遵義会議 関連テーマ・ワード瑞 1、遵義会議の参加者 ■政治局委員 ・毛沢東 ・朱徳 ・陳雲 ・周恩来 ・洛甫(張聞天) ・博古(秦邦憲)・・司会(当時26歳、中国共産党の総書記) ■候補委員 ・王稼祥 ・鄧発 (安全保衛責任者) ・劉少奇 ・何克全(凱豊) (共青年団団長) ■紅軍司令官 ・劉伯承 ・李富春 ・林彪 ・聶栄臻(第3軍団司令官) ・楊尚昆(第3軍団政治委員) ・李卓然(第5軍団政治委員) ・彭徳懐 ■オブザーバー ・オットー・ブラウン ・伍修権 通訳 ・鄧小平:『紅星報』の編集責任者で新任の中央秘書長 2、長征開始までの経緯 1924年、孫文率いる国民党が中国共産党(1921年創立)との合作を決定、1926 年より、国 民革命軍(総司令官は蒋介石)が広州を出発し北伐を開始。しかし1927年4 月蒋介石の上海での反共クーデターで、第1次国共合作が崩壊。これに対し、共 産党側は、 周恩来、朱徳、賀竜、劉伯承らが指導し1927年8月1日に南昌で蜂起、同年9月には毛 沢東が江西省の銅鼓で蜂起、10月には毛沢東率いる革命 軍が井岡山に最初の農村革命 根拠地を作るなど、抵抗を続けたが、蒋介石が展開する数次にわたる大規模な包囲作戦の 前に、苦しい戦いを強いられる。1934 年10月、ついに中国紅軍主力部隊は、当時、 党中央の出先機関が置かれていた江西省瑞金からの退却を決意、ここに「長征」が開始さ れた。 3、遵義会議 1935年1月 貴州省の北部地区(黔北地区:黔qianは貴州省の別名)の政治・経済・文化・通信の中心 地が、遵義の町だ。州都・貴陽と四川省を繋ぐ川黔鉄道や川黔公路もこの遵義を通ってい るが、この町の名は広く内外に知られている。1934年10月から開始された長征途 上、1935年1月にここ遵義で、中共中央委員会政治局拡大会議が開かれたが、この会 議は、この結果、共産党の毛沢東指導体制が実質確立されるという歴史的な会議であっ た。 毛沢東は、まず農村に革命根拠地を作り、しかるのちに都市にむかうという方針を主張 し、江西のソビエト区を拠点に革命闘争を展 開していたが、1931年1月には、上海の中 国共産党委員会が、党中央の出先機関を瑞金に置く事を決定。あわせて毛沢東を批判し、役 職を解任することを決 定し、王明らソビエト留学派が党の実権を握る。以降、党内では毛 沢東への批判が続き、やがてコミンテルンから派遣されたドイツ人の軍事指導者オッ トー・ブ ラウン(李徳)、博古、周恩来等が党を指導していた。 蒋介石が展開する数次にわたる大規模な包囲作戦の前に、中国紅軍は追い詰められ、1 934年10 月、ついにその主力部隊は、当時、党中央の出先機関が置かれていた江西省 瑞金からの退却を決意、ここに「長征」が開始された。長征は、1936年10月先 遣 の彭徳懐軍が、陝西省にあったソビエト地区の呉起鎮に入城したことをもって終わりとさ れるが、この江西省瑞金から陝西省延安12,000キロの壮絶な退 却(当初から陝西 省延安が目指されていたわけではない)は、出発してから西に400キロの湘江では多大 な犠牲を出していた。こうした中、王明路線と呼ばれるソ連モデルを教条化した軍事路線 が批判され、毛沢東が実質的に党・軍の指導的地位を確立するきっかけとなった遵義会議 が翌1月に開かれるのである。 湖南省北西へ向かう予定のコースを毛沢東の主張に従い、変更して貴州に入った紅軍 は、1935年1月初、遵義の町に入城し占領する。紅軍司令部として接収されたのが、 貴州省の商人・銀行化・事業家であった柏輝章の家で、この邸が、国民党の第5回包囲討伐 に対する抗戦の失敗、瑞金脱出以来のこれまでの長征の稚拙な指導への批判、今後採るべき 適切な軍事行動を議する目的で召集される会議の場として使われた。尚、柏輝章は、貴州 軍閥・王家烈(注:1934年(民国23年)、紅軍が長征のため貴州を通過しようとすると、王家烈はこれ を正面から迎撃しようとする。)より遵義地方の軍閥として、王の第25軍第2師団の師団長 にも任ぜられていた。 会議は1月15日から3日間に渡って続き、会議が進行するに従い多くの出席者が毛沢 東を支持するに至り、会議の結果、毛沢東は政 治局常任委員に選任された。この会議の結 果、紅軍は事実上、毛沢東の指揮下に置かれ、更なる長征を続けるために、1935年1月 19日、遵義を出発する。 参考図書: 『長征ー語られざる真実』 (ハリソン・E・ソールズベリー著、岡本隆三監訳 時事通信社、1988年) 『長征 中国 瑞金∼延安12,000キロ』(日本放送出版協会、1986年、竹内実・日本語版監修) 4、決議事項 陳雲が書き記した『遵義会議政治局拡大会議伝達提綱』によると、以下の決議が行われ た。 1. 毛沢東を中央政治局常務委員に選出する。 2. 張聞天に決議を起草させ、常務委員会に委託して審査した後、支部に送って討論す る。 3. 常務委員の職務分担をさらに改める。 4. 党の最高権力集団である「三人団」(博古、オットー・ブラウン、周恩来)を解散 して、朱徳と周恩来を軍事指揮者とし、周恩来は党内で委託された軍事全般につい て最後の決断を下す責任者とする。 この会議で博古らソ連留学組中心の指導部は失脚し、周恩来を軍事の最高指導者、張聞天 を党中央の日常業務の責任者とする新指導部が発足した。しかし、まもなく周恩来は毛沢 東に最高軍事指導者の地位を明け渡し、毛沢東が党内の実権を掌握していく。 5、合法性 この期間、紅軍は長征中であり、全ての中国共産党指導者が会議に参加できたわけではな い。このため、中国共産党内部でも遵義会議の決定事項に対しては疑義を唱えるものも少 なからず存在し、長征終了まで若干の混乱を残すことになった。 また、遵義会議を記した当時の文書は存在しないとされ、公開されていない。当時の決定 事項などは共産党が1949年になって文書を発表しているが、都合の悪い部分は隠匿されて いる可能性もある。
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