金ソンミン著、『戦後韓国と日本文化―「倭色」禁止から「韓流」まで 』 (岩波現代全書、2014 年、239 頁) 玄武岩(北海道大学) 戦後の日韓関係は、占領と軍政、独立と分断、戦争と復興という帝国秩序の解体と冷戦 体制の構築が折り重なるように展開し、それにともなう米国の圧倒的な支配構造が覆うな かで模索された。植民地を喪失した日本は、国民国家と主権国家への転換を図りながら韓 国との関係構築に取り組んだ。一方、戦後秩序の国際体制から突き放され、冷戦の最前線 へと突き出された戦争と分断にあえぐ韓国は、反共主義の急先鋒に立ちながら日本との関 係設定を探ることになる。 こうした冷戦体制およびサンフランシスコ体制のもと、日韓は国交正常化に向けた交渉 を展開した。それを主導したのは政治エリートであるが、政治・経済の側面からみれば、 1965 年の日韓条約に収斂する日韓関係(本書でいう「65 年体制」)は、 「(没)交渉の時代」 と「交流の時代」に寸断され、二つの時代はまるで別世界のように扱われてきたといえよ う。しかし政治的・経済的関係にかならずしも包摂されない人の移動や文化の越境という 側面から眺めた場合、「交渉の時代」と「交流の時代」は戦後韓国の脱植民地化の過程とし て、断絶ではない今日まで一貫する境界の構築と解体がせめぎ合うポストコロニアルな空 間でもあった。 本書は、このように日韓の政治・経済的な関係構築に収まらない文化領域における課題 を、「境界構築」(ボーダリング)と「境界侵犯」(トランス・ボーダリング)というポスト コロニアルな問題として受け止め、日韓を覆う冷戦構造とそれを基盤とするアメリカの威 圧的(ハード)な文化力(ソフトパワー)の下、主に韓国が国民国家を構築するうえで動 員されるイデオロギーとしてどのように旧植民地宗主国の日本の大衆文化と向き合ってき たのかについて論じた画期的な日韓関係論といえる。日韓の大衆文化の越境や交流に文化 政治的な視点からアプローチし、禁止と開放、合法と不法、輸入と剽窃、韓流と嫌韓(流) という二項対立的な構図に行きつく既存の研究と一線を画す独自性がここにある。 著者は、戦後=解放後の韓国における日本大衆文化の受容を射程に入れ、そうした文化的実 践におけるアンビヴァレントな多様性・複雑性を解明するためホミ・バーバのいう「ポストコロ ニアルな観点」を拠り所にする。そして脱植民地化と近代化へと向かう韓国が日本大衆文化と向 き合っていくなかで亀裂・矛盾・葛藤をはらむ歴史的文脈の座標軸として、その過程で作動する 「アイデンティティ政治」をめぐる国民国家内部の確執を「日本大衆文化禁止」としてとらえた。 この本書を貫くキーワードである「禁止」の概念を、戦後日韓の文化越境から掘り下げてみ よう。 日本の植民地支配のもとにあった朝鮮半島は、否応なく日本の大衆文化圏に取り込まれ ることになる。そして戦後、独立して近代化のただなかにある韓国の大衆文化は、国民国 家の建設過程でナショナル・アイデンティティを想像=創造せしめる重要な装置となるは ずであった。しかし韓国に向けてフローする大衆文化が、脱植民地の過程で清算すべき旧 宗主国・日本のものであれば、それは国民国家化のプロジェクトのなかでポストコロニア ルな政治的・文化的課題になることを意味した。 戦後の韓国における文化的実践のもっとも強力な言説として機能し、日本大衆文化を統 制したのが「倭色一掃」という「反日」のスローガンである。しかし戦争と独裁にあえぐ 脱植民地の韓国における文化的欲求は、こうした言説を受け入れながらもそれに反発する 動きをもたらした。それは戦後の韓国で日本の大衆文化の流入が本格化することを意味す るが、必然的に優位な日本文化に国内市場が奪われる、あるいは低俗な文化が拡散すると いう議論を巻き起こした。つまり、日本の大衆文化をめぐる自らの経済的・文化的なアイ デンティティの問題として意識され、その確立のために日本文化は排除されなければなら なかったのである。 「日本大衆文化禁止」は、このように戦後の韓国社会において、日本の文化をナショナ ル・アイデンティティの構築を損なう、否定・拒否すべき対象として認識しながらも、非 公式的にそれを受容することで折り重なる文化的ダイナミズムをあらわす問題と位置づけ られる。戦後韓国の日本大衆文化に対する「禁止」は、その作動によりアイデンティティ 、、、 の構築をめざす文化的な諸規範がつねに複雑に絡み合い、葛藤・矛盾するという、東アジ 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 アの地政学的な条件が生み出した歴史的構築物であるからだ。 したがって、「禁止」は日本大衆文化が合法/不法、許容/違反、従属/抵抗という二項 対立的フレームを設定する前提になるのではない。むしろ「禁止」は、戦後引き直された 国境の内側にもう一つの「境界」を設けて、ときの政権が自らの存在意義と正当性をアピ ールするために確立する言説であった。 つまり、政治権力が越境する日本大衆文化を国内政治におけるイデオロギーとして動員 するには、文化の越境が実体化されなければならならず、その役割を果たしたのが「倭色 一掃」にほかならない。そして「禁止」を遂行する統治テクノロジーは法規的な制度とい うよりも、日本大衆文化を「禁止」する「社会的言説」に依拠するものであった。こうし た「内なる境界」を維持・再生産するために、「禁止」はその実体の如何にかかわりなく唱 え続けられなければならなかった。 このように戦後韓国は、日本との政治的・経済的・社会的にねじれた文化関係のなかで、 社会的規範として作動する「禁止」をとおして日本の大衆文化に向き合わなければならな かった。しかも「禁止」は過ぎ去ったのではなく、「日流」や「韓流」という大衆文化と国 益重視のメディア報道が混在する東アジアのコミュニケーション形成に向けたメディア文 、、、、、、、、、、、、、、 化的な吸引力と反発力がせめぎ合う日韓の文化関係は、「一度もまともに向き合うことな 、 く 」(傍点原文)、引き続き「東アジアの地政学的な条件が生み出した歴史的構築物」とし て、いまかたちを変えて問題を投げかけているのである。 だからこそ日韓の文化越境をより重層的に理解するためにも、両国の歴史的文脈や政治 的具体性に即した「禁止」の展開に目を向け、多様な文化的経験に光をあてることが求め られるのである。本書で展開される韓国における日本大衆文化の受容と消費は、グローバ ルな視点からすれば普遍性を帯びながらも、戦後日韓の歴史・政治的具体性のなかに位置 づけられているからこそ、その分析は一際目立つのである。 そういう意味でも、本書で戦後の日韓関係において文化越境の重要な接触面であった釜 山に注目したことはきわめて重要だ。釜山は、文化の接触面でもあると同時に、 「内鮮結婚」 が破綻した日本人女性の帰還や「李承晩ライン」を越えて拿捕された日本人漁夫の抑留と 釈放、あるいは日本に「密航」して長崎県の大村収容所に捕らわれた人たちの強制送還と いう、移動する人びとがすれ違う接触面でもあった。ここに戦後日韓の新たな境界が画定 される際に展開した人的・文化的な「交渉」と「交流」の「境界の政治」が凝縮されてい る。 比喩が過ぎるが、戦後日韓のポストコロニアルな空間において人と文化の越境を統制・ 管理する「禁止」のテクノロジーとして「境界の政治」を支えた「内なる国境」が、「倭色 一掃」と日本人漁夫を抑留した「釜山収容所」だったといえなくもない。日韓関係の構築 における交渉過程には、請求権問題や植民地支配の認識をめぐって対立する政治エリート のみでなく、国家以外のアクターとして移動する人びとや越境する大衆文化も注目されな ければならない。 本書では、「日本大衆文化禁止」という「内なる境界」が遂行される、韓国の人びとのさ まざまな文化越境の実践に対応してきた「禁止のメカニズム」の歴史的・政治的動態が明 らかになる。こうした文化的境界の構築と解体のダイナミックな展開をとおして、戦後の 日韓関係の形成と現在における「境界」の意味を再考することができるだろう。
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