通 信に 拠れ ば 、五 月七 日に は 近藤 廉平 氏 令息 滋弥 氏、 安 孫子 農商 務 省練 習生 等
と共 に ヨー クシ ャ ィヤ 洲首 府ヨ ー クに 向は れ たる が、 此地 は 歴史 とし て は非 常に 古く 、 英
国 のウ ェス ト ミン スタ ーの 会 堂も あり 、 すべ て古 いも の 計り にて 、 家屋 等も 中世 紀 式の 木
造 多く 、 古代 の城 壁残 存 し、 げに 支 那の 趣あ りて 人 間も どこ と なく どん より し て親 切気 あ
り と なん 。
而し て翌 八日 、 リー ズに 到 られ 、千 住製 絨 所の 石坂 氏 、安 孫子 練習 生 并び に後 藤 毛織 物
会社 専務 後 藤恕 作氏 息 續氏 等の 好意 に より 、此 地 の商 慣習 、取 引 の状 態等 に 就き 取調 べら
れた る 由な るが 、 元来 英国 毛織 物 の発 達は 、 家内 工業 手芸 よ り漸 次発 達 した るも のに て 、
機 械等 は誠 に 不完 全極 まる も の、 皆技 術 計り にて 、日 本 の千 住等 の如 く 、完 全な る 設備 な
ど は見 当 らず 、中 野 尾
( 州 刈安 賀 位
) の 機 械を 備付 く るも のは 、先 づ 以て 上の 部 に属 すと 見
る べき に は、 当主 も 予想 外の 感に 打 たれ られ し が如 く、 何れ も 皆技 術に て 精巧 のも のを 製
造 し 、主 人自 ら 工務 を鞅 掌し 、 工費 等も 我 日本 の及 ばざ る 程の 低廉 也 との 事に て、 従 て日
本の 毛織 物 業な るも のも 、 将来 大に 発 達の 余地 あれ バ 、今 後益 深 く専 門的 の研 究 をこ そ必
要と す べき もの なれ と ぞ。
● 当 主 の御 近状
「
( 本部 旬 報」 二八 号 、六 月一 〇日 )
兼 て イン グラ ン ド内 地御 旅行 中 なり し当 主 には 、去 月中 旬 御帰 倫せ られ た るが 、五 月 二
122. Fellows Road
West Hamstead London N.W.
十一 日 土
(曜 よ
) り左 記へ 御 転居 、近 藤滋 弥 氏と 御同 宿 の由 。因 に近 藤 氏は 日本 郵 舩会 社々
長近 藤廉 平 氏の 令息 に して 、滞 英満 九 年、 工科 大 学の 業を 卒へ ら れ、 至極 温 良の 紳士 なり
とぞ 。
○ 宿所
● 当主 の御 近 状
「
( 本 部旬 報」 二 九号 、六 月 二〇 日 )
日増 し御 壮 健に て英 京 に御 滞在 中、 近 着御 通信 を 摘記 せん に、
- 12 -
スタンド
ヒユーネラルプロセツシヨン
シヨーウインド
「歴史国情に違った処は 、又妙なものに候 。五月廿日はエドワード七世の葬 儀 行 列
で あ っ た 。 通 行の 両 側 の 人家 は 俄 かに 足 場 を作 り 、 商店 は 商 品 を片 附 け て陳 列 棚 に 段 を
作り 、二階三階屋根までも開放してシートを作り初めた 。夫れも其筈 、最初一人の席が二 、
三 ギニ ー 二
( 、 三十 円 の
) も の が、 終に は 五、 六ギ ニー 迄 も上 騰し て 、遂 には それ さ へも な
い 。処 に よれ バ三 十人 詰 の二 階が 三 百ギ ニー 三
( 千円 な
) んて 、突 飛 な相 場の も のが 新聞 の
広告にあった。夫れさへも遂にはアップライ 申
(込 さ
) れたらしい。一国元首の葬式も
フェスチーバル
御 祭 り だ 。 そ れ も其 筈 、 欧 洲の 元 首 八ケ 国 に 米仏 の 二 前大 統 領 、 夫れ に 十 数の 国 の 親王
に大 英国 の 元勲 功臣 雲の 如 く参 列す る に於 ては 、実 に 曠世 の見 物 だ。 近い 独仏 よ りは 申す
まで も なく 、遠 く米 国 三界 から も 見に 来た 物ず き もの もあ る 。僕 も尻 馬に 乗 って 三ギ ニ ー
の 席を 買っ て、 朝 の六 時半 か ら出 掛け た。 仰 々し さ、 物 々し さ、 口で は 言へ ぬ。 何 れ新 聞
に 筆持 つ人 の 文が 掲げ ら れる だら う。 只 驚く のは 、 虚無 党の 害を 防 ぐ為 め無 慮 五万 の探 偵
が 世界 各 国か ら来 た のは 、事 実で あ る、 云々 」 と。
本・ 西
● 当 主の 御近 状
「
( 本 部 旬報 」三 〇号 、 六月 三〇 日 )
当主 に は倫 敦に 御 滞在 中な るが 、 近着 の御 通 信中 、日 英博 所 見、 英先 皇 の死 、綿 業の 中
心 、毛 及毛 織 物並 に其 中心 、 取引 の状 態 、新 取引 先に 就 て、 及輸 入 織物 の将 来と
店の取るべき態度等の各項に就き詳細なる報告を得たれば、謄写に附し各店へ配付したり 。
就 て 熟読 せら るべ し 。
本部
在倫 敦当 主 より 独逸 雑 観先 般着 致候 に 付、 謄写 に 附し 御回 送申 上 候
五月廿六日
マ
( マ
)
◎独逸雑観 其
(一 )
凡 そ 一国 を 評 せ ん と 欲 せ ば 、 其 の 国 語 に 通 じ 習慣 に な れ 、 更 に 其 の 国 の 歴 史 、 政 事、
宗 教 、 社 界 制 度 、地 勢 等 に 精 通 し て 後 に あ ら さ れ ば 容 易に 口 を開 く べ から ず 。若 し 半 可
通の 視察 を なし て以 て 其の 批評 を加 ふ れば 、啻 に 自己 を誤 るの み なら ず、 其 の周 囲の 者を
も誤 解 の渦 中に 陥 ると は 、
ブカ デ ーの 案内 記 にあ る文 句に 多 少綾 を加 へ たる もの に有 之 候 。
実 際批 評家 の 態度 は須 く慎 重 なれ 、精 通 して 後に あら さ れば 口を 開く 勿 れと は名 言 なる
も 、小 生 浅学 寡少 、其 の 言語 は僅 か数 ケ 月間 片手 間 にか ぢり たる に 過ぎ ず。 歴 史も 知ら ね
ば 何も し らさ る小 生 、一 言半 句の 意 志を 発表 す る権 利を 有せ ざ るも 、今 般 の旅 行中 、英 米
独 は 見物 の最 主 眼に て、 少く も 得る 所尠 か らざ るべ く予 期 した るも の 。費 す所 約一 ケ 月十
日間 、旅 程 約三 千五 百哩 、 大都 市に 歩 を止 めた る十 九 ケ所 、工 場 の観 覧七 ケ所 、 博覧 会の
観覧 亦 七ケ 所、 博物 場 は卅 ケ所 以 上、 之れ に費 す 費用 約一 千 円、 努め て学 者 実際 家に 接 し
聞 き得 たる 所尠 か らず 。且 独 逸に 関す る著 書 は自 ら充 分 に渉 猟し 得た る と自 信せ る もの に
候。
昔 より 一 寸の 虫に も 五分 の魂 との 諺 、浅 学凡 脳 にも 反映 あり 。 費せ し費 用 と労 力と によ
り て 日夜 書き 止 めし 日誌 並視 察 録よ り抜 粋 し、 且つ 要点 を 列ね て親 愛な る 各位 の前 に 呈し
候。 若し 一 顧の 価値 あら ば 小生 の愉 快と す る所 、且 諸 氏の 学に 足、 且 信な る意 見 あら ば虚
心批 評を 加 へら れ度 、 喜ん で各 位の 反 駁を 受け た きも のに 候。 尚 、此 の報 告 は真 の批 評報
- 13 -
告に 止め て、 如 何な る点 が 我国 に採 用し 得 るや 否や は 直に 判断 でき も の。 這は 欧 米先 進国
マ(マ )
の各 様各 式 を参 酌し て 我国 式に 醇和 す るに 非ざ れ ば、 其完 と云 ふ べか らず 。 小生 は此 所に
只 批 評 者 の 態 度と し て 論じ 、 敢 て 我国 統 て に 適 合 する と の 意見 に は 無之 を 諒 せら れ 度 、
且 小生 の常 と して 物の 照面 を のみ 報し 、 裏面 の報 告を せ さる は小 生 の常 癖に 候が 、 物の 視
察 には 表 裏両 面の 視察 を 要し 、其 の 両面 を見 た上 に て判 断を 施し た るも の、 且 つや 物の 長
所 に は必 ず其 の物 の 欠点 たる は、 物 あれ ば影 あ るが 如し 。其 心 して 御通 読 を願 度候 。
叙 す るに 先ち 独 逸の 歴史 を簡 単 に記 し、 以 て独 逸の 如何 な る政 体な る かを 脳裡 に止 め 置
かれ ん事 を 期す 。
紀元 第 五世 紀の 初め ロ ーマ 大帝 国 の政 酣な りし 頃 、北 方の 蛮 族ゲ ルマ ン種 ハ 北方 スカ ン
デ ナビ ア よ り 海を 越 へ て大 陸 に 屯し 、 エ ルベ 河 ハ
( ン ブ ルグ 附 近 オ
) ー デ ル河 バ
( ル チッ ク
海 に 注ぐ 筋
) ニ 移 住 して 狩 猟 の傍 耕 作 ニ従 事 し た り。 其 性 ハ慓 悍 に して 進 取 の気 に 富 み、
南 下 し てラ イ ン 河に 出 で 、富 国 ロ ー マの 開 化 の余 光 を 蒙れ る 南 独 バ
( イエ ル ン 洲北 方 、即
ミ エ ン ヘン 辺 迄
) 浸 蔓 し、 属 ロ ーマ の 配 下 地 南
(欧 を
) 犯し て 、 優美 な り しロ ーマ 人民 に北
方の 蛮族 と して 恐れ しめ た り。
再来 地 磽确 にし て耕 作 に適 せず 、欧 州 文明 の早 か りし 南邦 より は 比較 的等 閑 視さ れ来 り
たり 。 乍併 時代 の 推移 と共 に各 州 各市 は日 本 の封 建制 度の 如 き形 体を 形 作り 、自 彊自 力 内
に あっ て努 め たり 。殊 に千 四 、五 百年 当 時の 自由 都市 ニ
( ュー ル ンベ ルグ 〈通 信 参照 〉 の
)
発 達ハ 、 封建 制度 の自 治 体と して 特 殊の 発達 を遂 げ たる なり 。
斯 く て隣 国フ ラン ス はロ ーマ の 文学 美術 は元 よ り、 統べ て に顕 著の 進歩 を なし 、十 七 世
紀の 終よ り十 八 世紀 の初 期 に至 り、 不世 出 の英 雄ナ ポ レヲ ンの 大兵 を 提げ て雄 図 を逞 ふす
るに 及ん で は、 常に 独 乙国 内は 活劇 の 舞台 とし て 戦渦 の巷 とな り しな り。
一世 の 英傑 ナポ レ ヲン のウ ォー タ ロー の一 戦 地に まみ れ、 其 の両 翼を 殺 がれ し以 来も 十
八 世紀 は、 欧 州各 国互 に相 争 奪し 、世 を あげ て戦 乱の 時 代と 化し 、独 乙 各聯 邦は 互 に檣 を
高 くし 、 昨の 和を 結び し 者も 今日 は殺 害 等背 反す る 等、 全く 日本 の 戦国 時代 に 彷彿 たり 。
此 の時 に 当り 普露 西 現
( 中 央政 府 の
) 勃興 漸く 他 に比 し著 しく 、 時の 英帝 フ リー ドリ ッヒ
大帝 現
( 帝 の 三代 前に して ポ ツタ ム宮 よ り服 せし 人 は
) 、 彼 の有 名の 鉄 血宰 相と 相語 り て、
『血 は最 後 の結 合な り』 と の古 諺と 時 代を 観破 し、 各 聯邦 を名 将 モル トケ 将軍 の 下に 統合
して 、 時の 大強 国仏 と 兵を 交へ 、 連戦 連捷 、遂 に 巴里 城下 の 盟を 得、 アル サ ス、 ロレ ー ン
カイザー
二 州 を 獲 得 し 、 其 の余 勢 は 巴 里 郊 外 仏 帝 の 離 宮 ヴ ェ ル サ レ ユ宮 殿 に 於 け る 自 己 独 逸 帝 国
皇 帝た るの 戴 冠式 とな り 、空 前の 大賭 博 に羸 ち得 た る也 。時 は七 十 年前 の一 八 三ー 何年 。
斯 くて 光 輝赫 々た る 新帝 国は 、各 聯 邦よ り政 事 、外 交、 軍事 の 大権 をあ げ て自 己の 掌中
に 収 め、 戦後 ビ 公の 達眼 と鉄 腕 とは 此の 間 に処 し、 外に あ りて は百 方国 威 の発 展を 図 り、
内に あっ て は外 聯邦 の融 和 を図 り、 政事 、 軍事 、産 業 発展 の大 政策 を 樹立 し、 国 民は 勤勉
業に 服し 、 代々 の皇 帝 皆偉 方に して 困 難な る此 の 国体 を指 導し 、 国民 の向 ふ 処を 示し て、
最近 政 事に 軍事 に 産業 に科 学に 、 将た 社界 組 織に 異状 の大 発 達を 来し 、 今や 統べ てに 於 て
大 英国 を凌 が んと し、 廿世 紀 の欧 州の 覇 を掌 握せ んと す る迄 の強 国 とな り来 りし 也 。
尚 、現 帝 ウィ ルヘ ルム 二 世陛 下の 才 略偉 大に して 、 各処 々と し て発 せざ るな く 、常 に国
マ
( マ
)
内 は 元よ り世 界的 の 紛議 の的 と なる か、 少く も 多少 の関 係 を有 せら れ、 世 人又 カイ ゼ ルか
と顰 縮せ しむ る も、 之れ 国 歩如 斯困 難の 時 代に 世を 享 けら れて 、時 代 と共 に進 む 。国 是常
に又 他と 交 渉多 く、 且 つ国 民と して の 結合 浅く 、 時に 離背 者を 出 さし むる の 恐あ るよ り、
- 14 -
『血 は最 後の 結 合な り』 と の古 言を 利用 し て、 常に 対 外的 に紛 争を 起 さし て国 を 上げ て対
マ
( マ
)
外思 想を 高 潮な らし め 、一 国の 結合 を 図る べく 努 めら ゝる 其の 現 帝の 苦慮 や 、我 々の 忖度
する も 恐多 き事 な がら 、其 真情 を 権度 すれ ば 多少 は同 情も 湧 き来 るな り 。此 処に 於て か 我
人 とも 熟々 思 ふ、 嗚呼 我国 の あり がた さ を。
千 五百 年 の歴 史を 此処 に 付言 して 、 愈々 本題 に入 ら む。 其の 異例 の 発達 を敢 て した る国
家 国 民の 発達 の原 素 は抑 も何 ?。 先 づ独 逸に 入 りて より 第一 に 目に 入り 、 其の 国を 去る 迄
何 処 とし て感 ぜ さる なき は、
一、 勤勉 、 節約 、忍 耐
二、 尚 武、 軍事
三 、秩 序的 、組 織 的
四 、実 用的 科 学、 研究 力
五 、産 業 政策 と社 界 政策
の 五 項に して 、 所有 人の 視察 皆 制一 され 居 る也 。
蓋し 米国 の 如き 化物 的、 英 国仏 国の 如 き歴 史に 変化 多 き国 は、 国民 性 相紛 雑錯 綜 せる を
以て 、 外見 より の判 断 往々 矛盾 を来 す も、 当国 の 如き 人種 を同 ふ し発 達に 一 方針 なり 、歴
史 発
(達の 比
) 較 的 新し く、 又制 一 的の 国に あ って は、 比較 的 視察 に誤 な き為 なら む。
一 、 我故 国 江州 中郡 の発 達 は天 恵に 薄 く、 又誅 求苛 酷 なり し故 と 。然 り大 に然 り 。
独 逸や 其 轍を 追ひ し而 已 。殊 に最 近 数世 紀、 国は あ げて 戦乱 の 巷と 化し 、国 民 は艱 苦に
耐 へ 来り たる を以 て 、勤 、倹 、 忍の 三美 徳を 兼 備し たる に て、 亦も 生の 第 一に 置き た る次
第な り。
先づ 衣食 住 に就 て見 る に、 同国 は毛 織 産業 の盛 大 なる によ るも 、 立派 な紳 士 の服 尚綿 入
に して 、 芝 居は フ ロ ック コ ー ト 英
( 仏は 必 ず ドレ ッ ス コ ート 、 何 んで も な き事 乍 ら 独乙 気
質 が 伺は れ て 妙 に
) 絹 の 輸 入 は実 に 寥 々た る も の。 下 級 の社 界 は ツ メ襟 服 に 日本 の 如き 散
髪 多し 。
独 乙料 理 は塩 の辛 く して 、材 料の 悪 しき にて 有 名な るも の。 蓋 し欧 大陸 中 最劣 等の もの
な ら んか 。乍 併 材料 には 仏国 の 如き 意想 天 外よ り来 る底 の 如き もの は なく 実用 品な り 。
次に 住は 、 国の 新し きと 学 術的 に出 来 居る 丈に 、流 石 は最 新式 の もの にて 利用 多 く、 建
築は 便 利に して 経済 的 也。 乍併 材 料は 一時 的に し て、 又室 内 装飾 に至 りて は 殆ん と見 る べ
き なく 、英 国の 重 々敷 もの ゝ 各種 多く せる と 、仏 の百 花 烟熳 たる とを 比 較す れば 、 恰も 冬
の 平野 を歩 む に似 たり 。
右 三は 生 活の 要素 に て、 亦独 逸の 何 たる を知 る を得 ん。
会 社 の労 働者 は 日曜 なく 英
( 米は 皆休 業 、
) 十二 時間 の労 働 に服 し、 商店 又 日曜 に門 を 閉
ず。 朝は 七 時半 八時 より 夜 は必 ず七 時迄 昼
( 食時 間 二時 間 執
) 務 する 処 、英 国に 比 し非 常の
長時 間也 。
.州
.支
.那
.人
.との称あるは、其の勤、倹、耐の三者を悪 ? しく比較したる
兎角 独 乙人 に欧
( )
も のな り。 要 する に、 国民 は 外鈍 内鋭 ゴ ツ〳 〵 真 一 文字 に進 み つゝ ある 也。
英 国民 も 確か に外 鈍内 鋭 的の 国民 た るも 、英 国人 は 豁達 剛毅 に 富み 、独 逸人 は 同じ 剛毅
で も 寧ろ 執拗 で、 何 処か に物 に 拘泥 し、 鎦銖 の 事迄 争ふ の 相違 あり 。蓋 し 之れ が最 後 の強
軍 事 的武 力は 平 和の 保証 とは 、 独逸 の利 用 して 国力 増進 拡 張に 努め た る独 得の 妙
味な らん か。
二、
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計な り。
最近 一世 紀 間、 剣に 依 りて 得た る当 国 の所 得や 尠 から ず。 普通 戦 後に 於、 大 拡張 を企 て
たる 陸 軍は 、数 に 於て 露国 に数 歩 下る 。其 の 軍隊 の組 織制 度 と軍 人の 精 神と 最新 の武 器 と
に 於て は、 確 かに 世界 最強 の もの 、所 謂 平和 の保 証と の 名目 の下 に 当国 の得 たる 利 益や 尠
(
マ
マ
)
か らず 。 吾等 の脳 裡に 未 だ否 か終 生 去ら ざる 遼東 還 附問 題然 り。 近 くは バル カ ン問 題の ボ
ス ニ ア、 ヘル ニッ ヱ ヴナ 合併 問題 に も、 確か に 対露 国境 に動 員 をな し、 敵 を威 嚇し て即 剣
を 最 後の 便り と して 事を 処す る 主義 の甘 さ が、 ■一 寸当 国 以外 に出 来 さる 芸当 なり 。
元来 、祖 先 以来 勇猛 慓悍 に して 武き 事 を好 みた る故 か 、有 名の 決 闘は 此国 学生 の 華と し
て尚 び 、上 流婦 人最 後 の望 は青 年 将校 に配 を得 る にあ り。
兎 に角 屯す るに 全 国四 十八 ケ 州団 を以 てし 、 行く とし て 兵を 見ざ るな く 、実 に軍 事 国の
反 面は 全国 を 蔽ふ て、 旅 行者 に深 き感 を 与ふ 。
ま た、 最 近海 軍の 大 発達 は恐 るべ き もの 。英 国 民の 戦慄 恐愕 は 事実 にし て 、既 に日 本に
て も 十分 の報 道 ある 如く 、ベ レ スフ ォー ド 卿は 宣言 して 曰 く「 一九 一 七年 八
(ケ 年 後 に
)は
ドレ ッド ノ ート 型戦 艦及 び イン フレ ツ キシ ブル 戦闘 巡 洋艦 の数 と制 一 式に 於て 、 遙か に独
逸 の英 国 に 優り 、 大 英国 の 歴 史に 今 日 の 如き 恐 る べき 時 代 なし 」、 と極 言 せし め たる 当の
独逸 は 、軍 国と し て陸 軍の 外海 軍 にも 数年 後 には 世界 最強 の もの とな り 、例 の武 力は 平 和
の 保証 を広 義 に利 用し て国 力 の伸 長、 培 養に 努め し如 く 、今 後此 の 優越 の海 軍力 を 利用 し
旅 客先 其の 何 れよ りす る も、 国境 一度 越 ゑて 独領 に 入ら んか 、停 車 場は 赤帽 詰 襟
た る暁 、 正し く独 逸国 力 の発 展は 測 り知 る可 から ず 。
三、
の駅 長の 下に 各 階級 に適 応 して 制服 し、 一 規定 の下 に 活動 し、 汽車 は 如何 なる 場 合た りと
も一 分も 後 れず 。野 は 等分 に画 然と 区 分さ れ、 森 林は 歩兵 の如 く 制一 し、 各 市の 家屋 は同
じ階 段 に同 じ塗 色 を施 し、 馬車 自 働車 は必 ず 計哩 器を 備へ て 、走 るに つ れて 自働 的に 賃 金
を 計上 し、 道 路は 正列 に通 し て両 側制 形 の側 樹を 植へ 、 小学 校生 は男 児 は軍 隊帽 に 半ヅ ボ
ン 、女 児 は赤 の大 黒帽 に 黒の 制服 を着 し 、半 裳を 甲 斐々 々し くか ゝ げ、 共に ラ ンド セル を
負 ひて 列 を正 して 登 校し 、其 他数 へ 来ら ば数 限 りな く、 兎に 角 一寸 表面 に 現れ たる もの 然
り。
内に あっ て 精細 に見 た時 は 、其 所有 凡 ての もの が秩 序 的に 配列 組 織さ れ居 るは 、 実に 驚
くべ く 、此 の組 織力 の 強大 なる 丈 に国 家的 観念 強 く、 欧州 支 那人 との 悪評 あ るに も不 拘 、
何 処迄 も強 味あ る は此 の故 に て、 此の 一般 的 観念 、小 に して は一 家一 店 の経 営に 秩 序あ る
発 達を 来し 、 大に して は 国家 大会 社の 経 営に 至大 の 便宜 を与 へ居 る は、 英国 と 比較 して 深
く 感し た る処 なり 。
ビユロクラスシズム
此 の 統一 的の 組 織は 多少 組織 に 階級 を生 じ 、青 雲の 思望 あ るも のも 一階 級 に留 めし む る
の 弊 あり 。 政 事に 表 れ ては 官 僚 政 治 の弊 日
( 本 の 国体 に て は 官僚 政 治 は時 に 必 要な り )
に陥る事あるも 、独逸の強味は此の弊を良く知りて 、其の間を甘く行くか確か■骨子にて 、
学問 の 淵源 とし ての 独 逸は 、蓋 し 諸氏 の脳 裡に 深 く刻 まる ゝ 事な らん 。特 に 最近
凡て の 組織 の長 た るも のか 、此 の 間の 消息 を 知る と否 とが 成 否の 岐る ゝ 処な らむ 。
四、
に 於け る 科学 の力 の独 逸 の発 達に 資 せし は、 言を 俟 たず 。
元 来 、教 育の 制度 の 完備 せる と 社界 の学 術に 対 する 智識 の 他に 比し て遙 か に高 きは 、 社
界よ く学 術を 咀 嚼し 、会 社 工場 の学 術利 用 の妙 を得 、 学者 又学 問に 仕 ふる と同 時 によ く社
界の 向ふ 処 を察 し、 相 適応 して 実際 的 に学 問を 活 用す る処 事実 を 見て 、従 来 の予 想に 倍す
- 16 -
るの 思せ り。
兎に 角地 は 磽确 に生 活 難を 長く 嘗め し 時代 より 、 無よ り有 を生 ず るは 独逸 の 天職 との 観
念を 与 へた るか 、 希薄 の鉄 鉱よ り 最良 の鋼 鉄 を出 して 、近 き 英、 瑞、 諾 、白 と相 対抗 し 、
石 炭坑 の富 坑 に対 する 設備 の 妙は 、常 に 当業 者を して 驚 かし め 日
(本の 、
) 最 近ラ イ ン河 筋
電 気を 応 用し て採 取す る アル ミニ ュ ーム 、ア ルカ リ の精 製、 窒素 肥 料の 分解 事 業、 或は 博
産 業政 策 と社 会政 策の 二 問題 は、 従 来少 から ず趣 に 味を 感じ た るも のに して 、 小
士 七 百三 十何 名を 常 備と する 某化 学 染料 工場 の 如き は、 必ず 諸 君の 耳に 古 き事 なら ん。
五、
生は 研究 者 並に 実行 者の 態 度と して 英 米両 国を 視察 し 、少 から ず 得る 処あ り。 乍 併英 米の
其れ を 見て 少か らず 失 望し て独 逸 に来 り、 其の 歴 史、 其の 実 際を 見る に及 ん で、 曩に 失 望
したるに反し少からず得る処あり 。彼我を参酌し考査し、故国の其れに考及して産業政策 、
社 会政 策を 見 る時 は、 趣 味津 々と して 尽 きず 。且 つ や最 近此 の問 題 は世 界各 国 の問 題と し
て 為政 者 、立 法家 、 実業 家の 苦む 処 、其 を白 面 の一 書生 の臆 面 なく 論じ 、 親愛 なる 諸氏 の
前 に 曝す 。其 の 大胆 と稚 気と を 賞せ られ よ 。
此処 に産 業 政策 と社 界政 策 とは 、厳 正 に区 別す れば 其 の間 区画 ある べ き。 其影 の 形に 伴
ふ如 き もの 故、 此処 に 合一 して 論ぜ ん とす 。
乍併 英 米論 を試 み んと すれ ば、 来 るべ き独 逸 の保 護政 策と 重 農主 義、 英 国の 自由 貿易 主
義 と否 重農 主 義は 、論 者の 根 本の 要素 と なる べき もの な るが 、這 を 論せ ば容 易に 本 文に 書
き 切れ ず 。亦 、世 幾多 の 言論 あれ ば 、此 処に は只 簡 単に 英米 仏 独と の比 較と 独 逸の 長所 を
述 べ んと す。
前
( 述の 産 業 社界 両 主 義 は、 事 実 上必 ず 合 一し 居 る には あ ら ず 。多 く の場 合相 衝突 し 居
るも 、国 家 の健 全な る 発達 上よ り見 れ ば、 是非 共 適合 せさ る可 か らざ るも の 。即 ち小 生の
述べ た るは 原則 と して 適合 規一 す べき もの な りと て、 其原 則 を云 ひた る もの なれ ば、 此 の
辺 誤解 なき 様 願上 候 。
)
概言すれば米国は 、産業政策 米国々家の主義にあらず 、民間実業家の自己の主義也 は
(
)、
社 界政 策 並に 国家 の 主義 と相 衝突 を 来し 、
今 日其 の 圧迫 の余 波 は社 界の 組織 に 変更 を与 へ 、
結 果 は国 家に 迄 危機 を蒙 らし む 。即 ち米 国 より の通 信、 ハ リマ ンと ル ーズ ヴェ ルト と の衝
突や 即最 も 顕著 の引 証に し て、 米国 の 滾々 とし て尽 き ざる 富は 、 貧富 両者 をし て 声な から
しめ た るも 、ル 大統 領 とハ リマ ン 氏と の衝 突は 、 正し く産 業 政策 と社 界政 策 との 衝突 の 反
映 なり 米
( 国 通 信参 照 。
)
英 国に 至り て や、 国に 永 き秩 序あ る十 九 世紀 の初 期 以来 、蒸 気働 力 の実 用を 率 先し て文
明 機械 を 独専 的に 利 用し 来り たる と 、有 名な る 自由 主義 は極 端 の商 工業 偏 重主 義に 傾き た
る 結 果、 国民 の 本位 たる 中等 国 民の 階級 を 失し 即
( 前 世 紀以 前に 米 国の 今日 の如 き 程
( 度は
低し と雖 産
) 業社 界政 策 の失 態を 来 せし なら ん。 乍 併衝 突の 轟は 低 かり き 、
) 極 端 の商 工偏
重主 義は 勢 ひ否 重農 主 義と なり 、健 実 なる 国民 を 失ひ たる 也。
斯く 云 へば 、大 英 国民 の特 長た る 剛健 不撓 の 精神 は、 何処 よ り生 じ来 り 、且 今日 卓絶 せ
る やと 云ふ に 、其 所が 英国 の 大英 国た る 処に して 、国 民 人種 に先 天 的な ると 歴史 習 慣を 重
カ( )
ん ずる と 、常 に対 外思 潮 の昂 奮の 国 民思 想を 固め た ると 、英 国 の天 候、 其他 の 事情 は大 英
国 民 をし て常 に穏 健 剛棱 の気 を 養は しめ 、他 の 滔々 浮薄 の 時潮 に際 して 、 尚よ く巍 然 とし
て超 然卓 越す る 処也 。
其既 に数 十 年前 、社 界 の根 本組 織上 、 中等 社界 を 失へ る此 の国 家 の勢 とし て 、資 本家 は
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資本 家、 労働 者 は何 代も 其 の父 祖の 業を 亜 くべ き運 命 を負 って 生れ 来 り、 五十 年 七十 年コ
職 を 甘 んじ て 遂 行せ る な り。 然 ら は其 の 結 果 や如 何 。 富者 は 益 々
ヴオケーシヨン
ツ〳〵として其の天
富 み、 労 働 者は 次 第 に 生活 難 に 苦し み 、『 貧し き 劣れ る 者 は 亡ぶ 』 の 諺に 洩 れ ず、 身体 上
の 素質 迄劣 り 、今 日既 に其 の 傾向 は益 々 甚し き也 。
然
( ら ば 何 故英 国 に はス ト ラ イキ の 少 き かと の 不 審あ る も 、元 来 実 際を 重 んじ 空想 を避
け 、 熱狂 的な らざ る と、 且立 憲国 の 本家 丈、 言 語の 自由 と自 己 の志 想の 発 表自 在な ると 、
且 資 本家 の労 働 者を 神聖 視し 、 其個 性を 尊 重す るに 依る 也 。
)
其結 果や 、 労働 者救 済問 題 、養 老金 問 題は 数十 年前 よ り政 府の 事 業と して 企て ら れた る
なり 。
其 結 果 や 、 働 か ざ る食 ふ を 得 る の 途 を 得 た る も の は 、 次 第 に悪 習 慣 に な じ み 、 今 日
アムエムプロイメント
無働遊食者問題として社界の大問題となり、此種の遊食者 、ロンドンにても実際通に満ち 、
初 めて の 渡英 者の ロ ンド ンに て、 労 働者 とも 就 かず 、乞 食と も 思は れざ る 無邪 気な る浮 浪
の 徒 の多 きに 驚 く処 たり 。
之れ 英国 の 極端 なる 自由 貿 易、 商工 偏 重主 義よ り来 れ る悪 結果 にし て 、此 の弊 の 蒙る 処
頗る 多 く、 政治 、財 政 、教 育、 軍事 陸
( 軍の 少 きと 海軍 拡張 に 下院 の反 対 多き 、是 れ に
)及
ぼし つ ゝあ るな り 。
以 上、 経過 並 に実 状を 約言 す れば 、既 往 産業 政策 は社 会 政策 を無 視 し来 り、 今日 社 界組
織 に完 を 欠き 、国 家は 社 界の 救済 と 社界 の改 造と に 苦心 しつ ゝ ある 也。
仏 国 に至 りて は新 に 研究 した る にあ らざ れど も 、元 来最 近 国の 歴史 が変 乱 に富 み、 此 所
百幾 年間 に二 度 革命 を企 て ゝ共 和政 体と し 都度 、永 か らず して 君主 政 体と 化し 、 三度 の今
日亦 共和 政 体を 採り 居 るも 、人 民中 又 々昔 の君 主 政体 を夢 みる 者 多き が如 く 、国 民は 只頭
のみ 熱 し、 常識 に 薄く 破壊 的の 国 民な り。
最 近家 産分 配 習慣 の悪 しき よ り人 口年 々 減少 し、 人民 一 般に 貯蓄 心多 き 故、 国民 個 人の
ソーシヤリズム
ア ン ナ ー キ ズ ム
ニ ヒ リ ス ツ
富 とし て は増 し、 一般 個 人的 に愉 快の 生 活を 遂ぐ べ き筈 なる に、 国 家の 根本 確 立せ さる と
(カ
)
人 民の 理 性に 乏し く 空想 にの み耽 る 結果 は、 物 新し き社 会主 義 、無 政府 主 義、 虚無 主義
の 横 行甚 しく 、 スト ライ キは 会 社工 場の み にあ らず して 、 最も 神聖 な るべ き通 信機 関 に迄
及ぼ し、 一 週間 の郵 便不 通 、十 日間 都 市の 暗黒 等は 数 年来 度々 見 る処 なり 。
即ち 仏 国は 、国 家社 界 政策 の不 確 立と 労働 者の 暴 横の 行為 と は産 業を 脅迫 し 、其 の極 国
家 の存 立を 危ふ す るに 至る 。 同じ く産 業政 策 と社 会政 策 との 衝突 なる も 、米 国と は 全然 其
人民 君子 に あら さる 以上 、 理想 国家 に 対す る能 はざ る や必 せり 。 乍併 国家 の理
趣 を異 にせ り 。
独逸
想 と する 社会 制 度と 産業 政策 を 相適 合し て 、比 較的 完全 の 域に 達せ るを 独 逸な りと す 。
即ち 立国 の 本義 が農 本主 義 にし て、 由来 社 会の 組織 が 完全 に、 其国 民 分子 は比 較 的素 朴
健実 の精 神 に富 み、 十 世紀 来の 封建 的 の政 治と 自 由都 市 誤
( 解 なき 様願 上 候 の
) 発 達は 、自
治体 の 実と 産業 保 護政 策行 はれ て 、産 業随 所 に勃 興し 、殊 に 一八 七九 年 以来 の保 護貿 易 主
義 は、 産業 上 に多 大の 保護 の 実を 挙げ 現
( 時の 日本 の 如く 、
) 且つ 自 由都 市以 来の カ ルテ ル
は 米国 の トラ スト に似 た るも 、暴 横 の行 為な く共 同 生産 、経 営 、販 売等 、其 の 調節 を採 る
所 、 我か 紡績 聯合 会 に似 たり 。 内は 固く して 外 に当 りた る 結果 と、 最近 化 学工 業品 の 発達
と相 俟っ て非 常 に商 業の 発 達を 来し 、勢 労 働者 も利 潤 多き と階 級制 度 の昔 より 厳 粛な ると
服従 心強 く 、且 つ学 者 は皆 穏健 に社 界 学の 研究 を なし て、 其研 究 はよ く政 府 為政 者並 に資
- 18 -
本家 に咀 嚼適 用 せら れ、 且 つ米 国の 如く 資 労両 者の 間 開放 的な らず 、 多少 高圧 的 威赫 の手
段を 適切 に 応用 せる 事 と バ
(レエルン聯邦の一州の如き 、若し一工場にストライキ起れば 、
全 工場 主 は 直に 工 場 を 休み 労 働 者を 威 赫 す 、
) 並 に 比 較 的工 場 組 織は 少 に して 資 本 家は 個
人 多く 、使 用 人の 愛撫 他よ り 多き 事等 に して 、全 く社 界 政策 上の 理 想と する 処と 国 家の 産
業 政策 と 相適 応調 節し て 、近 き将 来 に両 者の 衝突 見 出し 難き なり 。 要す るに 独 逸は 、青 年
団 と して 上り 坂の 最 中な り。
此 の 時代 は統 べ ての もの を善 化 する 時な る を以 て欠 点は 見 出し 難き も 、此 の調 整は 何 日
迄も 続く べ きや 否や は、 蓋 し大 に注 目 を要 すべ き問 題 なり 。
談 余 岐 に 入 るも 、 近 来 世 界 的 の 趨 向 を 以 て 進 み つ ゝ 日一 日 其 勢 増 す は 、 空 中 飛 行 熱 と
ソーシヤリズム
社 会主 義と の二 と す。
前 者は 已に 日 本に も十 二 分の 紹介 あり 、 篤と 諸氏 之 知悉 せら るゝ 如 く、 最早 事 実問 題に
て 、仮 す 時間 の問 題 のみ 完
( 全 の 域に 達す る 。
)
第 二 社会 主義 問 題は 、米 国の 天 恵多 き金 の 轡に 束縛 され た る人 間に 不 服の 声な るも 、 前
大統 ル氏 並 にタ フト 氏の 移 民防 止策 は 、此 の黄 金国 を 永く 封印 して 伝 へた き望 に 外な らず
して 、 僅か に社 界主 義 者声 なき のみ 。 仏国 の同 主 義の 毒す る、 既 に前 述の 通 り。 物圧 すれ
ば反 撥 あり とか や 。
英 国の 公開 主 義、 更に 物を 圧 せさ る為 か 、将 た社 界の 輿 論の 向ふ 所 、直 に政 治上 に 表は
リ ベ ラ ル
る ゝ為 か 、従 来 数
、自 由
( 十 年来 極
) 端に 物 の衝 突な かり し も、 最近 に 於け る対 独軍 備 問題
マ(マ )
乎 保 護 乎 の 大 主 義 の論 戦 漸 く盛 に な り て、 其 の 影に 附 き 纏ひ て 絶 へず 為 政 者 を 脳 す は、
社会 問題 也。
即ち 有名 な る本 年の 出 納尚 書ロ イド ジ ョー ジ氏 の 富豪 対抗 予想 、 自由 党内 閣 アス クイ ス
氏の 苦 戦、 上院 の 大困 戦の 揚句 停 会、 来年 一 月八 日の 解散 確
(定 、
) 十 五 日の 総選 挙の 如 き
は 、実 に一 に 起因 する 処、 社 界問 題に 外 なら さる 也。 最 も穏 健に して 社 会主 義比 較 的伝 播
せ ざる と 思ひ し英 国、 亦 爾り 。何 国も 同 じ社 界主 義 病に 感染 し居 り 。只 大少 厚 薄の 差異 あ
る のみ 。 独逸 亦然 り 。
最 近 下 院 に於 け る 社会 党 は 、有 名 な るベ ー マ ン 才
( 気汪 溢 、 始終 前 名 相 ビュ ロ ー 侯の 政
敵た り し 人 の 下に あ り て漸 時 勢 力を 増 し 、 前宰 相 の 一般 の 輿 望あ り し に不 拘 、 議会 を 解
)
散せ ず して 膏血 を絞 り し予 算を 半 葉放 棄し て 、
椅子 を ベー トマ ンホ ラ ベッ ク氏 に 譲り しは 、
蓋 し一 朝解 散を 行 はん か、 過 半数 はソ ーシ ャ リス トの 手 によ りて 得ら る ゝを 憂へ た る也 。
乍 併日 本に 於 ける ソー シ ャリ スト なる 者 は、 只熱 狂 無謀 半ば 狂的 の 人物 にし て 、又 其主
義 は半 ば ニヒ リス ト 虚
( 無 主義 に
) 近 き行 為を 演 出し 、国 体国 家 の何 たる を 知ら さる もの な
る が 、英 独に 於 ける 同主 義は 一 部半 狂的 の 人物 も混 入し た るも 、真 面目 に 社界 の進 歩 発達
マ
( マ
)
と共 に 極
( 生
) じ 来る 自然 の 法則 とし て、 実 に社 界組 織 の研 究実 行者 に して 、政 事 家の みな
らず 教育 、 宗教 家は 勿 論、 商工 業家 の 真面 目に 研 究し 居る もの な り。
此か 此 所に 日本 と の相 違あ る所 を 明に し、 日 本の 恐怖 し居 る 如き もの に あら ざる を注 意
致 置候
談 例に よ り多 岐多 様に 分 れし も、 要 する に独 逸の 発 達の 既往 に は如 斯原 因、 如 斯も の相
関 聯 せる 也
乍併 長所 の反 面 に潜 み居 る は、 其物 の欠 点 なり 。強 い て挙 ぐれ ば第 一 に、 余り 保 護主 義
に傾 く反 面 、物 価の 騰 貴、 工費 の上 騰 漸く 甚し く 、一 部先 進覚 知 者間 には 此 の将 来、 此の
- 19 -
マ
( マ
)
カ( )
傾向 が歩 の大 き さを 以て 増 ざる やを 憂ふ る 者あ り。 関 税収 入が 直接 中 央政 府の 収 入と して
多額のものにても歳出入の齟齬甚しき時今 、政府の収入としても手加減を寛ふすべからず 。
且つ や 老大 退嬰 せ りと 雖 、
大英 国 工業 の富 の 資本 と精 良の 機 器と 経験 と を有 する に対 し て 、
直 に主 義の 変 革は 出来 難き も 、大 独逸 の 政策 の変 革た る 、蓋 し中 央 当局 者並 に学 者 実業 家
の 百年 の 計を 今日 に定 め ざる べか ら ざる 時な らん 。
手 段 とし て保 護の 厚 き官 僚万 能の 当 国に あり て は、 時に 政府 信 頼の 観念 を 馴知 せざ るや
と の 懸念 ある も 、小 生の 見し 処 には 特に 顕 著の 弊を 見ず 。 商工 業者 の 其の 政府 を利 用 する
のみ にて 、 其の 力に 倚る 弊 なき は、 蓋 し国 民性 の然 ら しむ る処 か 。由 来政 府依 頼 心の 多き
は日 本 か。
乍 併物 の余 り秩 序 的の 結果 は 、階 級の 制余 り に高 く、 下 級の 人民 に青 雲 登竜 の念 薄 きは
マ
( マ
)
欧
( 州大 部 特
) 殊の 弊に て 、重 農主 義は 寧 ろ地 主保 護 制度 と化 し、 小 作民 の生 活 難は 往々 に
し て一 家 をあ げて 米 国に 移住 せし む る様 の傾 向 漸く 多し 。
尚 、 軍事 の発 達 は漸 く外 交、 其 他統 べの 点 に傲 慢の 態度 を 現は し、 近 時英 仏の 聯合 益 々
密に 、三 国 同盟 の伊 は欵 を 露仏 に通 じ 、露 の最 近独 逸 を敵 視す る甚 し く、 僅に 利 害を 共に
する 墺 のみ は益 交を 厚 ふし 、一 方日 米 間の 隙を 利 用し て盛 に米 国 と温 情を 厚 ふし 居る は、
吾人 常 に嫌 厭た る もの 。蓋 し英 国 の某 新聞 カ イゼ ル帝 をナ ポ レオ ンに 擬 し、 百年 前仏 国 が
全 欧を 席巻 し たる 如く 、近 時 独逸 は漸 く 欧州 全土 より 敵 視さ れつ ゝ ある 也。
古 来 語 あり 、『 戦 はず し て 勝つ は 、 善の 善 乗 なり 』 と 。 世界 の 偉 傑カ イゼ ル三 世及 其国
民 、 此間 に処 して 果 して 如何 の 成策 やあ る。
東洋 の一 書生 、 否、 全世 界 の人 士具 瞻張 目 、大 に其 の 手腕 を見 んと す 。
・・ ・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・
つ い〳 〵筆 に 委し て長 く相 成 候。 一国 を 評す るは 数千 の 紙数 猶足 り不 申 候も 、書 く 人も
読 む人 も 罹り 易き 神経 衰 弱に 襲は れ可 申 、此 辺に て 擱筆 仕候 。
多 少筆 鋒 政事 方面 に 走り 余
( 程 謹 みた れど 、
) 吾 人の 研究 の範 囲 を脱 し、 諸 君の 中に は御
忠 義 振苦 々敷 と 思さ れや も難 斗 候も 、広 く 深く 出
(来 る 丈 見
) て 、最 後 の判 読を 下す が 物の
ファーストインプレツシヨン
最 良 と 存 し 候 。 尤 も 独 逸 の 観 察は 最 初 の 観 察と 最 後 の 研究 も 余 りの 変 り 無之 候 も 、 吾
人実 業 家を 以て 任と す るも の、 既 往を 知り て将 来 を量 るは 君 子の 遺訓 にも 叶 ひ、 最近 発 達
の 独逸 を知 り、 其 の因 りて 来 る基 を探 り精 神 を汲 めば 、 必ず 読む 諸君 の 中に も多 少 は肯 綮
に 当る 処あ ら ん。
正 月前 忙 しき 時間 を 割愛 して 夜半 一 顧の 栄を 賜 らば 、小 生の 満 足、 之れ に 過ぎ ず。
事 実 上独 逸を 話 さん とす れば 、 是非 対英 談 を試 みざ るべ か らず 。老 大退 嬰 せり と雖 、 尚
矍鑠 たる も の。 蓋し 面白 き 対照 なる も、 之 れ少 くも 書 くに 数日 を要 す るも の、 機 を見 て初
めて 筆を 染 めん 。
尚、 此 の視 察に よ りて 吾人 は、 独 逸を 見て 何 を得 たる か、 項 を更 めて 初 めん 。
時 に序 し了 り て見 遣る 彼方 、 寒鳥 鳴い て 過ぐ る処 ロン ド ンの 空、 亦 終始 天日 を見 ず 。寒
威 漸く 逞 ふし て、 四囲 亦 寒く 、三 階 の客 舎に 凍冷 と 戦っ て禿 筆 を振 ふ。
認む
小 生 は生 来ス トー ブ は嫌 也
十二 月五 日
- 20 -
● 当主 の 御近 状
「
( 本 部旬 報 」三 一号 、 七月 一〇 日
最近 の ハガ キ通 信 を抜 粋せ んに 、
)
「 時は 真に 英 国シ ーゾ ンに な った 。月 の 十五 日は 村君 、 西村 君と 打 連れ て此 処剣 橋 大学
を 見物 に 来り 申候 。当 地 は牛 津と 並 びて 世界 最古 の 大学 にて 、英 国 の碩 儒、 大 政治 家、 総
て は 此二 校よ り輩 出 した りと の事 に 候。 剣橋 大 学は 各分 校に て 組織 せら れ 居り 申候 。其 内
の キ ング スカ レ ーヂ は建 築最 美 にて 、又 程 度高 き様 子に 候 。流 石は 古 い事 ずき な此 国 故、
新ら しき 事 を教 ふる 大学 も 建築 、其 他 古く 見る から 歴 史に 富ん だ 処と 見受 られ 候 。校 庭広
く、 幽 邃な 河辺 、実 に 心地 よく 、 ここ で三 、五 年 位勉 強し た き思 致し 候。 云 々… …」
● 当 主 の御 近状
「
( 本部 旬 報」 三二 号 、七 月二 〇日 )
前 報 后御 通信 に 接せ ざる も、 益 々御 健勝 に て英 京に 御滞 在 中の 筈な り 。
本部
精
○在 英 御当 主よ りの 御 通信 に接 し候 間 、謄 写に 附 し御 廻送 申上 候 。
八月 九 日
ロ ン ドン
・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・
七 月十 八 日
本部 御中
各店 御中
日英 独 通信 に関 し て各 方面 より 大 に御 耳動 さ れ申 候も 、元 来 が日 本で 予 想さ るゝ 程の 大 規
模 のも ので 無 之、 価値 ある 真 面目 なる 批 評を 下せ ば、 観 察筆 調必 ず其 の 総べ てを 毒 する や
も 難斗 、 此の 裏面 の報 通 は筆 進ま ず。
既 に多 少 は故 国に も 洩れ 聞れ たる 事 も有 之可 申 、且 つ一 般の 事 に関 して は 各内 外の 通信
に て 椽大 は筆 を 揮っ て通 信有 之 様な 。中 に は多 少材 料も 小 生等 より 貸 した る事 も有 之 候位
にて 、別 段 事新 しく 述る の 要無 之か と 奉存 候
市な る 博覧 会場 を 作り 、先 年
ホワイトシチー
只、 此 所に 一言 致度 の は、 名は 日 英博 なる も英 政 府は 別段 深 く携 り不 居ロ ン ドン 西南 部
エステートインプルーイング
の シ ェハ ー ド ・ ブ ッシ ュ 土 地 興 隆 会 社 な る一 会社 が、 白
の 英仏 博の 跡 を其 の時 の 日本 大使 小村 伯 に持 掛け 、 日本 政府 を甘 く も引 張り 込 み、 名を 日
英 同盟 に 仮り て日 英 博と せし が、 日 本政 府も 外 交上 の色 気に て 次第 〳〵 に 深み へ這 入り し
こ そ おぞ まし き 限り に候 。
さて も此 の 博覧 会会 社の 社 長 即
( ち 英国 側の 委員 長 と称 す こ
) そ は、 キ ラル フィ ー とて 猶
太人 中の 最 切れ もの 、 商売 にか けて は 何の 経験 も なく 、又 外国 人 に対 して は 腹の 底少 々オ
ヂケ の ある 日本 役 人様 、如 何に 此 のキ ラル フ ィー の手 玉に あ げら れず し て何 とせ るぞ 。
(マ マ
)
歩 は一 歩一 歩 深み へ墜 り、 引 きぬ く事 も 何も 出来 ず、 当 方の 提出 は 何も 通ら ず、 先 方は
思 がま ゝ のし たい 仕法 題 。日 本の 名 誉も 日本 の威 厳 も利 益も 何 にも あら ばこ そ 、自 己の 利
益 の 前 には 殆 ん ど大 日 本 帝 国も 何 も なく 、 英 国の 出 品 とし て は 真 に寥 々 ブ
( ラ ッセ ル 市ニ
比し て英 本国 の 出品 、反 っ て半 分も なし 。
) 真の 日 本博 覧会 にて 、 而も 広告 の 口上 に、
の 名 なし )
Under the special auspicious of the Imperial Japanese Goverment (British
- 21 -
「大 日本 帝国 特 別の 支補 の 下に 」な んて 有 之る 文句 は 、日 本政 府、 否 、大 日本 帝 国こ そ
イヽ 面の 皮 に有 之候 。
元来 日 本に ては 博 覧会 は、 勧業 の 意味 に開 か れ、 又比 較的 に 神聖 視し て 、其 の意 味に も
添 ひ申 候が 、 欧米 等の 開化 せ る ?
( 土
) 地 にて は、 或る 一 種の 興行 物 にて 、市 民が 遊 楽の 場
所 とし て 不知 不識 の中 に 常識 を与 へ 、一 面品 物の 広 告を なす 様考 へ 居り 申候 。
き 、如 何に し て成 功
アツトラクト
此 の 意味 より して 、 此の 博覧 会を 経 営す る上 に 如何 にし て客 を 引
マ
( マ
)
金
( 銭 上の す
) る かを 百も 承知 の キラ ルフ ィ ーが 、日 本政 府 に提 出し 強 制し たる は、 張 りボ
テ式 の赤 錫 の鳥 居・ 山門 、 やれ 提灯 、 チョ ンマ ゲ式 に て、 偉大 な る文 明を 吸集 し たる 最新
の利 器 を応 用す る大 日 本、 先天 的 に高 雅瀟 洒を 愛 する 山和 民 族の 特長 は、 何 処に か現 れ た
る ?。 其の 現れ た るは 俗想 極 まる 支那 とも 南 洋と も附 か ぬ現 代の 日本 に 見ら れぬ も の。
ソリツド
物 は目 明き 十 人、 盲目 千 人、 特に 前述 す る興 行物 と して 其の 場当 り の見 地よ り すれ ば、
俗 なも の 程場 当り の 善き は当 然、 宜 より 高雅 を 愛し 、真 性物 を 愛す る英 国 人 中
上の )
( 流以
インスパクト
は 、此の博覧会を見ていたく失望し、中には日本の其の真価までも彼等の懐き居る敬 虔、
マ
( マ
)
より 薄く せ んと する 次第 。 小生 等も 英 国知 人の 御供 に て数 度案 内説 明 せし が、 其 の都 度痛
烈な る 質問 に対 し背 に 汗を 覚へ し事 尠 から さる 程 有之 候。
要す る に入 場者 は 、英 仏当 時よ り 非常 に多 し とし 、当 局者 よ り切 りに 成 功と の数 字を 示
さ れつ ゝあ り 。即 ち博 覧会 な るも のが イ ンタ ーテ ーメ ン ト 興
(行物 と
) し ての もの な れば 、
成 功、 成 功、 大成 功な る が、 日本 臣 民が 考へ 居る 、 其の 臣民 が 汗血 より 補助 し たる 百五 十
万 円 、其 他公 私の 損 失を 打算 し て、 夫れ より 得 べく 期待 す る産 業の 発展 、 貿易 の増 進 、国
威の 宣揚 、両 国 外交 国交 の 漸重 等、 厳粛 な る意 味よ り 見て 、果 して 此 の博 覧会 が 成功 なる
や否 や。 大 日本 政府 当 局者 、果 して 何 の感 かあ る …… …。
エラ イ 又、 議論 め き ツ
( ヽな が く相 成、 申 訳無 之候 。
)
却 説、 本京 店 は出 品■ ■、 さ ては 平尾 氏 の尽 力、 小生 も 多少 知人 有之 候 故、 出品 の 場所
丈 けは 多 少適 当の 処を 得 にも 写
( 真を 取り 度も 手 続き が面 倒故 、 差し 控へ 候 、
) 元来 が品 数
も 少々 、 品物 が品 物 故、 引き 立つ と は行 き不 申 候。
カ( )
本 店 のお 染、 吉 野入 うづ ら瓦 斯 縮、 匹田 麻 の葉 雨入 り模 様 、な んて エ ライ 、イ ナセ な 孝
三氏 の御 骨 折も 、元 来が 毛 唐に は一 観 の価 値も なく 、 八〇 の岡 中 と何 の撰 む処 も なく 、殊
に如何に物価の高い英国にても 、一反拾五円の中形は先づ常識にて判断出来可申と奉存候 。
今 更な がら 小生 が 申上 げし 縮 、寧 波布 、輸 出 タヲ ル等 を 輸出 店の 名に て 出品 相成 れ ば、
其 効果 と多 少 でも 売れ た もの と奉 存候 。
京店の友仙 、京店は固有の美術品との御自惚の由なるが 、頓と其の割に感服致し居らず 。
友 仙 類は 尺巾 が 悪く 、一 点も 契 約無 之候 。 要す るに 京店 は 、あ れ以 上の 努 力の 致し 様 も無
之、 当地 に て何 んと か処 分 可致 考へ 致居 候 。
日英 博に 関 して 此所 に 感ず べき は、 ロ ンド ンの 植 民商 人間 に日 本 商品 を新 し く取 扱は ん
とす る 向有 之ら し く、 其出 品人 を 取調 べ、 直 接出 状せ し処 も 有之 候由 に 候が 、此 の内 一 つ
猶 太人 にて 、 ライ セン ハイ ム なる 人は 生 の在 英を 知り 、 取引 した く 申込 候間 、出 掛 けて 折
衝 致し 候 。
商 売 は広 く、 又確 実 なる 商人 に 候が 只真 のコ ン ミッ ショ ン ・マ ーチ ャン ト にて 、植 民 地
の取引先と大阪と直接取引をなし 、口銭を呉れとの事にて 、殊にL/Cを発行不致候事故 、
小生 は絶 対 にL /C を 要求 致せ し故 、 談不 調に 終 り候 が、 中々 信 用有 之、 南 洋・ 印度 は元
- 22 -
より 、南 阿・ 南 米・ 中米 に 取引 致し 居る 商 人に 有之 候 。
例の 匹田 麻 の葉 模様 の 様な 純日 本向 の 商品 を見 て のみ 取引 を望 む べく 申込 み たる 事故 、
若し 輸 出品 を出 品 すれ ば取 引申 込 む先 多く 、 大に 研究 の価 に なり しも の をと 、今 更な か ら
物 惜し く、 愚 にも 附か ぬ中 形 がう らめ し き思 致し 候。
尚 、ラ イ セン ハイ ム商 店 は大 阪メ リ ヤス 商石 井某 の エゼ ント に有 之 候。 如何 様 の振 合に
て 商 売致 し居 るや 御 取調 べ被 下度 返 事願 度候 輸
( 出店 へ 。
)
二伸
先般 願ひ 候 小生 の帰 朝に 対 する 希望 、 正に 拝受 仕候 。 謹ん で拝 読 仕候 。各 員意 見 のあ る
所、 赤 心披 瀝被 下、 小 生の 蒙を 啓 き被 下、 其全 部 ヒシ 〳〵 小 生の 真随 に透 徹 仕候 。諸 氏
の 意見 とせ らる ゝ 所、 小生 の 一年 間半 にて 得 し所 と大 し た相 違無 之候 。 帰朝 後諸 氏 に諮
り 実行 し、 以 て諸 氏の 希 望に 添ひ 可申 相 期し 申候 。 尚、 誓っ て秘 密 は厳 守可 仕 、不 取敢
一 同へ 返 事ま で如 此 に候 。
尚 、 洩れ た二 、 三の 諸氏 二
( 、三 支配 人 、其 他 必
) ず 相聴 し 得ら るゝ 事 と存 じ候 。
ロ ンド ン
精
・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・
七月 二 十日
本 部御 中
各 店 御中
昨年 の七 月 廿日 は、 五 日間 の大 西洋 の 航海 から 始 めて 大英 国の 地 に足 を印 し た日 で、 今日
が早 や 其の 一日 で ある 。誠 に時 日 の過 るの は 早い もの だ、 速 かな もの だ 。
満 一ケ 年何 を した か。 多少 旅 行し たと 、 本や 雑誌 か半 囓 りし 得る の■ と 、西 洋人 の 前へ
出 る押 し が出 来た 位と 、 此の 冬に 一度 生 死の 域に 達 した 以外 に、 何 をな し得 た 事な く、 予
期 の大 半 にも 腕を 達 する 事の 出来 得 なか った 事 を思 へば 、
真 に忸 怩 たる を得 ぬ 次第 であ る 。
サブスタンシヤル
エツセンシヤル
併 し 其の 予期 な るも のは 実に 大 様な もの で 、今 より 考ふ れ ば多 少夢 想 的な …… 何ん で も
洋 行 の 前 に 懐 い て 居 る … … … も のも あ っ たが 、 其 実 際 的 な本 質 的 な 事 に は多 少 、 否 、
深く 判 断の 出来 た事 も ある 。
日 本に 居て は解 決 の出 来ぬ 様 な事 か悉 く判 断 し得 られ た 事も ある 。万 事 何処 へ行 っ ても
形 式こ そ相 違 する が、 帰 着す る事 実問 題 に逢 着し 解 決す る場 合に は 、洋 の東 西 がな い。 現
に 先般 願 った 諸氏 の 希望 内容 を分 解 すれ ば、 皆 今私 が考 へて 居 る事 と相 違 なく 、其 諸氏 の
志 想 の進 歩し た 計画 が真 面目 で 遠大 なる に は敬 服で 、真 に 店員 諸君 皆々 知 己を 得た 様 な感
じが した 。
只、 其の 問 題… …其 の 懸案 を解 決す る のは 何で も 私の 責任 、私 か 全智 全能 の 様な 事を 嘱
して あ った 。又 、 私は 出発 前は 其 の解 決者 の 様な 気が した が 、其 の解 決 は何 んで もな い 。
何 でも 支那 の 聖人 が適 才遠 き に求 めず 近 きに あり 、と か 申さ れた ら しい が、 真に 然 りで 、
此 の進 歩 、変 の世 に処 し て御 同様 、 我一 家各 店の 処 する の最 後 の精 神は 、足 下 に求 めら れ
る の だ。
抑も 形式 上の 事 は、 末の 末 だ。 特に 我一 家 各店 の形 式 上の 事は 、日 本 より 見て も 、亦 外
国と 対照 し て見 ても 、 完全 に近 いも の と自 信を し て居 る。 何処 迄 も運 用は 人 、又 其の 人の
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最後 は精 神で あ る。
重ね て申 す が、 諸氏 の 希望 せら れた 私
(に 事
) は 、 又私 も希 望し 実 行せ んと す る所 であ っ
たの で 、知 己の 感 とは 真に この 謂 ひで ある が 、仮 する に時 と 方法 とを 要 する 。御 同様 な
ジヨンブル
る 一大 帝国 を 現出 する のは 口 にこ そ易 い が、 実に 実に 大 なる 努力 だ 。御 同様 終生 の 大事 業
だ 。知 己 は若 いし 考へ は 同じ だ。 そ れで 出来 上ら ず して 何ん と致 さ う。 なん て 英国 式の 悠
長 に かぶ れた 訳で な いが 、吾 輩の 一 ケ年 の英 国 観、 何に か書 か ずば なる ま い。
前 提 が例 によ り 方面 違ひ に走 っ た。
何ん て も 仏蘭 西 の 或 る詩 人 が 大倫 敦 記 を書 か ん と企 て 一
( 寸 断 って 置 く が、 倫 敦 市は 即
ち 或意 味 の 大英 国 の 総て を 代 表 し、 或 る 意味 の 世 界の 象 現 であ る 、
) や を ら英 仏 海 峡を 渉
っ て滞 在三 日に し て帰 仏、 筆 を按 じた が、 何 の深 い印 象 もな い。 再び 訪 英し て滞 在 三日 目
に 材料 を蒐 め て帰 仏し 筆 を執 った が、 印 象を 纏め て 志想 を統 一す る 事が 出来 ぬ 。更 に奮 発
し て渡 英 三ケ 年に 亘 り、 博く 漁り 深 く研 究し て 帰っ て卓 に対 し た時 、志 想 益々 乱れ 混沌 た
る 英 国観 を条 理 正し く列 ぬる 事 が如 何に し ても 出来 ず。 終 に〳 〵筆 を 投じ た、 と或 る 倫敦
案内 記に あ る。
此の 案 内記 は、 序文 は 記者 が観 察の 截 利な らざ る を弁 解し た訳 で もな く、 又 僕が 不勉 強
メトロポース
を此 の 一記 者の 弁 の下 に隠 れ様 な んて 卑屈 な 考も ない 。実 際 、人 口七 百 万史 を按 ずる に 、
モンスター
紀 元前 何百 年 かの ロー マ侵 入 以来 の世 界 の大 都市 習慣 、 歴史 の上 に 立っ て最 近の 文 明の 中
心たる大魔 物、実際総てが統一ある如くして雑然たり 。条理立ちし如くにして矛盾せる、
本 人 自身 が大 の矛 盾 屋な る僕 す らも 、此 の矛 盾 には 当て ら れホ ト〳 〵此 の 千万 不可 思 義に
は閉 口し た。
実際 国民 情 より 分解 す れば 、一 番古 い 事ず き。 歴 史を 重ん ずる 反 対に 一番 新 しき 事を 摂
取し て 、今 尚厳 と して 最文 明国 を 以て 自任 し 、人 も亦 許す の であ る。 一 番は 個人 主義 で 、
公 徳 が発 達 し 、国 家 を 愛す る 観 念は 形 式 こ そ相 違 す るが 一
( 朝 有 事 の時 で な く総 べ てに 現
は れ たる 日
) 本 よ り 以上 で あ るの が 其 の 二。 第 三 には 、 貴 族を 以 て 社界 組 織 の要 部 と し、
一 番貴 族 を尊 敬す る 国で 、事 実上 社 会主 義的 の 設備 と理 想が 現 実さ れ居 る 事。 総て に冷 静
な 六 ケ敷 国民 で あり なか ら、 割 合に 温い 事 は其 の四 。其 五 に、 自由 の 真意 より 打算 せ ば、
恐く 米国 以 上に 強い 念慮 を 有す る 個
( 人 主義 より 出 た 国
) 民 が一 番 従順 に服 従し 、 大組 織の
統一 に 適す る事 。
.と義
.務
.とが表れて、国家を愛し、家
マ ー書 けば 限り は ない が、 要 する に各 自の 有 する 愛
を 愛し 、社 会 人類 を愛 し 、各 自の 職務 の 前に は実 に 神聖 なる 愛を 以 て義 務を 遂 行す る。 如
此 大英 国 を作 り、 尚 世の 中に 雄飛 す る次 第で あ る。
.大
.の
.自
.由
.
尚 一 つ、 此の 国 民が 歴史 によ り て養 ひ、 且 つ先 天的 に味 ふ て得 る大 教訓 は 、最
.最
.大
.の
.服
.従
.に
.あ
.り
.、だ。之れこそ大きな団りの大英国並に植民地を今日の面倒な世界の
は
中で 勝手 に 引づ り廻 す 事の 出来 るの は 、要 する に 権利 とか 義務 と かを 云ひ 廻 し、 相対 抗し
て得 た 貴き 教訓 で ある 。公 徳な ど ゝ申 すは 、 此の 教訓 の末 の み。
顧 みて 我日 本 を見 るに 、最 も 英国 に似 て 最も 非て 、其 の 非ら ずし て 真に 近き 点も あ る。
即 ち期 せ ずし て似 、期 せ ずし て似 せ る点 かあ るの を 諸君 も発 見 され たる なら ん 。
ツ マ リ形 式の 文明 を 摂取 した 我 国民 、近 い処 の 御先 進国 と 世人 の申 す国 よ り善 き処 を 摂
取し 実行 して 見 たい もの で はな いか 。我 伊 藤家 には 殊 に適 切に 摂取 し たい 処も あ る。
僕一 年間 の 英国 の視 察 解決 した 処も 、 其の 然ら さ るも ある 。一 番 目的 にし た 国故 、帰 っ
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た上 はボ ツ〳 〵 見た 処を 御 相談 して 見た い 。普 通の 英 国並 に欧 州観 光 談を 僕に 望 む人 が沢
山あ った が 、昨 今此 の 程の 出版 物は 汗 牛充 棟と か 申す 様な 形式 詞 を使 ひ度 い 位、 かな り地
位の 高 い人 から 「 欧米 発達 の沿 革 を承 り度 い 」な んて な事 を 望ま れた が 、こ んな 事は 日 本
で 充分 知り 得 る処 なの で、 僕 が例 の悪 筆 で諸 君を 煩す 迄 の事 では な い。
実 は英 国 視察 記を 書く 筈 なの が、 追 々沢 山の 借に な って 、書 けば 例 の冗 長で 記 かな い、
其 勇 気が なく 、此 処 に一 寸機 に触 れ て借 金の 申 訳を した 迄で 、 帰っ た上 で 御望 みと あら ば
ジヤパンナンバー
膝 つ き合 して な りと 、又 はコ ッ プの 前で 斜 に構 へて 「エ ー 諸君 」な ん て口 調で 大い に 脂下
って もよ い 。筆 では 御免 被 る。
プログラム
今朝 か らタ イム スを 読 んで 昨日 の タイ ムス の日 本 号 の読 み 残り を謁 し 、平 尾君 の伊 太
利旅行の注意と旅 程を相談して 、電話を二つと手紙三本と例の希望書を十六本精談して 、
此 の書 面を 書 けば 、午 後 二時 半。 之れ か ら昼 食し て タイ ムス ブッ ク クラ ブへ 出 掛け よう 。
と 筆の 最 後迄 利用 致 候。
以上
● 当 主の 御近 状
「
( 本 部 旬報 」三 三 号、 七月 三一 日 )
当 主に は七 月 七日 、独 乙よ り 来訪 の西 彦 太郎 氏と 共に 英 国海 水浴 場 の先 駆地 たる ブ ライ
ト ンへ 赴 かれ ロ
( ン ド ンの ヴィ ク トリ ア駅 より 約 六十 哩 た
) る が 、翌 日は 西君 を 見送 り旁 オ
ス テ ンド に上 陸、 ブ ラッ セル に 世界 博覧 会を 観 覧せ られ 、 独逸 ケル ンに 入 り、 総て 独 乙式
にて 固め られ 、 いづ こに も 努力 の跡 奮闘 の 力見 え真 に 新興 の気 溢れ た る、 ここ 独 国の 敬す
べく 恐る べ きあ るも の ある に感 動せ ら れ、 翌十 日 には 此独 逸ロ イ ド急 行と て ブレ メン より
伊太 利 ゼノ ア港 行 の大 急行 に搭 じ 、ラ イン 河 畔を 縫ふ て夕 刻 ウイ ルス バ ーデ ンに 到着 、 ナ
ッ サホ テル に 投宿 せら れた り 。因 にこ の 地は カル ヽス バ ット 、バ ーデ ン バー デン 等 と共 に
欧 大陸 の 三大 温泉 地の 一 にし て、 四方 山 を以 て繞 ら し、 誠に 幽邃 の 趣あ りて 冬 夏共 に好 適
の 地な り とい ふ。
而 し て当 主に は 、そ れよ り数 日 を出 でず し て帰 英の 途に 就 かる べき 旨 御通 報あ りた り 。
猶、 去ル 廿 四日 着信 、御 当 主の 転居 の 報を 得た り。 即 ち、
4. lloyds Ave. London E.C.
10 Queensborough Terrace Hyde Park W. London
但 し、 郵便 宛先 ハ 、
Chubei Itoh Esq
c/o Kondo Esq N.Y.K
● 当主 の 御近 状
「
( 本 部旬 報 」三 四号 、 七月 三一 日 )
当主 に は去 月上 旬 より 中旬 にか け て白 独地 方 御旅 行中 の処 、 既に 御帰 英 相成 り、 十八 日
附 に て「 日 英 博に 対 し ての 批 評 」、 二十 日 附 にて 「 英 国観 」 の 各 一篇 到 着 した る に付 き、
日英 博受 賞
尽 く謄 写 に附 し各 店へ 送 付し たり 。 就て 熟読 せら れ たし 。
○
去月 十五 日 、日 英博 褒 賞授 与式 挙行 せ られ 、当 家 出品 に対 し金 牌 授賞 相成 り たる 旨、 大
- 25 -
阪出 品同 盟協 会 より 通知 あ りた り。
● 当 主の 御 近状
「
( 本部 旬報 」 三五 号、 八月 二 〇日 )
目 下不 相 変御 健康 勝れ 英 京に 御滞 在 中な るが 、去 月 末バ ンク ホリ デ ーと て、 英 国商 家一
般 の 休日 を利 用し て 、近 藤滋 弥氏 と ロン ドン を 距る 約百 八十 哩 の西 北バ ッ クス トン なる 地
へ 旅 行せ られ た る由 なる が、 其 御通 信の 詳 細は 次号 に掲 載 すべ し。
● 当 主の 御近 状
「
( 本部 旬報 」三 六 号、 八月 三 一日 )
前項記載の如く 、九月三日ロンドン出帆の加茂丸に搭乗 、帰朝の途に就かるゝ筈なれば 、
予 定の 如 くん ば、 秋 風清 爽の 頃、 神 戸埠 頭に 健 かな る英 姿を 迎 ふ事 とな る べし 。
前 号 記載 バッ ク スト ン御 旅行 中 の御 通信 を 抜粋 すれ ば、 左 の如 し。
バン ク ホリ デー とて 、 英国 商家 一般 の 休日 を利 用 して 近藤 君と 本 日セ ント パ ーク 駅よ り
ハ イ ドロ パシ フッ ク とい ふ
ミッ ド ラン ド線 に て約 百八 十哩 、 ロン ドン よ り西 北バ ック ス トン なる 地 に参 り候 。英 国 の
中 心に て割 合 に地 静か に水 清 く、 大に 心 に適 ひ申 候。 ホ テル
温 泉や に 投じ 候が 、滞 留 者割 合に 多 く、 夜も 燕尾 服 に衣 更し て テー ブル に附 く とい ふ始 末
クインオブピーク
に て 、吾 々も 急に ゼ ント ルマ ン 化致 し候 。在 留 一年 、漸 く こん な場 合に 物 なれ 申候 。 此地
方は 峯の 女王 と て、 北ウ エ ルス に次 ぎて 山 脈多 く、 割 合に 谷深 く、 自 然水 清く し て気 冷か
に、 両三 日 の休 暇を 過 ごす には 誠に 適 当の 処に 有 之候 。工 業と て も石 炭の 採 掘の 外殆 んど
無之 、 外客 の遊 楽 にて 生活 致居 る 丈け に、 ホ テル 、芝 居、 バ ブリ ック ハ ウス の設 備完 な れ
ど 、人 民の 真 面目 にし て物 価 の正 確な る は、 此国 人の エ ライ 処に 有之 候 。
此 地に は 案内 記に はウ オ タリ ング 水
( 多き 場所 と
) 有 之し も、 只山 間 潺々 たる 細 流の ある
のみ。河川に乏しき英国にては 、コンナ場所がウオターリングプレースとでも申すべきか 。
清 流 に糸 垂れ て 名物 のツ ラウ ト 釣り も面 白 きが 、樹 間影 暗 き所 釣る 所 は、 反て 本能 寺 にあ
る場 所多 し 。
水に 縁 ある 場所 たる 此 地に 湧き 出 づる 鉱泉 は、 多 少痩 せ薬 に やあ らん 。近 郷 の肥 えた 伯
父 さん 伯母 さん 達 が、 頻り に 傾け てお る。 何 処を 見て も 親し むべ き人 、 善さ そう な 人達 計
通達
り 。吾 々は 、 かく して 三 日間 を平 和に 暮 らし 、明 日 又煙 の中 の人 た らん とす 、 云々 、と 。
○
各店 支配 人
外一 同
在欧 当 主に は、 九 月三 日倫 敦出 帆 の加 茂丸 に 御搭 乗、 帰朝 の 途に 上ら る ゝ旨 、本 日電 報
着 致し 候に 付 てハ 、同 舩は 十 月十 三日 香 港着 、同 十九 日 神戸 入港 の 予定 に候 へど も 、或 は
本部
御 都合 に て香 港に 御上 陸 後、 マニ ラ へ向 はれ 同地 方 御視 察相 成 べく やも 計り 難 く候 。何 れ
詳 報 を得 て更 めて 御 通牒 可申 上 候也 。
八月 二十 三日
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● 当主 の 御消 息
「
( 本 部旬 報 」三 七号 、 九月 一〇 日 )
前号 所 載の 如く 、 当主 には 去る 三 日ロ ンド ン 出帆 の加 茂丸 に 御搭 乗の 筈 なり しも 、其 後
果 して 御出 発 相成 りた るや 心 許な きま ゝ 、在 ロン ドン 三 井物 産児 玉 氏へ 問合 せの 電 報を 発
し たる 処 、七 日左 の如 く 着電 。
「 十 日、 マル セー ユ で乗 る為 め立 っ た」
と。
即ち 、加 茂 丸は 九月 三日 ロ ンド ン出 帆 、十 日マ ルセ ー ユ着 、同 日 同地 出帆 、九 月 二十 九
日コ ロ ンボ 着、 十月 六 日シ ンガ ポ ーア 着、 十月 十 二日 香港 着 、十 月十 九日 神 戸入 港の 予 定
な り。 御航 海中 は 殊に 御徒 然 なる よし 。切 に 諸子 の通 信 を御 希望 なれ ば 、左 の日 取 りに よ
Chubei Itoh Esq.
Passenger by N.Y.K.
Chubei Itoh Esq.
Passenger by N.Y.K.
在英 京 平尾 氏居 所
c/o Nippon Yusen Kaisha
Hongkong
s/s "Kamo-Maru"
c/o Messro Paterson Simon & Co. Singapore
○十 月 五日 頃迄 発 送の 分は
s/s "Kamo-Maru"
り ドン 〳〵 御 通信 せら る べし 正
( 確 に 、迅 速に 。
)
○ 九月 二 十二 日頃 迄 発送 の分 は
○
平尾 氏 渡欧 以来 、 杳と して 同氏 よ りの 通信 を 得ざ るが 、此 程 当主 より の 御通 信に より 初
め て同 氏の 宿 所左 記な る事 を 知る を得 た り。
U. Hirao Esq.
c/o Mrs Thomas 35 heber Rd. Cricklewood London N.W.
● 当 主の 御近 状
「
( 本 部 旬報 」三 八号 、 九月 二〇 日 )
本 月初 めロ ンド ン 御出 発前 御 発送 の御 通信 を 左に 摘記 せ ん。
交 通機 関 の便 利な 事 を今 更な がら 発 見致 し、 昨 今出 発前 誠に 忙 がわ しく 有 之。 礼廻 り、
(マ
マ
)
買 物 、荷 物の 処 理等 、東 奔か 北 走か 方角 も 判ら ぬ程 飛び 廻 り居 候が 、礼 廻 りに はフ ロ ック
コー ト 、 シル ク ハ ット の 衣 冠 帯束 御 々 しき 故 、「穴 む ぐり 」 地
( 下線 も
) ど も なら ず、 不相
得止 自働 車 にて 駆け 廻 り申 候が 、商 業 区域 の軒 別 を初 めと して 、 クリ クル ウ ッド の端 より
ケン ジ ント ン辺 の 反対 の方 角ま で 約二 時間 で 二十 五哩 斗り 歩 き廻 りた る 仕末 は、 真に 外 国
な らで は出 来 ぬ放 れ業 。其 他 地下 線の 利 用も 繁雑 なる 丈 け、 慣れ ゝ ば便 利い や増 し 、用 事
の 片づ く 事夥 多し く、 之 れが 本当 に 文明 なる もの ゝ 難有 さか と 被存 、最 後に こ こロ ンド ン
市 に 感謝 仕候 。
出発に際しては 、何処も変らぬ人情 、やれ送別会の心計りの酒汲み交し等との申込多き 、
其心 尽し は 難有 きも 、 毎夜 馳走 攻め に ては 当方 の 身体 が堪 らず 、 止む を得 ざ る外 は断 り居
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り候が 、そこは又外国流にて無理に引き留めざるが外国流にや 、此国人は申すまでも無く 、
在留 の日 本 人も 無理 強 ひせ ざる コソ 誠 に喜 はし き 思致 候。
韓国 の 合併 、今 朝 のタ イム スで 一 覧仕 り、 所 謂水 到り て渠 成 ると は、 真 に此 事か と被 存
候 。思 ひ返 し て日 魯役 以後 、 日本 外交 上 の手 際も 中に 甘 きも のと 、 此地 にて は日 本 の事 が
第 三者 の 地位 とし て観 測 出来 申候 。 何と して も結 構 な事 。初 秋の … … こ
( こ 不明 は
) 、善 い
影 響 を与 ふる 事と 被 存候 。目 出度 き 事の 限り に 候。 両三 日前 、 貴筆 児玉 氏 宛の もの 拝承 仕
候。 中
(略 )
何か 申上 度 き事 有之 候が 、 思ひ 不湧 。 此処 にて 擱筆 致 候。 之が 英 国か らの 最後 の 通信 か
も難 計 候。 早々 。
○ 当主 は去 る 十七 日ス エ ズを 出帆 せる 加 茂丸 のケ ビ ンに 在ま しま す 筈な れば 、 けふ 頃は
香 港着
コロ ンボ 着
十 月十 九 日
十 月六 日
神戸 入港 の 予定
シ ンガ ポー ル 着
紅 海の 酷 熱に 苦し ま れつ 、ア ビシ ニ アの 月を 眺 め、 如何 の感 に 打た れ給 ふ らん 。
九 月 二十 八日
十月 十二 日
● 当 主の 御 消息
「
( 本部 旬報 」 三九 号、 一〇 月 一五 日 )
日 本郵 舩 会社 加茂 丸に 御 乗舩 の当 主 には 御予 定の 如 く、 十二 日 午後 香港 着、 十 三日 午後
四 時 香港 発信 して 「 今立 つ」 と の電 報着 。而 し て神 戸着 ハ 十八 日午 後、 若 くは 十九 日 午前
なら ん。
「当 主の 帰 朝」 なる 題 目は 次号 の旬 報 を飾 らん 。
● 当 主 の御 帰朝
「
( 本部 旬 報」 四〇 号、 一 〇月 二〇 日 )
昨 春四 月 十七 日、 横 浜解 纜の 天洋 丸 に御 搭乗 、 渡航 せら れた る 御当 主に は 、五 月三 日桑
港 に 御上 陸、 夫 れよ り北 米各 地 を巡 遊せ ら れた る後 、英 京 に赴 かれ 、 其後 欧洲 諸国 の 商工
■業 文物 制 度を 視察 調査 、 再び 英京 に 引返 され たる が 、去 月五 日 英京 御出 発仏 国 に出 で、
同月 十 日マ ルセ ーユ 出 帆の 日本 郵 船会 社加 茂丸 に 御乗 舩、 御 航海 恙あ らせ ら れず 、十 八 日
御 帰着 あら せら れ たり 。
十 月十 七日 午 後五 時四 十 八分 、加 茂丸 は 日向 の南 端 都井 岬を 通過 し たり との 報 、同 夜更
け て郵 舩 会社 神戸 支 店に 着せ り。 直 ちに 本家 控 家を 始め とし 店 及其 関係 者 へ此 旨打 電し 置
きぬ。
マ
( マ
)
・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・
明く れば 九 月十 八日 、 天朗 かに 秋気 清 く澄 み渡 れ り。 此日 一年 有 半余 欧山 米 水に 親ま れ
たる 御 当主 には 、 其御 旅行 を終 え て御 恙な く 雄姿 を神 戸埠 頭 に現 はさ れ たる ぞ。 目出 度 き
限 りな る。
曩 之、 大 阪よ りは 当日 朝 先発 歓迎 準 備委 員と して 西 店川 端支 配 人、 輸出 店藤 野 政次 郎を
神 戸 へ出 向せ しめ 、 次い で本 部 ・各 店よ りの 代 表者 各数 名 を遣 はし 、海 岸 通後 藤旅 舘 に待
つ程 に、 本家 御 隠居 様、 控 家御 家様 、同 奥 様を 始め と し親 戚并 びに 御 当主 の知 人 数多 来神
せら る。
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午後 四時 とい ふ に予 て用 意 のラ ンチ に乗 船 した る此 等 驩迎 者一 同は 、 和田 岬沖 合 に到 り
加茂 丸を 待 つ。 待つ こ と約 一時 間に し て、 水平 線 上纔 かに 一縷 の 黒煙 を認 め 、何 れも とり
〳〵 の 噂を 交ゆ る 裡に 、船 体次 第 に近 く、 今 し彼 方よ り現 は れた る十 五 夜の 月は 煌々 と し
て 、満 船の 迎 へら るゝ 人、 迎 ふる 人、 其 月光 を浴 びて 亦 一段 の清 趣 を添 ふ。 やが て 船は 検
疫 を受 く べく 、こ の沖 合 に錨 を投 げ ぬ。 愈近 づく ラ ンチ より は、 熾 んに 伊藤 君 万歳 を絶 叫
し 、 当主 の振 り給 へ る白 きハ ンカ チ 、加 茂丸 よ り之 に和 せる 万 歳の 声天 地 を響 かさ んば か
り 。 冴え たる 月 銀波 に映 じ、 驩 迎の 人、 驩 迎の 舩、 いづ れ 詩た らざ る なし 。検 疫を 終 りて
より ラン チ の出 迎人 一同 加 茂丸 に移 乗 し、 御当 主に 一 々御 挨拶 を 済ま し、 共に 談 笑の 裡に
神戸 港 に入 り、 七時 上 陸し 、直 ち にオ リエ ンタ ル ホテ ルに 入 り晩 餐の 饗応 あ り。 新宅 様 の
御挨拶 、北川与平氏の祝詞 代
(表 者 、
)御当主の答辞あり 。各歓び尽し 、九時半散会を告げ 、
御 当主 、御 隠 居様 一行 は 午後 十時 〇二 分 、三 の宮 発 列車 にて 梅田 着 、直 ちに 控 家に 入ら れ
た るが 、 御当 主に は 、曩 之控 家に 御 待ち 申受 け たる 各店 幹部 一 同の 御挨 拶 を受 けさ せら れ
た る 后、 強ゐ て の御 希望 によ り 本店 に赴 か れ、 本店 ・輸 出 店々 員一 同 の御 挨拶 御受 け に相
成り たる 後 、本 店に て御 就 寝遊 ばさ れ たり 。
御当 主 には 久し き御 航 海の 御疲 労も な く、 いと 御 元気 に御 見受 け 申し たる こ と目 出度 き
限り に て、 店員 一 同の 深く 喜び 祝 し奉 る所 な り。
伊 藤栄 治 郎
出 路 久右 衛門
田 附政 次 郎
島瀬 芳太 郎
山本 富蔵
田 附 竹次 郎
田附 源 兵衛
逸見 省三
外 海 銕二 郎夫 人
猶 、当 主神 戸 迄出 迎人 は左 の 如し 。
藤 野 宗治 郎
羽田 治平 息
古川 定次 郎
む 藤政 七
渡
の諸 氏
不破 栄 二郎
北川 与平
織 物新 聞社 村井 氏
謙三
藤野 忠 兵衛
外に
マ
( マ
)
本 家 御 隠 居 様 、 控 家 御 家 族 様 、 同 奥 様 を 始 め と し 本 部 全 員 、 本 店 三 名 、 京 店 三名 、
糸 店三 名 、西 店二 名 、輸 出店 二名 、 東糸 支店 一 名、 外に 荷造 り 方二 名な り き。
● 当 主の 御旅 行談
「
( 本 部旬 報」 四一 号 、一 一月 一 日 )
十 月二 十五 日、 各 店二 等商 務 役以 上の 者を 本 部に 集め て 、当 主欧 米視 察 談催 さる 。 形而
上 とい はず 形 而下 とい は ず、 各種 の方 面 に亘 りて 滔 々数 千言 を費 や さる 。博 聞 強記 にし て
御 調査 の 精緻 にし て 御観 察の 非凡 な る、 多方 面 に渉 りて 趣味 を 有せ らる こ と豊 富な る、 何
旅行 談」 と 口ず さみ し たり 。穿 ち得 て 妙な り。
れ も 感服 しつ 。 御話 につ れて 感 興愈 深く 、 各員 みな 身自 ら 其境 に在 るの 思 ひつ 時の 移 るを
家の 子召 し て
知ら ざり き 。さ る人 が、
「秋 宵や
御談 話 は四 時に 始 まり 十時 過ぎ 閉 会。 此間 実 に六 時間 なり き 。
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付記
本 稿 は 、平 成 二 五 年 度 科 学 研 究 費 基
( 盤研究 B
( 、
) 課 題 番 号 2 4 3 3 0 1 1 9 、「 伊 藤
忠 兵衛 家 同 族に よ る 事 業経 営 の 研究 ー 総 合商 社 伊 藤忠 商 事 ・丸 紅 成 立 前史 の 分 析ー 」 、
)
お よび 財団 法 人伊 藤忠 兵衛 基 金の 文化 厚 生事 業助 成金 に よる 成果 の 一部 であ る。
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