幡 多 郡 清 水 村 - 土佐山内家宝物資料館

ISSN 2187­7157
しものかえ
321
27
)
海流
降水量は2000㎜を超え、高温・多雨である。台
風の常襲地としても知られ、夏季の風雨は人々
の生活に影響を及ぼしてきた。
平野に清水は位置する。海岸部は、入り組んだ地
丘陵・台地に囲まれた、小規模な海岸
形が深い入り江を形成し、波風ともに穏やかで、
古来、以南地域の良港として発展を遂げてきた。
マキやタブ、シイなどの大樹が生い茂り、市の天
然記念物に指定されている。また海岸部を中心に
群生するウバメガシは、かつての村の生活を支え
た炭焼きの原料である。
徳島県
朝鮮半島
はじめに
清水
あしずり
浦尻
うらしり
清水港
348
尾浦崎
中浜
なかのはま
する。清水地区の鹿島の叢林は、イヌ
し み ず
四 国 最 南 端、足 摺 半 島 の 中 央 部 に 清 水 は
あ る。群 青 の 海 を 眼 前 に 臨 み、深 緑 の 山 々
か ぐ み
響も大きく、年間平均気温は約18度、
を背に抱える穏やかな港町である。
古来、以南と呼ばれてきた幡多郡南部、特
に 海 岸 地 域 の 人 々 の 暮 ら し は、太 平 洋 を 流
れ る 黒 潮 と と も に あ っ た。な か で も 良 港 に
恵 ま れ た 清 水 地 区 は、室 町 時 代 に は 海 上 交
通、江 戸 時 代 以 降 は 政 治 や 経 済 の 要 地 と な
り、海 を 舞 台 に 壮 大 な 歴 史 が 展 開 さ れ た 地
域 で あ る。明 治 以 後 は、埋 立 て や 開 拓 に よ
る 市 街 地 化 が 進 ん だ こ と で、県 内 有 数 の 港
町として、さらなる繁栄を誇った。
しかし近年、経済構造の変化や過疎高齢化
による人口減、津波への対策などにより、今
また大きな変化のときを迎えようとしている。
いまこそ清水地区の過去と現在を記録しな
け れ ば な ら な い と の 思 い か ら、本 号 で は 海
27
と の 関 わ り を 中 心 に、時 代 と と も に 移 り 変
347
わる清水を紹介する。
▲清水地区と周辺地域
下川口地区
地域記録集 土佐の村々 2 高知県土佐清水市清水地区
しもかわぐち
∼自然と歴史∼
下ノ加江地区
福州
足摺岬
しみず
とさしみず
高知県
愛媛県
あしずりみさき
▲土佐清水市と清水地区の位置
▲広域図
香川県
N
幡多郡 清水村
みさき
しみず
本
(日
黒潮
三崎地区
フィリピン諸島
遠見崎
しみず
土佐清水
市役所
あしずり港
321
加久見
321
琉球諸島
台湾
温暖な気候により、暖地性植物が生育
植生
清水地区
28
マニラ
足摺半島の中央部、周りを120m級の
地形
典型的な南海型気候であり、黒潮の影
気候
鯨野郷
∼平安時代∼
わみょうるい
四万十川
野
クジラを連想する地域名
じゅうしょう
松田川
田
∼鎌倉時代∼
平 安 時 代 中 期 の 書 物﹃和名類
聚 抄﹄に は、清 水 を 含 む 周 辺 の 地
いさのごう
域 が﹁鯨 野 郷﹂と い う 名 称 で 記 さ
れている。
くじら
﹁イ サ﹂は 鯨 の 古 名 で、現 在 で
も足摺岬の伊佐に地名が伝わっ
て い る。こ の 鯨 野 郷 の 範 囲 は、鎌
倉 時 代 以 降、﹁以 南﹂と 表 現 さ れ
た 地 域 と ほ ぼ 重 な り、現 在 の 土
佐清水市と幡多郡大月町の南半
部の地域を指すとされる。
以南村
一条家 ・金剛福寺と幡多荘
シ水
「シ水ノモト」
み
こくじん
∼室町・戦国時代∼
∼南北朝時代∼
﹁シ ミ ズ﹂の 地 名 が 確 認 さ
れ る 最 初 は、建 武 二 年︵一 三
いんしゅしんけい
三 五︶の 金 剛 福 寺 院 主 心 慶
おきぶみ
の 置 文 で あ る。﹁シ 水 ノ モ ト
二 段﹂の 地 が、金 剛 福 寺 で の
くでんばた
仏事の供田畠として、また同
しゅりでん
寺破損の際の修理田として
記されている。南北朝時代の
初めには、﹁シ水ノモト﹂に金
剛福寺の支配を受ける土地
があったことが知られる。
加久見氏 と清水
ぐ
一条摂関家の土佐下向と加久見氏
加久見氏は、現在の土佐清水市加久見を本拠とした国人
かんぱく
のり
領 主 で、応 仁 の 乱 後、京 都 か ら 土 佐 に 下 っ た 前 関 白 一 条 教
ふさ
房を支え、以南地方に勢力を張った雄族である。
むねたか
とさのかみ
加久見宗孝の土佐守任官は、一条教房の推挙によるもの
ちゅうなごんのつぼね
であり、また、宗孝の娘中納言局は教房と婚姻を結び、土佐
ふさいえ
一条氏初代となる房家を生んでいる。
加久見氏と清水城 ・蓮光寺
か
渡し場付近にある「清水之名泉」
江戸時代に編まれた『土佐州郡志』以来、
この名泉が「シミズ」の由来と伝わる
海浜集落を基盤に活躍した加久見氏は、
「海の領主」と
して注目されている
宇
山 和 大 方
田
枚
『和名類聚抄』にみえる幡多郡の5つの郷
現 在 で も 当 地 域 を﹁イ ナ ン﹂と 表 現 す る 時 が あ る が、こ
の表現は鎌倉時代中期以降、確認されるようになる。
さきのせっしょうくじょうみちいえ
建長二年︵一二五〇︶、前摂政九条道家が記した古文書の
中 に﹁以 南 村﹂と 見 え る の が 最 初 で あ る。道 家 か ら 息 子 の
さねつね
はたのしょう
一 条 実 経 に 譲 ら れ た 荘 園 の 内 に、
幡 多 荘 が あ り、幡 多 荘 内
の地域区分の一つとして﹁以南村﹂が登場する。
うちざね
鎌 倉 後 期、正 安 二 年︵一 三〇〇︶に は、
一 条 内 実 よ り、足 摺
の金剛福寺への寄進米六石が以南村に賦課されており、幡
多 荘 内 の 他 の 地 域 と 同 様、一 条 家 の 荘 園 支 配 の も と、地 域
の有力寺院である金剛福寺とも関係を持つ地域として、以
南村は存在していた。
加 久 見 氏 は、加 久 見 城 を 拠 点
に、清 水・猿 野・三 崎 に 城 を 構 え、
清 水・越・中 浜・大 浜 の 海 岸 部 を
抑 え て︵以 上、土 佐 清 水 市︶、海 浜
集落を基盤に幡多西南地域に勢
力を張った。
天 文 三 年︵一 五 三 四︶八 月 に は、
加久見氏一門の主導により、蓮光
かんじん
ぼんしょう
寺の梵鐘鋳造のための勧進が行
わ れ て い る。寺 院 の 復 興 を 通 し
て、清水と関係を持つ加久見氏の
姿が知られる。この時の勧進状に
は﹁幡多庄以南村志水﹂と地名が
記される。
清水城
松崎
347
南海之津
みんこく
∼異国への窓∼
なんかいろ
南海路の要港 室町後期から戦国時代にかけて、清水は京
あ み だ に ょ ら い
畿 内 と 明 国︵中 国︶
・南 方 と を 結 ぶ 南 海 路 の 拠 点 港 と し て、
海を介した交通・交流の舞台となり活況を呈した。
往来の商客、南北の舟人 文 明 十 二 年︵一 四 八〇︶の 蓮 光 寺
建立勧進状には、本尊阿弥陀如来の奇特を記す中で、﹁海に
のそミて往来の商客を利益し、風をわけて南北の舟人を送
迎 す﹂と い う 文 言 が あ る。文 明 年 間 当 時 に お け る 清 水 港 の
繁栄を想像させる。
衰を叙述した﹃土佐物語﹄
には、
もとちか
清 水 港 の 広 大 な る を 見 て、
元親
が﹁異 国 の 大 船、
数度入津せし
も理なり﹂
と述べたとある。
江戸
時代の文学作品に現れた異国
船の記憶といえよう。
した﹃日本一鑑﹄
には、
南海路の
港が記録されている。
清水は﹁ 礁﹂
︵水面下に隠れている岩、
ハエの
ぼら
こと︶
が多い港で、﹁港内山河﹂﹁鰡
魚を産す﹂
と記される。
ち ょ う そ が べ
異国船の記憶 長宗我部氏の盛
にほんいっかん
海外に知られた清水 十六世紀半ば、
明国の使、
鄭舜功が著
ていしゅんこう
一、就 土 州 若 君 事、自 中 納 言 局 文 到 来、自 家 門
又 巨 細 被 仰 出、若 君 去 年 冬、自 中 村 御 所、足
ス リ ヘ 御 入、当 年 三 月 ニ 清 水 へ 入 御、南 海
之津也云々
『大乗院寺社雑事記』
(国立公文書館蔵、
重要文化財)文明16年7月24日条
清水が「南海之津」と記される
清水港の奥、浦尻に属す唐船島
唐船来航にちなんで名付けられたと伝わる
浦尻
清水
千尋神
養老
321
竜串
三崎城
鯨
元町にある蓮光寺は、
鎌倉時代の開創と
伝わる浄土宗の古刹
写真中央は、
本尊の木造阿弥陀如来立像
で、
鎌倉後期の作と見られる
27
加久見
加久見城
加久見川
321
三崎
以布利
下益野
猿野城
西の川
大方郷
宇和郷
山田郷
枚田郷
鯨野郷
幡 多 郡
2
清水浦の性格
1.9%
船頭
15代
0.4%
又五郎、孫七、兵衛五郎、菊松、
源一郎、久介、久助、勘太郎、源四郎
水主
3反45代
番匠
1町5反20代3歩
22.9%
小使
20代4歩
0.6%
加久見氏
4反13代3歩
6.3%
加久見氏一族
20代
0.5%
加久見衆
8反30代
12.8%
越漁父
3反49代3歩
5.9%
蓮光寺
1反
1.4%
松本九衛門
越漁父
中野官兵衛、御中間藤七、
西松左兵衛、松本孫介
加久見衆
*上記の他に、北代伊賀守・同市大夫ほか、6名の名前が確認できる。
北代氏は長宗我部氏の家臣と思われるが、他6名については職
掌・立場等は未詳。
あざ
1反16代5歩
5.8%
清 水 は、海 運・水 運 あ る い は 水 軍 に 関 係
する船頭や水主と、その活動を支える番匠
たちの一大基地であり、海運集落としての
性格を強く持っていた。漁村としての性格
が色濃くなってくるのは、江戸時代に入っ
てからのことである。
13.5%
漁父
源左衛門
賀久見左衛門大夫
蔵松亀大夫
◆本田に占める給地面積の合計と比率
◆清水地区の居住者ならびに清水地区の土地に権利関係を持つ者
長宗我部地検帳にみる清水の風景
市場・太門・小路・ヲトリ堂(踊り堂ヵ)・風呂ヤシキ
などのホノギ(小字名)からは、清水の都市的な姿が想
像される。
ち ょ う そ が べ も と
城カサキ、コシカキテン、貝塚
清水検地の概要
清水浦
漁父新兵衛は、
字﹁向ヤシキ﹂
に屋敷を持
ち、長 宗 我 部 政 権 の も と、清 水 浦 の 浦 刀 祢
に任じられていた︵秦氏政事記︶。長宗我部
氏は
﹁市 場﹂
を 直 轄 地 と し て い た が、そ れ を
管理していたのが新兵衛である。
また、船頭は日向と善兵衛の二人が知ら
れ る。こ の 内、善 兵 衛 は 清 水 に は 土 地 を 所
持 し て い な い が、加 久 見 氏 の 本 拠、加 久 見
村に八反余の土地を有しており、加久見氏
との関係が注目される。善兵衛は加久見村
地検帳に﹁清水衆﹂と記されるように、﹁衆﹂
という集団的まとまりを持ちながら、加久
見氏に従っていた。
水 主 は、又 三 郎・弥 五 郎 な ど 八 人 が 知 ら
れる。水主は、船頭の指揮下に船を操り、航
海を支える人々である。
番 匠 は、又 五 郎・孫 七 な ど 九 人 が 知 ら れ
る。番 匠 と は 船 大 工 の こ と で あ る。本 田 に
占める土地の割合では、長宗我部氏の直轄
地 に 次 い で、番 匠 の 給 地 が 多 く、ま た 屋 敷
の居住者にも番匠が多く確認される。清水
浦における盛んな船の建造・修繕の風景が
想像される。
25.7%
9反 3代5歩
小使
加久見氏
加久見氏一族
て い る。居 住 者 と し て 多 く 見 え る の は、番
匠と水主である。
寺社関係では、蓮光寺とその阿弥陀堂を
は じ め、常 楽 寺・海 雲 寺・賀 島 大 明 神 な ど
があり、賀島には﹁聖人﹂が住んでいた。
1町7反13代2歩
名分
(名本)
番匠
長宗我部氏
水主
竹島弥三兵衛
新兵衛
日向、善兵衛
又三郎、弥五郎、宗七郎、勘衛門、
彦四郎、又太郎、源七、七郎三郎
名本
漁父
船頭
清水に生きる人々
3
清水村
常 楽 寺 道、蓮 光 寺 々 中、阿 弥 陀 堂、
海雲寺、コムカイ、市場、浜ヤシキ、
太門ヤシキ、小路ヤシキ、ヲトリ堂
ヤシキ、向ヤシキ、風呂ノ本、ツツミ、
マエタ、風呂ヤシキ、坊ノ上、中ツツミ、
坊山、弓場ノ本、アカハケ、水クレハ、
小屋ノ谷、野中、谷ダ、ワタイチ川、
三タンキレ、滝ノ下、キサカタ、ト
ウ ミ チ、チ カ ラ 御 前、ア カ タ ウ ラ、
ワタシ、賀島、賀島大明神、鷲ノ巣、
清水ノモト、トト浜、清水コエ
清水村地検帳の冒頭部分
1筆目に漁父新兵衛がみえる
清水村地検帳の5 ∼ 9筆目
船頭・水主・番匠がみえる
清水は、室町後期から戦国時代にかけて、
土佐一条氏│加久見氏のもと、南海路の海
運に関わる拠点港として、また加久見氏の
水運・水軍に関わる基地港として大いに発
う ら と ね
展 し た 。長 宗 我 部 氏 が 清 水 に浦刀祢︵村役
人 的 人 物︶を 置 き、清 水 を 支 配 下 に 置 い た
のも、まさしくこの性格に注目したからで
ある。
こ の よ う な 清 水 の 性 格 を 端 的 に 表 す の
は、船 頭・水 主・番 匠 と い っ た 海 運 関 係 者
と漁父の存在である。
◆清水村地検帳にみえる清水地区のホノギ
天正十五年︵一五八七︶から、長宗我部元
ちか
親は土 佐 一 国 に わ た る 大 規 模 な 土 地 調 査
け ん ち
︵検 地︶を 実 施 し た。清 水 で は、同 十 七 年 十
一月に検地が行われており、その検地台帳
ちけんちょう
︵清水村地検帳︶が今に伝わっている。
清 水 村 地 検 帳 に よ る と、田 畠・屋 敷・切
畑 な ど、検 地 さ れ た 面 積 は 八 町 三 反 余、そ
の 内、本 田 が 六 町 七 反 余、出 田 が 一 町 六 反
余 で あ っ た。本 田 に 占 め る 割 合 で は、長 宗
我部氏の直轄地が最も高く
︵下表参照︶、﹁市
場﹂﹁城 カ サ キ﹂﹁賀 島﹂な ど の 要 所 が 長 宗 我
部氏の直轄地にされている。
名前が記される人物は、全部で三十八人
なもと
お り、名 本 竹 島 弥 三 兵 衛 を は じ め、漁 父・
せんどう
すいしゅ
ばんじょう
船 頭・水 主・番 匠・小 使 な ど の 名 前 が 知
られる︵下表参照︶。
屋 敷 は、全 部 で 二 十 八 ヵ 所 が 記 録 さ れ、
その内、十九ヵ所について居住者が記され
長宗我部地検帳(重要文化財)
原本の表紙と冊子の姿、土佐一国分368冊が伝わる
江戸時代
「無双」の湊
300
100
江戸時代の清水浦(村)
の人口と石高( )
内は推計値
1700 1750 1800 1850 1900 年
本田は長宗我部地検帳に由来し、
新田はそれ以降新たに開発された土地のこと。
浦の役人
ぶいちやくしょ
とおみばんしょ
良港の清水浦には、分一役所や遠見番所
な ど、藩 の 重 要 な 機 関 が 設 置 さ れ た。分 一
役所には藩の役人がつめ、津出しされる材
ぶ い ち ぎ ん
木 や 浦 の 漁 獲 物 か ら 分 一 銀︵関 税︶や 口 銀
︵漁業税︶を徴収した。
としより
また浦では庄屋と老が中心となり、地域
を自治的にまとめていた。清水浦の庄屋は
代々浜田家が勤め、同家からは郷士も輩出
される。
十 七 世 紀 末 ま で 幡 多 郡 に 中 村 支 藩 が 置
かれていたが、清水浦は同藩の所領に含ま
れ た。中 村 支 藩 に お い て も 浦・湊 の 要 地 と
して重要な位置づけを占めた。
浦の寺社
黒潮の道
海に開かれた清水には、黒潮の道を通じ
て新しい技術が伝えられた。
い な み
十 世 紀 中 頃、紀 州 印 南 浦︵和 歌 山 県 南
西部︶の漁民たちが足摺沖の鰹の好漁場で
操 業 を 開 始 す る。そ の 始 ま り は、清 水 浦 に
隣接する越浦に拠点を置いた角屋甚太郎
という人物だったという。
竿 一 本 で つ ぎ つ ぎ と 獲 物 を と り あ げ る
豪壮な鰹一本釣りの漁法﹁鰹溜釣り法﹂は
この時に土佐に伝わった。また紀州で普及
し て い た 鰹 節 を 煙 で い ぶ し て 造 る﹁燻 乾
法﹂も導入されている。
これら紀州からの技術導入により、足摺
半島を含む土佐湾海域で鰹漁が本格化し
ていくことになる。
清水七浦 以布利
津呂
越
足摺岬
臼碆
伊佐
松尾
大浜
清水 中浜
窪津
豊 か な 鰹 漁 場 を 抱 え る 足 摺 岬 以 西 の 七
つ の 浦 は、鰹 漁 と 鰹 節 生 産 の 基 地 と な っ
はなまえ
た。こ れ ら を﹁清 水 七 浦﹂や﹁鼻 前 七 浦﹂
と呼ぶ。
清水浦にある分一役所は、時にこれらの
浦々から口銀などを徴収することがあっ
た。また清水七浦をまとめる大庄屋を清水
浦の庄屋が勤めることもある。足摺岬以西
の地域をつなぐ核の一つが清水浦だった。
布
久百
紀州漁民の据浦
当初、土佐の鰹漁を担ったのは紀州の漁
民 た ち で あ っ た。彼 ら は、毎 年 春 に 土 佐 を
訪 れ、漁 期 が 終 わ る 秋 に 国 元 へ 戻 っ た。足
摺半島西岸の清水七浦には、紀州漁民の拠
すえうら
点となる﹁据浦﹂が設けられた。
だが、優れた技術と組織力を持つ紀州漁
民の出漁によって、清水浦の人々の生業も
制約されたという。他領に移り住む﹁走り
者﹂がこの地域で多く見られるのもこの時
期である。
戎町にひっそりとたたずむ紀州漁民の墓
は、
かつての据浦の歴史を今に伝えている。
鰹釣りの図(『土佐国職人絵歌合』
高知市立市民図書館若尾文庫所蔵)
戎 町 に あ る 貞 享 2 年(1685)銘
の石仏、印南浦与太輔が建てた。
(70 石)
70 石
83 石
180 石
(144 石)
新田
400
本田
200
200
(227石)
(298 石)
(250 石)
七
下茅
養老
清水七浦
( )と鰹漁場
深 い 入 り 江 に 穏 や か な 海 を た た え る 天
然の良港の清水浦。このめぐまれた自然条
件のなかで、清水浦の江戸時代の歴史も形
づくられた。
た にま し お
土 佐 藩 を 代 表 す る 国 学 者・谷 真 潮 も﹁清
水浦湊誠ニ無双なり﹂と評した。
721人〈越・養老浦を含む〉
800
656人
577人
600
(368 石)
400
818人 48 年頃)
『土佐州郡志』の清水浦(部分)
江 戸 時 代 中 頃、土 佐 藩 が 招 い た 儒 者 の
お が た そうてつ
緒 方 宗 哲 が 編 纂 し た﹃土 佐 州 郡 志﹄に は、
三つの寺社が記録される。
本 清 水 の 小 高 い 丘 に あ る﹁蓮 光 寺﹂、鹿
島 に あ る﹁鹿 島 神 社﹂、そ し て 戎 浦 の﹁蝦
子 社﹂で あ る。毎 年 九 月 九 日 の 鹿 島 神 社 の
大祭には、社林が﹁鳴動﹂すると記され、地
域の信仰を集めた神社の霊験を伝える。
鰹漁場
地域の生業
(1844−
清水浦は、江戸時代を通じて人口が五百
∼八百人ほど、土佐藩では中規模の浦であ
る。
十八世紀には十艘ほどの漁船や廻船の
ほ か、各 種 の 漁 網 が あ る。漁 業 と 流 通 が 清
水浦の主要な生業だった。
他方、平野の乏しい清水浦にも、本田・新
田 合 わ せ て 二 百∼三 百 五 十 石 ほ ど の 田 畑
が あ っ た。江 戸 時 代 の 絵 図 に は、越 浦 の 境
や尾浦の付近に田畑が描き込まれている。
清水地域には藩の留山などもあり、多様な
生業が営まれていた。
[ 石高 ]
[ 人口 ]
4
漂着の湊
足摺半島の地理的条件から、清水浦は海
防の機能も担った。
異国船を監視する遠見番所は、寛永十五
年︵一 六 三 八︶、島 原 の 乱 を 受 け て、幕 府 の
命 に よ り 土 佐 藩 各 地 に 築 か れ た。清 水 で
は、港口の遠見の鼻に十 世紀初め頃まで
に設置されている。
清水の遠見番所は、二坪ほどの小さな板
敷きの物見小屋で、南から季節風が吹く三
月から七月に地下人二名が番人として常
うすばえ
駐 し た。こ こ か ら は 東 に 臼 碆、西 に 沖 ノ 島
くらかけやま
までを見渡すことができた。裏の鞍掛山に
ほ た て ば
は狼煙をあげる火立場もあったという。
海防の湊
大関「清水節」
元和2年 1616 イスパニア船
ルソンよりメキシコ
へ向かう途中で漂着
宝永2年 1705
琉球船
清 朝 へ 進 貢 の 後、福
州より琉球へ帰国の
途中、足摺沖で漂着
安政3年 1856
清朝船
海南島漁船、
越浦で漂
着後、
清水浦へ入港
えんきょう
2km
浸水推定域
いり
宝永地震の浸水推定図『歴史探訪 南海地震の碑を訪ねて』
(毎日新聞支局刊)所収の図を一部改変
きさがた
塩浜
清水
安永九年︵一七八〇︶、清水浦の象潟に入
はま
浜式の塩浜が築かれた。海の干満を利用し
て塩を採り出す塩田である。
土佐藩は広い海岸線を持つものの、多雨
な た め 製 塩 業 に 適 さ ず、毎 年 二、三 万 石 の
塩 を 輸 入 し て い た。清 水 浦 の 塩 浜 は、こ の
状態を改善するため、国学者で浦奉行の谷
真潮が主導して築造した。 湊 の 入 り 江 に 長 さ 八 十 メ ー ト ル ほ ど の
石垣を築き、約二ヘクタールに及ぶ塩浜が
造 ら れ た。製 塩 技 術 は、先 進 地 阿 波 か ら 技
術者を招いて導入した。天保十四年︵一八
四三︶には、製塩高が七百四十五石余りと、
土佐藩の総生産量の一割ほどに達してい
る。
塩浜の築造には、この地域に新たな産業
を創出するねらいもあった。当初清水浦の
庄屋が塩浜築造の発議を行っているのも
その表れといえるだろう。
浦尻
蓮光寺
越
清水浦の漂流記
鰹節を磨く図
︵
﹃日本山海名所図絵﹄
より︶
清水浦には、慶長七年︵一六〇二︶のイス
パ ニ ア 船 を 皮 切 り に、琉 球 船 や 清 朝 船 な
ど、四 艘 の 異 国 船 が 漂 着 し た。そ の 数 は 土
佐藩の浦々で最も多い。黒潮がぶつかる足
摺半島西岸で、大船の碇泊が可能だったこ
とが要因の一つといえる。
元和年間の漂着では、イスパニア船が独
断で出航したため小競り合いがおきた。異
国 船 が 放 っ た 大 砲 の 煙 で﹁三 日 湊 く ら み
申﹂したという。
他 方、宝 永 年 間 の 琉 球 船 の 漂 着 で は、出
航の離別時に詩歌も交換された。蓮光寺に
は清水漂着中に亡くなった琉球人の墓が
残されており、往事の交流をしのぶことが
できる。
津波の記憶
宝 永 四 年︵一 七〇七︶
の 宝 永 大 地 震 は、
清
こくりょうき
水浦にも甚大な被害を与えた。﹃谷 陵 記﹄に
よ る と、津 波 が 越 浦 へ の 峠 道 を 飛 び 越 え、
山間の家が僅かに残り、鹿島神社の社殿も
流されたという。これにより清水浦の中心
が﹁本 清 水﹂か ら 現 在 の 市 街 地 付 近 へ と
移ったとも伝えられる。
ま た 安 政 元 年︵一 八 五 四︶の 南 海 地 震 で
も町家の軒下まで水につかり、塩浜も津波
が堤を越えて一面が海となった。清水以西
の浦々では地盤沈下も確認されたという。
5
ルソンよりメキシコ
へ向かう途中で漂着
蓮光寺 琉球人の墓
慶長7年 1602 イスパニア船
八
延 享 二 年︵一 七 四 五︶
十 二 月、
清水浦の小
船が足摺岬の沖合で遭難した。
船頭は清水
くぼ
浦の藤五右衛門、
紀州領民を含む四名が、
窪
つ
津浦から鯨の骨粕二百五十俵を積み込んで
清水浦へ戻る途中だった。
鯨の骨粕は、
薩摩
などで肥料として重宝されていた。
藤 五 右 衛 門 ら 一 行 は 船 上 で の 飢 え に 耐
え、は る か 東 方 の 八 丈 島 で 救 助 さ れ た。そ
し て 翌 年 八 月 末、江 戸・紀 州 を 経 由 し て 無
事故郷に戻った。
この時の漂流記は、浦役人池則満が﹁八
丈 島 漂 渡 記﹂に ま と め た。八 丈 島 の 生 活 や
言葉だけでなく、記録の少ない清水浦の海
運の様子も伝える貴重な史料である。
漂流する藤五右衛門の船
(『土佐国群書類従』より)
漂着までの航路
船籍
西暦
年
1
0
江戸時代も半ばを過ぎ、土佐で活動する
紀州漁民らが中心となり、新たな鰹節製法
が考え出された。これは鰹節にあらかじめ
カビ付けし、海上輸送時の腐敗を防止した
もので、土佐節をさらに保存と風味に優れ
た鰹節に作りかえた。
新たな土佐節は、藩内各地で生産された
が、なかでも清水七浦でつくられる﹁清水
節﹂は優品として知られた。文政五年︵一八
二 二︶の﹁諸 国 鰹 節 番 付 表﹂で も 全 国 の 産
地 を 押 さ え、東 方 筆 頭 大 関 を 占 め た。ま た
とよてる
十三代藩主豊凞の巡見記でも、清水の鰹節
は﹁最佳也﹂と賞された。鰹を煮る清水の水
がその秘訣だと伝える記録も残されてい
る。
やがて、この土
佐生まれの製法
は、黒 潮 の 道 に
乗 っ て 安 房・伊
豆・薩 摩 な ど へ
と伝わることに
なる。
清水浦へ漂着した異国船
境
山
尻
浦
3 分一役所と高札場
揖山
東
チヨ
カハ
ナ
御分一
浦尻山境
浦尻
清水
辻ガハナ
呼碆
4 渡し場
ワ
タ
ハ シ
マ
マ
シ
ヒ
遠
見
火
立
場
湊口の西、尾浦には畑が切り開かれ、戎浦の人々
が耕作に通っていたという。平野の少ない清水浦の
貴重な耕作地の一つである。
中浜境
5 尾浦の駄場
越網代境
鼻前の豪商 ・山城屋
長らく紀州漁民たちの勢力が強かった足摺半島で
も、江 戸 時 代 後 半 に は 地 元 の 商 人 が 力 を 付 け て く る。
な か で も 鼻 前 の 豪 商 と し て 富 を 蓄 え、地 域 に 産 業 を
やましろや
興したのが、清水浦の隣、中浜に本拠を置いた山城屋
である。
かすがぶし
山城屋が製造する鰹節は、優品﹁春日節﹂の名で知
ら れ、自 前 の 大 型 廻 船 で 江 戸・大 坂 へ と 運 ば れ た。ま
た 鼻 前 の 浦 々 を 商 圏 に、薪 や 炭・木 材 な ど、地 元 の 産
物を手広く扱った。その富は、他人の土地を踏まずと
も、山 城 屋 の 土 地 だ け で 隣 浦 へ 往 来 で き る ほ ど だ っ
たという。
この時期に形づくられる浦々の地域のつながりは、
きよまつ
近代以降の清松村などへと引き継がれる。
幕末の清水浦
幕 末 の 巨 大 な 社 会 変 動 の 流 れ は、清 水 に も 波 紋 を
残す。その一つが異国船を迎える砲台である。
十 世 紀 末 以 降、日 本 近 海 に 頻 繁 に あ ら わ れ る 異
国船に対応して、土佐藩の要所に砲台が築かれた。清
水にも、文化五年︵一八〇八︶、天保十四年︵一八四三︶、
安政元年
︵一八五四︶に砲台が作られた。幕末の砲台は、
ひぐちしんきち
中村郷士で勤王党西部首領格でもあった樋口真吉が、
幡多郡の浦々に築造したものの一つである。
砲 術 家 と し て も 知 ら れ る 樋 口 真 吉 は、清 水 の 湊 口
を囲むように牧浜など三ヶ所に大規模な新式砲台を
設置した。
ジ ョ ン 万
次郎こと、
中
浜万次郎た
ちが慌ただ
しく清水を
駆け抜けた
のもちょう
どこの時期
である。
島
鹿
八
2 塩浜とその石垣
唐船島
西
ミコガウラ
南
3
舟着
4
尾浦
駄場
幡多郡清水浦の図︵高知県立歴史民俗資料館所蔵︶
樋口真吉『砲台図篇』より
(四万十市立郷土資料館所蔵)
木
赤
水
本清
塩浜には役所など茅葺小屋8軒ほどがあった。石
垣で浦の往来も便利になったが、1854年の安政地震
では津波の被害も出た。
戎浦
蓮光寺がある本清水や貝塚には家々が立ち並ぶ。
本清水から越浦に向かう道に大きく描かれるのは、
庄屋浜田氏の屋敷だろう。
貝塚
以布利越谷
1
戎浦には分一役所と高札場が描かれる。豊漁の神
を祭る戎神社の手前には船着き場がある。湊口にあ
る戎浦は、浦の行政と漁業の拠点でもあった。
5
1 集落の町並み
塩浜
2
19世紀前後の清水浦の絵図――海・町並み・田
畑・山林・漁場など、近代の地図とは異なる江戸時
代の清水浦の生活空間が描き出されている。
こ の 時 期 の 清 水 浦 は、屋 敷105軒、人 口656人、郷
士・医師のほか、他国者として紀州人、阿波塩焚ら7
人がいたと土佐藩士寺田三八の巡見記に記録され
る。絵図がこれらの人々の日常を写し出す。
越
境
戎浦の対岸、
中浜浦への峠道の境には渡し場が
あった。
浦奉行谷真潮も清水から中浜に向かう途中、
この渡し場を使ったが、
海が荒れ、
半日ほど出船が遅
れている。
渡し場を出る小船が人々の往来を支えて
いた。
碆
唐
描かれた江戸時代の清水浦
6
名合作
北
明治・大正時代
以南の中心地へ
明治以降の清水は、以南地域の中心都市
として発展した。漁業と交通の主力が和船
から動力船へと代わるなかで、水深が深く
大型船も停泊可能な良港としての自然条
件が優位に働いたことが大きい。人とモノ
が集まるなかで、清水の歴史や景観も大き
く変貌することになる。
捕鯨の町
昭和 戦前・戦後期
昭和の戦争と清水
昭和の戦争は、清水にも少なからぬ影響
を与えた。徴用や勤労動員により市民生活
が戦時体制へ強固に組み込まれたほか、配
給制による物資欠乏のなかで、清水市街地
と 農 村 部 の 間 で は、着 物 や 魚 と 農 作 物 の
物々交換が頻繁に行われた。
戦 争 末 期、昭 和 二 年
︵一 九 四 五︶
三月頃
か ら は 連 合 軍 の 空 襲 に よ る 被 害 も 受 け た。
また、越浜には海軍の特攻基地の跡も残さ
れている。
変貌する景観
25000
20000
15000
人口推移と地域の課題
30000
1930
55 60 65 70 75 80 85 90 95
(昭和 5 年)
土佐清水市の人口推移(1930 ∼ 95年)
清松村と清水町
近代の地方制度の展開のなかで、清水は
行政面でも以南地域の中核となっていく。
明 治 二 十 一 年︵一 八 八 八︶の 町 村 制 が 公
布されると、足摺半島西岸を行政区域とす
る清松村が発足し、村役場が清水の貝塚に
置かれた。
また大正十三年
︵一九二四︶
には、清
松村を母体に清
水町が結成され
ている。鼻前七浦
など、江戸時代以
来の地域のつな
がりがこの地域
の地方行政の母
体となっていた。
上田亀之助の市街地造成
人口
(人)
清水に地域の経済・行政機能が集中する
なかで、人口は増加を続けた。
昭和初年、四千人強を数えた清水地区の
人 口 は、そ の 後 順 調 に 増 え 続 け、戦 後 の 昭
和 三 十 五 年︵一 九 六〇︶に は 六 千 人 に ま で
達している。市街地の拡張による宅地の増
加や漁業や商業の成長が地区の人口増加
を 支 え た。同 二 十 九 年︵一 九 五 四︶に は、土
佐清水市も発足した。
しかし、長きにわたり増加を続けた清水
の人口も、高度経済成長以後、停滞・減少に
転じる。全国規模で進む産地間競争や少子
高齢化など、さまざまな地域の課題を抱え
るなかで、宗田節や清水鯖といった地域ブ
ランドの創出など、新しい動きが生み出さ
れている。
※本頁で使用した古写真はすべて土佐清水市立市民図書館蔵のものを用いた。
7
5000
うち
清水地区
10000
*清水地区は越地区を含む。
越地区あしずり港岸壁
(昭和57年12月)
フェリーむろと号の就航を祝って
十
戦後、
清水の景観を大きく変貌させたのが、
昭和二十九年︵一九五四︶
から始まる都市計
画事業である。
第一次事業では、
もり山・天神山・旭町の
山を切り取り、
その土砂で越浜を埋め立てた。
これに合わせ、
道路の拡張や中央公園の建設
も行われた。
また、
昭和四十一年︵一九六六︶
から着手さ
れた第二次事業においても、
水道山など三つ
の山を切り崩し、
さらなる市街地の拡張が図
られている。
清 水 の 歴 史 は、明 治・大 正・昭 和 と 景 観
をめまぐるしく造りかえながら展開した。
清水商店街のにぎわい
(昭和32年2月)
町も人もこの半世紀余りで変貌した
明治40年頃の鍛冶屋駄場
清水が行政・経済の中心地となるなかで、
狭隘な市街地が地域の課題として浮上し
た。この問題に私財を投じて取り組んだの
う え だ か め の す け
が香南市夜須町出身の上田亀之助である。
上田亀之助は、町の中央にあった小高い
か じ や だ ば
丘の鍛冶屋駄場を切り取り、その土砂で沼
地となっていた塩田を埋め立てた。これに
より新たに約一万二千坪の土地が生み出
さ れ た。こ の 新 し い 市 街 地 に は、銀 行 や 劇
場・商 店 な ど 近 代 的 な 施 設 が 建 ち 並 び、移
住 者 も 相 次 い だ。亀 之 助 の 事 業 は、そ の 後
の清水の発展の基礎となった。
上田亀之助像(本町)
明 治・大 正 の 清 水 は、そ れ ま で の 鰹 漁 業
などのほかに、捕鯨基地としても賑わった。
明治三十年代、長崎の捕鯨業者が清水にノ
ルウェー式捕鯨の本拠地を置いたのがそ
の 始 ま り で あ る。最 盛 期 に は、東 洋 捕 鯨 株
式会社など五つほどの捕鯨会社の解剖所・
採 油 場 が 立 ち 並 び、町 に は 技 術 者 の ノ ル
ウ ェ ー 人 の 姿 も 見 ら れ た。大 正 期 に は、漁
業用の製氷工場なども造られ、近代的な漁
港としての基盤が築かれていく。
上田亀之助の市街地造成
『土佐清水市史』上巻所載図より作成
地図と写真で見る清水
唐船島
浦尻
3
348
348
至足摺
至 足摺
<高知市から約 135km>
中浜
4
市街地(中央町)
◎土佐くろしお鉄道中村駅から西南
交通バスで1時間 20 分
遠見崎
緑ヶ丘
27
尾浦崎
27
清水港
至 大浜
戎町
5 現在の清水地区
(平成26年)
昭和30年頃の清水地区
お世話になった人々
高知県立歴史民俗資料館
︻機関・団体︼
高知市立市民図書館
高知大学総合情報センター
国立公文書館
四万十市立郷土資料館 土佐清水市役所
土佐清水市教育委員会
土佐清水市郷土史同好会
土佐清水市文化財調査会
土佐清水市立市民図書館
蓮光寺
岩井拓史
編集後記
昨年度から刊行を始め
た地域記録集の第一号
※本冊子掲載資料の内、所蔵表記の無い資料は、いずれも土佐山内家宝物資料館所蔵の資料である。
︻個人︼
植杉 豊
榊原俊文
芝岡恵三
谷孝二郎
谷本良信
田村公利
富田無事生
中村春利
宮崎 茂
山崎重信
山下晃弘
山田隆子
山元良也
は、山 の 村・長 岡 郡 立 川
を と り あ げ た。記 録 集 を
知 っ た 立 川 出 身 者 か ら は、都
会に行った子や孫に送りたい
と い う 話 も 聞 か れ た。偉 人 や
著 名 人 は い な く と も、人 が 住
むところには厳然と歴史があ
る、実 感 を も っ て 地 域 の 歴 史
を振り返ってもらいたいとい
う 私 た ち の 思 い は、様 々 な 形
で 受 け と め ら れ た よ う で、先
ずは一安心したところである。
さ て、山 を み た な ら ば、次 は
海をみなくてはならない。
幡 多 郡 清 水 村 は、大 洋 と と
も に 生 き て き た 村 で あ る。時
に世界史ともかかわりながら
あった清水の千年を振り返っ
て、時 代 の 変 化 に 巧 み に か つ
大胆に対応する地域の歴史が
み え て き た。殊 に、江 戸 時 代
に 始 ま る 干 拓 や、近 代 の 埋 め
立てによる大地の改変のス
ケールの大きさには驚かされ
る。そ の 清 水 は、経 済 構 造 の
変 化 へ の 対 応、地 震 津 波 対 策
な ど、今 ま た 変 革 の 時 を 迎 え
ているかのようである。
︵企画員 筒井聡史︶
発 行 平成二十六年︵二〇一四︶三月三十一日
編 集 公益財団法人 土佐山内家宝物資料館
執筆者 差し込み 渡部 淳︵館長︶
一・八頁 筒井聡史︵企画員︶
二・三頁 横山和弘︵企画課長︶
四∼七頁 古賀康士︵学芸員︶ 印 刷 株式会社 飛鳥
幡多郡 清水村 ∼自然と歴史∼
地域記録集 土佐の村々2 高知県土佐清水市清水地区 ︵敬称略・五十音順︶
『高知県郷土観光アルバム』
より
(高知大学総合情報センター<図書館>中央館所蔵)
恵美須神社
◎高知自動車道高知 IC から四万十町 中央 IC まで約1時間。国道 56 号線、
国道 321 号線を車で約2時間
3
交通
蓮光寺
至 中浜
2
渡し場
鹿島神社
鹿島 1
栄町
本町
厚生町
1
市場町
5
旭町
あしずり港
清水小
西町
土佐清水
汐見町 越前町
幸町天神町 市役所
寿町
2 元町
4
浜町
中央町
小江町
347
321
321
清水高
清水中
至 窪津
至 以布利
至 加久見